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○ いまはん本店・従業員通用口(数日後) みどりが通用口を入って来ると、それを待ち兼ねたように声を掛けたのはレジ係の倉持はな(47歳)である。は な「みどり御姐さん、じゃなかった、G M (ジーエム)とお呼びしなければいけなかったですね、済みません」みどり「構いませんよ、他に誰も居ませんし、私達だけですから」は な「有難う御座います。実は折り入って増子 G M にご相談致したい事が御座いまして、お待ちしていたのです」みどり「珍しいことですね、倉持さんに悩み事があったなんて。いいですよ、此処での立ち話も何ですから、近くの喫茶店でジュースでも飲みながらお話を伺いましょうかしら」は な「有難う御座います」○ 近くの喫茶店 みどりとはなが窓際の席に向かい合って座っている。は な「手短にお話申し上げます。増子さんも御存知の懐石部の白石 忠のことなのですが、ここ数日来仮病を使って店を休んでいるのです。私の親友の息子で、性格も良いし、腕も師匠格の親方が太鼓判を押すような、将来有望な青年なのですが、調理場内部の揉め事に巻き込まれた様子で…」みどり「白石さんなら、懐石部門のチーフも褒めていますよ、いつも」は な「それで、超御多忙でいらっしゃる G M にこんな個人的な問題をお願いしたら、店長さんからきっとお叱りを受けるに違いないのですが」みどり「私達のお仕事は、全体のチームワークが最も大切なことですので、決して個人だけの問題ではありません。私に出来ることでしたら、何なりとお力添えさせていただきます」 はなは椅子に座ったままで最敬礼している。○ 横浜・港が見える丘公園(翌日) 一人の青年がさっきから所在無さげに、ベンチに腰を下ろしたり、立ち上がったりを繰り返し、誰かを待っている様な格好である。 声 「白石君、遅れて御免なさい」 清楚な洋服姿に日傘をさしたみどりの姿が背後にあった。白石 忠「あっ、増子 G M ! 遠くまで御足労頂きました。本当に申し訳ありません、恐縮です」みどり「とんでもありません。こちらこそ、急に無理をお願いしたのに、会って下さって有難う。お礼を申します」 忠 「お礼だなんて…、元々、問題を起こしてお店側に迷惑をおかけしているのは、このボクの方なのですから」みどり「(視線を遠くに遣りながら)いつ見ても美しい眺めね、心が洗われるような素敵で、平和な気分がする。考えてみれば、これも白石君のお蔭ね」 忠 「そんな(恐縮している)」みどり「船を目にすると、私、亡くなった父親のことを思い出すの……。若い頃から遠洋漁業・捕鯨船にずっと乗っていて、一年の大半を海の上や外国の港で過ごしていた」 忠 「(も、港の方へ視線を向けて) …… 」みどり「白石君、中華料理はお好きかしら」 忠 「(頷く)」みどり「中華街に行きましょうよ、私がご馳走しますよ、特別に」 忠はニッコリと笑みを見せた。○中華街のメイン通り 仲の良い親子の様に歩く、みどりと忠。○ 小体な中華料理店の中 片隅のテーブルに着いているみどり達。みどり「美味しそうなお料理ね。遠慮なく召し上がれ」 忠 「はい」と、稍、緊張が解けた表情。と、みどり「私、今日はお休みを頂いているので、お酒を頂こうかしら。白石君もどう、一杯いかが?」 忠 「えっ、御姐さん、お酒を飲まれるのですか」みどり「私、本当はお酒強いのよ。酒豪と呼ばれたこともあったの、若い頃はね。でも、お店の皆さんには内緒よ、ここだけのヒミツ」と、笑う。つられて忠も屈託のない笑顔を見せている。○ いまはん本店・調理場(数日後) 夜の宴会の確認のために顔を出したみどりに、懐石部のチーフ料理長が声を掛けてきた。チーフ「 G M 、ご苦労様です。宜しくお願い致します。段取りよく準備致します」みどり「こちらこそ宜しくお願い致します」 持ち場に戻ろうとしたみどりに、総料理長「増子さん、いつも色々とお世話様です。お蔭さまで(と、奥の白石 忠の方を目顔で示しながら)彼奴(あいつ)も職場復帰して、役目を果たしてくれています。本当に G M には何から何までご面倒をおかけして相済みません」みどり「そんな風に仰って頂くと私も気が楽になります。少し出過ぎた事だったかも知れないと、内心で反省していたところでしたから」総料理長「出過ぎたなどと滅相もない。一同心から感謝致して居ります、なあ」と、近くの板前達の方を見返る。板前達が一斉に頭を下げて感謝の意を表明した。みどり「有難う、皆さん」 そう言い置いて、軽やかな足取りで地下の調理室を出るみどり。○ いまはん本店・女子従業員控え室 慌ただしく相次いで駆け込むように出勤して来た土田ユキエと神林詩織の二人。その新人二人を控え室の中央で既に和服に着替えて待っていた、気合十分な桜田 鮎。二 人「お早う御座います」 鮎 「お早う御座います」と、静かに挨拶を返した。そして銘々に自分流に和服に着替えている二人の様子を見守っている。 ―― 時間経過 二人を引き連れて、これから接客の行われる個室に向かう桜田 鮎。○ 三階の個室 鮎を先頭に入って来る三人の仲居たち。二人の新人に大まかな客の配置と段取りなどについて説明を加える鮎。 鮎 「今日は私が以前に格別に御贔屓にしていただいていたお客様が、特別に大切なお客達をお連れするので宜しく頼むと、再デヴューの私を名指しで指名して下さったのです。みどり G M からあなた方二人をアシスタントにと、これも異例のご指名がありました。増子みどり G M は私にとっては神様のような尊敬する大先輩です。そのお言葉がなかったら、私はベテランの御姐さん方を付けて下さる様に、申し出たでしょう。あなた方お二人にとっても試練ですが、私にとっての一大試練なのです。ご協力を宜しくお願い致しますね」 と、静かだが真剣そのものの声音が、新人二人を圧倒する。 ―― 時間経過 十名近い客たちが顔を揃え、既に料理が運ばれ始めている。年嵩の客「それでは乾杯を致したいと存じます。恐縮で御座いますが、皆様、御唱和をお願い申し上げます。そして隣におります、若輩者ではありますが、次期社長を私同様にお引き立て頂きますよう衷心よりお願い申し上げます。それでは皆様方の益々の御健勝を祈念致しまして、乾杯!」一 同「かんぱーい」と唱和した。 傍らに控えていた鮎が見本を示すように、先代社長の側に寄り、酌をし、次に、その指示に従って顧客筋の連れ達にお酒を勧めて回る。新人二人も固くなりながらも、愛想のよい笑顔を絶やさずにお酌をし、料理を運んでいる。客の一人「御姐さん、焼酎は何かありますかな」詩 織「御座います」 幾分ぎこちない態度ではあるが、無難に対応している・もう一人の客「御姐さんは和服が似合いますね。普段も和服で過ごされているのですか」ユキエ「いいえ、お店に居る時だけです」別の客「そうでしょうな、家の娘なども専らジーンズと T シャツですからな」次期社長「そう言えば、お嬢様が御婚約なさったとか」その向かいの客「ほう、お耳が早い。さすがですね、お若いのに」次期社長「(頭を掻きながら)お褒めに預かって恐縮で御座います」と、相手に手で料理を示し、箸を付けるように促す。座は次第に、和気藹藹たる雰囲気に包まれて行く。
2021年07月30日
