全8件 (8件中 1-8件目)
1
J M C のオフィス (深夜) ガランとした部屋。 自分のデスクにうつ伏せになり、仮眠を取っている一太郎。突然、電話が鳴った。ガバッと撥ね起きて電話を手に取る一太郎。一太郎 はいッ……、何だ、間違い電話か。 (デスクの上に置いた侭の自分の携帯電話に視線を遣り、しばし思案する) ―― 時間経過 ―― 誰もいない部屋に一太郎だけが居る。深夜である。仮眠を取ろうとするが、眠れない。時々、デスクの上の携帯に目を向ける。まだ、迷っている。 最寄りの 駅 (翌日 の夜) 睡眠不足と疲労とで憔悴した表情の一太郎が出て来る。 住宅街の通り (数分後) 重い足取りで歩く一太郎の足が止まった。見ると正装した桜子が角を曲がろうとしている。ハッとなる一太郎。 桜子の後を追う。 表通り 先を行く桜子が手を挙げてタクシーを止め、乗り込んだ。続いてやって来たタクシーに、一太郎 済みません、あの先を行くタクシーの跡を追いかけて下さい。運転士 はい、畏まりました。 一太郎の表情が固い。運転士 失礼ですが、お客さんは興信所の関係の方でしょうか。近頃に始まった事ではありませんが、増えているそうですね、つまり、人妻の火遊び、ですか…。こう言う稼業をしていますと、たまにですが、明らかに水商売の女性ではない素っ堅気の女性から誘われることがあるのです。私、お金がないので身体で払うわってね、本当なんですよ。 一太郎は無言である。 先行するタクシーから降りる桜子。続いて、少し手前でタクシーを降りる一太郎。 暗い道 先を急ぐ桜子を追う一太郎の緊張した顔。 メイクした桜子の顔は息を飲むほどに美しい。 神社の境内 拝殿の前で、一心に祈りを捧げる桜子。 桜子の祈り「夫が、一太郎がセールスの仕事で成功致しますように、心よりお願い申し上げます」 離れた所から妻の姿を見守る一太郎。言葉は聞こえなくとも、彼女が何を神に祈願しているかは、ストレートに伝わって来る。一太郎の見た目の桜子の姿が、涙で滲んで、霞む…。 郊外の駅 (数日後) 列車から降りて来る一太郎。一太郎のモノローグ「次の日曜日、私は娘の美雪が働く果樹園農家を訪れた」 道 地図を見ながら、山の方に向かう一太郎。 果樹園 農家の主人から指導を受けて、真剣そのものの表情で作業に打ち込む美雪の姿がある。 少女に案内されてやって来た一太郎が足を止め、働く娘の姿にしばし見入る。一太郎 …… その顔に満足気な笑みが浮かぶ。 サッカー場 観客席に一太郎と二男・正次の楽しそうな姿がある。一太郎のモノローグ「次の日曜日にも、私は家族の一人と正面から向き合う時間を持った」正次 ナイスシュート! あッ、外れたか…、残念。 父親の一太郎もゲームの内容に惹き込まれ、次第に息子以上に熱中している。 日本家・台所 (別の日) エプロン掛けした一太郎が慣れない手つきで包丁を持ち、料理をしている。その表情はかなり真剣だ。 同 ・ 二階の健太の部屋 ドアをノックして、一太郎が入って来た。一太郎 母さんから、カレーライスが好物だって聞いたので、作ってみたんだ。 ベッドの上に横になっていた健太がやおら起き上がり、少しムッとした表情ではあるが、父親の差し出したカレーの皿を受け取った。一太郎 あまり自信はないけれど、食べてみてくれないか。健太 うん、…… (と、一口食べた後で、二口、三口とスプーンを口に運んだ) 旨いよ、有難う。一太郎 そうか、それは良かった。あッ、今、冷たい水を持って来るからナ。 子供のようにウキウキとしている。一太郎のモノローグ「日曜や休日を使っての家族奉仕の時間は、少しばかり効果を発揮したのだが――」 ゴルフ場・コース (別の日) 得意先のお伴で、一日キャディ役を買って出た一太郎が、汗だくでサービスにこれ努めている。一太郎のモノローグ「仕事の方は、あまり捗(はか)ばかしい兆しは見えないのだった」 パットが決まらずに不機嫌な重役に対して、不器用な一太郎は臨機応変な対応が出来ずに困り抜いている。 別の会社の 重役宅 (別の日) 祝日に得意先の重役の自宅に出掛け、無料奉仕で庭木の手入れを買って出た一太郎。重役 日本君、本当に大丈夫だろうね。 脚立の上に乗り、植木鋏を使っている一太郎が、元気よく答える。一太郎 これでも若い頃には、植木職の見習いをしたことがあるのです。重役 ほう、するとプロの腕を持っているのだ、君は。一太郎 昔取った杵柄と、言いたい所なのですが、実は半年程で馘首(クビ)になりまして…。重役 えっ、半年でクビ!? (とても不安げある) J M C オフィス (朝) 遅れて出社して来た一太郎の顔を見るなり、課長が声を掛けてきた。課長 遅刻だよ君、さっきから部長がお待ちだ。 即座に、部長の所に行く一太郎。一太郎 部長、遅くなりまして申し訳ありません、お得意様に直行したものですから。部長 この方のオフィスを訪ねて見てくれ給え。社長の知り合いで、業界では セールスの神様 と異名を取るくらいの、凄い女性だそうだ。 と、一枚の名刺を手渡した。一太郎 畏まりました。 一太郎が名刺を見ると、『 南亜 モーター 販売・営業担当 新谷 春子 』とだけ印刷されている。一太郎 部長、この方をお訪ねして、一体何を致したら宜しいので…?部長 兎に角、行ってみ給え。行けば分かるようになっているから。一太郎 はい。 南亜モーター販売・研修室 三十歳を少し過ぎたばかりと思われる年若い女性、新谷春子と一太郎が二人きりで、少し広めの研修室に居る。春子 最初にも申し上げました様に、営業には極意とか、奥の手と言った、何か特別な物、秘密めかしたものは何も無いと、私は思っております。一太郎 でも、私のように何時までたっても上達しない者と、貴女様の様にお若いのに、名人と称される人が出て来る。それは一体どのような理由に依るのでしょうか、是非、そこの所をお教え願いたいのですが。春子 (優しい微笑みを浮かべながら)商売には必ず、人と人との交流が介在します。商品やサービスを提供する側と、それを受け取る側とです。(傍らのホワイトボードに随時板書しながら)売り手である私達セールスマンは徹頭徹尾お客様と真正面から向き合う努力が求められています。誠心誠意、お客様の心を汲み取り、受け取り、全面的に受け入れる。セールスマンに秘訣があるとすれば、以上の事に尽きるのだと、私は思っております。一太郎 しかし、商品をしっかりと売らなければなりませんね。春子 勿論です。一太郎 商品を売って「なんぼ」の世界ですね。春子 仰る通りですわ。私も最初の頃は、つまり商品を売る事しか頭にありませんでした。一太郎 はい……春子 商品を首尾よく売ると言うのは、飽くまでも結果です。商品を売ろう売ろうと焦りますと、その事だけに意識が集中してしまいます。売り手の努力が空回りして、お客様の心が何時の間にか離れてしまう事になってしまう。一太郎 (思い当たる節が大いに有る) はい、その通りだと思います。春子 一般論で考えてみましても、目標と言うものは、そうですねえ、目標を、夢と置き換えてみるのも良いかも知れませんね。目標とか夢と呼ばれる物は、現在・只今の行動をより良く、よりスムーズに推し進め、又自分の意欲やモチベーションを高める為の、謂わば 梃子 の支点の役割を果たすものです。その支点の為に現在の行動が邪魔されたり、意欲が阻害されたりするならば、その様な目標や夢は、無い方がずっと良いことになってしまいますね。 一太郎、大きく頷いている。一太郎 お客の心を掴む事だけに意識を集中させる事が、何よりも大切なのですね。春子 (ニッコリとして) その通りです。 ―― 時間経過 ―― 新谷春子の指導で、営業販売のロールプレイの演習が実施されている。 少し離れた場所からメモを取りながら熱心にオブザーブしている一太郎が居る。 ―― 時間経過 ―― 演習終了後のフィードバックの意見交換が、春子を中心に行われている。一太郎の順番である。一太郎 皆さんの真摯な講習を拝見させていただき、感動致して居ります。これからも学ばなければならない事柄、反省しなければならない点、様々あると気付きました。本当に、本日は貴重な体験をさせて頂きました。 (深々と頭を下げる一太郎である)
