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女が男の友達になる順序は決まっている。まず最初が親友、次が恋人、最後にやっとただの友だちになるということだ。 結婚するのは、二人とも他に身の振り方がないからである。 人間は好んで自分の病気を話題にする。彼の生活の中で一番面白くないことなのに。 マナーというものは、ソースをテーブルクロスにこぼさないことではなく、誰か別の人がこぼしたとしても気にもとめない、というところにある。 嘘をついても人は信じる。ただし権威をもって語ること。 善人は犬の前でも恥ずかしさを感じることがある。 良き夫になることを約束する。ただし、毎晩は現れない月のような妻がよい。 孤独が怖ければ結婚するな。 祝日を待つように、あなたの回復を待ち望んでくれる人がいるならば、病気になるのも悪くはないものだ。 自らそうであると信じるもの、それで自分自身で幸福な人間が良い気分でいられるのは、不幸な人々が自己の重荷を黙々と担ってくれているからに過ぎない。 芸術家の役割とは問うことで、答えることではない。 孤独な生活をしている人たちは、心の中に何か鬱積したものがあって、機会があればそれを喜んで人に話したがるものである。 愛、友情、尊敬、どれをとっても、共通の憎しみほど人間を団結させるものはない。 千年後にも人間は「ああ、人生はなんというつまらないものだろう!」と嘆き続けるにちがいない。そしてまた同時に、今と全く同じように死を恐れ、死ぬことを嫌がるに違いない。 知識は実践するまで価値がない。 いいかね。もし我々が下の方の階段の助けを借りずに、一足飛びに最上段へ躍り上がる方法を見つけだそうものなら、その長い前段階は我々にとって、一切の意味を失うことになる。こういう不幸な考え方には、何の進歩も、学問も、芸術も、思想そのものすらありえないということを知らねばならないのだよ。 たとえ信仰を持っていなくとも、祈るということはなんとなく気の休まるものである。 飢えた犬は肉しか信じない。 教養ある人間は、他の人格を尊重し、したがって、常に寛大で柔和で腰が低いものである。 女への恋が冷める。恋から解放された感情、安らかな気分、のびのびと安らかな気分、のびのびと安らかな想念。 人間に理性と創造力が与えられているのは、自分に与えられたものを増やすためである。 男とつきあわない女は、だんだん色あせる。女とつきあわない男は、だんだん馬鹿になる。 結婚生活で一番大切なものは忍耐である。 優しい言葉で説得できない人は、いかつい言葉でも説得できない。 男が恋をするなら必ず純潔な相手を選べというのはエゴイズムである。自分にはありもしないものを女性に求めるのは、それは愛ではなく崇拝にすぎない。人間は自らと同等の者を愛すべきだから。 くすぶるな、燃え上がれ。 もし人生をやり直すのだったら、私は結婚しないでしょう。 学問のある人間が大勢集まってあらゆる機械や薬品を考え出したが、いまだに女性が原因で起こる病気の薬を考え出そうとした学者はいない。 愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。 書物の新しいページ、1ページ読むごとに、私はより豊かに、より強く、より高くなっていく。 真の幸福は孤独なくしてはありえない。堕天使が神を裏切ったのは、おそらく天使たちの知らない孤独を望んだために違いない。 人間の目は、失敗して初めて開くものだ。 平らな道でもつまずくことがある。人間の運命もそうしたものだ。神以外に誰も真実を知るものはいないのだから。 僕にとってごく当たり前の出来心であったものが、彼女にとっては人生における大変革になった。 僕の座右の銘 ― 僕は何も必要としない。 共通の憎しみほど人間を団結させるものはない。 誰に打ち明けたらいいのでしょう? 誰に訴えたらいいのでしょう? だれと一緒に喜んだらいいのでしょう? 人間は誰かをしっかりと愛していなければなりません。 一体、私たちはどんな一生を送るのかしらね。私たちって、どうなるの? 小説を読んでみれば陳腐なことばかり書いてあって、みんな分かりきったことばかりのように思えるけれど、いざ自分が恋してみると、はっきりわかるのよ ― 誰も何一つ分かっちゃいないんだってことが。