全3件 (3件中 1-3件目)
1
![]()
郵便機のパイロット時代の出来事を書いたエッセイ。サン=テグジュペリが始めて仕事についた時の話、同僚メルモスが様々な定期航路を開拓した末に消息不明になった話や、同僚ギヨメが冬のアンデス山脈に墜落してから五日四夜歩きとおして生還した話や、サハラ砂漠のムーア人(モール人)を手なづけた話や、ムーア人が誘拐した黒人奴隷バークを買い戻して奴隷から開放する話、サン=テグジュペリがプレヴォーと共にサハラ砂漠に墜落して水がない中で幻覚を見ながら歩き回った末に遊牧民に遇って助かる話など、エピソードとして面白いものの、日付が不明瞭だったり、状況の説明不足だったり、比喩がくどかったりして、小説ならまだしもエッセイとしては読みづらい部分がある。各エピソードがどうこうというより、全体にサン=テグジュペリの人生観が表れているのがこの本の見所。飛行機乗りは当時の最新の機械を操縦する花形の職業でありながらも、サン=テグジュペリは飛行機をあくまで道具としてみなしていて、視線はあくまで人間に向いている。サン=テグジュペリの思想が出ている文章をいくつか引用してみる。「何ものも、死んだ僚友のかけがえには絶対になりえない、旧友を作ることは不可能だ。何ものも、あの多くの共通の思い出、ともに生きてきたあのおびただしい困難な時間、あのたびたびの仲違いや仲直りや、心のときめきの宝物の貴さには及ばない。この種の友情は、二度とは得がたいものだ。」「ある一つの職業の偉大さは、もしかすると、まず第一に、それが人と人とを親和させる点にあるかもしれない。真の贅沢というものは、唯一つしかない、それは人間関係の贅沢だ。物質上の財宝だけを追うて働くことは、われとわが牢獄を築くことになる。人はそこへ孤独の自分を閉じ込める結果になる、生きるに値する何ものをも購うことのできない灰の銭をいだいて。」「人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。」「現代技術のあまりにも急速な進歩に恐れをいだく人々は、目的と手段を混同しているようにぼくには思われる。単に物質上の財宝をのみ希求している者に、何一つ生活に値するものをつかみえないのは事実だが、機械はそれ自身がけっして目的ではない。飛行機も目的ではなくて一個の道具なのだ。鋤のように、一個の道具なのだ。」「ぼくらはすべて、いまだに新しい玩具がおもしろくってたまらない野蛮人の子どもたちなのだ。ぼくらの飛行機競争もこれ以外の意味をもちはしない。あの一機はより高く上昇し、この一機はより速く飛ぶ。なぜそれを飛ばすかということを、ぼくらは忘れている。競争のほうが、さしあたり、競争の目的より重要視されている。これはいつの場合にも同じことだ。」「たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから。」サン=テグジュペリは郵便機のパイロットとして命がけで仕事をして、ムーア人と価値観を相対化し、サハラ砂漠で遭難して九死に一生を得て、戦争に参加し、自分自身や同僚の生死を見つめて、世代を超えて伝統や観念が受け継がれることに死の意味を見出した。このような人生観は現代日本人は到達しえないものだろう。現代の仕事では同僚が頻繁に死ぬということはほとんどない。死ぬことがあったとしても、それは同僚に勇敢な冒険を讃えられる死ではなく、奴隷のような底辺労働者として疲弊したあげくに人から目を背けられる無残な死に様だ。そのうえ終身雇用がなくなって正社員と派遣とアルバイトの身分制度ができあがった現代では、職業が人と人とを親和させることも少なくなり、むしろ職業が人と人のいがみ合いを引き起こしているとさえ言えるかもしれない。仕事の責任感も失われ、失業者はもはや社会から必要とされなくなった。日本人は高度経済成長の大量消費や、バブル期にブランド物を買いあさった時代を経て、ようやく現代になって車や鞄を実用の道具としてとらえなおすことができるようになり、物質主義から抜け出しつつある。しかしいまだに精神は70年前のサン=テグジュペリほどには成熟していない。相変わらずメーカーは目的もないままスペックを競い続けて、人間は機械を道具として使うどころか、人間が機械を生産する道具となってしまっている。日本人が人間の土地を見つけるのはいつになるのだろうか。ひとつの過ぎ去った時代の、ある職業に就いた者にしか書けない物語を描いたという点で、サン=テグジュペリは現代でもユニークな作家であり続けているのだけれども、その人間観がすばらしいからこそ魅力的なのだ。★★★★☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】人間の土地改版 [ アントアーヌ・ド・サン・テグジュペリ ]価格:596円(税込、送料込)
2014.05.23
コメント(0)
![]()
