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忙しくて忙しくて、日記を大分サボってしまった。そこで、特技の溜め書き。こちら(三原)からの引越し業者がなかなか見付からなかった。インターネットで「引越し一発便」や「A to Z引越し達人」等に見積もり依頼のメールを入れたが、どこも実際の輸送に忙しい時期で見積もりに来る暇が無いらしい。また、都会と違って、業者がそれほど多くないのもネックなのだろう。2社だけは大体の見積り額をメールで入れてくれたが、やはり実際に見て貰わないと、上下に分かれるとは言え、縦・横共に2m以上も或る棚が一つあるので、本当に運べるかどうかが不安。そこで、電話帳でHPを持っている業者のサイトに行ってその社のサービス内容を把握した後4社を選択。それぞれの中国地方のセンターへメールをしたり、携帯電話をしたり。ここには電話回線が無いので、携帯かメールでしか連絡が取れない私は、フリーダイヤルしか電話帳に載せていない所へは見積もりの頼み様が無い。そうしてやっと昨日までに、4社の中で反応の良かった2社に実際の見積もりを頼めた。今回は、東京での失敗と成功の経験のお陰で上手に交渉出来て、実際の見積もりよりかなり安くして貰えた。どちらも大手できちっとしたシステムを持っていて、営業マンも感じ良かったけれど、片方には申し訳ないが、より安い額を出せた所を選んだ。一昨日から来ていた夫もこの見積もりに立会い、「大分交渉が上手くなったね。」ですって。それにしても、男ってどうして営業マン(男性)の言い分の方に味方するような言い方をして女の交渉の邪魔をするのでしょうね。前回と言い、今回と言い、我が夫殿は交渉中に私が「え、そんなにする?」と言えば、営業マンより先に「それ位はするだろう。」と言うし(そのお陰で最初のすごーく高い見積もりを出した所との契約を一発で決めた失敗に至ったのだ)、手伝いに来ていた甥っ子は、私が「ここから鹿児島まで引っ越した実家の母の時は、**で済んだ。」と言えば、「あの時はこんなに大きな棚は無かった。」と言うし、本当にモウ!荷物の本当の量を知っているのは私なのだ!後で夫にその事を言うと「いやー、つい自分が営業している立場に立っちゃってね。」ですって。大学3年生の甥っ子は、最初の営業マンが帰った後、「おれ、絶対に引越し屋の営業マンにはなりたくない。」とのたもうた。客と交渉しつつ上司と交渉する、という営業マンの姿に、自分には出来ないと感じたらしい。男性は、「もし、自分が仕事をしていたら・・・。」という感覚で営業マンと客の関係を見るものなのだろうか。まー、分からなくもないな。私も、夫とその母親の関係などに接するとき「もし、自分が息子とこういう関係になったなら・・・。」という母親の感覚で考えがちだから・・・。人は、どうしても自分が立つ機会が多い場所から物事を見がちなのだろう。この甥っ子は、今広島のとある大学のコンピューター専門の学部(*注)に在籍中で、この我が家にも半年ほど住んでいたことがある。体は大きいけれど気は優しくて力持ちの典型的タイプで、叔母の私や親の手伝いも良くしてくれる今時珍しい男の子なのだ。今回もバイトの無い日を選んで広島から三原まで来てくれ、私の苦手な力仕事をせっせと手伝ってくれた。電車賃とお小遣いをほんの少し渡すと「ありがとう!」と素直に喜んで受け取ってくれる。本当に好い甥っ子だこと。でも、一人住まいで、食事に気を配ってないところが有る様だし、お酒もかなりいける口になったらしいから、健康だけには気を付けてよね、Tくん!(*かっこ良いHPも作っていたので、彼のHPをこのHPのリンク集に入れておきました。ゲームやコンピューターに関心のある方は遊びに行ってやって下さい。)
2002年03月30日
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引越しシーズンなので、三原の家の引越しは東京の引越しが済んでからでないと無理だという事になった。そうなると、4月23日に姑を病院へ迎えに行く、という約束は果たせなくなる。そこで、入院期間をもう一週間程延ばして貰えないかどうかを聞く為に、姑の入っている病院の福祉係の人へ電話をした。すると、「丁度今、彼女が元々望んでいた老健施設の方の個室が空いたとの報せが入ったところなのでそちらへ移って貰いたいのだが、良いだろうか。」と逆に頼まれた。義母が朝食をパンにしたりポットを持ち込んだり出来ないか、と頼んだらしい。その事は私にも「出来ないらしいのよ・・・」と不満そうに言っていたが、病院なんだし、今回は緊急だから仕方ないんじゃないかと話し合って、本人も一応承知していた筈の事だったが、「本人が強く望んでいる様な個別対応は出来難いので・・・」と言われたところを見ると、又病院に行ってからも頼んだのだろう。「我儘を言って申し訳ありません。」と謝ったが、「一月もの間我慢させるのは本人のストレスにもなるだろうし、偶々老健施設の方が空いたので、本人に話してみます。」とのことだった。各方面にご迷惑をお掛けしているようだ。「本当に困ったおばあちゃんだなー。」と思いつつ、老健施設の方でも一週間入所期間を延ばしてくれるかどうか不安に思いながら、連絡を待つ。この件が済まないと、引越し屋さんに見積もりを頼めない。午後にはその施設の方から連絡が入り、幸い4月30日までは預かって貰えるとのこと。病院から老健への移動もあちらでやって下さるそうで、本当に皆さん親切である。おばあちゃんが「みんな、優しくしてくれるよ。」と言う所以である。やれやれ。それから、インターネットの引越しサイトに見積もりを出すものを物色。何を捨てて、何を持って行くか、広い家から狭い方の家に引っ越すのは本当に難しい。東京の住宅事情の悪さをつくづく実感。私のオフィスは都会でないと需要がないだろうし、夫は定年だから余り贅沢は出来ない。第一姑の様な老齢の障害者(独立型ではなく、オープン・キッチンが必要)と支援世帯との二世帯近居が出来るようなマンションは、公団の、それも千葉の地域のそれにしかないのである。何でだろう?他の県の公団の担当者や民間のマンションにも障害者とその支援者が住み易い様なデザイン(オープン・キッチンの1LDKと3~4LDKの両方が同じ棟にある)を考えて貰いたいものである。
