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2024年09月02日
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カテゴリ: 戦国




4月に入ると、一揆衆の攻撃は勢いを増し溝江城(別名金津城、溝江館)を落城させ、溝江景逸と溝江長逸ら溝江氏一族は舎弟の妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前寺英勝および小泉藤左衛門、藤崎内蔵助、市川佐助らとともに自害して果てた(長逸の一子、溝江長澄だけは溝江城から脱出した)。


4月14日、一揆勢は土橋信鏡(朝倉景鏡)の居城である亥山城を攻撃、信鏡は城を捨てて平泉寺に立て籠もったが、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅。信鏡は逃亡を図ったものの、最期はわずかな家臣とともに敵中に突撃、討死した(『朝倉始末記』)。


5月には織田城の織田景綱(朝倉景綱)を攻撃する。景綱も奮戦したが寡兵であったことから夜陰に乗じて家臣を見捨て、妻子だけを連れて敦賀に逃走した。


こうして、朝倉旧臣団は一向一揆に通じた安居景健、朝倉景胤など一部の将を除いてことごとく滅ぼされ、越前も加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となった。


結果・影響


この結果、信長は越前を失陥することになった、しかし、当時織田氏は武田氏、長島一向一揆、大坂の石山本願寺など他の敵対勢力との抗争に忙殺されており、すぐに失地回復のための討伐軍を派兵することは不可能であった。


ところが、七里頼周や新しい越前の領主として石山本願寺から派遣された下間頼照ら坊官の政治は、越前の豪族や寺社勢力、領民の期待に沿うような善政ではなかった。


下間らは自らの私利私欲を満たすため、織田氏との臨戦体制下であるという大義名分のもと、桂田長俊以上の重税や賦役を彼らに課した。このため、下間らの統治に不満を抱く層による一揆内一揆が発生、一揆勢は内部から崩壊し始めた。】



天正7年(1579年)の 安土宗論 のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580年)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。


「安土宗論」 (あづちしゅうろん)は、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。 安土問答 とも称される。織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われた。


法華宗は信長の意図的な弾圧により、敗れたとされ、処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。


『信長公記』等に依ると、1579年(天正7年)5月中旬、浄土宗浄蓮寺の霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。


そこに法華宗信徒の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。霊誉長老は「年若い方々に申し開きを致しましても、仏法の奥深いところは御理解出来ますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。


説法の期間は 7 日の予定だったが、11日に延長して法華宗の方へ使者を出させた。


法華宗の方も、では宗論をやろうと京都の頂妙寺の日珖、常光院の日諦、久遠院の日淵、妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋の当主の弟で、妙国寺の僧普伝という歴々の僧たちが来る事になった。


そしてこの噂が広まり、京都・安土内外の僧俗が安土に集まると騒ぎは大きくなり、信長も伝え聞く事になる。


信長は「当家の家臣にも法華の宗徒は大勢いるので、信長の考えで斡旋をするから、大袈裟な事はせぬ様に」と、菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らを使者として両宗に伝えた。


しかし、浄土宗側ではどの様な指示でも信長に従うと返答したが、法華宗側は宗論に負けるわけがないと驕って従わず、ついに宗論をする事になってしまう。


そこで信長は「それなら審判者を派遣するから、経過を書類にして勝負の経過を報告せよ」と申しつけ、京都五山の内でも指折りの博学で評判の、日野に住む臨済宗南禅寺・建仁寺長老・鉄叟景秀(てつそうけいしゅう)を審判者に招いた。


そして折り良く因果居士(いんがこじ)が安土に来ていたので、彼も審判に加えて、安土の町外れに有る浄土宗の寺浄厳院の仏殿に於いて宗論を行った。


寺内の警備に、津田信澄・菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一の5人を派遣。法華宗側はきらびやかな法衣を着飾り、頂妙寺日珖、常光院日諦、寂光寺日淵、妙国寺普伝、そして妙顕寺の大蔵坊の 5 人が記録係として、法華経八巻と筆記用具を持って登場。


浄土宗側は、黒染めの衣で、質素ないでたち、霊誉と、安土田中の西光寺の聖誉貞安(せいよていあん)、正福寺信誉洞庫、知恩院一心院助念の 4 人が筆記用具を持って登場。法論の出席者は以下の通り。


浄土宗側 - 霊誉玉念(浄蓮寺)、聖誉定(貞)安(西光寺)、信誉洞庫(正福寺)、助念(知恩院、記録者)


法華宗側 - 日諦(常光院)、日珖(頂妙寺)、日淵(久遠院)、普伝(妙国寺)、久遠院大蔵坊(記録者)


判定者 - 鉄叟景秀(南禅寺、建仁寺)、華渓正稷(南禅寺帰雲院)、仙覚坊(法隆寺)、(因果居士)


名代 - 津田信澄


奉行 - 菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一


目付役 - 矢部家定、森蘭丸】


また、叔父である蓮照寺住職に育てられた関係で、本願寺との交渉にあたり、石山本願寺との和睦と紀州鷺森への退城を促し、交渉に奮闘していたことも想像される。後に秀政は、本願寺顕如から釋道哲の法名をいただいている。(蓮照寺文書) 


天正9年(1581年)の 第二次天正伊賀の乱 において信楽口からの部隊を率い、比自山城の戦いなどを戦い抜いている。この功績ならびに荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功績により、この年、織田信長から長浜城主2万5000石を与えられた。


「天正伊賀の乱」 (てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。



第一次天正伊賀の乱


北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。


1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。信雄は同年3月に滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。


これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。この時の様子が、とあり、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。


すぐさま伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。


丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。


不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。


『伊乱記』には、「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。


翌天正7年(1579年)9月16日、信雄は信長に相談もせず独断で 8,000 の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。






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最終更新日  2024年09月02日 05時46分25秒
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