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(喜石原古墳群の亀甲墓)「中城ハンタ道」を「ペリーの旗立岩」から北側に進むと「喜石原古墳群」の深い森があります。その広大な森を抜けると「中城グスク」に到達し、首里城から勝連グスクまで続く「中頭方東海道」の中城村内を通る「中城ハンタ道」は終点を向かえます。歴史の道と呼ばれる「中城ハンタ道」は12世紀ごろ集落を繋ぐ道として開通し、14世紀前半に「中山王尚巴王」によって整備されたと考えられる道です。ペリー提督が率いる「大琉球奥地探検隊」が沖縄本島を北上する時にも「中城ハンタ道」が使用され、この道は昔から沖縄本島を南北に巡る際の主要道路として重宝されていました。(中城ハンタ道の迂回路)(オーシャンキャッスルカントリークラブ前の案内板)「ペリーの旗立岩」から「中城ハンタ道」の崖道を東側に下ると「オーシャンキャッスルカントリークラブ(中城ゴルフ倶楽部)」の広大な敷地に突き当たります。本来の「中城ハンタ道」はゴルフ場の西側駐車場からクラブハウス、さらにゴルフコースの18番ホールから10番ホールを通り「村道ウフクビリ線」と「村道大瀬線」の交差点を抜けて「喜石原古墓群」の森に進みます。しかし、2003(平成15)年にゴルフ場が開場し、残念ながらこの区間の「中城ハンタ道」が消滅してしまいました。その為、現在は約800mに渡り「中城ハンタ道」の迂回路が設けられています。(中城ハンタ道/喜石原古墓群)(熱田根所門中の石柱)(熱田根所門中の拝所)「オーシャンキャッスルカントリークラブ(中城ゴルフ倶楽部)」のゴルフコースを北東側に抜けて「喜石原古墓群」に入ると、本来の「中城ハンタ道」が再開します。その地点から「中城ハンタ道」を「中城グスク」方面に進むと、左側に「熱田根所門中」の石柱が立っています。その奥に細い森道が続いており、数十メートル進むと「熱田根所門中の拝所」があります。2本に分かれた木々の根元に石積みが組まれています。「熱田」は隣接する「北中城村熱田」の古集落の名前、「根所」は集落の発祥地、「門中」は集落発祥家の始祖を同じくする親族です。その為、この地は「熱田根所門中」の魂を祀る拝所だと考えられます。(ギイスノテラへの階段)(ギイスノテラ手前の拝所)「中城ハンタ道」を更に進むと道が二股に分かれており、左に進んだ直ぐの右側に「ギイスノテラ」への階段があります。階段を登ると木の根元に石積みで囲まれた穴がありウコール(香炉)が設置されています。「ギイスノテラ」は「琉球国由来記」に「神名ギイス森ナンダイボサツ」と記されており「添石集落」の「マス島袋」という人物の祖先が霊石を安置して奉り、その子孫によって祭祀を司ったと記されています。「添石集落」では昔から「シーシティラ(添石のテラ)」と呼ばれていました。(ギイスノテラのガマ)(ギイスノテラのガマ内部)「ギイス」とは「高い嶺」という意味で「ギイスノテラ」上部の岩山は「添石(シーシ)ガンワー」と呼ばれています。また「ギイスノテラ参り」と称して男装をした女性と意中の男性が夜な夜な逢瀬を繰り返していた事から「夜半前(ヤハンメー)御嶽」とも呼ばれています。沖縄では霊石を祀る神殿、洞穴、祠を「テラ」と言い、共同体の祭祀場である「御嶽」に対して航海安全やお授けなど「テラ」は個人的な願いを対象にしています。「ギイスノテラ」のガマ内部には多数の古い霊石が祀られており、琉球王国時代には「中城ハンタ道」を旅した人々もこの神聖な場所で祈りを捧げた事でしょう。(掘込墓/フィンチャー)(亀甲墓/カーミヌクーバカ)(破風墓/ファーフーバカ)「ギイスノテラ」から更に「喜石原古墓群」の森を西側に進むと幾つもの「堀込墓(フィンチャー)」が立ち並んでいます。砂岩層(ニービ)の崖を掘り込んだ穴や、自然のガマ(洞窟)を利用した「堀込墓」は沖縄で一番古い種類の墓として知られています。更に古墓群を進むと「亀甲墓(カーミヌクーバカ)」も多数点在しています。「亀甲墓」の独特な形は女性の子宮の形から型取ったと言われ「母から生まれ、亡き後も母に帰る」という「母体回帰」の思想に基づくと考えられています。「喜石原古墓群」の中心から離れてゆくと「破風墓(ファーフーバカ)」が多く見られます。「破風墓」は屋根があり堀りもある「家」の形をした墓で「ヤーグヮーバカ」とも呼ばれています。(添石ヌンドゥンチの墓の案内板)(添石ヌンドゥンチの墓の入口)(添石ヌンドゥンチの墓/地域情報システム「発見!なかぐすく」より引用)「ギイスノテラ」手前の二股の道を右に進むと「添石ヌンドゥンチの墓」があります。この古い墓は「中城グスク」の祭祀を司っていた「ヨキヤ巫(ノロ)」の一族のお墓です。「喜石原古墓群」内にあり「中城グスク」に近い「中城ハンタ道」の西側斜面地にあります。「添石ヌンドゥンチの墓」の入口には石垣が積まれ、琉球石灰岩で造られた石段は丘稜の頂きに続いています。現在は残念ながら深い草木に覆われており「添石ヌンドゥンチの墓」に到達する事が出来ないので、中城村の「地域情報システム『発見!なかぐすく』」より墓の画像を引用させて頂きました。(雷岩)(雷岩の大岩)「添石ヌンドゥンチの墓」から更に北側に進むと「喜石原古墓群」の森を抜けます。ひときわ目立つ琉球石灰岩の大岩があり、この岩に雷がよく落ちたことから地元では「雷岩」と呼ばれています。「雷岩」のある場所は「集落を結ぶ道」「新垣グスクへ続くハンタ道」「宜野湾市方面へ行く道」の3つの道が交わる地点で「雷岩」は旅人の目印となっていました。また、琉球王国最後の名将と呼ばれた「護佐丸公」が旧暦の中秋の名月の夜、宿敵であった勝連城城主「阿麻和利」の謀略により切腹し自害しました。その直後に空は厚い雲に覆われ、激しい暴風雨の嵐になり落雷がありました。雷が落ちたこの場所に突如出現した大岩が、この「雷岩」とだと言う伝承も残っています。(中城城跡の石柱)(中城城跡の正門)「雷岩」から更に進むと「中城ハンタ道」の終点地の世界遺産「中城城跡」に到達します。「南上原糸蒲公園」から「中城城跡」を繋ぐ全長6.2キロの「中城ハンタ道」は歴史の道として琉球王国時代からの「中城」の遺跡文化財を多数現在に継承しています。かつての先人達が旅をした「中城ハンタ道」は琉球王国時代にタイムスリップ出来るスポット、集落、御嶽、グスク、拝所などを巡る事が出来る「歴史の道」であり、中城村のみならず古の琉球の歴史的、文化的、民族学的、考古学的に様々な視点から満喫出来る重要な遺産となっています。
2021.11.05
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(殿/内原ノ殿)「新垣グスク」は「新垣集落」の北側約170mの位置にあり、地元では「御嶽(ウタキ)」と呼ばれています。グスクの石積みはほとんど無く築城年代は不明ですが、1300〜1350年頃にアラカチヤマ(新垣山)高方に築城されたと伝わります。「中城グスク」と同年代に築城されたと言われており、城壁を支える根石がみられ1500年代にかけて「殿/内原ノ殿」周辺まで城壁が築かれていました。「新垣グスク」には1531年から1623年にかけて首里王府によって編纂された歌謡集である「おもろさうし」に「新垣のねだかもりぐすく」と謡われるなど、グスクと城主を称える「おもろ」が残っています。また、城主家の婚儀を祝して神女官から下された神託の「おもろ」も謳われています。(カミミチ入口)(カミミチ入口の階段)「カミミチ(神道)」は「新垣上原遺跡」から「新垣グスク」を通り「中城ハンタ道」へと通じる道で、現在通行止めになっている本来の「中城ハンタ道」の迂回路としても利用されています。「カミミチ」周辺には「新垣グスク」の遺跡文化財や古墓群が多数点在し「新垣の御嶽(上の御嶽)」と「殿/内原ノ殿」の2つの拝所への参拝路である事から「カミミチ」と呼ばれています。この2つの拝所は「琉球国由来記(1713年)」にその名称が記されています。「カミミチ」は神様の通る神聖な道なので塞いではならず不浄な行いも禁じられています。古来より「新垣集落」の人々により大切に守り受け継がれている聖なる道なのです。(ナナジョウオハカ/七門御墓)「カミミチ」の階段を登ると丁字路になっており、右に進むと「カミミチ」で左に進むと「新垣の御嶽(上の御嶽)」の森となっています。「新垣の御嶽」方面に進むと右側に「ナナジョウオハカ(七門御墓)」があり「新垣集落」の各門中(ムンチュー)の祖霊神を祀った場所だと言われています。岩盤の割れ目の元にはウコール(香炉)があり、その奥に立ち入ると祟りが起きると恐れられています。かつては「ムラシーミー(村清明祭)」に祈願されていましたが、最近ではお米が収穫できたことへの感謝祭である旧暦8月10日の「カシチー」に拝まれるようになりました。(カニマンオハカ/カニマン御墓)「ナナジョウオハカ」から御嶽森を進むと大岩があり、その麓に「カニマンオハカ」が祀られています。「カニマン御墓」とも呼ばれ、カンジャヤー(鍛冶屋)との関わりがあった人物や、集落で最も裕福だった人物の墓だったなど諸説ありますが詳細は不明のままです。戦前までは西側の崖の近くにありましたが、戦後直ぐに崩落してしまい現在地に移設されました。この大岩の根本にはガマ(洞窟)に造られた掘り込み式の「カニマンオハカ」があり、ガマの入り口には石垣の跡が残されています。この古墓は「新垣集落」の重要な祖先の墓として現在も住民に祈られています。(ウシノハナモーモーの岩)(ウシノハナモーモーの香炉)「カニマンオハカ」の西側で「新垣グスク」の最西端の森道に「ウシノハナモーモー」と呼ばれる岩があります。この岩は牛の頭の様な形をした鍾乳石で、宜野湾市「野嵩集落」の「ノダケバンタ(野嵩崖)」と「ウシノハナモーモー」が喧嘩をし両方が吠えて共鳴したとの伝説があります。北西側に隣接する「野嵩集落」方面からやって来る悪霊から「新垣集落」を守る守護神として「ウシノハナモーモー」にはウコール(香炉)が祀られており、現在も集落の住民から大切に祈られています。(ミージャーガーのガマ)(ミージャーガーのガマ内部)「ウシノハナモーモー」から森道を北に進むと、右側に東に向かう道があります。その道の先には「ミージャーガー」のガマ(洞窟)が姿を現し、ガマの内部に「ミージャーガー」の井戸があります。豊かな水量と質の良い水である事から「新垣集落」の人々の生活に欠かせない井戸だったと伝わります。正月の若水や出産の産水、豆腐作りなどに使用され「ミージャーガーの水で顔を洗うと若返る」という伝承もありました。当初、ミーヤ(新垣集落の旧屋)の犬がこの井泉を発見した事から「ミーヤーガー」と呼ばれていました。後にそれが訛って「ミージャーガー」となったと伝えられています。(ミージャーガーの石碑)(ミージャーガーの石碑)ガマの内部には非常に水量の多い井戸水が溜まっており、左奥の水路から湧き水が流れ込む音がガマの内部に響いています。「ミージャーガー」の傍に「昭和ニ年十月改築」と「字新垣青年團創立十年記念」と刻まれた2つの石碑があります。「新垣集落」に水道が普及してから、水瓶を頭に乗せて歩く女性達の姿は見られなくなりましたが、現在でも甘くて美味しい湧き水として定評をえています。