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アルキビアデスのソクラテスに関するスピーチである。 因みに、此処で彼の人物像に関して少しだけ述べておこうか。彼は、才能、容姿、家柄、人望全てにおいて卓越した人物であったようだ。徳にせよ、悪徳にせよ、彼に勝る者はないとまで言われた。その美貌は男性・女性を問わずに愛され、愛人が絶えなかったようである。又、弁舌の才にも恵まれており、他者を言い負かしたり、民衆を扇動することに長けてもいた。幼い頃から傲慢・横暴で、自らの才能を愛し、凡人である他者を見下していた。それに反して、自らよりも優れていると判断した人物に対しては、並々ならぬ尊敬の念と情熱を注いだ。師匠であるソクラテスにおいては、ソクラテスが他者を見ただけで嫉妬心を覚える程に心酔しており、その美貌で何度も彼を誘惑していた。自制心の強靭なソクラテスには全てが無意味であったが…。 「 もし僕が真実でないことを述べたならば、僕の弁舌の途中であっても制止してくれたまえ。少なくと僕は意図して偽りを言うつもりはないのだ。ソクラテスとの思い出に耽りすぎて話が停滞したりする事があっても、驚かないで、我慢出来る所は見過ごしてくれたなら、感謝しよう。今の僕の状態でソクラテスの異様とも言える人物像を滑らかに、順序建てて要約して語ることは容易ではないのだからね。諸君、僕は比喩をもってしてソクラテスを賞賛しようと思う。多分彼は僕が自分を笑いものにするのだと考えるだろうが。僕が比喩を用いる目的は真実の為であり侮蔑などではないのだ。彼はサイリーナス、酒神バッカスの養父で森の神サチルスの親分に酷似している。あの煙管かフルートを手にして彫像店の中で表現されているユーモラスな人物に。あの彫像は中が空洞で、取り外して内部を見ると中には小さな神々の人形が収まっている。 ソクラテスは又マルシアス・サター、バッカスの従者で半人半獣の森の神の一人、酒と女が大好き、だと断言する。ソクラテス、貴方はこの二者に肉体的な顕著な類似性を有していることを否定出来ない筈だ。それだけではなく、他の点でもこの二者に似ている。例えば、貴方は他人をどやしつける乱暴者だ。貴方が認めようとしなくても僕には証拠がある。確かに貴方はフルートは吹かないが、もっと鮮やかな演奏をやってのける。それはゼウス以下の神々が住むオリンパス山由来のメロディーとでも評すべき妙音である。貴方の口から出る言葉は聴く者の心を言い知れず夢見心地に導き、神々との合一の秘儀を渇望する者を夢幻境へと誘うのだ。その点ではソクラテスはマルシアスより遥かに優れている。と言うのは楽器を用いずして言葉だけでその奇跡を実現してしまうのだから。 とにも角にも、我々の大多数の者が全く関心を示さないような、いかに教養ある人の言葉であっても、ソクラテスが語ると、殆ど無関心な話題だとしても、忽ちに魂の深い所で揺さぶられ、魔術的な作用を懸けられてしまうのだ。男や女や若者の別なくなのだ。 僕は今現在こんなにも酩酊状態で喋っているので、諸君は誇張が過ぎると判断するかもしれないが、僕はしらふの状態でも全く同じ事を言うと神に誓約してもよい。僕はソクラテスの言葉を聴く度に、心臓が早鐘を打つように加速するのを感じる。まるで神憑り状態に陥った日の如くに、涙が両目から溢れ出してしまう。僕は大勢のほかの人々が同様の体験をしているのを目撃している。この種の事柄は、ペリクルスその他の名演説家の場合には起こらなかったのだ。彼等は確かに巧みに弁じるが、僕の魂が混乱し困惑して、自分の人生などは奴隷のそれにしか過ぎないと錯覚を覚えることはないのだ。それは僕が現代のマルシアスに操られて屡強制される状態なので、その結果で僕は自分の現在の状態で生きて行くのは不可能だと思える。ソクラテス、貴方はそれは本当ではないと言うのは許されない。今この瞬間でさえ、僕が進んで彼に耳を傾けるなら、僕はもう抵抗など出来ずに、以前と同様の現象に見舞われるに相違ない。 彼は次の如くに悟るように僕を強いる、僕はまだ依然として不完全なる物の塊であり、公共の為の生活に従事するなどと称して、自分自身の真の利益を頑固に無視し続けているのだと。それで僕は自分の真の傾向性質に反して、オデッセウスが怪美人・サイアレン達から身を守る為にそうしたように耳を塞ぎ、逃亡を謀っているのだと。 彼は僕がその存在の前で或る大きな興奮的な感情、自己を強く恥じるのを禁じえない、唯ひとりの人である。彼は、彼だけが僕をして積極的に自己を恥ずかしいと感じさせる。その理由は人は自己の心が命ずる様に行動するべきと言う結論は議論の余地がない程に明瞭な事だと、僕は自覚しているからだ。にも拘らずに僕は彼から逃れて、大衆迎合の誘惑に嵌り込んいるのだ。そこで僕は逃亡奴隷の如くに足に任せて逃げを打つ。彼を見る度に僕は自分が恥ずかしい人間なのだという結論に苛まれるのだ。何度となく僕は彼がこの地上から姿を消すことを念願したことか。でも、もしそれが実現したとしたら、僕の安堵の感情は圧倒的な悲しみによって押しつぶされてしまうだろう。実際、僕はソクラテスに関しては手の施しようもない有様なのだ。 以上が、この半神半獣の怪物サチルスが パイプの煙 で僕や他の多くの人々を魔術にかけている効果なのだ。だがまだ傾聴して欲しい、その他の点でも如何に彼が僕が比喩している怪物に似ているか、そして彼の所有する力が絶大であるかが分かるから。 諸君の誰もが、彼の真実の姿を知らないのだと納得するだろう。彼は容姿の勝れた若者に恋する傾向がある。そしてそうした相手と常に交際し、それに熱中する。それも、彼はあらゆる外見上の美観には遍く無関心であり、何も知らない。正にこの点こそ、彼が怪神シレナスに似ているのだ。彼は表面的はこうした諸性格を体していても、一度彼の表面的な下に隠されてある自己抑制の熾烈さを知ったならば、もう理解が及ばなくなってしまう。 彼にとって容貌が優れているかどうかなどは、関心の埒外にある。そればかりではないのだ。およそ世間で高く評価される要素、つまり裕福であるとかと言った他者に勝る有利な特徴などは、彼には無意味なのだ。 彼は自分の全人生を人々と共に在って遊び呆けているように振舞っている。ソクラテスが人知れず隠し持って大切にしている宝物はあるのだろうか? 僕には分からないのだが、唯一度だけ知ったのだ。神聖で、貴重、美しくて至高なる物、要約して言えば、僕は彼が僕に命ずることなら何でもする以外に、僕には選択の余地が無いと言う事実。 彼が僕の魅力に対して真摯な憧憬を抱いている事を信じて、神からの素晴らしい幸運が僕の頭上に舞い降りたと思う。僕に対する好意に報いる為に、ソクラテスが知っている事柄の全てを発見する事が出来なくてはならないと感じている。何故なら僕は自分の美貌に無制限な自負心を持っているから。この最終目的を視野に置いて、僕はこれまでずっとソクラテスと会談する際には必ず随行させていた自分の付き人の従者を追放し、僕一人で彼と相会したのだ。僕は諸君に全部本当のことを打ち明けようと思うので、僕が嘘とついたなら制止して貰いたい。