2016年04月の記事一覧 | 草加の爺の親世代へ対するボヤキ

神慮に依る　「野辺地ものがたり」

　　　　　　　　　　　　　第　五十六　回　目　　そっと、閉じていた眼を開きかけると、誰かが枕辺に在って、義清の顔を熱心に窺っている様子である。義清は又、瞼を閉じて、相手の気配を、聴いた。それが先程の少女であることは、直ぐに知れた。少女は身じろぎもせずに、若者の稍蒼褪めてはいるが、凛々しい面を、打ち見ているのだった。そのようにして、どれほどの時間が経過したであろうか、義清にはそれが一年にも、二年にも、あるいはもっと、遥かに長い、永遠に近い時の流れの様にも、感じられた。出来ればいつまでも、こうして眼を閉じて、美しい少女に見守られていたい。そう、胸底では熱望するものが確かに有ったのだが、もう一方で、その儘の状態に耐え切れない、息苦しさが次第に募ってもいた。とうとう義清は瞼を大きく見開いて、少女を見た。　「そなたは人を殺めたのか」　桜貝のような艶々した、形の良い少女の口元から、穏やかに発せられたこの言葉は、強弓から放たれた箭の如く、義清の胸を貫いた。　「解らぬ、ただ、儂（わし）は危うく命を失う所であった」　草の上に昏倒した儘手から離さなかった太刀には、ドス黒い血糊の痕が、はっきりと残っていた。確かに自分は賊を切ったに違いなかった。が、果たして相手が死んだものか、或いは思いの外に浅傷であったのか、皆目見当がつかない。肺の臓も心臓も、膽も腸も、五臓六腑が捩くり返る、凄絶な死の恐怖からの、形振り構わぬ、唯闇雲な遁走の記憶が殘るのみであった。全身泥まみれ、血潮に塗れた義清はこの少女に発見され、親身な介抱を施され、今こうして清浄この上ない寝床の中にぬくぬくと、臥せっている。義清は、何か感謝の言葉を述べなければならない事に、初めて気がついた。　「礼はいらぬ、そなたを此処へ招いたのは、妾（わらわ）なのだから…」　身を起こして、激しい苦痛に顔を歪めながらも尚、感謝の言葉を探そうと努める若者の、殆ど必死の行為を宥め抑えるように、少女は謎の様な言葉を発していた。少女は確かに　此処へ招いた　と言った。しかし、「招いた」とは一体どういう意味であろうか？自分は、野盗の一団に襲われ、命からがら逃げ延びて、偶然、この邸近くに紛れ込んだ　負け犬　にしか過ぎない。哀れに尻尾を巻いて逃げてきた、薄汚い負け犬―、そこまで考えた時、義清は急に己の若輩と、それ故の非力と不様さとを、心に深く恥じた。その惨めな気持ちを美しい少女に見透かされるのが嫌さに、義清は固く眼を閉じると、顔を深々と褥の中に埋めた。　三日目の昼下がり、義清は年老いた忠実そうな老爺が手綱を引く、栗毛の馬に乗せられて、少女の邸を出た。別れしなに義清は己の名を乙女に告げた、佐藤義清と。少女は、黙って僅かに頷いたが、当然のごとくに、自分の身分姓名は明かさなかった。碧い瞳の乙女。義清は口の中で、そっと呟いて、心に別れを惜しんだ。礼は要らぬ、と言い放った乙女の声が、耳底に蘇って来る。　無骨一辺倒で、普段は感情を決して露わにはしたことのない父が、息子・義清の無事を知ると、顔中をくしゃくしゃにさせて、大きな喜びの色を満面に浮かべた。若い舎人数人に支えられながら馬から降りる義清の胸の中に、ひ弱で、二つ下の九歳の年齢にしては幼い弟の仲清が、大粒の涙を見せながら、飛び込んできた。病弱な母が、二日間、奥庭の一角に建てられた小さな持仏堂に籠りっきりで、自分の無事を祈願していると聞くや、義清はまだ躯のあちこちが劇しい痛みに苛まれているのを、無理に隠して、その儘直ちに、元気そうな笑顔を、母親の前に現した。青白く細い母の優しい手が、静かに、いたわるように、義清の肩を抱いた。その時初めて、不覚の涙が、若者の瞳に湧き出た。大きな安らぎと、限りない安堵感に浸って、若者は両肩を震わせて、泣いた。　　その事があってから、義清の武術に励む意気込みが、一段と厳しさを増した。何か言い知れぬ　殺気　の様なものが、日常生活の隅々にまでも溢れ、一種異常な迫力と威厳さえもが、若者の身辺に放射されていた。　兼ねてから義清に目を留めていた中納言・徳大寺実能が、この変化に着目し、父・康清に乞うて、特に将来の随身として教育を施すべく、今から徳大寺家に通う方策を講じてくれたのであった。無論、義清本人に異存は無かった。家が経済的に富んでいるとは言え、新興階級の、それも賎しい下級武士の家柄に生まれた義清にとって、通い書生の身分ではあっても、名門貴族の徳大寺家への出入りを許された事は、大きな名誉であると同時に、己の天分を心ゆくまで伸ばすことの出来る、願ってもない好機であった。　代々、武を以て鳴り、それを唯一の誇りと、生甲斐としている当主・康清は、長男の栄達の道が武芸以外の所にもあろうとは、夢にも考え及ばぬことであった。しかし、若輩ではあっても、才知と野心に満ち溢れた義清は祖父や父親が生涯かけても望み得ない、左衛門の尉以上の地位を、既にして虎視眈眈と目指し始めていたのである。実能の一子・公能と同年輩の、謂わば学友として、義清は学問と和歌の道に精進した。無論、本業である武の道も、諸々の兵法を学び、中でも得意の弓術には抜群の成績を示し、腕を上げていった。　十三歳で元服し、十六歳の春に、この時大納言に昇進した実能の随身として、正式に召抱えられたのを機に、主人の媒酌で、妻を娶った。相手は聡明で、美しい娘であった。