「ミージャーガー」にはウコール(香炉)が祀られており、集落の人々は水の神様に豊かな恵みを感謝する井戸拝みで祈りを捧げています。(カミミチ)(ワーランガー)(新垣の御嶽の古墓)「カミミチ」に戻り東に進むと左側の崖の麓に「ワーランガー」の井泉があります。「ワーランガー」の言葉の由来や意味は不明ですが、石垣に囲まれた穴からは水が湧き出ています。「ワーランガー」の崖から北側に広がる森は「新垣の御嶽(神名:天次アマタカノ御イベ)」の神域となっており「上の御嶽」または「新垣ノ嶽」とも呼ばれています。御嶽森の奥深くの場所に大きな口を開けたガマ(洞窟)があり、入り口には幾つもの石垣が積まれています。向かって左側には花瓶や湯呑みがお供えされている為、このガマは掘り込み式の古墓であると推測されます。古の琉球では風葬が主流で、亡くなった死体を人目のつかないガマに運び骨になるまで安置しました。この「新垣の御嶽」のガマも風葬に使用された洞窟であったと考えられます。(殿/内原ノ殿)(殿/内原ノ殿の案内板)(殿/内原ノ殿の祠内部)「新垣の御嶽」から東側に約60mの位置に平場が広がっており、横幅4m/高さ2m/奥行き3mの祠が建てられています。「殿/内原ノ殿」は「ヨキヤ巫」と呼ばれるノロの管轄する祭場で、祠内には御神体として幾つかの自然石(霊石)とウコール(香炉)祀られています。戦前までは旧暦5月と6月に行われるウマチー(稲ニ祭)の豊作祈願には、この平場に「新垣集落」の住民が総出で集まりウンサク(神酒)をお供えし祈っていました。グスク時代には「新垣集落」の女性達が住んでいたと伝わる事から、集落のノロが住み祭祀を行っていた「ノロ殿内」の役割があったと考えられます。祠内には他にも古い琉球赤瓦が並べられており、戦前の技法で造られた歴史的価値の高い赤瓦だと思われます。(イリヌカー/西ヌ井戸)(アガリヌカー/東ヌ井戸)「イリヌカー(西ヌ井戸)」は「新垣グスク」の殿曲輪内で「殿/内原ノ殿」の向かって左側にある石積みで囲まれた井戸跡です。「アガリヌカー(東ヌ井戸)」は「殿/内原ノ殿」から北側約20mの位置にある石積みで丸く囲まれた井戸跡です。いずれの井戸も戦前まで井戸水が豊富にあったと伝わっています。戦前までは旧暦5月と6月に行われるウマチー(稲ニ祭)の豊作祈願に拝まれています。「新垣内原遺跡」が入口の「カミミチ(神道)」は「アガリヌカー」から東側に進み階段を降り、再び「中城ハンタ道」に合流する地点が「カミミチ」の出口となっています。(カミミチの出口/新垣グスクの案内板)「カミミチ(神道)」の出口から北側に「中城ハンタ道」が続いています。「新垣集落」の北方にそびえる新垣山に「新垣グスク」があり、そこには周辺地域を支配する城主(按司)が存在していたとされます。「おもろ」の内容を見ると城主の威厳と繁栄をうかがわせる内容が謳われています。また、良質の輸入陶陶器も多く出土していることから、当時の「新垣グスク」とその周辺の地域は「中城」の内でも特に栄えていたと考えられます。(ツンマースから眺める中城湾と知念半島)「新垣グスク」に関する「おもろ」一 あらかきの、ねたか、 もりくすく、てたか、 ふさよわか、くすく 又 てにつきの、ねたか、もり (訳) 新垣の根高杜城(新垣グスク)は、 城主の居城にふさわしいグスクである一 あらかきの、ねだか、 もりぐすく、てだが、 ふさよわる、ぐすく 又 てにつぎの、ねだか、もり(訳) 新垣の天頂の根高杜ぐすくは、 太陽の栄え給うぐすくである一 あらかきの、くにの、ねにけよ、 しよる、つかい、 もゝとの、つかい又 天つぎの、しまのねに(訳) 新垣の天頂の国の根(中心)に 今日している神迎えは、 いく度もくり返したお招きなのだ−『琉球王国時代の中頭方東海道@中城村「中城ハンタ道」(後編)』に続く−
2021.10.28
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(若南ビラ石畳)「キシマコノ嶽」から「中城ハンタ道」を320m北上すると「若南ビラ石畳」に辿り着きます。「若南ビラ」は戦後まで石畳が現存していましたが、長い年月の間に崩れ落ちてしまい一部のみ残されています。現在の新しい階段の向かって左側に石畳跡があり「若南ビラ」は約80mの長さがあったと伝わります。使用されている石材は琉球石灰岩製で、止め石は15〜30cm程の長方形に加工されていました。また敷石は形が不定形で15cm以下の小さなものが多く使われていました。石畳が造られた正確な時期は不明ですが、周辺から発掘された遺物や聞き取り調査などから近世以降のものと考えられます。(新垣の石橋)「若南ビラ石畳」の西側に中城村指定文化財の「新垣の石橋」が架かっています。「新垣集落」は昔から石工が多く住み石造技術の高い地域だと伝わります。「新垣の石橋」は若南川により分断された地域の不便さを橋を架けて解消しようと1942(昭和17)年頃、当時石工の棟梁だった伊佐山戸さんが徴兵で残った老人婦人と共に石橋を造ったと伝えられています。「新垣の石橋」には亀甲墓のアーチ式技法が駆使され、戦前から現存する中城村内で唯一のアーチ型石橋となっています。(県道開削記念碑)「新垣公民館」の南側に隣接して「県道開削記念碑」が建立されています。かつての「新垣集落」の道は殆どが石畳道で自動車が通れない為、集落の外から物資を運ぶ際には馬の背と人の肩に頼る他ありませんでした。この状況を見た「新垣集落」出身の伊佐善則と善俊親子は幅の広い道路の実現に向けて集落の住民と団結し、長年の夢だった県道35号線(旧普天間〜与那原線)が開通しました。「道開削記念碑」は県道開通記念と伊佐親子の功績を称え、1934(昭和9)年10月に建立されました。(ナカミチ/中道)(ナカミチ前)(新垣区綱曳き発祥の地の石碑)「新垣集落」の中心部に「ナカミチ」と呼ばれる道があり「新垣公民館」の北側から集落の東側に続いています。この道は旧盆に「新垣集落」の綱引きの舞台になり「新垣区綱曳き発祥の地」の石碑の場所は綱引きが無事に行われるように願う「綱引きの祈願所(拝所)」として崇められています。集落では子供達が各家から藁を集め青年達が綱を打ちます。「新垣区綱曳き発祥の地」の石碑を境に上下両組に分かれて松明を灯し、ドラや太鼓を打ち鳴らしながら空手が披露され綱引きが行われます。(ユームトゥビラ/与元坂)(ユームトゥビラの案内板)「中城ハンタ道」は「ナカミチ」から北側に登る急坂の「ユームトゥビラ(与元坂)」に続きます。昔から「新垣集落」の主要な道として利用され、坂道の先には「新垣集落」発祥の土地である「新垣上原遺跡」や「新垣グスク」があります。約80mの坂道が続く「ユームトゥビラ」は「ナカミチ」から「案内板」まで50mもの急勾配となっており、坂道の集落である「新垣集落」の住民がビラ(坂)と共に生き続けてきた歴史を体感出来ます。また、かつて「中城方東海道」を中城城方面に歩いていた旅人にとっては「地獄の坂道」であった事でしょう。(ツンマース)(ツンマースの案内板)「ユームトゥビラ」から北に「中城ハンタ道」を登ると「ツンマース」が現れます。以前、この場所には大きな松が生えており、その周辺を円形に石積みで囲いロータリーの役割をしていた事から地元では「ツンマース」と呼ばれるようになりました。この地点は分岐道となっており、東側に進むと「新垣グスク」「ペリーの旗立岩」「中城グスク」に向かい、西側に進むと宜野湾方面に続いています。「ツンマース」の周辺には「タントゥイモー(種子取り毛)」や死者を墓場まで運ぶ輿の保管場所である「龕屋(ガンヤー)」などがあり「新垣集落」の人々の生活や祭祀行事の重要な場所となっていました。(根所/ニードゥクル)(根所の案内板)「ツンマース」から東側に90m進むと「根所(ニードゥクル)」の拝所があります。「根所」は集落の創始者の屋敷があった場所で、現在はコンクリート製の祠と井戸跡、ウヮーヌフール(豚小屋兼トイレ)跡、石畳が残っています。旧暦10月1日には「ムラウバギー」と称して根所にウバギー(おにぎり)をお供えして、その1年間に生まれた子供の名前を報告する事になっている。戦前まで行われていた十五夜のムラアシビ(村遊び)には「根所」の庭で様々な舞踊が演じられていました。(ディーグニー)「根所」の西側に隣接して「ディーグニー」と呼ばれる森があります。戦前まで旧暦12月7日に「シマクサラシー(魔除け)」の祈願が行われた場所です。マーニ(クロツグ)の木の根元にウコール(香炉)を意味する霊石が祀られています。その一帯が「ディーグニー」と称され、そこでシンメーナービ(大鍋)に牛肉を炊いて集まる集落の人々に振る舞っていました。木々が鬱蒼と茂るこの森には、かつて「シマクサラシー」の祭事で牛を殺したデイゴの木が現在も残っています。(ペリーの旗立岩前の展望台)(ペリーの旗立岩前の案内板)(展望台からの絶景)「根所」から「ハンタ道」を東に進むと「前吉門(メーユシジョー)」「新屋(ミーヤ)」「仲嶺(ナガンミー)」「新屋敷(ミーヤシチ)」「新地(ミーチ)」「殿根屋(トゥニヤー」と呼ばれる「根所」からの分家が集まる「新垣集落跡」に差し掛かります。この周辺は「上原新垣遺跡」と称され、石畳道が現在も残っています。この先の「ハンタ道」は通行止めになっており、続きの「ハンタ道」は東に数十メートル先に進んだ地点から再開しています。その場所から「ハンタ道」を北に向かうと「ペリーの旗立岩前」にある展望台に辿り着きます。展望台からは一面に中城湾が広がり、知念半島、久高島、津堅島、勝連半島が一望出来る絶景となっています。勝連半島の先にある米海軍施設「ホワイトビーチ」と津堅島の間に「カタブイ(通り雨)」が降っており、海と空が魅せる大自然の迫力を感じる事が出来ます。(ペリーの旗立岩の案内板)(ペリーの旗立岩)(ペリーの旗立岩のスケッチ)展望台の西側に「ペリーの旗立岩」があります。「新垣グスク」の北側で標高160m程の台地にある10数メートルの琉球石灰岩の大岩で、地元ではターチャーイシ(二つ岩)と呼ばれています。1853年にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊が沖縄本島の調査をした際にこの岩山の周辺で休憩し、その時に岩山の上に星条旗を立てて記念に祝砲を撃ったとされています。調査隊のHeine Del.により描かれたスケッチが残されています。ペリー提督一行がこの岩を「Banner Rock」と呼んだ事から「ペリーの旗立岩」と名付けられたのです。現在でも約170年前に描かれたスケッチと変わりない風貌を保っています。ー『琉球王国時代の中頭方東海道@中城村「新垣グスク/カミミチ」(特別編)』に続くー
2021.10.24
