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2023年08月13日
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カテゴリ: 戊辰戦争の群臣





輪王寺宮と幻の仙台朝廷


仙台藩が仙台城下に軟禁した奥羽鎮撫総督府の九条総督らは、列藩同盟にとって重要な「錦の御旗」だった。


Ø ところが、九条総督らが新政府側の佐賀藩・小倉藩によって騙し取られてしまうという事件が起こる。そこで6月、仙台藩と会津藩は、上野戦争かられ逃れてきた孝明天皇の義弟・輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)を仙台城下に迎え入れ、輪王寺宮を「新たな錦の御旗」として、列藩同盟の盟主に据えた。


² 当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請したが、6月16日に盟主のみの就任で決着した。


仙台藩と会津藩には、輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させる構想があった。ただし、史料が限られており、輪王寺宮の即位の有無には議論がある。この新朝廷においては、仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に、会津藩主・松平容保は征夷副将軍に就任する予定だったとされる。詳しくは北白川宮能久親王 # 「東武天皇」即位説の項を参照。


秋田・庄内戦線


奥羽鎮撫隊の集結


新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため、副総督の澤為量および下参謀の大山綱良(薩摩藩)が率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし、大富 豪・本間家からの献金で洋化を進めていた庄内藩は、戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。その後、列藩同盟の成立に際し、仙台に駐屯していた下参謀の世良修蔵(長州藩)が仙台藩によって殺害され、総督の九条道孝・参謀の醍醐忠敬は軟禁された。


Ø 新政府は九条総督救出のため、佐賀藩士・前山長定(前山清一郎)率いる佐賀藩兵および小倉藩兵を仙台藩に派遣した。閏4月29日、前山の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この部隊は薩長両藩ではなかったため、仙台藩は軟禁していた総督府要人を前山の部隊に引き渡した。こうして仙台藩は、新政府に九条総督らを騙し取られてしまった。


Ø 6月18日、救出された総督府の一行は盛岡藩に到着した。藩主・南部利剛は 1 万両を献金したが、態度は曖昧なままだった。続いて7月1日、総督府一行は久保田藩に入った。久保田藩は国学者・平田篤胤の出身地という影響もあって、尊王派が勢力を保っていた。総督府一行は、庄内藩討伐のため仙台に居らず生存していた澤為量・大山綱良ら残存部隊と合流した。澤為量副総督は分隊を率い弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしたが、弘前藩の列藩同盟派によって矢立峠は封鎖されており、そのため澤の部隊は久保田藩に留まっていた。結果的に総督府一行は久保田藩で集結することになった。


秋田戦争


Ø 久保田藩の新政府への接近に気づいた仙台藩は、久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に世良修蔵を殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱し、東北地方における新政府軍の拠点となった。


Ø 久保田藩に続いて新庄藩・本荘藩・亀田藩・矢島藩が新政府軍に恭順した。この状況に対して、南方へ兵を向けようとしていた庄内藩は一部の部隊を北方へ派遣し、7月14日に新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。


Ø さらに、庄内藩・仙台藩の軍勢は連戦連勝に近い状態で、久保田領・矢島領・本荘領を制圧していった。総督府に自領を放棄された亀田藩は、庄内藩と和議を結んで再度列藩同盟軍に参加した。


また、盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することを決定した。8月9日に盛岡藩は久保田藩に攻め込み、大館城を攻略した。


Ø しかし、佐賀藩を中心とする援軍の到着により久保田軍は勢いを盛り返し、9月7日には盛岡軍を藩境まで押し戻した。庄内藩も、9月12日に上山藩が降伏したことで南方の不安が増したため、17日に退却し以後は自領防衛に徹した。9月22日、会津藩が降伏して東北戦争の勝敗がほぼ決すると、同日盛岡藩が降伏した。24日、最後まで領内に新政府軍の侵入を許さなかった庄内藩も、亀田藩とともに降伏した。


白河戦線


Ø 白河市は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の白河城は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点で、この地は新政府の管理下となっていた。


Ø 仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の下参謀・世良修蔵(長州藩)を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同じ閏4月20日、会津軍と仙台軍は呼応して新政府から白河城を奪い取った。


しかし5月1日、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。


Ø 以後100日余りに渡って、攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかった。会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍・約4,500人は司令官・西郷頼母(会津藩)のもと、7回にわたって白河城の奪取を試みた。しかし、いずれも失敗に終わった。


Ø この激戦で、両軍併せ約1,000人の死者が出た。この白河城奪還戦が、戊辰戦争の「天王山」だと言われている。






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最終更新日  2023年08月13日 08時13分31秒
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