2002年03月25日
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23日、三原(広島)へ来たが、新幹線は一杯の人。子供連れが多かった。そうか、忘れてたけど、春休みの最初の土曜日なんだ、と自分の子供達が学校へ通っていた頃を懐かしく思い出しつつ、予定の便を一つやり過ごして次の座れそうな便に乗った。夫の作ってくれたお弁当(美味しかったよ、オトウサン)を食べながら車窓の外に目をやると、その土地その土地の満開の桜が見えては過ぎて行った。やはり桜は好いなー。カナダに居た頃は、この桜が恋しくて、桜の時期に合わせて一時帰国をしたものだった。時には桜前線の予想(今年の様に)が狂い、折角帰国した頃にはもう散っていた、という事もあったっけ。昨年からは、毎年春になると十分に日本の桜を楽しめる。この点は本当に幸せ。三原へ着くと、思ったより寒い。一応寒冷前線が来るとのことで、予想はしていたが、それでも東京では想いの付かなかった寒さである。最終(8時過ぎ)のバスに乗り、家の近くのコンビニで食料を仕入れた。夜道を、ごろごろキャスターを引きづって歩きながら「寒い!」と呟くが、反面、田舎の澄んだ空気は心地良く疲れた頬に当っては通り過ぎていった。「ただいまー。」と小さな声で真っ暗な自分の家に向かって呟き、家の回りに張り巡らせた改修工事の為の足場を潜り抜けて玄関を入った。だーれもいない、私達の家。これからこの家を空ける為の作業に入る。善い人達が借りてくれるといいけどな。「広くて便利(床暖にセントラルヒーティング)でいい家なんだけどなー。この家が東京にあったらなー。」等と、どうにもならない事を一人ごちながら、暖房やウォッシュレットの電気を付けて廻った。それにしても、最近東京では暖房要らずだったのに、ここでは床暖もヒーターも必要だ。やはり、一軒家って壁の外が外気に触れているから、マンションより寒いんだな。24日は、先ずこの家の掃除。そして、どう片付けようかと家中を見て周り、出来るところから少し片付け、バック・トゥ・ザ・**日の日記を書いて、近くのスーパーに食料を仕入れに行って、食事の用意をしたりしたら、あっという間にもう夜。この日記も25日に書いている。じゃ、次は本当の日付の日記に行こうか。日記の纏め書き、というのが私の特技になりそう。
2002年03月24日
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これも、21日の事なのだが、スモール・オフィスを引き上げた。短い間だったけど、ここに行くと家の事をすっかり断ち切って、すっきりした気分で仕事に専念出来た。こんなに早く綴じる積りはなかった。だから、金銭的には、ずいぶん損になったと思うが、これが無かったら今ごろ本当に倒れていたかもしれない。夫は本当によく協力してくれた。会社から帰って疲れている筈なのに、夕ご飯を作って私の帰りを待っていてくれる日が多くなっていた。娘が「この頃お父さんが優しくなったね。やっぱりもうすぐ定年(3月末日)で落ち着いてきたのかな。」等と言う。そういえば、昔の彼は本当に短気で、私達夫婦もよく喧嘩したっけ。実は、「クソ、今に見てろ、定年になって子供が独立していたら、退職金半分貰って離婚してやるから。」なんて、内心思った事もあった。だが、最近は喧嘩らしい喧嘩も言い争いも、とんとご無沙汰である。離婚なんて、これっぽっちも考えられない。むしろ、彼が居ないと困るのである。ひょっとして、夫は昔の私の密かな企みを知っていたのかしらん?だから、変わった?フーム。自分の母親に対してだけは以前より厳しくなったけど、そうしなくては自分が持たないのだという。私が、(姑も)もう年なんだから、解らないんだから、もうちょっと笑ったり話したり教えてあげたりしても良いんじゃないか、というような事を言うと、「あんたは未だあれの性格を判ってないのか。」と反論される。うーん、そうなんだけど、私は明るい家が好きなのよねー。ま、今度から近居だけど別居だから、今までとは違うかな、と今後に期待。22日は姑が入院する日だったが、午前中は入浴。2時間も前から(兎に角気が急く人で、これも私とは大違いなのだ)入浴の準備をして待っていたが、入浴後は「暑い、暑い(ほんとにこの日は暑かった)。」と言いながらヘルパーさんと大声で楽しそうに話していた。ヘルパーさんが居てくれて本当に助かった。私達の生活は丸見えで、時には「うざい」と思う事もあったが、ヘルパーさんが居てくれたからこそ、姑との帰国後の1年半の同居生活が成り立ったのだと、感謝、感謝である。鎌ヶ谷でも善いヘルパーさんに出会えるといいな。出掛ける直前、入院後は病院が電話を取り次いでくれないので、他の用事で病院へ行くヘルパーさんを通して連絡してくれないか、と私に言うので、「それは規則で出来ない(入院中は介護保険を使えない)でしょう?」と言うと、ヘルパーさんもほっとした様子で「そうですねー。それはちょっと・・・。」と頷くが、姑は不満そうにぶつくさ。そこで、用事がある時は院内の公衆電話で私の携帯に電話をするように伝えると、やっと落ち着いた様子で、明るく元気に(こんな時は、とても嫌味を隠し持ってる人に見えないんだけどなー)出て行った。やれやれ。夕方、介護保険用のベッド屋さんが姑のベッドを取りに来てこの日はお終い。次の日私は三原へ行き、他人に我が家を貸す為の準備をスタート。家の修理に立ち会って、物の整理や引越しの用意。又見積もりも頼まなくっちゃ。それが済んだら東京に帰って、新居の掃除と町屋からの引越し。その後又町屋へ戻って、掃除を終えて引渡し。鎌ヶ谷での荷解き。姑の家具など、必要品の買い物。そして又三原へ戻って、三原からの引越し。その引越しが済んだ後姑を病院へ迎えに行って、やっと全ての引越し騒動が終わる。夫も3月末から手伝ってくれる。それらがぜーんぶ済んだら、やっと自分のオフィス探しだ。さあー、気分を変えて、スマイル・ケイらしく頑張るぞ!スモール・オフィスは閉じたけど、本当のオフィスの開設に向けて、GO!
