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2023年08月10日
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カテゴリ: 戊辰戦争の群臣





長州挙藩一致を示す事例として2月、藩主の内覧を経て小冊子「防長士民合議書」が印刷、藩内外へ頒布された点が挙げられる。防長武士および農民の対幕府決戦の覚悟を述べたこの冊子は『防長回天史』によると36万部印刷された。実際は数千部に過ぎない(『忠誠公勤皇事蹟』)とも、宍戸が起草、製本を指示し「内輪ハ後ニテモ他邦ヘ早ク配リ度」と催促してるように広島における幕府との交渉において挙藩一致体制を擬装するための宣伝工作文書であるとも指摘がある。


3月26日、小笠原は広島藩を通じて4月15日までに藩主父子と孫の興丸、三支藩藩主、吉川経幹、二家老が出頭するように命令を出し宍戸には帰国して幕命を伝えるように命令した(4月2日に出された召喚命令により出頭期日は4月21日となる)。山口政庁へ急使を送った宍戸は4月5日に広島を発して6日に高森に入り同地で留まり事前の打ち合わせ通り出番を待つことになった。4月4日(または5日)、長州藩の諸隊の1つ第二奇兵隊で暴発事件が起きた。


4月13日、敬親は宍戸を名代として22日に宍戸は再び広島へ入り、三藩主と経幹も名代を立てて広島へ送り込んだ。


5月1日、国泰寺において小笠原は四家名の名代に対して幕命を伝えたが、宍戸は病気として旅館から出なかった。幕府は末家名代をして宗家名代を兼ねさせて長州藩へも幕命を伝えることにした。


3日、幕府は四家名の名代に対しては速やかに帰国して主人へ伝え、20日までに請書を出すように命令が下された。広島へ滞在するように命じられた宍戸と小田村素太郎は5月8日に拘束され広島藩に預けられた。請書の提出は経幹からの請願により5月29日を期限としたが、この日までに命令に従わなければ6月5日を以て諸方面から進撃すると決定した。


4月14日、大久保利通は板倉勝静へ薩摩藩は出兵を拒否するとした建白書を提出した。板倉は勅命により長州征討を起こした幕府の正当性を主張し建白書を拒絶したが、幕府がこれまで幕府が勅命を無視してきた事実を列挙した大久保と論戦となった。再三の交渉の結果、大久保は板倉へ建白書を受け取らせることに成功した。


6月3日、徳川茂承は広島へ向かい、6月2日に広島の小笠原は小倉へ向かい、茂承は石州口へ転じて、茂承の代わりに本荘宗秀は広島に入った。



第二次長州征討


慶応2年(1866年)6月7日に幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃が始まり、13日には芸州口・小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮された。


大島口は長州藩領である周防国大島(屋代島、以下大島と記す)を巡る攻防戦である。大島は北は宮島のある安芸灘に、東と南は伊予灘に面した東西に長い防予諸島の1つである。長州藩の行政区分では大島宰判の管轄であった。西岸は狭い海峡(大畠瀬戸)を挟んで本州と連絡し、南下をすると上ノ関の港(上関島)に至る。


開戦は上ノ関へ6月7日、幕府の軍艦が砲撃したことにより始まった。6月8日、伊予松山藩軍は大島へ上陸し、地元住民に乱暴狼藉を加える。


9日、幕艦は島の北側である久賀へ砲撃、11日、再び幕艦の砲撃の後で久賀村から幕府陸軍が上陸。同日、島の南側である安下庄から松山藩軍が上陸、村上亀之助の兵と交戦したが当時の日本船籍として最大かつ最新鋭の富士山丸(排水量千tの木造蒸気船)の砲撃に晒されて撤退、夜に長州藩の全軍は本州の遠崎へ撤退した。






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最終更新日  2023年08月10日 12時00分35秒
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