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(キシマコノ嶽/161.8高地陣地)沖縄本島には琉球王国時代前半の首里城から勝連グスクまでを結ぶ「中頭方東海道」があり、中間の中城村内を通る道は「中城ハンタ道」と呼ばれる全長約6.2kmの歴史の道となっています。沖縄の言葉で「ハンタ」とは「崖」を意味し、中城村内では山の尾根や崖沿いに道が通っている事から「ハンタ道」と呼ばれています。「中城ハンタ道」の周辺には多数の遺跡文化財が点在しており、琉球の歴史を知る重要な資料となっているのです。(東太陽橋にある中頭方東海道の標識)(東太陽橋にあるハンタ道の標識)12〜14世紀頃までは「ハンタ道」は各集落やグスク間を繋ぐ道として利用され、15世紀に琉球王国を誕生させた「尚巴志王」により王府と地方の情報伝達の為に整備されました。「ハンタ道」の起伏に富んだ地形や、東側の眼下に広がる村落風景と美しい中城湾が一望できる絶景は散策する全ての人を楽しませてくれます。また、琉球王国時代より伝わる多数の遺跡文化財が残る歴史の道は魅力と浪漫に溢れています。(糸蒲の塔/南上原糸蒲公園)中城村の南部に「南上原糸蒲公園」があり、敷地内には「糸蒲の塔」がある小高い丘があります。かつてこの丘には琉球王朝時代に不動明王を祀った「糸蒲寺」が建立されており「琉球国由来記(1713年)」によると、日本から来た補陀落僧(ふだらくそう)が住職をしていました。この寺には糸蒲ノロと住職の有名な伝説があります。『ある日、幼い女の子を家の外へ追い出して話し合いをしていた糸蒲ノロと僧侶は、この幼女の言葉によってノロの夫に密通を疑われてしまいます。二人は憤慨し糸蒲ノロは「この幼女の家の女子は末切れ末切れ(女子は途絶える)」という呪いを吐き乳房を噛み切って自殺したのです。すると僧侶は「糸蒲寺」の財宝を糸蒲御嶽へ隠して櫃(ひつ)に入りました。直後に寺は炎上して焼失した櫃の中は空っぽになっていた(昇天した)そうです。それから幼女の家に女児は生まれなくなり、その後「糸蒲寺」は再建されず1700年代には寺の石段だけが残っていたそうです。』(糸蒲の塔/沖縄戦戦没者を祀る拝所)また、火事で寺が焼失する瞬間、寺の本尊が首里城の漏刻門(ろうこくもん)に現れたという伝説もあります。南上原の東端標高約150mの丘陵にある「南上原糸蒲公園」の東側に「糸蒲遺跡」があります。このグスク時代の遺跡は糸蒲門中(ムンチュー)が現在の津覇集落へと移住する前の集落跡といわれており「糸蒲遺跡」からはグスク土器や白磁などが出土しています。さらに「糸蒲寺」の周辺は琉球の「田芋発祥の地」として知られています。「糸蒲寺」の補陀落僧が日本から持ってきた田芋を寺の近くに植え、そこから沖縄中へ広まったという伝説が残っています。(ウトゥーシ/遥拝所)「南上原糸蒲公園」の丘の東側麓に「糸蒲のウトゥーシ」と呼ばれる合祀拝所があり「ウトゥーシ」とは遥拝所の事を意味します。この一帯は糸蒲門中の居住地跡と伝えられており、この拝所にはコンクリート製のウコール(香炉)が3基並んでいます。それぞれ「糸蒲ノ嶽/神名:掛カネ森ノセジ御イベ」と「シキマタノ嶽/神名:シキ森ノセジ御イベ」と呼ばれる御嶽への遥拝所と「糸蒲寺」への遥拝所と言われています。糸蒲門中は西原の棚原グスクとの戦いに敗れ、糸蒲に逃れて一時生活をしていました。その後、より住み易い平地へと下りて行ったと伝えられています。(ウトゥーシのヒヌカン/火の神)「ウトゥーシ」の西側に隣接して「ヒヌカン(火の神)」があり、シルカビ(白紙)に包まれたヒラウコー(沖縄線香)が供えられていました。「ヒヌカン」など神様への御願では15本の線香を供える決まりがあり「ジュウゴホン(十五本)」と呼ばれます。これは「ジュウニフン(十二本)」に「サンブンウコー(三本御香)」を加える」とも言われます。この「ジュウニフン(十二本)」は「十二干支」を意味し「サンブンウコー(三本御香)」には「ミティン(三天)」の神様へお通しをする意味合いがあります。ちなみに「ミティン(三天)」とは、この世の三つの要素で「ジーチ(地)」「ウティン(天)」「リュウグ(龍宮=海)」を意味します。「サンブンウコー(三本御香)」は「チジウコー」とも呼ばれています。(東太陽橋)(東太陽橋の標識)「南上原糸蒲公園」の北側に「東太陽橋(あがいてぃだばし)」が架かっています。「1日の計は朝にあり、朝日を拝み、1日の夢を抱く絶好の場所である」の意味を込めて「東太陽橋」と名付けられました。1日のパワーを貰える朝日と絶景が見られる人気のスポットです。「東太陽橋」からは中城湾、知念半島、久高島、津堅島、勝連半島、中城城跡が一望出来て、橋の親柱は中城城跡の門をモチーフとして造られています。毎年正月には初日の出を拝む人々が多数訪れます。(南上原のユクヤー)(南上原のユクヤーの案内板)「東太陽橋」から「中城ハンタ道」を北に向かうと「南上原ユクヤー」があります。この地点は古くから「ハンタ道」を通る人々の休息場所だったことから「ユクヤー」と呼ばれていました。明治後半から昭和10年代まで南上原を中心に周辺地域から若い男女が集まり「モーアシビー(毛遊び)」の場所としても利用されていました。ちなみに「モーアシビー」とは主に夕刻から深夜にかけて若い男女が野原や海辺に集って飲食を共にし、歌舞を中心として交流した集会をいいます。(北上原のユクヤー/奥間毛)(北上原のユクヤーの案内板)「南上原のユクヤー」から「ハンタ道」を北に365mの位置に「北上原のユクヤー」があります。「奥間集落」の上方にあり地元では「ウクマモー(奥間毛)」と呼ばれています。「奥間集落」から坂道を上ってきたり「ハンタ道」を通る人々の休息場所だったことから「ユクヤー」とも呼ばれていました。明治後半から昭和10年代まで北上原を中心に周辺集落から若い男女が集まりモーアシビー(毛遊び)の場所として利用されていました。(安里村壱里山)(安里村壱里山の案内板)「北上原のユクヤー(奥間毛)」から「ハンタ道」を北に295m向かうと「安里村壱里山」に辿り着きます。「壱里山」とは琉球王国時代に造られた道の目印です。首里城から一里(約4km)おきに設置され「中城村」ではこの場所に「壱里山」が設もうけられました。1646年の「正保三年琉球国絵図帳」に「安里壱里山」と記されています。ここでは明治から昭和の初期頃まで、北上原の東側に住んでいた人々が、毎年秋に集まって農事の成績を品評するハルヤマスーブ(原山勝負)や学事奨励会や宴会など地域の行事を行う場所として活用していました。(キシマコノ嶽の大岩)(キシマコノ嶽の案内板)(キシマコノ嶽の大岩根元のガマ)「安里村壱里山」の北側に標高161mの丘稜があり「ハンタ道」を300m進んだ丘の頂上に「キシマコノ嶽」と呼ばれる御嶽の森が広がっています。この御嶽周辺は中城村「奥間集落」の発祥地として知られており、戦前まで集落の豊作祈願や繁栄祈願が行われていました。この御嶽は「琉球国由来記(1713年)」には「キシマコノ嶽/神名:天次アマヅキノ御イベ」と記載されています。当時はノロ(神女)を中心に集落の人々がこの御嶽を拝んだとされています。現在でも「奥間集落」の人々に拝まれていますが、山奥で往来が不便な為に集落近くにウトゥーシ(遥拝所)を設け、そこから御嶽を拝んでいます。(監視哨内部/南側の入り口)(監視哨内部/北側の監視窓/銃眼)(監視哨内部/東側の監視窓)(監視哨内部/西側の監視窓/銃眼)「キシマコノ嶽」周辺は沖縄戦直前に旧日本軍の軍用陣地が構築され、御嶽の大岩上部は敵の飛行機を360度見張る監視哨として整備利用されました。北は北谷町から読谷村、南は浦添市から知念半島辺りまで一望できる高台に位置しており、当時の標高計測値が161.8mあった事から「161.8高地陣地」と呼ばれるようになりました。「キシマコノ嶽」の大岩の下にあるガマも旧日本軍の陣地として銃眼や外部へ通じるトンネルとして利用されました。戦争遺跡として二度といたましい戦争が起こることが無いよう、後世に平和の尊さを伝える場所として保存されています。−『琉球王国時代の中頭方東海道@中城村「中城ハンタ道」(中編)』に続く−
2021.10.22
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(諸見里拝所)沖縄県沖縄市の南西部に「諸見里集落」があり、集落は米軍嘉手納基地の施設からコザ運動公園を経て、北中城村島袋に隣接する南北に縦長に広がっています。現在、国道330号線から北中城村島袋までの地域は「久保田」という住所になっていますが、もともとは古より「諸見里集落」の土地でした。集落の中心部の「諸見里公民館」沿いに「諸見里拝所」が建立されており、集落の土地神である「諸見里」の5つの守護神が祀られています。(諸見里拝所の鳥居と石獅子)(諸見里拝所の社)左右2体の石獅子に守られる「諸見里拝所」の鳥居をくぐると琉球赤瓦屋根の拝所の社が建てられています。社の内部には向かって右より「森城(むいぐしく)ビジュル」「松下丘(まーしんちゃー)ビジュル」「竹園(たけーら)ビジュル」「巫女火神(ぬーるひぬかん)」「地頭火神(じとぅーひぬかん)」が合祀されています。5つの土地神(守護神)にはそれぞれウコール(香炉)が設置されており、一緒に霊石が祀られています。(拝所に祀られる5つの土地神)「諸見里拝所」に合祀されている3つの「ビジュル」と2つの「火神(ひぬかん)」の拝所は、もともと現在の「コザ運動公園」敷地周辺に点在していました。1973年に前年の沖縄県の日本本土復帰を記念して開催された「復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)」の開催を記念して「コザ運動公園」が建設され、それぞれの土地神(守護神)の拝所は現在「諸見里公民館」に隣接する場所に合祀されています。ちなみに「若夏国体」の大会スローガンは「強く、明るく、新しく」で、沖縄県の本土復帰を祝う特別大会でした。(タケーラビジュル/竹園ビジュル)「コザ運動公園」の南側に隣接する場所に「もろみゴルフレンジ」があります。この施設の入り口にある森の頂に「タケーラビジュル(竹園ビジュル)」があり、現在でも"コの字型"の古い祠が草木に埋もれながら残っています。かつてはノロ(神を司る女性)の関わる行事が殿毛であったそうで、その時に村の娘たちはこの「タケーラビジュル」で控えていました。また娘たちはノロや村の神へ奉納する踊りをこの拝所で練習していたと伝わります。この拝所は現在「諸見里拝所」に合祀されています。(めーぬかー)(祠内部/めーぬかー/前の井)(祠内部/なかぬかー/中の井)(祠内部/いりぬかー/西の井)「もろみゴルフレンジ」の南側に「めーぬかー(前の井)」の祠があります。この井戸は「ウブガー(産井)」とも呼ばれ、正月の若水や出産の時の水をこの井戸から汲んでいました。「めーぬかー」は飲み水の他にも洗濯や畑の用水としても利用され、戦後には個人経営の簡易水道や銭湯の水源地として重宝されました。現在は旧暦9月吉日の「ミジナディー(健康祈願)」の時に集落の住民により祈られています。かつて「上武川原」と呼ばれる場所にあった「なかぬかー」と「いりぬかー」は「コザ運動公園」整備のため「めーぬかー」の祠に移動し、合祀されてウコール(香炉)が設置されています。(メーヌハラガー)(祠内部)「諸見里集落」の南側に「メーヌハラガー」と呼ばれる井戸があり、祠内には鶴瓶式井戸の跡が残されています。1959(昭和34)年に水道が開通し普及するまで「メーヌハラガー」は周辺住民の飲み水であり、洗濯や畑の水としても利用されていました。かつては集落の住民が集まり、語らいの場として賑わっていました。