歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年02月27日
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カテゴリ: 江戸時代




8、「丸亀藩・多度津藩領寛延3年一揆」 讃岐国丸亀、多度津両藩にまたがり、1750年(寛延3)13箇条の要求をして数万の農民を動員した強訴、一揆。要求には未納年貢の諸雑税、代銀納による実質的増税、蔵役人による規定量以上の要求に反対、干鰯(ほしか)運上の停止などがる。


多度津藩三井組は正月15日雨霧山へ、亀山藩多度・那珂郡の農民は正月19日吉原村へ、西讃勢は正月19日から本山川原に集合した。23日には両藩の役人と善通寺客殿で会合し、干鰯運上などの停止などを除き10箇は即刻聞き届けられた。7月28日には 一揆の中心人物の処刑があり、中心の大西権兵衛ら4名は極刑、丸亀33名、多度津8名の追放も処された。



◎丸亀藩 は、讃岐国(香川県)の西部を領し、丸亀城(丸亀市)を本城とした藩。藩主は生駒氏、山崎氏、京極氏と続き廃藩置県を迎えた。


なお生駒氏は、高松城を本城とし讃岐一国を領したため、生駒氏が領した西讃を丸亀藩と呼ぶには適さないとも考えられるが、現在ではその頃も丸亀藩の歴史の一部として語られることが多いため、ここにも含める。


1587年 (天正15年)讃岐国へ織田信長と豊臣秀吉の下で功のあった生駒親正が封じられる。1597年(慶長2年)亀山に丸亀城を築き始める。1602年(慶長7年)丸亀城が完成し、親正の嫡子である生駒一正が居城とする。


1705年 (宝永2年)初めての藩札を発行する。1781~1788(天明年間)うちわの製造が藩士の内職として盛んに奨励される。1794年(寛政 年)藩学校正明館を創立する。1838年(天保 年)金毘羅街道の一つである丸亀街道の起点の目印として、江戸に住む人々の浄財により、太助灯篭が作られる。


1858年 (安政5年)西讃府志が完成する。1871年(明治4年)廃藩置県により丸亀県となる。丸亀藩は金刀比羅宮への参道である丸亀街道、多度津街道の起点を持ち、参拝客を相手とした観光業は藩財政を大きく潤おしていた。


幕末 になり財政が逼迫すると、江戸詰の藩士たちに隣に屋敷を構えていた大村藩の藩士たちからうちわの作り方を学ばせ、国元に返し内職で作らせ、金毘羅参りの土産物として売るなどの策をとり、財政を立て直した。その後、うちわづくりは一般町民にも広まり始め、丸亀の名物となる。



◎多度津藩 は丸亀藩の支藩である。多度津周辺(香川県仲多度郡多度津町)で1万石を領し、多度津に陣屋を構えた(前半は丸亀城内に居館を置いた)。丸亀藩3代藩主の高或が3歳で藩主となったため、庶兄である高通を後見人として幕府に分封を願い出た。1694年(元禄7年)1万石の分封が認められここに多度津藩が成立した。後見人とはいえ高通自身も 4 歳での封襲であったため、陣屋は構えず、丸亀城内に居館を置いた。


高通は1711年(正徳元年)になって実質的に多度津藩主として政務を執った。その後、3代高文まで丸亀城内に居住した。4代高賢は1827年(文政10年)、幕府に陣屋の建設を願い出て認められ、その年に陣屋を構えた。1871年(明治4年)廃藩置県により倉敷県となる。その後、名東県を経て香川県に編入された。



大西権兵衛1703~1750 江戸時代中期の一揆 ( いっき ) 指導者。元禄 ( げんろく ) 16年生まれ。讃岐 ( 香川県 ) の人。寛延3年飢饉 ( ききん ) で困窮する農民6万5000人を代表して , 租税減免の嘆願書を丸亀藩に提出。農民の要求はききとどけられたが , 同年7月28日他の 首謀者6人とともに強訴の罪により処刑された。48歳。



丸亀・多度津地方は寛延年間(1748~1750)は数年来の風水害に襲われ、丸亀・多度津藩領内の那珂、多度、三野、豊田の百姓は生活は困窮を極めた。それに加え蔵役人や庄屋が横暴、不法、租税の増加などにより「如何なる隠順なる四郡の民も忍ぶに忍び難く」という状態に百姓たちは徳政を訴え申立書も庄屋たちは握りつぶした。


城内まで自分たちの苦しさや思いが伝わらず、一揆しか方法がないと農民は「一揆しかあるめー」と決起へと走り出した。一揆を計画指導をした丸亀藩5人、多度津藩2人の7人の百姓だった。三野郡笠岡村の神社の宇賀神社の山門楼の上に集まり密議を行ったという。


丸亀藩から大西権兵衛・弥一郎・嘉兵衛の三人、三野郡大野村からは兵治郎、那珂村から小山金右衛門、多度津藩から多度碑二殿村の甚右ヱ門と三井村の金右ヱ門の二人で全部で7人、大西権兵衛が指導者格だった。寛延3年(1750)多度郡の百姓の仲介で、三野村から豊田村の百姓あてに金倉川河原に集まるように廻し状が送られ、当日には4万人が集まったという。


農民の一揆に参集した民衆に驚いた丸亀藩は三野、豊田郡の百姓に、願いの筋を申し出よと伝えたが、莚旗の農民は鳥坂を超え善通寺に合流した。


その時には6万人余りに達していたという。4郡の一揆勢は善通寺の客殿で、13箇条の嘆願書を示された。その要旨は、年貢の未納米の1000石の年賦弁済、夫食米の給付、年貢米の斗升搔不正の中止、相場並みの銀納値数、出費の多い役人の出張回数の軽減なであった。藩側から「内10箇条の重要項目の要求を認め、3箇条は追って沙汰をいたす」の回答に、ほぼ百姓の嘆願を認めたことになった。


各地で頻繁に起こり一気に幕府は危機感を募らせ、一揆、強訴の禁止などを命令が下り、 一揆関係者を次々に捕らえていった。大西権兵衛ほか首謀者7人は金倉川河畔に於いて磔、斬首、獄門の処せられた。


処 罰は 権兵衛の子供及び9歳の末っ子まで打ち首の処された 。その後、権兵衛はじめ7人の義民は七義士と呼ばれ密かに弔われた。明治36年には権兵衛ゆかりの 笠田村に神社を建立、七人の義民は神として祀られた 。(讃岐の風土記より参考)






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最終更新日  2024年02月27日 06時49分28秒
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