神慮に依る　「野辺地ものがたり」

　　　　　　　　　　　第　五十五　回　目　所が、先程、食器の後片付けを悦子に手伝わせながら、春美が例の男の子からの最新の手紙を読んでいなければ知らない筈の話題を、ついうっかり口にのぼせてしまったのだ。「お母さんは、また私の手紙を内緒で、盗み見した」と言って、悦子が母親を非難し、春美も「母親には子供の行動を見守り、間違いが起こらないように気を配る、義務と権利があるのだ。心配な男の子からの手紙に目を通すのは、親として当然の事なのだ」と主張した。すると、悦子の方は「子供とは言っても、人の、個人的な通信内容を　検閲する　のは、人権侵害だ」と、どこで覚えてくるのか、ませた口調で遣り返す。と言った具合なのであった。　教室では、もっともらしい顔をして、中学生達に文部省の定めた道徳・倫理を教える父親も、我が子の悦子や、それより二歳年下の妹・和恵たち暴君の前では、歯が立たなかった。家庭内の躾は態良く妻に押し付けて、自分は当たらず触らずの傍観者的立場を、極力は堅持する方針の保臣も、今夜のような場合には、自分の態度を表明しなくては済まされない嵌めに、陥るのである。　「母さんだって、悪意があってお前の手紙を見ている訳ではないのだから、そんな検閲だとか、人権侵害だとかと、おかしな事を言わないで、今度からは、手紙の内容を読んだあとで、母さんに報告するようにしなさい。そうすれば母さんだって、安心するだろうから」　妻と長女の顔を半々に見比べながら、そう、やっとのことで厳かな託宣を述べ終わると、彼は書斎へと取って返した。居間で一人、我関せずといった涼しい顔で、宿題をやっていた次女の和恵が、廊下を通り過ぎりる父親の方にやにわに顔を向けると、「パパ、恰好いい」と言って、片目をつぶって見せた。悦子以上におませなこの次女は、謹厳な教師・眞木保臣が、この世で一番の畏敬の念を抱いている、異性であった。　――　丸二日間というもの、義清は見知らぬ少女の屋敷で、傷の手当てと心のこもった看護を、臈闌けた女房達から受けた。得も言われぬ妙なる匂いを放つ、名香の薫りが、義清の横臥する柔らかな夜具の中にも、微かに忍び入ってきた。その香気の霊妙なる調べに伴われて、時折彼の耳に達する、誠に仄かな衣擦れの音と、静かで控えめな咳（しわぶき）の音だけが、深い静寂が領している部屋に届いてくる、人間の気配の全てであった。　幸い、義清の受けた手疵に致命傷はなく、ただ全身に渡る疼くような痛みの洪水だけが、間歇的に打ち寄せる激浪の如くに、若者の肉体を苛み、苦しめるのだった。若者は、切れ切れに、多くの夢を見た。　幼い童の頃の、楽しい思い出の中に、義清は先刻の不思議な美しさを漂わせた乙女と共に、戯れ興じた。夢の中で、乙女は義清の幼馴染の友、であるらしかった。隠れ遊び、また、土遊び。無心に遊び興じる二人の幼い背中に、桜花の大きな花瓣（はなびら）が、はらはらと散りかかる。乙女の愛らしい耳朶に似た、一片の花瓣が義清の掌に止まった…。今度は、竹馬に乗った彼の前を、乙女が可愛い笑い声を上げながら、逃げる。追い詰められて、振り返った乙女の、愛嬌のある唇が、真紅の野苺の実に、変わった。乙女の謎の様な表情を湛えた、青い瞳が、観音像のそれの如くに、優しく笑っている。と、今度は靉靆たる靄の立ち込めた、夕暮れである。柔らかな、金色の光が、山の端に沈みかかった大きな日輪から、射している。そして、どこからか哀調を帯びた麦笛の音が、長く、微かに、聞こえてくる。―　あれは自分が乙女に、教えたもの。近くで、蟋蟀（きりぎりす）の絶え絶えに鳴く声が、幼い義清の悲しみの心を、言い表すが如くに起こった。今日はとうとう、乙女とは会えず仕舞…デ、くれてしまった―、……夢は、その悲しみの気分を、現に引摺り残して、醒めていた。