現在は住宅地の中にひっそりと佇んでいますが、取り壊される事もなく「諸見里集落」の歴史を継承する大切な文化財として守られています。(ヤマガーガー/山川ガー)(フサトガー/冨里ガー)「諸見里拝所」の北西に「ヤマガーガー」と呼ばれる井戸があります。屋号「山川」の屋敷隣にあった事から「ヤマガーガー」のなで知られてきました。地元の古老の話によると、この井戸は飲み水の他にも洗濯や農業用水にも利用されていました。さらに「諸見里拝所」の北側には「フサトガー」の井戸があります。飲料水の他にも洗濯や畑の水にも使用され、井戸には周辺住民で賑わい語らいや出会いの場でもありました。古老によると、かつて「フサトガー」周辺には大きな松の木が数本あり、夕方になると雀の群れの寝ぐらになっていたそうです。(創元之宮)(創元之宮のウコール)「諸見里集落」の南東部に「創元之宮」があります。現在この場所の住所は沖縄市久保田2丁目ですが、もともと「諸見里集落」の土地でした。「創元之宮」は松門門中(ムンチュー)及び「字諸見里」の創始者の霊を祭神したものです。「創元之宮」のウコール(香炉)は7基あり、左より「久保田 東」「久保田 中」「久保田 西」「石迫 東」「石迫 西」「上武川」「前迫」の7つの霊が霊石と共に祀られています。ヒラウコー(沖縄線香)もお供えされており、普段より住民に大切に祈られているのです。(諸見里ノロの墓)「創元之宮」の敷地内に「諸見里村大殿内(諸見里ノロ)の墓」が建てられています。「諸見里ノロの墓」を長年の間管理してきた豊田律(沖縄市山内在住)様、及び諸見里御友会の協力により建立されました。「ノロ」とは琉球神道における女性の祭司、神官、巫の事で、地域の祭祀を取りしきり御嶽の祭祀を司りました。「ヌール」や「ヌル」とも呼ばれ琉球王国の祭政一致による宗教支配の手段として、古琉球由来の信仰を元に整備され王国各地に配置されました。(久保田2丁目の井戸)(ソージガー/竿字ガー)「創元之宮」の北側の久保田2丁目に「井戸」があります。住宅地を階段で降った先にあるこの井戸の名称は不明ですが、産まれた時にミジナディ(井戸の水て額を3回撫でる呪法)をしてもらった古老が現在も拝みに来る井戸である事から、この井戸は「諸見里集落」のウブガー(産井)であると考えられます。この「井戸」から更に北側には「ソージガー(竿字ガー)」と呼ばれる井戸があります。荷馬車が通る道の近くにあったこの井戸は馬が水を飲み休憩する場所として使用され、周辺の住民は飲料水、洗濯、畑の水としても利用していました。(真言宗金剛山遍照寺)かつて「諸見里集落」であった沖縄市久保田に「真言宗金剛山遍照寺(へんしょうじ)」が建立されています。「遍照寺」は東寺真言宗の寺院で本尊は大日如来、山号は金剛山、元寺号は万寿寺(まんじゅじ)です。景泰(けいたい)年間(1450年~1457年)に「鶴翁和尚」により創建されました。「遍照寺」は明治時代の神仏分離以前は、琉球八社の一つである末吉宮(那覇市首里末吉町)に隣接する別当寺でした。寺は沖縄戦で焼失してしましたが、戦後に現在地の久保田1丁目に移転し再建されました。(遍照寺事務所)那覇市末吉町にあった「遍照寺」は沖縄の組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)の作品「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」の舞台になった寺として知られています。鬼女と化す女から主人公の中城若松(なかぐすくわかまつ)を守るために「遍照寺」の住職が鬼女を退治する場面は有名です。現在、那覇市末吉町の「末吉公園」には「遍照寺」の跡である寺の土台と石垣のみ残されています。そんな由緒ある「遍照寺」は先代の「海舟師」により沖縄市久保田に再建されました。(諸見里拝所の石獅子)「諸見里集落」に伝わる沖縄市瀬帝文化財である「旗スガシー」は毎年旧暦の7月16日に行われます。安政年間(1854~1860年)に当時の越来間切諸見里村の地頭が製作したものと伝えられる「諸見里」の村旗を先頭に、地域住民が集落を練り歩き「地域繁栄、五穀豊穣、健康祈願」を願い、最後に自治会の広場でエイサーや獅子舞などが披露されます。戦前から引き継がれている「諸見里」の伝統行事です。「諸見里集落」は魅力ある文化財に溢れた土地として、住民は誇りを持って伝統行事を大切に守り継承しているのです。
2021.10.17
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(奥武ビズル/オーグワァービジュル)沖縄本島中部の沖縄市東海岸沿いに「比屋根(ひやごん)集落」があります。美しい中城湾に広がる泡瀬干潟を眺める丘稜に残る遺跡には御嶽の森があり、自然豊かな歴史の長い集落となっています。また「比屋根集落」の海沿いには「沖縄県総合運動公園」があり、沖縄のプロサッカーチーム「FC琉球」のホームスタジアム「タピック県総ひやごんスタジアム」が整備され、沖縄市民のみならず沖縄県民に愛される地域となっています。(ウフドゥン/大殿)(ウフドゥンの社内部)「比屋根集落」北部の比屋根公民館の北側に「オシアゲムイ」と呼ばれる御嶽の森があり、その頂上に「比屋根拝所ウフドゥン」の社があります。この森は「琉球国由来記(1713年)」に「アシアゲ森 神名 オソクヅカサノ御イベ」と記されています。社の内部には霊石とウコール(香炉)が祀られています。「比屋根集落」の住民は旧暦の6月ウマチー(収穫祭)や獅子舞の行事、更に毎月1日には「ウフドゥン」を訪れて拝んでいます。(上仲門門中神屋)(上仲門門中神屋のカー)「オシアゲムイ」の御嶽の森は「比屋根遺跡」と呼ばれ、遺跡の北東側に「上仲門門中神屋(カミヤー)」と「門中神屋の井戸(カー)」があります。「神屋(カミヤー)」とは神を祀る屋敷の事を意味します。さらに「門中(ムンチュー)」とは沖縄県における始祖を同じとする父系の血縁集団のことを言います。 「門中」は17世紀後半以降、士族の家譜編纂を機に沖縄本島中南部を中心に発達し、のちには本島北部や離島にも拡がりました。「門中」の結束は固く「門中」で共同の墓(亀甲墓や破風墓の門中墓)を持ち同一の墓に入りました。(根屋門中神屋)(比屋根遺跡のカー)「上仲門門中神屋」の西側に「根屋門中神屋」があります。「根屋(ニーヤ)」とは集落発祥に関わる家の事で、当主は「根人(ニッチュ)」と呼ばれます。さらに「比屋根遺跡」の南東側には「比屋根遺跡のカー」があり、井戸(カー)跡にはウコール(香炉)が祀られ、向かって左側に「井戸(カー)の祠」が隣接しています。この祠には2基のウコール(香炉)が設置されており、集落の住民が井戸の神に水への感謝を祈る拝所となっています。(伊礼門中神屋/シーシヤー)(伊礼門中神屋のカー)「根屋門中神屋」の西側に「伊礼門中神屋」があります。「伊礼(イリー)門中神屋(カミヤー)」の敷地内に「獅子屋(シーシヤー)」と呼ばれる建物があり、集落の伝統行事に奉納される獅子舞が納られています。「比屋根集落」の獅子舞は旧暦の7月17日に演じられ、現代では盆踊りの際にも祈願されています。「伊礼門中神屋のカー」は「獅子屋」の裏手にありウコール(香炉)が祀られ「オシアゲムイ」の御嶽の森から湧き出る水への感謝が住民により祈られています。(トゥングヮー/殿小)「トゥングヮー(殿小)」は「ウフドゥン(大殿)」の北西約70メートルの場所にある高台に位置し「比屋根集落」では俗に「ニバンドゥヌ(二番殿)」や「クガニドゥヌ(黄金殿)」とも呼ばれています。「トゥングヮー」の祠内には3体の霊石が祀られ、ウコール(香炉)にも小型の霊石が設置されています。「比屋根遺跡」の北側に位置する祠は北に向けて建てられており、集落の自治会や有志たちは旧暦の毎月1日に拝んでいます。(てぃんさぐぬ花の歌碑)沖縄市比屋根1丁目の「ケアハウスてぃんさぐぬ花」の敷地内に沖縄県民で知らない人はいない琉歌「てぃんさぐぬ花」の歌碑が建立されています。「てぃんさぐ」とはホウセンカ(鳳仙花)のことで、沖縄県では古くからホウセンカの汁を爪に塗って染めるとマジムン(悪霊)除けの効果があると信じられていました。歌は1番から10番まであり親や年長者の教えに従うことの重要性を説く教訓歌となっています。沖縄県民愛唱歌「うちなぁかなさうた」を制定する際に県民を対象にしたアンケートで「てぃんさぐぬ花」が圧倒的な支持を集め「てぃんさぐぬ花」を県民愛唱歌「うちなぁかなさうた」に指定することが2012年3月18日に発表されました。(てぃんさぐぬ花の歌碑)この歌は読み人知らずで、歌碑は琉歌特有の表記が施されています。詠みや謡うなど音声を発する場合は「てぃんさぐぬはなや ちみさちにすみてぃ うやぬゆしぐとぅや ちむにすみり」となります。2003年(平成15年)に開業した沖縄都市モノレール線(ゆいレール)では車内アナウンスで「県庁前駅」への到着を知らせるメロディに「てぃんさぐぬ花」が使用されています。「てぃんさぐぬ花や 爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ 親(うや)ぬ寄(ゆ)し事(ぐとぅ)や 肝(ちむ)に染みり」(ホウセンカの花は 爪先に染めて 親の教訓は 心に染みなさい)(比屋根東ガー/アガリガー)(比屋根東ガーの拝所)「比屋根遺跡」の南東側に「マースヤームイ」と呼ばれる塩の製造に関わっていた森があり、森の北側裾野に「比屋根東(アガリ)ガー」位置していました。しかし、現在は土地の区画整理により50メートル北側に移設されています。「比屋根集落」の人々は子どもが生まれた時の産水(ウブミジ)や元旦の若水の時に水を汲んでいました。この井戸は俗に「ウブガー(産井)」や「カミガー(神井)」とも呼ばれており、現在も水の恵みを感謝する拝所として住民に祈られています。(奥武ビズル/オーグヮービジュル)(奥武ビズルの拝所)「比屋根集落」の南東部に「沖縄県総合運動公園」があります。1983年に米軍基地「泡瀬通信施設」の米空軍レーダー施設「泡瀬通信補助施設基地」の広大な土地が返還されました。そこに1987年に開催された「海邦国体」開催を目的に総合運動公園が整備されました。泡瀬干潟に突き出る「奥武岬」に隣接する森に「奥武ビズル」があります。この拝所は「オーグヮービジュル」とも呼ばれており「オーグヮー屋取」の村びとが旧暦の9月9日に拝んでいます。祠の内部には3体のビジュル霊石が祀られ、ウコール(香炉)にはウチカビが供えられていました。「ウチカビ」とは「打ち紙」と書き「紙銭」とも呼ばれ、ご先祖様があの世で使うお金を意味します。(井戸之神の石碑)(井戸之神の祠)(奥武ビズルのガジュマル)「奥武ビズル」の境内に2字の「井戸之神」の祠が合祀されています。この土地が米軍基地に占領されていた時代に井戸が消滅したと考えられ、返還後にかつて「比屋根集落」のこの地で住民に大切にされていた2つの井戸を合祀して、水への感謝を込めて「井戸之神」を2字の祠に祀っていると推測されます。「奥武ビズル」は総合運動公園の「ゆい池」に隣接する深い森の中にあり、森の小道からは目視出来ない場所にひっそりと佇んでいます。「奥武ビズル」は高樹齢のガジュマル群に囲まれて、今日も「比屋根集落」の守り神として「奥武岬」に向けて建てられているのです。
