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もし人々の行動規範は恋愛行動の中に規定されていると考え続けるならば、他の都市では原理原則が文字に書かれて非常に理解しやすいのに対して、我々の物はもっと複雑である。エリスやボエオテアやスパルタではスピーチが得意でないので、慣習法は極めて完結に述べて、愛人を満足させることは良いことであり、それを恥ずかしい事とは老いも若きも、誰も考えないとしている。 想像するに、事実は話すのが苦手であるから、若い人の好意を勝ち取る為に説得力のある弁舌を振るう手間を省く目的でそうしているのだ。他方で、イオニアの多くの部分では、そしてペルシアの統治下にある他の場所では事態は全く真逆になっている。 何故そうした愛が、知的で肉体的な行為を伴う愛を含めて、ペルシア人に非難れるのかは、かの帝国の絶対的な性格に見出される。 寛大な精神や強固な友情や愛着などが支配民の間から発揚してくる事は支配者の利益に適合しない。それらは愛情が取り分け生み出す傾向があるので。 この事実を述べれば、アテネでも僣王によって実際に経験されていたのだ。彼等専制君主の力はアリストギトンの愛やハルモ二デスの強力な愛情によって滅ぼされたのだ。従って我々は次のごとくに結論づけてよいだろう。つまり、そうした愛が批難され続けている所では、人々の貧弱な性格、支配者側の権力への貪欲さと被支配者の臆病さがそうした愛情批判の背後にあるので、立法制定者の精神的な怠惰に起因しているから、全くもって良いのだと考えられて来ている。 我々の憲法はこれらよりは遥かにずっと高貴であるが、前に述べたように簡単には理解できないのだ。姿を隠そうとしない愛というものは人に見られるのを避ける愛よりも高貴だと、我々の間では看做されている。出自や長所で高名な者の愛こそ、その見かけは劣っていようとも、最も高い尊敬を勝ち得ている。 これに加えて、愛する者が受ける幅広い勇気付けはどの様な汚名も彼に付けられていない証拠である。情事の成功は光輝あるものであり、汚名行為だけが失敗なのだ。しかも我々は単に寛大であるだけではなくて、愛する対象者を追求する愛人がする最も異常な行為ですら賞賛する。もしその行為が他の何かの目的の為に為されたのなら、極めて厳しい非難を被るであろう行為にだ。それは次の如き行為だ、例えば、現金での贈り物を手に入れる目的だったり、公的な地位、その他の権力を享受する立場を目的として自分のお気に入りの相手に愛人として振舞うようにしたりする。自分の目的物を目指して相手に懇願したり拝み倒したりもする。又は、厳粛な約束をする、玄関先で野宿する、どの様な奴隷もかつて行ったことのない隷属行為を自ら進んでやって見せる、等などの醜悪な行為だ。彼は敵や友人から同様に、そうした悪行からは身を引くよう忠告されようから。彼の敵はその奴隷根性や気概の無さを批判するだろうし、友人は忠告し顔を赤らめるだろう。 しかしながら、真実の愛人にあっては、そうした行為は魅力をさらに加えるもので、我々の標準から判定すれば彼らの行動に何らの不名誉も付与しないのだ。何故ならば、愛する者がしようと志している仕事は至高の高貴さを持つ物なのだから。一般に流布している確信こそ奇妙な中でも最も奇妙なのであるが、愛する者、この愛する者だけが無事に偽証し得るのだ。詰まり、愛人の誓約はそもそもが誓いなどではないのだから、と人々は言う。それで我々は自己流の思考法で、愛人は神や人から無制約な許可証を賦与されている。因って、その自然な帰結として、この国では、人を愛する事と愛の相手へ慇懃さを示す事とは、共に素晴らしい事であるとされる。 しかし、こうした情熱を呼吸している少年達は教師としての役割を担っている父親達から、少年の愛人と如何なる情報交換もしてはいけないと指示されているので、愛人と関係を持つことに関して同年代者や友人から妨害と言う悩みを加えられている。少年等の年長者はこの悩ましを止めないし、その行為を批難しようともしない。我々としてはこれに関しては前とは違う結論に導かれ、少年達のそうした愛情関係は非常に不名誉な事とするべきと推論するのだ。 事の真実はこうだと私は信じる。愛には、最初に述べたように、絶対的な正義も誤謬も無いのだと。全ての事柄は状況次第で判断が異なる。悪い人間に悪い方法で身を委ねるのは誤りであり、それにふさわしい人に正しい方法で身を委ねるのは正しい。悪い人間とは普通で平俗な愛人であり、相手の霊魂よりも肉体を愛しているのだ。彼は常に変わらない状態ではない、と言うのも彼が愛しているのが常に変わらない物ではないからだ。彼が愛している肉体の美という美しい花が枯れ始めるや否や、彼の愛は正に夢の如くに姿を消してしまう。彼の告白も約束も全てが無と化してしまう。が、高貴な愛情の方は一生涯を通じて変わらないでいる。その愛情の対象は常に変わらない物だからだ。 それで我々の慣習の目的は愛人達に徹底した試練を課すこととなる。それは愛する者を追求させ愛の対象者を逃れさせようと鼓舞する。その結果は、正しい愛人は満足を得、誤ったそれは排除される。どちらの性質の方に愛人とその相手が属するかを決する一種の試合の場を準備していることになる。 これが我々が二つの事柄は不名誉な事だと言う一般的な感情を抱く背後にある動機なのです。第一は恋人に直ぐに屈服すること。時、それは全ての事柄に関する最上の試練なのだから、が経過するのを許さなければいけない。そして第二に、愛人の富や権力に屈してはならないこと。人は吃驚したり相手の与える苦痛に耐えることが出来ない故に、あるいは又、相手が与える物質的で政治性のある優位な条件に抵抗することが出来ないから。こうした物は安定していたり恒常性のあるものではないのであり、こうした物に基づく高貴な友情は無いのだという事実を無視してはいけないのだ。 我々の原理では、愛人が名誉ある仕方で愛する者の所有を楽しむ方法はただ一つある。我々は以下の様に思う。愛する者は奴隷根性を持たずに愛の対象者にどの様に隷属しても良いので、ひとつだけ不名誉でない自ら進んでする隷属の形があると。それは卓越した物を獲得する目的での隷属なのだ。或る人物が他者の意のままになる立場に自分を置きたいと欲する理由が、この方法で知識の或る部門を向上させる事が図れるとか、その他の素晴らしい性質が得られると信じるなら、我々の標準に照らして、その様な進んでする服従には不名誉や奴隷根性の欠片も無いと。 もしも愛する者同士の関係が名誉あるものだとすれば、僕が既に宣言している原理は、少年達を愛する者の行動に関連したり、知識やその他の素晴らしい形の物への欲求に関係する物の組み合わせの中に見出す事が出来るのだ。 少年との愛を含めて、その愛が素晴らしい状態を目指しての愛であった場合にだけ、その愛は名誉あるものと称揚されて然るべきである。これが聖なる愛であり、聖なる神と関連しているのだ。その他の全ての愛は、普通のアフロディテに属するものだ。 以上が愛を論題にして、僕が即興的に作ったベストの貢献なのだよ、ファイドロス君。 次の席順から言えばアリストパネスの番だったのだが、急にヒャックリが止まらなくなったので、医者のエリキマカスが先に話し始めた。 パウサ二アスは、素晴らしい始まりであったが、まだ十分な結論には達していない。それで私はそれに関連付けながら決着を図るのは義務であろうと考える。彼が愛の二つに截然たる区別を設けたのは正しいと思う。しかし私の医者としての職業的な経験からすれば、愛とは魂を回ったり、美少年を目的とするだけのものではなく、その他の多くの目的や活動の分野を持っている。具体的に述べれば、全動物の体、地に生える植物、実際上の全ての存在物に及んでいる。事実、愛の神は偉大にして驚異的な神であるし、その影響力は至るところに及んでいて、神々や人々を同様に抱き止めているのだ。 薬から始めてみようか。その技術に敬意を払う目的でね。我々の身体の構成には二つの愛が含まれている。健康体は病気のそれとは明白に違い、似てはいない。似ていない物によって感じられる欲望や愛の対象は、当然に相違している。従って、健康な身体に存在する愛は病気の身体に存在する愛とは違う。人体を相手にしていると、一寸前にパウサ二アスが言った事と相似な事があるのに気づくのだ。名誉と不名誉が徳あるか邪悪の者の欲望に屈するかどうかにあったように、十全で健康な体に感謝して、不健康で病的な要素を妨害するのが、善き開業医の義務なのである。
2021年10月29日