神慮に依る　「野辺地ものがたり」

　　　　　　　　　　第　五十四　回　目　　義清は深い眠りの中で、誰かの声を耳にしたように感じた。「あっ」と、小さく口の奥に飲み込まれてしまった、その声の、何故かしら懐かしい響きが、初春の清々しい陽光の暖かさを、閉じた儘の瞼の裏で受け止めている義清の、夢か、現かの朦朧たる意識の中を、幽かな、快い、波紋となって広がっていた。突然、恐怖の強い感情が、義清の脳裏に、蘇った。ガバッ、と弾かれた如く身を起こした義清の面前に、一人の少女の、仄白い顔が、怯えたように、また、気遣わしげに見守っている。…、何処か、近くの樹の梢で、小鳥が長閑に囀っているのが聞こえる　義清が一晩中、気を失って倒れていた、林に囲まれた小さな草原には、淡い緑の鮮やかな野草が、朝露に濡れそぼっている。悪夢の様な凶々しい昨夜の恐怖の残像が消えると、彼は呆然自失して、眼の前の、美しい少女の顔に見惚れた―、儂は、まだ夢を見ているのか…、この木立の中の、草叢の中央で、疲れ果てた儂は、まだ夢を見続けているらしい。が、何という爽快で、麗しい朝なのだろう…。また、この乙女は、この世の者ならぬ、妖しいまでの高貴さと、天女の如き美々しさを備えているではないか。この乙女は、いったい誰なのか…。花咲く季節に先駆けて、この世に仮の姿を現じた華の精なのでもあろうか？　「そなたは何者じゃ、いずれより参った」　凛と、鈴の様に澄んだ声が、少女の薄紅の、形の良い唇から洩れた。青みがかった、大きな二つの瞳を一杯に見開いた視線が、幾分非難の表情を含んで、まだ義清の右手にしっかりと握られた刃物に向けられている。少女の視線を感じた義清は無言のまま、ドス黒く汚れた太刀を掌から振り落とそうと焦った。が、樹の幹の如く硬直した手も、指も、いっかな動こうとしない。彼は慌てて、己の左手を使って、一本一本の指を、刃の柄からもぎ取ったのである。　「そなたは手や足に手疵を負うている。家の者たちに、介抱をさせましょう」　義清の様子を、じっと見守っていた少女は、恐る色も見せずに、静かにそう言い残すと、後方の潅木の繁みの蔭に姿を消した。程なく、数人の若い女房たちが、足早に現れ、依然として虚けたように草の上に腰を落としている、義清の前に立った。彼は、少女が立ち去った時から、躯全体に急激に覚え始めた劇痛のため、身動きがならなかったのである。目も綾な、見事な紅梅の薄絹を被いた女房達の発する、香の余薫を鼻腔の奥で微かに感じながら、全身手負いの若者は、眠り込む様にがっくりと頭を垂れ、再び意識を失っていた。　さっきから、階下で、妻の春美と長女の悦子が、何事か口論し合っている声が、途切れ途切れに、聞こえてくる。どうやら彼の居る書斎の真下の、台所からであるようだ。眞木保臣は「うるさいぞ！」と合図するように　えへん　とひとつ大きく、咳払いをした。ほんの数秒間だけ、二人の話し声は止んだが、再び、低声で何か言い争う声が次第に大きくなり、今度は、さっきより大分大きい、ヒステリー性の妻の黄色い声が、悦子のそれを威圧するように、狭い家中に響き渡っている。　「どうしたんだい、一体、うるさいじゃないか―」　堪り兼ねた保臣がそう怒鳴ると、「悦子が、あまり言う事を聞かないものですから…」と、大分感情に走った、春美の哀訴するような甲高い返事が、戻ってきた。　仕方なく机の前から離れ、保臣が陰気臭い四畳半の書斎を出て、階下の台所に降りていくと、小学校四年生になる悦子が大粒の涙を、両の眸に浮かべて、母親に喰ってかかっている。妻の晴美が幾分ヒステリックに興奮しながら語る説明によると、こうであった。先日来、悦子の所に、同じクラスの男の子から封筒の手紙が、何通か届くようになっていた。それは二ヶ月ほど前の夏休みに始まった事である。最初は気にも止めずにいたのだが、余り何度も同じ差出人の男の子から繰り返し送られて来るものだから、気になって、先週届いた手紙の封を切って、中身を読んだのである。学校から帰ってそれを知った悦子は、猛然と母親に抗議し、以後絶対に自分宛の手紙の封を無断で開かないことを、母親に約束させたのだ。