人はそれぞれ、自分のことは自分で解決しなければならないんだってことがね。 文明、進歩、文化と呼ばれている階段をどんどん登って行きなさい。心からお勧めしますよ。でも、どこへいくのかって? 本当のところ、わかりませんが、しかし、その階段のためだけにでも、生きている値打ちはありますよ。 孤独な生活をしている人たちは、心中に何か鬱積したものがあって、機会があればそれを喜んで人に話したがるものである。 老人の厭世主義は外部からひょっこりやってくるのではなく、自分自身の頭脳の奥深いところからくるのだ。散々くるしみ、数え切れないほどの過ちをしでかしたあとで、下から上までの全階段を上り終わった時に、初めてやってくるのだ。 人間は好んで自分の病気を話題にする。彼の生活の中で一番面白くないことなのに。 恋、それは、私の自我が異性の客観に感ずる利己主義的な索引に過ぎない。 すでに生きてしまった一つのの人生が下書きで、もう一つのほうが清書だったらねぇ。そうすれば我々は、なによりもまず自分自身を繰り返さないように努力するでしょうね。 人間に理性と創造力が与えられているのは、自分に賦与されたものを増大するためである。しかし、人間は今日まで破壊するのみで創造した事がない。 人間こそが自分自身の幸福を創り出す。 あなた、手を接吻させてあげたら、今度は肩とおっしゃるでしょう…。 ひょっとしたらこの宇宙は何か怪物の歯の中にあるのかもしれない。 なんという大いなる幸福であろう、愛し、愛されるということは。 すべてを知り、すべてを理解しているのは、愚か者とペテン師だけである。 知識は人生で最も重要で素晴らしく、必要なものである。それは常に愛の高度な発現となり、それひとつだけで人間は自然と自己に打ち勝てるのだ。 書物を前にしては、すべては色あせる。 頼み事なら、金持ちよりも貧乏人にするほうが簡単だ。 死は悍(おぞ)ましいものだが、それでももっと怖しいのは、永遠に生き、決して死なないはずと感じる、あなたの気持ちである。 「結局は、真実が勝利を収める」と言われるが、それは真実ではない。 馬鹿の称賛を受け入れるより」、彼らの前から消えてなくなる方がましだ。 飲み物を渇望するときには海まるごと飲めるとさえ思うが、つまりそれが信仰である。しかし、飲み始めると全部でグラス二杯しかのめないのであって、つまりそれが科学である。 お金のように、人をなだめたり酔わせたりするものはない。たくさん持っていると、世の中が実際より良い場所に見えるものだ。 単純な質問を如才なく解こうとして、非常に複雑化してしまうのは不幸なことだ。我々は単純な解決策を求めるべきである。 私は、結婚すると人々が好奇心を失うのを見てきた。 愛すべき、甘く忘れがたい子供時代よ。なぜ永遠にに失われ取り戻すことのできない時間は、輝き華やいで、実際よりも豊かに見えるのだろうか。 一人暮らしをしている者はうつでも、心の中では何かを進んで分かち合いたいと思っているものだ。 辛い時期にのみ、自らの感情と思考とを使いこなすことがいかに難しいかを理解するようになる。 僕は君、人生が分からない、それで恐れているのです。ひょっとすると、僕は理性を失った病人かも知れない。正常で健康な人は、見たり聞いたりする一切のことを理解しているつもりですが、僕はこの つもり というやつを見事なくしてしまった。 アントン・チェーホフの作品には同時代のトルストイやドストエフスキーとは違い、ただ普通の人物が登場して、かつ事件らしい事件は起こらない。登場人物の内面に起こるドラマに焦点を当て、それを控えめな叙述、詩的な知覚、そして鋭敏な言語感覚によって表現する。これが所謂「チェーホフ的作風」と呼ばれる特徴になっている。 彼は短編小説と何本かの戯曲を書いて、四十四歳の若さで死んでいる。彼がこれらの形式にこだわったのは、物語よりもロシア人そのものを描きたかったからであると思われる。彼ほどロシア人の人間性に拘った作家はいない。そうした人間性は、無論長編小説の形式でも描くことができるが、短編小説や戯曲を通じての方が人間性の典型は描出しやすい。人間性の色々なパターンを限定された形式を通じて、典型的に示すこと、それがチェーホフの狙いだったようである。 彼の作品を通じて浮かび上がってくるロシア人には、一定の共通した特徴がある。