2002年03月23日
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私も、今はもう自分の人生や夢を犠牲にしてまで彼女に付き合う気持ちは無い。また本当の彼女の幸せを考えたら、これ以上、夫や私との関係が悪くならない内に、どんなお年よりでも扱いなれている専門家や彼女の言う「優しくしてくれるヘルパーさん」の居るケア・ハウスを探して、そこで楽しく暮らす(私達も将来はそうし様と思っている)ことを考えた方が良いのではないかと思う様になった。お互いに冷静に話せる時に、今度は真面目に上記の事を彼女と話し合ってみた。始めは「本当は、苦労して育てたんだから、息子の近くに住んでいたい。」と言っていたが、「人間扱いしてくれない。」とまで感じる息子の傍に居て本当に幸せなのか、自分にとっての本当の幸せとは何なのかを考えてみて欲しい、と言うと、「ま、引っ越してからよく考えてみましょう、ね。」と他人事の様に応じた(夫はこれを「全部他人の所為にしたいんだよ。一切、自分で責任を取ろうとしない。」と言う)。だが、一応その場はそれで決着を付け、次の日一日は、夫の勧め通り必要以外には話をしないでおいた。そして21日、「今回は、切れた堪忍袋の緒を綴じるけど、同じ様な事が又有ったら、もう絶交(これが別居だと出来るんだよね)だから。」と仲直り(?)の宣言をすると、「待ってました。」とばかりに、もう何事も無かったかの様な元気な声で次々に私への頼み事をする。うーん、「暖簾に腕押し」ってこの事か。
2002年03月22日
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翌日は姑が一月の入院生活に入る日なので、その前に彼女とのトラブルを一応落着させておかねばなるまいと、この日私なりの解決を試みた。私は、姑の中に、或る発達障害と似た症状(自分の事にだけしか興味が無い為他人の話に興味を示さず、自分の事だけを話したがる。状況判断が苦手で、人間関係が難しい。)を見てきたので、その発達障害の人に対して接するのと同じ様に、アサーションしながらも、出来るだけその時の状況やこちらの気持ちを解って貰える様説明してきた。夫にもそうするように勧めてみたが、「俺はあんたみたいに忍耐強くはない。」と断られた。だから、夫が怒った時も、その後で私がその時の状況や彼の気持ちを説明しているのだが、夫はそんな私のやり方を評して「甘過ぎる。だからあんたが狙われる。」と言う。夫や娘には嫌味を言わない事を考えると、確かにそれも当っている様に見える。今回も「どうして私にだけそそんな事を言うの?」と聞くと、「心安いんだろうね。」とのこと。つまり、言い易い,という事か。また、ヘルパーさん達には、嫌がられていると判らずに親切(?)を押し付けたり命令したりもするけれど、一方では上手に持ち上げたり物を上げたりして、自分に良くして貰う為の手立てや人間関係も考えて行動出来るし、新人さんや優しい性格のヘルパーさんには、他の人に断られた事でもどんどん頼むしたたかさを持っている所をみると、本当の発達障害ではないだろう。夫は、大店の娘として甘やかされた(スポイルされた)結果、他人の事に想いが至らない性格になったのだという。すると、こちらも彼女の言葉の凶器に対する自衛手段を講じなければなるまい。19日の私との話し合いの中で、姑は「私はこの家では人間扱いされていない。」と言った。確かに以前、夫が母親の余りの態度に対して激高の余り「人間のするこっちゃない。」とまで言った。私も驚いて「オトウサン、そんな事を言ったらいかん。」と止めた(大体、夫が母親に向かって怒る時、私はとりなす側に回る)。「その時のY(息子)の言葉が強く頭に残っていたから。あーいう言い方をした。あんたの事を言ったんじゃない。」と、彼女は弁解した。だが、自分がどういう態度を取ったのかは覚えていない。「もう頭が回らんくなってるんだろうね。」と言う。自分に都合の悪い事は覚えていないというのは、老人特有の自衛反応なのだろう。彼女は82歳。自分に関する事や私に頼んだ事は私以上によーく覚えていて、私を慌てさせる事が度々なのだが・・・。(国会でも似た様なやりとりがよくあるなー。)こりゃもう、幾ら話しても無駄だ、ここらでアサーションも止めにしよう。それでも夫を育ててくれた母親なのだし、その事に関しては感謝を忘れてはいけない、又自分達がそうであった様に娘も親の態度を見ているのだから、そこは気を付けなければならない、と私は思っている。夫も、足が悪くなった母親を引き取った当初はそう思っていたらしく、一生懸命母親の世話をして彼女を喜ばせていたのだが、一緒に暮らして彼女の自分本位の態度に接する度に、「あー、昔もそうだった。」と、私達の結婚を大反対された時の事等も含めて昔の反発心を思い出したのだそうだ。それを聴いた時、私は自ら彼女を引き取ると申し出た事を後悔した。二人の為には返って良くなかったのではないかと(親切心って仇になる事が侭有るからな~、特に彼女に対してはそうなのだと最近判って、段々親切心を抑える様になってきたけど、そもそも最初から抑えるべきだったのかも)。→(1800字に収まらなかったので、続きは次の日の分をご覧ください。)
2002年03月21日
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未だこの日も頭痛が残り、前夜下がった血圧は又高めになったが、前日の昼よりはマシである。姑は美容院にお出かけだ。友人宅に泊まっていた娘が帰宅して久し振りに楽しく談笑。少しほっとした気分でのんびりした。午後、これも久し振りに義妹(次男の妻)から電話。姑が引っ越す旨の葉書を出したらしい。夫(義弟)に電話をする様促したが、しようとしないので代わりに自分がかけた、そうだ。彼女と私は仲が良い。彼女は姑の近くに住んでいた為、姑のきつい言葉も多く受け、義父の入院中には「あれして、これして。」の限りない姑の要求に自分の限界を超えて応えた結果身体を壊し、今でも身体の調子が良くないそうだ。更に「それでも満足はして貰えなかった。」と感じていた。彼女は私より優しくアサーションも出来ない性質だから、それは大変な思いをしたであろう。まして一緒に暮らしては、義妹の言葉通り「身が持たなかった」に違いない。その事は私も十分に承知していた。だから、姑が車椅子の生活になると分った時の親族会議で、3人の息子達が皆母親の落ち着く先については結論を出せずにいた時、我が夫はカナダに転勤と決まってはいても、義母の近くに住む次男と義妹に頼む事はせず、私が日本に残って広島へ引き取ると決めたのだ。その時、私だけが引き取る事を口にしたのだとは知らないまま、姑が豆の煮方にまで「こんなんやったら、家のRちゃん(義母とそれまで一緒に暮らしていた末弟)なんか食べへんわ!」等と文句を付けつつ私達と暮らす生活が1年半続いた。その間に、夫の居ない家での姑の我儘に付き合う生活に疲れ果てた私は、帰国子女の為か高校で苛められ、家でも嫁姑の間に入ってリラックス出来ないでいた娘を連れて、結局カナダの夫の許へと旅立った。姑は言葉の通じない国へ行くのは嫌だと言ったので、独身の末弟に、家政婦さんを雇って一緒に暮らせないか、と私から頼んでみたが「それは、無理や。こっちが参ってしまうわ。」と断られた。そして姑も、嫁のいない末息子に面倒は掛けたくないと、自ら病院に頼み込んで療養棟に入ったのだった。6年後帰国した時、今度は私から引き取るとは言わなかったが、姑は「(東京へ)付いて行くわ。」と夫に言った。だがその時、私達は自分を犠牲にしてまで彼女に尽くす子供夫婦ではなくなっていた。