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2024年06月30日
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カテゴリ: 中世




頼胤 が跡を継いだ。



時胤の系譜の問題


千葉氏の系譜の初期のものと考えられる『神代本千葉系図』などの古い系図では、時胤を胤綱の長男とし、同じ系統の 伊豆山権現 『般若院系図』では、その弟に頼胤の後見を務めた 泰胤 (次郎)を配置している。


ところが、『 吾妻鏡 』によれば、胤綱の享年は21歳であり、建保6年当時はまだ11歳に過ぎない。


そこで 江戸時代 に『千葉大系図』が作成された際に先行系図に誤りがあるとして胤綱と時胤を兄弟として父を成胤とした。


ところが、時胤の生まれた年に成胤は死去しており、時胤に「次郎泰胤」と名乗る弟がいるのも誤りであるとして、泰胤を成胤の次郎すなわち「胤綱の弟・時胤の兄」とする系図に“修正”を行った。これは当時『吾妻鏡』が比較的信憑性が高い歴史書として重んじられてきたことによる部分が大きい。


ところが、近年になって鎌倉時代後期の創建であるとは言え、創建当時から千葉氏と密接なつながりを有した 本土寺過去帳 に胤綱の享年を31歳とする記述があることが問題視され、『吾妻鏡』が編纂された時に原史料からの引用を誤って「年二十一」(安貞2年5月28日庚子条)としてしまったものを更に『千葉大系図』の編者が信じて引用して、これに合わせる形で“修正”を行ったものと考えられるようになった。


続いて、『神代本千葉系図』と同様、 九州千葉氏 に伝来された系譜を元に作成されたとみられる別系統の『徳島本千葉系図』『平朝臣徳嶋系図』(いずれも九州千葉氏の庶流である元佐賀藩士・徳島家に伝来した系図)が発見され、そこには胤綱と時胤は『神代本千葉系図』と同じように父子とされており、特に後者に記述された胤綱の享年は本土寺過去帳と合致していることが確認された。


本来は千葉氏の宗家(時胤の嫡孫 宗胤 の直系)でありながら、鎌倉時代末期の一族の内紛で宗家の地位を失って下総本国から切り離された九州千葉氏には信頼性が高い系図史料が伝わっていた可能性が高いとみられている。


また、時胤が胤綱の長男でないとした場合、鎌倉時代後期に千葉氏関係者によって書かれたと言われている『 源平闘諍録 』にある“


千葉氏の当主が長男に継承され続けた”とする記述との矛盾や胤綱の没後「兄」である泰胤が千葉氏を継承できなかったことの説明が付かないという点で問題点が発生するため、「時胤は胤綱の長男・泰胤の兄」が実際の正しい系譜であると考えられている。


なお、胤綱が31歳で没したとすれば、時胤は21歳の時の子となる。


*「千葉 宗胤」 (ちば むねたね)は、 鎌倉時代 中期の 武将 鎌倉幕府 御家人 千葉氏 の第9代当主。第8代当主・ 千葉頼胤 の長男。


北条氏 得宗家 当主・ 鎌倉幕府 第8代 執権 北条時宗 より 偏諱 を受けて 宗胤 と名乗る。


元寇 による負傷がもとで没した父・頼胤に代って宗胤は 異国警固番役 として 九州 に赴き 大隅国 守護 職を与えられた。


永仁2年(1294年)1月16日、30歳で死去。


千葉介 家の本領 千葉荘 は、宗胤の嫡男 胤貞 が遠方の地にあったこと、また、若年でもあったことから、宗胤の留守を預かっていた弟・ 胤宗 が実質的に領有する処となる。


宗胤は、父・頼胤から千葉介家の本領千葉荘を継承した他、母を介して祖父 千田泰胤 の領した 千田荘 八幡荘 臼井荘 および 肥前国 小城郡 を継承しており、宗胤の没後嫡男の千葉胤貞は千田荘を本拠として胤宗の子 貞胤 と千葉氏宗家の家督を賭けて争うが、貞胤が降伏した直後に自身が病没したため宗家復帰はならなかった。


千葉氏 宗家 家督 は、胤宗の系統が継承することとなる。


その後貞胤の子孫は 千田氏 として千田荘を領し、肥前国小城郡にあった次男・ 胤泰 の子孫は 九州千葉氏 (肥前千葉氏)として存続した。


娘は 下総国 猿島郡 石井郷の 石井忠成 に嫁いだと伝わり、宗胤の玄孫 忠国 肥前石井氏 の祖となった。


*「千葉 胤宗」 (ちば たねむね)は、 鎌倉時代 中期から後期にかけての 武将 鎌倉幕府 御家人 千葉氏 の第10代当主。第8代当主 千葉頼胤 の次男。


頼胤 の没後、父に代わって兄 宗胤 異国警固番役 として 肥前国 に赴き 下総国 を離れたため、胤宗が留守を預かることになり千葉氏の第10代当主となる。


なお 六浦荘 地頭 金沢北条氏 下総国 守護 の千葉氏と縁を重ねており、 北条顕時 は娘を胤宗に嫁がせることによって関係を深めている。


このため 北条氏 との関係は深く、 胤宗 の名も 得宗家 当主・ 鎌倉幕府 第8代 執権 北条時宗 より 偏諱 を受けて名乗ったものとみられる。


胤宗没後子の 貞胤 は、 南北朝の戦い に際し 北朝 方についた兄宗胤の嫡男 胤貞 と千葉氏の 家督 を巡り争うが、敗れて北朝方に降伏した。


しかし降伏した貞胤は北朝方に寝返って千葉氏の家督を守りきり、これにより胤宗の子孫が千葉氏 宗家 として存続した。


『千学集抜粋』・『妙見実録千集記』には以下の伝承が伝えられている。


胤宗が 大番役 として 京都 に居た時、 内裏 の宝蔵に 藤原保昌 酒呑童子 から奪った「宝生の懐太刀」と呼ばれる宝剣があると聞き、蔵の鑰を管理していた 女房 と契って宝剣を持ち出してそのまま帰国して 千葉妙見宮 に奉納した。


ところが、その後に件の女房が宝剣を無くした罪で処刑されたことを聞いた胤宗はこれを悔やみ、7体の 阿弥陀仏 を作らせて彼女の菩提を祈ったと伝えられている。


この伝承は、兄・宗胤の系統に比べて嫡流としての正当性に欠いた胤宗の子孫の千葉氏宗家が、武者としての名高い保昌および千葉妙見宮にまつわる伝承を胤宗に付与することで、権威づけを図ったとみられている。






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最終更新日  2024年06月30日 07時19分57秒
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