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○ いまはん本店・女子従業員控え室・翌日 仲居達が和服に着替えながら昨日の噂話でもちきりである。仲 居 A「やっぱりサービス長・GMは凄いと思うわ」仲 居 B「そうよね、ついつい蔭では お局様 なんて、悪態をついてしまうけど」仲 居 C「結局、無銭飲食だったのでしょ、昨日の変なお客」仲 居 A「それが全く藪の中なのよ」仲 居 B[藪の中って、全く真相が掴めないっていう意味…」仲 居 A[そう(頷く)」仲 居 C「あれですもの、店長が ” みどりさん、みどりさん ”って二言目には頼りにする訳よね」 隅の方で新人の二人、神林詩織と土田ユキエが小さな声で語り合っている。ユキエ「憧れのスーパースターだわ」詩 織「私達とは出来が違うのね、最初から、何もかも」ユキエ「側に寄れないようなオーラみたいなものが出ている」詩 織「先輩の誰かが言ってたけど、青森の実家の人達と電話でお喋りする時には、お国言葉の方言丸出しなんですって」ユキエ「普段は東京弁と言うか、標準語なのでしょ」詩 織「面接の時にお会いした以外、直接お話したことがないから良くわからないけれど、方言でないことは間違いないでしょうね」ユキエ「ドン臭い東北弁と、洗練された粋なイメージが全く一致しない」詩 織「そこよ、その一種の神秘性が魅力なのよ、きっと」○ いまはん本店の事務所・社長室 高岩千代社長が電話で話している。千代社長「嬉しいわ、いつでも OK です。ええ、きっとみどりさんも大喜びするでしょう、何しろ半分以上は諦めていたのですから、私も、みどりさんも」 ドアの外で、ノックの音がする。千代はドアに向かって、千代社長「どうぞッ」 と声を掛けてから、再び会話を続ける。千代社長「噂をすれば影って言うけれど、みどりさんが姿を現しましたよ」 と、手にしていた送受器を黙って、入って来たみどりに手渡した。みどりはそれを怪訝そうに受け取った。みどり「もしもし、増子みどりです。まあ、鮎さん、鮎さんなのね!」と改めて千代社長の顔を見るみどり。横目でお茶目なウインクを送り、ご機嫌そのものといった千代である。みどり「鮎さん、貴女のその元気なお声を耳に出来るだけで嬉しいのに……、そうなの、本当に嬉しいわ。ええ、私たちは明日からでも歓迎します。そう、有難う、鮎さん……、心からお待ちしています、さようなら」と電話を切る。「良かったですね、店長」千 代「ええ、みんなみどりさんのお蔭だわ。改めて、感謝のお礼を言います」と、椅子から立ち上がって最敬礼する。みどり「社長、やめてください、そんな。一社員として当然の事をしたに過ぎませんのに――」 じっとみどりの顔を見詰めてから、千 代「貴女ってお人はそういう人柄なのですね、なかなか他人には真似のできないことだわネ。素敵よ、改めて惚れ直しました」みどり「まあ、どうしましょう。本当に恐縮するばかりです、私」 見詰め合う女同士。そして同時に、照れたように吹き出し笑いをする二人。 稍あってから、みどり「所で社長、御用と仰った件は…」千 代「そうそう、その件ですけれど、一昨日の無銭飲食のお客の事ですが」みどり「済みません、社長のお留守の時に、私の一存でつい差し出がましい事を致しました」千 代「いえいえ、みどりさん、そんな意味で来て頂いたわけではないの。どうぞ、そちらの椅子に座ってください」みどり「有難う御座います」と、近くの椅子に腰を掛ける。千 代「実は、浅草警察署から連絡があったの」みどり「警察からですか…」千 代「(頷いて)事件ではないのですが、一応お耳に入れておいたほうが宜しいのではと、わざわざ署長さん自らがお電話下さったの」みどり「ええ」千 代「例の客、みどりさんと別れたその足で、浅草署に自首して出たそうです」みどり「自首ですか」千 代「みどりさん、貴女、無銭飲食の客に、タクシー代まで渡したって言うじゃありませんか。本当にどこまで人が善いのでしょうか、私も、先方の署長さんも心底呆れてしまいました」 みどりは、小さく肩をすくめた。千 代「ですから私はてっきり面識のあるお客だったと思ったのですが、あの晩まで全く面識もなかったとか。何でも地方では名前の通った実業家だったそうですが、ここ数年で没落し、不幸に不幸が重なって、天涯孤独の身に陥ったとか。この世に生きていても仕方がない、自殺でもしようと考えた時に、ただ一つだけ叶えてみたい望みがあった。名前だけ聞き覚えていた、東京浅草の老舗で、飽きるほど好物の牛肉を食べてみたい。最初から無銭飲食のつもりではなかった。へそくりでタンス貯金していた数十万の現金を手にして東京に出たが、途中でスリにすられたのか、もしくは落としたのか、我が身ながらここまで運に見放されては仕方がないと覚悟を固めて、俎板の上の鯉のような気持で、私達のお店に入ったそうです」みどり「(かすかに頷いている)」千 代「あのお客、とても感激して、みどりさんあなたに感謝していたそうです。あんな素晴らしいお方がこの世にいらっしゃる限り、もう金輪際死のうなどという馬鹿な考えは起こしません。あのお店、あの女性から受けた御恩に報いる為に、もう一度死んだ気になって仕事に立ち向かってみます。そう言って、警察署を晴れやかな表情で出て行ったそうですよ」みどり「そうでしたか。よかったでっす。私も嬉しくて、安心しました」千 代「みどりさん、社長として申し渡しておきますが――」みどり「はい」と緊張するみどり。千 代「レジ係の倉持はなさんから報告を受けた件ですが、あのお客の代金を貴女のお給料から天引きすると言う事ですが、私が許しません。社長持ちにします、いいですね、みどり G M 」みどり「畏まりました。誠に有難う存じます」 二人は顔を見合わせて笑う。千 代「ところで、お昼でもいかが? 私がご馳走致します」みどり「畏まりました。喜んでお供させて頂きます、飛びっきりの高級料理店へ」千 代「(困ったように眉をひそめて)私としたことが、つい、口を滑らせてしまいました」 同時に吹き出す二人である。
2021年07月24日
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○ いまはん本店・入り口付近(数日後) 外国人家族が予約なしで、店を訪れたので、従業員たちが対応に苦慮している。外国人の客「私達、リザーブなしですが、オーケーですが」と、非常に遠慮がちである。と、奥からみどりが小走りに応対に出てきた。みどり「ユーアー、ウエルカム。リザーブなし、オーケーです。ディスウェイ、プリーズ」と、たどたどしい英語ではあるが、手際よく客室に案内する。○ 同 ・ 個室 みどりが外国人の親子四人の客を案内してくる。外人客「(口々に)オー、ワンダフル!」などと喜びを表現しながら椅子席につく。みどり「ウィハブ、セットメニュー、オンリー」母親「アイ、シー( I see )」みどり「すき焼きコース、しゃぶしゃぶコース、アンド、ステーキ・コース」子供達「すき焼き、アイ・ラヴ・イット」父親「すき焼きをお願いします」みどり「畏まりました」 直ぐに料理が運ばれて、楽しい一家団欒の食事が始まった。みどりや仲居たちが箸の使い方などを懇切丁寧に説明する。○ 同 ・ 店の前 みどり達が外人一家を送り出している。母親「サンキュー、ソーグッド」と、みどりに握手を求めて来た。ニッコリと笑顔で握手するみどりに、父親「 Such a cute woman, ever so charming !」と、思わず嘆声を発した。みどり「サンキュウー、ベリーマッチ」と、深々と頭を下げる。○ いまはん本店関係者のなにげのない日常がフラッシュ風に紹介される。―― 浅草女将の会が隅田川を行く屋形船の船中で開催されている。メンバーの中に浅草いまはん本店社長・高岩千代の顔もある。―― 都心近くにある釣り堀で、中学生の息子とのんびり釣り糸を垂れている総料理長・今野清三がいる。あまり釣果(ちょうか)がないように見えるが、一向に気にしている様子がない。―― 新人二人が仲良く昼間のカラオケを楽しんでいる。全く屈託がないのだ。―― 中堅料理人の森 洋二が三ノ輪の自宅から自転車通勤の途中である。軽やかなペダルを踏む足さばきである。―― ベテラン仲居・中村昌代が知り合いの親子連れを案内して花屋敷の遊園地でジェット・コースターに乗っている。童心に戻って誠に、無邪気そのもの。―― レジ係の倉持はなが自宅近くの公園でウォーキングをしている。ゆっくりと急がずに周囲の風景を楽しむような、彼女独特のスタイルなのだ。