「夫々の人生を大切にしながら、出来る人が出来る時に、出来るだけの事をやる。」それが私達のライフ・スタイルになっていた。それは、以前の様に自分の為に皆が動いてくれる筈、と期待していた彼女にとって相当当て外れだっただろう。しかも、嫁は以前の様に黙って彼女の言う通りに動く嫁ではなく、カウンセリングの勉強で身に付けたアサーション(人権としての自己表現)を出来る人間になっていた。頼みの息子は、嫁以上に自分の我儘を許してくれない。それどころか、他人の言う事を聴かなかったり、周りの状況や家族を思いやらない言動が見えたりする時手厳しく叱ったり、時には激怒して口をきかなかったりする息子に、大人しく言う事を聞いてくれた昔の息子の面影は無い。そういう生活を予想していなかった姑が、面食らったり、がっかりしたり、不満を持ったりするのは、想像に難くない。私達にとってと同様、彼女にとっても価値観の異なる息子家族との生活は楽ではないだろう。だから、彼女が不平不満や私の悪口を他に言うのは仕方が無いと思っている。私だって友達に嫁姑問題を愚痴ったりするのだからおあいこである。だが、それはお互いの耳に入らぬ様にすべし、と言うのが私の考えである。「知らぬが仏」の方が、お互いに傷付かないで済むからである。だが姑は、そんな私の気持を知ってか知らずか、またどんな時に私の血圧が高くなるかは承知の上で、私がエンストを起こしたら真っ先に自分が困る筈なのに、隙を見ては(夫や娘が居ず、何気ない話の時)、傷付く言葉を直接私に投げつける。義妹は、私にそんな姑を任せっきりにしている事を気にしているらしい。だから時々長距離電話を掛けてくる。でも、彼女は私が出来ない時(シカゴ在住の時や息子の受験で義父の看病に駈け付けられない時)に十分やってくれた。今は、私を理解してくれているだけで十分である。そして、何かにつけ「お義姉さん、お義姉さん。」と私を慕ってくれ、「お義姉さんには、きっとそのうち良い報いがあるって信じてる。」と言ってくれる義妹を愛しいと思う。
2002年03月20日
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これまでも私が姑の嫌味に困っている事は時々書いているので、ケイの家には嫁姑問題があるのだな、とお気付きの方があるだろう。今日からは正面切ってその問題を書いてみる事にした。カウンセラーも人間であり、困る事も、悩む事も、そして凹む事もある、という話である。その上で、カウンセラー自身の身に難問が降りかかった時、個人としてその問題を一度凹んだ後にどう処理しようとするのかを、夫の了解を得た上でディクローズしてみる。「まあ、自分の家の内部をこんなにあからさまに書いて…」とお思いの向きもあるだろう。だが、嫁姑問題は永遠の、そして普遍のテーマだと思うので、少しでも参考にして頂ける方があれば、幸いである。19日には朝8時半から最初の見積もり予約があったので、姑にも朝ご飯を先に食べて貰いながら、自分の分を用意しているときであった。彼女と楽しく談笑していた積りの私に、いきなり彼女から投げかけられた言葉に衝撃を受けた。思ってもいなかった私達夫婦への攻撃の言葉が、彼女の談笑の中に入っていたのである。始めは、いつもお風呂の日に世話してくれる看護婦さんが「井上さんみたいな善い人が居なくなるのは寂しいって、泣くのよ。涙もろい人なのよね。」と言うので、「そう。」と私も笑顔で聞いていた。ところが「だからね、『何言うとん、私なんかこの家ではメチャクチャ言われとんよ、ダメ人間だって。』と言うたんよ。」と声も顔も笑いながら言ったのだ。一瞬彼女の言葉の内容と声や顔の調子とのギャップに「え?何それ?」と戸惑った。だが、次第にその言葉の意味するところに腹立ちを感じ始めた。彼女は何をやってあげても満足する事の少ない人だし、普段にも彼女が私達への不満や悪口の類をヘルパーさん達に愚痴っているのは見聞きしているから、その事自体は大した問題ではない。むしろ、彼女の鬱憤のはけ口も必要だろう位に考えている。だが、それを「・・・と**さんに言ったのよ。」と、笑いながら当の私に告げる事が私には理解できない。何故か彼女は、私が気を利かしたり親切心を起こして彼女の為に何かをしようとしたり、楽しく談笑している時に限って私への嫌味を投げかける。例えば、楽しくアクセサリーの話しをしている時「私は本物の高級品が好きなの。だから、あんた達がよく昔私にアクセサリーを呉れよったけど、何でこんな安もんを呉れるんかな-、と思いよった。」と言われ、私がその昔彼女にお土産として上げようとしたアクセサリーを突き返された事を思い出す、といった具合である。それは談笑という無防備な体制にいる私への言葉の凶器となって胸に突き刺さる。それも、ヘルパーさんにやって貰えない部分の彼女の世話を一手に引き受けている私だけに投げられのが常だから、不思議である。それでも、彼女自身、そんな言葉が私を傷付けると思っていないらしいので、私は、そんな言葉にどう感じるかを説明したり、怒る時には彼女のどんな言葉や態度が原因かを説明したりする。所謂、アサーション的自己表現である。黙って怒ったのでは、彼女も対応の仕方が無いし、変化もして貰えないと思うからである。だが、そんな時、血圧はぐーんと上昇する。それを避ける為には出来るだけ彼女と接する時間を少なくする事だと思ってスモール・オフィスを借りたし、同居ではなく2世帯近居という形を取れる公団を探したのである。そしてもう少しでその形になり、今までより、返ってお互いに付き合い易くなるという時になって、しかも自分達だけでなく、彼女の公団の手続きから引越しの為の準備や段取り、銀行でのお金の出し入れまでの一切をやり、それまでの忙しさやこれから来る引越し準備の為寝不足になって疲れている私の身体を、彼女の言葉の刃は直撃した。うろたえた私は一応「今の言葉には、非常に腹が立ったのだけど・・・」といつもの様に冷静なアサーションを試みたが、もう直ぐ引越し屋さんが来るという時なので、きちんとしたアサーションは出来難く、そのまま最初の営業マンを迎える時間となった。その人が帰った後、頭痛に加えて頭や手足に痺れを感じたので、やばい、と思い血圧を測ったら上194と下118。急な血圧降下剤を飲むべきかどうか迷ったが、副作用を恐れていつものマイルドな降下剤を飲み「このクソ忙しい時に何てこった。」と思いつつ、横になった。しばらくすると、いつもの様にヘルパーさんが来て、姑は楽しそうに話したり、自分のやって貰いたい事を頼んだり、命令したりしている。この続きは次ぎの日の日記へ持ち越し。
2002年03月19日
