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2024年09月18日
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カテゴリ: 中世




北条 時政 (ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族の北条時家か北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。


家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。


北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫と称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族である。


時政以前の系譜は系図により全て異なるため、桓武平氏の流れであることを疑問視ならびに否定視する研究者も少なくない。


ただし祖父が北条時家、父が時方(または時兼)という点は諸系図でほぼ一致しており、時家の『尊卑分脈』傍注には「伊豆介」とある。


上横手雅敬は、土着したのはそう古い年代ではなく、幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと推測している。


『吾妻鏡』は 40 歳を越えた時政に「介」や都の官位等を付けず、ただ「北条四郎」「当国の豪傑」とのみ記している。保有武力に関しても石橋山の戦いの頼朝軍の構成を見る限り突出した戦力を有していたとは言いがたく、時政は北条氏の当主ではなく傍流であり、国衙在庁から排除されていたのではないかとする見解がある。


国衙最有力在庁でも太郎・四郎と表記される例や、後年の護良親王令旨や吉田定房の『吉口伝』のように時政を在庁官人とする史料もあり、時政が在庁官人でなかったとは断定できない。


北条氏の本拠は国府のある三島や狩野川流域に近接して、軍事・交通の要衝といえる位置にあり、国衙と無関係とするのは考えがたいとする見解もある。


いずれにしても、時政の前半生及び内乱以前の北条氏については謎に包まれている。ほぼ一代で天下第一の権力を握るに至ったにもかかわらず、兄弟や従兄弟が全く歴史に登場してこない(粛清された記録も無い)点も異色である。


頼朝の舅


平治の乱で敗死した源義朝の嫡男・頼朝が伊豆国へ配流された事によりその監視役となる。妻・牧の方の実家は平頼盛の家人として駿河国大岡牧を知行していた。


やがて頼朝と娘の政子が恋仲となった。当初この交際に反対していた時政であったが、結局二人の婚姻を認めることとなり、その結果頼朝の後援者となる


治承 年( 1180 27 日、平氏打倒を促す以仁王の令旨が伊豆の頼朝に届くが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。


しかし源頼政の敗死に伴い、伊豆の知行国主が平時忠に交代すると、伊豆国衙の実権は伊東氏が掌握して工藤氏や北条氏を圧迫した。さらに流刑者として伊豆に滞在していた時忠の元側近山木兼隆が伊豆国目代となり、また頼政の孫・有綱は伊豆にいたが、この追捕のために大庭景親が本領に下向するなど、平氏方の追及の手が東国にも伸びてきた。


自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に協力を呼びかけた。時政は頼朝と挙兵の計画を練り、山木兼隆を攻撃目標に定めた。


挙兵を前に、頼朝は工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らに自分だけが特に頼りにされていると思わせ奮起させたが、「真実の密事」については時政のみが知っていたという。


挙兵


 8 17 日、頼朝軍は伊豆国目代山木兼隆を襲撃して討ち取った。この襲撃は時政の館が拠点となり、山木館襲撃には時政自身も加わっていた。


この襲撃の後頼朝は伊豆国国衙を掌握した。その後、頼朝は三浦氏との合流を図り、 20 日、伊豆を出て土肥実平の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出した。


北条時政父子もほかの伊豆国武士らと共に頼朝に従軍した。しかしその前に平氏方の大庭景親ら 3000 余騎が立ち塞がった。


 23 日、景親は夜戦を仕掛け、頼朝軍は大敗して四散した(石橋山の戦い)。この時、時政の嫡男・宗時が大庭方の伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしている。


頼朝、実平らは箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、 28 日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。


時政はそこまでの途中経過は文献によって異なるが、頼朝とは一旦離れ、甲斐国に赴き同地で挙兵した武田信義ら甲斐源氏と合流することになった。


 10 13 日、甲斐源氏は時政と共に駿河に進攻し ( 鉢田の戦い ) 、房総・武蔵を制圧して勢力を盛り返した頼朝軍も黄瀬川に到達した。


頼朝と甲斐源氏の大軍を見た平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。


その後、佐竹氏征伐を経て鎌倉に戻った頼朝は、 12 12 日、新造の大倉亭に移徙の儀を行い、時政も他の御家人と共に列している。


亀の前事件


治承 年( 1180) 末以降、時政の動向は鎌倉政権下において他の有力御家人の比重が高まったこともあり目立たなくなる。


寿永元年( 1182) 頼朝は愛妾・亀の前を伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、頼家出産後にこの事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、 11 10 日、牧の方の父・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。


 12 日、怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。


この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永 年( 1183) が欠文のため追うことができない。


元暦元年( 1184) も時政は、 月に土佐に書状を出したことが知られる程度でほとんど表に出てこなくなる。


この年は甲斐源氏主流の武田信義が失脚しているが、武田信義の後の駿河守護は時政と見られる。


駿河には牧氏の所領・大岡牧に加え、娘婿・阿野全成の名字の地である阿野荘もあり、縁戚の所領を足掛かりに空白地帯となった駿河への進出を図っていたと考えられる。


京都守護


文治元年( 1185)3 月の平氏滅亡で 年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結したが、 10 月になると源義経・行家の頼朝に対する謀叛が露顕する。


 10 18 日、後白河院は義経の要請により頼朝追討宣旨を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。


 11 24 日、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。


 28 日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。


時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。


在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治 25 日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』)と概ね好評だった。


しかし 日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに一族の時定以下 35 名を洛中警衛に残して離京した。


後任の京都守護には一条能保が就任した。時政の在任期間は ヶ月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。


鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。


文治 年( 1180)6 日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその 年前の文治 年( 1186) から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる。






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最終更新日  2024年09月18日 06時04分46秒
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