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メルボルンに戻り、早速ギリシャ人の町オークレイのチェックに出向いた。日本滞在中、私自身のギリシャ色が希薄になりつつあったので補給が必要となった。オランダ系の連れ合いの両親と一緒に行った。去年の6月以降3カ月入院していた義父は、今までのようにジョークを飛ばすことは少なくなり、強い薬の副作用も出て来ているようだ。日本から帰り、今度はオーストラリアの番だ。一体全体誰が買うのかと思うほどのガラクタが多い。これが本当の「ガラクタ市」。花屋では、一つ10ドル、二つ買うなら25ドルと堂々と売っている。帰国ボケで私がおかしいのか、と一瞬思ったがここはオーストラリア、何でもありの国と理解。メルボルンの秋は短い。秋の夜長、連れ合いが私が日本に居る間に腕を磨いていたという社交ダンスのクラスに途中参加して汗をかいた。二つの祖国満喫の副作用で発育障害など、体のあっちこっちに異変が起きないよやっていかないとならない。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月30日
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「非常事態になったらこのマスクをして。」母に、特別のマスクを購入、着け方の講習。日本の最後の夜は、恒例のピザナイト。煮っ転がしとピザの夜。昨年他界した父の小さな仏壇に置ききれない程の御供え。これからも、父との二人の生活が続く。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月28日
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「富士山を見るのが一番だな。」母のその一言で、今回は諦めていた河口湖の温泉行きが決まり一泊で行って来た。帰国の際何度も行っている同じホテル。そして、同じ部屋だ。行って驚いた。桜が調度満開だったのだ。今年は、例年になく開花が遅かったとか。お陰で、東京の桜を満喫できなかった母は歓声をあげっ放しだった。ホテルに入ってまず赤ワインで祝杯。そして、恒例の「大股開き」。最近、開き方が更に安定してきている。翌朝、早朝ウォーキングで、これまた馴染みのオージーワーホリ君の無事を確認。ずっと富士山を見ながら歩いた。滞在中の二度目の毛染めも無事終え、明日の夜成田を出る。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月26日
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特注、タコ抹茶。飲むのが惜しかった。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月24日
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「タコ君、私のこと分からないでしょう!ったく!」東京都練馬区立練馬中学校昭和43年卒同期会が、練馬区の光が丘で昨日開催され。場所は、カデンツァ光が丘というホテルの隣のビルの22階。練馬区の施設。何せ、練馬区役所の幹部が同期の中にいるので心強い。小学校の時一緒だった女性の名前がどうしても出て来なくて怒られた。どうしても出て来なかった人が3,4人いた。年だろうか。ところが、問題は私のことを知らない人はいないということ。中学2年生で上背が180センチを超えてしまって、その威圧感で他を圧倒。(実は、もう1人でかいのがいたが)みな、タコ君、タコ君とすぐ分かってしまう。当時は、私のことはいつも「君づけ」で呼ばせていた。私は、呼び捨て、御山の大将。しかし、今は男性みなが私を当然だが呼び捨てで、「タコ!歌え!」とかいっていて、私も昔を反省しながら、「はい、はい」と応じられるようになっている。横を向いても後ろを見ても下を向いても、みな還暦の方々ばかりになっている、安心できる会。小学校の時、憧れていた色白の東山さんも初参加。全く、分からなかった。グループ交際で、好きでもない私の方を無理やり向かせてしまった記憶は遠く彼方へ。恩師、そして旧友に会え、心から楽しみ四次会で中華を食べて帰宅した。メールをチェックすると、オランダ系の連れ合いから入っていた。「今頃、友達と楽しく過ごしているでしょうね。でも、忘れないでね、メルボルンにもタコを待っていていつも消息を私に聞いてくる家族、友人がいることをね。」あ~、何と幸せな人生か。いつも、二つの国に待っていてくれている人がいる。長生きせんと。そして、待っていてくれている両国の人々にできるだけのことをしていかないと。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月23日