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又大分日記をサボってしまったが、その間色々あった。今日は21日だが、日記の上では、時計を18日迄巻き戻して書く事にする。先ず、引越しの見積もり問題。一度見積もりをして貰って、営業の口に乗せられてしまったが冷静に考えると、娘の言った通り、もし本当に自分の所が他所より安いと言えるなら、「今決めて貰えたら安くします。」と決めるのを急かすのでなく、「他所と比べてみて下さい。」と他の見積もりが出るまで待てる筈である。しかも、「パックもお任せだし、少しなら家にも有るから未だ箱はいらない。」と言う私を押し切って「いえ、大体どこでもこうしていますから。」と15箱もボックスを置いて行った強引さ、合計を出して「幾らなら今決めて貰えますか。」と私に値引きの数字を出させ、「厳しいかもしれないが・・・」と言いつつ、本部に連絡をして私の出した値段より少し高い数字を言い、その分までは抑えたと見せたやり方、そして数字を見てきちっとした明細が無いのでいい加減だと感じた。そして、どうも客の心理を追い込もうという、催眠的暗示を悪用したやり方ではないかと感じ始めたのである。そこで、その引越しやに翌日(日曜日)説明を求め様と電話をしたら営業した本人は休みで、代わりに応対した従業員の返事も又納得のいかないものであった。で、ファックスでその数字の明細(内訳)を送ってくれるよう頼んでおいた。それで納得がいく様ならそのままそこを使う積りで次の朝電話のあった別の引越し屋さんは断って件の会社の連絡を待った。だが、次の日になってもファックスが来ないので、これは会社全体がいい加減だと感じてキャンセルを考え始めた。で、インターネットで「引越し一発便」という比較サイトを探し出し(始めからそうすべきであったが比較サイトのことを忘れていたのである。そして図らずも比較サイトの事を口にして自分の会社の順位を見せたのも、その営業マンであった。)、そこの見積もりに荷物の量を数字で入れていった。すると直ぐに一発便に登録している各社からメールが届いた。2社はサイトで入れた数字通りなら幾ら、という額を出してきたが、その安さに驚いた。そして、「引越し110番」というサイトで、キャンセルに関する約款を見付け、早いキャンセルなら無料で出来る事を知った。そこで、完全に件(くだん)の引越し屋をキャンセルすることに決めた。ここまでするのに、夜中の3時半まで掛かった。翌日は早速メールのあった各社に電話をすると、どこも実際に訪問しての見積もりをさせて欲しい、との返事であったので、3社にきて貰う事にし、件の引越し屋と同時に見積もり依頼をインターネットでしておいた社も入れて、19日には4社来る事になった。
2002年03月18日
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やはり八千代の補欠は繰り上がらなかった。でも、やれるだけのことはやり、待てるぎりぎりまで待ったので、諦めも付き易い。そして気持は鎌ヶ谷へ移動。部屋は今より少々狭くなり、交通の便も悪くなるけど、何より家賃が安い。そして自然環境は抜群に良かったな。だから、私達の健康には良いだろう。駅まで10分少々、歩く方が足も鍛えられるし…と良い事の方へ気持をグーンとズーム・イン。早速、運送会社を電話帳とHPで物色。3社に当りを付けて見積もり依頼。一番早く来た会社の営業の上手さについ載ってしまって、他者が来る前に決めてしまった。かなり安くしてくれたとおもったのだが、後で計算書を読んで、数字の羅列と合計金額が合わないのを発見。うーん、まずったかな?娘に散々、比較サイトを見て、サイト上で計算して貰ってから頼むべきだった、と言われてしまった。どうも我が家では、東京に長く住む娘が一番のタフ・ネゴシエイター(ハードな交渉の出来る人)らしい。「お母さんは、甘い。一万円違っても大きいよ。私の一日分の稼ぎ以上なんだから。」と言われてしまった。娘に同席して貰うべきだったな。夫は傍で聞いていたのだが何も言わなかったので、それで良しとしてしまった。でも兎に角、明日はその計算違いについて電話しよう。とにかく、14回目の引越しのスケジュールが動き始めた。これから忙しくなるぞ。でも、夫がお任せパックの方が良いと決めたので、荷物を纏める大変さは無くなった。後は色々な手続きと三原の家の修理、そして引越し、掃除…、やっぱり色々あるなー。でも、この引越しが済むともう何年かは移動しないだろう。夫は「分からんよ。この先何が起こるかは…。」などと言うけれど…、あり得ないとも言えないナー。
2002年03月16日
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昨日と今日にかけてこのHPダイアリーのトップ・ページを更新した。htmlが効くと書いてあったので、文字の大きさを特定したり改行を特定したりしてみたが、どうも上手く行かない。やり方が悪いのかナー。バックも変えたいのだが、どこにイメージ・ファイルを置いて良いのかが分からない(分かる方、教えて下さい)。仕方が無いから、自動改行にした。オフィシャルなHPアップ迄は未だ時間が掛かりそうなので、取りあえずはこの日記サイトを利用させて貰おう、という次第。日記兼PRページになるかな。*LiFTとカウンセリングの説明ページは近日中にアップする予定です。少々お待ちを。
2002年03月15日
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オフィスの名前が決まった、というか決めた。「リッスン+(Listen +)」だ。「+」はプラスと読んで貰っても、「ポジティヴ」と読んで貰っても良い。ここに至るまで色々考えたし、皆さんにもアイデアを拝借した中から、どうもやはり分かりやすく、しかも現在使っている「スマイル・ケイ」に因んだものやパンフに書いた「リフレッシュ」に通じる名前が良いかなと思い、「スマイリング・スペイス(Smiling Space)」(いつでも笑顔でいる空間とか場所)や「リフレッシング・スペイス(Refreshing Space)」(爽やかに新しい自分になって行く空間とか場所)を考えついた。夫も「スマイリング・スペイスって良いかも。」と賛成してくれたので「じゃ、それで行こう。」という事になったが、念のため若い娘の意見を聞こうと思い、「どう?」とこの二つを提示してみたところ「ダサー!何でそんなダサイ名前しか思いつかんの。第一、スペイスなんてこっちの人には分からんよ。宇宙の事かと思うじゃん。分かったとしても、『いつでも笑っていましょう』の会かいなって感じじゃん。それに長過ぎ!」とケチョンケチョン。「だって、お父さんも良いって言ってくれたよ。」と反論すると、「お父さんはお母さんと同じ感覚だから聞いても駄目だよ。こっちの余り英語に詳しくない人に聴かんと。」と又一蹴されてしまった。しかも「お母さん、一般の日本人の英語力を舐めちゃ-あかんよ。」と言う。「舐めてないから、分かるだろうと思って付けたんじゃん。」と言うと「違うって。お母さんたちが思ってる以上に通じないって事。」と来た。そして彼女自身、自分の書いた歌詞の英語の部分をプロデューサーに「日本語に直せ!」と言われて苦心惨憺しているとのこと。彼女の意見では、彼女の友達に聞いた経験から、リスニングは分かるしポジティヴは一時ドラマ等で流行ったことがあって通じるとのこと。因みに、「カウンセリング」は、自分の母親がカウンセリングをすると言ったら「其れ何?精神病の人が行くとこ?」って言われたそうだ。あー、じゃーパンフでもカウンセリングとは何かって事を説明しなきゃなー。娘に「カウンセリングって言葉は使わない方が良いよ。」と言われたけど、これだけは外す訳にはいかない。カウンセリングを受けたい人に、存在場所を知らせなければならないから。とにかく、娘の商標登録の翻訳家としての経験から、短くて記号などを使う方が良いし、「+」なら、色々な意味に使えるとの提案で、リスニングなら前から使いたかったので、「リスニング+」という名前にしようという事になった。「リスニングに何か(カウンセリングとかリラクゼイションとか等)をプラスする」という意味や「ポジティヴ(積極的、又はプラスになる様)に聴く」という意味にもなる。そして「「リスニング+」「リスニング+」と口ずさむ中に「リッスン+」の方が、語感が良いし短いし強調性もある、と思って、これに決めた。今回は、私の感覚にも合うし意味も通じる。娘も「その方が良いね。」と言ってくれたし、夫も「成る程ね。」と納得。*読者の皆様、色々とお騒がせ致しました。親身になって考え、アイデアを下さった皆様には、心から感謝いたします。今後ともこれに懲りずに、ご支援下さいませ。