○ いまはん本店・広間の客室 時分時で賑わっている広間のほぼ中央の席に初老の男性客が、中居に案内されて座を占めた。 ―― 時間経過 先程の客がかなりの酩酊ぶりで、追加のお酒を注文する。仲居「お客様、ラスト・オーダーの時間で御座いますが、以上で宜しゅうございますでしょうか」客「ラスト・オーダー、ああ、もうそんな時間になったのか。それじゃあ、特上のステーキとお銚子をもう二本、いや四本お願いしておこうか」 驚いたように客の顔を見て、仲 居「お客様、本当に大丈夫なのでしょうか、もうだいぶお酒の方もお召し上りでございますが…」客「何、構わん。どんどん運んで来てくれ」 ―― 更に、時間経過 広間には初老の例の客だけがいて、他のお客は誰もいない。しかもその客は空になったお銚子を何本も前に並べて、座ったままで大きな鼾をかきながら、寝入っている。周囲を遠巻きにして、困り切っている仲居たちがいる。 と、そこへ知らせを受けて自分の持ち場のフロアーから、降りて来たみどりが姿を現した。チーフの仲居「申し訳ございません。みんなして何度もさっきから身体を揺すったりして、何度も声をかけたのですが……」みどり「そうですか。皆さん、お疲れ様でした。ここは私が引き受けますので、全員上がって頂いて結構です」と、部下たちを帰し、客に近づくみどり。みどり「お客様、もし……」客 「 (無 言) 」 鼾の音はなく、すうすうと言った静かな寝息に変わっている。 と、そこに総料理長が姿を現した。総料理長「差し出がましいようで恐縮なのですが、今日は社長も出張でお留守ですし、警察の方に連絡したほうが何かと安心なのではないかと、思いまして」みどり「お疲れのところを、ご心配頂き、ありがとございます。サービス部の皆さんも同じ意見だったのですが、(客の方を目顔で示しながら)どうやら御病気ではなさそうですし、なにか深い事情があるのかも知れませんので、もう少し様子を見てみたいと思っているのです。察するところ、お人柄も悪いお方とは思えませんので、もう少し様子を見てみたいと思っているのです。察するところお人柄も悪いお方とは思えませんので」総料理長「そいですか。心配のあまり失礼なことをを口にいたしました。もう少し板場の方で、仕事が残っておりますので、何かありました時には、お声をおかけください」みどり「お心遣い恐縮でございます」と、総料理長に一礼するみどり。 ―― 時間経過 広間の初老の客が居る中央付近の灯りだけを残して、他の照明は消えている。今は、テーブルの上に両腕を載せ、その上に顔を埋めるようにして寝入っている客の近くに、氷水の入った水差しとコップがお盆に乗って置かれている。少し離れたところに正座して、客の様子を見守っているみどりの姿がある。 突然、むくっと顔をあげた客が、その儘よろよろと立ち上がり何処かへ行こうとした。みどり「お客様、どうなさいました」客「えっ、ああ御姐さん、ちょっとトイレへ行こうと思ってナ」 みどりは客を介添えするようにトイレへ案内する。 用を済ませた初老の客は自分から確かな足取りで元の席に戻り、その儘前のように寝ようとした。みどり「お客様!」、少し大きな声で呼びかけた。すると客は初めて正気に返ったように、ぎくりとして背筋を伸ばし、みどりに視線を向けた。 客 「誠に、誠に、申し訳ないことを致しました」 弾かれたように、向きを変え、床に頭をこすりつけて詫びている。みどり「まあ、お客様。どうかそのお顔をお上げになってくださいまし」 客は尚も顔を床に擦り付けながら、客 「わしは客などではない、性質の悪い唯の無銭飲食にしか過ぎない。どうか許してください。いや、直ぐに警察に通報して、逮捕させてください。お願いいたします」みどり「お客様、どうか落ち着いて下さい」と、優しい笑顔を浮かべてコップに冷水を注いで差し出した。みどり「酔い覚めの水は千両もするそうですが、これは私からのサービスですから、お代は頂戴致しません。どうぞ遠慮なく召し上がれ」 客は信じがたいといった面持ちで、暫時みどりの手元を見守っていたが、みどりの手から押しいただくようにコップを受け取り、一気に飲み干した。 みどりはもう一杯いかがと言うように水差しを示して見せている。 客の眼には感激の涙が溢れるほどになっている。黙ってコップを差し出した。みどりがそのコップになみなみと水を注ぐ。今度もまた、一気に飲み干した客。客 「あなたは、御姐さんは観音様の化身の様なお方です。本当に、嬉しくて、嬉しくて、感謝の言葉もありません」と、両の肩を震わせながら男泣きに泣いている。 しばらく間を置いてから、みどり「何か深いご事情があっての事と、拝察いたします。しかしお客様、ようこそ、ようこそ、私ども浅草いまはん本店にお越し頂きました。 ( 相手が何か言いかけるのを、手で制して) 店長以下従業員一同に成り代わりまして篤くお礼を申し上げます。また、本日のお代は不肖私が立替させていただくつもりですので、何時なりと、ご都合の宜しい折にお支払い戴きたく存じます」 相手の客はただもう言葉もなく、滂沱の涙である。
2021年07月20日
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○ いまはん本店・個室(翌日) 政界の重要人物とおぼしき客達の宴席である。客の一人「今夕は、固い話は抜きにして、どうぞ存分に寛ぐようにお願致します」別の客「同感ですな。お互いに裃を脱いで、気楽なトークに花を咲かすのも一興ですからな」三人目の客「嬉しいですな、旨い料理にお酒。呉越同舟ならぬ、一蓮托生、いや、一心同体と参りたいものですな」最初の客「それでは先ず、乾杯と参りましょうか」 側に控えていたみどり達仲居がお酌をし、料理を勧める。部下の仲居たちがコチコチに緊張している中で、みどりのにこやかな接待ぶりが、一際、光っている。座は次第に和やかに盛り上がっていく。○ いまはん本店のオフィス・応接室 今回は、サービス長兼 G M のみどりが中居志望の若い女性たちを相手に、面接審査をしている。みどり「土田ユキエさん、20歳ですか」ユキエ「はい、先日誕生日を迎えましたので、丁度満20歳になりました」 ハキハキと歯切れよく返事をする。みどり「うちのお店では和服を着て、お客様のお相手をするのですが、着物を自分で着られますか」ユキエ「はい、母が日本舞踊の名取ですので、基本の着付けは心得ております。ただ普段は、今日のようにジーンズに T シャツで過ごすことの方がおおいです、やはり」みどり「和服を着て働いた経験はありますか、これまでに」ユキエ「ありません。あの、ファミレスでアルバイトしたことはあります。ほんの一ヶ月程ですが…」みどり「そうですか」 ―― 時間経過 ――詩織「はい、青森県の八戸市の出身です」 見るからに実直そうな、24歳の娘である。みどり「履歴書には、色々な仕事に携わったと書かれていますが」詩織「はい、私は性格が暗いし、する事が人一倍遅いですから、なかなか同じ職場に長くいることが難しかったのです」みどり「飽きっぽいのでしょうか」詩織「いいえ、そうではありませんが…、経営者の方や、職場の仲間から嫌われてしまうのです、どうも」みどり「そうですか、で、私どものお店で働いてみようと考えた動機は、ここに書かれていますが、御自分の口で、仰って下さいな」詩織「はい、こちらは有名なお店ですし、和服を着てお客様をおもてなしするなんて、もし私が出来るなら、何て素敵なんだろうと、実は憧れていたのです。以前からです……」みどり「傍から見ているのと違って、実際に仕事についてみると、とても厳しくて、きっと辛い部分も多いと思いますよ」詩織「はい、それは承知して居ります。今は、外部から想像しているだけですが」みどり「我慢強さには、自信がおありのようですね」と、にっこりと笑う。詩織「(釣られて微笑み)じょっぱり女ですから、私」 ナレーション「(みどりの心の声で) 情張り とは青森の方言で、強情(ごうじょう)を張ると言う意味だが、我慢強い、辛抱強い、と言う肯定的な意味合いも含んでいる。