2021年09月28日
コメント(0)
いつもの ジョギング・コース (早朝) 雨の中を、一人黙々と走る一太郎。 厳しいが、決して暗くはない、固い決意の憶いが一太郎の表情に浮かんでいる。 J M C 前の廊下女社長 日本さん、一寸。 (大きな声である) と、出勤して来た一太郎を呼び止めた。叱られるのかと、ぎくりとする一太郎。社長 H 社の専務さんにお会いした時、日本さんの事が話題になったのです。一太郎 ハイ… (蚊の鳴くような弱々しい声)社長 色々と大変な事が多いでしょうが、頑張って下さいね。 それだけ言うと、くるりと背を向けて去って行く。 一太郎は、怪訝な面持ちで見送っていたが、固まっていた表情が自然と崩れ、笑顔になった。 会社の オフィス 一太郎が自分のデスクで外出の準備をしている。課長 日本君、部長がお呼びだ。 と後から声を掛けた。一太郎は弾かれたように席を立つと、部長のデスクに向かう。一太郎 部長、お呼びでしょうか?部長 社長がね、どういうわけか君に甘くてね、もう少し時間を与えてやれと、仰るんだが。私としては我慢の限界なんだよ。君の働きでは、つまり給料の半分にも足りないのだよ。分かってるね、根性を入れ直して頑張ってくれたまえ。一太郎 申し訳も御座いません。 ( 深々と頭を下げるしか仕方がないのだ ) 商店街 活気のない、寂れた通りを、一太郎が行く。くたびれた表情で立ち止まり、ぼんやりとトイ類を眺めている一太郎に、玩具店の店主が声を掛けて来た。店主 まあ、こちらにお入りなさい…、今、お茶でも差し上げましょう。一太郎 あッ、これはどうも…、恐縮です。店主 昨今じゃ、ご覧の通り、この界隈もすっかり寂れてしまいました。一太郎 本当に、我々庶民には暮らしにくい世の中になりました。店主 うちも親父の代から細々と商売をしていますが、いつ何時店仕舞いすることになるのか。本当に淋しい限りです。一太郎 (近くのオモチャを手に取って)子供の時分には、夢で胸が膨らむ思いがしたもんです。たとえお腹を空かしている場合でも、です。店主 夢だけでは誰も生活して行くことは出来ないってね、うちの親父はよく、子供には夢や希望がコメの飯以上に必要なんだ、って、そう口癖の様に言ってましたが。一太郎 夢と希望、ですか。あっ、これはとんだお邪魔を致しました。お蔭で疲れが吹き飛びました。 ( さっきとは別人のように元気な足取りで、店を出る ) ホテルの ラウンジ・コーナー (別の日) 急ぎ足でやって来た一太郎。 目で誰かを探していたが、隅の席に向かい合って座っていたひと組の男女に視線を止めた。つかつかとその隅の席に近づき、一太郎 好子さん、遅れて済みません。 と、中年の女性の隣りに腰を下ろした。吃驚する二人。一太郎 好子さん、この封筒はハンドバッグに戻して下さい。 とテーブルの上に出されたばかりの分厚い封筒を手に取り、女性の両手に握らせた。男 君、失礼にも程があるじゃないか! (怒りで、全身を震わせている) 周囲の視線が、一斉に三人に向けられている。一太郎 (相手を威圧するような落ち着き払った態度で、しかも低声で) 静かに、大きな声を出すと、貴君の為になりませんよ。今、所轄のお巡りさん達が此処に向かっている途中です。早くこの場を立ち去らないと、どんな事になるかは、貴君自身がよく御承知の事柄ですネ。男 失敬な! 北大路さん、改めてご連絡します……。 顔色を変えた男が、ほうほうの体で、退散して行った。北大路好子 日本さん、御親切にどうも有難う。でも、どうして分ったの、私達が此処の場所にいるって事が。一太郎 以前にも、此処であの男と会われているのを、数回お見掛けしていましたので。さっき御社に伺いました折に、後輩の方から気になる事を耳にしましたので、こんな事ではなかろうかと……。好子 じゃあ、さっきの警察の話は ――一太郎 ええ、嘘です。口からでまかせです。私なりに一生懸命でしたから。 急に、大粒の涙を流す好子。好子 私だって、男の人から「綺麗だ」って、一生に一度でいいから言われてみたかった。夢よ、憧れよ、乙女チックで、いえいえ、子供じみた感情だわ。自分でも、そう思うのだけれど…。一太郎 ――好子 私、知ってたよ。全部が全部ウソだって、結婚詐欺だってこと。でも私バカだから、それでもいいと思ったの。お金なんか、いくら貯金してたって、私の為に、何もしてくれはしないもの……。一太郎 (言葉もなく頷く) ……。 大衆演劇の劇場・場内 (別の日) 赤や青などの原色のスポットライトが点滅する場内では、劇団の花形・早乙女誠也の華麗な日舞が演じられており、独特な熱気に包まれている。その舞台に近い席に、お得意先の女性副社長を招待した一太郎がいる。一太郎 如何ですか、お気に召しましたでしょうか? (隣の席に居る副社長の耳元に囁いた)副社長 予想外に楽しいです。 少女のように上気し、興奮している。一太郎 良かった……。(満足げである) 同 ・ 表 公演を終えた座員達が総出で観客を見送っている。副社長も先客を見習って、花形に握手を求め、子供の様にはしゃいでいる。副社長 日本さん、是非もう一度ここへ連れて来てくださいね。一太郎 はい、畏まりました。 満面の笑顔である。 町の 食堂 (夕方) 一人で少し早めの食事をしている一太郎に、店員が声を掛けた。店員 お客さん、今日は何か嬉しいことがあったみたいですね。一太郎 うん、でも、どうして分ったの。店員 うちみたいなちっぽけな店でも、商売は商売ですから、お客さんの事っていつも気になるのです。たとえ一回限りの一見(いちげん)さんでもです。一太郎 そういうものですか。店員 況(ま)してお客さんの場合は常連さんですから特別に。一太郎 有難う、気が向いた時にしか来ないのに…。 カウンターの中のマスターを気遣いながら、店員 俺ですね、早く料理の腕を磨いて、値段は安いけれど、飛び切り味がよいと言われるような、自分の店を持つのが目標なんです。一太郎 成程、大きな夢が有るんだ。店員 ちっぽけな、だけど俺にとっては大切な、人生の目標なんですよ。 その時、新しい客が入って来た。鬼田幸三である。鬼田 何だ、日本君、随分としけた所で、実にささやかな夕食ですね。 店員が露骨に嫌な顔をするのにも、全く意に介さない、横柄な態度である。鬼田 ビールを呉れ。 と、一太郎の隣の席にどかりと腰を下ろした。一太郎 お疲れ様です。 涼しい顔をしていると、ムカッとした口調で鬼田はなおも絡んで来た。鬼田 大体、あんたの女房が気に喰わないね、貞女ズラして…。少しぐらい別嬪だからって、鼻にかけやがって…。一太郎 妻の悪口は止めて下さい。 静かだが強い口調に、一瞬ギクリとするが、更に絡んで来る鬼田、鬼田 第一、亭主のあんたがだらしがないよな。おい、ビールを呉れ。 と催促して、出されたビールを一気に呷った後で、鬼田 どう、一杯、僕が奢るからさ。一太郎 まだこの後で営業の仕事なので、遠慮します。鬼田 ちぇっ! バカじゃないの、あんた。亭主が謹厳実直に、模範社員を絵に描いたように仕事している隙に、自慢の美人の奥さんが、他の男と浮気してるってね。一太郎 止せって言った筈だ。 キッと向き直った一太郎の迫力に、タジタジとなる鬼田だが、余程虫の居所が悪いのか、鬼田 暴力はよせよ、暴力は。僕の言いたかったのは、男には甲斐性というものが必要だと言う事。ただ、君のように馬車馬の如くに仕事、仕事って働くだけが能じゃないだろうって言いたいの。時には女遊びや浮気の一つも出来ないようじゃ、肝心の営業の成績だって、伸びやしないって事を言いたの。一太郎 御忠告有難う。 