2002年03月13日
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昨日からそろそろオフィシャル・ホームページに取り掛かろうと思って、コンピューター・スクールでのノートを捲っているのだが、Javaやアクセス等のプロジェクトは、こんな事やったかしらん(?)という感じで自分の書いたプログラムを理解出来ない。えー、一年間も高い授業料を払って習ったのは何だったんだ?かろうじて思い出せるのはhtml位。それもノートを読んで、ハ~は-、そうだったな、という程度である。自分の素敵なホーム・ページを作りたいが為のスクール通いだったのに。ハードだけは、しょっちゅういじっているので覚えているのだが、プログラミングという大事な事を忘れちまった。どないしょう!またぞろ、本などを読み返したら思い出すかしらん。錆びた回路を暗示で磨き直すかな。一昨日から、自分の為のLiFTも開始した。これで能力アップしなくっちゃ。今日は久し振りにトロントの日系コミュニティで共にボランティアのカウンセラーとしてソーシャル・サービス立ち上げに参加し、今はバンクーバーで再び別の部門を勉強中のCさんに電話をした。ラボ国際交流センターよりカナダでの留学生のカウンセラー(以前私もやっていた)を出来る人を紹介して欲しいと頼まれての電話だったが、とても懐かしがってくれた。あの頃二人は燃えていたなー、と私も懐かしかった。あの頃のような情熱と能力回路を取り戻さなくっちゃ。プラス・プラス・プラスの自己暗示で行こう!O社長の若い情熱には敵わなくっても、自己暗示だけは負ける訳にいかないぞー!今日は埼玉のエリクソン研のある日。行く積もりだったが夫が不満そう(最近出歩く事が多いので、夕食は殆ど彼が作ってくれている)なので、彼の気持ちを立てて、今回も休む事にした。エリクソン研の方々、ごめんなさい。先月「ダヴィンチ」のビデオ鑑賞会で良かった。引越しが落ち着いたら、必ず顔を出します。
2002年03月12日
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やっと引越しのスケジュールを消化出来る事になった。私達の荷物を山積みしてはおばあちゃんが車椅子で動けなくなるので、彼女の荷物の整理が出来たら、引越しと移動先での彼女のケア・マネージャーさんやヘルパーさん探しと打合せが済むまでの間、彼女をあ預かってくれるところを探していた事は前の日記でも書いたが、やっと彼女が毎週金曜日に通っている病院が大部屋で良ければと、一月預かってくれる事になった。今回ばかりは彼女も個室に固執しないで、自ら自分の担当医に頼んでいたのが功を奏したらしい。やれやれである。都市整備公団も、鎌ヶ谷の契約を八千代の事がはっきりする迄待ってくれる事になった。鎌ヶ谷の方が周辺の自然環境は良いのだが、何しろ八千代は買い物に便利なので、姑が今より自立した生活が出来そうなのである。自分で自分の生活を主婦としてコントロールしたいのに出来ない、又嫁の主婦としての在り方が自分の好みや思考とは全く違う、という事に対するイライラが嫁への命令や嫌味になって出ていたのだろうから、自分でコントロールする生活を出来そうな八千代に入れることを熱望している。私達もまたその方があり難いのだが、今のところ可能性は1%だと思っている。だから、姑には鎌ヶ谷での生活のし易さ(実際部屋はこちらの方が快適そうなのだ)をアピールして、八千代が駄目な場合の心構えをして貰っている。それにしても最近の公団は民間と同じかそれ以上に顧客満足を考えていてくれる様だ。応対の物腰も丁寧である。何かと役人批判をする夫も、この公団の批判は余りしない。ただ、あちこちの団地を訪ね歩いた経験から感じるのは、夫々の団地によって建物の中で規格化出来るところがされていないのは、何とも勿体無いと言う事である。デザインや間取りは色々なタイプがあった方が、最近の様々なニーズに対応し様としているのだという事は分かる。しかし、流しのサイズや風呂場、玄関の下駄箱設置など統一したら、随分節約出来るのに・・・と夫と下見から帰りながら話した事である。ま、とにかく引越しのスケジュールが動き始めた。何かと忙しくなってこの日記も滞るかもしれないけれど、一月後からは本格的なオフィス開設に向けて動けそうだ。ネーミングもそれまでにじっくり考える事にしよう。色々な方が様々なネームを提案して下さったが、結局は自分がぴんと来るものが無いと決められない。今の私は催眠症状で言うと、ムービング過ぎて動けないという逆説的な状態にいるようなので、それを甘受して暫く動かないでいる事にした。それにしても様々なご提案は嬉しかった。私自身の感覚を刺激するようなものもあって、今後の参考にさせて頂きたい。ネームをご提案くださった皆様(この中で、もしLiFT等を受けたい方がいらしたら、代金を割り引いちゃうかも)、本当に有難うございました。ご支援の程感謝に耐えません。決めましたら一番にこの日記に書きますね。
2002年03月11日
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やっと、娘のコンピューター・トラブルを直せた。で、結局寝たのは夜中の3時。寝不足解消ならず。でも終電で帰って来た娘が「良かったー。ありがとう!」と喜んで感謝してくれたので良しとする。やっぱり、親ばかですね。コンピューター専門の大学院生の友人Yくんでも悩んだトラブルを解決したのだからカナダでコンピューター・スクールに通ったという面目躍如。Yくん曰く「僕もハードを勉強しないといけませんね。」と。彼はセキュリティ・ソフトの研究家である。もっとも私は、そっち方面はチンプンカンプン。コンピューターって幅が広過ぎて、全部を網羅するのは至難の技である。で、今日は鎌ヶ谷の下見。田舎だけど広い公園と散歩道が整備されていて環境は抜群。おばあちゃんの部屋も広くて快適そう。でも、買い物が不便な事と、私達の住むかもしれない所が3LDKで今より狭いのが難。八千代は4LDKで広いのだが、どうも補欠が繰り上がりそうに無い。そこで夫曰く「何かカナダから帰ってどんどん狭い所に押し込められて行ってるみたい。」と。彼はカナダに行きたくて仕方がないのだ。だから、今度のモントリオールでのLiFTインストラクター会議にも私のお供で付いて来る予定。娘が「何でお父さんが行かんといけんのん?」と言うと、「行くんじゃなくて帰るんじゃ。」と、のたまう。カナダから持ち帰った消耗品(カナダで買うと日本の半値以下の物)が少なくなると「俺ちょっと行って買ってくる。」等と言うから、娘と私で「何でー。日本で買った方が安くつくじゃーん。」と一蹴するとシュン。そんなこんなで、我が家は騒々しい。
2002年03月10日