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扨、愛の神は神々の中で一番の年長者であるだけでなく、我々に最大の利益を授与してくれている。それ故に僕は次のごとくに主張する。一人の少年にとって最も早い時期から自分に相応しい愛人を持つ事程絶大な利益となることはない。何故ならば、愛人の為にではなく、相応の相手を得る事は愛情にとって必要だから。 原則、それは高貴に生きたいと志向する人々の全生涯に亘って道案内するのだが、家族や地位や富やその他の何物にも勝って、愛によってこそ効果的に心に植え付けられるのだ。 原則とは一体何だ? そう訊かれたら僕は答えるね、その原理原則とは何が恥ずべき行為であるかを知る羞恥心を鼓吹し、高貴な事柄へと野心を向けさせるものだと。そうした感情を持たずして国家も個人も偉大なこと、立派なことをやり遂げることは出来ない。 仮に人を愛する者が、或る不名誉な行為の遂行を見破られて、或いは又、他者から不名誉が加えられた際に自分を守るのに失敗し、したと仮定しようか。そんな場合において、父親や友人や他の誰よりも、彼の愛情の対象たる相手からの言葉程に彼に働きかけて多大な苦痛を与える物はあるまいと思うのだ。 そして逆に言えば、愛情を受けている対象者は自分を愛する者の面前での不面目な事態に対して非常に神経質になるものだ。次のような国家や軍隊を想像してみたまえ。つまり、愛する者とその対象者だけで構成されているならば、それ以上によい組織は考えられない事を。そこでは不名誉や相互の競争は排除される。のみならず、その様な組織は互いに扶助し合って実際に全世界を打ち負かしてしまうだろう。愛する者は自分が持ち場を離れたり、責任逃れをするのを自分の仲間に見られるよりも愛人から目撃されるのを欲するだろうか。それなら彼は何度でも自分が死ぬことを選ぶだろう。危機に瀕している愛人を見捨てる事などしない。彼は真の勇者が発揮する勇敢さで危険と対峙する筈だ。それには愛の神自身の力を借りるまでもないこと。要約すれば、ホメロスが英雄の幾人かに力の息を吹き込むと描写する際に、愛の神がその本来の性質から愛の恩恵に浴している者がどのような人間であるかを正確無比に述べているのだ。 更には、愛する者だけが自分の命を他者の為に犠牲に出来る。これは女性たちだけでなく男性に就いても真実だ。ギリシャ人に話す場合には、この主張をペリアスの娘アルセステスによって示されたそれ以上の例を必要としない。アルセステスはエウリピデスの戯曲で、テッサリーの王アドメタスはアポロ神から代理の者を立てることが出来なければ死を免れないと告げられる。彼は自分の両親からも拒絶されるが妻のアルセステスが引き受けるのだ。 彼女は夫の為に進んで死を引き受けたただ一人の人物だったのだ。彼女の英雄的な崇高な行為は人間だけではなく、神々の目にも明らかであって、ほんの限られた者にしか与えられない特権を彼女与えることになる。神々は彼女の行動を讚美してハデス・地獄から彼女の魂を救い出す。神々はそれ程までに彼女の積極的な行為を褒めたたえたのだ。 しかしオルフェウスはハデスから連れて来た妻に失望した。彼にはアルセステスに見られた愛の為に死ぬ勇気が無かったので、生きたままでハデス・死の国 に入ったのだ。これが懲罰として女性達によって彼が殺された原因である。一方で神々はアキレスをブレスト諸島に派遣している。アキレスは母親からヘクトルを殺せば死ぬが、殺さずに帰郷すれば良き死を全うすると教えられていたからだ。アキレスは自分の愛人のパトロクロスの救出に行くという英雄的な選択をして、神々の非常な賞賛を獲得したのだ。 所で、アイスキュロスはアキレスがパトロクロスの愛人だと言ったが、それは全くの誤りだ。アキレスは相手よりももっと美しかった。と言うよりは、アキレスは全英雄中でもっとも美しかったのだ。しかも彼はまだヒゲが生えていなかったし、ホメロスによればパトロクロスよりずっと若かったのだ。真実は、神々は人を愛する者の勇気を非常に尊重したが、愛された者が自分を愛する者に向けた豊かな愛情をより多く賞賛し、それに報いた。何故ならば、愛する者は神に支配されているから、愛の対象者よりもより神聖な存在に近くに来ているから。それで神々はアキレスをアルテステスよりも多く誉めたたえてブレスト諸島に送ったのだ。 僕は次の如くに主張する。愛の神は神々の中で最年長者で最も名誉ある存在であるばかりでなく、どの様な時であっても人々が価値や幸福を獲得する点で最も強力な手助けをするのだと。 こう言った事柄が、アリストデモスによれば、パイドロスの話だった。その後で数名が何か述べたのだが彼は全く覚えていなかった。それで、その後で彼が語ったのはパウサ二アスのスピーチで、それはこんな風な内容だった。 僕はパイドロスの課した条件に賛同出来ないのだ。つまり、愛の神に関する簡略で全くの賞賛演説にすべきだと言うのだが、もし愛の神が単純な性質を有しているのなら、それは実に理に叶っている。が現実はそうではない。何故ならば、愛の神は一つではないからだ。そうであるならば賞賛の前にどちらの愛を指して言うのか前もって宣言するのが良いのではないだろうかね。従って僕は正しく整理して第一にどちらの愛の神に就いて論じるべきかを決めてから、それに適した賛辞を呈するのが順序だと言いたい。僕等は全員が愛の神がアフロディーテと不可分に結びついている事実を承知している。もし独りのアフロディーテがいるのなら、愛の神も独りであろう。しかし現実には二つのアフロディーテがいるのだから、同様に愛の神も二つと言う理屈になる。では、二つのアフロディーテとは何か? 一つは年長でウラヌス(世界の最初の支配者。女神ガイアの夫で神々の祖、ゼウスの祖父)の娘で母親はいない。彼女を聖なるアフロディーテと呼ぼう。もう一人は年少で、ゼウスとディオネの子供であり、普通のアフロディーテと呼ばれる。 当然に愛の神に関しても、それぞれに対応して普通の愛の神と聖なる愛の神とがある。勿論の事として我々は全ての神々を誉め讃えるべきであるが、当面の仕事としてはこの二つの愛の神の尊敬すべき性格が何かを見つけ出す事である。 実は、一つ一つの活動自体は良くも悪くもないので、我々が現在従事している活動を例に取ってみましょうか。酒を飲んだり、歌を歌ったり、会話をしたりとかはそれ自体は良い物ではない。それがどの様に行われているかが重要なので、上手く適切に行われた時に、良い行動となるのだ。悪ければ良くない活動となる。 愛の活動も愛の神に就いても同様で、愛の神そのものが善なる物でも賞賛すべき対象でもない。愛の神が我々を正しく愛するように仕向けるか否かが重要なのだ。 よって、愛の神の普通の性格には普通のアフロディーテと対応しているので何の問題もない。それは実に気まぐれであり、様々な効果を生み出しているが、平均より下劣な者が感じているのはこの愛の方だ。その目印となるのは、第一には女性達や若い男に向けられた愛である。第二には、どちらかと言えば肉体に対して向けられ、精神性にではない。第三には、それは対象として可能な限り知的でないことを選ぶ。何故なら、その唯一の狙いは肉欲の充足にあって、その途中の態度には目も触れないのだ。だからその効果は純粋に偶然が左右するので、善し悪しは相半ばする。これら全てで、照応する女神の性格と同じなのだが、この女神は聖なる女神アフロディーテより遥かに若く、その誕生は男女の接合に因っているのだ。しかし聖なるアフロディーテは、彼女に別の愛の男神が属しているのだが、少しも女性性も持たず、専ら男性から発生している。又相方より年上だし、従って浮気ではない。それでこの男性の聖なる神に鼓舞される愛は男性の方に惹きつけられ、その事を自然により強力でありより知的であると重んじている。その上に、同性の愛人の間でも二番目の愛の神に命ぜられている者を区別している。彼等は単に少年を愛するのではなく、相手が少し知的な傾向を示し始める頃まで待つ。つまり髭が生え始める年齢まで。人生におけるその瞬間を選んでお気に入りと恋に落ち、僕が間違っていないならば、生涯にわたる継続的な深い仲・恋人関係を構築するのが目的なのだ。 そうした愛する者達は少年の無知を悪用して騙そうというのではなく、新鮮な恋人を馬鹿にして玩具にしようとしているのとも違う。 もし男達が法律で禁じられたならば、そうするのが当然なのだが、詰まり年若い少年と深い関係を付ける事を、彼等は極めて不確かな報酬が得られるかどうかに莫大な苦痛を曝け出す地獄を経験せず済むだろうから。年少の少年が精神的に肉体的に完全になるか、又はその反対になるのかをを予測する程難しい事はないのだ。現状ではそうした法律はないのだから、賢明な男なら自ら進んで自己に枷を課すべきだ。そして同様の規制が通常の恋人関係にある者達にもあったならば良いだろう。我々は既に自由民として生まれた女性と深い関係を築くのを禁じているが、その試みの相関物となるだろうからね。 愛に不評を招くのはこうした男達で、愛人に身を委ねるのは不名誉なことだとある人々に勇気づかせて言わせてしまう。そうした非難の元となるのは慎重さや自己抑制の不足なのだ。上品且つ普通に行われるならば咎め立てを受けるような行為などはないのだから。
2021年10月24日