男について言えば、己に自信がないために何をやってもうまくいかず、そのために始終自分や周囲の人間を責めているような情けない人間たちである。また、女は、これもまた自分に自信がなくそのために自己というものを持てずに、男にもたれかかって生きているような人間である。 そうした男女をチェーホフはさらりととしたタッチで描く。描いた男女は、彼の同時代人であったが、その同時代人たちがこのように情けない人間ばかりだったことを、チェーホフは批難するような目では見ていない。たしかに、あまり褒められたことではないが、ロシア人のそうした生きかたにも、一定の意味はあるのだ。 それを人はロシア的と言うことができる。よく言われることに、ロシアは半分はヨーロッパだが、もう半分は野蛮だということだ。ロシアは十五世紀くらいまではタタールのくびきの下にあった。そうした歴史はロシア人を自立した方向に働いた。男女ともにロシア人に強く見られる非自立的な傾向は、そうした歴史に根ざしている。この非自立的傾向が、ロシア人の野蛮さの源泉だった。その上に、チェーホフが生まれた頃まで「農奴制」が残っていた。少数の旦那衆と大多数の奴隷からなる社会である。そういう社会では自立的な人間が育つことは殆どない。奴隷が自立した人間になれないのは無論、奴隷の主人も奴隷にその生存を依存する限り、自立することはない。 そうした社会では、成員の殆どすべてが自分というものを持たない卑屈な人間になるほかはないわけだ。チェーホフが描いたのは、そうした人間たちである。
2021年05月29日
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真の紳士は、持てる物をすべて失ったとしても感情を表してはならない。お金はまったく紳士の関心の外にあることであり、気にかける価値もない。 ある社会の文明の発達の度合いは、刑務所に入ってみることでわかる。 楽園は我々一人ひとりの内にあるのです。されは私の内にもあるのです。 人間の後半生は、通常、前半生で蓄積された習慣のみで成り立つ。 人間には、幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。 完全な自由というものは、生きていても生きていなくてもまったく同じになったとき、はじめて得られるものなのです。 苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、常に必然的なものである。 絶望のなかにも焼けつくように強烈な快感があるものだ。ことに自分の進退きわまったみじめな境遇を痛切に意識するときなどはなおさらである。 人は笑い方でわかる。知らない人に初めて会って、その笑顔が気持ちよかったら、それはいい人間と思ってさしつかえない。 左翼は主として無神論の問題である。無神論に現代的な肉付けをした問題である。地上から天に達するためではなく、天を地上へ引き下ろすために、神なくしてたてられたバビロンの塔だ。 一番簡単で、いちばん明白な思想こそが、いちばん理解し難い思想である。 恋の悩みや嫉妬はすべて退屈のなせるわざなのだ。惰性に押し潰されたのだ。 神が存在しないならば私が神である。 希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい。 苦しむこともまた才能の一つである。 金が何よりも卑しく、しかも厭わしいのは、それが人間に才能まで与えるからである。 人類の最も偉大な思考は、意志をパンに変えるということである。 苦痛と恐怖を克服した人間が、神となるのです。そのときにこそ新しい生がはじまる。新しい人間が生まれる。すべてが新しくなるのです。 コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない。 文明のおかげで人間がより残酷になったとはいえないとしても、前よりもより残忍さが醜悪になったことは確かだろう。 人間は卑劣漢として生きていることができないのみならず、卑劣漢として死ぬこともできない。人間は清らかに死なねばならない。 女、女こそ男を完成させる唯一のものである。 金を持っている人間は、貧乏人がそのはかない運命を訴えることを聞くのが大嫌いである。 