私も、自他共に許す じょっぱり女の代表の様な性格です。先程のユキエさんが機敏な兎さんだとすれば、この詩織さんは鈍な亀さんに喩えられるかも知れません」○ いまはん本店 の 従業員控え室 先輩の仲居からそれぞれに和服の着付けの指導を受けている、土田ユキエ と 神林詩織の新人二人。 ユキエはてきぱきと要領がよいのに対して、詩織は実にスローな動きであり、覚えも悪い。 しかしし、社長やみどりからの指示があったのであろうか、先輩も根気強く、熱心に教え続ける。○ 同 ・ 客 室 開店前の時間に、客室を使った料理サービス(しゃぶしゃぶ と すき焼きの実際についての)訓練を受ける新人二人と、厳しく指導・監督する、先輩の仲居たちの姿がある。○ 或る病院の入口附近 みどりが誰かを待っている。 しばらくして、四十過ぎくらいの中年の女性が、入口から出て来た。みどりが女性に近づき声を掛けた。みどり「鮎さん……」女 性「(驚いた様子で) まあ、みどり御姐さんじゃありませんか」みどり「お久しぶりです」女 性「本当に…、どうしてまあ、こんな所に、御姐さんが」みどり「鮎さん、私、あなたに折り入ってお話があってやって来たのです」女 性「まあ…」○ 近くの河原 みどりとさっきの女性が、親しげに語り合っている。女 性「そうでしたか。で、店長は、いや、社長さんはお元気なのでしょうか」みどり「ええ、とてもお元気です。昨日も社長、桜田 鮎さんにくれぐれもよろしくって、私からお伝えして下さいと。あッ、そうそう、総料理長の今野さんからも宜しくと、言付かって来ました」 鮎 「そうでしたか」と、昔を懐かしむような表情が浮かぶ。みどり「あれからもう、十五年近くが経ってしまったのです。考えてみればお互いに齢をとるわけね」 鮎 「本当ですね。私はまだ二十代でした」みどり「私も四十代の働き盛り――」 鮎 「御姐さんは当時と少しも変わっていませんよ、嘘やお世辞ではありませんよ。却って、今の方が若々しいくらい。それに引き換え私はと言えば、老け込んでうつ病で通院中、弱り目に祟り目…」みどり「店長、あなたのことを興信所に頼んで、調査してもらったそうです。執念ですね、お店を隆盛に導きたい一心なのです。だって、鮎さんは十年に一人、二十年に一人得られるかどうかの逸材ですもの」 鮎 「まあ、それなら御姐さんは百年に一人の、超がつく、天才ですわ」みどり「有難う鮎さん」と、鮎の方に向き直り、「折り入ってのお願いなの、いまはん本店の為に、もう一度協力して頂けないでしょうか」 桜田 鮎は静かに遠くの方を見詰めている。 鮎 「 …… 」みどり「千代社長は、私が自分勝手をした時にも、優しい言葉を掛けて下さった」 鮎 「(吐き捨てるように) 自業自得なんです、私の場合は…。遊びグセの強い、手のかかる亭主と、難病の娘を抱えていたので、少しでもお給料の良いお店へと、浅ましい考えから社長やみどり御姐さんから受けた御恩に、後ろ足で砂を掛ける様な、裏切り行為をした罰が当たったのです。亭主も娘も病死して、この世で一人ぼっち。おまけに精神を冒される病気にまで罹って――」みどり「鮎さん、ご自分をあまり責めすぎてはいけないわ。誰だって、あなたの様な立場になったら、同じような行動を取ると思いますもの。あなたは逆に、立派すぎるくらいに一生懸命に生きて来たのよ。病気は神様が少し身体を休めて、のんびり暮らしなさい。そう言ってご褒美に下さった休暇なのです、きっと」 鮎 「御姐さん、優しいわネ。有難う御座います、地獄で仏様にお会いしたようです」みどり「まあ、鮎さんたら」 二人は顔を見合わせて笑う。みどり「元気そうなお姿に接することが出来て、心から安心しました。お返事は今日頂けなくとも結構です。いつまでもお待ちしますから、社長も私も」 鮎 「そうおっしゃっていただけるだけで、十分過ぎるくらいに有難いです。皆様に宜しく、どうかお伝えくださいませ」みどり「ご機嫌よう、鮎さん」 鮎 「御姐さんこそ、お元気で益々ご活躍の程を、陰ながらお祈り申し上げております、私」 深々と頭を下げる桜田 鮎。
2021年07月16日
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○ テレビ局のスタディオ ヴァラエティ番組の収録が行われている。 全国各地の名店の名物料理が次々に紹介されている。 浅草の名店を代表して、「いまはん本店」のしゃぶしゃぶコーナーが準備され、給仕役にみどりが出演している。○ その控え室 収録を終えたみどりが A D に案内されて戻って来た。A D 「どうもお疲れ様でした。お蔭さまで内容の濃い番組を作ることが出来ました」みどり「有難う存じます。放送を楽しみに致して居ります」と、深々と御辞儀をする。と、みどりの手荷物の中から携帯電話の呼び出し音が聞こえる。急いで携帯電話を手にするみどり。みどり「もしもし、あッ、我(わ)だ、みどりだ……(と、方言丸出しで話しだした)」○ 東北新幹線の車中 窓際に一人ぽつんと座っているみどり。 ナレーション「全く突然の父親の死去だった」○ 八戸駅 青い森鉄道に乗り換えするみどり。○ 野辺地駅 列車からホームに降り立ち、改札口に向かうみどり。 優しかった父親が改札口付近に立って、出迎えていてくれる様な錯覚に、ふと陥る――。 妹夫婦が出迎え、みどりを実家まで車で送る。 ナレーション「父は若い頃から出稼ぎとして遠洋漁業の船に乗って働いていた。だから、一年の大半を海の上で、暮らしていた」○ みどりの回想・その ⑤ 風邪で寝ている幼いみどりに、好物の食べ物を買って来て、食べさせてくれる父の慶吉。○ みどりの回想 ⑥ 新宿御苑の桜の樹の蔭で、初孫を嬉しそうに胸に抱く慶吉。その両脇にみどりと夫の正夫がいる。○ 実家近くの寺 慶吉の葬儀が行われている。みどりの父親は本家の当主であり、みどりはその長女であるから、葬儀での役割も重いものがある。東京から遅れて駆けつけた夫や長男、次男の顔もある。 住職の読経の声に合わせて、近在の主婦たちを中心に結成されたヴォランティアのコーラスグループが唱和する。珍しいスタイルの葬儀が進行している。○ 数日後の いまはん本店・広間 様々なお客たちが、それぞれに食事を楽しみ、楽しい会話に花を咲かせている。主婦 A 「たまにはこれくらいの贅沢も許されて良いのよね、私たち主婦にも」主婦 B 「そうよ、そうよ、命の洗濯って言うじゃない」主婦 C 「決して贅沢なんかじゃないと思うわ、本当に偶の事なのですもの」主婦 D 「いつまでも健康で、美しくある為にも、一種の必要経費ですからね。結局は、殿方の為にもなるのですもの、私達が魅力的であることは」一 同「そうよ、そうよ」などと、盛り上がっている。 と、家族連れで来ていた中年の男性客、遠慮がちに仲居に声を掛けた。男性客「あの、名前を覚えていないのだが、何とかいう御姐さんが、居た筈なのだが、姿が見えないね。今日はお休みの日ですかね…」仲 居「みどり姐さんのことでしょうか」男 客「そう、そう、そのみどり御姐さん」仲 居「申し訳御座いません。生憎と本日は、別のお座敷を担当致して居りますので…」男 客「そうですか、残念だな」と、諦め切れないと言った表情である。 近くにいた別の仲居が、年長の仲居「少々お待ち下さいますか」と、急ぎ足で広間を出て行く。○ 同 ・個室のあるフロアー 重要な常連客達による宴席を仕切っているみどりの所に、年長の仲居が声を掛ける。年長の仲居「サービス長、お取り込みの最中に、申し訳ございません…」 みどりの耳に、小声で報告する。みどりは爽やかな笑顔で受けて、みどり「直ぐに伺いますからと、お伝えして下さい」○ 元の広間 みどりが急ぎ足で入って来る。客たちの間から歓声が起こっている。目顔でどの客かを確認してから、男性客に近づいた。