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アポロドーロス 僕が席に着く前には召使が手洗い用の水を運んで来た。やがて別の召使が来て、ソクラテスが隣家の玄関先に居た事が判明したと告げた。彼はそこに佇んでいて、召使のお屋敷の内部にお入り下さいといくら懇願しても聞こえない人のようだったとか。「何という変わった人なのだ」とアガトーンは嘆息を発してから「もう一度行って彼を呼んで来い。承諾の返事など待つ必要は無いのだ」と召使に言った。そこで僕は「いいや、彼を一人にしておくがよい。それは彼の流儀なのだから」と僕は言った。「彼は人から時々離れた位置を取って、其処がどこであれじっと立ち止まっているのさ。そのうちにやって来るに相違ないから、暫く彼の思うままにしてやったほうが良い」、「君がそう思うなら、そうしようか」アガトーンはそう言った後で、召使達に次のように命じた。「兎に角、ソクラテス以外の我々を持て成して呉れたまえ。君たちは完全な自由を与えられているのだから思う存分に自分達の計らいで奉仕してくれればよいのだ。君らに命令を下す者などは一人もいないわけだからね。僕も何一つとしてこれをするなとは命じなかったのだからね。だからこの際は我々を賓客だと考えて、この僕を含めることは勿論だ、奉仕して欲しい。その成果が我々の賞賛に値するかどうか、見るとしよう」と。 その後で食事が始まったが、ソクラテスはやって来なかった。アガトーンは何度か彼を呼びに人をやろうとしたのだが、僕がそれを制止した。遂にはソクラテスはやって来たのだが、彼としては決して遅い方ではなかった。その頃は夕食のコースも半ばに達していたのだ。偶々、テーブルの端に座っていたアがトーンが大声を発して言った、「此処、僕の隣の席に座り給え。そして貴方が玄関の所で発見した何かを僕に話して聞かせてくれませんか。僕の見るところでは、貴方は自己の抱えていた問題に解答を得て、虫ピンで留めるように確認した筈だからね。そうでなければまだ姿を現さないだろうから」、 ソクラテスは着席してから言った、「もし知識が水の如きものだったなら、どんなにか良かっただろう。水の様に知識の多い者からより少ない者に、ウールの糸を伝わって二つのコップ間を伝達するのだったら。一杯の水のコップから空のコップへ移し替えられる物ならね。もしそれを知識に応用すれば、僕は君の隣に座れる特権を大いに評価するのだ。何故ならば、君はなみなみと溢れる素晴らしい知識の一飲みで僕を満たしてくれることは間違いのないことだから。僕が所有している知識等と言っても僅かなもので、夢よりももっと儚いものさ。君の知識はより素晴らしく一段と輝いているに決まっている。君はまだ実に若く、あの輝かしい光彩を放った様は表現の言葉も無い、一昨日三万人以上のギリシアの聴衆を前にした目も眩む如き輝きはどうだ!」、「貴方の皮肉はもう十分です、ソクラテス」とアガトーン言った。「我々は自分達の尊敬すべき知識に対する意見はもう少し後で片付けることにして、デュオニュソス、ワインの神の判断を待つことにしましょう。暫くは、貴方の食事を堪能して下さいませんか」、 ソクラテスが寛いでから他の客達同様に夕食を終えてから、我々は神酒を地面に注ぎ、神への賛歌を歌い、慣例の儀式を全員で行った。それから酒盛りを開始したのだ。この時にパウサ二アスが次のごとくに話し始めた。 「さあ、諸君。飲み会をするのに何も厳しい決まりなどは無い。昨日の飲み比べは僕にとって実に不満だった。僕は諸君も同様であると愚考するに吝かではない。そこで、飲み会での最小の取り決めとは一体何かを議論したいのだが」 するとアリストパネスが言った、「同感だね、パウサニアス。それを示せば我々は気軽になれると思うからね。僕は昨日いささか痛飲した口だから」、「全く同感だ」とエリキマカス、アキュメナスの息子、が言葉を継いだ。「しかし、僕には意見を拝聴したい一人の人物がいる、アガトーン、君は大丈夫だったのかね?」、「いや、全く降参したね」とアがトーン。エリキマカスも応じた、「これはもっけの幸いというものだよ、アリストデモス、パイドロス、その他の友達よ、我々の中で最強の酒豪が降参したのだから。我々は嘗て彼に対抗出来なかったのだ、当然にソクラテスは勘定に入れていないけれども。何しろソクラテスはどちらの方法でも構わない無敵者なので。しかしここには無制限な飲酒に無関心な者は一人もいないので、酩酊に就いての真実を聞いても我慢してくれるだろうと思うのだ。痛飲酩酊は人々にとって良くないことだと、私の医学的な経験は確信させている。深酒を自身ですることや他者に深酒を勧める事に私は消極的であります。とりわけ前日から二日酔いの者には殊更に」、 ここでマリナス出身のパイドロスが介入して言った、「僕はいつでも貴方のご意見を傾聴する習慣を持っているのですが、格別に医学的な忠告には。他の方々も、もし賢者であるならば、この際は同様の行動を取るでありましょう」、 この後では誰もが今回は酔いどれるまでは飲まずに、ほろ酔いまでにしておこうと同意した。「それから後では、このように決定したので、如何なる強制も無くし、銘々は自分の適量だけを飲もうとした。それから僕はその時入って来たばかりのフルート奏者の少女を送り帰し、今日は会話だけを楽しもうと提案したいのだ」とエリキマカスが言った、「もしどんなテーマでと訊かれたなら、それに関しても自分なりの意見があるのだ」、すると皆が言葉を続けるように彼を促したので、言葉を継いだ、「僕はエウリピデスのメラニッペの流儀で始めたい、自分自身についてではなく、これから語ろうとしている話を。そしてそれは僕らの友・パイドロスに相応しいものだ。彼はいつも憤然としてこう言っている、「エリキマカス、或る神々には詩人から讃歌や褒め讃える歌が献呈されているのに、大勢いる詩人の誰ひとりとして遠い古代から伝えられる強力な愛の神への賛辞は創作していないのは、恥ずべきことではないだろうか? 或いは、あの善良なる職業教育者たる人々、例えば優秀なプロディカスだが。彼等はヘラクレスその他に散文の讃辞を書いている。それは多分それ程驚くべきことではないだろうが、僕は嘗て或る学者が書いた一冊の本を偶々読んだことがある。その書物は塩の有用性は素晴らしい賛辞のテーマなのだと主張している。そうした例は他にも多数見つけることができる。しかし愛の神にそうした例が皆無なのは非常に残念だと思われる。それ程にこの強力な神だけが無視され続けているのだ。そうパイドロスは主張し続けているのだが、僕は両手を挙げて賛成する。今日に至るまで、誰一人として愛の神に相応しい言葉で褒め讃える勇気を持った者はいないのだからね。それ程にこの強力な神は完全に無視されているのだ。だから僕はパイドロスに感謝して一つの寄付を呈したい。つまり、この場に参加している我々で愛の神を賛美するのは、大いに時宜に叶った事だと思うのです。もし賛同が得られるなら、この場では会話以上に我々を夢中にさせてくれる物はないと思うのです。僕の提案と言うのは、我々銘々が、左から右へ順番に、その神を賛美賞讃する最高の言葉を表現するべきだというもの。そして、パイドロスから始めるべきだと言いたい。彼は最も左側の席を占めているばかりではなく、そのそもがこの考えの創案者なのだからね」、「誰も君の提案に反対する者はいないよ、エリキマカス。愛の神こそは僕が理解するただ一つの論題だから、此処にいる誰もが、アガトーン、パウサ二アス、それにディオニュソスとアフロディテにしか関心のないアリストパネスでさえ、同意すると考えるのだ。勿論、最後に席を占めている者には公平ではないけれど、最初の方の話者が素晴らしい話し方で論題を全て尽くしてしまったとしても、構わないと思う。さあ、パイドロスから愛の賛美を始めよう、幸運があるように祈るよ」と、ソクラテスが発言した。 全員がソクラテスの意見に賛同して、パイドロスに始めるよう呼びかけた。アリストデモスは各人が言ったことを正確には思い出さなかったし、僕も彼が僕に語った事柄を全部は思い出してはいない。それでも記憶するに値すると思われる話の最も重要な点については、君に語ろうと思う。 前に述べた如く、アリストデモスはパイドロスから始めたと話したが、パイドロスは愛は偉大な神であるという出発点を選んで論述をした。愛の神は人間や神々の間で多くの点で崇拝されているとは述べたが、その出自に関しては何も言及しなかった。 パイドロス曰く、その神は全ての存在する物の中でも最古の一つである、とするのが称えるべき内容のタイトルである。その証拠として自分は愛の神には両親がいない事を指摘したい。彼の両親に言及した作家は散文にしろ、韻文にしろ、一人も居なかった。かの有名な「仕事と日々」や「神統記(しんとうき)」の著者の偉大なる叙事詩人・ヘシオドスは次の如くに述べている。――初めにカオスが生まれ、そして次に胸豊満なる大地が出現し、その堅固不抜なる基の上に創造が開始された、同時に愛もが生じたのだ、と。「系譜学」を著したアキュシラオスもヘシオドスに賛同して、カオスの後に大地と愛の二者が生じたのだと述べている。そしてかのパルメ二デスは「万物は変化しない。永遠不変の存在である」とヘラクレイトスの「万物は変化する、永遠不変の存在などない」と喝破した偉大なる天才に異を唱えたが、創造を述べるに際して、「創造は他の神々に先んじて愛を生み出したのだ」と主張している。だから、愛の神の非常な古さに関しては広く同意がなされている。