「私にはその行為に責任があるのだろうか? ないのだろうか?」という疑問が心に浮かんだら、あなたに責任があるのです。 愛のないところには、良識もまた育たない。 思想は感情のなかから生まれる。そしてその思想が人のうちに根をおろすと、今度は新しい感情を形成する。 あの言葉はもちろん、思わず口からこぼれたのだが、思わず言っただけによけい重大なのだ。 夫が妻にとって大事なのは、ただ夫が留守の時だけである。 私は何か善を行おうと思いながら、そこに喜びを感ずることができる。また同時に、悪を行いたいとも思い、そこに喜びを覚えることもできる。 もちろん金は絶対的な力である。と同時に、平等の極致でもある。金の持つ偉大な力は、まさにそこにあるのだ。金はすべての不平等を平等にする。 利口な女と嫉妬深い女とは、おのおの異なった、まったく別個なものである。したがって、どんなに利口な女でも、同時に嫉妬深い女になることができる。 善い人とは、強い人たちのことではなく、誠実な人たちのことである。 人間というものは時として、何にそそのかされて我を押し通すのか、自分でも分からぬことがあるものだ。 思いやりこそは最も重要な、そしておそらくは全人類の唯一の生活規範なのだ。 他人に尊敬されたいのなら、自分自身に敬意を払うことによってのみ、他人はあなたを敬うようになるだろう。 人間には愛がありさえすれば、幸福なんかなくったって生きていけるものである。 真実を語る者は機知のない人間だけである。 みんなのために自発的にいのちを捨てること、みんなのために十字架にのぼり、火刑の火の中に入ることは、個性が最も強度に発達したときに初めてできることである。 問題は時間にあるのではなく、あなた自身にあるのです。 神様が時間を少ししか下さらず、一日に僅か24時間しか割り振ってくださらなかったもんだから、悔い改めることはおろか、十分に眠る暇もありゃしない。 感情は絶対的である。そのうちでも嫉妬はこの世でもっとも絶対的な感情である。 しだいに高くそびえてゆく建物を見る喜びは、たとえ今までのところ、その建物にわずか一粒の砂を運んだに過ぎない人でも、必ずや心の渇きをいやしてくれるはずである。 僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ。 人間的なあつかいをすれば、神の似姿などとうの昔に消えてしまったような人でさえ、人間にすることができる。 女にとっての復活は、あらゆる破滅からの救いと更生は、愛の中にある。 人間は、人間は哀れみなしには生きていけない。 人間というものは、不幸な方だけを並べたてて幸福の方は数えようとしないものなんだ。 人間として最大の美徳は、上手に金をかき集めることである。つまり、どんなことがあっても他人の厄介になるなということだ。 耐え忍べ、働け、祈れ、そして常に希望を持て。これがわたしが全人類に一度に吹き込もうと願っている真理なのです! 幸福は幸福の中にあるのではなく、それを手に入れる過程の中だけにある。 人間にできる唯一のことは、自分自身が精神的に成長することです。 決して一か八かというきわどいところまで進んではいけない。それが夫婦生活の第一の秘訣である。 よき時代は天から降ってくるものではなくて、わたしたちが自分でつくり出すものです。それはわたしたちの心の中にあるものなのですよ。 理想主義者と現実主義者は、彼らが誠実で寛容でありさえすれば、その本質はおなじく、人類への愛であり、その対象はおなじ人間であり、違っているのは、対象を表示する形式ばかりである。 他人に対してもっとやさしく、もっと気を使い、もっと愛情を持つことです。他人のために自分を忘れること、そうすればその人たちはあなたを思い出してくれます。 人間という奴はいつでも、人に騙されるよりは自分で自分に嘘をつきたがるものなのだ。そして、無論、人の嘘より自分の嘘の方を余計に信じるのだ。 神と悪魔が戦っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ。 新しい一歩を踏み出すことは、新しい言葉を発することは、人々が最も恐れることである。 人生は苦痛であり恐怖である。だから人間は不幸なのだ。だが今では人間は人生を愛している。それは苦痛と恐怖を愛するからだ。 苦痛こそ生活なのだ。