勘定を済ませて出て行く。呆然と見送っていた鬼田が、突然大声を挙げて泣き出した。鬼田 畜生! 夫婦で、この俺様をコケにしやがって…。 (と、地団駄を踏んでいる) 日本家・リビング (深夜) 一太郎が玄関から入って来て灯りを点けると、桜子が一人でテーブルの前に座っていた。一太郎 なんだ、まだ寝ていないのか。桜子 …… (浮かない表情である)一太郎 何か心配事でも?桜子 いえ、特別のことではないのだけれど―一太郎 さっきの電話で話した件なの。桜子 男同士の付き合いに口を挟むなと、貴男は仰るけれど、鬼田さんだけは…。一太郎 口は確かに悪いが、根っからの善人なのだ、あの人。桜子 そうかしら。一太郎 そうかしらって、君は僕の言うことが信じられないのかい。桜子 そうじゃありません。唯、鬼田さんの件だけは考えを変えて頂きたいの。一太郎 諄(くど)いよ(珍しく、イライラしている)、君はそうして、僕のことを一から十まで全部支配しようとすのだ。結構、腹黒いんだから。桜子 まあ、腹黒いですって。あんまりだわ。(涙ぐんでいる) 一太郎は一旦置いたカバンを手に持つと、一太郎 二、三日は会社の方で寝泊りするから…。 と、再び家を出て行った。一太郎のモノローグ「自称ライバルの鬼田幸三が妻の桜子にスオーカー行為を繰り返し、挙句に桜子から手酷い肘鉄砲を喰らった経緯を知ったのは、大分時間が経ってからの事だった」
2021年09月25日
コメント(0)
郊外にある私鉄の駅 夜 (一太郎の回想 続き) 改札の近くで、棒の如く硬直して立つ一太郎の姿がある。勤め帰りの桜子(野暮なメガネを掛け、地味な服装である)が大勢の乗客達に混じってやって来る。一太郎、ピクリとする。声を掛けようと焦るが、声が出ない。一太郎には気付かずに通り過ぎて行く桜子。一太郎のモノローグ「数日前に偶然、最寄りの駅で幼馴染の桜子の姿を見掛けた……」 夜の道 (回想続き) 急ぎ足で桜子の後を追って来る一太郎。体中が極度の緊張状態である。「あの、失礼ですが―」と声を掛けた。恐る恐る後ろを振り返り、桜子 貴方は……。一太郎 えェ、一太郎です。日本一太郎です。お久しぶりです。 夜の公園 (回想 続き) ベンチの両端にぎこちなく座る一太郎と桜子の二人。桜子 あの、折り入ってのお話と言うのは……。一太郎 (殆ど固まっている) はい。 頻りに腕時計に目を遣っていた桜子が、遂に痺れを切らした様に立ち上がり、軽く会釈しながら立ち去ろうとした。その後ろ姿に、それまで後ろ手にしていたバラの花一輪をぎこちなく前に突き出して、一太郎 僕と、ボクと結婚して下さい。 ゆっくりと立ち止まった桜子は無言である。一太郎 貴女を幸せにします。いえ、嘘です、正直に言います。貴女と結婚して、ボク自身が幸福になりたいのです。 後ろ向きの桜子の肩が小刻みに震えている。―― 諦めて、その場を去ろうとする一太郎。桜子 あの……、待って下さい。 元の 料理研究家の家・リビング 姉と弟が楽しげに談笑し、一太郎も幸福感に包まれている。弟 このシャツもズボンも、まるで誂えたように僕にピッタリなんだけど。姉 当然でしょ、遊ちゃんの為に私が前々から買い置きしていたんですもの。遊太郎 何だ、僕用だったのか、道理で…、姉さん、有難う、本当に有難う。 アパートの一室 (一太郎の 回想) 老朽化した狭い一 D K の部屋。過労で寝込んでしまった一太郎を徹夜で甲斐甲斐しく看病する桜子。桜子の方も疲れでかなり窶れている。一太郎のモノローグ「プロポーズを O K して貰ったのはラッキーそのものでしたが、新婚時代から妻には苦労のかけっぱなしで、貧乏生活の連続。我ながら不甲斐ない有様でした」 ドアをノックする音。桜子が戸を開けると、アパートの大家さんが両腕に野菜や米などを一杯に抱えている。大家 これ、うちの田舎から送って来たので、よかったら使ってくださいな。桜子 お家賃の方、何ヶ月分も滞納していますのに……。大家 困っている時にはお互い様です。一太郎さんには随分と以前から親切にして貰い、子供達もお世話になっています。一太郎さん、底抜けのお人好しで、この近所では評判なんですよ、奥さん。 その一太郎も布団から半身を起こして、頭を下げている。大家さんは、「その儘、その儘」と手で制した後で、最後に、「これ、家内の着古しで恐縮なのですが」と、衣類を包んだ風呂敷包を置いて行った。 料理研究家の家 の玄関一太郎 とんだ御馳走にあずかりまして…。姉 滅相も御座いません。こちらこそ大変な御恩を被りまして、お礼の申しようも御座いません。今後共に宜しくお願い申し上げます。遊ちゃん――。(と、弟を見返り促す)遊太郎 今日の事は一生恩に着ます。心を入れ替えて、また一から出直す積りです。「と、一太郎の手を固く握った)一太郎 お互いに頑張りましょう! 川沿いの道 (夕方) やって来た一太郎、ふと立ち止まり、草の上に腰を下ろす。一太郎 自分にセールス・ナンバーワンになる才能があるのだろうか…… (自信なさげに呟いた) J M C の会議室 (面接シーン の 回想) 社長(女性)、部長、課長の三人が一太郎を相手に入社面接をしている。進行役の課長が一太郎の履歴書の写しを社長と部長に渡す。課長 随分と転職されているようですが。一太郎 はい……。部長 理由は! こんなに何度も職を変えているワケは、一体何なの、君。一太郎 色々な理由があります。まあ、ケース・バイ・ケースです。課長 それにしても、多過ぎはしませんか。一太郎 はい…… (顔を伏せ、しかし上目遣いに無言の女社長の様子を窺う)社長 …… (静かに一太郎を凝視している) 日本家のダイニング・キッチン 桜子が夕方の買い物から帰って来る。テーブルの上に置かれた一通の手紙。何気なく開いて中を読む桜子。 手紙「お母さん、御心配をおかけしますが、自分なりに熟慮に熟慮を重ねた結果ですので、お許し下さい」 郊外を走る列車 その窓際の席で、窓の外にぼんやりと視線を向けている娘の美雪の姿がある。美雪の声「何の原因も見当たらないのですが、一種のスランプだと考えました。知り合いの実家が果樹園農家を営んでいて、人手不足で困っているそうです……」 元の D K 手紙を読んでいた桜子。突然、電話のコール・サインが鳴る。電話に出た桜子の表情が暗く曇った。桜子 はい、相済みません…、はい、直ぐに参ります。 日本家の表 慌てて外出する桜子の姿を、二階の自室のカーテンの隙間から覗いている、引き篭り中の長男健太。 書店の事務室 本を万引きして店主に取り押さえられた二男の正次が、首うなだれて店主の前に立っている。桜子 (かなり取り乱して) まァ、あなたって子は ―― 「ワッ」と泣き出した正次に掴み掛る桜子を、「まあ、まあ」と宥めるようにして、店主 お母さん、本人もかなり反省していますので、今回は警察や学校の方には通報しないことにします。御家庭での厳重な注意をお願いします。 桜子は唯々、頭を下げるばかりである。 オフィスビル (夕方) その前に立ち、上の階を見上げる一太郎。大きく一つ深呼吸をして、自分自身を鼓舞するようにしてから、入口に向かう。 同・ビルの中の エビス商事・受付 受付嬢に案内を請う一太郎。受付嬢 はい、確かに承って居ります。 (と、一太郎を応接室に案内する) 同 ・ 応接室 緊張して待つ一太郎である。と、軽快な身のこなしで入って来た若い重役、重役 お待たせして、申し訳ありません。前の商談が長引きまして。 やたらと腰が低く、丁寧な口調である。 意気込んでセールス・トークを開始する一太郎に対して、相手は調子を合わせるように大きく頷き、「なるほど、成程」、「それは素晴らしい」、「はい、はい」などと応じているが、一向に O K の返答が無いのであった。次第に一太郎の表情に焦りの色が浮かんでいる。 先輩老人の 会社 (夜) 入口で、いつものように秘書に取り入り、拝み倒すように頼む一太郎。 と、「入れ!」