2021.10.12
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(琉歌の里恩納の石碑/万座毛第二駐車場)沖縄本島北部西海岸にある「恩納村」に生まれた女流歌人「恩納ナビー」は18世紀初め頃、琉歌歌人として活躍した女性です。「恩納ナビー」が生きていた時代は琉球文化の黄金時代と呼ばれ文学、音楽、舞踊と一流の文化人が輩出すると同時に、庶民の間にも琉歌という歌が流行っていました。「恩納村」の美しい自然の中「恩納ナビー」は自由奔放かつ大胆な歌を数多く残したのです。(恩納ナビーの歌碑)「恩納ナビー(恩納なべ)」が生まれたのは1660年頃だと推測され、自然の美しさに恵まれ神々、木、森の精たちと語らいながら成長したと伝えられています。万座毛第二駐車場に「恩納ナビーの歌碑」があります。「恩納岳あがた 里が生まり島 森もおしのけて こがさなたな」(恩納岳の彼方には 我が愛する人の故郷がある その山をも押しのけて 引き寄せたい)(恩納奈邊記念碑/表面/万座毛周辺活性化施設)(恩納奈邊記念碑/裏面/万座毛周辺活性化施設)「恩納ナビー」が万座毛に残した輝かしい琉歌の世界に沖縄の文化史を誇りとし「奈邊(ナビー)」の歌碑を御即位記念として、万座毛入り口に昭和3年11月10日に石碑が建立されました。現在は万座毛周辺活性化施設の新設に伴い施設内に移設されました。「恩納村」の人々は沖縄の三大女流歌人と言われる「恩納ナビー」の歌を愛し「恩納村」の誇りとして、後世に伝えるために「恩納奈邊記念碑」が建立されたのです。(恩納ナビーの歌碑/万座毛周辺活性化施設)(万座毛/沖縄県指定天然記念物)2020年10月にオープンした「万座毛周辺活性化施設」に「恩納ナビーの歌碑」があります。この歌碑は昭和3年の建立後に50周年を祈念して、昭和54年に新しく建立されました。1726(享保11)年に琉球王府「尚敬王」自身を先頭に、具志頭親方蔡温をはじめ各重臣臣下をのこりなく(約200人)率いて北山巡行のおり、恩納「ムラ」の景勝地万座毛に立ち寄った際に「恩納ナビー」が詠んだ歌です。「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま」(波も風も穏やかになってほしい はるばる国王が万座毛に立ち寄られるのだから その顔は拝みたいものだ)(恩納ナビー生誕屋敷跡)(カンジャガー)「恩納集落」の西側にマッコウ屋(屋号)と言われる「恩納ナビー生誕屋敷跡」があります。「恩納ナビー」は兄1人に女1人として生まれました。屋敷は現在空き地になっていますが「恩納ナビー生誕の地」の石碑が建立されています。屋敷の東側に「恩納村」の指定文化財に登録される「カンジャガー」と呼ばれるウブガー(産井)の拝所があり、昔近くに鍛冶屋があったことが名前の由来となっています。産湯水や新生児の健康祈願(ミジナディ)の為に額につける水を汲む井戸で、正月1日に村人が井泉に感謝を込めて初御願に拝します。(神アサギ)(根神火神)「恩納集落」中央の恩納公民館の敷地内に「神アサギ」があります。この「神アサギ」は昔から現在地にあり、ノロ(祝女)により集落の神事を司る重要な建物です。昔から茅葺屋根は数年おきに集落の住民総出で葺き替え続けられています。また、公民館の敷地内東側に「根神火神」の拝所が祀られています。祠内には霊石が設置されており、集落の住民の健康祈願、地域の平和、安泰を願う「火の神」として崇められています。(恩納番所跡の拝所)(拝所内部/向かって右側)(拝所内部/向かって左側)「恩納集落」の北側に「恩納番所跡」があり敷地内には拝所が建立されています。番所とは間切の役場の事を言います。恩納間切は1673年(尚貞5年)に読谷村山間切から八村、金武間切から四村分割して創立され、この地に番所が置かれました。1853(嘉永6)年にはベリー一行も訪れ「恩納村」の美しさについて書き記しています。「恩納番所跡」は1882(明治15)年の恩納村における教育発祥の地でもあります。現在は拝所が設けられ火の神にウコール(香炉)と霊石が祀られています。(恩納松下の歌碑/表面)(恩納松下の歌碑/裏面)その昔「恩納番所」の近くに松の大樹があり、その下には村人への伝言用立て札が立てられていました。尚敬王時代(1713〜1751年)の冊封副使徐葆光(じょほうこう)一行が北部の名称巡りの途中「恩納番所」で一晩宿を取ることになりました。当時地方の農村では若い男女の「毛遊び(もーあしびー)」や「しぬぐ」など盛んに行われており、そのような風紀の乱れを冊封使一行に見せたくないという役人らしい発想から、風俗取り締まりの立て札が立てられたのです。(恩納松下の歌碑)その立て札を見た「恩納ナビー」はいささか皮肉を込めて次の歌を詠みました。「恩納松下に 禁止の碑の立ちゅし 恋しのぶまでの 禁止やないさめ」(恩納番所前の松の下に 禁止の立札があるが 恋をすることまで 禁止しているのではあるまい)番所前の松の木は、戦後まで豊かな枝振りで緑陰をつくっていましたが、1955(昭和30)年に松食い虫の被害により枯れてしまい切り株のみ残されています。現在の松の木は2代目の松の木で「恩納松下の歌碑」の脇に植えられています。(恩納ナビ伝/上間繁市著)上間繁市著の「恩納ナビ伝」によると「恩納ナビー」の没年は不明ですが「恩納ナビー生誕屋敷(マッコウ屋)」の隣の島袋屋(しまぶくや)の娘であった「伊波マツ」さん老女の話では「ナビ女の晩年は一人暮らしで、老いた身でおりおり海漁りをしていた」という言い伝えを幼少の頃に聞いていたそうです。「恩納ナビー」はかなりの歳まで生き永らえていたと推察されます。(デース/墓地帯)(恩納ナビーの墓)「恩納ナビー」を埋葬している墓は「恩納集落」の俗称「デース」と呼ばれる墓地帯で、海を前にした小高い雑木林の中にあります。1660年代の古い墓で集落で言う「模合墓」で、幾人かで組合を作り均一の金銭と労力を出し合い建造する墓を意味します。その組合員の親族のみを埋葬した「模合墓」に「恩納ナビー」が埋葬されています。上間繁市著の「恩納ナビ伝」には、この掘り込み式の墓と内部の骨壷の写真も掲載されており、現在はウコール(香炉)、湯呑み、花瓶が設置されており集落の住民により祈られています。(厳谷小波句碑/恩納ナビーの歌碑)(恩納ナビーの歌碑)「恩納ナビー」は田舎乙女として水呑み百姓の貧しい家庭に育ち、当時の封建社会の厳しい時代で庶民の自由を熱望する気持ちを人一倍持っていました。「恩納ナビー」は琉球王府の布令規則などに真正面から反抗することなく、平易な言葉で自分の気持ちを正直に表現しています。「恩納ナビー」には万葉の秀歌にも劣らない歌が18首あるとされており、その中には琉球古典音楽や舞踊で今日、なお厳然として受け継がれ生き続けているのは確かな事実なのです。
2021.10.05
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(石川龍宮神/石川赤崎)「うるま市石川(旧石川市)」は沖縄本島中部の東海岸にあります。「うるま市石川」の太平洋と「恩納村仲泊」の東シナ海を結ぶ直線距離がわずか4キロであるため、そのくびれは沖縄本島の「みほそ(へそ)」と呼ばれ「うるま市石川」は"みほそのまち"の愛称で親しまれています。石川岳の麓に広がる美しい金武湾を望む石川漁港周辺には5つの龍宮神が祀られており、古より石川の漁業の発展と航海の安全を見守り支えてきました。(石川龍宮神/石川曙)(石川龍宮神の拝所)(龍宮神の石柱)「うるま市石川」の太平洋側に位置する「石川ビーチ」と「石川龍宮ビーチ」間にある大岩の上に、1つ目に紹介する「石川龍宮神」が建立されています。拝所は北側の金武町方面に向けられており、金武湾の航海と漁業の安全を祈願しています。祠のウコール(香炉)には神に祈る際に使用するシルカビ(白紙)、ヒラウコー(沖縄線香)、粗塩が供えられています。これは燃やさずに供える「ヒジュルウコー(冷たい線香)」と呼ばれる御供です。このお供えは海が満潮に向かう時刻のみに行われる神聖な祈りとなっています。(龍宮神に供えられたウミガメと粗塩)(石川龍宮神の大岩麓にある拝所)「石川龍宮神」の拝所には大小2体のウミガメと粗塩が「龍宮神」に捧げられていました。非常に衝撃的ですが「うるま市石川」の伝統的な「龍宮神」への祈りが継承されている証拠でもあります。「石川龍宮神」の大岩西側の麓には、こじんまりとした拝所が設けられ霊石とウコール(香炉)が祀られています。「龍宮神」が建立される大岩そのものを祀る拝所だと考えられ、規模は小さいながらも大きな意味がある聖域として祈られています。(石川ビーチの鍾乳洞窟)(洞窟内の拝所)「石川龍宮神」の北側に「石川ビーチ」があり、ビーチに隣接して鍾乳洞窟があります。ソテツ(蘇鉄)や亜熱帯植物に覆われた洞窟の内部は浜の砂と岩石で覆われています。入り口は2箇所あり比較的広い空間になっています。床の浜の砂には大量のカニの巣穴があり、冷たく張り詰めた空気に包まれています。ツララのように垂れるゴツゴツした天井の洞窟の奥には霊石が祀られた拝所があります。この洞窟は沖縄戦の時に住民が避難して多数の命が助かったガマであり、現在は「うるま市石川」のノロ(祝女)により祈られています。(ウミチルの墓)「石川龍宮神」の南西側に隣接する場所に「ウミチルの墓」があり、彼女は俗称「チルーウンミー」と呼ばれています。「ウミチル」は石川の集落に初めて機織り、染め物、ウスデークー(女性のみで行われる円陣舞踊)を指導した方と伝わります。戦前からこの地にあった「ウミチルの墓」は1973年の大型台風で流された為、仮安置していましたが2008年に改修されました。現在も「うるま市石川」に伝統文化と芸能を伝えた人物として「ウミチルの墓」は住民により大切に祈られています。(グジヨウ神/ビズル火の神)「ウミチルの墓」の正面に鍾乳洞に「ビズル火の神」の霊石とウコール(香炉)があり「シルカビ」に「ヒラウコー」がお供えされています。「ビズル(ビジュル)」とは主に沖縄本島でみられる霊石信仰で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされます。仏教の16羅漢(お釈迦様の16人の弟子)の1人である「賓頭盧(びんずる)」がなまった言い方で、自然石が「ティラ」と呼ばれる洞穴などで祀られています。その左側には「グジヨウ神」と呼ばれる神が祀られた石碑とウコール(香炉)が隣接しています。この拝所は現在も「うるま市石川」のノロ(祝女)により祈られる聖域となっているのです。(天願マグジーの名が刻まれた石碑)「天願マグジー」には伝説が残されています。昔、具志川間切に「天願タロジー」という武士と妻の「天願マグジー」が住んでいました。ある日「天願タロジー」は以前より対立していた金武間切の「金武奥間」という武士に刺し殺されたのです。拉致された「天願マグジー」は「金武奥間」を油断させて「あらぶち(現うるま市石川東恩納)」に差し掛かると小刀で「金武奥間」を刺し殺したのです。「天願マグジー」はその後「あらぶち」の洞窟で暮らしたと言われていますが、他の伝説では「伊波按司」の愛人になったとの伝承もあります。