ドストエフスキーの伝記と作品論。うぬぼれが強すぎて作家たちからはぶられて、ベリンスキイの書簡を集会で朗読したことで四年投獄され、てんかんに苦しみ、兄に金の無心をするものの兄が死んで有力なパトロンもいなくて、原稿料を前借しても小説を書けずに友人たちに手伝ってもらい、速記係のアンナと二回目の結婚をしてもギャンブル癖は直らなくて旅費に必要な金まで賭けてしまうという波乱万丈の生活ぶりが書かれている。伝記としてみると脱線が多くて読みづらいものの、単なる伝記でなくてロシア文学論も交えているので文学論としてみると面白い。今までドストエフスキーの人生はたいして知らなかったものの、ドストエフスキーがギャンブル狂だったと知ると、『カラマーゾフの兄弟』のギャンブル場面が臨場感たっぷりに書かれているのも納得がいく。ドストエフスキーの小説を再読してもまた別の面白さを見つけられそうで、この本を読む価値はあった。面白いと思った点は『作家の日記』でドストエフスキーが到達した結論というのが「作家というものは、書く技術は勿論だが、自ら表現する現実(歴史的のものであれ、当今のものであれ)に関する悉くのもの、その細部に至るまで心得ていなくてはならぬ」ということで、この点で優秀な作家はトルストイだという。作家が表現するものについて知っていなければならないというのはある意味当然のことなのだけれど、これを実践している現代作家はほとんどいないんじゃなかろうか。「理屈を言うよりも観察せよ、観察するよりも創造せよ」という細部まで観察するドストエフスキーの創作手法があってこそ、混沌としたロシア社会の観察に基づいた独自の小説が生まれたのだろう。現代に文学理論がいくら進歩しても、いくら資料を充実させても、作家が人や社会を観察せず、資料と理論ででっち上げたような小説ではドストエフスキーの小説は超えられない。現代小説ではプロットのパターンは定型化していて資料さえあれば誰でもそれなりの小説は書けるものの、観察こそ小説家を芸術家たらしめる部分だろう。★★★★☆【楽天ブックスなら送料無料】ドストエフスキイの生活改版 [ 小林秀雄(文芸評論家) ]価格:853円(税込、送料込)
2014.05.13
コメント(0)
![]()
表題作とその他二つの短編集。「トライアングルズ」小6の男児イデヒサオが父親の不倫相手にストーカーする家庭教師の先生のことを父親の不倫相手宛に手紙を書いた話。語り手が小6とは思えないリアリティのなさで、家庭教師が小6の振りをして手紙を書いたというオチなのかと思ったけれどもそうでもなかった。意図的にリアリティがない設定にしているのだろうけれど、一人で延々とボケてるコントのような感じで、そのボケに対するツッコミもオチもないので、ナンセンスなギャクとしてみても特に面白いわけでもない。「無常の世界」高校生が公園の露出狂の女を覗き見して自慰していたら女が殺されていて、父親が怪しいけど自分が犯人にされそうだというだという話をネットに投稿してアドバイスを求めた話。一番短い話で、プロットの展開もなく見所がない。「鏖(みなごろし)」働いている店のブランド品の時計を偽物にすり替えてタケダに追われて逃げているオオタタツユキがデニーズに行き、中年男が妻の浮気を監視カメラで見ているのを自分なら半殺しにすると挑発したら中年男が家に戻って半殺しにしてしまったものの、オオタがタケダたちに捕まって犯行場面を見ていなかったので中年男が怒ってタケダたちを金属バットで殴り倒したので、オオタは逃げて不倫相手の瞳から時計を取り戻そうとしたものの断られて瞳を半殺しにしようとして通りすがりの野球部員からバットを奪おうとするものの反撃される話。丁寧にくだらないエログロナンセンスを書いた短編集という印象。丁寧に書いてあるのはよいものの、裏表紙に「この国を覆い尽くす狂気を抜群のユーモアとドライブ感で描破し、野間文芸新人賞に輝いた傑作作品集」と書いてあるので、誇大広告の分だけ評価を引き下げた。そもそも狂気をコメディ化することの何が面白いのか。ナチスへの批判をコメディにしたチャップリンと比べて、安部和重のコメディには社会制度や政治への批判が含まれておらず、個人の性格に起因する個人的な物語としてこじんまりとした世界から出て行こうとしない。「トライアングルズ」の家庭教師の先生はライオンのような危険な男に対して戦いを挑み、「鏖(みなごろし)」のオオタは中年男に対して何もできないと挑発したけれど、この小説には社会や読者を挑発する要素がなく、権力と戦う姿勢もなく、コメディとしての刺激がなく退屈してしまう。この小説は平成11年(1999年)に刊行されたけども、当時の最大の狂気だったオウム真理教や和歌山カレー事件にまったく触れておらず、たった数人のエキセントリックな個人を書いただけで「この国を多い尽くす狂気」を「描破」したとはとてもいえない。同じころにルワンダでは大量殺戮が行われていて50万人から100万人のツチ族が殺されて、ユーゴスラビア紛争では民族浄化が行われていてボスニアだけで20万人が死んだが、阿部和重の書いた浮気相手の半殺しの話なんかは相手が死なない程度に力を制御した些細な暴力に過ぎず、狂気と呼べるほど異常な行動でもない。人間は普通に暴力的で、暴力的であること自体は狂気でもなんでもなく、暴力の正当化の仕方に狂気が現れるものだ。もうひとつのほめ言葉のドライブ感にしても、心理を説明しすぎる文章は解釈の多様性がなくなり野暮になる。サクサク読めればいいというものでもなく、つまらない小説をサクサク読んだところで結局つまらないのだ。くだらない人生をおくっている人にはこんなくだらない小説が傑作に思えるのだろう。★☆☆☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】無情の世界 [ 阿部和重 ]価格:432円(税込、送料込)
2014.05.12
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1
![]()

![]()