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朝目覚めると会社に出がけに家に戻ると就寝前にメルボルンにいると、一日に最低4回はしている。これがなくなると、別れが近いといううバロメーター。よく知らない人とすることもある。家族、友人ともしまくっている。ところが、日本に里帰り中、口は物を食べたり飲んだりするか、世を拗ねて苦情を言ったりすること以外は全く使用することはない。更に、マスクなんかしていて、見えさえもしない。因みに、日本で一番怖いものは、帽子を深く被ってサングラスしてマスクしてママチャリかなんかに乗っている正体不明の女性の(もしかしたら男性)方々。結構いる。もしかしたら、隣のオバサンかもしれない、なんて思えてもきて悪寒もする。あんな方を立て続けに100人とか見たらもうやっていけない。人生いずれ、口はキスをする為だけにあるような時が来れば、この世の中へ別れを告げる時が来ているということなのだろう。日本滞在、後一週間になった。もう秒読みだ。母とは一生キスをすることはないだろうが、しっかりとハグできるようにはなりたい。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月20日
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兄夫婦と今はやりの「お江戸日本橋舟めぐりクルーズ」に行って来た。殆ど今まで行くことのない地域。ひらがなの日本橋に書は、あの徳川15代将軍慶喜の字だという。10人乗りの小さな船で、懇切丁寧なガイドがついて1時間の旅。日本橋川から隅田川に出ると、間もなくスタートするスカイツリーが。完全に「お上りさん」気分満喫。終わって、築地場外市場に。日本橋三昧から寿司三昧でお開きとなる。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月18日
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韓流だ。日本女性の間に紛れこんで黄色い声で叫ぼう、とか訳ではない。因みに、日本女性の間に紛れこむことには何ら異存はないが、黄色い声がでない。因みついでに、声が黄色い、とは面白い表現だ。「彼は、まだ青いよ。」「腹黒い奴だ。」とか色で人を、またはその行動を表すことがある。元日本語教師としては、もう黙っていられない。日本語で青いリンゴというが、英語ではGreen apple. となる。信号は、日本では「青」英語ではやはりGreen. 日本民族は色盲か。太陽を描けと言われると、国によって色が違ってくる。月も然り。あ~、本題に入れなくなるのでこの辺で止めないと赤っ恥をかく。ということで韓流にもどって。交際費使いまくりのサラリーマン時代、赤坂の韓国バーではよく韓国語で話しかけられた。どちらかというと、その頃から韓流であったのかも知れない。1970年代後半のことだったが。5月には仕事でフィリピン出張が決まっている。訪問する英語学校のオーナーが、実は殆ど韓国人だというのだ。何だか不思議な気がするが、そんなこともあって韓国人の学生が年間に10万人も留学しているとか。ということで、ハングルをちょっとかじろうかと。とはいっても挨拶程度でお茶を濁すっといった感じだろうが。そんな訳で、フィリピン文化と韓国文化の間に紛れ込みに、日本の還暦オヤジがメルボルンから出向くことになる。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月16日
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亡くなった父は80歳近くまで車を運転して仕事をしていた。その後、廃車にしたので東村山の実家には自家用車がママチャリになっている。これは今は「社長専用車」として大活躍する。小学校2年生の時から26インチの自転車を、所謂「三角乗り」していた。帰国すると、東村山を颯爽に快走。ところが、帰りはとんでもなく重くなりハンドル操作に技術力が要求される。「危ないぞオヤジ!」とか言われないようにしっかり安全運転をしないと。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月15日
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「戦争なんかやるもんじゃないよ。人と人が殺し合うなんて、とんでもないことだよ。絶対にやるもんじゃないよ。」今日は、父の命日。調度1年前の今日、父は前立腺癌のため他界、88歳。その1カ月程まえ、父と私はミカンを食べながらいろいろ昔話をした。その時の父の言葉だ。父の遺言と思っている。戦争は、領土、物を求めて国民を駒として使い捨てるもの。国際金融資本と武器製造会社が儲かり、庶民は殺されるもの。これは、私見。父は「ラバウル小唄」が好きだった。というより、歌いながらいつも感傷的になっていた。戦争、またそれに類する国の酷政に対しては、とことん反対していく。それが、父への私からの応えだ。http://www.youtube.com/watch?v=B_YWPf7LGhM毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月13日