僕はたった一人きりで彼と会うことを自分に許し、相対で、通常愛する者達が愛する者と語り合う種類の会話を開始したのだ。僕は嬉しかったが、何事も起こらなかった。彼は普段通りの会話をその日僕として過ごしてから僕を残して行ってしまった。次に僕は体育館の個室に彼を招待した。僕は彼をそこへ案内し、今度こそ彼に対して成功を遂げるだろうと信じていた。彼は体操をして、僕とレスリングを何度もして、僕ら二人以外には誰も居なかったのに、僕のゴールには到達しなかった。これも効果を発揮しなかったことを知った後で、僕は直接攻撃に出ようと決意し、一旦心に決めた事柄を遂行しようとした。僕はとことん突き進まなければ気が済まない気持ちだった。僕は彼を夕食に招待したが、彼は急がず騒がずに泰然として僕の招待に対して、最後には来ることを承知した。 最初の時、彼は夕食が終るや否や席を立って、帰って行ってしまった。その時は僕は恥ずかしかったので彼を去らせたのだ。しかし、僕は次なる攻撃を仕掛けたのだった。そして今度は夕食の後で深夜まで彼を会話で引き止めておいた。彼がもう帰りたいと言い出した際に、もう夜が遅過ぎるのでと言う口実で足止めしたのだ。
2021年11月29日
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愛の秘密の奥深く此処まで案内されて来た人は、そして適切で順序よく美の実例に自分の考えを向けた者は、彼の秘伝伝授の最後に或るひとつの美が突然に姿を現すのを見る。その美の性質は実に瞠目すべきもので、これまでの全努力の最終到着点なのだ。 この美は永遠なる全ての物の中で最初のものだ。それは存在するのでも通過して行くのでもない。溶けもしないし、姿を消しもしない。次に、部分的に美しいのでもなく、部分が醜いのでもない。或る時に美しく、別の時に醜いのでもない。これとの関係で美しく、あれとの関係で醜いのではない。此処で美しく、あそこで醜いのではない。眺める者次第で変化はしなのだ。同様に、この美は顔や手やその他の肉体的な何かに現れる物ではなく、思想や科学の様な物、或いは、それ以外の何物かに席を占める美の様でもないのだ。それは生物なのか、或いは空なのか、又はその他の何物かなのか? それは或る絶対的な、それ自身で独立して存在する、独創的で、永遠で、他の全部の美しい物と一緒に在り、増えたり減ったりの如何なる変化も蒙らずに、ずっとそう言う風で有り続けるのだ。 この耳目に感じられる世界から出発して上向きの道を少年達への愛の感情を正しく使って辿ると、人はその美を視野に捉え始めるが、ほぼ目標地点近くに達している。これが愛の秘儀に招き入れられる正しい道を接近しているので、此の世界に於ける美の諸例から始まって、ゴールである絶対の美を目指して途切れることのない上昇する歩みを経て、肉体美の一例から始めて、二つに進み、更には二つから全部へと向かう。そして肉体の美から道徳的な美へ、道徳美からは知識の美を経過して様々な種類の知識の美を獲得して、最終の至上の知識に達するのだ。 至上の知識の唯一の目的はあの絶対の美なのであり、最終的には絶対の美が何であるかを知るのだ。 絶対の美を熟視しての、この境地でこそ一人の人間は生きるべきなのであります。一度それを見てしまうと、現在はあなたを恍惚の境地に投げ入れていた、黄金や豪華な衣服、少年や若い男の美の故に価値を認めていたのに、そうではなくなるのだ。愛する相手の姿を見たり、一緒に時を過ごしたり出来さえすれば、もしくはそれが可能でありさえすれば、飲み食いしなくとも、彼等の美しさを見守って貴方の全時間を過ごすことが出来さえすれば満足だったのに。 絶対の美をその精華に於いて見ている者の至福を想像できるだろうか? 人間の肉体や色、消えてしまうガラクタの塊によって汚された美の代わりに、他からは独立して存在している絶対の美を把握することが許されているとしたならば、である。絶対の美の方向にじっと凝視の視点を定めて、それに相応しい能力で瞬きもせずに思いを凝らす。常にそれと結合している。そうした境地に安住している時だけ、反射したものでない、本当の良き物自体を生み出す事が出来る。 真実の善を生み出し育て、全能の神に愛される特権を得るだろう。そして人間にそれが可能ならば彼自身が神達と同様に不死と永生とを獲得するのだ。 以上がディオティマが私に語った話の骨子であると、ソクラテスは言った。私はそれを信じているので、この祝福を獲得する事で人間性は愛の神以上の善き助力者を見つけることは出来ないと、他の人々を説得しようと試みているのだ。あらゆる人間の義務は愛の神を褒め称えることだと断言する。私は愛の神を褒めたたえて、自分自身で特別に愛の秘儀を実践する。そして外の人にも同じ事を推奨して、愛の神の力と武勇とを私の能力の限りを尽くして今もいつでも賞賛する。これを私が美の神に捧げる祝辞としたい。 ソクラテスの演説が終わった後に続いた拍手の渦の間中、アリストデモスによるとアリストパネスはソクラテスが言及した理論は或る一点で彼の説でもあると説明しようと試みていたらしい。その時に突然、通りに面したドアが激しく叩かれたのだ。どうやら酔っぱらいの一団が立てている音の様だった。フルートを吹く少女の音色も混じっているらしい。 アガトーンは召使に命じて、相手は誰なのかを確かめ、友人の誰かであったなら中に入れ、そうでなかったら宴は終了して皆が寝るところだと言うように伝えた。 ちょっと後で人々は中庭でアルキビアデスの声がするのを聞いた。彼は良い加減に酔っ払って叫んでいる。アガトーンは何処にいるのか、彼のいる所へ自分を連れて行けと言って。彼はフルート吹きの少女とその他の連れの者達に助けられて、建物の中に入って来た。彼は蔦と菫で出来た分厚い花冠を被り入り口の所に立った。花冠からは数本のリボンが垂れ下がっている。そして言うのだった。「諸君今晩は、どうかこの酷く酩酊している酔っ払いを仲間に入れてくれないだろうか。もしくはアガトーンに花冠を進呈させて貰いたい、その為にこそ我々は来たのだから、そしたら立ち去るだろうから。私は昨日の祝賀会に参加できなかったが、今この頭上にある花輪を美と賢明の典型たる人物に移し替える喜びを味わう為にやって来たのだ。諸君は私を笑うのかね、成程、酔っ払っているから、笑っても宜しい。しかし私の言うことは正しいと承知している。直ちに私に返答したまえ、今述べた条件で私は諸君の仲間に加わってよいのか、私と一緒に盃を上げるか否かを!」と。 アルキビアデスは中に入るべきだとの同意の声が一斉に上がった。アガトーンもその招きに加わっていた。そこで彼は一緒にいた人々に助けられて中に入り、かぶっていた花輪を脱いでアガトーン被せようとした。何本ものリボンが彼の両目を覆っていたので、彼にはソクラテスが見えなかった。彼はアガトーンの隣に腰掛けた。ソクラテスが彼のために場所を開けたからだ。 アルキビアデスは席に着くとアガトーンを抱擁して花輪を被せた。アガトーンはアルキビアデスの靴を片付けるように召使に命じた。その時に始めてアルキビアデスはソクラテスの存在に気づいたのだ。彼はびっくりして立ち上がると言った。 