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長州藩は最初は大島を放棄する計画であったが、大島の惨状が伝わったことを受け、10日、山口藩庁は第二奇兵隊、浩武隊を大島へ派遣することを決定した。また高杉晋作へ丙寅丸(排水量94tの木造蒸気船)に乗り大島へ向かうように命じた。
12日夜、丙寅丸は瀬戸を抜けて島の北側に停泊していた幕府方の軍艦へ大砲を撃ちかけ撤退した。この時富士山丸は大島の沖におらず、蒸気を落としていた八雲丸(排水量337tの鉄製蒸気船)、翔鶴丸(排水量350tの鉄製蒸気船)は丙寅丸を追跡したが見失った。15日、長州兵は大島に上陸、17日に大島を奪回した。19日、松山藩兵が上陸して民家を焼くなどの行為をして撤退した。この民家への放火について10月2日、松山藩は大島へ謝罪使を派遣した(大島にて陳謝の口上を述べたのは11月17日)。
なお、その口上では幕府の行動に対して諫言すべきところを、小国がゆえに萎縮して応答して、このような「実に言語を絶し相済まざる次第」を引き起こした事を長州藩に対して詫びており、幕府に対する求心力の低下を物語っている。
芸州口では、長州藩および岩国藩と、幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が行われる。彦根藩と高田藩が小瀬川であっけなく壊滅したが、幕府歩兵隊と紀州藩兵が両藩に代わって戦闘に入ると、幕府・紀州藩側が押し気味ながらも膠着状況に陥る。また広島藩は幕府の出兵命令を拒んだ。芸州戦線では被差別民が部隊として組織され長州藩の指揮下に参
加しており、幕府側でも弾左衛門の配下の被差別民が参加していた。後に幕府はこの時の功績をたたえ、弾左衛門とその配下を士分に取り立てた。また長州藩としては組織として機能したことに安堵したという記録がある。
石州口では、大村が指揮し(指揮役は清末藩主・毛利元純)、中立的立場を取った津和野藩を通過して一橋慶喜の実弟・松平武聰が藩主であった浜田藩へ侵攻し、18日に浜田城を陥落させる。明治まで浜田城と天領だった石見銀山は長州が制圧した。
小倉口では、総督・小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉・山縣有朋ら率いる長州藩との戦闘(小倉戦争)が関門海峡をはさんで数度行われたが、小笠原の指揮はよろしきを得ず、優勢な海軍力を有しながら渡海侵攻を躊躇している間に6月17日に長州勢の田野浦上陸を、7月2日には大里上陸を許して戦闘の主導権を奪われ [2] 、その後も諸藩軍・幕府歩兵隊とも拱手傍観の体で小倉藩が単独抗戦を強いられる状態だった。
また、佐賀藩は出兵を拒んだ。
7月27日の赤坂・鳥越の戦い(現在の北九州市立桜丘小学校付近)では肥後藩細川元・小倉城主)の軍が参戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せた。
しかし依然として小笠原総督の消極的姿勢は改まらず、事態の収拾に動くこともなかったことから、肥後藩を含む諸藩は総督への不信を強め、この戦闘後に一斉に撤兵・帰国し、小笠原総督自身も将軍家茂の薨去を理由に戦線を離脱した。
孤立した小倉藩は8月1日に小倉城に火を放って香春に退却した。その後、小倉藩は家老・島村志津摩らの指導により軍を再編して粘り強く長州藩への抵抗を続け [6] 、戦闘は長期化してゆくこととなるが、これで事実上幕府軍の全面敗北に終わる。
戦いの長期化に備えて各藩が兵糧米を備蓄した事によって米価が暴騰し、全国各地で一揆や打ちこわしが起こる原因となった(世直し一揆)。
戦況不利の最中の7月20日に家茂が死去(後述)、徳川将軍家を継いだ徳川慶喜は大討込と称して、自ら出陣して巻き返すことを宣言したが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止し、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の勅命を発してもらう。
また慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息した。なお、慶喜は停戦の直後から、フランスの支援を受けて旧式化が明らかとなった幕府陸軍の軍制改革に着手している(幕府陸軍 # 慶応の軍制改革を参照)。
朝廷の停戦の勅命と幕府・長州間の停戦合意成立にもかかわらず、小倉方面では長州藩は小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しなかった。この長州藩の違約に対し、幕府には停戦の履行を迫る力はなく、小倉藩は独自に長州藩への抵抗・反撃を強力に展開した。
10月に入り、長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、企救郡南部の小倉藩の防衛拠点の多くが陥落するに及んで小倉・長州両藩間の停戦交渉が始められ、慶応3年(1867年)1月にようやく両藩の和約が成立している。
この和約の条件により、小倉藩領のうち企救郡は長州藩の預りとされ、明治2年(1869年)7月に企救郡が日田県の管轄に移されるまでこの状態が続くこととなった。
第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力がほぼ無くなる結果を招いた。そのため、この敗戦が江戸幕府滅亡をほぼ決定付けたとする資料も見られる。
「戊辰戦争の群臣」所領安堵となった藩 2023年08月13日
「戊辰戦争の群臣」14、「箱館戦争」 2023年08月13日
「戊辰戦争の群臣」 北越戦争 2023年08月13日