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南北戦争
の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌1862年(文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった。」
◯南北戦争 (なんぼくせんそうは、1861年から1865年にかけて、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦である。奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまったその他の北部23州との間で戦争となった。この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。
「内戦」を意味する語だが、アメリカでは独立後に内戦があったのはこの時だけなので
詳細は「南北戦争の原因」を参照
当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人奴隷の労働により支えられており、農園の所有者が実質的に南部を支配していた。南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益につながっていた。
一方、北部では米英戦争(1812年 – 1814年)による英国工業製品の途絶で急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし、奴隷制とは相容れなかった。また、欧州製の工業製品に対抗するため保護貿易が求められていた。その結果、奴隷制と貿易に対する認識を異にしていた北部の自由州(奴隷制を認めないという「自由」、奴隷州に対する概念的呼び方)と南部の奴隷州の対立が一層激化した。しかもこの対立は、アメリカ合衆国が思わぬ方法でその領土を拡張してしまった事からより深刻になってしまう。
この「方法」とは、財政難に陥ったフランス(ナポレオン1世)からルイジアナ・テリトリーを購入(ルイジアナ買収)した事と、メキシコから「独立」したテキサス共和国とカリフォルニア共和国をアメリカ合衆国に加えた事 [ 1] である。このことは、それまで上院で保たれていた自由州派(北部)と奴隷州派(南部)の均衡が崩れる事を意味した。
この時、カリフォルニア州を自由州として、ニューメキシコ準州、ユタ準州については州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)となった。この協定によって、南部は奴隷州が少数派となること、すなわち自由州側の方が上院議員数が多くなることに危機感を抱いた。ちなみに開戦の時点で北部の人口は約2200万、南部の人口は約900万だったとされる。南部の人口は、約400万の奴隷人口を含めた数字である。
こうした対立は徐々に先鋭化していき、1857年以降になると、アメリカはドレッド・スコット対サンフォード事件の判決、カンザス・ネブラスカ法、ジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー襲撃事件といった紛争が立て続けに起こり、南北の対立はもはや鎮静化が不可能な状態にまで達していた。北部では奴隷制に反対する新政党である共和党が急速に支持を拡大し、一方与党である民主党は北部と南部の対立が激化して、党が南北に割れる事態となっていた。
開戦
1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選した。この時点では、奴隷は個人の私有財産であることもあり、リンカーン自身は奴隷制廃止を宣言していなかったが、南部では不安が広がった。
同年12月にはサウスカロライナ州が早くも合衆国からの脱退を宣言。翌1861年2月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も合衆国からの脱退を宣言した。2月4日にはこの7州が参加したアメリカ連合国を結成、首都をアラバマ州モンゴメリーにおき、ジェファーソン・デイヴィスが暫定大統領に指名された(同年11月に行われた選挙で正式に当選している)。
3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12日に南軍が合衆国のサムター要塞を砲撃して戦端が開かれた(サムター要塞の戦い)。リンカーンは合衆国に残ったすべての州にサムター要塞などの奪回を呼び掛け、軍事的な協力を要請した。しかしこれは連合国への軍事対決を意味し、このときいまだ合衆国に残っていた奴隷州を強く刺激した。こうして5月までにバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州も連合国に合流した。バージニア州はアメリカ有数の有力州であり、このとき連合国の首都もモンゴメリーからバージニア州のリッチモンドへと移された。ただし奴隷州でもデラウェア州、ケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州、それにバージニア州の西部(後にバージニア州から「独立」してウェストバージニア州となる)は合衆国に残った。合衆国に残ったこれらの奴隷州への対応に、リンカーン大統領は非常に苦慮する事となる。
4月19日にはリンカーン大統領が南部海岸線の海上封鎖を宣言した。この封鎖は大西洋岸からメキシコ湾岸まで徐々に広がり、南部経済を締め付けていった。経済学者によっては、海上封鎖はアメリカ海軍の勝利であり、戦争そのものに勝利する主要要因となったとしている。
同年6月18日、留学生一行は 咸臨丸 で品川沖から出発。途中、榎本・沢・赤松・内田が麻疹に感染したため下田で療養し、8月23日長崎に到着。
◯咸臨丸 (かんりんまる)は、幕府海軍が保有していた軍艦。木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットである。旧名(オランダ語名)、(ヤパン号。ヤッパン号、ヤーパン号とも)。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。
洋式の軍艦としては、観光丸(外輪船)に次ぐ2番艦であるが、洋式のスクリューを装備する船としては初の軍艦である(スクリューは入出航時に主に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造になっていた)。
姉妹艦には朝陽丸 ( 旧称エド号 ) 及び電流丸 ( 旧称ナガサキ号 ) がある。
幕府の船として初めて太平洋を往復したことから名を知られる。幕府の練習艦として用いられた後、戊辰戦争に参加するものの、軍艦としての機能は他艦に劣り、既に運送船の役割を担っていた咸臨丸は新政府軍によって拿捕される。明治政府に接収された後、開拓使の輸送船となった。
艦型
『日本海軍艦船名考』 : 長さ27間半 ( 約50.0㎡ ) 、幅4間 ( 約7.27㎡ ) 、100馬力
「日本と IHC オランダ社の海事交流の歴史」 : 長さ48.80㎡、幅8.74㎡、高さ5.60㎡、トン数620トン、3檣ダブル・トップスル・スクーナー型
艦歴
サラキ岬にある、「咸臨丸終焉の地」を示す案内板。
江戸幕府
1855年(安政2年)7月、オランダのキンデルダイクにて起工。
1857年(安政4年)3月、完成。8月4日 ( 旧暦 ) 、日本へ送られ、長崎海軍伝習所の練習艦となる。
1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣された際、正使一行が乗艦するアメリカ軍艦ポーハタン号の別船として本艦も派米。福澤諭吉らも便乗していた。
米国派遣
日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣されることになった際、正使一行はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗艦することになっていたが、同艦の随伴艦として、幕府海軍の練習航海も兼ねて、本艦も派米された。士官はいずれも長崎海軍伝習所の教員がそのまま乗船していたが、出発前に「軍艦奉行」に昇進して遣米副使としての任も与えられた木村摂津守を除いて、艦内組織は未整頓のままであり、教員の主席にあたる「軍艦操練所教授方頭取」であった勝海舟が先任士官として運用の実質的責任者となったものの、指揮系統の混乱を招いた。なお対外的には、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)は勝が艦長、木村が提督との説明で押し通している。
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