苦痛がなければ、いったい人生にどんな快楽があろう。 一杯の茶を飲めば、世界なんか破滅したって、それでいいのさ。 青春は、それが青春という理由だけで、もう清らかなのです。 自分は目のまえに立っている犯罪者とまったくおなじような罪人である。いや、自分こそ、目のまえに立っている。人間の犯罪に対して、だれよりもさきに重い罪があるのだと、みずから認識しないかぎり、この地上に犯罪者を裁くことのできる者は存在しないのだ。 金こそは、取るに足らぬ人物を第一級の地位に導いてくれる唯一の道だある。 そうだ、僕のまわりには小鳥だの、木々だの、草原だの、大空だのと、こんなにも神の栄光があふれていたのに、僕だけが恥辱の中で暮らし、一人であらゆるものを汚し、美にも栄光にも全く気づかずにいたのだ。 本当の真実というものはいつでも真実らしくないものだ。真実をより真実らしく見せるためには、どうしてもそれに嘘を混ぜる必要がある。だから人間はつねにそうしてきたものだ。 人生で何より難しいのは、嘘をつかずに生きることだ。そして、自分自身の嘘を信じないことだ。 地獄とは何か、それはもはや愛せないという苦しみだ。 「人類に対する愛」という言葉は、自分が心の中でつくりあげた人類に対する、つまり己に対する愛である。 誰も彼もがお前を見捨て、もう力ずくでもお前を追い払おうとしたら、そのときはひとりきりになって、大地にひれ伏し、大地に接吻し、大地をお前の涙でぬらしなさい。 思想は常に人間よりも現実的である。 あらゆる堕落の中で最も軽蔑すべきものは、他人の首にぶらさがることだ。 夫婦や恋人同士の問題に決して口をだしてはいけない。そこには世間の誰にも分からない、二人だけしか知らない一隅があるのだから。 人が子供を持つのは、たとえ自分は死んでも、子供たちが生涯自分の感情や考えを持ち続けてくれるからさ。 謙虚な愛は、暴虐よりもずっと効果の多い怖しい力である。 愛情に満ちあふれた心には、悲しみもまた多いものである。 良心の自由ほど魅惑的なものはないけれど、またこれほど苦しいものはないのだ。 太陽におなりなさい。そうすれば、誰もがあなたを仰ぎ見ることでしょう。 人間が不幸なのは、自分が幸福であることをしらないからだ。ただそれだけの理由なのだ。 ほんとうに人間はだれでも、すべての人に対し、すべてのことに対して罪があるのです。人びとはただそれを知らないだけです。 娘の恋は母親にとっては死である。 神がいなければ、すべてが許される。 もし他に方法がなければ乞食になってもいい。しかも乞食になったらその日から、手に入ったお金は自分のためにも、家族のためにも、無駄なことに絶対に浪費しないという徹底的な粘り強さ、これさえあれば、人間は誰でも金持ちになれるもの。 幼年時代のおもいでから得た神聖な貴重なものなしには、人間は生きてゆくこともできない。 人間は従順な動物であるもことある。どんなことにも馴れてしまう存在である。 自分も生き、他人も生かすようにする。 金は鋳造された自由である。 どうか偶然なんてことをあてにしないでください。偶然のない人生というものもあるのですから。 娘が自分で惚れた男というものは、父親の目にはいつだって一番つまらない男に見えるものだ。 ドストエフスキーはある意味でわたしが一番夢中になれた、怖しい程の魅力を持った作家です。テレビドラマのプロデューサーとして日本の社会に置き換えて作品化したい原作が山のようにありましたが、わたしにそのチャンスが恵まれずに終わってしまいました。慙愧の念に堪えません。次の世が与えられるなら、悦子との再開が邪魔されないという条件で、トライしたいと密かに取らぬ狸の皮算用を目論んでいる次第です。
2021年05月19日