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うー、今日も頭はフラフラ。ここのところ2・3日分の寝不足を解消したと思ったら又次ぎの日は寝不足、の繰返し。一昨夜は、やはりアメリカでカウンセリングを勉強し、トロントの日系コミュニティで一緒にボランティア・カウンセラーとして働き今はバンクーバーの大学院で再び勉強している筈のTさんの連絡先を知る必要があって、トロントの知人から彼女の実家へと辿って行く内に半徹夜。昨夜は日記を書き終え風呂にゆっくり浸かって寝ようとしたら、娘のコンピューターのトラブルでヘルプを求められた。パーティション・マジックを使ってWindows2000を新たなパーティションにインストールしようとしてのトラブルである。Pマジックが古いので2000に対応してなかったらしい。色々試みたが解決出来無いまま明け方にベッド・イン。しかも今日は八千代の公団の下見に早く出かけなければならず、夫に起こされて寝不足。いつもの起き抜けの体操をしていると「何時に出られるんだ?」と聞かれて、「うーん、分からん。」と答えたら、「それじゃー、経営者にはなれんぞ。タイム・マネージメントが出来んでどうする。」と又ぞろ説教された。何か彼、最近は説教づいてるなー。ま、仕方ないか、一々ごもっともなアドヴァイスだから。下見の帰りに秋葉原に寄って、娘のトラブル解消の為の新しいPマジックを買って帰ったらすっかり疲れて、夫共々一時夕寝(?)。今そのPマジックを使って娘のコンピューターをいじっているが、未だ上手く行かない。本当にコンピューターって奴は、一度トラブリ始めたら、手間が掛かるナー。と、この日記は自分の部屋のコンピューターと娘の部屋のコンピューターとを行ったり来たりしながら、インストールの隙間を使って書いている。これって、時間の有効利用だから、タイム・マネージメントにもなっている?今日は、こんなとこでオチにしよう。明日は鎌ヶ谷の公団の下見だから、今夜こそ早く寝なくっちゃ。
2002年03月09日
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今日は、夫と共に区役所と税務署へ。区役所へは、夫は退職後の健康保険の事を相談しに、私は夫とその母の公団の契約に必要な印鑑証明書と住民票を取りに・・・の積もりだったが、おばあちゃんから印鑑登録証を預かるのを忘れてしまっていて、私は単なる夫のお供になってしまった。行く途中、「ちゃんとやるべき事をリスト・アップしておく習慣を着けて置かないからだ。それじゃ-、経営なんて出来ないぞ、自分が経営したときには、多い時は400以上ものTo do list があったけど、あんたはせいぜい10からから20だろう、それが出来なくてどうする。」と散々説教された。「うーん、くそ、ここぞとばかり来るな~。」と内心「う、う、う。」の状態ながら、彼の言ってることは正しいから「そうじゃね、そうじゃね。」と返事するしかない。税務署には、夫は医療費の申告、私は贈与税の相談、ついでに娘が自分の代わりに税務申告書を出して来て欲しい(彼女は自分の歌手デビューの為の会社訪問があるから・・・、と)と言うのでその代行も兼ねて出かけた。しかし、20年以上の夫婦であれば、配偶者が自分で住む為の家を購入する時は2000万円迄無税なのに、金銭での贈与は110万円だけしか控除されない。何か変だ。だってお互いに共同で築き上げた財産ではないか。しかし、どうのこうの言ったって始まらない。税法が厳としてそこにあるのだから。それにしても、今までに毎年限度内で贈与を受けておくべきだったなー、と後悔しきり。私なんかは、帰国したらなかなか降ろせないからと、カナダで自分で稼いだ分まで、夫の勧めに従ってぜーんぶ帰国前にカナダの夫の口座に入れて来てしまったのだから・・・。余りにも無知であった。それを勧めた夫も「知らんかったなー。」と後悔。何しろ日本の事情(カナダには贈与税は無いし、家を買う時も、始めっから夫婦の名義になる。)には疎い人なのだ。ま、それは記録を探せば何とかなるそうだが、記録があるかなー。夫の稼ぎと自分の稼ぎを足して2で割った物が自分の物、と思って来た私の想いは、書類と口座の実績で残しておくべきであった。世の奥様方、参考になされませ。でもまー、最近の税務署員の物腰は大分柔らかくなったみたいだ。贈与税の問題でも、娘の所得申告の問題でも丁寧に教えてくれた。ソーホーで仕事をしている娘は、税の申告とは、取られた源泉徴収の還付を受ける為に有ると思っているから、必死で領収書を集めている。それにしても昨年と今年では申告書の書き方が変わってしまった為か、彼女の書いた内容は間違いだらけで、結局私が全部書きなおしてやる羽目に陥ってしまった。彼女は小4から中2までをアメリカで、高校3年生をカナダで過ごし、カナダの高校を卒業しているから、日本語の理解が時々おかしくて私達の爆笑の源となってくれる。本人は「いいんだよ、みんなの笑いを取れるんだから。」なんてけろっとしている。今日の申告書でも親が先に気付いたから家族内の爆笑だけで済んだが、「世帯主との間柄」という所に…。まあーこれから先は家族内の事に済ます事にしよう。彼女はこの日記は読んでいないが、いつ読むことになって、「もー!言いふらす事はないじゃんかー。」という事になるか分からないから。とにかく今日は娘の申告書の書き換えに時間を取られて、オフィスに行けたのは4時過ぎ。親は二人共「もうー、あいつはー。」の状態だったが、メールで「デビューが決まったよ。」と嬉しいニュースをくれたから、まー、良しとするか。それでも、「良かったね。」の後、書き換えの事をメールしたら、「がーん、まじで?ごめん。ありがとう。」との返事。思わず笑ってしまう。彼女のお陰で、この年になってもつい「まじで。」と同じ口調になってしまう。それに私達夫婦も、娘の事ばかりは言えないほど、時々日本語が出てこない。英語も錆付いてきたし…、うーん、他人が聞いたら、いい加減でちゃらんぽらんな言葉遣いの家族だと思うだろうなー。クライアントにはそれが出ない様に気を付けなくっちや。
2002年03月08日
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昨日から引越しの段取りをスケジュール表に書いたり(夫の「書け」の一言で。彼は時々強くなり私に命令する。ま、書いた方が良さそうだから書いたけど、玉に理不尽な事を言う時には私の猛然とした反撃に遭って、謝る。今度も「自分で書いても良いのよ。」と言ってみたけど、「俺は、何をやったら良いのか分からん。」と来た。そうでしょう、そうでしょう。何せ引越しと言えば、私が殆ど一人でやって来たんだから。ま、いいか、今度は私の書いた段取り通りに動いて貰いましょう。)、おばあちゃんにどうするかの説明をしたり(これが理解して貰うのに一苦労)と、引越し用意がスタート。それにしても、二世帯近居で申し込んだ公団が、一番入りたいところ(八千代)が、おばあちゃんだけ当たっていて(支援家族は年寄りが当選したその時点で、補欠一番になるシステム)私達支援家庭はキャンセル待ち。もう1つ(鎌ヶ谷)は二世帯とも入れることになったのだが、おばあちゃんも私達も、八千代に入りたい。うーん、当たったとは言え、いまいち喜べないのが難だな~。いずれにしても引っ越すことには決めたのだけど・・・。この引越し、色々問題が多そう。先ず、おばあちゃんの荷物を片付けたら、私達が引越しを済ますまで彼女には近くの老健ホームで待機して貰わなければならない。荷物を積み上げると、車椅子の彼女が動けなくなるからだ。そのホームが今いっぱいで、何時入れるか分からないそうだ。そうなると私達の荷物を纏める事が出来ない。でも、4月28日までに引っ越さないと、公団がキャンセルになってしまう。おー、どうかホームに入れますように!とにかく今日は引越しの件で出来ることだけを家でして、後はまたこのオフィスに来て仕事。パンフを書き直したり、自分の為にもう一度LiFTをやってみたり。そのパンフをこのHPに貼り付けようとしたが、文字しか受け付けなかった。やはり早く自分でオフィシャルなHPを作らなきゃなー。正規のオフィスは、「出来るだけ自宅の近くで人の集まる所」ということで、船橋が西船橋辺りで探すことになりそう。LiFTのインストラクター会議が5月末から6月始めにモントリオールであるので、開設はその後の6月頃を目途に考えている。決まったらこの日記にも書きますので宜しくねー、読者のみなさん!