と一喝するような大きな声がした。 同 ・社長室 先輩の老社長に対面している一太郎。この老社長、如何にも頑固、無口、無愛想、終始不機嫌そうにしているのだが、一太郎を心底嫌っているのではないらしい。社長 それで…。一太郎 どうぞ、弊社の経営ジャーナル誌を半年ほど、いや、二、三か月でも結構ですので、どうかその、御購読頂きたいのです。社長 嫌だね。一太郎 何か御不満でも?社長 別に、不満はない。一太郎 はあ……社長 ……一太郎 私の説明に足りないところが御座いましたでしょうか?社長 別に。一太郎 それでは、是非とも一度――社長 嫌だネ。 一太郎、土下座して「一生のお願いです」と哀願する。社長 止めろ! (と、遂に後ろを向いてしまう) 帰れ! 一太郎にはもう打つ手が無いのである。社長 一度話を聴いてくれとしつこく言うから聞いたのだ、もう帰れ。 日本家・リビング(夜)桜子 お仕事で疲れていらっしゃるのに、こんな嫌なお話ばかりで、気が引けて…、本当に申し訳ないと思うのですが。一太郎 いやいや、君には苦労と心配ばかり掛けて、僕の方こそ済まないと…。桜子 貴方を責める気持ちなど、これっぽっちもありません。私は、自分自身の至らなさが、もどかしくて…、もっともっとしっかりしなくては。 気が付くと、一太郎の手が優しく桜子の手を握り締めている。一太郎 済まない、本当に済まない。桜子 ……
2021年09月21日
コメント(0)
B 社・応接室 (数日の時間経過あり)B 社の専務 貴方の仰ることはいちいち尤ものような気は、一応はするのですが、私にはもう一つと言うか、何かこう、心の奥底にズーンと来る物がないような気がして…。一太郎 私共では様々なデータを駆使致しまして、ええ、勿論諸外国での最新の事例なども逐一取り入れました万全の資料を解析致し、ええ、その中にはアメリカ合衆国の著名な学者の学説なども入っておりますが、それらを参酌した上で、我が国独特の企業風土なども勘案した完璧なセオリーと自負しております。どうか、弊社の月刊誌の御購読だけでも――専務 成程、成程、貴方の仰ることは、繰り返して申し上げると、ご尤もだと聞きました。唯、私としては何かこうしっくりと来ないのです。決定的な何か、ハートの、つまりは琴線に触れて来る何物かが、つまりは、不足しているような、つまり、気がするのですよ。一太郎 琴線に触れる物、ですか……。専務 そうでっす、つまり、その通りなのです。正にその通り。一太郎 …… (絶句している) C 社・事務室の一隅 (数日の時間経過がある) 衝立で仕切られただけの応接コーナーで、向かい合って座る一太郎と町工場の経営者。経営者 経営と言うものは理念や理屈だけではどうにもならないもので、懸って実践だと儂は思っているのだ。行動力や実行するパワーを授けると言うのなら、その、儂も少しくらい高い授業料を払ってもよい思うのです。一太郎 ですから、ですから、何度も申し上げましたように、その行動力や実践の源となるパワーを発揮する為にも、行動の指針をきちんと整え、行動に対する自信をより深めまして…。経営者 いや、いや、やっぱり儂は逆だと考える。実践して、しかる後にデーターを収集して整理する中から、その、アイディアと言うか、色々な戦略が生まれるので――一太郎 はい、お説ご尤もで御座います(力なく頷いている)経営者 (至極得意げに)そうでしょう。儂には立派な学歴こそないが、実体験から獲得した生きた学問が、そう言うと少し語弊があるりますが、つまりは自分なりの流儀があります。あんたの方にその気がお有りなら、何時でも格安でレクチャー、講義の事は英語でレクチャーでよかったですよね……。 唯々、拝聴するしか仕方のない一太郎である。 D 社の重役室 (数日の時間経過がある) 若手の重役に対して熱心にセールストークを開陳している一太郎、汗だくである。重役 うん、うん、それで――一太郎 ですから先程も申し上げました様に、ですね……。 相手は一太郎が何を言っても「うん、うん、それで」を繰り返すのみ。何とも張り合いがないのである。重役 あッ、君、所でお子さんはいらっしゃいますか?一太郎 はい、お蔭さまで娘一人と、男の子が二人、都合三人の子供がおりますが。重役 ほう、それはそれは、ご家庭はご円満にいっていますか、御夫婦仲は睦まじくて……。一太郎 はあ、お陰様をもちまして、一応は幸福に暮らしておりますが、そのぉ……。重役 色々と問題を抱えてもいる。そうでしょうね、どこの家庭も傍目には幸せそうに暮らしているように見えても、中に入ってみると様々な悩みがある。それが常識と言うものでしょうなあ。因みに、我が社が某調査機関に依頼してリサーチしたデーターを分析した結果でも、誠に興味深い事実が判明しているのですが、君、それを知りたいとは思いませんか―― こうして、一太郎は仕方なく聴き役に廻らざるを得ないのである。 街角 (翌日) 急ぎ足で歩く一太郎の肩をポンと叩いて、呼び止めた女性が居る。女性 一寸あんた…、えーと、名前、あんたの名前何といったっけ?一太郎 (困って)あのォ、僕先を急いでいますので。女性 間違いない、あんた絶対にあたしの師匠に弟子入りしたいって、無理難題を持ちかけて来た…、そうそう思い出して来た、ひのもとナントカさん。一太郎 (も、ハッキリと思い出した) 貴女は付き人の……。女性 そうよ、やっぱりそうだった。 近くの 公園 (数分後)女性 そうだったの、今は真面目にセールスの仕事に打ち込んでいるんだ。一太郎 所で、貴女の方はどうなっているのですか? どう見ても有名タレントのお付きさんには見えないけれど。女性 私の方も色々とあったのよ、有為転変は世の常って言うけれども。先生、急に仕事の量が減ってしまって、お酒浸りの毎日。前からあった借金も莫大な物に膨れ上がってしまい…。 この時、自称ライバルの鬼田が向こうからブラブラとやって来た。一太郎は慌てて顔を隠そうとするが気付かれてしまう。鬼田 おいおい、昼日中から仕事をサボって、御気楽なご身分で御座いますね。 と、隣の女の顔を一瞥した。女性 あらッ、こちら日本さんのお友達! 素敵な方ね。私、元大物タレントの付き人で、現在はフリーターの橘 小鳩と申します、どうぞ宜しくお願い致します。鬼田 (最初から相手に飲まれてしまい、辟易している)……。 その隙にこっそりとその場を逃げるように立ち去る一太郎である。 鉄道の ガード下 (別の日) 一人のホームレスが数人の中学生達に襲撃されている。と言っても、中学生達の態度は遊び半分、明らかに一種のゲームを楽しむような軽い乗りである。通り掛かった一太郎が止めに入ると、中学生達は散り散りに去って行った。ホームレスの男 御親切にどうも――一太郎 どこにも怪我はありませんか?男 大丈夫です。いや、連中も本気でやってる訳ではないのです。謂わば、顔馴染みへの挨拶って所なのですね。でも、これがこんな境遇に落ちた者にとっては、思いの外に効くのですよ(と半分は涙ぐんでいる)。一太郎 ……。男 皆んな自分のことだけで精一杯で、誰も他人の事なんか…、見ても知らんぷり。それに比べてお宅さんは…、本当に有難う御座います。一太郎 いやいや、別に。(と、行こうとする)男 あの、失礼だとは思うのですが、一寸だけお礼の真似事みたいな事がしたいのです。いや、お時間は取らせません、ほんの一時間、いやいや、三四十分で結構なのです。 と、一太郎の手を押し頂かんばかりに掴んでいる。 料理研究家 の屋敷・居間 バスルームから小ざっぱりとした衣装に着替えたホームレスの男が出て来て、一太郎に声を掛けた。男 どうです、姉さんの料理の味は、美味しいでしょう?一太郎 (感に堪えたと言う様に) 素晴らしいです、本当に……。男 そうでしょう。専門の料理屋さんの味とは別物の、家庭料理の、謂わばお袋の味なのですが、天下一品でしょう! その時、キッチンから別の料理を運んで来た料理研究家の姉が、姉 まあまあ、遊ちゃんたら初対面のお客様の前で、そんなに手放しでお世辞を言われたら、私、決まりが悪くて仕方がないわ。 と、本当に顔を赤らめている。料理を一太郎の前に置いた後で、やおら居住まいを正し、姉 本日は遊太郎、いえ、弟をお連れ頂きまして、何とお礼を申し上げたら良いのか…。弟 姉さん、此処へお連れしたのは僕の方だってば。姉 (笑って) そうでしたね、兎に角本当に有難う存じます。一太郎 私は何も致してはおりません。お礼を申さなくてはならないのは、私の方です。こんなに美味しいお料理を口にするのは、生まれて初めてです。姉弟 (同時に)有難う御座います。 姉と弟は顔を見合わせて、本当に嬉しそうである。姉 二人きりの姉弟(きょうだい)なのです。さっき聞いたら半年も前から、目と鼻の距離の所に寝泊りしていたって言うじゃありませんか…。寂しがり屋の癖に、妙に頑固なんです、この子。 一太郎の回想 ( 二十数年前 ) 花屋の前でバラの花束を横目で睨みながら、思案している一太郎。何かを思い詰めたような表情である。