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人の批判を気にするのなら、ものの道理が見通せる人からの批判を気にするべきだ。 仏道を学ぶ人は人情を捨てるべきだ。これがよい、あれが悪いと考えるのをやめて、仏祖の言われたことにただ従うのがよい。 人は必ず陰徳(人に知られないようにしてする、よい行い)を修(おさ)めなければならないい。心のうちに信仰心を持って徳を積めば、必ず目に見える幸せをいただくことができる。 学道の心得は、先入観を捨てることである。 学道の人は、ものを言う前に三度考えて、自分のためにも他人のためにも有益となることなら言うのがよい。 たとい自分が道理にかなったことを言って相手が間違ったことを言ったとしても、理屈で攻め立てて相手に勝つことはよくないこと。相手を言い負かしもせず、自分が間違いだとも言わず、何事もなかったようにそのままやめるのがよい。 ただなごやかな顔つきで、すべてのことに接することが大切である。 すべての事象は不変ではないと実感したとき、自我にとらわれる心は生じない。 如来の正法が三千世界に流布し、仏の教えが完全に滅したわけではない、今この時、急ぎ修学すべきであり、怠ってはならない。 そもそも仏法というものは、最初に指導者について初めて聞いた事と、究極の成果とが等しいのである、これを終始一貫といい、妙因妙果(真実が真実になる)仏因仏果(仏が仏になる)という。 諸仏とは天神にようなものだ。天神には色々あるが天神は諸仏ではない。 衆善(多くの善事)は有でもなく、色でもなく空でもない。ただ奉行(上の命を承り事を執り行う事)であるのみ。 衆善は因縁によって生じるものでもなく、因縁によって消滅するものでもない。 衆善奉行(諸々の善を行う)。この 衆善 は三性(人の性の善性、悪性、及び膳でも悪でもない中世の無記)のうちの善性である。善性の中に諸々の善はあるが、その最初からこれが善だと分かっていても、それを実践してくれる人を待っているような善はない。 善悪因果のままに修行するのである。因果を動かすでもなく、手を加えるでもない。場合によっては、因果の方が我々を修行させてくれるのである。 我が心、我が身体を尽くして修行に励めば、機の熟せぬうちに八、九割の悟りが得られている。それが莫作(まくさ、悪をしてはならない、という意味)の力である。 最高の悟りが説法をし、それを我々が聞くことによって 諸悪莫作 と願い、諸悪莫作と願い、諸悪莫作と実践する。そうするといつしか諸悪が創られなくなる。そうなるところに修行の力があるのである。この修行の力の実現は、あらゆる場所、あらゆる世界、あらゆる時、あらゆる事物にわたって実現するのだが、その力こそが 莫作 の力である。 古仏が言われた、「諸々の悪をなすことなかれ、諸々の善を行え、自らの意を浄くせよ、これが諸仏のおしえである」と。 死の中に生があり、生の中に死がある。死者が常に死者であることもあり、生者が常に生者である事もある。これは人間が無理にそうさせているのではなく、法がそうさせているのである。 無上菩薩(最も勝れた菩薩の事)が人間の相となって現れている時を仏という。仏が無上菩提(最高の悟り)の状態にある時を無上菩提という。 悟る以前のあれこれの思いを力として悟りが表出するのであれば、その悟りはあまりにも頼もしくない。悟る以前のものを力としないで、悟りの方からやってくるのであって、悟りはただ一筋に悟りの力によって成るべきものなのである。迷いはないものと知るべきである、と同時に悟りもないと知るべきである。 仏法は人が知ることのできるものではない。 仏性は生きているあいだだけであって、死ねばなくなると思うのは、理解が足りていないのである。生の時も有仏性であり、無仏性である。死の時も有仏性である。 師は言った莫妄想と。その言いたいところは何か。妄想するのではないということである。 「仏性の義を知らんと欲(おも)わば」というのは、ただ知るだけではない、行ぜんと思わば、証せんと思わば、説かんと思わばということである。これらの説・行・証・忘・錯(誤り)、不錯等も仏性のその時々のあり方である。 仏は言われた、「仏性の義を知らんと欲せば、まさに時節因縁を観ずべし。時節もし至れば、仏性は現前す」と。 釈迦牟尼仏は言われた。一切の衆生は悉く仏性を有す、如来は常住にして、変易有ることなし。 仏祖の言葉ですら、あれもこれもと多方面に学ぶべきではない。 常に袈裟をかけて坐禅すべきである。袈裟は来々世に得度できるといった先例もある。袈裟は三世の諸仏の衣であってその功徳は量り知れない。坐禅はこの三界(欲界・色界・無色界。又は、過去・現在・未来の三世界)の法ではなく、仏祖の法である。 目の前に闇が迫ってきたら、たゆまず励みて三帰依(仏と法と僧のこと)を唱えたてまつることを、中有(ちゅうう、中陰ともいう。