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「豊国廟参道」東大路通の東山七条交差点から東に入ると、道路の左側に「豊国廟参道」と書かれた石標が目に入ります。正面に見えている阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山頂に、豊臣秀吉の墓所があるというので、行ってみることにしました。山に向かって歩くと、新日吉(いまひえ)神宮(奥に見える鳥居のところ)、京都女子高校を過ぎた先に、石段と鳥居が見えてきます。石段を上がって鳥居をくぐると、「豊国廟」の境内です。「豊国廟」の境内さらに先に行くには、左側の授与所で100円の「登拝料」を収めます。もし人がいなければ入口の「志納金箱」に入れるようにと書かれていました。墓所の入口ここから先、石段が続きます。見上げるだけで覚悟が必要です(笑)。階段の途中から見下ろすと......途中に建つ門途中でいったん平坦な土地があります。ここから先は「踊り場」すらありません。頂上の五輪塔(墓所)入口からここまで、段数にして489段と言われています。でも数えてみたら485段。どこで間違ったのやら。途中の門の4段を数え忘れたのかも。手元の地図によると、東山三十六峰のひとつ、阿弥陀ヶ峰は標高196メートルです。かつて戦国時代には、ここに「阿弥陀ヶ峰城」があったそうです。最後は無事に下りてきましたが、膝が笑っていました。授与所の方からお聞きしたのですが、今年の選抜高校野球で優勝した龍谷大平安の選手たちはここで階段ダッシュを5本もしていたとか。聞くだけですごいと思います。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は伏見城にて亡くなり、阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られ、墓の上に廟が建てられたそうです。翌年、後陽成(ごようぜい)天皇から「正一位」の階位と「豊国」の神号が与えられます。しかし、元和元年(1615年)に豊臣家が滅亡すると神号は廃され、徳川幕府によって豊臣家ゆかりの物は消されていきます。この廟も破壊されてしまったということです。時は移り、明治30年(1897年)になって廟が再建されます。その際、峰の中腹から甕(かめ)に入った人骨が発見されたそうです。これがおそらく秀吉の遺骨だろうと言われています。遺骨を峰の頂上に埋葬し、その上に建てられたのが五輪塔です。高さ3丈1尺といいますから、約10メートルもある大きな塔です。<豊国廟入口>(★のところ)京都市東山区今熊野北日吉町京阪本線・七条駅より東へ徒歩18分
2014年05月11日
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新日吉(いまひえ)神宮京都市東山区今熊野北日吉町京阪本線・七条駅より東へ徒歩13分新を「いま」と読ませる例は、「今熊野(いまくまの)神社」がありましたね。詳しくはこちら → クリックじゃあ元の「日吉」はというと、比叡山麓の大津市坂本にある「日吉大社(ひよしたいしゃ)」です。山王(さんのう)信仰発祥の神社として知られています。古くは「日枝」「比叡」と書いて「ひえ」と読んでいましたが、いつしか「日吉」と表記されるようになり、読みも「ひえ」と「ひよし」の両方が使われていたようです。日本各地にある日吉(ひえ、ひよし)神社、日枝神社、山王神社などはここから勧進されて広まっていったそうです。新日吉神宮に伝わるところによれば、永暦(えいりゃく)元年(1160年)、後白河上皇の命によって、院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、現在より南の地に創建されたそうです。(法住寺についてはこちら → クリック)その後、何度か場所を移し、現在の社地となったのは明治維新後のことです。現在は後白河天皇と山王七神が祀られています。新日吉神宮 桜門新日吉神宮 拝殿ところで、豊臣秀吉の幼名は「日吉丸」として知られております。秀吉の母が尾張・清洲の日吉神社に詣でた時に、日輪が懐中に入る夢を見て授けられた子であるとか(日吉丸の名前も含め、後世の創作とも言われています)。日吉大社の神の使いは猿です。新日吉神宮にも狛犬ならぬ「狛猿」がいます。秀吉が「猿」と呼ばれていたことは有名ですが、どこまでが史実でどこまでが後世の逸話なのか、よく分からなくなってきます。「豊国大明神」の神号が与えられ、豊国神社に祀られていた豊臣秀吉ですが、徳川幕府によって豊国神社は破壊されます。そのとき、豊臣家の霊はひそかに新日吉神社に移され、守り続けられたそうです。
2014年05月09日