2021年09月15日
コメント(0)
元の 大衆酒場 ふっと我に返る一太郎。隣の客はこっくりこっくりと静かに船を漕いでいる。時計は夜の九時過ぎを示している。 J M C の事務所 (ビルのワンフロアーが一太郎の勤める会社 J M C のオフィスになっている) 力ない足取りで帰って来た一太郎。誰も居ないと思っていたオフィス内に明かりが灯っていた。恐る恐るドアを開けかかると、声 あいつ、まだ戻ってこないのか…、もう馘首(くび)だな、クビ! 奥の方で部長の声が聞こえた。首を竦めて這這(ほうほう)の体でその場から逃げるように立ち去る一太郎である。 深夜の 裏通り やって来た一太郎に風采の上がらない辻待ちの易者が声を掛けた。易者 そこの貴方、そうです、あなたです。あなたですよ。 一太郎は仕方なく立ち止まりはしたが、明らかに迷惑そうである。易者 ご心配は無用じゃ。今回は見料は取りません。そうです、サービスで、つまり、無料で観て進ぜよう。そこにお座りなさい。 渋々と易者の勧める粗末な椅子に腰を下ろす一太郎。易者 袖擦り合うも他生の縁と申します。貴君には心当たりが無くとも、この大宇宙の霊妙なる法則によって、拙者と貴君とは必然的に今夜、此処での出会いが約束されておった…。一太郎 …… (まるで狐にでも抓まれた様な面持ちである)易者 (少しく砕けた態度になって) 気が多過ぎて、移り気で、根性無しの意気地なし。自分に愛想が尽きて自殺しようとしても、死ぬ程の勇気も湧かない。一念発起して今度こそはと頑張ってはみるが、現実は厳しくて直ぐに挫けそうだ。一太郎 (次第に、相手の言葉に引き込まれ始めている) で、これから僕はどうなりますか……?易者 (構わずに自分のペースで続ける) 気が多く移り気なのも、決して欠点ではない。森を作っている一本一本の樹木を見てご覧なさい。しっかりと大地に根を張っている。貴方の「移り気」という気も、己という「大地」にしっかり 根を下し 、根を張らなければいけないのです…… その時、一太郎の背後を通り過ぎようとしていた男が、足を止めた。男 日本君じゃないか ――一太郎 やあ、鬼田さん。 男は自らを一太郎のライバルと称して、敵意を剥き出しにしている鬼田幸三である。鬼田 久しぶりじゃないか。遅いけど一杯行こうや。(易者を軽蔑したように横目で見ながら) 君にこういう趣味があったとは、知らなかったよ。一太郎 いや、僕は別に… (一太郎が慌てて立ち上がると、鬼田は一太郎の腕を掴んで、一杯飲み屋の並んだ方へと連れて行くのだった。 赤ちょうちん の一杯飲み屋鬼田 そうか…。飛び込みで、見ず知らずの会社に営業をかけてるのか。一太郎 それも一日のノルマが三十社なんです。三十社なんて、探すだけでもかなり大変ですから。鬼田 ノルマで三十社か。普通じゃ考えられない数だね。そうか、君も頑張ってるんだ、毎日、毎日。一太郎 (頷く) 半分は惰性のようなものです、正直のところは……。鬼田 うん、うん(と、頻りに頷いている) 日本家の 玄関 鬼田に抱えられるようにしている一太郎は、かなり酩酊している。鬼田も同様である。桜子 まあまあ、とんだご迷惑をおかけしまして…。 迎えに出た桜子の顔を吃驚して見詰める鬼田。初対面の鬼田を妻に紹介する一太郎であるが、バツが悪くてとてもまともには桜子の顔を見ることができない。一太郎 こちら鬼田さん…、僕の家内です。いつもお世話になっているんだ。桜子 初めまして、日本の家内でございます。どうぞお上がりになって、お茶でも差し上げますので。 リビングの方に鬼田を請じ入れる桜子。鬼田 (桜子の美しい顔に視線を釘付けにしながら)君の奥さん、頗(すこぶ)る付きの美人だな。 と、一太郎の耳元に囁いた。 日本家の リビング(早朝) ソファに横になって寝ている一太郎。上に掛けられた毛布に顔を埋めるようにしていたが、突然ガバッと撥ね起きた。一太郎、時計を見る。一太郎 もう、こんな時間か。 ジョギング・コース 勢いよく走って来た一太郎がジョギング仲間の数人と挨拶を交わし、いつもの早朝ジョギングを開始する。ジョギングの仲間 日本さんが遅れるなんて、珍しいことですね。一太郎 申し訳ありません、つい昨夜は深酒をしてしまいまして。中小企業の経営者 深酒ですか。それも日頃の日本さんらしくないことですな。一太郎 はあ (と、頭を掻くしかない) 河原 (時間経過) ジョギングを終えた一太郎が、中小企業の経営者と話をしている。中小企業の経営者 日本さんの前ですが、我々町の零細企業にとっては経営理念とかマネジメントの理論などと言っている余裕がまるでありません、実際の話が。 一太郎は黙って聞いているだけである。経営者 謂わば、野生の動物みたいな物ですね。唯々、本能に頼って、身体に備わっている嗅覚みたいな物だけに縋(すが)って、毎日、毎日、一日延ばしに死に物狂いで生き延びている。それが実感なのですよ。一太郎 成程、そうですか (深く頷いている) 日本家の リビング 出勤の支度を終えた一太郎が桜子の淹れたコーヒーを飲んでいる。美雪 お父さん、行って参ります。 二階から降りて来た長女の美雪が声を掛けた。一太郎 うん、行っておいで。桜子 毎日ご苦労様 (と、夫に続いた) 玄関へ向かう娘の後ろ姿を見返りながら、一太郎 何だか少し疲れているみたいだね、美雪。桜子 そうなんです。本人はそんなことないって言うんですが……。一太郎 社会人としてスタートしたばかりだから、何かと神経を使うのだろうね、きっと。桜子 そうでしょうね。所で ―― 桜子が少し言いにくそうに、しかし努めて明るい口調で切り出した。桜子 例の知り合いの人がね、パートではなくてフルタイムで働かないかって、熱心に勧めて下さるの。あなたには少し不自由をお掛けするんですが、私の実家から融通して貰ったこの家の頭金のローン、少しでも早く返して上げたいと思うの。両親もあの通り高齢だし。一太郎 (深々と頭を下げる) 君にも苦労を掛けるね。桜子 そんな、気にしないで下さい。半分は私の我儘なのですから。世間に出て働くのって女性にとっても心の張りになるのですから。 この時、二階からのそのそと次男の正次が降りて来た。桜子 正ちゃん急いで、学校に遅刻しますよ。あなたもそろそろ出掛ける時間です(と、一太郎にカバンを渡す)。一太郎 有難う、健太は相変わらずなのかい。 と目で二階の方を示しながら訊く。桜子 少しずつ良い方向に向かっている感じなのですけれど…。健太も私の仕事の件に賛成してくれているんです。 一太郎は小さく頷き、玄関に向かう。 J M C の事務所 恒例の朝礼が行われている。課長 ―― と言う訳で、皆さんのより一層の奮闘と、更なる努力に期待したいと考えます。部長、一言御座いましたらお願い致します。