2002年03月07日
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またまた日記を書く暇が無かった数日であった。土曜日に女性起業塾が終わり、プレゼンテーションの用意の為徹夜に近い状態だったので、その日は帰るとダウンで布団へ直行。日・月はエリクソニアン催眠療法のワーク・ショップ参加。今日はたまっていた洗濯をして、スモール・オフィスへ。ひよこさんのテーマが気になって彼女のダイアリーへ行って書き込み、今このダイアリーへ帰ってみたら、あら、もう5時半。何でこんなに時間の経つのって早いのかなー!女性起業塾最終日は又テレビ局が入っていた。プレゼンで私のパンフを「前より5倍良い。」と言って貰えてやれやれ。やっぱり誉められると幾つになっても嬉しいものだなー。この塾では本当に色々と教えて貰った。第3期でも受講したい講義が3回分あるのだが、どうやらその時期は引越しで忙しそうだ。公団が当たったのである。広島の自宅も貸すことになり、荷物を全部片付けて完全に空けなければならない。うーん、マタマタ一年半振りの引越しという大忙しの日々がやって来る!今度は身体を壊さない様に気を付けなくっちゃ。あー、でも3期の塾も受けたいけどなー!うーん、身体が二つ欲しい!エリクソニアンのワーク・ショップでは久し振りにブレント・ギアリー博士お会いして嬉しかった。彼のワーク・ショップ中級はアメリカのフェニックスでも受けたのだが、何せ英語だけで練習相手もあちらの人だから、日本人の方相手に練習したかった。しかも素晴らしい通訳の方々が付いていて下さるので、同じ話を自分の感覚とは又違って聴くことが出来る。素晴らしいワーク・ショップだった。同じ埼玉エリクソン研究会の仲間やM教授ともお会いできたし、他の心理関係の方々とも新たにお知り合いになれた。私の練習相手になって下さった方々も素直で理解の早い方々だったから、スムーズに課題をこなさせて貰え、しかも「気持ち良かった!お上手ですね。」と言って下さり、これからの開業に向けて自信を付けさせて貰った。彼女たちもお上手だったが、催眠療法のワーク・ショップは始めてだった様で、私のちょっとしたアドヴァイスも素直に聴いて下さり、喜んで下さったので、流石カウンセラーだ、と思った。そして勿論私も良い気持ちにさせて貰えて、夜も短時間でぐっすり眠れ、有難いこと。さー、また明日から、いや今日から、引越しの合間を掻い潜りながら開業に向けて頑張るぞ!
2002年03月05日
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今日は区役所の用事を済ませて、午後からずっとオフィスで仕事。起業プランやパンフの作成に熱中していたら夫から「何時帰る?」と電話。えー、もうそんな時間?うーん、明日までに出来るかしら?今一番困っているのはオフィスのネーミング。一旦は「リスニング・マインド」と決めたのだが、女性起業塾の仲間からの評判が悪かった。だからもう一度色々考えたのだが、どれが良いか分からない。そこで読者の皆様のお知恵を拝借したいと思います。一応私のオフィスでやるサービスの概略と私の気持ちを入れたネーミングをここに挙げておきますので、私のオフィスのサービスにはどれがインパクトがあるか掲示板に書き込んで頂ければ有難いです。サービス:☆心理カウンセリング: 個人・家族・グループ毎に対応出来、 夫々の人間関係や生活の悩み又は困った問題等を解決する為 の援助・サポートに向いている。☆催眠暗示: 自律神経調整訓練、イメージ・トレイニング、自 己能力アップ、リラクゼイション、自己コントロール(禁 煙、ダイエット等)に向いている。☆LiFTを使ったリスニング・フィットネス・プログラム: リスニ ング・フィットネス・トレイナー(LiFT)という小型器具を使 い、フィルターで音楽や声の周波数から低周波数を徐々にカ ットした後又戻すという聴覚刺激のプログラム。聴覚から脳 や身体の細胞を刺激し、聴き取れる周波数の幅を広げ、リラ クゼイションやコミュニケイション力、集中力、英語のリス ニング力等の増強に向いている。ネーミング:1.Human Skills ヒューマン・スキルズ2.(The) Active Communication Centre (ディ)・アクティヴ・コミュニケイション・センター3.(The) Active Way (ディ)・アクティヴ・ウェイ4.New Active Way ニュー・アクティヴ・ウェイ5.(The) Active (ディ)・アクティヴ)()の中も入れた方が良いかどうか、お書き下さると有難いです。スモール・オフィスからの帰り道、バスの中でもう一つ思い浮かんだ名前を書き加えておきます。6.(The)Good Image (ザ)・グッド・イメージどうでしょう?以上、ご協力をお願い致します!帰ったら夫がこの日記を読んでいて「名前なんて、あれこれ考え過ぎたら駄目なんだよ。パッと思い付いたものでなきゃ。」とアドヴァイス(?)。それが上手く行かないから困ってんじゃなーい!
2002年03月01日
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