「おや、まあ、ソクラテス、此処に居たのですか。貴方はいつも僕が全く予想もしていない時と場所に突然姿を現すのですね。一体、此処で何をしているのですか?」 「アガトーン、私を保護してくれたまえ。この男の愛情は軽いなんてものじゃないのだから。私が彼に恋をした瞬間から、彼が嫉妬と羨望の激情に駆られることなく、ハンサムな人間と一言言葉を交わしたり、目を見交わしたりする事が出来なくなってしまったのだ。実際、口汚く罵ったり暴力さえ振るったりするのだからね。私はすっかり怯えていて、彼の狂的な行為や過度な愛情の発現を見たくないのだ」、「あなたと僕の間には平和は有り得ない。しかし目下のこの件については話を収めようと思うので、君の花輪のリボンを幾つか呉れたまえ。それでソクラテスに花輪を作るので。彼の頭は実に素晴らしいものだからね。そうしないと彼はアガトーンにだけ花輪を与えていながら自分には与えないでしまったと、僕を非難するだろう。ソクラテスの言葉ときたらどの様な時でも全部の者から勝利を勝ち取ってしまうからね」、そう言うとアルキビアデスはソクラテスに花輪を作ったのだ。そして言った。 「さあ諸君、諸君は僕から言わせればしらふに等しい。それは許されないことだから、飲んで欲しい。大きな盃があれば持ってくるように命じてくれたまえ、いや、あのワインクーラーでいい」そう言うなり、自分でその4.5リットル以上入るワインクーラーを手にすると、それに並々とワインを注ぎ、先ず自身がぐいと飲み干してから、それをソクラテスの為に一杯に満たすように召使に命じたのだ。一杯に満たされた容器をソクラテスは一気に飲み干した。 するとエリキマカスが口を切った、「このままで続けるのは我々に適していないよ。我々はワインを飲みながら会話も歌も楽しんではいない。喉が渇いた時にするように唯飲んでいるだけだからね、アリキビアデス」と。 アルキビアデスは医師であるエリキマカスの指示に従おうと答えた。エリキマカスは、アルキビアデスが現れる前には皆で愛の神を讃えるスピーチを順番にしていたので、アルキビアデスにもそうしたらどうかと提案した。 アルキビアデスとソクラテスの間でちょっとした口論があっや後で、アルキビアデスはソクラテスの真実の姿を論じようと言い出して、ソクラテスもそれに賛意を表した。
2021年11月25日
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それでは知恵を愛好するのは、一体、誰なのか、もし彼等が知者でもなく愚者でもないとしたら? もう子供にでも答えられる。明らかに彼等は神と人間との中間に存在する者達だ。そのクラスに愛の神も他のメンバーと共に属している。 知恵は最も美しい物の一つであり、愛の神は美を愛好する。必然的に愛の神は知恵を愛好する。論理に従って言えば、知恵と無知との中間に位置する。これも又彼の出自の状況に由来している。彼の父は賢くて機略縦横だし、母は智慧なしで頼りない。 ここまでが聖霊としての性質である。愛の神を考える際に、その点では顕著な所はない。ソクラテス、貴方の発言から判断すると、愛そのものと愛の対象とを同一視しているようだ。だからこそ、愛の神をこの上もなく美しいと考えるのだ。愛の対象を考えると幸せになる、美しく、繊細で、完全であり、価値あるものの全てだ。が、愛情を感じる主体は今私が述べた如くに、全く違った性質なのだ。 愛の普遍の性格とは、肉体的にも、精神的にも美しい物を生み出そうと意欲する生殖の機能にある。詰まり、人は皆、霊と肉で生殖する強い衝動を抱く。成人すると自然に子供を産みたいと欲するが、それは美しい物に限り、醜い物ではない。その全体には聖なる何物かが関与している。死すべき者の生殖や出産には不死なる存在者の接触が授けられているのだ。その過程は不調和では遂行されないし、醜さは聖なるあらゆるものと調和し得ない、美とは反対に。 それが美の神が出産を主宰する女神であり、人がその強い欲求を抱き美と接触する時に、生殖を可能とする静謐と幸せな安息の感情に何故に包まれるのかの理由だ。 愛情の目的は美ではなくて、美の中に生殖して出産することなのだ。愛の目的が何故生殖なのかは、死すべき者が入手できる永遠と不滅に最も近い物だからなのだ。 それではこの愛情と欲求との原因は何か? 全ての動物、獣や鳥、の行動を見てみよう。生殖の欲望が彼等を捕えると、彼等は激しい愛情病の餌食に陥ってしまう。彼等の第一義の目的は互いに合体することである。第二は、子供を儲けることだ。何故ならば、彼等はこの二つの為には如何なる賭け物も惜しまずに戦い、必要とあらば死さえ厭わない。子孫の生存を確かにする為には飢餓やその他の犠牲をも辞さない。人間の場合ならば、それらの行動は計算された結果であろうが、動物たちにそうした衝動が発生する原因は何なのだろう? 動物も人間も共に、不死と永遠の生を欲しているのだ。生殖行為によって絶えず旧を新に置き換える事が、それを可能にしている。あらゆる生物がこの期間に生きて自己同一性を保持している。例えば人間は、少年時代から老年まで同じ人間だと呼ばれる。同一人と言われても、事実は同じ属性を保持してはいない。彼は常に新しい存在になっているし、損失と修復の過程を経験しているのだ。損失と修復の過程は、毛髪、肉体、骨、血液、身体の全体に及んでいる。肉体だけでなく魂にも同様な事が起っている。どの人間の人格、習慣、意見、欲求、快楽、苦悩、恐怖も常に同じではないのだ。新しいものが存在し、古いものは消滅する。 知識の集積に起こっている事柄は幾分顕著であろうか。或物が現れ、他の物が消えるというだけではいけない。それだけでは我々は自己の同一性を保持できなくなるし、その他の点よりも知識という点でそれが強く言える。知識もまた同様の過程を経るのだから。 我々が記憶と言う言葉を使う時に、我々の内部から出てくる知識を意味している。忘却とは知識の消失だし、記憶は知識が消失した場所に新しい印象を植え付ける事で、記憶を保持し、阻止し得ない同一性という見せかけの外見を与えるのだ。こうしてあらゆる死すべき者が持続し続けている。永遠に同一、それは聖なる存在の特権なので、なのではなく、年齢に因って蒙った損失を似た性質の新たなる獲得物で修復する手段で補うのである。 こうして死すべき運命の者は永生不死に参画している。名声への愛や不滅の栄光を勝ち取りたい欲望は人々に強烈な影響力を及ぼしている。更に熾烈なのは子孫への執着心で、資産や命の危険さえ厭わずに守ろうと身構えている。歴史上で幾多の実例があるので知られる。 人は不死への強烈な愛情と共に生きている。肉体的により多く不死を念願する者は女性を頼みとし、霊魂の方に傾く者は精神的な後継者を強く待望する。そうした種類の子孫とは一般に言われる智慧であり徳である。最大で最美の智慧は国家や家族の然るべき序列に関わる物である。それを名付けて節制と正義と言う。 聖なる霊感によって自分がそうした性質に満ち満ちていると自覚した際に、然るべき年齢に達するや否や彼は生殖して子供を持ちたいと強く欲するに至る。