この石碑には「伊波按司」と「天願マグジー」の名が一緒に刻まれており、大変興味深い文化財となっています。(石川龍宮神/石川曙)(龍宮神岩山の拝所)(龍宮神岩山の拝所)(龍宮神岩山の拝所)「石川龍宮ビーチ」の南東側に拝所の岩山があり海側の断崖上に、2つ目に紹介する「石川龍宮神」が建立されています。この「石川龍宮神」の石碑は西側に広がる金武湾と更に奥に続く太平洋に向けられています。非常に古い石碑で長年の間、潮風や台風に耐えながら航海と漁業の安全を祈願し祀られています。この「石川龍宮神」がある岩山は他にも3つの祠が建てられており、昔から御嶽岩山の聖域として崇められてきたと考えられます。(大宗富着大屋子の石碑)(大宗富着大屋子の墓)(石川龍宮神/字石川)龍宮神の岩山から更に南東に進むと崖麓に「大宗富着大屋子の石碑」と「大宗富着大屋子の墓」があります。「大宗富着大屋子」は琉球王府から任命されて恩納村から石川村に赴任し街並みを碁盤目状にする区画整備を行い、石川川の補修工事を行い集落に安全をもたらした人物です。現在は「大宗富着大屋子」の出身地である恩納村前兼久の方々が祈る場所として崇められています。ここから更に参拝道を南東に進み突き当たった岩森の麓に、3つ目に紹介する「石川龍宮神」が祀られ石碑は石川漁港向けに建立されています。(石川龍宮神/うるま市石川赤崎)(龍宮神の石碑)(屋根上に構える龍の石像)4つ目に紹介する「石川龍宮神」は石川漁港の北東にあり、亜熱帯植物が生い茂る森の中にひっそりと佇んでいます。鳥居を抜けて進むと拝所の社があり、社の内部と左右両脇には霊石とウコール(香炉)が祀られヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。敷地内には1968年に建立された「石川龍宮神」の石碑が祀られており「龍宮」の文字の下に「神人 知念カマ 神子 平良カメ 神子 平良善春」と3人の名前が刻まれています。「石川龍宮神」の屋根上には左右2体の龍の石像が据えられています。(石川龍宮神/うるま市石川赤崎)(龍宮神の石碑)5つ目に紹介する「石川龍宮神」は4つ目に紹介した「石川龍宮神」の社に隣接しています。この場所は元々は金武港の海に面していましたが「石川火力発電所」と「石川石炭火力発電所」の建設により海が埋め立てられ「石川龍宮神」が海から約300m離れてしまいました。そのため4つ目に紹介した「石川龍宮神」の横に新たな「石川龍宮神」の塔を立て、海が望める塔の頂きに「龍宮神」の石碑を建立したのです。塔の麓にはウコール(香炉)が祀られ多くの人々に参拝されています。昔から海と共に生き海の恵みに感謝してきた「うるま市石川」の民は、これからも変わらず守護神の「龍宮神」を崇め祈り、大切な伝統文化を後世に継承して生きて行くのです。
2021.09.27
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(三重グスク/大河ドラマ「琉球の風」ロケ地)「高志保集落」は沖縄本島読谷村の北西部に位置し、西海岸から内陸部に細長く広がる集落となっています。通称「タカシップ」と呼ばれる「高志保集落」は読谷村でも古い集落の1つで「琉球国高究張(1640年代)」に「たか志ふ村」と記載されています。海岸に位置する7〜8世紀頃の遺跡である「連道原貝塚」からは、唐の貨幣である「開元通宝」が出土されている歴史の長い集落です。(高志保集落の中道/南の入り口)(ハタクンジマーチ2世)「高志保集落」の中心に「中道(ナカミチ)」という主要道路が通じています。南の入り口は読谷小学校裏の読谷郵便局前となっており「中道」は「高志保公民館」に続いていきます。公民館に隣接する「護永之塔」の広場には「ハタクンジマーチ2世」と呼ばれる琉球松(マーチ)があり、集落の旗頭「高翔」が掲げられます。「高志保集落」の伝統と心意気の素晴らしさや、住民が志を高く保ち空高く翔る昇龍の如く天に向かう限りない「高志保」の発展への強い思いが込められています。(前之泉/メーヌカー)(前之泉の社内部)公民館脇に「高志保児童公園」があり敷地内に「前之泉」の社があります。「メーヌカー」とも呼ばれ埋め立て前は降泉(ウリカー)となっていました。「高志保集落」の生活を支えた水の恵みに感謝して現在も多くの参拝者が来訪します。かつて周辺には飲料水の「東之泉(アガリヌカー)」産水の「中之泉(ナカヌカー)」洗濯用の「西之泉(イリヌカー)」があり、社の内部には「前之泉」の井戸と共に3つの泉を祀った霊石と"奉納"と記されたウコール(香炉)が設置されています。(女の神/ミンの神)(根人玉城家の拝所/ニッチュタマグシク家の拝所)「前之泉」の北側に「女(ミン)の神」が祀られており「ミンヌオー」とも呼ばれています。詳細は不明のままですが集落の発祥に関わる根神(ニガン)と関連していると伝わります。「女(ミン)の神」の北東に「根人玉城(ニッチュタマグシク)家の拝所」があり「高志保集落」で最も古い家とされる「玉城家」の屋敷跡です。祠内には2基のウコール(香炉)と数個の霊石が祀られており、現在は集落により管理され住民により拝まれています。(西南風佐事家の拝所/イリヘンサジ家の拝所)(東南風佐事家前の火の神/アガリヘンサジ前のヒヌカン)「女(ミン)の神」の北側に「西南風佐事(アガリヘンサジ)家の拝所」があり「高志保」の元処(ムートゥドゥクル)とされる家です。「高志保」の発祥に関わる先祖が祀られており、旧暦7月16日の「旗スガシー」と呼ばれる五穀豊穣と無病息災を祈願する伝統行事は、この拝所に祈りを捧げてから開始されます。また、南東側にある「東南風佐事(アガリヘンサジ)家前の火の神(ヒヌカン)」には霊石とウコール(香炉)が祀られ、集落の守り神として住民に大切に祈られています。(高志保の御嶽/ウタキ)(神アサギの広場)「高志保集落」の北側に「御嶽(ウタキ)」があり、戦前は瓦葺の御神屋(ウカミヤ)がありました。この地は「高志保」の人々が最も頼りとする神聖な場所であり最上位の拝所となっています。「御嶽」東側の広場は「神アサギ」跡となっており、首里王府編纂による「琉球国由来記」(1713年)には「高志保之殿」と記されています。戦前は「神アサギ」の広場がムラアシビ(豊年感謝祭)のスーダチ(打合せ/所作合わせ)の場となっていました。(鎮守神/大明神)(不動尊)(前寺神/後寺神)「不動尊」は元々「高志保集落」の3箇所にあり「カンカー祈願」の際にフーチゲーシ(流行病の厄払い)の祈願をしていました。戦後「護永之塔」の敷地に3つの「不動尊」の祠が安置された後、1968(昭和43)年に「御嶽」の社に移設されたのです。かつてこの地には「乃木神社」が建立されていた歴史があり、現在「御嶽」の社には東側から「鎮守神」「大明神」「不動尊」「不動尊」「不動尊」「前寺神」「後寺神」の7つの神々が祀られており、集落の住民により大切に崇められています。(高志保集落の中道/北の入り口)(龕屋/ガンヤー跡石碑)かつては綱引きも行われて賑わった集落の大通りである「高志保集落の中道」の北の入り口は県道6号線の読谷クリーニング店の位置にあります。北の入り口から西側に「龕屋(ガンヤー)跡石碑」が建立されています。火葬が普及する前は葬儀を終えた遺体は棺に収め、龕(ガン)と呼ばれる御輿に載せて墓に運びました。この地には龕を収める龕屋があり、役目を終えたその跡地には石碑が造られ歴史的価値を偲ぶ場となっています。(さとうきび畑の歌碑)(さとうきび畑の歌が流れるボタン)「高志保集落」西側に広がる農地に「さとうきび畑の歌碑」が建立されています。作曲家の寺島尚彦氏が作詞作曲し、森山良子さんにより歌われた有名な曲です。寺島尚彦氏が初めて沖縄を訪れ、沖縄戦の激戦地であった「摩文仁(まぶに)」のさとうきび畑を訪れた体験を元に作られた名曲です。読谷村は米軍が最初に沖縄に上陸した地として、この歌碑は読谷村に寄贈されたのです。緑色のボタンを押すと寺島尚彦氏の娘でソプラノ歌手の寺島夕紗子さんによる「さとうきび畑」の歌が流れます。(歌碑周辺に広がるさとうきび畑)「さとうきび畑の歌碑」の周辺一帯は広大なさとうきび畑が広がっています。西海岸からの海風が「ざわわ ざわわ ざわわ」と通り抜けます。「さとうきび畑の歌碑」には「ざわわ憲章」が表明されています。♪ 歌碑は、いくさのない世界を目指すために活用します。♪ 歌碑は、こどもたちの平和な心を育みために活用します。♪ 歌碑は、戦没者の無念の思いを後世に伝えるために活用します。♪ 歌碑は、沖縄に点在する平和学習の場のひとつとして活用します。♪ 歌碑は、さとうきび畑の自然景観を守るために活用します。♪ 歌碑は、作者が詩と曲に込めた平和の精神を歌い継ぐために活用します。(三重グスク/復元)(三重グスクの海中堤防)「高志保集落」の最西端の浜に「三重グスク(ミーグスク)」が復元されています。かつて琉球王国時代に現在の那覇港の北側に「三重グスク」があり、砲台を構えた城塞として造られましたが、時代の移り変わりにより那覇港を出港する船の見送り台として役割を変えました。NHK大河ドラマ「琉球の風」(1993年放送)のロケ地として「高志保」の浜に再現されました。また、角川文庫の小説「テンペスト」(2008年発行)でも「三重グスク」がストーリー展開の上で重要な役割を持っています。(三重グスクの主郭)(三重グスク/主郭内部)更に「三重グスク」の主郭は、沖縄出身の女性ダンスボーカルグループ「MAX」の曲「ニライカナイ」(2005年発売)のPVロケ地としても知られています。琉球王国の歴史に欠かせない「三重グスク」が読谷村「高志保」に見事な形で復元され、琉球の歴史を語る上で非常に貴重な有形文化財となっています。「三重グスク」に吹き抜ける西海岸からの"琉球の風"を感じながら、古き良き琉球王国の時代にタイムスリップできる最高のパワースポットとなっているのです。
2021.09.23
