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2024年09月15日
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カテゴリ: 中世




永禄13年(1570年)3月、上洛していた 織田信長に荻野直正と甥の赤井忠家(直正の兄赤井家清 は亡くなり、忠家は家清の嫡男)は拝謁し織田方につくことを約束した。信長はこれに対して氷上郡・天田郡・何鹿郡の丹波奥三郡を安堵した


「赤井 直」 (あかい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は 悪右衛門 。赤井氏の実質的な指導者として、氷上郡を中心に丹波国で勢力を誇った豪族であり、『甲陽軍鑑』には「 名高キ武士 」として徳川家康、長宗我部元親、松永久秀らと共に、しかも筆頭として名が挙がっている。


赤井氏は清和源氏頼季流井上氏(発祥は信濃国)の井上家光(頼季の子源満実の3男)が、保元3年(1158年)に故あって丹波芦田庄(現在の兵庫県氷上郡青垣町芦田)へ配流されたことに始まる芦田氏の流れとなっている(『寛政重修諸家譜』)。また元から氷上郡にいた在地の土豪とする説もある。九郎為家が赤井に住み、建保3年(1215年)に父・八郎家範から氷上、天田、何鹿の3郡を与えられたことから、赤井氏の本格的な活動が始まり、守護・細川氏、守護代・内藤氏の影響力が衰えた後は、第二勢力である波多野氏を上回り、丹波最大の版図を有する勢力となったといえ、戦国期の波多野氏を「国人」、赤井氏を「大名」と波多野氏を赤井氏に次ぐ第二の勢力になったと指摘されている。


荻野氏時代


享禄2年(1529年)、赤井時家の次男として誕生。


赤井氏は直正の兄・家清の時に氷上郡のほぼ全域を支配する勢力に成長しており、次男であった直正は赤井氏の同族で黒井城(兵庫県丹波市春日町)に拠る荻野氏の養子に入って荻野姓を称した。天文23年(1554年)、外叔父・荻野秋清を殺害して黒井城を奪っており、通称の「悪右衛門」はこの事件からついた(『赤井家譜』)ともいわれているが諸説ある。また、その勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と恐れられた。


正室として波多野元秀の娘を娶ったが死別し、その後、近衛稙家の娘で前関白・近衛前久の妹を継室として娶り、彼女との間に一女をもうけた。なお、『永山休兵衛系図』では足利義尋の妻・古市氏は直正の妻で、直正死後に義尋夫人になったとしているが [2] 、真相は不明である。


弘治3年(1557年)、兄・家清が三好氏家臣の松永長頼(のちの内藤宗勝)との戦いでの傷がもとで死去したため、直正は黒井城に居住したまま幼少の甥・忠家を後見して赤井一族を率いた(この経緯から一般的に赤井姓をもって呼ばれている)。永禄元年(1558年)には天田郡の荒木尚雅を滅ぼすなど勢力拡大に努め、永禄8年(1565年)には横山城の塩見頼勝を攻め、これの救援に来た兄の仇である内藤宗勝を和久郷の決戦で討ち取った。


織田氏との戦い


永禄13年(1570年)3月、本家の忠家と共に織田信長に降り、3郡の所領安堵を受けた(『寛永諸家系図伝』)。ところが、元亀2年(1571年)に氷上郡へ侵攻してきた山名祐豊を打ち破り、逆に山名氏が治める竹田城を占拠すると(竹田城主の太田垣氏は直正の縁戚であったため、主家に従わず直正に救援を求めたという)、祐豊は信長に救援を頼んだことから、信長の丹波侵攻を招くこととなった。


また、元亀4年(1573年)1月には直正が義昭方として京に出陣するとの噂が流れ(『顕如上人御書札案留』)、同年7月には義昭から助力を求められ(『赤井文書』)、天正2年(1574年)7月には武田家からの書状も届いており(『赤井文書』)、羽柴秀吉から松尾社領の横領を咎められるなど(『東文書』)、反織田勢力側に取り込まれていった。なお、天正元年から天正3年6月までの間、京を出奔した義兄の近衛前久を受け入れていた。


天正3年(1575年)10月、織田信長は明智光秀に直正討伐を名目に丹波攻略を命じた。この時、赤井直正は吉川元春の傘下となった太田垣輝延の竹田城を攻めていたが(『吉川家文書』)、明智光秀が竹田を制圧するとこれに抗して黒井城に篭って戦い、八上城の波多野秀治の加勢もあって光秀を敗走させた(黒井城の戦い)。これ以降、丹波国は京都を中心に畿内の支配を固めた織田氏の侵攻にさらされるが、直正ら赤井一族は波多野氏と結束して頑強に抵抗し、光秀率いる織田軍を何度か撃退することに成功する。