そして自分の強い欲求を満たすに足る美しい対象を探すようになる。醜悪な者とは子供を持つことは出来ないからだ。この条件下では肉体的な美しさは醜さに勝るし、もし仮に美しい肉体の中に美しく高貴で上品な魂を見たならば、彼はその取り合わせを温かく迎い入れ、相手が善き人である事を示す徳や資質や行動を多く口にして、その教育を引き受けるのだ。友の肉体に埋め込まれた美と緊密に連携して、又彼の事を常に精神の前に据えて、彼が長く待ち望んでいた子供を誕生させるように積極的に行動する。そして子供が誕生した後では友と育児を共有する。彼等の間の親としての連携は通常のそれより遥かに密接であり、愛情の密着度は遥かに強力である。何故ならば、彼等が共有する子供達は不死性と美しさで人間の子供を凌駕しているから。誰でもが肉体の後ではそうした子供達を選択するだろう。例えばホメロスやヘシオドスやその他の著名な詩人を見てみなさい。彼等が後に残した子供たちを羨ましがらない者がいるだろうか。子供達は両親の為に不滅の名声と栄光とを勝ち得ているのだ。或いは立法者リュキュルガスを見てごらんなさい、彼がスパルタに残した子供はスパルタのみならず全ギリシャを救済したと言って良い。あなた方アテネではソロンがその制作した法律で名誉を得ている。その他のギリシャや蛮族の地でも、他の者達が素晴らしい業績であらゆる種類の良き果実をもたらしているのだ。少なからぬ物がその精神的な子供のお陰で人々の憧憬を贏ち得えているが、いまだ人間の子孫の理性によってはその様な素晴らしい業績は発現していない。 これまで私・ディオテマはソクラテス・貴方に愛の秘儀について述べ、多分多少はその秘密を垣間見る事となったと思っている。しかし私はこれから完全な天啓の把握へと導く巡礼の道へと案内しようと考えている。出来れば道を踏み外さずについて来て頂きたい。 この目的地への正しい道を辿る者は、もしも若者であるならば、肉体的な美を熟視黙考し、そして仮にその案内者から適正に指示を受け、先ず或る特別な美しい人に恋をして、彼との交際から高貴な感情を孕るだろう。後日、彼はどの様な人の肉体美も他の誰とも酷似した相似の美を有している事実を悟るだろう。そして、もし彼が自分の希求する目的が外形的な美だと判断するならば、全ての肉体が示している美は同じであり、同一の物なのだと認識しなければ大きな誤謬なのだ。この結論に達した時に、彼は全肉体美の愛好者となるだろう。そして安心して或る特別な人への偏執的な情熱を緩めるだろう。何故ならば、その様な情熱は下劣であり価値のないものだと認識するからだ。 次の段階では、彼は肉体の美よりも精神的な霊魂の美をより価値あるものと看做す。その結果で、ほんの少ししか美の蕾を持たない肉体の中の徳ある魂に遭遇した際に、そうした相手を易んじて愛し、心に温め、若者をより良くするのに役立つかも知れない様な考えを生み出すのだ。こうして彼は美が諸活動や制度の中に存在するありのままの姿で熟視するように強いられるのだ。そして此処でも全ての美は相似だと認識する。その結果で、肉体の美は相対的に貧弱なものだと知らされる。 教訓に学び彼は科学に方向付けされると、その美を熟思するに違いない。その結果、最も幅広い意味での美に着眼して、最早一個の美の例に対し卑しく卑俗な精神的な献身の奴隷であることに飽き足らなくなるだろう。彼の愛の目的が少年であれ、成人男性であれ、或る一つの行動であれ、茫漠たる美の海を見詰めながら、彼の関心には知恵を愛する豊富さがもたらされ、多くの素晴らしい感情や思想に向けられる。最後には、この経験から力づけられ、量をますことになった成長によって、一つの特異な科学を視野に捉えるのだ。その目的は私ディオティマが次に述べる美なのだが、これから述べる事柄に最大限の注意を払って頂きたい。
2021年11月21日
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アガトーンの話が終わった時、エリキマカスを見てソクラテスが言った。 これでもまだ私の恐れは根拠がないと言うのだろうか。アガトーンは実際素晴らしいパフォーマンスをやり遂げたのだし、私は今途方に暮れている。あの様な熱弁を聞かされた後ではそれも無理はないと誰もが首肯するだろう。特に最後の部分には鳥肌が立つのを禁じ得なかったよ。普通なら此処で私は恐れをなして逃げ出すべきなのだろう。私は諸君の様に愛の神を賛美する獻辞を持っていないから。が、私は愛の神の真実の性質をよく承知しているので、それを上手に語ることにかけては十分な自信がある。しかし、今はそれをするタイミングでないことも分かっている、私は自分流に真実を述べたいと思う。ここで私は二三、アガトーンに質問をしてみたい。 愛の神の性質とは、彼が何者かを愛しているに相違ないと言う事なのだろうか? それとも、彼は目的や対象を全く持たないのだろうか? つまり、愛の神は特定の父か母の愛情の対象なのだろか? 私は自分の論点を明確にする為に、類比を用いよう。父親とは誰かの父なのか否かと、質問をより単純化してみよう。すると、答えは、父親とは息子か娘の父だと言うことにあるだろうから。アガトーンが「その通りだ」と答えると、ソクラテスは「母親に就いても同様のことが言えるのだね」、「そうだ」、「宜しい、もう少しだけ、意味を明瞭にしてみようか。兄弟の意味は本質的に誰かの兄弟を言う。どうだろうか?」、「当然に、そうだ」、「事実は、兄弟か姉妹の、兄弟という意味だね」、「そうです」 ソクラテスはこのように話を開始した。愛の神は何物かを愛している存在だ。この点をしっかりと把握しておこう。愛の神が愛している対象とは何なのかに注目しよう。 愛の神は、彼が愛している対象を、愛しているのだろうか、愛していないのだろうか? 愛しているに決まっている。それでは、彼は自分が欲したり愛したりしている何物かを愛したり、欲したりしている場合に、彼はそれを所有しているのだろうか、所有していないのだろうか。これも答えは簡単明瞭だ、所有していない。 扨、次に進もう。大きくなりたい者が居たとして、その者は大きいだろうか。同様に、強くなりたい者は強くないのだ。或る性質を持っている者は、それを求める必要はない。 何かを強く欲求するとは、それが現在欠けているからに相違ない。これまでの所を要約しておこうか。第一に、愛の神はある対象との関係においてのみ存在する。そして第二に、その対象は現在は欠乏している何物か、なのだ。 前に述べられた説によると、神々の間の揉め事は美への愛に因って作られる。何故ならば、醜さへの愛と言ったものは有り得ないからだ、という事だった。だとすれば、愛の神とは美を愛するので、醜さを愛するのではない。 我々がこれまでに一致したのは、愛の神は自分が所有しない、不足する物を愛している事だ。 すると結局、愛の神は美に於いて不足し、現在は所有していない、事になる。それでは、美を欠いており所有しない物は美しいだろうか、美しくないに決まっている。これは諸君が前に述べた立言と矛盾してしまう。所で、私はディオティマと言う女性から聞いた愛の神の説話をここで披露してみたい。