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龍造寺信周
や
龍造寺長信
らも鍋島氏への禅譲を積極的に支持した。
このため、慶長12年(1607) 3 月 3 日 、高房は直茂を恨んで夫人(直茂の養女で 鍋島茂里 の長女)を殺し、自殺を図った。
その場では一命を取り留めたが、直茂は同年 7 月 26 日 付で政家宛に高房の行状を非難する書状を送った。
自分たちは殿下(秀吉)や大御所様(家康)に国政を任されたが、龍造寺家に最大限敬意を払ってきたし、また待遇面でも不自由のないよう取りはからってきたのに、名字(家系)を断絶させる真似(自殺未遂)をしたのは何故か。誰に対する当てつけなのか。(高房が)帰国後、我々親子(直茂・勝茂)に質問するなら直接申し開きをするといった内容で、「おうらみ状」と呼ばれる。
しかし高房は佐賀に戻ることなく、 9 月 6 日 に死去した。
その後、直茂は龍造寺一門へ敬意を表しながらも、その影響力を相対的に弱めた。
勝茂もその施策を継承し、自分の弟・ 忠茂 、長子・ 元茂 、五男・ 直澄 に 支藩 を立てさせて本藩統治を強固にし、龍造寺旧臣達の恨みを押さえ込んでいった。
ただ、直茂は龍造寺氏・家中への遠慮があったためか、自らは藩主の座に就くことはなく初代藩主は勝茂となった。そのため直茂は藩祖と称される。
元和4年(1618年)6月3日に病死。享年81歳。当時としては長命であるが、耳に腫瘍ができ、その激痛に苦しんだ上での半ば悶死であったため、高房の亡霊のしわざではないかと噂され、これが「 鍋島家化け猫騒動 」のモチーフのひとつとなった。
人物・逸話龍造寺隆信とは義兄弟にあたり、そのため隆信を諫言することが多かったといわれる。はじめのうちは隆信と仲が良く、隆信と並んで「龍造寺の仁王門」とまで称されたが、晩年の隆信が酒色に溺れると次第に疎まれて遠ざけられたという。
天正2年(1574)に 平井経治 の 須古城 を攻めた際、要害であるために全軍が攻め倦んだまま夕刻となり、撤退間近となったが、直茂は先陣として同じ攻め口で戦っている最中の 広橋信了 へ伝令を遣わし、我らが攻めるのに支障が出ているから早く攻め落とすよう伝え、これに立腹した広橋を討ち死に追いやっている。
また、天正5年(1577)の 大村純忠 攻めの際は、龍造寺軍には「先陣の敗は二陣の不覚、先陣の勝は二陣の手柄」との定めがあるにも拘らず、直茂は先陣の 勝屋勝一軒 が討ち負ける様をただ静観し続け、隆信から急ぎ勝屋を援けるよう伝令を遣わされてから、ようやく助勢に加わるという、意図的としか思えない行為をしている。
直茂は秀吉に「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気(覇気)が足りない」と評されたという。
直茂は秀吉に早くから信任されて龍造寺氏の家督代行者とみなされ、天正18年(1590)の時点ですでに政家が秀吉より受けた知行宛行状の中で4万5千石という独自の知行を与えられている。
7、*「鍋島 勝茂」 (なべしま かつしげ)は、 安土桃山時代 から 江戸時代 前期にかけての 武将 ・ 大名 。 肥前国 佐賀藩 の初代藩主。
豊臣政権下から関ヶ原
天正 8年(1580)10月28日、 龍造寺隆信 の重臣であった 鍋島直茂 の長男として、 石井生札 の屋敷で生まれる。
母は 石井常延 の次女・ 彦鶴姫 。父方の外祖父は 龍造寺家純 。
一時期、龍造寺隆信の次男・ 江上家種 の養子になったこともある。
天正 17年(1589)、 豊臣秀吉 より 豊臣姓 を下賜された。 慶長 2年(1597)からの 慶長の役 では父と共に渡海し、 蔚山城の戦い で武功を挙げた。
慶長5年(1600)の 関ヶ原の戦い では西軍に与し、 伏見城攻め に参加した後、 伊勢国 安濃津城攻め に参加するなど、西軍主力の一人として行動した。
しかし父・直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、 立花宗茂 の 柳川城 、 小早川秀包 の 久留米城 を攻撃した。
関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に黒田長政の仲裁で 徳川家康 にいち早く謝罪し、また先の戦功により本領安堵を認められた [3] 。
鍋島騒動から藩主へ
当時、佐賀藩は天正18年(1590)に鍋島氏の主君であった 龍造寺政家 が病弱であったため、豊臣秀吉によって隠居させられ、家督は政家の長男・ 龍造寺高房 が引き継いでいた。
しかし幼少であることから、筆頭重臣である鍋島直茂が代わって国政を行う状態という、家督と国政の実権が異なる状況が続いていた。そのため、鍋島家は正式な大名ではなかったわけであるが、勝茂は豊臣時代から既に大名世子としての扱いを受け、朝鮮出兵においても父・直茂が総大将として出陣している。
慶長12年(1607)に龍造寺高房、後を追うように政家が死去すると、勝茂は幕府公認の下で跡を継いで佐賀藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。
勝茂はまず龍造寺家から鍋島家への滞りない政権移行に従事し、龍造寺家臣団と鍋島家臣団の整理を行い、各家臣から起請文を改めて提出させ、内乱の防止に成功した。
このように龍造寺家から鍋島家への継承は、他家の同様な例と異なり、ほとんど血を見ずに成功したものの、「 鍋島化け猫伝説 」などの説話が巷間に流れ、勝茂は 歌舞伎 や講談では主家を乗っ取った悪役とされてしまっている。
これには、龍造寺高房が佐賀藩の実権を取り返せないことに絶望して自害したとされる(真相は不明)こと、勝茂の一子が突然死したこと、また 寛永 年間に高房の子・ 龍造寺伯庵 が佐賀藩の統治権の返還を執拗に幕府へ願い出たことなどによる。
幕府はその都度伯庵の訴えを却下し、最後には江戸所払いにしたうえで、3代将軍・ 徳川家光 の異母弟であり閣老の 会津藩 主・ 保科正之 に50人扶持で永預けとした。
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