2021年10月20日
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私はプラトンの師であるソクラテスの、自称 押しかけ弟子 であります。ですから、私にふさわしい「饗宴」の翻訳を心掛けようと思い立ったのですが、単なる翻訳ではなく、もっとエンターテインメント性の強い、面白くて、しかも為になる作品に仕立て上げて見たいとの野心が、メラメラと炎(ほむら)の如くに胸底から立ち上がって来るのを覚えました。 草加の爺には草加の爺に似合いのやり方で、愛・エロースに就いて探求するやり方があるのではないかと思うからであります。専門の学者には彼等流のアプローチがあるのだから、ソクラテスの時代と地域を遥かに隔てた 異色の弟子 には弟子の流儀があって然るべきと考えるのは、至極当然の成り行きでありましょう。 前置きはこのくらいにして、兎に角空前絶後のビックチャレンジに取り掛かることに致しましょう。 登場人物の紹介。アポロドーロス:ソクラテスを崇拝する者の中でも、最も熱心な一人。激情家。アポロドーロスの友人ソクラテスアガトーン:悲劇詩人で、同時に非常な美男子。パウサー二アスの愛人。アリストデモスパイドロス:憂鬱症的傾向のある文人。対話篇「パイドロス」の主人公で、ここでも愛について語る。パウサ二アス:アガトーンの愛人。エリキマカス:医師。アリストパネス:喜劇詩人。アルキビアデス:光彩を放つ、放縦不羈、高名な、当時のアテネで全盛期にある人物。 会話 の 導入部アポロドーロス もう既に君が僕に話してくれと頼んでいた場面については大まかに説明したと思うのだが。一昨日、ファレラムの自宅から僕が町へ行く途中で、僕の知人が後ろ姿を見かけて揶揄する口調で呼び掛けてきたのだよ。やあ、アポロドーロス君、ちょっと待ってくれたまえ、と。僕は立ち止まって、彼が追いつくのを待った。僕は今君を探していたところなのだ。アガトーンの家でのあのパーティ、ソクラテスやアルキビアデスその他が居たパーティで一体何があったのかを知りたいと思うのでね。愛のテーマについては何が語られたのだろうか、とね。僕はある人物からその一部を聞かされているのだ。彼はフィリップの息子のフェニクスから話を聞いたのだが。彼は明確には僕に説明出来ずにいるのだが、君も知っていると話していたのだよ。だからお願いだ、話してくれないか。ソクラテスは君の友人だし、君より以上にソクラテスの会話を上手に説明出来る者はいないのだから。先ず第一に、君はあの会に参加していたのだろうか? 僕は答えたものだ、明確な説明などはそもそも有り得ないことなのだ、もしかして君がその会が最近行われて、僕が其処に立ち会っていたと考えているのだったらねと。彼は言った、その通りに思っているのだよ、君。僕は答えた、親愛なるグラウコン君、どうしてそんなことがあり得るだろうか? 君は知らないのだろうか、アガトーンがアテネに住んでから何年にもなるのに、僕がソクラテスと知り合ってからまだ三年にもならないのだよ。しかも、ソクラテスが毎日何を言い、何を行っているかを知るのを自分の務めとしてからもね。その前には僕は実にハチャメチャな生活を送っていた。僕が何処かに到着するとしても、君の御存知の如くに、実際想像出来る限りでの碌でなし者でしかなかったよ。そして信じていたよ、知識の追求だなどとはおよそ人間のすることの中でも、最低の物だってね。 すると彼は言ったものだ、僕をバカ扱いしないでくれたまえ。その会・パーティは何時あったのかを教えてくれないか。僕は答えたよ、僕らがまだ子供だった頃、アガトーンが彼の最初の悲劇で賞を獲得した年、彼が勝利の名誉を祝福する催しをいつもの仲間と開いた当日の事だ。彼、それじゃあ随分前のことなのだ。誰がそれを君に説明したのだろうか、ソクラテス本人なのかね? いや、違うね。フェニックスに語ったのと同じ人物で、キダテマエアム出身のアリストデモスという人間だ。彼はいつも裸足で歩いている小柄な男だ。彼はその会に参加していたし、当時ソクラテスの絶大な崇拝者の一人だったからだと思うのだがね。そして僕はアリストデモスが語って聞かせた幾つかの点に関して、ソクラテスに確かめてみたのだが、ソクラテスはそれを肯定したよ。 それならば何故、君は僕を気懸りな状態にして放っておこうとするのだね。町まで歩くのは会話をするには又とない絶好の機会ではないか。 それで僕等は一緒に歩きながら、肝心の論題について話し合うことになった。それでのっけに言ったように僕がまだ繰り返して復唱していない事柄を、もし君も望むのであれば述べてみたいと思うのだ。実際の話が、僕は啓発を別にしても、自己を語ったり、人が哲学的な命題について語るのを聞くのが、三度のご飯よりも大好きでね。取り分け、どのような種類の会話、なかんずく君の様な裕福な商人の話で格別に、僕自身の為の苦悩や、一緒にいる君の如き人物に対する同情心ではち切れんばかりになるのだ。何故とならば、君達は自分が何も成し遂げていないのに、何事かを確かに為遂げたと思っているからだ。反対に、君は君で多分僕のことを不幸な奴だと思っているのだろうがね。多分、君の考えは正しいだろうし、僕の君に対する感情は一個の意見などではなくて知識なのだ。友 君は相変わらずだねアポロドーロス。君はいつだって自分自身や他人を威圧して止まないい。僕の見るところでは、君はソクラテス以外は、自己を含めて世界中の誰もが惨めな存在なのだと信じている。何故君が狂信・熱狂者との渾名を頂戴するに至ったかは知らないが、確かに君はその会話においてその名に恥じない行動を示している。君は常に自己にも他者にも、ソクラテスを除いては熱情を以て接している。アポロドーロス 親愛なる友よ、僕が自分や君に関して抱いている意見は、僕が狂信者であり且つ奇人変人でもあることを暴露しているとは、そんなに明白な事なのだろうかね。友 今はその議論は止めて、訊ねている事柄、例の会話の成行きを説明する事に限定しようではないかね、君。アポロドーロス つまり、それはこんな風なのだが、アリストデモスが僕に語って聞かせた通りに初めから叙述した方が良いだろうと思う。彼の話は以下のようだ。 僕は風呂から出たばかりで靴を履いたソクラテスに出会った。その二つ共に彼にあっては極めて異例の事だった。そこで尋ねたのだが、そんな身繕いして何処へ行くところなのかと。ソクラテスはアガトーンと夕食をするのだと答えた。僕は混雑が嫌だったので昨日のアガトーンの優勝パーティーを回避していたが、今日は参加すると約束していた。僕のその時の正装ぶりときたら決まっていたね、美男子に会おうという時には最上の服装で身を固めるに限るからね。次にソクラテスが言った、もし先約が無かったら君も一緒に夕食にいかないかと。貴方の仰せに従いますと、僕は返事した。 それじゃあ、行こうか。ソクラテスは言った。僕らは古くから伝えられた諺―善き人の集会には良き友が素顔で集まってくれる、と言う古くからの言い伝えに新しい意味を付け加えようではないか。詰まりは、ほんの少し変えればよいので。実際の話が、紀元前10世紀頃の盲目詩人のホメロスは諺に実に暴力的な変革を加えて、単にそれを維持しなかった。ホメロスの描くアガメムノンは抜群の武将であるが、メネラオスは弱々しい闘士でしかない。しかも、アガメムノンが犠牲的で友人を歓待するのに、メネラオスは仮面をせず素面で現れると描写されている。メネラオスを受け入れる主人は彼より遥かに立派な人物だと言うのに。(注:アガメムノンはミュケナイの王であり、トロイヤ戦争におけるギリシャ軍の総大将。弟のメネラオスの妻ヘレネーが小アジアに位置する王子パリスに連れ去られた事への怒り、及び掟を破り他者の妻を奪ったパリスへの報復の為に、全ギリシャから志願者を募り、トロイヤに戦争を仕掛けることになる。一方、メネラオスはアガメムノンの弟。伝説上のスパルタ王であり、トロイヤ戦争でのギリシャ軍の副総大将である。因みに、アガメムノンはローマ時代には「王の中の王」と呼ばれ、皇帝の比喩とみなされていたが、その偉業以上に傲慢で非情、所有欲の強い男であったと言われる) 応えて僕は言ったのさ。ホメロスの描写は貴方が言うのより僕にはぴったりするのだが、ソクラテス。誰だって学者の開催するパーティーに仮面をせずには参加しないよ。もし僕と同行するのであれば何かの口実を思いつかなければならないよ。僕は、素顔のままで来たとは認めないつもりだから。貴方が来ないかと僕に言ったのだと打ち明けるだろうからね。 ソクラテスは言うのだ、兎に角出発しようか。一人よりは二人の方が語るべき事柄を決めるのには好都合だからね。 この会話の後で、僕等は出発したのだ。しかし彼は自分の考えに夢中になっている感じで、遅れがちだった。それで僕が彼を待っていると、構わずに先に進めと言う。僕がアガトーンの家に着くとドアが開いた。気が付くと僕は実に間抜けな立場になっていたのだよ。一人の召使がドアの所に居て、部屋の中へと案内した。そこでは客人達がテーブルに付き、既に食事は今まさに始まろうとしていた。アガトーンは僕を見るやいなや叫んだ、「ちょうど良かった、夕食に間に合ったよ。君の訪問が別の事だったなら、それはひとまず先に延ばそうよ。僕は昨日君を招待するべく探したのだが、何処にも居なかった。それにしても何故、ソクラテスは君と一緒ではないのかね?」 僕は振り返ったが、ソクラテスの姿は無い。それで実際は彼と一緒なので、彼がこの会に僕を誘ったのだと説明した。「それは良かった。が、ソクラテスは何処に居るのかね?」、「彼は僕の後からやって来ていたのだが、どうしてしまったのだろうか」、「行って、ソクラテスを探して来なさい」とアガトーンは召使に命じた。「そして、アリストデモス、君は医者のエリキマカスの隣の席に座り給え」と言った。