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人妻と手をつなぎながら盆踊りを見ていた。胸がドキドキした。もう、そのまま時が止まって欲しかった。小学校2年生の時だった。神奈川県津久井浜海岸での盆踊りを、投宿している伯母の家に遊びに来ていた遠縁の美代子さんと見ていた。年は、恐らく私より二回りくらい上だったのだろう。ほのかな思いを寄せてしまった。禁断の思いだった。「本当にタコったら、美代子さんの隣がいいってきかないんだよ。」翌年、叔母と母が秋田に里帰りするときに、一緒に我々子ども達も行くことになった。そして、どういう訳か美代子さんも一緒だったのだ。上野から鈍行で秋田ま16時間も掛かる信じられないような長時間。お陰で、車中ではいろいろな動きがある。途中で、私はどうしても美代子さんの隣がいいと言って母を困らせた。その頃から、異性に関することでは、妥協をを許さない律義な性格だったようだ。美代子さんとは、この後中学1年になるまで会う機会がなかった。右肩上がり急カーブの恋心が、会ったときにどん底に突き落とされたその時の経験は、後世に語り継ぎたいようなものだったが。この小学校2年生の時の経験がトラウマになってしまったのだろうか、今でも人妻と手をつないだりすると胸が張り裂けんばかりにドキドキする、、、、、ものなのだろうか、などと思ったりもしている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月12日
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子どもの時の農作業とかの話ではない。農作業といえば、母は秋田の農家を16歳の時に出て東京に移り住んだという。貧しい事もあったのだろうが、農作業があまり好きではなかったともいう。私もその血筋、前の帰国の時に買って密輸した「ごぼうのタネ」をまだ植えていない。「先に出たら、トラックのインコースぎりぎりを走るんだよ!」小学校1年生の時、教育実習に来ていた大柄で学生服姿の大貫先生が、緊張しきっている私にそう耳打ちした。練馬区立第二小学校の運動会の当日のことだった。この時、すでに私たちは新設分校の向山小学校に移転していたが、運動会は元の学校で行われた。運動会の前の晩は寝られない。興奮して寝られない。遠足の前の晩もそうだったが。文房具屋さんで買ったばかりの運動用地下足袋を枕元にそっと置いて寝る。私たちが小学校の時、運動会ではこの地下足袋を履いて一日を過ごした。以前、この話をしたときに、ある人が自分は裸足だったと言われていた。因みに、あまり関係はないと思うがローマオリンピックマラソンの優勝者エチオピアのアベベ・ビキラも裸足だった。私は、小学校の時、身長と徒競走では誰にも負けたことがなかった。ところが、僅かな差で追いかけてくる学友がいた。留野と言った。足の方では将来抜かれる事になる。親指で割れている地下足袋は実に走り易かった。機動性が高く、足にしっかりとフィットする。しかも安かった。難点は、ほころび易かったこと。踏まれたりすると痛かったことなど。枕元に置いて、一日一緒に寝た地下足袋は、運動会の唯一日のためにあり、その日が終わるともう履けなくなり無残にも捨てられた。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月10日
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「イカが生まれたときはね、出産の費用がなくてね秋田の実家に頼んでお金送ってもらったんだよ。」兄のイカが生まれたのは昭和25年、本当に貧乏のどん底だったようだ。でも、当時は皆同じような境遇だったのだろうが。オーストラリアから里帰り中の今、母とは毎日本当にいろいろ昔話などしている。面倒を診ていた父も世を去り、食後いつまでも、いつまでも母の話は続く。会話を終えるのは、いつも私の方だ。そうでもしないと、朝ごはんの後すぐ昼ごはんになってしまいそうだ。「一人で食べていると、美味しいとか不味いとか言ってくれる人がいなくて、そんな時は淋しいと思うね。」今回は、できるだけ母と過ごす時を大切にしたい。「男ってものは、隙があるとすぐ女にちょっかいだしたり浮気するもんなんだね。」ドキッ! 話が多岐に渡り、こんなことも言い出す母。「俺はそんなことはしないよ。」と言おうとして止めた。他意は全くないのだが、唯大正生まれの母の主義主張には逆らわないことにしようと思っている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月08日