みどり「ようこそ、お越し下さいまして誠に有難う存じます」と、丁寧にお辞儀をする。 すっかり恐縮している男性客達。客の一人「そうなんだ、その、何とも愛敬のある笑顔が、魅力なんだな」みどり「恐れ入ります」と、周囲に頭を下げるみどりである。○ 山の中 新潟新幹線を使い、長岡あたりの山中を散策し、独りで森林浴を満喫しているみどりの姿がある。こうして大いに英気を養うのが彼女の休暇を利用しての、リフレッシュ法なのだ。 ナレーション「青森県育ちの私は、十和田湖から流れ下る渓流・奥入瀬沿いにハイキングした少女時代の原体験が、良い思い出として今でも残っていて、仕事の疲れを癒す恰好の手段になっているのです」○ いまはん本店・オフィスの中の一室 千代社長が応募してきた従業員志望者の面接をしている。 調理部門の面接が終わり、これからサービス部門に移る所である。 ドアの所に顔を出した女性の事務員が、「社長、お電話でございます」と声を掛けた。直ぐに、電話に出る社長。社 長「お電話替わりました、高岩です…、あッ、毎度お世話様で御座います。はい、左様で御座いますか。かしこまりまして御座います、有難う存じます」○ 長岡周辺のハイキング・コース 休暇をエンジョイしているみどりの携帯電話が鳴る。○ 元のオフィスの中 電話で話す千代社長。社 長「みどりさん、毎度恐縮なのですが…、ええ、みどりさんでないと仕切れない大切なお客様から、急な予約が入ったもので、御免なさいネ」
2021年07月14日
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○ アパートの一室 町医者が往診に来て、窓際のベッドに横になる娘・沢村絹香(28歳)を診察している。恋人の青年・江森次郎(31歳)も来ている。○ 同じ場所(30分経過) みどりに対して深々と頭を下げ、次郎青年「どうも御親切に色々と有難う御座いました」みどり「いいえ、困っている時はお互い様ですから。それよりも先ほどのお医者様のお話でも、随分無理を重ねられた様子ですね」次郎「根が頑張り屋さんなものですから、どうしても無理をしてしまうのでしょう。それに、僕が余りにだらしがないものですから、余計に彼女が負担を感じてしまうのでしょう」みどり「何か深い事情でもお有りの御様子ですが、よかったらお聞かせくださいませんか。何か少しでもお役に立てるかも知れませんので……」次郎「ええ、有難う御座います。僕も彼女も地方出身でして」みどり「そうですか」次郎「絹香、彼女のことですが、絹香は北陸の出で、僕の方は四国の山奥の出身です。二人共、柄にもなく大志を抱いて、いや望みのない大きな夢を持って、上京したのですが、今考えれば無謀に過ぎる行動だったかも知れません」みどり「(大きく頷いている)」○ みどりの回想・その③ (質素な結婚式) 区立中央会館で、ごく身内と友人・知人の有志たちの資金持ち寄りで行われた、会費制の結婚式である。 ナレーション「(正夫の声で) 生まれも育ちも全く違う二人が、何かの偶然で突然に結ばれたのですから、小さないさかいが山の様に持ち上がりましたが、青森からみどりのご両親も出席され、質素ではあっても真心のこもった結婚式になりました」○ 元のアパートの部屋次郎「幼い頃から僕も絹香も、貧しい家庭で育ちましたので、東京で一旗上げたいと言う野心のような憧れが強くありました。僕たちは浅草で知り合って、恋仲になったのです。彼女は振袖さんをしながら、昼間もアルバイトの様な仕事もし、郷里の病気がちな父親に仕送りを続けていますし、僕の方は司法試験に合格するのが目標で、山奥でひとりで細々と農業を営んでいる母を、一日も早く安心させたいと思っていたのですが……。健気な彼女の様子を見兼ねて、先月から観光用の人力車夫として働き始めたのですが、絹香が猛烈に反対しているのです」みどり「そうでしたか」と立って行って、絹香の寝顔を覗き込む。○ みどりの回想・その④ ( 様々な仕事の遍歴 ) ―― 新宿角筈・紀伊国屋ビルにある、「角筈病院」での医療事務の仕事。 ―― 公文の回答の添削のアルバイト。 ―― 鍼灸医院での手伝い仕事。 ―― ホテルの宴会係としての厳しい修行。 ―― 高級料亭の仲居として働く日々。 ―― 自分の店「創作料理 トレヴィ」での活躍。 ―― 「浅草いまはん本店」のサービス長に抜擢されてからの仕事ぶり。 ナレーション「(みどりの声で) 夫はテレビドラマのプロデューサーで、仕事の上では多額のお金を動かす立場にありましたが、身分は一介のサラリーマン。薄給の身でありましたし、何よりもテレビで観た「細腕繁盛記」のヒロインに憧れて東京に出た私ですから、育児をしながらでも、外に出て働きたいと思う気持が常にありました」○ 元の部屋 みどりが江森次郎と寝ている沢村絹香の二人に言い聞かせるように言う。みどり「一所懸命に努力していれば、いつかは向こうから必ず良いことがやって来ます。私たち一家もそうだったのですが、浅草の観音様がお守り下さっておりますから、大丈夫ですよ」次郎「有難う存じます、みどり御姐さん」みどり「まあ、私のことを御存知でしたの」次郎「勿論です。郷里の母も、機会があれば一度、笑顔の素晴らしいあのお方に、お目にかかりたいと言っております」みどり「そうですか。本当に、そうしたお声が何よりも嬉しく励みになるます」○ いまはん本店・客室 開店前に客室を点検し、自ら活花を生けているみどり。 と、店長が姿を現した。店長「みどりさん、ご苦労様です」みどり「お早う御座います、店長」 店長は、みどりの生けた草花の枝ぶりなどをじっと見守ってから、店長「プロの方とはまた、一味違った風情がありますね」みどり「恐縮です。勝手をさせて頂いて感謝致して居ります。ここまで致しませんと、気が済みませんので……」店長「いいえ、こちらこそ感謝してますのよ。所で、また一つお願い事があるのですが…」みどり「はい、何なりと承ります」○ とある高級料理店・店内 一人の客として来ているみどり。今、業界で評判になっている人気店の視察のために、店長からの業務命令として下された仕事である。 店の雰囲気もよく、料理の味も悪くないのだが、何かほんの少しだけ物足りなさが残る…。 何故なのだろかと、心の中で、自問自答するみどりである。○ 数日後のいまはん本店・店内 奥の水屋付近で、仲居たちが何かひそひそと話をしている。みどり「どうしたのですか?」 仲居たちのひとりが恐る恐る近くの客室の方を指で示して、仲居 A「御姐さん、あの方たち…」 見ると個室の中に数人の客たちがいるのが分かる。ひと目でヤクザとと知れる男達ばかりである。ごく稀には会社の宴会という触れ込みで、この種の客たちが来店するのだが、電話予約ではチェックし切れないのだ。 みどりは素早く個室に挨拶に出る。また、腰の引けている仲居達に指図して、みどり「普段通りに、段取りよくお料理をお出ししてください」と、誠に手際の良い接客振りである。 ―― 時間経過。 頃合を見計らっていたみどりが、仲居達に指図する。みどり「これから十分程は、他の部屋のお客様たちにはおトイレを我慢して頂き、絶対にあの個室のお客たちとは顔を合わさないように、工夫してください。このお店の信用が懸っているのですからね」 そして、兄貴分らしい客を自ら玄関先まで先導して、率先して素早く個室の客たちを帰させるみどりである。 ひと息吐いた仲居たち一同である。仲居 B[みどり御姐さん、やっぱり凄い!」仲居 C「私なんか、足が竦んでしまって」と、みどりを見る。みどり「私だって、足がガタガタと震えていたのです。必死の思いで頑張ったのよ」と、放心した様な表情でいる。
2021年07月09日