2021年10月17日
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同 ・ 宴会場 女将に案内されて一太郎と桜子の夫婦が入って来て、上座に着席した。 すると、続いて入室して来たのは、一太郎の先輩の例の老社長である。慌てて居住まいを正す二人に、老社長 やあやあ、そのままで結構ですよ。 いつもとは打って変わって愛想のよい社長である。社長 日本御夫妻の結婚二十五周年を祝して、乾杯といきましょうか。それでは女将…。女将 畏まりました。 ✖ ✖ 旅館の在る村へ向かう山道 (同じ頃) 日本美雪の運転する車が走る。助手席に二男の正次、そして後部座席には長男・健太がいる。美雪 もう直ぐよ。十分程で旅館に着きます。正次 お父さんとお母さん、きっと驚くね。そして喜んでくれるよ。 そう言って、後ろの座席を振り返った。健太も嬉しそうな表情である。 元の ✖ ✖ 旅館・宴会場 先輩社長の音頭で乾杯が行われる。一太郎 先輩、いや、社長さん、どうして御存知なのでしょうか、私達のプライベートな事を。社長 いや何、先週お宅の社長と偶然或るパーティーで同席してね。その時、君が目出度く社長賞を獲得した事。その賞金で夫婦で初めての旅行に行くらしい事を耳にしたのだ。桜子 ご挨拶が遅くなりました。日本の家内で御座います。夫が日頃からひと方ならぬお世話に与りまして、本当に有難う存じます。社長 いやいや、お世話などとはとんでもない。日本君とは偶々同郷でして、子供の時分からの付き合いということもあって、心安立てに迷惑ばかり掛けています。一太郎 (隣の桜子に)僕が曲がりなりにも頑張って来られたのも、皆んなこの先輩社長の 愛のムチ のお蔭様なのだ。社長 愛のムチか…、最近では流行らなくなった言葉だな。 (と頭を掻いている)女将 先ほど御質問のありましたお部屋の件ですが、(と、頃合を見計らっていた女将が、笑みを湛えながら言葉を継いだ) 私共の旅館は菱田様(と社長の方をこなして)に長年の間、御贔屓・御愛顧頂いて居ります。昨日、御来館の時に係りの者が 歓迎・日本様御夫妻 の看板を用意しているのに目を止められまして。全く奇遇と申しますか、ご縁が御座いましたのでしょう、菱田様と日本様が旧知の間柄と分かりました。一太郎・桜子 そうだったのですか。 (互いに顔を見合わせた)女将 はい、菱田様からのお申し出に依り、費用は全部当方が負担するので、あのお部屋をお二人に提供する様に、と言うことで御座いました。 同 ・玄関前の道 美雪の運転する車が到着した。待ち受けていた従業員が三人を横手の従業員専用口の方に案内する。 同 ・元の宴会場一太郎・桜子 有難う御座います。 口々に礼を言い、深々と頭を下げる夫婦。その時、新たに入って来た係りの者が、係 失礼致します。女将さん一寸。 と、部屋の外に女将を呼んだ。直ぐに戻って来た女将、女将 嬉しいお知らせが有ります。只今、お子様方が御到着なさいました。一太郎・桜子 家の子供達がですか? 俄かには信じ難い表情の二人である。女将が隣の部屋との仕切りの襖を開けると、美雪たち三人の姿がある。桜子 まあ、あなた達……。 本当に嬉しいのである。一太郎も感動している。社長 これは誠に結構。我々はこれ迄と言うことにして…。 と、事情を察して席を立ちかけた。女将も、女将 後はご家族水入らずで。 と、退出しようとする。一太郎 ちょっとお待ち下さい。先輩、そして女将さん。 と二人を呼び止めた。一太郎 君たちもそこで、話を聴いていて貰いたい。 隣室の美雪達に言った。席に直った女将、菱田、そして桜子にも語り掛ける一太郎の染み染みとした声である。一太郎 大分昔の事なので、今では誰も知る人はない。いや、当時だって同じだった。ひとりの青年と笑顔が神々しい程に美しい若女将との間の、小さなエピソードです。 女将は、漠然とだが、何かを思い出しかけている。一太郎 これに見覚えはありませんでしょうか、女将さん。 一太郎が、さっきから手に握り締めていた小さなお守りの袋を、差し出して見せた。女将 …… (手に取って見て) 思い出しました。それではお客様は、あの時の ――一太郎 そうです、自殺騒ぎを起こして、その上に無銭宿泊と言う、客とは呼べない惨めなこの私に ―― 回想 (二十数年前) ✖ ✖ 旅館に近い丘の上に、首項垂れて立つ一太郎の背後から、静かに歩み寄る若い日の女将。一太郎 (気配に気付いて振り返って) 本当にご迷惑を……。 後は、言葉にならないのだ。女将 お客様はまだお若いのですから、まだまだ明日という大きな未来があります。 (自信なげに立つ一太郎に) これ、母の形見なのですが、中にあすなろの樹の種が入っているだけの、ただのお守りです。宜しかったら役立てて下さい。一太郎 僕にですか…、あすなろの種ですか。 一太郎は唯々嬉しくて、自然に頭が下がるのだった。 ✖ ✖ 旅館 ・ 元の 宴会場女将 そうですか、役立てて頂けたのですか。私も嬉しいです。 女将は懐かしそうに、今では古ぼけているお守りを手にしている。一太郎 苦しい時、挫けそうになった時に、何度この大切なお守りに勇気づけられた事か。明日こそは、明日(あす)なろう……、もう一度チャレンジしてみよう。いや、何度でも、挑戦し続けよう。そして必ず、明日なろう、と。 其処にいた誰もが、桜子も、子供達三人、そして菱田社長も感動している。菱田 いやあ、実によいお話を耳にしました。正に現代の美談ですな。 女将も心を打たれていたが、女将 素晴らしいお花を御披露頂き有難う存じました。私共はこれで退席致します。後はご家族だけの水入らずで。 と、目顔で菱田を促しながら、席を立った。その後ろ姿に、桜子 色々と暖かな御心配りと有難いお志とを、誠に有難う存じます。 まるで拝むかの如くに言った。 それ迄お給仕をしていた仲居達も「何か御用が御座いましたら、お声を掛けて下さいませ」と、部屋を出た。 そして、隣室にいた美雪が、正次が、最後に健太が、両親の周りに集まるのだった。 ―― 時間経過 ―― 食事を終えた親子五人が、笑顔を交えながら歓談している。桜子 それにしても健太は、よく頑張って此処まで来てくれたわね。 照れながら美雪を見る健太。美雪 少し強引かなと思ったけれど、丁度そういうタイミングだったのかも。一太郎 美雪こそ、よく来てくれたね。少なくとも三年は家には戻らないって、電話で母さんに言ったそうだから。美雪 自信がなかったのよ。決心が挫けるのが不安だった。でも、もう大丈夫。それに、電話を聞いていた果樹園のオーナーが、うちの車を貸すから弟さん達も誘って、行ってきなさいって言ってくれたの。だから、来れたの。正次 あのォ、僕だって少しは頑張ったんですけど。 チョッピリおどけた調子で言った。美雪 ああ、そうそう、あなたも頑張りました。お兄ちゃんを励ましたり、方向音痴のお姉ちゃんの助手として道を訊いたり、地図を調べたりしてくれました。 更に和やかな雰囲気に包まれる家族五人であった。 ✖ ✖ 旅館近くの観光名所 (翌日) 日本家の家族五人が仲睦まじく散策している。一太郎のモノローグ「この旅行を契機として、我が家のメンバーは益々結束と絆を強めることとなった。とりわけ私の仕事運は完全に上昇気流に乗ったようであった」 高層ビルの谷間 一太郎が颯爽と歩いている。冒頭とは違い、歩道の車道側を、胸を張って、その顔は自信に満ち満ちている。 《 終り 》 エンドロール の 背景として (参考の為に) 次々と営業拒否に遭う一太郎の困惑と意気消沈ぶりの色々、フラシュ風に。 キャリア学習の公開研究会で 日本式セールス術 に就いて発表する一太郎。 大学の教壇に立ち講義する一太郎。 桜子と町で買い物をする一太郎。 郊外の緑豊かな景色の中を、家族五人が仲良くハイキングしている。 etc.