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一浪して、やっと大学に合格することができた。本当に、やっとという感じだった。次の日が入学式だった4月13日、浪人生活最終日、浮いた気持ちを追いかけるように池袋をふらついていた。小さな買い物を済ませ、東口にあった小さな喫茶店に入り6時間も居座ることになった。それから、調度2カ月で二十歳になる日だった。因みに、私は6月13日金曜日生まれ。だからどうした、ということもないのだが13日の金曜日が大好きだ。自慢じゃないが、同じ喫茶店に6時間も居続けたことは3回しかない。1回目はこの時。2回目サラリーマン時代、終電を逃して深夜喫茶で夜明かしの時。3回目も実はサラリーマン時代だったが、会社後輩の女性2人と男性1人とだった。4人で六本木のディスコ、今は無くなっているがレキシントンクイーンで踊り新宿歌舞伎町に流れ、そこにあった喫茶店で夜を明かした。恋心が芽生え始めた山根さんと真向かいに座った。酔いと眠気で皆うとうとし始めた。目が覚めると、山根さんが口をやや開けて歯をむき出しにして、鼻の穴が見えるようにして寝ていた。もしかしたら、山根さんも私のとんでもない寝顔を同じような気持ちで見ていたのかもしれない。池袋での出来事を書こうと思ったら、喫茶店長時間滞在記になってしまった。今は、喫茶店がカフェになり喜悲劇の質が変わってきているのだろうか。40年前に池袋で入った喫茶店は跡かたもなく大きなビルに変わっている。そして、新宿歌舞伎町が薄っすらと明け始めた朝、お互いにほとんど無言で歩いた山根さんとはあれっきりとなった。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月06日
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半年ぶりに日本入り。西武池袋線の新秋津駅に着くと、そのまま1000円床屋へ。2週間ほど前に、オランダ系の連れ合いに刈ってもらったトラ刈りを修正。オーストラリアでは床屋に行くことがないので、この10分床屋はいつもの楽しみ。家に着くと、朝から料理して母が待っていた。変わらぬ母の姿に思わず小さなハグ。そのまま、昼食。から揚げ、魚の煮付けに混ぜご飯。ビールで乾杯。食後、趣味の毛染め。そうして、うとうとしていると、とんでもない天候に。なんと、台風並みの低気圧。強風大雨大荒れだ。嘗てなかったことのようなので、アラスカのHAARPが悪さしたのかなどといつものように陰謀も頭をよぎる。夜の便で来ていたら東村山に辿りつけなかったようだ。「お父さんが守ってくれたんだね。本当に良かったね。」父の一周忌で帰ってきているのだが、母がそう言って食べ物でいっぱいの仏壇に手を合わせた。「宅急便、明日の午前中になるって電話があったよ。」昨年の9月のニュージーランド旅行、荷物紛失のこともあったので、大切な常備薬やPC関連の物は手荷物にしていたが、それでも不便ではあった。大好きな、ユニクロのシルキーパンツも1日おあずけ。体内時計は2時間早いので、遅く寝たのだが今朝4時に目が覚めて寝られない。5時半前に、今回最初の早朝ウォーキング。もしかしたら、この不況で恒例の早朝所沢テレクラ・リンリンハウスご挨拶はもうできないのではないかと心配だったが、いつものように立って笑顔で挨拶してくれた。それでも、高級呉服屋はヘヤードレッサーの店に、高級カラオケ店はつぶれていた。半年の間にいろいろ悲喜劇が起きている。ということで、東村山での生活が始まった。連れ合いには、そんなに長く行くのかと言われ、母にはそんなに早く帰るのかと言われ、早くも股裂き人生に勢いがついている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月04日
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「ピーターさん、レストランが休みの月曜日にレストランを使わせてもらえませんか。日本語クラスを開きたいんです。」メルボルンの青山と私が勝手に言っていたサウスヤラにあった「南レストラン」でバイトをしていて、そこで日本語を教え始めたいと思っていた。オーナーのピーターさんにこう言うと、ピーターさんは快くOKを出してくれた。正直、やっと移住の目標「日本語教師」をスタートできる、そう思うと胸が熱くなった。1986年の6月のことだった。昼は主婦のクラス、夜は仕事をしている人のクラスがスタートした。毎週月曜が待ち遠しくてしかたなかった。オーストラリアで日本語教師に成る、と言ってサラリーマンも辞め、両親も説得して来ていたが、なかなか機会が持ててなかったのだ。「きのう、なにをしましたか?」「うみに 行きました。」「買います、買いません、買いました、買いませんでした、、、、、」初級のクラスは生徒の成長が早くて教師としても遣り甲斐がある。ここで、面白くないとなれば彼らは絶対に続けない。初級の教師程大切なものはないと今も思っている。それには、何よりクラスが楽しくないとならない。日本の学校の英語のクラスが楽しいと思ったことはなかった。いつもびくびくしていたような気がする。「南レストラン」で教えることができたことが、その後の私の日本語教師としての道をしっかりと開いてくれることになった。ピーターさんは今、香港に住んでいてときどきメールをすることができている。恩人だ。代々木にあったパナリンガ学院で日本語教師になる勉強をしていたとき、その長島学院長がいつも言われていた。。「タコさん、大丈夫です。必ず道は開けます!」毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2012年04月01日
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