神慮に依る　「野辺地ものがたり」

　　　　　　　　　　　第　五十三　回　目　　それともう一つ、「死」という言葉に釣られて頁を繰り始めた彼の眼に、“心の恋人”と書かれた一節が、強い訴求力を持って飛び込んできた。この言葉を眼にするまで、佐々木法子に対する自分の感情を、どの様に理解したらよいのか苦慮していたのであるが、意外さに自分でも半ばは呆れながらも、深く得心する思いだった。　佐々木法子は、非常に存在感の薄い、目立たない地味な生徒である。今年の春、彼が奉職する中学校に入学して来たばかりだったから、十二歳か十三歳にしかならない少女である。最近の子供たちは皆、発育が驚く程に早く、小学校を卒業する時点では殆どの女子生徒が初潮を迎えていると聞くが、佐々木法子は全体に小柄で、同じ年齢の子供たちの中でも、どことなく顔立ちなどにも幼さが残り、未熟さの印象があった。で、この子はまだ初潮を経験していないのではないかと、彼に感じさせていた。そんな未成熟な中学一年生の少女に、眞木保臣は密かな恋情を覚えていたのであった。そう、確かにそれは恋の情と呼んで然るべき、感情に相違なかった。　―　深い霧が、辺り一面をゆっくりと漂い続けていた。極度の疲労のため、痺れたように自由を失った両足を、引摺る様に義清が身体を動かす。その度ごとに、厚い絹の帳の如き霧が、彼の手足に纏わりつく様に、執拗に絡んで来る。遥か遠くの闇の中から、微かに馬の嘶き声が聞こえる。まだ、あの男たちは自分を追ってくるのであろうか…。義清（のりきよ）の手には血に塗れ、夜霧に濡れて、不気味な光を鈍く湛えた刃が、固く、固く握られていた。当年十一歳、元服を間近に控えた若者は、この夜、生まれて初めての死の恐怖を体験した。　父・左衛門の尉康清の使いで三井寺附近まで行った帰途、山科辺の山路で、野盗の群れに襲われたのである。相手は五人、味方は供に従えた十四歳になる舎人と、義清の僅か二人であった。屈強な精鋭揃いの賊の一味は、稲妻の如く二人の若者を目掛けて殺到した。昨夜来の雨で弛んだ柔らかな地面を蹴立て突進する、馬上の賊に、習い覚えた得意の矢を射向ける隙が少しもなかった程、それはあっという間の出来事であったのだ。　それでも、二度三度と左右から振り下ろされる白刃を、辛うじて受け止め、僅かに躱し得たのは、二人が年齢の割には、武芸と乗馬の道に練達した、敏捷な若者たちだったからである。しかし勝敗は最初から明らかであった。近くの沼地に追い詰められた舎人が、三人の屈強な賊に殆ど同時に切りつけられ、即死に近い状態で、半ば凍てついた泥水の中に、もんどりうって落ちた。無我夢中で、首領格らしい騎馬の武者と、それに従う熊のような大男とを相手にしていた義清は、従者のこの惨状を、一瞬視線の隅で捉えるのがやっとだった。その時、義清の脳裡を死の戦慄が掠めて行った。そしてまた、その直後、不思議な落ち着きと余裕とが、戻っていた。次の瞬間、義清は手綱を力一杯に引き絞ると、瞬時にして、馬の頭をくるりと後ろに向け、背後に徒歩立ちで追いすがった大男の頭上に、一撃を加えながら、路の脇に続く雑木林の中を目指して、馬を乗り入れたのである。　その後も、どこをどう走ったのか、記憶らしいものが全く残っていなかった。背後で起こった物凄まじい叫び声と耳を聾するかと思われる馬蹄の響き、耳元を掠めていった鋭い矢音、歯の根が合わずにガチガチと鳴っている、口腔と鼻腔に飛び込んでくる、痛いような寒風とが、彼が覚えていることの全てだった。切り立った崖に沿った径を曲がるところで、手綱を握った左手に劇痛が走った。その儘馬から転げ落ち、十メートル程ある小暗い崖下に投げ出されていた。なお執拗に追いすがる野盗の気配を背に感じながら、義清は更に下方に続く急斜面を、懸命に逃げた。走っては転げ、起き上がっては滑り、泥の中に顔を突っ込んでは、飛び起き、木の根に足を取られてはよろめいた。―　激しく鼓動する心臓が口の奥から、飛び出るのではないかと、危ぶまれた。それでも義清は走ることを、逃げることを止めなかった。　今、義清を包み込んでいる夕霧と、不気味な静寂とは、若干十一歳の若者が九死に一生を得、その初々しい生命を全うしていることの証だった。「儂は生きている」　―　茫然自失の裡にも、固く右の掌に握られている太刀に着いた血糊を見詰めていた義清の躯が、朽木が倒れるように、霧の中に沈んでいた…。