部長 課長の言葉に尽きているので、私からは特別にどうのこうのと言う事はありません。只一部社員に覇気の感じられない者が居て、全体に悪影響を及ぼしている、と思われるので十分に注意して欲しい。 と一太郎に鋭い一瞥を与えた。気弱く視線を伏せて聴いている一太郎。 A 社の社長室 秘書に案内されて一太郎が緊張の面持ちで入って来た。 ( 時間経過 ) お茶の差し替えに入って来た秘書に一太郎が懇願するように言う。一太郎 先輩は、いや、その、社長さんは本当に会って下さると仰ったのでしょうか?秘書 (無表情に、飽くまでもビジネスライクな口調で) お待たせ致しまして申し訳御座いません。もう少々お待ち下さいませ。一太郎 はい、分かりました。喜んで待たせて頂きます。 ( 時間経過 )先輩の社長 済まん、大分待たせてしまったようだな。 別に急ぐ様子もなく、落ち着き払った様子で姿を現した社長。一太郎はほっとした表情で椅子から立ち上がり、深々とお辞儀をして見迎えた。社長 で、用件は何かね?一太郎 (ここぞとばかりに意気込んで) 有難う御座います。先日もお電話で申し上げました様に…。社長 何だ、その件か。一太郎 はい、実はその件で折り入って、先輩に、いや、その、社長様に御相談を ――社長 解った、帰れ!一太郎 はあ……。社長 今日は帰れと言ったんだ。 全く取り付く島も無いのであった。
2021年09月11日
コメント(0)
劇 映 画 「 ビッグ チャレンジ! 」 脚本 しばた えつこ 登場人物 日本(ひのもと) 一太郎(いちたろう) 桜子(一太郎の妻) 長女 美雪 長男 健太 次男 正次 酒場の客 作家 歌手 サッカー選手 タレント 大衆演劇のスター かーレーサー 命の恩人 旅館の女将・橘 かおる 一太郎の先輩・大家 建造 易者 J M C の社長・夢野 翔子 J M C の部長・大口 輝(あきら) J M C の課長・佐藤 勝之 自称ライバル・鬼田 幸三 ホームレス・柴 遊太郎 料理研究家 新谷 春子 倒産した企業家 タクシーの運転士 サラリーマン お局様(得意先の女性) アカ詐欺師 大家さん・人見 良介 商店主 中小企業の経営者 タレントの付き人 店員 おかま バーテン 受付嬢 新人社員 秘書 守衛 佐藤(重役付き運転手) その他 オフィス・ビル 街 (昼) 高層ビルの透明なガラス越しに、最上階のオフィスから次の階へと、次々に出たり入ったりを繰り返す一太郎(48歳)の姿をカメラが追っていく。 街(夕暮れ) 肩を窄め、首うなだれて悄然として歩く一太郎の姿がある。よく見ると、一太郎の歩いているのは広い通りの歩道の、車道とは反対側の建物沿いである。 大数酒場 その片隅に、グラスを前に茫然と腰掛けている一太郎の姿がある。 一太郎の 回想 その一 二十数年前 Ⅰ ―― 書店でベストセラー作家・澤木健二郎のサイン会が開かれている。行列するファンの中に一太郎がいて、自分の番を首を長くして待っている。一太郎のモノローグ 「僕は自分が天才だと信じている時期が4、5年続きました」 澤木のサインを得て、喜色満面の一太郎が作家に握手を求めると、相手は気さくに応じてくれた。一太郎のモノローグ の続き 「よし、僕も絶対に傑作を書いて、人気作家になるぞ……」 回想の Ⅱ ―― 人気歌手・南島三郎のチャリティコンサートの会場。 その最前列に陣取って声援を送っている一太郎。一太郎のモノローグ 「しかし僕は極端に移り気だった。南島三郎! 恰好いいな、声がいいし、歌唱力は抜群。スターになるなら、何といっても演歌歌手だ。よし、これで決まりだ」 回想の Ⅲ ―― サッカーの国際的なスター選手が練習している。その風景をテレビ局のクルーが取材している。遠巻きにしている見物の中に一太郎もいる。一太郎のモノローグ 「夢見たり、憧れたりは若者の特権かも知れない。これからは断然サッカー時代なのだ。僕も負けないように頑張らなくっちゃ……」 回想の Ⅳ ―― 練習用のサーキット場。人気カーレーサーの佐々木原 一気が颯爽とレーシングカーを走らせている。その様子がテレビの映像で紹介されている。そのテレビ画面を食い入るように見詰めている一太郎。その表情は真剣そのものである。一太郎のモノローグ 「生か死か、命を賭けて勝負に挑むカーレーサー。これぞ、男の中の男の職業だ。本当に、凄いなあ」 回想の Ⅴ ―― 東京郊外、ロケーション撮影の現場。 大物タレント・大町 研介が主演するドラマの収録が行われている。少し離れた所に人垣が出来ている。その見物人の中に一太郎がいる。 撮影の合間、合間に甲斐甲斐しく大町の汗を拭ったり、飲み物を手渡したりしている付き人の女性。その付き人が何か必要な物でも取りに来たのか、一太郎達の近くまで走って来た。傍に停めてあった乗用車から薬のような物を捜し出して、再び現場に向かおうとした。一太郎 済みません、一寸お話が……。付き人 えっ、私に用事。一太郎 お取り込み中に恐縮ですが、僕は日本一太郎と申しますが、大町研介さんの大ファンなのです。付き人 先生の大ファンなら日本中に山程いますよ。あなたは、サインでも貰いたいの。一太郎 いえ、サインではなく、大町先生の弟子になりたいのです。付き人 あんたが ―ー 改めて、一太郎の姿を上から下まで眺めて、付き人 演技の勉強でもしているの?一太郎 全くの素人ですが、先生に弟子入りして、その、猛烈に勉強するつもりです。 付き人は半ば呆れている。その時、助監督の一人が呼びに来た。付き人 あたし今忙しいので…。 と言い残して、現場に戻って行く。一太郎のモノローグ 「全く偶然に撮影中の大物タレントを目撃した。清水の舞台から飛び降りるような気持ちだった。願ってもないチャンスが直ぐ近く迄、向こうからやって来た。そんな錯覚に捕らえられての暴挙だった」 元の大衆酒場 「君、元気を出したまえ、元気を」と、一太郎に声を掛けてきた客がいる。一太郎 ……。 (ぼんやりと隣に座った客の顔を見る)客 酒なくてなんでこの世の花見かなってね、お酒は楽しく、愉快に飲まなくっちゃあ、いけません。一太郎 この世の…、お花見ですか。客 そうです、人生楽ありゃ苦もある。当節では長寿長寿と言い囃しますが、長寿などと言っても高々百年と一寸じゃありませんか。お互い楽しくやりましょうよ。一太郎 はァ……、楽しくですね。 山道 ( 一太郎の回想 ) 風景をスケッチしていた男が、鉛筆を動かしていた手を止めて、遠くを見る。一太郎(二十代前半)が夢遊病者のように崖への道なき道を行く。 崖の上 (回想の続き) 焦点の定まらない目を宙に泳がせ、一太郎が前にソロソロと歩む。その顔に一瞬恐怖の感情が浮かぶが、それを振り切るようにダッシュする。 病室 (回想 続き) ベッドの上で両目を開ける一太郎。看護婦 御気分は如何ですか?一太郎 ……此処は ――看護婦 病院です。こちらの方が(と、傍らの椅子に腰を掛けた男 ― 山でスケッチをしていた、を見返る)消防に通報して下さらなかったら、あなたは今頃この世の人ではなかった筈です。一太郎 すると僕は又自殺しようとした。看護婦 それじゃあ、何も憶えていらっしゃらない。村中の大騒ぎだったのに。一太郎 ええ、まるで記憶がありません。男 厭なことは忘れるのがいいのですよ、無理に思い出すことはない。 一太郎は突然ベッドの上で正座して、最敬礼する。一太郎 本当に有難うございました。男 いやいや、どうぞお楽にして下さい。せっかく授かった命です、どうか人の為、世の中の為に役立てて下さい。 ✖ ✖ 旅館の玄関ロビー (回想 続き) 数日後。怪我も癒えた一太郎が旅館を出るところである。折しも、間もなく某国務大臣以下の一行が到着すると言うので、女将以下旅館の従業員達が慌ただしく立ち働き、村長や助役など土地のお偉いさんが勢揃いして、待ち受けている。 旅館の前の道 (回想 の続き) とぼとぼと歩く一太郎に、女将 あの、お客様、ちょっと…。(足早に追って来て、声を掛けた) 一太郎は、自分の事とは気付かずに行こうとする。女将 あの、お忘れ物です。お部屋に。 ぼんやりと立ち止まった一太郎の前に、古ぼけたノートを差し出した。一太郎 これは…、あっ、どうも済みませんでした。 声が上ずっている。一太郎は手渡されたノートを無意識にペラペラとめくっている。ノートの中には乱雑な字で、「自殺、自殺、今度こそ、最後まで遂行! しかし勇気なし、ダメな自分……」などと、書きなぐってある。女将 お元気で。機会がありましたら、又私共の旅館にお越し下さいませ。 美しい笑顔で一太郎を見送っている。
