PR
キーワードサーチ
カレンダー
フリーページ
コメント新着
皆様お元気ですか・・・?
今日お話ししたいとおもっているのは、「ハワイのペペルアリ」についてです。
ペペルアリ
如月。Februaryはハワイ語で「ペペルアリ」。鮪の背びれのようにも見える「カイマナ ヒラ」の黒い影の向こうに、紅色の朝焼けが見えてくる時刻も遅くなる二月、ワイキキの冬の朝がゆっくりと明けていきます。
ハワイ王朝史の中に二月のエピソードを探してみると、東郷平八郎艦長率いる日本海軍巡洋艦「浪速」がホノルルに入港しています。1893年(明治26年)の出来事でした。
砂糖産業が繁栄をもたらしていたハワイ王国。カラーカウア王の、サンフランシスコでの客死の報を受け、第八代の女王となった妹のリリウオカラニは、在位二年後の1893年1月に王権を失う事になります。小国の経済を牛耳り、米本土への砂糖輸出を優位に進めようとする西欧人の荘園主と商人を中心に、米合衆国への併合の圧力が高まっていたのでした。 女王は、ハワイアンの人々の権利を取り戻そうと憲法改正を試みたものの、その努力も水の泡と化してしまいました。
一方、1881年のカラーカウア王の日本訪問、そして明治天皇への謁見をきっかけに、1885年(明治18年)に始まった官約移民制度により、三万人にも及ぶ日本人が、王国崩壊までに、既にハワイに移住していました。移民が開始された年には、ホノルルに日本の領事館も開設されています。
王権を支持するハワイアンの人々にとって、女王の退位と臨時政府樹立は到底受け入れ難い出来事でした。首都ホノルルは不穏な空気に包まれ一触即発の状況に陥り、在ホノルル米国公使は治安維持を理由に、米国海軍戦艦「ボストン」の兵士の上陸を要請。このような事態に対処し、自国民保護を目的として来航したのが日本の「浪速」でした。 小国を取り巻く、各国それぞれの思惑が見え隠れする事象だったと思われます。
ところが、併合派が勝利したものの、当時の米合衆国大統領、民主党のクリーブランドは併合を承認しませんでした。その結果、ハワイは共和国の名の下、国として存続することになります。
その間のリリウオカラニによる復権の努力もままならず、米国では共和党のマッキンレーが二十五代大統領に就任し、併合を受け入れることになります。1898年7月に、ハワイ併合法案に署名がなされ、ホノルルでは8月にハワイ国旗が下ろされ、星条旗が掲揚されました。
ハワイは、王国から共和国に、そして米合衆国の準州へと国の形態を変えていきました。その中で、日本からの移民もその形態を変えていきます。併合後は米国の法律が適用され、1900年(明治33年)から1907年(明治40年)までに「自由移民」として更に六万人が移住し、その後も増加していきます。
そして、入植地でのスト、大正時代にはカリフォルニアでの移民排斥運動の影響を受け、昭和になると、砂糖キビ畑で苦労を重ねた日系一世の下で生まれた二世の人々が、米国兵として第二次世界大戦下の欧州戦線で戦うと云う、歴史の変遷をたどります。戦後、1959年(昭和34年)に五十番目の州に昇格したハワイを支えてきたのは、政治家や弁護士、医者、教師として活躍した日系二世の人達だったと言っても過言ではないでしょう。
さて、2009年8月に再開されたビショップ博物館のハワイアンホールでは、ハワイ固有の伝統文化と歴史を紹介するばかりでなく、王国の末路と現代のハワイ文化復興の重要性にも触れています。フラやハワイ語の学習に代表されるように、日系人をはじめ多民族の文化を受け入れつつも、ハワイの文化を復興し継承している様子に、一度消えかかった固有の文化の「冬の時代」の終わりを感じます。
浅沼
正和
ビショップ博物館でボランティア ドーセント(案内人)を務め、博物館のメンバー組織の代表機関 "Bishop Museum Association Council" にも参加。ハワイとポリネシアの歴史文化の紹介に力を注いでいる。ハワイ在住通算20年、ハワイ日米協会やアロハフェスティバル等の非営利財団理事も務める。
ビショップ博物館ウェブサイト http://www.bishopmuseum.jp/
第115回 ハワイのいろいろ 「ハワイ島の… 2025.07.31
第114回 ハワイのいろいろ 「オアフ島に… 2025.02.28
第113回 ハワイのいろいろ 「HALEKULANI… 2024.06.30