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旧暦1月13日品川を出帆、旧暦1月19日に浦賀を出港し、旧暦2月26日(太陽暦 3
月17日)にサンフランシスコに入港した。往路は38日間・4,629海里 (
8,573㎞ )
の航海であったが、出港直後から荒天に見舞われ、艦の各所が破損したほか、日本人の乗員は疲労と船酔いでほとんど行動不能に陥り、艦の運用は、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉指揮下のアメリカ人乗員が代行した。また上記の指揮系統の未整頓もあって、当初は組織だった当直体制が確立されておらず、荒天下での艦の運用に支障を来した。
復路はハワイ経由での航海となった。往路で同乗したアメリカ人水夫のうち5名を雇った以外は日本人のみでの運用となっており、往路の反省から、アメリカ滞在中に得た知見も踏まえて、当直などの運用体制が整備されたものの、45日間・6,146海里 ( 11,382㎞ ) の航海はおおむね好天に恵まれ、その練度向上を確かめる機会はなかった。
この派米任務は、往復83日間・合計10,775海里 ( 19,955㎞ ) の大航海を成功させたことで、幕府海軍に大きな自信を与えた。しかし一方で、往路でのアメリカ人乗員による助力は過小評価され、航海・運用の技量不足という重大な問題点が見過ごされたことは、蝦夷共和国時代に艦隊主力を海難で喪失する遠因となるなど、大きな禍根を残すこととなった。
小笠原派遣
1862年(文久2年)、小笠原諸島を巡視し、父島と母島を探検(艦長は小野友五郎)した。
1866年(慶応2年)、酷使が祟り、疲弊が激しく故障頻発していた蒸気機関を撤去。帆船となる。
戊辰戦争
1868年(慶応4年)、戊辰戦争が起こる。
8月19日 ( 旧暦 ) 、海軍副総裁榎本武揚の指揮下で、旧幕府艦隊として江戸(品川湊)から奥羽越列藩同盟の支援に向かう。
8月23日 ( 旧暦 ) 、銚子沖で暴風雨に遭い榎本艦隊とはぐれ、下田港に漂着。救助に来た蟠竜丸と共に清水へ入港。
9月11日 ( 旧暦 ) 、蟠竜丸は先に出航。咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれる。新政府軍艦隊に敗北し、乗組員の多くは戦死または捕虜となる。逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長が清水市築地町に埋葬。山岡鉄舟の揮毫した墓が残っている。
明治政府
明治2年9月 ( 1869年10月から11月 ) 、咸臨丸は兵部省から民部省回漕方に交付された。
1871年(明治4年)9月19日 ( 旧暦 ) 、片倉氏の旧臣401名を移住させる目的で北海道小樽へ向け出航したが、輸送途中、北海道木古内町泉沢沖で暴風雨 ( 米人船長の操船ミス説も存在により遭難し、サラキ岬で破船、沈没する。
9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、バタビアへ向かう。ジャワ島北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える。セントヘレナ島でナポレオンの寓居跡などを訪ねた後、1863年(文久3年)4月18日、オランダ・ロッテルダムに到着した。オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。榎本はハーグで下宿し、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学んだ。1864年(元治元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともに 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 を観戦武官として見学した。
◯第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 (だいにじシュレースヴィヒ=ホルシュタインせんそう)は、1864年に、デンマークとプロイセン王国および関係国の間で戦われた戦争である。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の帰属をめぐるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題が原因である。プロイセン側の勝利となり、両地方はプロイセンとオーストリア帝国の管理下に置かれた。高等学校世界史教科書などでは デンマーク戦争 と表記されている。
戦争に至る経緯
シュレースヴィヒとホルシュタインは、デンマーク王国ではないが、デンマーク王を公としていただく同君連合の形でデンマークに支配されていた。両地方の多数派はドイツ人であり、19世紀にドイツに民族主義が高まると、両地方でもデンマークから分かれてドイツに帰属しようとする運動が盛んになった。1848年から1852年には、プロイセンなどドイツ諸邦が第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争をしかけたが、諸外国の仲介があり、ロンドン議定書により領土の変更なくデンマークの支配が継続した。1863年3月にデンマークは憲法を改正し9月に施行したが、これにはシュレースヴィヒのデンマークによる併合が含まれており、10月には反発したザクセン軍とハノーファー軍の12,000の兵がホルシュタインに進駐してデンマークを威嚇した。
同年にフレデリク7世が死去すると、オレンボー家は断絶し、その後継者として同家の支流グリュックスブルク家からクリスチャン9世が登極した。しかしシュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡る争いは決着しておらず、ロンドン議定書で結ばれた内容は現状維持であった。フレデリク7世が生前に布告した「継承令」には、当時の王家による両公国の継承も含まれていた。これを「11月憲法」と言うが、その条目はロンドン議定書には含まれていなかった。この盲点を突いて、プロイセン王国首相ビスマルクは、条約違反を主張し、「継承令」及び「11月憲法」の撤回を要求した。しかもビスマルクは、オーストリア帝国も誘ってデンマークに圧力をかけた。ビスマルクには、多数の住民がドイツ人であることから、同地を併合してキール港を入手し、北海とバルチック海を結ぶ運河を構築する狙いがあった。
デンマークは外交によって解決可能であると楽観視し、プロイセンの要求には応じなかった。列強はプロイセンに同調したが、スウェーデンだけは参戦して来るという目論見があった。汎スカンディナヴィア主義の昂揚を背景に、スウェーデン王カール15世はデンマークを完全に支持し、 2 万の兵の派遣を約束していたのである。しかしスウェーデンではすでに国王の手から政治的実権が離れつつあり、スウェーデン議会は軍の派遣を拒否した。汎スカンディナヴィア主義は、これをもって事実上挫折した。
開戦
プロイセン首相ビスマルクは、列強を中立化させる事に成功した。さらにデンマークに対しシュレースヴィヒ併合憲法の廃止まで48時間の猶予しか与えなかった。1864年 1 月、デンマークはプロイセンの勧告を拒絶することを回答した。
1864年1月31日に集結を完了したプロイセン・オーストリア連合軍は、2月1日の宣戦布告とともにキール運河とアイダー川を越えてシュレースヴィヒに侵攻し、エッカーンフェルデからソルゲ川の線まで進出した。2日、プロイセン第1軍団はミッサウンドの橋頭堡を攻撃したがデンマーク軍の抵抗により撃退された。オーストリア軍とプロイセン混成近衛師団はダンネウェルク要塞に接近して攻撃準備を調えた。
ヴランゲル元帥は敵状視察を行い、ミッサウンドの突破を困難と判断し、直率によるアンゲルン半島最東部のアロイスからの渡河を企画した。架橋や渡船の資材輸送で準備は遅れたが5日の夜には架橋作業に入り6日午前10時に作業完了、午後4時には渡河を終えた。渡河にはデンマーク軍の妨害が予想されたが、プロイセン・オーストリア連合軍の前進に伴い 5 日の夜にはフレンスブルク方面へ退却を始めていた。6日早朝になってオーストリア軍とプロイセン混成近衛師団は退却に気づき追撃をはじめ、オーベルセイ付近でデンマーク軍を激戦の後に撃破し、更に北進した。7日、デンマーク軍は歩兵と騎兵の各1個師団をヘッケルマン将軍に指揮させ、メザ将軍の主力2個師団半は東方のデュペル堡塁へ退却した。
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