2021年09月09日
コメント(0)
24 [ 第五幕 第一場 ] ドーヴァーに近きブリテン軍の陣営 軍鼓と軍旗、エドマンドとリーガンが将兵を引き連れて登場。エドマンド アルバニー公のお考えを伺って来い。 (命を受けた士官が一人去る)リーガン 所で、聞かせていただきたいの、アネチャ(姉上)のことを思っておいでなのでしょう?エドマンド そのような御想像は御名誉にかかわります。リーガン 私、姉であろうと遠慮はいたしません。あの人と親しくなさらないで。エドマンド 御心配無用。おお、姉上と公爵がお見えに! 軍鼓と軍旗、続いてアルバニーとゴネリル、その将兵が登場。ゴネリル (傍白) むしろ戦いに敗れたほうがよい、あの人のことで妹に負けるくらいなら。アルバニー 妹のリーガン、会えて何よりだ。伯爵、己の信条として、正義を信じえぬ戦いに勇気は起こらぬ。が、この度のことは決して無視はできまい。エドマンド 立派なお言葉と存じます。アルバニー よろしい、直ぐにも、戦の手筈を決する事にしよう。エドマンド 即刻当方より御本陣の方へ伺いましょう。リーガン 姉上、私どもの方へお出でになりません?ゴネリル いいえ、結構。リーガン その方が何かと好都合だと思うのだけれど、さ、参りましょう。ゴネリル (傍白) ふ、ふむ、その謎は解っている ― (相手に) では、そうしましょう。 一同退場し掛かるところに変装したエドガーが登場。エドガー 賎しい者にございますが、お許し願えれば、一言申し上げたい事がございます。アルバニー 後から行く。(アルバニーとエドガーを残して一同退場) よい、言え。エドガー 戦いの前に、一先ずこの書面を。また、御勝利の暁には、ラッパを鳴らし、これをお持ちした者をお呼び下さいまし。何とぞ御武運の長久を!アルバニー 読んでしまうまで待て。エドガー そうしてはおられませぬ。その時が参りましたら、必ず御前に参上いたします。アルバニー そうか、この書面には目を通しておく。 (エドガー退場) エドマンドが戻って来る。エドマンド 敵は早くも姿を現しました、これは敵軍の兵力装備の推定で、(書面を渡し)ともあれ、ひとえにお急ぎの程を。アルバニー では、潔く一戦を。(退場)エドマンド 姉、妹、いずれにも良い顔を見せてしまった。どちらを取ろうか? どちらをとっても楽しくない。(退場) 25 [ 第五幕 第二場 ] 英仏両陣営の戦場 警報、フランス軍と共にコーディリアがリアの手を導いて現れ、舞台を通り過ぎる。その後にエドガーとグロスターが登場。エドガー 丁度いい、父つぁん、この木に陰を貸してもらうのだな。土産には吉報を持って来る。グロスター 神々の御庇護を! (エドガー退場) 警報がすぐ近くに聞こえる。やがてフランス側の敗北、退却が続く。エドガーが戻って来る。エドガー 逃げるのだ。リア王側の敗北だ、王も姫君も虜になってしまったぞ。手を、さあ、早く! (二人退場) 26 [ 第五幕 第三場 ] ドーヴァーに近きブリテン軍の陣営 軍鼓、軍旗と共に勝利者エドマンド、囚われのリア、コーディリアが登場。その他、隊長と兵士達。エドマンド 士官のうち誰かその二人を連れて行け! (リアとコーディリアは番兵に連れ去られる)エドマンド 隊長、ここへ。 (紙片を渡し)二人の後を、牢へ。隊長 御命令通りに。 (退場) トランペットの吹奏、アルバニー、ゴネリル、リーガン、その他の将兵登場。アルバニー 今日の戦いでは天晴れおのが武運の血筋を証したな。エドマンド 如何なる正義の戦も、その過酷に苦しんだ者には、呪わしきものと思われましょう。コーディリア様とそのお父君の事は、後日適当な機会に改めて詮議すべきと存じます。アルバニー 待て、私から見れば御身はこの戦に関する限り、我が部下に過ぎず、兄弟分とは考えておらぬのだ。リーガン その資格は実は私が差し上げたいと思うもの。伯爵、全財産をあなたにお預けします。お好きなようになさって下さい。ゴネリル まさか本気ではないだろうね、その人と一緒になれるなどと?アルバニー いずれにせよ、ンガ(お前)の口出しし得る事ではない。リーガン (エドマンドに) 太鼓を打たせるようお命じになって、ワの身分がそのままあなたの物になった事を、皆に知らせるのです。アルバニー ならぬ、その訳を聴かせよう。エドマンド 貴様を捕える、反逆の大罪人としてな。 (ゴネリルを差し)同時に、この上辺を金色に塗飾った毒蛇もだ。所で、妹殿、これが伯爵の私と再婚の約を取り交わしている。で、ワはこれの夫として、貴女の婚約を拒否するのだ。ゴネリル そんな茶番は止めにして!アルバニー ラッパの用意を。先ずウガの本性を明し、憎むべき大逆罪を暴く者が出てこぬ時は、それ、この俺が相手だ! (手袋を投げる)リーガン 苦しい、ああ、胸が!ゴネリル (傍白) そう来なくては、薬も当てに出来なくなる。エドマンド よろしい、返事はこれだ! (手袋を投げる)アルバニー おい、伝令!リーガン 苦しみが募るばかり!アルバニー 俺の天幕に連れて行け。 (リーガン、連れ去られる) 伝令役登場。アルバニー これを読み上げるのだ。伝令 (読み上げる) 「自称グロスター伯エドマンドに対して、数々の反逆の罪を指摘して憚らぬ者は、次のラッパの合図で姿を現すべし!」 (トランペットの吹奏) それに応じて、奥でトランペットが鳴る。エドガー鎧に身を固めて登場。エドガー 何処にいる、グロスター伯と名乗る男は?エドマンド 俺だ、何が言いたいのだ?エドガー 剣を抜け!エドマンド 相手になろう。 (警鐘、両人戦ううちに、やがてエドマンドが倒れる)アルバニー 待て、生かしておけ!ゴネリル 企みです、あなたは負けたのではない、謀られ、欺かれたのです。アルバニー 口を出すな、(エドガーに)暫く待て…、(ゴネリルに手紙の署名の所を示し) さ、己の悪事を読むが良い。ゴネリル だからどうだと言うのです。(退場)アルバニー この化物! 後を追え、落ち着かせてやれ。 (士官が一人去る)エドマンド 一体何者だ? 俺をこのような破滅に陥れた男は?エドガー 俺の名はエドガー、お前のアヤの嫡男だ。アルバニー 何処に身を隠していたのか? 父親の苦難がどうして解った。エドガー ずっとその面倒を見ておりました。半時間ほど前に、親子遍路の一部始終を話して聴かせたのですが、かすかな笑いを残して息を引き取りました。更に、私が大声で泣き叫んでおりますと、ひとりの男が通りすがり、その強いケナ(腕)をいきなり私の首に巻きつけ、天を突き裂くような喚き声を挙げたのです。アルバニー で、その男と言うのは?エドガー ケント伯爵、追放の身のケント伯に御座います。 紳士が血まみれの匕首(あいくち)を手に駆け込んで来る。紳士 大変だ、大変な事になったぞ!エドガー 何事だ。アルバニー 死んだのは誰か?紳士 公爵夫人、奥方に御座います。しかもお妹様の方も奥方の手によって毒殺されました。エドガー 俺はその二人と誓い合った仲だ。こうして三人一緒に婚礼を挙げるのか。エドガー あそこにケント伯が。 ケント登場。アルバニー 二人をここへ。(紳士退場、ケントに気付き) おお、これが? 場合が場合だ、挨拶は略させて頂く。ケント 我が君、国王に永のお暇を申し上げに参りました。