彼女には他の業績もあった。アテネ人達が疫病を避けるために犠牲を捧げていた際に十年間遅らせることに成功している。しかし目下の関心では、愛の神の技芸に関する私の恩師であったことが重要なのだ。 私はアガトーンと遣り取りした全く同様の会話をディオティマと交わした挙句に、こう叫んだものだ、「なんだって、愛の神が醜くて、悪いだって!」、「そんな風には仰らないで、美しくないものは即、醜いですって。そして知でないものは、イコール無知ですって」と彼女は悲鳴に似た声を発した。 知と無知の間には途中の状態がある。真実を穿っていない心の状態は全て無知だなんて、乱暴な表現は止めよう。正しく在りの侭に、知と無知との中間状態と言いましょう。同様に、美しくないのは醜いでなく、良くないのは悪いではない。二つの中間なのだ、と彼女は言う。 愛の神はそれでも偉大な神だと人々の皆が認めていると私・ソクラテスが言うと、彼女は次の如くに切り返して来た。 神は全て幸福で美しい存在なのでしたね。しかし、愛の神は良くて美しい物を欠いているのでそれを求めて已まないのでしたね。良いもの、美しい物を分け与えられていない存在が、神で有り得ましょうかね。当然に、神ではありません。 それで愛の神は何物なのか。死すべき物と不死との中間に在るもの。霊的な性質を有したあらゆる物であり、半神、半人間である。どの様な役割を担っているかといえば、神と人の中間に居て両者の間でメッセージや思いを伝える偉大なる精霊である。 仲介者的な存在として、霊は両者の溝に橋を架け、宇宙が二つに分割してしまうのを予防する。この階級の存在を通して、全ての予言術、神官の儀礼祭式での超自然的技術、あらゆる魔術や魔法が行われるのだ。神々は直接には人間に関与しない。神々と人間との交流や交信は霊的存在を介して、起きている時にも寝ている時にも、行われる。霊的な技術を有するのは霊的な人間であり、商業や手先の技術に限定された人間は、地上的な存在だ。霊的な存在は数が多く、種類も多岐に及ぶが、その一つが愛の神と呼ばれる存在なのだ。 それでは彼を生んだ両親は誰なのか。それを述べると長い物語になる。美の女神のアフロディテが生まれた日に神々は祝祭をしていた。その中に創造の息子の工夫の才能がいた。夕食の後で宴が酣(たけなわ)になったので、貧困が懇願しに来て門口に立った。その時には工夫の才能は神酒ネクトルに酩酊していた。ワインはまだ発明されていなかったのである。工夫の才能はゼウスの庭に出て行って睡魔に克服された。そこで貧困は工夫の才能の子供を孕(みごも)ることで自分の哀れな条件を緩和しようとして彼と共寝して愛の神をその腹に宿した。 愛の神はアフロディテの誕生日に懐胎したので、彼はまた身内に美への情熱を有していたので、更にはアフロディテの美その物を希求していたから、彼は彼女の追従者となり、従者となった。又、工夫の才能を父とし、困窮を母としていたので、彼は次のような性格を帯びていた。 彼は常に貧乏であり、繊細さや美しさからは程遠かった。通常、人々が想像する様ではなかったのだ。彼は頑健で雨風にさらされていた、靴はなく、住む家はなく、寝るベッドが無いのでいつも野外で寝た。地面の上や玄関先の階段で、また道路の上で。ここまでは母親の流儀を受け継いで欠乏の中で生きた。が、父親の息子でもあるから、美しいものや良いものを自分の物にしようと目論んでもいた。彼は大胆で前向きで精力的であり、巧妙な狩猟者の如くに常に策を弄している。彼は知識を追い求め、機略縦横さに満ち、一生涯にわたり知恵を愛好する。巧みな魔法使い、煉丹術師、真実のソフィスト。 彼は死すべき者でも不死の存在でもない。全く同一の日に生き栄え(事が上手く運んだ際には)、そして又死にも出遭う。そして更には、父譲りの活力を介して再び生を得る。勝ち得た物を常に失い、裕福でも貧乏でもなく、賢くも無知でもない。 事の真実はこうなのです。神たるものは知恵の愛好者ではなく、賢さを欲求したりしない。何故なら神は既に賢いのだから。同様なことが他の賢い人に関しても言える。 他方で、無知なる者は知恵を欲したり、賢く有りたいと欲望しない。無知さに就いての退屈な事はこうだ。美も良き物も智慧も持たない者は自分自身に完全に満足しているから、自分に不足する事柄があると信じない者が、その不足物を希求して追い求めることなど絶対に有り得ないのである。
2021年11月17日
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次のアガトーンがスピーチを開始した。僕の意図は、最初に原則を述べ、次に本題に入ることだ。前に述べた人達は愛の神そのものを賛美するよりは、彼が人々に与えている祝福を述べていたように僕には思える。こうした贈り物を与えているのは一体どう言う存在なのかを言った者は居ない。何か賛美の言葉を述べるのであれば、その主題となっている性質をも述べなければ、正しく賛美した事にはならないだろうからね。それで僕は愛の神を褒め称えるのに、初めには神の性質を、続いて彼が我々に与えてくれる贈物について述べたいと思う。 僕は次のごとくに主張したい。もし天上からの嫉妬を免れるならば、全部の神々の仲間の中で、愛の神のそれがもっとも幸福であろうと。彼は最美であり最善であるから。 愛の神が最美であるとは次のような考察から立証出来ようか。パイドロス君、先ず第一に彼は神々中で一番年が若い。彼は迅速に動く老年からも逃げることで、僕の主張を真実だと証拠立てている。誰もが知るように老年とは予想よりもいつも早く速くやって来るのだからね。 老年を嫌うのが愛の神の性質だ。彼の全生涯は若者達と共に過ぎる。類は友を呼ぶとの古い諺は本当なのだ。僕はパイドロスの意見に全面的に賛成するが、唯一点だけ、愛の神が此の世の始まりと同じくらい古いと言う指摘には反対だ。彼は神々の中でも最も若く、常に若さを保っている。ヘシオドスやパルメニデスが語っている古代の天上界での擾乱は必要の神の仕業であり、愛の神に因るのではない。そもそもそうした事態が起こったと仮定した時の話だが。手足の切断とか投獄、その他の暴力行為は愛の神が居たならば起こり得なかった筈だからね。全てが平和で友好的だった、愛の神が天上界を支配する現在と同様に。 愛の神は若くして、困難な事態には繊細である。彼が如何に繊細であるかを述べるには第二のホメロスが必要だろう。ホメロスは熱中・夢中は神聖な要素だけでなく、神経質な性質を帯びていると描写している。或いは、とにもかくにも繊細過敏な足を有している、「彼女の足は優しく柔らか、地面にその足を下ろそうとは決してしない。ただ繊細な足先を人間達の頭上にそっと下ろすのみ…」とホメロスは言う。私見ではホメロスはその女神の繊細この上ない歩みを実に巧妙に使ってその性質を描出している。我々も同じ筆法を用いて愛の神の絶妙な繊細さを具現化しなければならないだろう。愛の神は大地や人々の頭上と言う、どちらかと言えば硬い場所は歩かれない。全ての存在物の中でも最も柔らかな物の中に生き、動く。人々の性格や魂の中にその住居を確立されているのだ。全ての霊魂にではない、彼は堅い抵抗を受けるや其処を立ち去るから。