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戦国時代 中頃には 六角定頼 (高頼の次男)が登場した。定頼は第12代将軍 足利義晴 (義高の子)や第13代将軍 足利義輝 をたびたび庇護し、 天文法華の乱 の鎮圧にも関与した。
近江 蒲生郡 観音寺城 を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げたのみならず 伊賀国 や 伊勢国 の一部までにも影響力を及ぼしたとされ、六角氏の最盛期を創出し、 阿波国 から畿内に進出した 三好氏 と度々争った。
しかし定頼の死後、後を継いだ 六角義賢 の代においても、畿内の覇権を握った 三好長慶 と度々争ったが、 永禄 3年(1560)に 野良田の戦い で 浅井長政 と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せ始める。
「三好 長慶」 (みよし ながよし)は、 戦国時代 の 武将 。 畿内 ・ 阿波国 の 戦国大名 。 室町幕府 の 摂津国 守護代 、 相伴衆 。
細川政権 を事実上崩壊させ、室町幕府 将軍 ・ 足利義晴 、 足利義輝 共々京都より放逐し、 三好政権 を樹立する。
その後は足利義輝、 六角義賢 、 畠山高政 らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。
山城国 下五郡 守護代 であった 三好元長 の嫡男で、 永正 3年(1506)に 細川澄元 に属して阿波国より上洛した 三好之長 の曾孫。
三好実休 、 安宅冬康 、 十河一存 、 野口冬長 の兄。正室は 波多野稙通 の娘、継室は 遊佐長教 の娘。
三好義興 の父。 通称 は孫次郎、 官位 は 従四位下 伊賀守 、 筑前守 、後に 修理大夫 。史料では「三筑(=三好筑前守)」の略称で彼の名が多く残っている。現代の地元ファンからは、尊敬と親しみを込めて 諱 の長慶を「ちょうけい」と呼ばれることもある。
出生・家督相続
大永 2年(1522)2月13日、 細川晴元 の重臣である三好元長の嫡男として現在の 徳島県 三好市 で生まれる。
三好氏歴代の居館地と伝わる阿波国三好郡芝生( 三野町 )では、生母が長慶を孕んだ時に館の南の吉野川の瀬に立って天下の英雄の出生の大願をかけたという伝承がある。
父は細川晴元配下の有力な重臣で、主君・晴元の仇敵であった 細川高国 を滅ぼした功労者であった。
本国阿波だけでなく 山城国 にも勢力を誇っていたが、その勢威を恐れた晴元達及び一族の 三好政長 ・ 木沢長政 らの策謀で蜂起した 一向一揆 によって、 享禄 5年(1532)6月に殺害された。
当時10歳の長慶は両親と共に 堺 にいたが、一向一揆襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逼塞した。
若年期の活動
細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなり 享禄・天文の乱 となる。
そのため天文2年(1533) 6 月 20 日 に長慶は一向一揆と晴元の和睦を斡旋した。
「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」 ( 『本福寺明宗跡書』 ) とあり、当時12歳に過ぎない長慶こと千熊丸が和睦を周旋したというのである。交渉自体は仙熊の名を借りて代理の者がした可能性もあるが、元長が戦死して1年で三好家の勢力は晴元と 石山本願寺 を和談させるくらいまでに回復していたのである。
この直後に元服したとされる。理由は長慶の嫡男・三好義興や13代 将軍 ・ 足利義輝 、晴元の子の 細川昭元 などが 11 歳で 元服 しているためである。
千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した。ただし天文5年(1536年)11月の『鹿苑日録』では仙熊と記されているため、15歳までは世間ではまだ幼名で呼ばれていたようである。
8月に本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、長慶は一揆と戦って摂津 越水城 を奪回した。
翌天文3年(1534)になると本願寺に味方して 8 月 11 日 に細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄( 尼崎市 )で晴元方の三好政長と戦ったが、 河内 守護代 でもあった木沢長政の仲介や、年少であるという理由から許されて晴元の下に帰参した。
この後の 10 月 22 日 、晴元の命令で長慶の家臣が京都平野神社の年貢等を横領しているのを止めて還付するようにされている。
その後は晴元の武将となり、天文5年(1536)3月に 細川晴国 や本願寺武断派の 下間頼盛 らが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。この時は木沢長政の下に逃れ、長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍を 7 月 29 日 までに全滅させた(『続応仁後記』)。
勢力拡大
天文8年(1539) 1 月 15 日 、長慶は細川晴元の供をした時、 尾張国 の 織田信秀 から前年に献上されていた鷹を与えられた。
10日後の 25 日 に長慶は晴元を酒宴に招き、その席で 室町幕府 の料所である 河内十七箇所 ( 守口市 )の代官職を自らに与えるように迫ったが、晴元は聞き入れず、長慶は直接幕府に訴えた。
この料所の代官は元々は父が任命されていたのだが、その死後には長慶の同族ながら政敵であった三好政長が任命されていたのである。
幕府の 内談衆 である 大舘尚氏 は長慶の要求を正当としたが、12代将軍・ 足利義晴 は近江 守護 の 六角定頼 を通じて晴元・長慶間の和睦交渉を斡旋するも不首尾に終わる。
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