2021年10月13日
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旧日光街道沿いの 民家 (数週間後) 重役付きの運転士・佐藤が一太郎に対して蕎麦打ちの手ほどきを施している所。 道具類の一式は本職のそば職人が使用する本格的なもの。又、蕎麦粉も国産の極めて上質の品である。 師匠役の佐藤は普段の顔つきとはガラリと変わり、貫禄充分。一方の一太郎は顔のあちこちに打粉の白と、吹き出す汗で、先程からの奮闘ぶりを如実に示している。その目の表情は真剣そのものだ。一太郎 仰る通りに、奥が深いです。佐藤 食べるのはいとも簡単ですが、作るのは、上等な蕎麦に仕上げるのには、年季が要りま す。一太郎 済みません、一息ついても宜しいでしょうか?佐藤 ああ、これは気が付きませんでした。どうぞ、どうぞ。 いつもの、物腰の柔らかな佐藤に戻っている。一太郎 (フーッと大きく息を吐いて) 体力には多少自信があったのですが。佐藤 体力だけではなく、胆力、気力というのでしょうか、本物の精神力が必要なのです、正直の所は。一太郎 精神力なのですね、大切なのは。佐藤 たかがソバ、されどソバ。関心のない人には全く理解できない境地が、実は存在するのですね。その辺が蕎麦打ちの真の醍醐味とでも言うのでしょうか、面白くって嵌る所なのです、これが。 頷いて立ち上がった一太郎。先程より更に真剣な表情になった。 佐藤の指導で、蕎麦打ちの実習が続く。 ―― 時間経過 ―― 出来上がった蕎麦を試食する二人。一太郎 格別の味です、これは。佐藤 お世辞抜きで、最初にしては上出来です。きっと筋が良いのでしょう。 褒められて、満更でもない一太郎である。 郊外の 畑地 (数ヵ月後) H 社の窓際族の課長・山田の日曜菜園に来ている一太郎。一緒に畑仕事を手伝ったり、周囲の景色に見蕩れたりして、のんびりとした時間を過ごしている一太郎。一太郎 空気と、土の匂いが、何とも新鮮そのものですね。 そう、染み染みとした口調で語り掛けた。山田 今では、此処での畑仕事だけが、僕の生き甲斐になっているのです。一太郎 そうですか……。 傍らの雑草を抜いたりしながら、山田 畑仕事と言っても、プロではありませんから、手抜きばかりの、遊び半分の作業です。一太郎 息抜きでしょうから。山田 いわば、来ることに意義があるのですが、それでも土を耕して種を蒔いて、肥料をやったりしていると、可愛らしく感じたりもするんですね、野菜たちが。一太郎 手塩にかけるわけですからね。山田 ええ、ですから、途中からは段々本気になったりしてくるのですよ。一太郎 遊びではなくなる。山田 そうなんです。手間暇を掛ければ掛けるほど、相手はそれに応えてくれる。いや、応えてくれるような気がするのですね。一太郎 成程、そうですか。山田 僕は御存知の通り世渡りが下手で、と言うか、世の中からスポイルされて、会社でも 窓際の山ちゃん などと蔑まれている男です。でも、変な話ですが、畑の土や野菜を相手にしていると心が和んで、自信が湧くような自由な心境になれるのです。妙な劣等感からも解放されている…。一太郎 そうですか。山田 実はですね……、日本さんだから今日は洗い浚いに本心を申し上げますが、此処は謂わば僕だけの 秘密の聖なる土地 でして、家族でさえ連れて来た事のなかった場所だったのですよ。此処での時間は、この僕が生きていく上での、ギリギリの最後の砦、生きる為の力を与えてくれる拠り所なのです、結局。 一太郎は山田のどこか照れたような、純粋無垢な表情を、じっと見詰続けるのだった。山田 日本さん、ご自分では御気づきになっていらっしゃらないようですが、うちの会社だけでなく、あちこちで隠れたファンが大勢いるのです。評判がとても良いのです。いえ、決して嘘や単なるお世辞ではありません。 一太郎は黙って、深々と一礼した。 某 大学の 教室 (夜 数週間後) 一太郎が他の学生に混じって、熱心に講義を聴いている。十数人の学生の殆どが社会人である。一太郎のモノローグ「 I 社の中堅で、幹部候補生の一人である課長代理の日高一樹氏は、地味で目立たない存在だが、人知れず苦労を積み重ね続けて来ている苦労人である。 一太郎の隣の席で、熱心にメモを取る日高。モノローグの続き「私は、二流の高校を辛うじて卒業だけはしていたが、身に付いた専門知識は何もない状態だった」講師 ここ迄で、何か質問は有りますか? 直ぐに挙手する日高、日高 仕事と職業の違いが、少しずつ分かって来ましたが、職業の本質に就いて、大事な点を御説明頂きたいのですが。一太郎のモノローグ「専門の生きた知識を身に付けたいと、強い意欲を燃やす日高氏の大きな情熱に引き摺られるような形で、社会学を学ぼうと、この大学の通信制に入学し、こうして一週間のスクーリングに出席しているのだ」 同 ・ 廊下 授業が終了して、教室から出て来る一太郎と日高達の学生。日高 疲れましたか?一太郎 いえ、疲れは感じません。逆に、時間が速く過ぎ去った様な感じで、久しぶりに充実した楽しい気分です。日高 それは良かった。共に学ぶお仲間が出来て、私も嬉しいです。 大学近くの道 (夜) 一太郎と日高が話しながら歩く。日高 惰性で学習する、と言うのですか、例えば親や教師から強制されて勉強するのではなく、こうして自分自身の意志で何かを学ぶと言うのは、実に楽しいものですね。一太郎 本当に、そうですね。日高 なかなか理解して貰えないのですがね、今の話は…。一太郎 実際に体験してみないと、分からないかも知れませんね。 若々しい雰囲気の二人のシルエットが、夜の闇の中で弾んでいるかのようである。 J M C のオフィス (一年数ヵ月後) 出勤して来た一太郎に、課長が声を掛けた。課長 日本君、ちょっと。一太郎 はい、また部長がお呼びですか?課長 いや、その部長とも相談して決めたのだが、今回の新人研修会の講師を、君に任せようと思うのだ。一太郎 私で宜しいのでしょうか?課長 何を言うのだ。今や君は我が社のエースだよ。過去半年間の実績は、文句なく歴代の記録を塗り替えるダントツのナンバーワン。自信を持ち給え、自信を!一太郎 有難う御座います。講師の件、謹んでお受けいたします。課長 うん、頑張りたまえ。 その時、周囲の同僚達の間から拍手が起こった。心の底から嬉しい一太郎である。 フラッシュ風に、 新人研修の講師を勤める一太郎 ―― 年間売上ナンバーワン賞で、社長から表彰状を授与され、晴がましい表情の一太郎 ―― 田園地帯を行く列車 (数週間後) その列車の座席に、並んで腰掛けている一太郎と桜子の姿がある。 ローカル線の 駅前 バスに乗り込む一太郎と桜子。 ✖ ✖ 旅館・玄関ロビー 一太郎と桜子の二人を出迎える旅館の従業員達。従業員 日本様、お待ち申し上げておりました。 と、二人を奥の方に案内する。 同 ・ 特別室 従業員に案内されて来た二人であるが、一太郎 あの、私どもはごく普通のお部屋を予約した筈ですが。桜子 何かの手違いでは…。従業員 女将から日本様御夫妻をこちらに御案内致すようにと、申しつかっております。 顔を見合わせて、怪訝な面持ちの二人である。従業員 後ほど、女将が改めて御挨拶に参りますので、どうぞ御着替えをなさって、お風呂で汗をお流しの上で、ごゆるりとお寛ぎ下さいませ。 ―― 時間経過 ―― 風呂を済ませて、寛いでいる二人。 部屋の外で、声 御免下さいませ。( 入って来た女将がにこやかに挨拶する ) 本日は当旅館にお越し頂きまして誠に有難う存じます。私は当旅館の女将・梅澤智恵で御座います。一太郎と桜子 お世話になります。女将 間もなく別室にて、御食事の用意が整いますので、係りの者に御案内致させます。それまでの間、もう少々お待ち下さいますようにお願い申し上げます。一太郎 あのォ、付かぬ事をお尋ねするようですが、私共は通常料金で宿泊をお願いしている筈なのですが…。女将 はい、左様に心得て居ります。桜子 この様に立派なお部屋は、料金の事は別に致しましても、私達夫婦には似つかわしくないと、先程から主人と話していたのですが。女将 御心配をお掛け致しまして相済みません。後程、その理由も含めまして、詳しく御説明させて頂く積りで居ります。 その時、係りの人が来て、女将に何か耳打ちした。女将 御食事の用意が出来ましたので、御案内致します。
2021年10月09日