が、柔らかくて従順な性格を見つければ、そこがどこであろうと住み着くのだ。詰まり、彼は足先で付着するのではなく、その全存在を以ってして柔軟な物の中でも最も柔軟な相手にぴったりと纏わりつくのだ。極度に繊細な性質を示すわけである。 愛の神は非常に若く極度に繊細であるだけでなく、しなやかで柔軟な形態を有している。彼が硬かったり硬直した性質だったら、どうしてあらゆる物を包み込み得ようか。そしてあらゆる魂に入り込み、またそこから密かに逃れ出る事が出来ようか。 彼の比類のない優雅さは、それは一般に卓絶している事を公認されているが、又、ぎこちなくく硬直した性質は愛の神とは絶対的に相容れない要素だから、彼が良く均斉の取れた柔軟な形体を持っている証拠である。 彼の表情の美しさは花の間に住んでいることで分かる。彼はどの様な住まいにも落ち着かない。身体であれ、魂であれ、その他の物、花が咲かない物や枯れる物には。が、花が咲き、芳香を放つ場所を一箇所でも見出すならば、腰を落ち着けて住むのだ。 僕は多くの事柄を触れずに残したが、この神の美を証拠立てるのには十分だろう。しかし彼の良さを更に述べようと思う。この最も重要な点を挙げれば、彼の神々や人間とのやり取りで何も悪いことは与えないし、同時に悪いことを被ったりもしない事だ。彼が受動的である場合は、暴力が加えられているからではなく、暴力は決して愛の神に触れることはないから、又、彼が活動的である場合は決して暴力を用いない。何故なら、誰でもどんな事柄でも、進んで彼に従うのだから。相互間に承諾がある限り、至高の社会の支配者たる法律は正しいと宣言されるべき性質の物なのだから。 加えて、愛の神には豊かな自己抑制の美徳が賦与されている。自己抑制とは快楽や欲望を克服する事で、愛そのものより強力な快楽は存在しないのだ。もし全ての快楽が愛よりも弱いとするならば、愛こそは快楽の支配者であり、その他は臣下であろう。従って愛の神は、快楽や欲望の君主にして、空前絶後の比類なき自己抑制の保持者の名に値する。 勇気について言えば、愛の神は戦の神アレス以上だ。愛を捕虜にしたのはアレスではなくて、アフロディテの愛人であるアレスを捕虜にしたのは愛である。詰まり、言い伝えによれば。捕虜よりは捕獲者の方が勝れているのだった。他の全勇者中の一番の勇者を捕獲したのだから、必然的に最大の勇者と言う事になろうか。 この神の道徳的な高潔さ、自己抑制、勇気などについてはこの位にして止めておこう。彼の智慧が残っている。僕としてはこれを間違いなく処理したい。最初には、エリキマカスが彼に与えた同様の先例に倣い、技巧の限りを尽くして述べてみたい。彼は自身が素晴らしい詩人であるから他者をも同じ詩人にする。ともかく、以前には詩神のミューズなどとは無縁であった者でも、彼が触れた相手は誰であれ詩人になる。幅広く言って、愛の神があらゆる芸術的な創造の分野で卓越している証拠として、これを受け止めるべきであろう。一体誰が自分の持っていない物や知らない芸術を他者に授けたり教えたり出来るであろうか? あらゆる種類の生者の創造に関して述べれば、これは愛の神の智慧の恩恵だと受け取らざるを得ない。それによって全部の生者が生まれ、成長している。 最後に、芸術分野の制作では、この神を自分の教師として持っている者は注目されて有名になり、そうでない者は世に埋もれたままである。この欲望と愛の神の案内を受けてアポロは弓術と医術と予言の技術を発見したのであり、アポロもまた愛の神の教え子だと呼んでよい。同様に、詩神ミューズは文学に於いて、へファイストスは鍛冶の技で、アテネは機織りの術で、ゼウスは神々や人間を支配する事に於いて、愛の神の生徒である。 同様に、愛の神の誕生こそが、疑いもなく美への愛が、神々の間の揉め事を作り出したのだ。何故ならば美の神は醜さに自身を拘束させることが出来なかったからだ。それ以前は、僕が初めに述べたように伝説が伝えるように、天界には恐ろしい出来事が、最高支配者の必要の神に因って惹起されていた。が、愛の神が誕生するや否や、神々にも人間にも同様に、あらゆる種類の幸いが齎されたのだ。 僕の意見では、だから、パイドロス、愛の神は第一に美や彼自身の善良さで卓越しており、第二には他者の同様な性質の原因になっている。実に、僕はこの考えを韻文で表現したい気分に駆られているので、それを述べようと思う。愛の神が創造した、「人々の間には平和、海には凪、不和の風には休息、そして悲しみには眠りを」と。 我々の阻隔不和の気分を空にして、友愛の気分で満たしてくれるのは愛の神だ。相互間のこうした交友を可能にしてもいる。祭りや踊りや、犠牲的な行為を主宰する、良好な気分を与え、意地悪を追い出す、彼の贈物は善意であって悪意ではない、懇願には直ぐに応じ、非常に親切、賢者の凝視を受け、神々から尊崇され、彼を持たない者から熱望され、彼を所有する光栄に浴す者の宝物である、優雅さ、繊細さ、肉欲に耽る感性、全ての優美さ、憧れ、そして欲望の父、善き人の幸福に敏感で、悪者の運命には無関心、労苦、恐怖、欲望、演説での最善の水先案内人、兵士、仲間、救済者、天と地の秩序の作者、歌の愛らしく、最高の指導者、彼の褒め歌を歌いながら彼に付き従い、そのメロディの自分のパートを受け持ちながら歌う、彼は神も人も引っ括めて呪文で魔法をかけてしまうのだ。
2021年11月12日
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人体の原型がこうして二つに割られてしまったので、各半身は切断された半分を切望して求めた。両者は出会うと両腕を伸ばして相手を抱擁した。再び一緒になることを切に望み、互の飢えと全体的な関心の拒否とを解消したくて。何故なら、彼等は残りの半身がなくては何も出来なかったから。一対の片方が死んで一方が後に残された場合に、彼は相手を探し求め、別の相手を抱擁した。この別の相手はメス、今日では女性と呼ばれている、であるかオスである。 それで彼等は死滅を続けた、ゼウスが可愛そうだと感じるまで。ゼウスは第二の計画を思いついた。彼は人間達の生殖器を前に移し替えた。それまでは生殖器は身体の外側に置かれていた。そして両性の妊娠と出産の過程は両性の身体的な接合によって行われずに、バッタなどに見られるように地面に産み付ける方法によった。 現状がそうであるごとくに、生殖器を体の前に移すことでゼウスは人間の生殖を男女の交接によって行うことを可能にしたのだ。彼がそうした目的は二つある。男が女と一組になれば子供が生まれ人類は存続する。が、男と男が一組になれば、兎も角も接合への欲望は満足させられ、人はその欲望からは解放されてその他の活動や日常の他の仕事に就くのだ。 人類が相互に感じる生得の愛情が始まったのは、だからこの遥かに遠い時代からなのだ。この愛情は我々を太古の状態に復帰させ、二つの存在をひとつに溶接したいと望み、人類が蒙った傷を治したいとの試みなのである。 それで我々ひとりひとりは人間の分割した一対の片割れなのだ。我々を平らな魚の状態にした分断の結果、銘々が絶えず割符の対象者を求めているのだ。