歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年06月23日
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カテゴリ: 明治維新





1, 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・2


2, 「岩倉具視の出生から若年期」・・・・・・・・・・3


3, 「八十八卿列参事件」・・・・・・・・・・・・・・10


4, 「安政の大獄」・・・・・・・・・・・・・・・・・19


5, 「和宮降嫁」・・・・・・・・・・・・・・・・・・24


6, 「蟄居時代」・・・・・・・・・・・・・・・・・・50


7, 「王政復古」・・・・・・・・・・・・・・・・・・87


8, 「日本政府の中枢」・・・・・・・・・・・・・・・114


9, 「版籍奉還と廃藩置県」・・・・・・・・・・・・・138


10,「岩倉使節団」・・・・・・・・・・・・・・・・・147


11,「明治六年政変」・・・・・・・・・・・・・・・・153


12,「華族問題」・・・・・・・・・・・・・・・・・・157


13,「立憲問題」・・・・・・・・・・・・・・・・・・165


14,「岩倉具視の最期」・・・・・・・・・・・・・・・177


15,「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・194



1,「はじめに」


岩倉具視(1825~1883)幕末・維新期の公家出身の政治家。権中納言堀河康親の次男、母は勸修寺経逸の娘俶子。岩倉具慶の養継子。周丸と称し、号は対岳、法名は友山。関白鷹司政通に認められて、1854年(安政元)孝明天皇の侍従。1858年日米修好通商条約の勅許阻止で公家88名の列参を画策。公武合体の立場から和宮降嫁を推進し、1861年(文久元)和宮に従って江戸に下った。そのため尊攘派から「四好二嬪」の一人として弾劾され、1862年辞官落飾し、洛中より追放、洛北岩倉村に潜居。「全国合同策」「天下一新策密奏書などで時勢を論じ、ひそかに廷臣や大久保利通など薩摩藩士らと交わって倒幕の秘策を練る。1867年(慶応3)許されて、復飾、参内して朝議を主導して、薩長討幕派と結んで「王政復古」の大号令を発した。新政府樹立直後から参与、議定・副総裁を歴任、議定書兼嗣相となり、新政府の中心人物となる。1869年(明治2)東京に移り、大納言となり、永世禄500石を下賜された。1871年外務卿、ついで右大臣となり、特命全権大使として岩倉遣外使節団を率いて、約一年10カ月間、米欧各国における近代国家としての制度、文物等の視察をした。1873年9月に帰国、復命し、留守政府の西郷隆盛らの征韓論に反対し、大久保、木戸孝允らと内治優先論を唱え、ために西郷・板垣退助ら留守居政府参議は下野し政府の主導権を岩倉ら外遊派が握った。よく1874年不満とした武市熊吉ら高知県士族らが岩倉暗殺を企てた赤坂喰違の変をで負傷。華族の同族的結集を図って華族会館を創設した。そのご自由民権運動を弾圧し、太政官大書記官井上毅に憲法制定基本方針「大綱領」「綱領」を起草させ、三条実美太政大臣に提出をした。明治14年の政変後は、皇室財産の確立、家族財産の保護、十五銀行、日本鉄道会社設立など、皇室とその藩屏として家族擁護に努めたが、1883年7月病没した。









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最終更新日  2024年06月23日 06時06分33秒
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