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或る オフィスビル の 入口付近 (数日後) 人待ち顔で立っている一太郎の姿がある。 と、帰り支度を済ませた顔馴染の受付嬢が足速に横の通用口から出て来た。一太郎 あのぉ、日本です。お疲れ様です。受付嬢 (ニッコリとして) あら、お疲れ様です。一太郎 一寸、お話を伺いたいのですが、お疲れのところを恐縮です。受付嬢 はい、どうぞ。どうせ家に帰るだけですから。 と、非常にフランクで打ち解けた態度である。 洒落た感じの カフェ 窓際の席に向かい合って座る一太郎と受付嬢。受付嬢 日本さん、よくいらっしゃるのですか、この種のお店。とても素敵。一太郎 よかった、気に入って頂けて。実は、初めてなのです。受付嬢 初めてのお店なのですか…。一太郎 貴女をお誘いするのに何処がよいか、色々と研究したのですよ、立ち話も何ですから。受付嬢 嬉しいわ。それで、どんなお話でしょうか、私に訊きたい事って? と少し改まった態度で訊いた。一太郎 私に貴女と同じ年頃の娘が居るのですが、その娘が真剣に悩んでいる事を、私も妻も気付かなかった……。受付嬢 そうですか。一太郎 貴女はいつも笑顔を湛えて来客に応対されています。でも、もしかしたら心の中には人には言えないような悩みの種を抱えているかも知れない。ふと、そんな風に思ったものですから。 何を質問されるのかと緊張していた相手の様子が楽になった。受付嬢 私も 多感な 年頃の娘ですから、色々と気になる事、将来への不安などあります。私今、親元を離れて、一人で暮らしていますから。女性のルームメートはいますが、お家賃を折半にするのが目的で、お互いの私生活には干渉しない関係です。寂しかったり、孤独を感じたり、時には素敵な恋人が欲しいなって思います。でも――一太郎 でも……?受付嬢 でも、そんな悩みが全部無くなってしまったら、一太郎 そしたら、受付嬢 私が 生きている っていう意味が全部無くなってしまう。(ホッホ、と笑い声をはっしながら) 可笑しいかしら、こんな言い方。一太郎 (首を横に振って)いいえ、決してそんな。受付嬢 私、以前に座禅を体験した時に、そう感じたのです。一太郎 座禅ですか?受付嬢 本式のではないのです。会社の研修の一環として、ほんの略式で、三日程でした、鎌倉の禅寺で。 一太郎は感心して頷いている。受付嬢 お給料、もう少し上がらないかな。そんなちっぽけな、けれども切実な悩みを悩んでいる。それが私という人間の本質なので、それ以外には私という存在は何処にも無いのだ。これが私流の悟りです……、お恥ずかしい限りですが。一太郎 いえ、そんな。 一太郎は感銘を受けて、言葉が出ないのであった。一太郎のモノローグ「自分の若い頃と比べて、今の若い人は何と堅実で、しっかりとした考え方を持って生きていることか――」 ✖ ✖ 山の山頂 付近 得意先の一つである E 社の新人と、祝日にハイキングに来ている一太郎。一太郎 素晴らしい眺めですね。新人 県内や東京からも日帰り出来るハイキングコースの NO. 1です。 普段とは打って変わった、清々しい表情を浮かべているのだ。一太郎 お蔭さまで、命の洗濯ができます。有難う、本当に有難う。新人 いえ、そんな。お礼を言わなければならないのは、私の方です。貴重な休みの日を犠牲にして、私の詰まらない愚痴を聞いて下さるなんて、日本さんでなくては出来ない事です。一太郎 この辺で、お昼にしませんか。一寸早いのですが。新人 そうですね、今朝は早起きしましたから、お腹がペコペコです。一太郎 家内が作った粗末な弁当なのですが、独身で、一人暮らしの方なら、コンビニなどの出来合いより喜ばれるかもしれないって。新人 実を言うと、昨日からこれが一番の楽しみだったのです。何しろ家庭料理の味に飢えていますから。 一太郎がリュックサックから取り出して広げた手料理に、早速手をつけた。新人 美味しいです。愛情が一杯に詰まっているって感じです。 実際、心の底から堪能しているのが解る。一太郎も、ノリを巻いたお握りなどを美味しそうにパクついている。 林道 楽しげに語らいながら、一太郎と新人の若者の二人が行く。一太郎のモノローグ「入社して三年目になり、会社を辞めようかどうか迷っている青年は、傍目には何の屈託もない様に見える、ごく明るい性格の持ち主なのだった」 下りの坂道 ハイキングコースの終わり近くの坂を降りて来る一太郎と新人。一太郎 時間が、あっという間に過ぎて行くようです。新人 本当にそうですね。一太郎 今日は本当に貴重な体験をさせて頂きました。有難う! 立ち止まって挨拶した、新人 とんでもありません、私の方こそ。何と言ってお礼の気持ちを表現したら良いのか…。兎に角不思議なのですが、世界が昨日までとは丸で違って見えるような、そんな心持ちなのです。一太郎のモノローグ「山歩きを一緒にしたこの日は、我々二人に目には見えないけれど、何か新鮮で確かな 何か を齎していたのでした」 大宮の 絵画教室 廃校になった元の小学校の教室を利用した室内で、アートセラピーを応用した絵画教室の実習が行われている。講師と生徒が四人である。 外資系の F 社の重役秘書に誘われて、一太郎も初めての出席で、幾分か緊張気味である。一太郎 クレヨンを手にするのは何十年ぶりでしょうか。 一太郎を気遣って席を立って来た秘書に小声で話し掛けた。秘書 何だか、小学生に戻ったような気分になりますでしょ、場所が場所だけに。一太郎 そうですね。 改めて室内を見回す。机も椅子も黒板も、古い小学校の物がそのまま利用されている。講師 それでは、本日のメインの作品作りにはいりましょうか。 講師の指示に従って、机の上に前以て準備されていた画材類を使って、作品の制作を開始する生徒達四人。それぞれが真剣そのもので、目の前の画用紙に意識を集中させている。 教室の中に、静寂とくつろぎの楽しい時間が流れて行く。一太郎のモノローグ「出来上がるのは、我ながら稚拙で子供じみた絵……、色も線も、形も、思ったものとは全然違ってしまう。しかし、何もかも、浮世のことは一切忘却して、絵画の世界に没頭する不思議な忘我の境地は、全く想像以上に素晴らしかった。何物にも代え難いと思った」 大宮の 街 (夕方) 教室帰りの重役秘書と一太郎が並んで歩く。 その表情は心なしか、普段の日には見られない清々しさと爽やかさに輝いているかのよう。絶えて見られなかった表情が確かにそこにある。秘書 何だか、此の儘では別れがたいような気分ですわ。一太郎 私もです。 「軽く行きますか…」と二人一緒に顔を見合わせた。秘書 奥様に叱られませんか? (と、いたずらっぽい表情)一太郎 大丈夫です。今日のお礼に、私がご馳走します。秘書 やったぁ! (子供のように喜んでいる) 渓流釣り の穴場 (数週間後) G 物産の守衛さんの一人と一緒に、生まれて初めての沢釣りに興じる一太郎がいる。守衛・中村 どうです、当たりは来ませんか?一太郎 ビギナーズラックと言うのは、釣りの場合には無いようです。 そう答えたが、何やら楽しげな表情である。中村 そうですね…、試しに竿を換えてみましょうか。 愛用の竿の中から選んだ別のを、一太郎に手渡し、餌を付けるなど甲斐甲斐しく一太郎の世話を焼く。根っからの釣り好きであるらしい。 ―― 時間経過 ―― 一向に手応えのない一太郎に較べて、中村の方は次から次へと山女を釣り上げて、上々の釣果(ちょうか)なのである。一太郎 さすがは名人と言われるだけのことはありますね。 感心するだけの一太郎であるが、満足げな表情である。中村 いや、今日は特別ですよ。きっと日本さんがツキを呼んで下さったのでしょう。一太郎 これは参りましたな。殺し文句の セールストーク まで。私のお株まで取られてしまっては、丸っきり形無しですよ。 そう言って頭を掻いて見せたが、気分は爽快の、晴れ晴れした表情である。一太郎のモノローグ「子供の頃から釣りが好きで、趣味の釣りに生き甲斐を見出している“釣り名人”こと、守衛の中村さんは、今子供のように無邪気で、穢れのない表情で渓流に向かっている。中村さんは言うのだ、僕のは魚を釣るのが目的ではない。自然と対話する為に山に来るのだ、と。その精神だけでも、私は見習いたいと、この日強く心に刻んだ。兎に角、愉快で、疲れが心地よい記念すべき日となった」
2021年10月06日
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スナック (夜) 講師の春子を囲んで、今日の講習会の反省会。と、言っても無礼講で、フリートークの宴会なのである。春子の隣には、まだ緊張した面持ちの一太郎が居る。春子 営業の真髄は、物やサービスを売るのではない、自分という人間を売るのだ。これが、私自身が師と仰ぐお方から教えられた事です。その為には結局、自分を磨くしか方法がない。それも、各自が銘々の流儀で、ですね。やるっきゃないのですよ!一太郎 自分を磨くのですか…、自分の流儀で…。春子 ええ、日本さんの場合には、特に御自分に自信を持つことが、何よりも必要なのではないでしょうかねえ、結局の所は。一太郎 自分には自信が持てる要素が、何も無いのです。今までに何をやっても、失敗と挫折の連続でしたから、私は。春子 私も同じですわ。今でも失敗やミスばかりで、いつも冷や汗を流していますの。いえ、決して謙遜しているわけではありません。一太郎 営業の神様と呼ばれているお人が、ですか? 一太郎には、全く解せないのであった、実際のところ。春子 人様は、お世辞半分で褒めてくださいますが、でも、自分では満足できた事など、これまでにただの一度もなかったのです。