こういう人々は両性具有者と呼ばれた通常の性別者の半分なのであり、女性達を愛情の対象とし、大多数の姦通者はこの階級の出自である。又、同様に女性は男に熱狂し、性的に無差別に相手を求める。 女性性の半分だった女性はその愛情を女性に向け、男には目もくれない。レスビアンがこの範疇に属する。しかし、男性性の片割れだったから男を追求する者たちは、謂わば男の一部分だからその少年期を通じて男を愛し、男との身体的な接触に快楽を得る。そうした少年や青年達はその世代の最良の者達だ。理由は最も男らしいから。彼等を恥知らずだと言う者もいるが、それは間違いだ。そうした青少年達の行動を鼓吹するのは破廉恥さではなくて、高揚した精神や男らしさ、雄健さなので、それは彼ら独自の社会を喜んで向かい入れさせている。この明瞭な証拠は、彼等だけがその男盛りに公的な社会に奉仕している事だ。 彼らが成人すると少年を愛する者となる。それには慣習の強制で彼等の持つ結婚や生殖への自然な嫌悪感に打ち勝つ事が要請される。彼等は結婚せずに互が一緒に生活することに全的に満足している。要するに、そうした人々は少年期には愛人に献身し、そして自身が大人になると少年愛者となる。何故なら、彼等は自分と同類の物といつでもぴったりとくっついているからだ。 少年愛者は、或いはそれに類した性愛者は、実際の片割れに廻り合う幸運を有している故に、愛情と類似と恋愛感情の連合したものが彼の中の実に圧倒的な感情を鼓舞して、そうしたひと組の者達がたとえ一瞬たりとも離れていることを拒否するようになる。こうした人々は一生涯にわたる友愛を築き続ける。自分たちが相互の友愛関係から何を得ようと望んでいるかを言葉で表現するのは難しいけれども。それは単なる肉体的な楽しみが相手と一緒にいる熾烈な喜びを齎すのだと誰も想定し得ないだろう。表現の手段を見出し得ないなにか外の憧憬物が彼等の魂に有ることは明白なのだから。我々はそれを推量したりぼんやりと暗示する事ができるだけだ。 仮に火と鍛冶の神のヘファイストスが少年性愛者達が一緒に横になっている所を訪ねて、次のように質問したと仮定してみようか。「君たちが可能な限り一緒に居ようとし、昼も夜もお互い同士離れたくないと望む欲望の目的は一体何なのかね、死すべき者達よ? それが君等の欲することなら私は進んで溶かして一緒に溶接して上げよう。そうして二人ではなく一つの肉体にして上げよう。生きてある限り一つの共通の生活をするし、死ぬ時には共通の死を迎える。そして依然として独りであり、次の世でも独りなのだ。こうした運命が君達を満足させるのなら私がその憧れを充足させてあげようか?」と。 我々はその答が何であるかを知っている。誰もその申し出を断る者はいない。明白なのは誰もがそれを望んでいる事実だ。皆が強く望んでいて、上手く秩序立てて説明出来ないでいた、欲望の内容を正に正確無比に表現しているのだから。詰まり、二人ではなくて「独り」に合体できたらどんなに幸せだろうかとの夢の如き理想の具現化なのだ。 理由は、我々が最初期に完全体でいられた理想状態であり、愛とはその完全を取り戻す欲望と追求との別名なのだ。生まれ立ての状態では、人類は完全体の状態にあった。我々の邪悪さがゼウスの怒りを買い分割の憂き目に遭わない以前には。 だから人類は神々の目に正しく見える様に公明正大に行動し、神々の怒りを避けて、悪運を逃れるように努力をする義務がある。愛の神を案内人とし船長として行動するならば、その力を借りて祝福を受けることが可能だ。 人が愛の神に反対して行動しないようにしよう。それは神々の憎悪を招かないようにする事と同じで、愛の神の友となり平和を保つならば、厳密な意味合いで愛するに値する相手を見つけることに成功する。現在は非常な少数者なのだがね。 僕は知っているよ、エリキマカスが僕の話を笑い物にしとうと躍起になっているのを。が、彼は想像出来ないでいる、僕がパウサニアスやアガトーンの事を言おうと思っている事をだ。疑いもなく彼等二人は今言った階級に属しているから。彼等は間違いなく男性性の完全体なのだ。僕が愛の神の命令に従って人類の幸福への道を述べる時に、男や女一般に就いて話しているのだ。詰まりは、元初の状態に戻れと。それが最善であるならば、現在の状況が許す限りそこに近づく事、それは我々の愛情に向けて共鳴できる、同類の対象を見つけ出す道なのだ。 もし我々がこの恩恵を与えてくれる神を褒め称えるとすれば、それは愛の神をおいて他にはない。愛の神こそは現在の生活での幸福の作者であり、我々を導いて同類の存在へと誘い、確かな希望を授けて下さる。天上の視点から善いとされる行動を取る限り、祝福と幸福とをもたらして下さるだろう。そして以前の状態に我々を復帰させ、傷口を癒してくれるのだ。 以上が僕の愛の神に関するスピーチだ。諸君の話とは全く違っている。後はアガトーンとソクラテスが残るだけだ。と、エリキマカスは言葉を継いだ。もしも僕がこのテーマについてはアガトーンとソクラテスが権威であることを知らなかったなら、今までの素晴らしい話の内容で全部が語り尽くされてしまったと心配したことであろう。しかし事実はそうではないのだから、残った二人に僕は全幅の信頼を置いているのだ。 するとソクラテスが言葉を発した。エリキマカス君、素晴らしいパフォーマンスだったよ。が、現在の私の立場を理解してくれたまえ。或いは又、アガトーンが卓越した話術を披露してくれた後の私の置かれるであろう極度の狼狽と、万策尽きた心細さとを。 今度はアガトーンも黙っては居なかった。ソクラテス、貴方は僕に呪文で金縛りの術をかけようと言うのですか。あたかも僕の雄弁が聴衆達の熱烈な期待を呼んでいるかの様に錯覚させて。 ソクラテスも応じた。アガトーン、君はあの君の手になった傑作が大観衆の前で演じられた後で、悠然として観衆の賛辞の坩堝を前にしていた。この場のほんのひと握りの聞き手の前で、君が少しでも気後れを感じるなど、誰一人として思わないだろう。 所が、ソクラテス、一人の賢者の前で話をするのは、愚者の集団の前のそれに比べて、比較にもならないくらいに恐怖や怯えを感じさせるものだ。
2021年11月09日