有情・人間を含めた一切の動物 が次の世に生を受ける刹那、生有・しょうう までの時期における幽体とでもいうべきもの が生と死を繰り返し流転する過程を四有・四種の生存に分けて、前世の死の瞬間・死有・しう から次の世に生をうける刹那・生有・しょうう までの時期における幽体とでもいうべきもの。又は、そのような状態である期間を言う)になっても次の生になっても怠ってはいけない。 一つの事に専心する事すら、生れつき劣っている素質のものは、その生きているうちに、窮めるは難しい。悟りの道を学ぶ者は専心にしなくてはならない。 自分自身はこの世が儚いと考えていると思ってはならない。しっかりした覚悟を持ち、仏法を重くし、わが身、わが命を軽くすべし。仏法の為には身も心も惜しんではならない。 仏道を求めようとすれば、まず道心を持つべきである。しかし道心のあり方を知っている人は稀である。詳しい人に問うがよい。 言葉や文章はどうであれ、思うままの理を書いたのであれば、後の人が読んで悪文だと思っても意味が通ずるなら道の為には大切なことだ。 この生死は即ち仏の御命である。これを捨てんとすれば、即ち仏の御命を失うことになる。 生から死に移る考えは誤りである。生は一時のあり方であり先があり後がある。 姿が粗末な人であっても、人の痛みの心を発すれば全ての人の導き手である。 生死の中に仏あれば生死なし。また言う、生死の中に仏なければ生死に惑わない。 徳のある人は讃えるべき。徳無き人は憐れむべし。敵を説き伏せ、権力者同士を和解させて争いを回避させるのも、慈愛のことばが根本である。 人は死んだのち再び生にはならない。だから仏教的な表現において死となったと言ってはいけないのである。それ故に不生と言う。死が生になると表現しないのが仏教の表現である。それ故に不滅と言う。生も死も一時的な在り方である。 徳のない人は、他人から少しでも乱暴な言葉でいわれると、すぐにはらを立て、恥をかかされたと思うものである。徳のある人は、そうではない。たとえ、打たれたとしても、仕返しなどは考えない。国中に小人はたくさんいる。気をつけなくてはいけない。 仏の道を学ぶということは自己を学ぶことである。自己を学ぶということは自己を忘れるということである。自己を忘れるということは悟りの世界に目覚めさせられることである。悟りの世界に目覚めさせられるということは自己および他己を脱落させることである。悟りの痕跡を残してはいけない。しかも痕跡なき悟りを長時間にわたって保持し続けるのだ。 自分から悟りの世界に近づいて行こうとするのは迷いであり、悟りの方から自分を目覚めさせてくれるのが悟り。 道は無窮、悟っても、なお修行しなくてはならぬ。 仏道はどこまで到達すれば合格不合格といったようなものではないが、やはり歩んでいるときには生と死、迷いと悟り、衆生と仏の差が気になるもの。 道を学ぶ者は、たとえ道心がなくても、立派な人になるべく近づき、善い機会に巡り合うようにし、同じ事を何度も何度も聞いたり見たりするのが良い。 我々が仏教を学ぼうとしてこの世を眺めるなら、迷いと悟りがあり、生があり死があり、悟りを開いた仏が居て衆生がいる。しかし私がこのちっぽけな自我意識を捨ててしまった時、この世界には迷いも衆生もなく、生もなく死もない。 修行と悟りは別々のものでなく一体である。 自我を自らを縛っているものから解き放たれる。 道元は 入宋伝法沙門道元 と自称した。自分は仏法そのものを伝承し、空手にして鄕へ帰って来たという自覚の表明であると共に、「身心脱落、脱落身心」において現成する 蓋天蓋地の自己本来の面目を表明している。その仏法を何とかして後人に伝えたい。そうした伝法の使命感から書かれたのが「正法眼蔵」である。正とは正直、偏邪でないこと。偏邪でないとは、一心一切法と言うことであり、高下平等であって、佛にあっても増さず、衆生にあっても減らないという事。法とは法則であり、万代不易である。眼とは能照であり、正法で全てを照らすという意味。蔵とは含蔵という事。 要するに正法眼蔵とは、正法・仏法を眼と蔵という仕方で開明しているのだ。「尽十方世界は沙門の眼」という事であり、仏法の骨髄たる 覚り のことである。
2021年05月10日
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