どう説明したらよいのか、説明に窮してしまうのですが、要するに、良い意味での開き直りが大事なのではないかと…、つまり、自分には目下の所ではこれしか出来ないのだから、仕方がない。と言うか、心の中で両手を合わせながらも、最大限の誠意を尽くしてみる。すると、不思議なもので、自然と道が開けたりするのです、はい。いや、決して私の手柄などではないのですがね。 少し酔が回り始めているが、一心に耳を傾けている一太郎、一太郎 自然に道が開けてくる…、謂わば、人事を尽くし切ったからですね。 春子は少し照れたように、春子 人事を尽くし、全身全霊を捧げ尽くそうと努力し、日々精進し続けている、修行の身ですの、私は。一太郎 素晴らしいです。一つ一つのお言葉が身に染みて、感銘を受けます。春子 それこそが 殺し文句 ですわ、日本さん必殺の。その調子ですワ、日本さん。 顔を見合わせて、心の底から愉快そうに笑う二人である。 ―― 時間経過 ―ー 春子が目顔で、一太郎にカウンターの向こう側にいるバーテンダーの存在に注意を促した。彼は終始殆ど無言で、接客している。カクテルを作り、レモンの薄切りを入れただけの冷水を差し出したりして、客にサービスしているだけのようだが、そのさりげない仕草が、見る者が見れば一種の名人芸になっていることが知れる。 ―― 時間経過 ―― マイクを手にしてカラオケを歌う者あり、スナック店の全体がひとつに融和して、盛り上がりをみせている。と、止まり木の傍らで一人黙々と飲んでいた一人の客が、一太郎に語り掛けてきた。客 あなたはカラオケ歌わないのですか?一太郎 僕は音痴ですから…。 見ると、相手は派手に女装した男である。おかまの客 カラオケって、音痴とか、歌が上手だとかは、関係ないみたい。一太郎 そうですか。おかま 私なんかは、声が良すぎるし、プロ並みの歌唱力だって、逆にギャラリーから嫌われるみたい。一太郎 是非、一曲お願いします。 相手は上機嫌で、哀しい女心を吐露する曲(例えば、『雨に咲く花』とか『恋人よ』など)を歌い始めているが、ド下手である。しかし、始め妙に白けた様な雰囲気が広がった後で、俄然客達の心が一つになり、やがては和やかな空気感が漂い始めた。時々、拍手なども起こっている。じっとその様子を見守っていた一太郎の心の中で、何かが突然に弾けた ――。 前の 辻待ちの易者の 所 (同じ夜) 一太郎が来ている。易者 他人の事や未来の出来事が、そんなに分かるのなら、自分の事を占って、幸せになったらどうだ。そんな事を人は無責任に放言するのだが、そうは問屋が卸さないないのじゃよ。一太郎 何故ですか? 自分の事は自分が一番理解している筈ではありませんか。易者 一面の真理というやつじゃな、それは。一太郎 一面、ですか?易者 左様、貴男、御自分の顔を見ることが出来ますかな。一太郎 鏡を見れば、簡単に見られると思いますが。易者 それが落とし穴なのじゃよ、君。一太郎 落とし穴…、どんな意味ですか?易者 小学生でも解る原理じゃよ。即ち、鏡に写るのは左右が逆の虚像であろうが。しかもじゃ、その鏡にも色々とあって、自惚れ鏡には美人やハンサムが、安物には冴えない表情や、醜い面相が浮かんでいたりする。そうじゃろうが、あっ。一太郎 確かに、その通りかも知れません。易者 当たるも八卦なら、当たらぬも八卦と言う。そもそも易学は古代中国から伝わる知識の集大成と言える。それは要するに、シルクロードなどの交通路を通って太古のオリエント文明の精華たる学問も取り込んだ、謂わば全人類の叡智の結晶と称して間違いない。しかしながらじゃ、解釈学でもある以上は、どうしても人間の感情や気分などの夾雑物、つまり不純なる夾雑物が介在することになってしまう。そこが厄介な、複雑怪奇な迷路を孕んでもいて、人をしばしば惑わす要因となっておるのじゃよ、ぶっちゃけた話がじゃ。一太郎 成程、そうですか…。易者 俗に、岡目八目と言うじゃろうが。当事者よりも傍観者、要するに第三者の方が冷静で客観的で正しい判断が出来る道理を、簡明に表現したものですなあ。それに加えてもう一つ――一太郎 もう一つ、ですか…?易者 左様。人間には元来、プレイヤー型とアドバイザー型とが存在する。さしずめ貴君などはプレイヤー型の代表のようなお人ですな。只、貴方の場合は…。一太郎 (相手の言葉を遮って) 私の場合―易者 迷いに、迷って居りますな、先日も、今日も。一太郎 はい、仰る通りです、仰る。今現在も迷っています、どうしたら良いのやら、さっぱり分からない。どうしたら宜しいでしょうか?易者 迷いの雲や霧は、追い払うに如(し)くはありません。猪突猛進、行動するべし。御自分の人生です、一度きりの人生、御自分の意思で決断し、それを果敢に実行に移す。断固として行動する、結果を徒に恐れていてはいけない。如何かな?一太郎 はい、よく解かりました。 深く、深く頷いている。 近くの 一杯飲み屋 ( 夜 同じ頃 ) 鬼田幸三と倒産した中主企業の経営者が隣り合わせで飲んでいる。鬼田 あなた、大分ピッチが速いですな。元経営者 ヤケ糞ですよ、いくら飲んでも酔わないのですよ。鬼田 さっきから呂律がよく回りませんから、随分酔っていると思いますよ。元経営者 世の中は本当に不合理ですよ。私の様に従業員の誰からも尊敬され、愛されもしていた良心的な経営者が突然に倒産の憂き目に遭い、どこかの阿漕ぎな社長の会社は T O B とかで大企業にのし上がっていくのですから……。 この人は泣き上戸らしく、途中から泣き声になっている。鬼田 全く、理窟に合いませんな。俺みたいにハンサムで頭脳明晰な男が、女性運が悪くて未だに独身。その上によく働くのに、今だに梲(うだつ)が上がらない。その一方では、ドジでノロマで醜男(ぶおとこ)が身分不相応に、超が付く飛び切りの美人と結婚している。本当に納得できませんなあ、この現実……。 と、こちらも涙声になっいる。元経営者 こう見えても私の家系は名門中の名門でして、天才や秀才が数え切れない程に輩出しているのです。鬼田 僕の実家は、地方の農家なんです。所謂、水呑み百姓。大都会に憧れて、両親には無断で家を出て、苦労の連続でした。自業自得とは言いながら、ですね。元経営者 若い頃は人望がありまして、勿論人並み外れた才覚も有していたので、二十代半ばで小さいとは言え一国一城の主となり…… お互いに相槌は打つものの、自分の言い分だけを口にしているだけ。鬼田 コネもなければ学歴もない。これといった技術を持っているわけでもない。ないない尽くしの裸一貫。自分で振り返ってみると、自然に涙が出るくらいの、奮闘努力の毎日でした、実際の話が。 元の 易者の 所 先程から、その周辺を行きつ戻りつしていた一人のサラリーマンが、意を決した様に一太郎の背後から声を掛けてきた、サラリーマン あのォ、誠に申し訳ないのですが、そろそろこの僕に順番を譲って貰えませんでしょうか。一太郎 あっ、これはどうも。どうぞ。 と、直ちに席を譲った。そして所定の見料を支払おうとする一太郎を手で制しながら、易者 いや、結構です。近い将来の出世と躍進を祝して、今回は拙者からの御祝儀としておきますから。 一太郎は恐縮して、何とはなく、その場を去り難い気持ちである。サラリーマン 転職すべきなのか、それとも今の職場でじっと我慢すべきなのか…。易者 大いに迷っている。サラリーマン そうなんです。易者 転職先の当てはあるのですか?サラリーマン 一応はあります。易者 現在の会社に、何か問題でもありますかな?サラリーマン 特に、これと言って問題と言う程の問題はありません。易者 ほうっ、しかし悩んでいる…?サラリーマン 実は、これなんです。 ( と、右の掌を、易者の前に差し出した ) 誰かに訊いたのか、それとも易学関係の雑誌の記事を読んだのか、その辺は不確かなのですが、天下を取るという珍しい手相が出ているものですから。易者 成程ね、確かに珍しい手相をお持ちですな。 そう言うと、それまで近くに佇んで、二人の遣り取りを聞くともなく聞いていた一太郎を、手振りで近くに寄るように合図した、一太郎が近くに寄って覗くと、サラリーマンの右手の手の平には中指から手首の中央にかけて、一筋のはっきりとした線が刻まれている、易者 易や手相と言うものには、時代や国によって当然ですが読み方や、解釈に相違が出て来ますな。成程、強運には間違いないのですが、人に依っても意味合いが著しく異なっている。サラリーマン そんな物なのですか。それで、僕の場合にはどうしたら宜しいのでしょうか、ご教示下さい、お願いします。易者 貴君が此処へ来る前に相談した、その方面の専門家、えーと、何とか言いましたな…。サラリーマン キャリアカウンセラー、ですか?易者 そうです、そのお方もきっとこう言われた筈です、即ち、最後は本人が御自分の意志で決めるべきだ、と。サラリーマン はい、確かに、そう言っていました。その通りです…。 と、頻りに感心している。 この二人の会話を凝っと聞いている一太郎である。
2021年10月01日
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