神慮に依る　「野辺地ものがたり」

　　　　　　　　　　　第　五十二　回　目　　この雪の白さを眺めるにつけても、桜花の美しさを想わずにはいられない。桜の美しさの基調が純白にあるからだが、その花瓣の白さに目を留めた時初めて、桜の花が蔵（かく）している殆ど無限に近い、豊饒（ほうじょう）な色彩の意味を、正しく理解できるのだ。そしてまた、あの御方の美しさも、桜花にも見紛（みまご）う貴（あ）てにして、妖しい魅力の根源も、この清浄無垢なる色、純白の裡に在ると言える。　永暦元年十二月四日、高野山に美福門院藤原得子の遺骨を、小さな坊に居て傍目ながら迎えた、圓位こと西行の胸中は物狂おしい程に顫（ふる）え戦慄（おのの）いていた。一介の真言の修行僧として、また、名もない世捨て人に自足していた筈の身として、その夜の西行の人知れぬ心の動揺は、極めて奇異、不可思議と言うよりほか言い表し様が無かった。　西行はこの時、四十三歳という人生の円熟期にあり、生涯の心の恋人・美福門院は、この前の月、京にあって逝去していた。　彼が、近くの古本屋で、何気なく手にして買って帰り、先週の日曜日から読み始めた小説『春、死なん！』は以上の様な文章で始まっていた。　区立中学校の教頭で、社会科を担当し、道徳の時間も受け持っている眞木保臣は、永暦元年、西暦に直せば一一六０年当時に四十三歳だった西行と今年、同年齢になる。もっとも昔は満年齢であろうから、正確には自分の方が一歳年長ということになろう。が、厳密なことを言い始めたら、西行の生没年代そのものが推定の域を出ないのだし、この場合正確ということは余り当てにならないのだから、ほぼ同年と言って、一向に差し支えないわけである。詰まらない些細な事にも用心深く、小心な中学校教諭の習性として、彼は心中でそう呟いて、自身を納得させたのである。彼が何故にこの無名な作家の、無名な小説を読む気になったのかは、彼自身にも、よく解らなかった。普段、彼は小説や詩歌などの文学関係の書物に、ついぞ目を通すことの無かった男である。勿論西行法師と呼ばれている著名な歌人の存在は、常識としてのみ承知はしていたのであるが…。　「ねがはくは　花の下にて　春死なん　そのきさらぎの　もち月の頃」　―　この一首だけが彼の頭の中で、西行の名前と一緒に浮かんで来る、唯一のものであった。だから古本屋で偶然手にした本のタイトルが、彼の記憶している西行の和歌の一節だと直ぐにピンと来た訳ではなかった。むしろ「死」という言葉が、最近彼に対して持っている強い吸引力に、引き寄せられただけなのだ。彼も、今年男の厄年を迎えて、躯（からだ）全体の衰えを覚えると同時に、それまでは観念的にのみ捉えて接してきた　死　が、急に身近な、痛切な現実問題として意識され出したのである。突発した腰痛の疼きや肩の違和感、また、久しく忘れていた歯の故障に悩まされる時、「死」の観念が忌まわしい、或る生々しさを伴って、彼の上に重くのしかかって来るのだった。