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(浜崎の寺)「南風原(はえばる)集落」は沖縄本島うるま市の勝連半島にあり、世界遺産の「勝連城跡」が築かれた丘稜の麓に広がる集落です。「南風原集落」は「勝連城」南側傾斜地の元島原に発祥したと伝えられます。元々は「勝連」の名で呼ばれていましたが「阿麻和利」の時代に「南風原」と改称されました。集落は1726年に前浜三良(カッチンバーマー)により現在の肥沃な地に移動し、現在でも村造りの大恩人として住民に崇められています。(クトジ御嶽)(クトジ御嶽のガジュマル)「勝連城跡」西側にある「勝連南風原浜」の海岸沿いに「クトジ御嶽」があり「琉球国由来記」に勝連間切の拝所として「コト瀬嶽神名:マネヅカノ御イベ」と記されています。「クトジ御嶽」は旅果報や航海の安全を願う拝所として祈られています。昔話では、中国から来た女性がこの御嶽の洞窟で子供を出産したと伝えられています。また、中国から品物を運んできた時には、まずこの御嶽に集めてから「勝連城」に運んだと伝わります。(南風原の村獅子/北の村獅子)(イリーガー)「南風原集落」の北側に珊瑚石灰岩で造られた「南風原の村獅子」があります。「北の村獅子」とも呼ばれる獅子像は「フーチゲーシ(邪気払い)」として「南風原集落」が「勝連城」南側の元島原より移動した1726年、集落の境界として東西南北の4角に石獅子が設置されたと伝わります。「南風原の村獅子」の西側に「イリーガー」があり、かつて集落の北側の住民の生活用水に利用されました。現在も水が湧き出る井戸で、ウコール(香炉)が祀られて集落の人々に拝まれています。(地頭代火の神/村屋跡)(地頭代火の神の祠)「南風原集落」の中心部に南風原公民館があり正面に「地頭代火の神」の鳥居が構えています。この地はかつて集落の「村屋(ムラヤー)」で現在の役所にあたる集落行政の中心地でした。地頭代とは琉球王朝時代(1429~1879年)に各間切(現在の市町村)の地頭(領主)の代官として地方行政を担当した人のことで、地頭代の屋敷に建てられた拝所を「地頭代火の神」と言います。祠内には集落の神を祀った石柱とウコール(香炉)が祀られています。(マンナカガー)「地頭代火の神」の東北側に「マンナカガー」があり、その名の通り集落の中心部にある井戸です。「南風原集落」が「勝連城」丘稜の元島原より移動した1726年頃に造築された井戸で、集落の住民に水の恵みを与えました。規模が大きな井戸である為、住民の飲料水の他にも野菜や衣類を洗う井戸としても重宝されました。現在の井戸には手押しポンプが設置されており現役で稼働しています。更にウコール(香炉)が祀られ、集落の老若男女の祈りの場として崇められています。(親田家の屋敷)(親田家刻紋石柱)(親田家石垣の石敢當)南風原公民館の東側に「親田家の屋敷」があり、立派な赤柄屋根の古民家の敷地内に「親田家刻紋石柱」が建てられています。石灰岩製の石柱で由来や意味は解明されていませんが、梵字や漢字の他にも絵文字が刻まれています。梵字とは古代インドのサンスクリット語が起源とされ、仏様を真言で表現した文字です。更に屋敷の石垣には魔除けの役割を持つ「石敢當」がはめ込まれており、周りにはアーチ型に石垣が隙間なく組まれています。(アガリガー)(アシビナーのカー)「親田家の屋敷」の東側に「アガリガー」と呼ばれる井戸があります。この井戸は「マンナカガー」と造り、規模、用途が同様で、集落が移動した同じ時期に建造されたと伝わります。更に北側に位置する「南風原公園」の脇にある「アシビナーのカー」は規模は小さめですが「南風原集落」の4つのムラガー(共同井戸)と同じ時期に造られたものです。現在の「南風原公園」はかつて「遊び庭(アシビナー)」として唄三線を楽しむ場所であり、村芝居や祭りをする場所で賑わいました。(南風原ノロ殿内)(ノロ殿内の内部/向かって右側)「アガリガー」から道を一本挟んだ北東側に「南風原ノロ殿内」があります。「ノロ殿内」は「ヌルドゥンチ」とも呼ばれ、琉球神道における女性の祭司である「ノロ」がここに住んで担当する集落の祈願儀礼を行いました。「ノロ殿内」には仏壇が設けられており向かって右から「ウミキウミナイ神」「祝女神」「若祝女神」の3基のヒヌカン(火の神)にウコール、徳利、湯呑み、盃、チャーギが生けられた花瓶が供えられています。(ノロ殿内の内部/向かって左側)(ノロ殿内裏の拝所)「ノロ殿内」の内部には更に獅子舞の獅子が納められています。「南風原集落」の獅子舞はムンヌキ(魔除け)として「勝連城」の丘稜から移動してきた1726年から現在も舞われいる伝統芸能です。更に獅子の左側には霊石と3基のウコール(香炉)が祀られています。「ノロ殿内」の敷地裏には石造りの祠があり数個の霊石と貝殻に加えて1基のウコールが祀られている拝所となっています。祠には「昭和八年度」と彫られており、沖縄戦を乗り越えた歴史の長い拝所である事が分かります。(報恩社)(報恩社の内部)「南風原ノロ殿内」の北西側に「報恩社」が建てられており「南風原集落」を「勝連城」南側傾斜地の元島原から移動する際に貢献した大恩人「前浜三良(カッチンバーマー)」を称えるための社となっています。勝連間切平安名に生まれた「前浜三良」は浜掟(ハマウッチ)という役職にあった事から「勝連(カッチン)バーマー」と呼ばれていました。更に彼は「南風原集落」に養魚場を設けて養殖の先駆者として伝えられる人物としても琉球中にその名を轟かせたのです。「報恩社」は毎年、旧正月の元旦に住民により初御願が行われます。(浜崎の寺)(浜崎の寺/向かって右側)(浜崎の寺/向かって左側)「南風原集落」の南西側に「浜崎の寺」と呼ばれる集落住民の健康と子宝を祈願する拝所があります。琉球八社の1つである普天間宮に祀られる「普天間権現」との繋がりがあり「お通し」の役割を持っている由緒ある拝所です。祠には2つの入り口がありビジュル霊石とウコールが祀られ、向かって右側は「女シー(イナグシー)」左側は「男シー(イキガシー)」と呼ばれ「南風原ノロ殿内」とも繋がっています。拝む際には右側の「女シー」を先に拝むしきたりがあると言われています。(南風原集落のマンホール)「南風原集落」のマンホールはエイサーのデザインで、旧勝連町(現うるま市)のマンホールが継続的に使用されています。「勝連南風原エイサー」は勝連地区では他と一味違ったエイサーで、パーランクー打ちは紫の頭巾、黄色の帯、緑のウッチャキ(羽織)を身にまとい「エイヤーリー エイヤーサーサー」の掛け声で踊り、女性の踊り手は浴衣を着てエイサー曲に合わせて華麗に踊ります。全体的にゆっくりとしたテンポが多いのが特徴で、優雅さを基本としているのです。
2021.09.19
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(平敷屋製糖工場跡の煙突)「平敷屋集落」は沖縄本島うるま市勝連半島の東端に位置し、海抜約50m〜80mの丘陵地点にあります。「尚貞王」代の1676(延宝4)年に勝連間切から与那城間切が分離して「平敷屋集落」に勝連間切の番所が置かれました。それ以来、1910(明治43)年に勝連平安名に移転するまで「平敷屋集落」は間切行政の中心地として繁栄していました。かつて「村の高さや平敷屋村」と謳われたように、勝連半島の先端で栄えた高台の古集落でした。(嘉手納嶽/シリー御嶽)(嘉手納嶽/シリー御嶽)「平敷屋集落」の中央にある小高い森に「嘉手納嶽」があり「シリー御嶽」とも呼ばれています。南西側に向けて建てられた祠内には幾つもの霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られており「火の神」として集落の守り神として拝まれています。「火の神」に隣接してブロック積みに囲まれた拝所があります。この拝所は勝連半島の先端がある南東側に向けて建てられおり、小さな古墓の様な造りの入り口には霊石とウコールが祀られています。(勝連間切番所跡)「嘉手納嶽(シリー御嶽)」の東側に「勝連間切番所跡」の空き地が広がっています。日本本土とは異なり琉球王国において「番所」とは、近世期に地方機関である間切を統治する役所の事を指しました。地頭代(領主の代官)以下の間切役人が交代で番所に勤務し、王府及び地頭への貢租上納、夫遣い、地方行政全般に渡って執り行い首里との人馬網の拠点としても用いられていました。「勝連間切番所」の特徴は集落の中心部に番所と御嶽があり、番所沿いには主要道路の宿道が設けられていました。(ヒッチャマー/平敷屋神屋)(ヒッチャマーの内部)「嘉手納嶽(シリー御嶽)」に隣接して「ヒッチャマー」があり「平敷屋神屋」とも呼ばれ「平敷屋集落」の氏神(神道の神)で、かつての村屋(村番所)跡に建立しています。平敷屋エイサー 、ウスデーグ(豊稔祈願の女性によるの祭祀舞踊)、集落の行事は「ヒッチャマー」に祈願してから始められています。また、戦前は毎年旧暦6月14日と24日に「タコ綱引き」と呼ばれるタコの足のように縄が分かれている綱引きがここで行われていました。(ノロ殿内)(とうの御嶽)「ヒッチャマー」の裏手にはかつて「平敷屋集落」のノロ(祝女)が住んでいた「ノロ殿内」があります。現在は「野呂内」という表札がある琉球赤瓦屋根の屋敷となっています。さらに「ヒッチャマー」から東側に「とうの御嶽」と呼ばれる森があり拝所が建立されています。この御嶽は「平敷屋集落」の誕生事を助ける神様で、子孫繁栄を祈願するウガンジュ(拝所)となっています。祠内には3体の霊石とウコール(香炉)が祀られています。(平敷屋タキノーの入り口)(平敷屋タキノー)「ヒッチャマー」から南東の場所に「平敷屋公園」があり、その敷地に標高70m余りの「平敷屋タキノー」と呼ばれる丘稜があります。1727年に脇地頭としてこの地に配属された和文学者であった「平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)」は水不足に苦しむ農民の為に溜池を掘削し、この時に掘り出した土を盛り上げて築いたのが「平敷屋タキノー」です。勝連半島を取り巻く太平洋を眺望できる景勝地にあり、集落史の研究の上からも重要な史跡でうるま市の指定文化財に登録されています。(平敷屋タキノーの溜池)「平敷屋朝敏」は1700年に首里金城町に生まれました。1734年に王府の高官だった友寄安乗らと共に、当時首里王府において実権を握っていた蔡温を批判した文を薩摩藩の琉球在番奉行の川西平佐衛門の宿舎に投げ入れるなどして捕らえられ、34歳の若さで那覇の安謝(あじゃ)港において「八付」の死刑に処されました。「平敷屋朝敏」は薩摩支配下における苦難の時代に士族という身分におごる事なく、農民を始めとした弱い立場の人達に温かい手を差し伸べた沖縄近世随一の和文学者でした。(平敷屋タキノーの歌碑)「平敷屋タキノー」には「平敷屋朝敏」の歌が刻まれた石碑が建立されています。『哀そのはた打かへす (この暑さで働いている) せなかより (農夫の背中から) ながるるあせや (瀧の様に汗が流れ落ちる姿が) 瀧つしらなみ (気の毒である)』この歌は平敷屋朝敏の働く農民に対する労りの心が伺える事から「平敷屋タキノー」の歌碑に選定されました。(米海軍港湾施設ホワイトビーチ)1945年の沖縄戦で形あるもの全てが焼き尽くされた沖縄の惨状がハワイの沖縄移民に届けられると、嘉数亀助は沖縄に「生きた豚」を届ける計画を立てました。ハワイの沖縄移民達は資金を集めて5万ドルで550頭の豚を購入し、1948年9月27日に勝連半島の「ホワイトビーチ」に到着したのです。陸揚げされた豚は全ての市町村に公平に分配されて繁殖を繰り返し、順調に頭数を増やし4年後には10万頭を超えました。これを境に沖縄の食糧事情は改善されて多くの人々の命を救いました。(平敷屋製糖工場跡)(貯水槽)「平敷屋タキノー」の南側に「平敷屋製糖工場跡」が隣接しています。「平敷屋製糖工場」は1940(昭和15)年「平敷屋集落」の11組のサーターヤー(製糖屋)が合併して建造されました。蒸気を動力とする共同製糖工場で建物は南向きで3基の煙突が立ち、煙突の1つは45馬力のボイラーに繋がり燃料は石炭が使用されていました。製糖工場は沖縄戦で米軍に破壊されましたが、工場跡地には今でも煙突1基と貯水槽が現存しています。(火立森/ヒータティムイ)(ヒラカー)「平敷屋製糖工場跡」は標高約66mの「火立森(ヒータティムイ)」の山麓にあります。「火立森」は別名で「遠見台」「烽火台」「火立所」「火番盛」など種々の呼称があり、琉球王国時代の情報伝達手段に利用されました。