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○ みどりの回想・その① (社長との出会い) 事務所の応接コーナーで高岩千代社長の面接を受けている増子みどり。社長「なかなかご立派な経歴をお持ちのようですが、何故、弊社に関心をお持ちになったのでしょうか?」 と、みどりの履歴書を指で示しながら質問する。みどり「はい、私の大好きな浅草の有名な老舗料亭ですので、ご縁がございましたら一度は働かせて頂きたいと、以前から考えておりました。これまで勤めておりました職場で、大きな組織替えが御座いましてて、生意気なようですが、私の考えと違って参りますようでしたので…」社長「ここに書かれている日本橋の料亭の女将の職ですね」みどり「女将と申しましても、雇われですので、名前だけのものでした」社長「私のところで働いて頂く場合、お客様の接待はかなり重労働ですが、その割には条件にお示ししているますように、低賃金なのですが、それでも宜しいのですね」 みどりはニッコリと頷いて、みどり「健康に十分に自信がありますし、第一にお給料よりも接客のお仕事が、三度のお食事よりも大好きな性質なものですから……」社長「そうですか」と、釣られて微笑んでいる。社長「趣味の欄に、スキー、山歩き、とありますね」みどり「はい、生まれが青森県の田舎なものですから、自然が性に合っているのでしょうか」 ナレーション「(高岩社長の声で) 明治に始まる老舗料亭と言えば、傍目には聞こえが良いのですが、その伝統を受け継ぎ、更に発展させなければならず、並大抵の苦労ではありません。私は、この女性を一目見た瞬間から、いわば 一目惚れ していたのでした。この人だ、この人にこそ、これからの いまはん本店の将来を託すべきなのだ。任せてみたい、是が非でも…」○ みどりの 接客マナー講座 小ホールで開催されているセミナーで、接客の心得について公演しているみどり。企業の若い社員たちが熱心に耳を傾けている。みどり「マニュアルに書かれているのは、飽くまでも入口です。接客の心は表面的な形だけでは、得られないのです。皆さんの真心を込めたお客様を、本当に大切に考える姿勢が大切なのです。片仮名でホスピタリティー、おもてなしの真髄は実は目に見えていない、私たちの心のあり方にこそかかっているのです。ですからそれは、その時だけの、その場だけの問題、意識なのではなく、常日頃の行動の中から培われ、生まれて来るものなのです。―――。」みどりの視線が窓の外の、青空へと向けられて……。○ みどりの 回想・その② ( 故郷 ~ 上京 ~ 結婚まで ) ―――― みどりの生まれ故郷・青森県の野辺地町。 リヤカーに肥料用の糞尿の入った木桶を積み、田舎道を行くみどり(17歳)と母親。 高校を卒業したら東京に出て、料理の専門学校に入りたいと告げられ、みどりの頭髪を鷲掴みにして怒り、強く反対する母親。 ナレーション 「(みどりの声で) フェンシングのインターハイで三位に入賞した際に、会場に近い東京を生まれて初めて訪れ、華やかな大都会・東京への夢が、強い憧れが一気に大きく膨らみました」 ――― 夫、正夫との出会い。 新宿駅西口近くの地下の、飲食店街の奥にある小さな居酒屋。カウンターの中のみどり(21歳)と止まり木に座る客の、増子正夫。 ナレーション「母親の強い反対を押し切って、親戚の揚げ物屋で働きながら、夜間の専門学校へ通い、調理師の免許を取得した直後に、折りよく知り合いの中年女性がひとりで切り盛りしていた、お店の営業権を譲り受け、曲がりなりにも、自分のお店を持つことが出来たのでした」 ――― 客たちを表の道まで見送りに出たみどりに、正夫が自分の名刺を手渡す。正夫がタクシーに乗り込んだ後に、みどりはそっと胸に押し当てる。 ナレーション「開店して数ヵ月後のことでした、突然に、本当になんの前触れもなく 運命の人 が出現したのは……」 ――― 電話攻勢 ・ デート ・ 夜明けのプロポーズ ナレーション「それからはもう無我夢中でした。何も考えられずに、夜も昼も その人 のことしか、頭にありませんでした。そして……」 場所は、新宿の歌舞伎町、終夜営業の喫茶店。正夫「所で、何か相談したい事があると言ったから、こうして時間を作ったのに……、僕のことがそんなに信用できないわけだね」と、普段は温和な正夫が我慢し切れないと言った強い調子で言った。みどり「御免なさい。どうしても言葉に出せなかったものですから。でも、思い切って言います……」 ナレーション「(正夫の声で)わたしと結婚してください。必ず、あなたを幸せにしてみせます。正に、蚊の鳴くような小さな声で、それでも、しっかりと彼女はそう、言明したのでした」○ 夜の道 みどりが来る。暗がりの中に、誰かが蹲っているらしい。そばに近寄り、みどり「どうかなさいました」と、声をかけながら見ると、相手は例の若い女性である。娘「済みません。一寸、めまいがしたものですから。でも、直ぐに治りますので」 みどりが娘の額に手を当ててみる。みどり「まあ、酷い熱」 親切に介添えして、近くのアパートまで送り届けるみどりである。
2021年07月07日
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創作 映画シナリオ 「女は愛嬌です!」 Such a cute woman, ever so charming ! 私たち庶民にとって、何気ない日常の時間ほど貴重なものは、二つとないものなのです。この物語は、無名の一市民にとって、戦争のない平凡な日常を生きることが、いかに大切であり、又、掛け替えのない「有難い事」なのかを、日本全国に、そして地球上の全ての人々に強く訴える目的で、映像化されます。 登 場 人 物 ○ 増子 みどり (旧姓 柴崎) 〈 61歳 〉 ○ 増子 正夫 (みどり の夫) ○ 増子 一男 ( 長男 ) ○ 増子 正二 ( 次男 ) ○ 柴崎 慶吉 ( みどりの父 ) ○ 柴崎 とみよ ( みどりの母 ) ○ ○ 高岩 千代 ( 浅草いまはん本店 社長 ) ○ ○ 今野 清三 ( いまはん本店 総料理長 ) ○ 森 洋二 ( 料理人 ) ○ 桜田 鮎 ( 仲居 ) 〈 42歳 〉 ○ 中村 昌代 ( ベテランの仲居 ) ○ 倉持 はな ( レジ係 ) ○ ○ 土田 ユキエ ( 新人の仲居 ) 〈 24歳 〉 ○ 神林 詩織 ( 新人の仲居 ) 〈 24歳 〉 ○ ○ 沢村 絹香 ( 浅草の振袖さん ) ○ 江森 次郎 ( 観光用の人力車夫 ) ○ ○ 絹香の父親 ○ 次郎の母親 ○ ○ お客たち 大勢 ○ ○ 白石 忠 ( 中堅の板前 ) ○ ○ その他 物 語○ 東日本大震災の日(平成23年 3月 11日) 東京江東区錦糸町付近 みどり(58歳)の初孫( 男 )が生まれ、その退院の日。孫の実家(マンションの一室)にみどりが着いた直後に大きな揺れが発生。長男の嫁とその両親と、生後一週間程度の嬰児達全員が驚愕する。棚などから、物が落ちてくるのを両腕で懸命に庇いながら、みどりが赤ちゃんに叫ぶ。みどり「まだ一週間もこの世に生きてないのに……、死なせたりしてたまりたまりますか。私が、私がきっと守り抜いて見せます」と、悲鳴に近い声。みどりの顔は蒼白である。○ タクシーで浅草へ向かう、みどり(十数分後)○ 国際通りに面した、浅草いまはん本店 前 みどりの乗ったタクシーが来る。○ 同・店の中 いつものようにレジ前に控えてい高岩千代(60歳)社長(従業員は皆、店長と呼び慣らわしている)が、駆け込んできたみどりに声を掛けた。店長「みどりさん、ご苦労様です」みどり「店長、お早うございます。大変なことになりました」店長「ええ、さっきらお客様からのキャンセルの電話が……」、傍らの電話のコールサインが鳴る。素早く応対に出る店長。「みどり御姐さん、お早う御座います」と、口々に挨拶する仲居たち従業員の顔も、不安の表情である。○ 同・調理場 みどりが入って来る。総料理長以下の板さん達が不安げに見迎える。みどり「ご苦労様で御座います。