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(体の健全で健康な部分を満足させ、不健全で病的な所を妨害するのが、良い開業医の義務なのだ)これが我々が医学と呼んでいる物の仕事なのだ。つまり医学は人体の食物摂取や排泄を司る愛の原則に関する知識と言える。最も有能な医師とは人体のこの分野における高貴さや卑属の区別が出来る者であり、卑属を高貴に変え、不足する要素を人体に植え付け、必要とするものを取り入れさせるのである。彼は人体に最も敵対する疾患に愛情という要素をもたらすことが出来なければならない。そのような敵対する要素とは、熱いと冷たい、湿っていると乾いている、そう言った物である。この真反対な物に愛と調和を創り出す方法に就いての知識だと言えるのが医術だ。それはその技術を創始した我々の祖父アスクレピオスの功績である。 それで、繰り返して言えば医術・薬学はこのアスクレピオス神の全的な支配下にある。自然科学や農耕術も同様である。音楽に関しても同様であることは、そうした話題に殆ど関心を持たない者にとっても明白である。音楽は相互愛や親近感を植え付ける事で、調和していない要素の間に一致を創り出す技だと言えるから。医学が異なった分野の相違を匡すように、音楽もまた調和やリズムに関して愛の原則を学ぶ術であるから。 話を元に戻そう。満足させられて保護されなければならないのは、高潔な人が感じている愛である。それは徳の足りない者をしてより有徳の人に変える目的を有している。これこそは高貴にして聖なる愛であり、天上の女神のウラニアと共同している。 しかし勿論歌の女神ポリヒムニアに関連した卑俗で普通の愛もある。そしてこれを利用する際には、これを誰に対して行うのかの選択には最大限の注意が必要となる。放蕩の色合いを全く植え付ける事なくそれが与え得る快楽を手にするにはである。同様に私の職業においては、栄養豊冨な食物に食欲を向けさせ、病気を起こさせることなくその快楽を楽しむよう仕向ける事など何らの技術も要しない。それで種々の愛は我々医者の注意深い世話の目的とならなければならないい。音楽於いても、医学でも、その他の全部の事柄で、人間的な愛情と聖なるそれが必要となる。何故ならば両者はそれら全部で見出されなければならないから。 その上に、一年の各季節は両種の愛の遂行を見せやすくする様に定められているのだ。私が前に述べた、熱い冷たい、乾いている湿っている、などの要素が愛の中で一緒に結び付けられて、順序正しく、適正な配分で調和的に結合されて、人やその他の動植物が繁栄し、健康で害がない状態に置かれている。 しかし過度な愛が季節の事柄の中で優勢である時には、広範な破壊や危害が引き起こされ、これによって流行病やその他の様々な病気が発生しやすくなる。霜、霰(あられ)、虫害などは愛の影響下にあるこうした要素相互間の不順なせめぎ合いの結果なのだ。それが星々の運行や一年の季節に及ぼす影響の結果は天文学と呼ばれる学問の対象なのだ。 再言すれば、全ての犠牲的行為や行動は予言の領域内に起こるのであり、神々と人間達との相互関係の全部を含んでいるが、全体として愛の維持と治療とに向けられている。全ての種類の罪は徳のある愛の代わりに罪深いそれを、人があらゆる行動で満足させたり、誉めそやしたり、より高めたりした結果なのだ。その様な行動によって影響される人が例え、両親であっても、生者か死者か、或いは神々であるかに関係なくである。これらの事柄に於いて、予言の役割は二種類の愛を監督して必要な場所に治療を施すことだ。予言・占いは人間と神との間に善意を確立する技術である。何故ならそれは愛の原則を理解し、人間の生活に徳のある神を恐れる行動を齎すからである。 そうであるから愛一般は、多種多様な、偉大な、或いはもっと正確には全能の支配を行うのだ。愛は、その目的は善事であり、その達成は謹厳さと有徳さを伴っている。天上であれ地上であれ愛は偉大な力を有して我々全部に幸福を作り出してくれるし、我々が仲間や神や主君達と調和共同して生きることが出来るようにしている。 私は愛を賛美する言葉の中で幾つかの点を省いたかもしれないが、もしそうでもそれは意図的な事ではない。残したのは、アリストパネス君、君がその隙間を埋めてくれるだろうから、自然にそういう次第になったのだ。さあ、次は君が話を開始したまえ。しゃっくりも収まったことだし。 こうしてアリストパネスの順番になった。彼は次の如くに話した。 人々は僕にとっては愛の神の力に全く鈍感だと思われる。そうでないなら、もっと大きな寺院や祭壇を作り、最高級に大きな犠牲物を捧げていることだろうからね。愛の神はそうされても当然なのにそうしては貰っていないのだから。 愛の神は神々の中でも人間に最も友好的で、彼の援助者たる医者は病気の治療において人類に最大級の幸福を示しているのだ。だから僕は諸君に彼の力の秘密を開示して見せようと試みたい。後は諸君が他の者達に話して聞かせればよいのだ。 まず最初には、人の構成とそれが経験した制限に就いて学ばなければいけない。何故ならば、最初は現状とは違っていたのだからね。最初期には三つの性別が存在した。今の我々の如くに、男性と女性の二つではなくて。三番目のそれは、両方の性質を共に備えていたが、名前だけが残っていて消滅してしまったのだ。男女同性具有体は名前だけでなく厳密な性の在り方なのだった。この第三の性は男性と女性の両方の性質を持っていたが、今では名前だけが残った。それも専ら悪態語としてだけ。 第二には、それぞれの人間が一つの丸い全体を形成していた。完全な円形を形成する形態で脇腹と背中が二つ有ったのだ。四本の手と同数の足があり、二つの同じ顔を円形の首の上に備え、しかも頭部は二つの顔が共有していた。その顔の向きは逆である。四つの耳と二つの生殖器が有り、その他の全てが照応して一致していた。 これらの人々は我々同様に直立して歩き、前でも後ろでも、あらゆる方向に進むことが出来た。が、速く走りたい時には八本の手足を使い、手押し車の車軸を回す軽業師のように円形に素早く回転し、又元の直立姿勢に戻るのだ。 こうした三つの性別の存在とそうした性質が有る理由は、元々が男は太陽から発生し、女が大地から、男女具有者は太陽と大地との性質を兼ね備える月から生まれたからである。彼らの円形の形やフープの様な進行法は共に両親に似たからと言う事実に基づいている。その身体力と活力は彼らをして恐るべき者としたし、その誇りは強大だった。彼等は神々を攻撃した。ホメロスが語ったエフィアルテスとオタスが天にまで昇る事を試み、神々を襲った物語も又これらの者達に関連するものだ。 そこでゼウスやその他の神々は彼らをどの様に処罰すべきか討議した。神々は長い間途方に暮れた。嘗て巨人達を電雷で撃ち殺しその種族を根絶やしにしたようにすべきかどうかと。そうすれば人類から得ていた名誉や犠牲物を永遠に自分達から奪うことになる。それとも、彼等の傲慢さをその儘に見逃すか? 最後にゼウスは考えに考えた挙句に或る考えを思いついた。儂(わし)は人類にその存続を許し、且つ彼等の悪賢さに終止符を打つ方法を、彼等を今より弱くする事で解決しようと思う。儂は奴らを二つに分割しよう。そうすれば奴等は力が弱くなる。同時に数が増えるので我々にとって得になる。奴等は二本足で直立して歩くだろう。その後でも奴等の勝手気ままが治らずに、静かにしていないなら、儂は更に奴等を二等分してしまう。すれば一本足で飛び跳ねるしかなくなるだろうから。 こう言い終わったと同時に、ゼウスは人間の種族を二つに分けて、乾燥して保存する果物と、毛髪で二つに割る卵の類にした。彼は人類を二分割してから、アポロに顔の向きを変えさせ、半分の首をそれに付着させた。そうしてそうされた者が将来より良く行動できるようにした。ゼウスはアポロに傷を治すようにも命じたのだ。その際の傷跡が臍と呼ばれている部分なのだ。
2021年11月04日
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