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「BBS運動発祥の地」の碑京都女子高校前京都市東山区今熊野北日吉町京阪本線・七条駅より東へ徒歩12分京都女子高校の門の前に、「BBS運動発祥の地」と書かれた碑が置かれています。BBSとは「Big Brothers and Sisters Movement」の意味です。碑には「非行少年の良い「ともだち」となり、兄・姉のような立場に立って、その立ち直りを助ける活動を行う青年によるボランティア運動」だと説明されています。戦後すぐの混乱期、戦争孤児が町にあふれかえっていたと言います。その実情を前に、自分たちの手でなんとかできないかと考えた若者たちがいました。立命館専門学校(現:立命館大学)の一人の学生の手紙が契機になって、「昭和22年(1947年)2月22日、ここ京都女子専門学校(現:京都女子学園)の講堂において、京都少年保護学生連盟の発会式が開催」されたそうです。この碑は、平成9年(1997年)、BBS運動発足50周年を記念して設置されたものです。京都女子高等学校
2014年05月08日
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養源院京都市東山区三十三間堂廻り町京阪本線・七条駅より東へ徒歩7分「養源院(ようげんいん)」の名は、戦国時代の武将、浅井長政の院号(長政の戒名は養源院天英宗清)に由来しています。織田勢に攻められて小谷城で自刃した浅井長政らを供養するため、文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の側室・淀殿が秀吉に願って創建されたものです。淀殿といえば、長政とお市の方との間に生まれた浅井三姉妹の長女、茶々ですね。元和5年(1619年)には、火災によって焼失してしまいますが、元和7年(1621年)、2代将軍・徳川秀忠の正室、崇源院の願いによって再興されます。崇源院とはお江(ごう)の方、つまり淀殿の妹、浅井三姉妹の三女です。その後、養源院は徳川家の菩提所になっており、歴代将軍の位牌が祀られているそうです。本堂再建の際、伏見城の遺構を移したそうです。伏見城落城のときに自刃した武将たちの血が付いた廊下が本堂の天井に使われており、「血天井」として知られています。
2014年05月05日
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塩小路橋交差点京都市東山区一橋宮ノ内町京阪本線・七条駅より南へ徒歩3分塩小路通は、京都市街を東西に走る通りです。ここから西(上の写真の左側)に800mほど行くとJR京都駅の北口に至ります。川端通(上の写真、正面の道路)はここまでで、南は師団街道につながっています。塩小路橋から京都タワーを臨む鴨川を渡る塩小路橋の向こうには、京都タワーが見えています。新幹線で東京方面から京都に着く直前に見えるのが京都タワーですね。私は京都タワーが見えたら席を立つようにしています。琵琶湖疎水の暗渠部出口(撮影日:2014年2月23日)京阪本線の地下化と時期を同じくして、琵琶湖疎水の三条~塩小路間が暗渠化されました。上の写真は、塩小路通南側にある水路の出口です。冬の時期には水を止めて水路の保守や清掃をするらしいです。ほぼ同じ場所で撮影した現在の様子が下の写真です。水が勢いよく流れていますね。戦前にはこの付近に発電所を建設する計画もあったそうです。琵琶湖疎水の暗渠部出口(撮影日:2014年5月2日)暗渠部から流れ出る疎水(南方向)南を見ると、正面に東海道本線と新幹線の高架が見えます。新幹線の車両が通過中です。
2014年05月04日
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京都国立博物館の南東角の敷地に、ツツジがきれいに咲いていました。フェンスの中だったのですけど、フェンス越しに撮らせてもらいました。この日は初夏といってもいい暑い一日でした。
2014年05月03日
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京都国立博物館 正門京都市東山区茶屋町京阪本線七条駅より東へ徒歩5分京都国立博物館は、明治28年(1895年)に陳列館が竣工し、明治30年(1897年)から展示が始まりました。当初は帝国京都博物館と呼ばれました。上の写真は大和大路通に面した正門ですが、現在は閉鎖されています。「平常展示館」の建て替えのためだそうです。2014年(平成26年)9月13日開館を目指して準備中とのことです。今年の秋が楽しみですね。奥に見えているのが「特別展示室」です。明治30年の当初から使われているレンガ造りの建物です。建築面積3,015平米、展示面積2,070平米あります。昭和44年(1969年)、正門とともに重要文化財に指定されました。ちなみに、正面、噴水の向こうに見えているのが、ロダン作のブロンズ像「考える人」です。鋳造された像は世界で26体あるそうです。日本にも5体あるそうですけど、この京都国立博物館の像が有名ですね。レンガ造りの建物とすごく調和しています。京都国立博物館・特別展示室特別展示室を、南に面している七条通から撮ったのですが、駐車場の奥にあって全景がきれいに入りませんでした。難しいものです。京都国立博物館のレンガ塀南門近くのレンガ塀です。特別展示室や正門とともに重要文化財に指定されました。
2014年05月02日
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