キャンセルが続出していますので、今日は商売にならないかも知れませんネ」総料理長「東京でこんな状態ですから、東北の方は、どんな有様なのか、想像もつきませんね」 みどりが東北の出身であることを知る、総料理長が気遣わしげに言う。○ 数日後の「いまはん」・個室 常連客の宴会が酣(たけなわ)である。幹事「キャンセルも考えたのですが、此処に来ないと、気持ちが落ち着かないもので…」みどり「有難う存じます」○ 同じ日・別の部屋 九州から、夫婦でやって来た客。 中年の女性「テレビで観たみどり御姐さんに、一目お会いしたかったもので」みどり「ようこそ、お越し下さいました」○ 浅草の大衆食堂 仕事を終えたみどりが、部下の仲居たちと寛いでいる。みどりはアルコールオフのビールを口にしている。片隅では、何か込み入った事情でもあるのか、浮かない表情の若いカップルが、静かに食事をしている。何故か気になるみどりである。○ 浅草国際通り近くの道 早出のため、昼近くに出勤して来るみどり。店先で元気よく客の呼び込みをしている若い女性に目が止まる。昨夜のカップルの一人である。○ いまはん・個室 近くのお寺で墓参を終えた帰りなのであろうか、大物芸能人親子が客である。みどり「お坊ちゃま、どうぞ、召し上がれ」子供「ぼくはお坊ちゃまじゃありません。鈴木太郎です。太郎くんと呼んで下さい」みどり「畏まりました、太郎くん」と、ニッコリ。笑顔で我が子を見守る父。父親「いっぱい食べて、早く大きくなるのだ」太郎「はい、お父様。ぼくはひとりでお留守番しても寂しくなんかありません。お父様はお仕事で、お家を留守にするのですから」 父親は満足げに頷いている。幼い少年の健気さに感心して、再びニッコリと微笑みを浮かべているみどり。
2021年07月06日
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真夏の太陽が、灼熱の陽射しを一層猛々しくし始めた頃、明子がまた新しい見合いをしたことを、俺は知った。松村氏はその事実によって、横川の一件で感じ続けてきた精神的な負担が取り除かれたように思い、忌々しい記憶を過去の暗闇に葬り去る事が出来ると、ほっと一息吐いた様子である。 横川の消息は依然として掴めず、何処かで生きているのか、それとも人知れず自殺したのか、判然としなかった。 俺は春以来の新番組の仕事をあらかた片付けて、久しぶりにのんびりとした、寛いだ思いを楽しんでいた。 友子から幾度か電話があったが、受話器からの声が彼女のものだと判ると、俺は一言も口にしないで、即座に電話を切った。追いかけるように何度かコールがあっても、俺は決して受話器を取らなかった。新宿で映画を観て、アパートの部屋に帰ってくると、郷里の親父から手紙が届いていた。九月に入ったら帰省して見合いをしろと言う内容で、若い女性の写真が数葉添えてあった。 見合いの件は以前にも便りの中で勧めていたことだが、相手の写真が送られてきたのは今度が初めてであった。畳の上に仰向けにひっくり返って、一枚一枚手に取り面白半分に写真の女性を眺めていると、俺はふと、この女と結婚してみようという気になった。 何故そんな気になったのか、はっきりしないが、一旦そう思って見ると、その写真の娘は、ずっと以前から俺が結婚する相手であったような、妙な錯覚に陥った。娘は十分に美しかったし、気立てもよさそうに見えた。彼女は隣県の素封家の末娘で、今春地方のキリスト教系の大学を卒業したばかりの、気さくで家庭的な性格のお嬢さんだと、親父が説明していた。 この俺が結婚する!? それも、俺が無視し続けて来た親父が推奨する女とお見合いをして。 あまりに悪ふざけが過ぎるぞ。 俺は畳の上で笑い転げながら、繰り返し、こう叫んでいた。 その、バカバカしい発作が治まると、今度は俺は深刻な気持ちになってしまった。 俺は横川が女を正しく愛する方法も、又、結婚することの正しい意味合いも知らなかったと、批判している。しかし俺は、賢しらに横川を批判する、この俺は、正しく女を愛することができ、また正しく結婚する能力を有しているとでも、断言するのだろうか……。 俺は友子の事を想っていた。そして友子を知る以前に俺の心をよぎって行った女達の顔を、可能な限り多く思い浮かべてみようと、努力してみた。あの女たちは、俺にとって一体全体、どんな意味を持つのであろうか。また逆に、俺はあの女達の何だったのだろうか。過ぎ去った過去の影よりも虚ろな存在感。それはもう、記憶の襞に辛うじて引っかかっている藁屑の如く、無意味で、頼りない。それはまるで、俺のこれまでの人生を象徴しているかのように、味気なく、侘しい。 友子との思い出もまた、同じ時間の風化作用の前では、同様の運命をたどるのであろう…、俺は顕微鏡の視野が捉えたちっぽけな水滴の中の、ワラジ虫の姿を思い描く、繊維質のゴミの間に蠢く一匹の原生動物は、紛れもなく俺自身の姿だ、横川もまた、この水滴の棲息する一匹のワラジ虫だ、しかしながら彼は、「 女性的なるもの 」を媒体としてワラジ虫以上の存在になることを夢見た、そしてその夢に生き、夢に全生命を賭けるに至ってしまったのだ、彼は己のワラジ虫性を否定し、この住み慣れた小世界を捨てた、その大冒険が横川に死を将来したか、或いは、首尾よく所期の理想を獲得したか、それともまた、予想だにしなかった別世界に足を踏み入れたのか、その結果に関しては、今の俺にはそれを判断する材料が何もない、しかしながら、俺はこれだけは知っている、横川が自分の意思で、自分の人生を生きようと決意した事実を! 彼にとって真に自由に生きると言うことは、周囲の諸々の束縛を超えて生きるということは、実は、最も過酷で辛い、不自由な生活を余儀なくされて生きることを、意味したことを。 彼は、異性という他者の中に、厚い、厚い壁を見た! 彼が本当に伝達したいと心の底から願った事柄は、それだけは、絶対に伝達不可能なのだった。異性の中に発見した壁は、同性の中にも、認められた。 心の奥底からの叫び、魂の只中から絞り出された声は、厚い壁に弾き返されて、谺のように虚しく帰ってくる事実を、確かに横川は知ったのに相違ない…。 美しい人間の心、無私の精神は、物が其処にあるようには存在しないのだ、「人の真実」は一度疑い始めたら、際限もなく疑惑は深まり、遂には全てを失う事になる。何故なら、この人間の真実とは、ただひたすらに信じる、その信じることによってのみ存在し得る、存在なのだから。 それは、神や仏の存在と同様に、一種の信仰によって支えられる。問題は多分、生命力が十分に旺盛であるか否かということであり、瑞々しい生命力のエネルギーが何物にも屈せぬ強靭な人間の意思が、恐らくそれに生命を与えているのであろう。 横川が、自分以外の人( 皮肉なことに、彼が最も強く心惹かれていた人々だった ) との間に見た、越えることの出来ない厚い壁は現代人の持つ健康な生命力そのものの衰弱と、荒廃とに由来していた発生物、精神の癌だと言えないだろうか。 「 俺たちから、健全な生命力を奪ったのは、一体、何処の誰だ 」 真の友情、偽りのない純粋な恋愛 ―― 人々はそんな美しい、完璧なものがこの世に存在するはずがないと思い、一方では、この世の物ならぬ美しいもの、真実なものにこよなく憧れ、待望する心理が、あたかも一匹の怖しい蛇のように鎌首をもたげるのを、打ち消すことは出来ない。断じてできない。嘘、実体のない幻影だと知りながら尚且つ、その虚妄なある物を大切に思い、育てようとする精神、それを仮に洒落て 芝居心 と呼んでみようか、我々現代人に欠けているのは、この芝居心なのだ。 横川が渇望して止まなかった対象と言うのは、ほかならないこの芝居心を持った人間のことなのだ。一人だけでは本当の芝居は成立しないから。 一体に現代という時代は、横川のごとく芝居心に取り付かれた者に対して、悲劇の舞台しか準備していない。 彼は苦悩するハムレット以上に、悲劇的な人物だ。 