しかし、天正6年(1578年)3月、直正は50歳で病死。嫡男・直義は僅か9歳であったため、叔父の赤井幸家が総指揮を執るが、求心力を失った赤井一族は没落し、織田氏による丹波平定を早めることになった。


直正の子である直義は藤堂家に仕官し、子孫は藩士として続いた。


直正の妻・桂光院は、大和国駒崎城主・古市胤栄へ再嫁し、三男・赤井弥七郎を生む。弥七郎は、大坂の陣にて豊臣方として参戦した後、元和2年(1616年)に藤堂家に500石で召し抱えられた(『公室年譜略』)。赤井弥七郎の法号は護念院心澤常光大禅定門で、金沢市光覚寺の古市家墓地に眠っている。(西坊『古市氏系図続』2015年、西坊『西坊家口伝集続々』2015年 )


平成22年(2010年)には直正の子孫で、元京都大学教授である赤井龍男(本人は婿養子)が赤井家住宅を伊賀市に寄贈することが発表された。


赤井龍男は城陽市に在住しながら赤井家住宅を管理してきたものの、本人が高齢であり、親族にも管理が難しいと判断したため、伊賀市に寄贈することが決まった。赤井家住宅は修復され、現在はカフェやイベントで利用される施設となっている。住宅は現存する武家屋敷として貴重とされ、国の登録有形文化財となった。


直正の弟の赤井幸家のその後は丹波宮田で足立基則の孫娘を継室とし、久基を儲けて、慶長11年(1606年)に70歳で没する。久基は父の死後、父の弟で1500石の旗本の赤井弥平衛時直を頼り、大和宇智郡犬飼村で養育された。久基は赤井宗家の赤井忠泰の娘と結婚し、姓を足立に改姓している。


元・プロボクサーの赤井英和が赤井幸家の末裔であるとされたが赤井家、足立家との関連は不明である。その娘で女優、タレントでプロレスラーの赤井沙希がいる。


〇「赤井 忠家」 (あかい ただいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。


赤井家清の子として誕生。


9歳の時に父・家清が戦の傷がもとで死去し、叔父赤井直正(荻野直正)の補佐を受ける。永禄13年(1570年)3月、木下秀吉の仲介で織田信長に所領安堵される。その後、離反し丹波国国人衆の旗頭波多野氏と共に織田氏に抵抗したが、織田家臣の明智光秀の丹波侵攻により、天正7年(1579年)8月9日、本拠の黒井城を落とされたため(黒井城の戦い)、忠家は遠江国二俣に逃れた。


文禄元年、朝鮮出兵の時に豊臣秀吉に仕える。文禄2年(1593年)9月2日、播磨国美嚢郡に1,000石を給う。秀吉の弟の豊臣秀長と不和となり、大久保忠世を仲介に徳川家康に仕官を願ったが、信濃国蘆田の叔父・山口直之の許に在るよう命じられる。後に再び豊臣氏に仕官するが、また退いている。


慶長5年(1600年)、石田三成の与力・矢田部助兵衛が、助兵衛の一族で忠家の家臣であった矢田部新左衛門宛てに密書を送ってきたのを家康に献上した。関ヶ原の戦いに東軍として参加。戦後、大和国十市郡に1,000石を賜り、戦前に与えられていた領地と合わせて2,000石となる。


慶長10年(1605年)伏見にて死去した。


〇「赤井 家清」 (あかい いえきよ)は、戦国時代の武将。


丹波赤井氏は丹波国を本拠とする国人。河内源氏源頼季の後裔。頼季の嫡男・井上満実(信濃源氏井上氏)の三男・家光が丹波に配流され蘆田氏を名乗る。家光の子孫為家が氷上郡、天田郡、何鹿郡を父・葦田朝家から譲られて赤井氏を名乗った。


大永5年(1525年)、丹波氷上郡後屋城主・赤井時家の嫡子として誕生。若くして数々の戦功を挙げたという。


天文2年(1533年)、細川晴元や三好元長に対し細川晴国が挙兵すると、赤井氏はこれを支援する波多野晴通に攻められ、家清は父・時家と共に播磨国三木城の別所就治を頼り落ち延びた。天文5年(1536年)、細川晴国が摂津国天王寺で自害すると、赤井氏は細川晴元の後援により旧領を回復した。


弘治元年(1555年)、芦田氏、足達氏との甲良の戦いで負傷し、弘治3年(1557年)2月6日、その傷が元で死去した。享年33。


赤井氏の家督は子・忠家が継ぎ、弟・直正がこれを補佐した。






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最終更新日  2024年09月15日 06時21分27秒
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