ここにおいででは?アルバニー 大事なことを! 言え、エドマンド、王は、コーディリア殿は何処においでか? ゴネリルとリーガンの遺骸が運び入れられる。エドマンド 息が苦しい。少しはお役に立つことがしたい。急使を城へ…。エドガー (エドマンドへ)何かお前の印を、命令取り消しの為に。エドマンド さ、この剣を、これを隊長にお見せになるよう。アルバニー 急げ、命懸けだぞ! (エドガー退場)エドマンド その男には奥方と私が命令を出したのです。コーディリア様を獄中に絞め殺し、しかも絶望のあまりみずから縊れ死んだと誣(し)いるように。アルバニー 何とぞ神々のご加護を! この男を暫くあちらへ。 (エドマンド運び去られる) リアがコーディリアを抱えて登場、エドガー、隊長、その他が随う。リア 泣け、泣け、泣け! 娘はもう二度と戻っては来ぬのだケント (膝を突き) おお、御心確かに!リア ええい、寄るな! 誰だったかな、お前は? ケントではないか?ケント 左様です。同じ下僕のケイアスも実は私でした。リア それも直ぐに分かるだろう。 隊長の一人が登場。隊長 エドマンド様がお亡くなりになりました。リア 頼む、このボタンを外してくれ。 (リア息絶える)アルバニー 亡骸をお運びするように。我々の務めは先ず、国を挙げて喪に服することだ。(ケントとエドガーに)心の友として、お二人にお願いする。この国の政に与り、重傷(おもで)を負った国家を立ち直らせて頂きたい。ケント ワは旅に出ねばなりませぬ。それも間もなく。エドガー この不幸な時代の重荷は我々が背負っていかねばなりませぬ。最も老いた者が最も苦しみに堪えた。若い我々は今後これ程の辛い目に遭いもしますまい。これ程長生きもしますまい。 (死骸が運び去られ、葬送曲と共に一同その後に随う) ( 以 上 )
2021年09月07日
コメント(0)
グロスター 行け、死なせてくれ。エドガー 蜘蛛の糸、羽や空気ならいざ知らず、あんな高い所から落ちたのでは、まずは卵よろしくぺしゃんこになるところだ。生きているのは奇跡と言うものだ。もう一度、物を言ってみてくれ。グロスター だが、俺は飛び降りたのでは?エドガー うむ、この白い絶壁の、それ、あの恐ろしい天辺からな。上を仰いで見な。グロスター 情けない事に、その見る目が無いのだ。エドガー さ、腕を持ってあげよう。どうだね、脚の具合は?グロスター 何ともない、何ともない。エドガー 不思議な話があればあるものだ。さっき、あの崖の頂で、誰かお前さんの側にいたようだが?グロスター 哀れな乞食だ。エドガー 下から見ていたが、あれはてっきり鬼か何かだ。全く運のよい父つぁんだよ。まあ、神様は何もかもお見通しなのさ。グロスター 初めて肝に銘じた。今後はどんな苦痛にも堪えてみせよう。エドガー もう恐れることはない。気を大きく持つことだ。 リアが登場、野生の草花や刺草(いらくさ)を冠にしている。エドガー 待て、誰だ、あれは? 正気の持主なら、あんな恰好はしないね。リア 黙れ、俺は国王だぞ。エドガー (傍白) おお、胸が張り裂けそうだ!リア あいつの弓は何だ、まるで案山子(かかし)だな。おお、当たった、ひゅうっ! 合言葉を言え。エドガー 花はマヨラナ。リア 通れ!グロスター あの声には聞き覚えがある。リア はあ! ゴネリルだな。白い鬚など生やしおって? ふん、奴等の言うことは当てにはならぬ。グロスター あの声音(こわね)は忘れぬ、王では?リア (自分の冠に手をやり) うむ、指の先まで王だぞ! 頼む、薬屋、俺の頭の中を浄めてくれ、さ、金を遣る。グロスター ああ、大自然の傑作がとうとう廃墟に! 私がお解りになりますか?リア その目でよく憶えている。さあ、この果たし状を読め。グロスター おお、神はいまさぬのか! 紳士が侍者数名を伴って登場。紳士 おお、ここに。さ、お押えして。申し上げます、姫君の御命令により―リア 誰も助けてくれぬのか? 俺は王だぞ。紳士 紛う方なき国王でいらせられます。リア さあ、俺の命が欲しいなら、脚で取れ、さ、さ、さ。(逃げ去る、侍者達その後を追う)エドガー もしもし!紳士 やあ、失礼。御用か?エドガー 何かお聞き及びですか、戦いが始まりそうだという噂せすが?紳士 確かな事実だ。エドガー ありがとうございます。(紳士退場)グロスター 神々の御慈悲にお縋りする、今こそこの息の根をお留め下さいまし。私の内に住む悪霊に唆され、お召しを待たずに死を選ぶことの二度とありませぬよう!エドガー その祈りは大出来だ、父つぁん。 オズワルド登場。オズワルド 賞金付きのお尋ね者だ! 老いぼれの謀反人め、今のうちに早く懺悔を済ませろ、剣が待っている、どうでも命が欲しいとな。グロスター おお、その慈悲の手に力を籠めて突いてくれ。(エドガーが遮る)オズワルド 何をしやがる、早く退け。 (両人、戦う。オズワルド倒れる)オズワルド 下郎め、よくもやりゃがったな。やい、この財布を取れ。この先、楽をしたいなら、俺の墓を建ててくれ。それから懐にしまってある書面をエドマンドに、グロスター伯に渡してくれ。ブリテン軍の陣地においでの筈だ。(死に絶える)エドガー 貴様はよく知っている。グロスター これ、死んだのか?エドガー まあ腰を下ろした、父つぁん、休んでいるがいい。懐中を探してみよう。(手紙を読む)「私達の間に交わした誓いをお忘れになりませぬよう。夫を手にかける機会は幾らでもあります……、あなたの(妻、そう言わせて下さいまし) お心のままに、ゴネリル」 ああ、果てしのない女の欲! いずれその時が来たら、この不届きな手紙は狙われた当の公爵に見せて、その目を驚かして差し上げよう。グロスター 王は狂っておしまいになった、それを、この俺は、ええい、浅ましい、この通り気は確かだ。 (遠くに軍鼓の響き)エドガー 手を、遠くの方で軍鼓が鳴っているようだ。さ、父つぁん、お前さんをどこか知り合いの所に預けるとしよう。 (二人退場) 23 [ 第四幕 第七場 ] フランス軍の陣営 コーディリア、ケント、侍医、紳士が登場。コーディリア おお、ケント、何時になったら、そしてどうしたら、お前の志に報いる事が出来るだろう?ケント そのようにおっしゃって下さるだけでも、分に過ぎた御報償にございます。コーディリア (侍医に) 王の御加減は?侍医 はい、まだ眠っておいでで御座います。 国王の衣を纏ったリアが椅子に眠ったまま召使達に運び入れられる。静かな音楽。コーディリア ああ、オドサマ(お父様)、ワの唇に霊薬の働きが籠り、二人の姉に与えられた深手がこの口付けによって、お治りになりますやら! おお、おめざめになった。リア 酷いことをする。よくも俺を墓から引きずり出しおった。コーディリア 私がお解りになりませぬか?リア おお、精霊だ。コーディリア (膝まずいて) ああ、私を御覧になって、(リアが膝まずこうとするのを見て)、いいえ、膝をお突きになってはなりませぬ。リア 頼むから俺を嬲(なぶ)らないでくれ。この女人は、娘のコーディリアのように思うのだが。コーディリア はい、その通りに御座います。リア 俺は今フランスにいるのか?ケント 此処は御領地のブリテンに御座います。リア 俺をたぶらかすな。侍医 お妃様、奥にお入り遊ばすようお勧め下さいまし。コーディリア 父君、奥へお入りになりませぬか?リア 頼む、この俺を許してくれ。 (ケントと紳士以外、全て退場)紳士 コーンウォール公が殺されたと言うのは確実でしょうか?ケント 間違いない。紳士 すると、総大将は?ケント 噂によると、グロスター伯の庶子だとか。紳士 決戦はどうやら血なまぐさいものになりそうですな。では、ご機嫌よう。 (退場)ケント 今日の一戦で万事が決まる。 (退場)
2021年09月03日
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1