それで、俺の演ずるのはさしずめ喜劇役者、否、大根のコメディアンが演じる見るに堪えない、卑猥な笑劇―― 俺は、酷暑を避けて八月いっぱいを都内のホテルや旅館の冷房のよく利いた快適な部屋で、のんびりと仕事することで過ごした。 九月に入ってすぐ、久しぶりの雨が降ると、翌日はもうたちまち秋になってしまった。 俺がテレビ局に松村氏を訪ね、郷里へ帰るので、明日から半月ほど仕事を休むことの挨拶をすると、松村氏は逞しく日焼けした顔一杯に例のあの人の良さをさらけ出した微笑を浮かべて、「そう、それはいいことだ。この辺で少し休みを取るということは、絶対に必要な事ですよ」と、何度も頷いた。それから少し仕事の話になり、別れる際に松村氏が思い出したように、こう付け加えた。 「明子さん、お見合いの話が上手くまとまったらしいね」と。俺が「そうですか」と答え、横川のことを訊こうかと、「それで、横川はその後……」という質問の言葉が喉元まで出かかったが、やっぱりやめにした。横川のことは既に済んでしまった事だとして、松村氏は殆ど忘れようとしている。それを、「やっぱり消息は掴めないらしいよ」と、松村氏の口からわざわざ言わせる必要が、どこにあろうかと気がついたのだ。「それでは失礼します」、俺は松村氏に丁寧に一礼してから席を立った。 局の前の大通りで、タクシーに乗りこもうとした時、入れ違いに局の玄関に乗り付けた車から、友子が降りるのを目にした。彼女は秋の新番組の一つの主役に決定していたから、その打ち合わせか何かで、来たのであろう。 「友子とのことも、既に済んだことか……」、東京駅に向かってタクシーを走らせながら、俺は心の中でこう呟いていた。 今晩遅く、俺は郷里の実家に着き、親父は恐らく喜んで俺を迎えるだろう。そして多分二三日中には親父達の段取らせた見合いの席に出て、そしてそれから何ヶ月後かに、あの写真の女と恐らく俺は、結婚するだろう。 《 完 》
2021年07月03日
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また、その心の動揺は日一日と波紋の輪を広げ、砂を噛むような虚しい失望感と、自責の念とが交互に間断なく襲ってくる。彼は、こうも考える。たとえ事態が、自分の思っていたものとは違っていてもよいではないか。彼女は、自分に満足しきって、自分との結婚を待ち望んでいる。それでよいのだ。自分は今までどおりに、自分が理解した彼女を愛し、続ければ良い。 それは一人芝居かもしれないが、一人芝居で構わないではないか。が、それは何という孤独、なんと寂しい決意だろうか。彼女との間に一度垣間見た、深く、遠い断絶は、到底埋めることはできない。その底は余りにも暗く深い。自分は一体どうしたら善いのか……、松村氏に相談? 一体、何と言って…、松村氏に自分の正直な気持を理解してもらうことなど不可能だ、そう思うし、松村氏ばかりとはかぎらない、誰にだってわかりはしない。理解して欲しいと望む方が土台無理な注文なのだ。 一流大学出のエリートサラリーマンと教養ある両家の子女との良縁。極めてありふれた陳腐な表現ではるが、横川と明子の結婚話も所詮はこの常識的な、世間でよくある最も俗な結婚ばなしの範疇に属している。いや、このふたりの結婚話に限らない、そもそも結婚の本質はこのありふれた社会現象たる事実にこそある。そこに甘い恋物語を感じたり、美しい恋のドラマを夢想したりしても、結婚のこの本質をしっかりと弁えている限り、それは当事者の自由として、許されるであろう。しかし現実は現実である。結婚した者は夫となり、毎日の生活をしなければならないし、日常生活の中に夢想を持ち込む事は許されない。夢は、忽ちに窒息してしてしまうであろうから。 ドン・キホーテが風車に邪悪な巨人を見たように、横川は、涙と、痣と、血色の悪さに触発されて、明子の中に「同情」という自分の夢を育んだ。自分が見ているものが実は従者のサンチョ・パンサの目には巨人などではなく、普通の風車に過ぎない事を知っていた彼は、ドン・キホーテのように果敢な突進を風車に向かって試みるわけには行かない。ドン・キホーテの思い姫ダルシネアは、実は醜い百姓娘であった如く、横川のフィアンセは平凡な現実に生きる普通の娘なのである。 巨大な風車に弾き飛ばされ、したたかな打撃を蒙るドン・キホーテの姿は滑稽そのものだが、明子との結婚に闇雲に突き進もうとする横川の決意は悲愴である。 彼は冷静に醒めながら風車に立ち向かい、その当然の帰結として散々に打ちのめされた自分の姿を考えてみた。覚めている彼は繰り返し繰り返し、執拗に風車に立ち向かう。そして、繰り返し打ちのめされる。それが明子との結婚生活が意味するものだった。しかし彼は甘んじてその苦痛に耐えるであろう。しかし妻である明子は、夫のそんな苦痛を少しも理解しない。風車である自分に突進するドン・キホーテが自分の連れ合いであろうとなどとは、彼女の想像を絶したことであるから。 可哀想で哀れむべき女などでは決してない妻が、無力で見窄らしい男などでは断じてない夫の抱いている絶対的な孤独感や、ドクドクと鮮血が音を立てんばかりにして流れでている心の痛苦などという、非現実的な、狂気の沙汰の幻影・幻覚を理解する筈もない。 しかし、しかし、自分の抱え込まざるを得なかった 自分のこの現実 は一体どう処理したらよいのやら、と横川は深刻に考えた。世間一般の考え方やや、常識から判断して、如何に馬鹿げたものであっても、自分の明子に対する認識や理解に変わりはないし、又正しいと思う。自分が自分であるのは、正にその点にある。その自分を否定して明子と結婚することは出来ても、それは取りも直さず、自己への重大な裏切り行為でしかない。自分自身を裏切って者が、果たして幸福になれるだろうか。いや、それ所ではない。自分は最初からこの結婚による幸福などということを放棄してかかっている。しかし、それは何故か? それまでして結婚しなければならない理由とは一体全体何なのだろうか…、松村氏は自分に不幸になることを強いているだろうか、とんでもない、逆に大変な幸福を齎したと考えている。それは至極当然のことなのだ。としたら、自分は既に松村氏の好意をさえ事実の上で裏切ってしまっているではないか。また、明子やその母親も自分との結婚に、大きな期待と幸福を予感し、現に最大の幸福感を味わい、結婚相手の自分にも同様な喜びを与えているであろうと、非常な満足を感じている。とすれば自分は、この点でも背信行為を行っている事になる。 譬えようもない大きな慶び事の蔭で密かに裏切り行為がなされ、その原因が余りにも現実離れした感受性にあったとは――。 それにしても松村氏のこの間の事情をいかにして説明したらよいか。仮に、松村氏に自分の気持を解ってもらえたにしても、明子との婚約を破棄することは、如何にして可能であろう? どう考えても、自分の特異な感受性は、破談の正当な理由とはなりそうもない。更には、松村氏を煩わせて、その立場を悪くさせ、面倒や厄介をかけるだけの結果に、終わらせそうだし、事は一層面倒になろう。結婚するにしても、しないにしても、自分はどのみち何らかの形で人を裏切ることに、なってしまう。それならば、何をくよくよと思い煩う必要があろう。 松村氏が真に望んでいることは、この自分が本当の意味で幸せになること、それだけではなかろうか。自分は変に卑屈になり、その肝腎な箇所を見失っていたのではないか。自分を偽らず、自己に飽くまでも忠実に生きること、それのみが本当の意味で、松村氏の好意に報いる事になるのではないか。そしてそれだけが、延いては明子たちにも、この場合に考えられる最良の結果をもたらすことになろう。 これも世間の常識から見れば、自分勝手な判断であり、自己本位のこじつけと映るかもしれないと感じながら、横川はとうとう自分の考えを実行に移そうと決意したのだ。
2021年07月02日
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