宮城島の「火立(ヒータチ)」に焚き火が上がると「平敷屋」の「火立森」からも狼煙(のろし)を上げて貿易船に合図をし、首里までの航海を導いたと言われています。「火立森」の小高い山に降った雨水が製糖工場脇の「ヒラカー」から湧き出ており、かつて製糖工場や貯水槽に利用されて重宝されていました。(火立森のガジュマル)(ノロガー)「ヒラカー」から更に「火立森」の奥地へ降りて行くと、枝が複雑に絡み合った高樹齢のガジュマルが神秘的な雰囲気を醸し出します。更に渓流を越えて進むと「ノロガー」が待ち構えていました。ノロ(集落の祭祀を担当する王府から正式に任命された神女)が利用する井戸で「ヌールガー」とも呼ばれます。「火立森」の粘土質の崖中腹にあるアカギの大木の根元に「ノロガー」の井泉があり「平敷屋集落」の発展を祈願する拝所となっています。「ノロガー」の周辺にはアカギの群落が広がる大自然の森となっています。(アマミキヨの拝所)(前の御嶽)「平敷屋製糖工場跡」の北西側に「アマミキヨの拝所」と呼ばれる祠があります。祠内には3体のビジュル石、霊石、ウコール、更に2対のヒヌカン(火の神)が祀られています。この拝所から西に坂道を登ると左手の森に「前の御嶽」の祠があり、御嶽の森の入り口に西側に向けられて建てられています。祠内には3体のビジュル石、霊石、ウコールが祀られており、集落の住民により大切に拝まれる拝所となっています。(平敷屋タキノーのシーサー)「平敷屋集落」に継承される「平敷屋エイサー」は100年以上という沖縄県内で1番古い歴史を持ちます。ジユーテー(地謡)、ハントゥー(酒甕)持ち、太鼓打ち、踊り手、中わち(世話役)で構成され、白と黒で統一された衣装を身にまとい、太鼓打ちは裸足で踊るなど古式エイサーの伝統を留めた独自の様式となっています。「平敷屋トウバル遺跡」等の遺跡文化財は現在も米海軍港湾施設「ホワイトビーチ」内にあり「平敷屋集落」の詳しい歴史が解明されていません。琉球の歴史を塗り替える新しい発見がある可能性が秘められているのです。
2021.09.15
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(大謝名メーヌカー)沖縄本島中南部の宜野湾市に「大謝名(おおじゃな)」集落があります。国道58号線と県道34号線(宜野湾西原線)周辺に広がる集落は昔、隣接する「真志喜集落」と「大山集落」を含めて「ぢゃな」と呼ばれていました。「大謝名集落」は碁盤目状に形成され、琉球王国時代は「中頭方西街道(現在の国道58号線)」の宿道集落として栄えました。また、米どころとしても知られ、肥大な田園が集落西側の「港田原」に広がっていました。(黄金宮の標識)「大謝名集落」の南側に「黄金宮(クガニナー)」と呼ばれる森があります。黄金庭、黄金森グスク、金宮とも呼ばれ「琉球国由来記」には「コガネミヤヨリアゲ森(神名:真次良御イベ)」との記述があります。「察度(サット)」が初代中山王として即位する前に楼閣を造営し居住した場所だと伝わります。周辺一帯からはグスク時代の土器や中国製の外来陶磁器などが採取されています。(黄金宮/クガニナー)奥間大親(オクマウフヤ)と天女の間に生まれた「察度」はある日、勝連按司が婿探しをしていると聞き勝連へ出かけました。勝連按司と家来は「察度」の汚い格好を見て馬鹿にしましたが、按司の娘は「察度」の人徳を見抜き嫁入りを決めたのです。「大謝名集落」の「察度」の家は垣根も壊れ雨漏りもしていました。しかし、汚れたカマドをよく見てみると黄金で出来ていました。驚く按司の娘を「察度」の畑に連れて行くと、沢山の黄金が石ころの様に転がっていたのです。(黄金宮の祠内)当時「大謝名集落」の北西側に隣接する牧港には日本の商船が頻繁に出入りしていました。初めて黄金の価値を知った「察度」は畑の黄金で鉄を買い、この鉄で農具を作り集落の農民に配りました。民衆の心を掴んだ「察度」はやがて浦添の按司となり、その後「初代中山王」に即位しました。中国明朝との貿易を正式に始め、東南アジアにまたがる交易の礎を築いたのです。人々は「察度」の功績を讃え「黄金宮」の地を聖地として現在も大切に崇め続けています。(上之山御嶽の拝所)かつて「大謝名集落」の中央で現在の県道34号線(宜野湾西原線)沿いに「上之山(イーヌヤマ)」と呼ばれる小高い森山がありました。集落の大切な拝所で「クサティムイ(腰当森)」てして親しまれていました。ちなみに「クサティ」とは「赤ちゃんが抱かれて寄り掛かる状態」を意味します。沖縄戦後、森は米軍住宅建設工事で消滅してしまい、拝所は「黄金宮」の敷地内に移設され現在も住民に拝まれています。(カニマンバカ/金満墓)14世紀後半、中国明王朝の初代皇帝「洪武帝(こうぶてい)」は対外政権として冊封・進貢策を取り、日本をはじめアジアや諸外国との交易を進めていました。招諭使の「楊載(ようさい)」は来琉した際、初代中山王「察度」に対して明朝への朝貢を促したのです。1372年「察度」は義理の弟である「泰期(タイキ)」を琉球初の使節団の団長として中国に遣わしました。こうして琉球王国における大交易時代の幕が「泰期」により開かれました。この「泰期」が「大謝名集落」南東部にある「カニマンバカ(金満墓)」に永眠しています。(残波岬公園の泰期像)中国との交易は「唐旅」と呼ばれ、遠方への旅路は生命の保障の無い危険なものでした。「泰期」はそれに臆することなく5回に渡り中国との貿易を交わしました。東南アジアに及ぶ大交易による黄金時代を築き上げた「泰期」は「商売の神様」として象徴され「残波岬公園」に銅像が立てられ「泰期」の言葉が刻まれています。『指をさし、向こうに見えるのは中国大陸。たとえ残波の海が荒れていようとも、いざゆかん。果報をもたらす夢の大陸へ。』(マテーシ/ウカマ)(根屋内のヒヌカン/ビジュル)(根屋内の位牌とウコール)「カニマンバカ」の北西側に「マテーシ(又吉)」の拝所があり「御釜(ウカマ)」とも呼ばれています。「大謝名集落」の創始者と言われる屋号「又吉」の屋敷跡で、最も古い家筋である事から「根屋(ニーヤ)」とされて集落祭祀の中心的役割を担ってきました。現在は後継が絶えたため屋敷跡にヒヌカン(火の神)、又吉祖先代々之霊、又吉大根屋之神、又吉大按司之霊の位牌が祀られています。旧暦8月15日の夜に獅子舞の行事の前に集落の住民により大切に拝まれています。(大謝名クシヌカー)(ウシアミシガー)(ウシアミシガーのガジュマル)「マテーシ」の北側に「大謝名集落」で昔から使われてきた湧き水の「大謝名クシヌカー」があり「ミーガー」の名称でも知られています。地下の洞穴の天井が崩落したすり鉢型の"陥没ドリーネ"と呼ばれる地形になっています。更に「大謝名クシヌカー」の直ぐ北側には「ウシアミシガー」の湧き水があり、この名前の由来は牛を水浴びさせていた事に由来します。かつては一段下がった水場に牛を連れて降りる専用の通路がありました。立派に根を広げて育ったガジュマルが「ウシアミシガー」のシンボルとなっています。(地頭火ヌ神)(祠内の上之山の神)(地頭火ヌ神の霊石)「大謝名集落」の中央部で大謝名小学校の東側に隣接する「メーヌモー」に「地頭火ヌ神」があります。「大謝名集落」の守り神であるこの拝所は以前、前恩納(屋号)の屋敷近くにありましたがパイプライン道路拡張工事により敷地が削られた為、現在では「メーヌモー」へ移設されています。祠内には「上之山(イーヌヤマ)の神」が祀られており「地頭火ヌ神」の3体のビジュル霊石とウコールが合祀されて住民に祈られています。(土帝君/トゥーティークー)(祠内の霊石)「地頭火ヌ神」に隣接して「土帝君(トゥーティークー)」の祠が建立され、祠内には「土帝君」と刻まれた霊石が祀られています。「土帝君」は中国から伝わった「農業神」です。かつて「土帝君」があった県営大謝名団地周辺は作物が良く育つ水田地帯でありましたが、土地が低かった為に大雨が降る度に水没していたそうです。現在「土帝君」は「メーヌモー」に移設され、旧暦2月2日に集落の住民により祈られています。(大謝名メーヌカー)(大謝名メーヌカーのカービラ)「地頭火ヌ神」と「土帝君」がある「メーヌモー」の南側麓に「大謝名メーヌカー」の井泉があります。「大謝名集落」の住民がかつて生活用水、若水、産水、死水として使った、暮らしや人生の節目の行事に欠かせない湧き水です。樋口の上部に造られた窪みにはウコール(香炉)が祀られています。「大謝名メーヌカー」に通じる立派な石畳の坂道は「カービラ(井坂)」と呼ばれ、湧き水と共に宜野湾市指定の文化財に登録されています。
2021.09.12
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(野嵩の屋号図/西門ガジュマル)沖縄本島中南部の宜野湾市東方の石灰岩大地で、米軍普天間基地に隣接する地域に「野嵩(のだけ)集落」があります。「野嵩」は方言で「ヌダキ」と言い、1671(康熙10)年に宜野湾間切が設置される以前は中城間切に属していました。戦前まで「野嵩集落」の主導者達は「アシビ(歌、三線、踊りなどを楽しむ祭事)こそムラの繁栄とムラの人の健康に繋がるもの」と認識して、本島中部において群を抜く「アシビ」の地域として賑わいました。(イーヌタキ/上ぬ毛のうたき)「野嵩一区公民館」西側の山頂に「イーヌタキ」の拝所があり「イーヌモー御嶽」や「上ぬ毛のうたき」とも呼ばれています。集落の「北の神」と言われるこの御嶽は、1982(昭和57)年の改修でコンクリート製の祠が建てられました。マールアシビ(豊年祭)の前に演者達が「イーヌタキ」に登って歌い、ムラヤー(当時の公民館)まで声が届くかを調べて祭りの配役を決めるビーシラビ(声調べ)が行われました。現在「イーヌタキ」の祠内には霊石が祀られています。(ミーガー跡)「ミーガー跡」は「野嵩一区公民館」の北側に位置しています。首里王府の指令で新松川(屋号)の祖先が掘った井戸だと伝えられています。水量は豊富で沖縄戦の最中には多くの人が利用しました。市道の建設により井戸は埋め立てられ現在は碑と祠が建てられています。「ミーガー跡」から「イーヌタキ」に向かう坂道があり、この付近は"字野嵩西門原"と呼ばれていた事から「西門坂(イリジョウビラ)」と地域住民から親しまれています。(トゥニムートゥ)(根屋/ニーヤーの拝所)「野嵩一区公民館」の敷地内に「トゥニムートゥ」と呼ばれる拝所があります。集落の守り神である"天の神、地の神、竜宮の神"が祀られており、旧暦8月15日の「ウチチウマチー」と呼ばれる収穫祭に祈願されます。さらに東側には「根屋/ニーヤーの拝所」があります。集落の発祥に関わる家の拝所で、マールアシビ(豊年祭)の際に祈られます。拝所の内部には4基のウコール(香炉)が祀られ、それぞれ花瓶と湯呑みが設置されています。(ヌンドゥンチ)更に東に進むと左側に「ヌンドゥンチ(ノロ殿内)」があります。「野嵩ノロ」を輩出した家でマールアシビ(豊年祭)行列の出発点となっています。「ヌンドゥンチ」とその斜め向かいの東中加(屋号)の仏壇を拝んでからエイサーを踊りながら練り歩く「道ジュネー」が始まるしきたりになっていました。また「ヌンドゥンチ」ではマールアシビの衣装や旗頭、五穀豊穣をもたらす来訪神のミルク(弥勒)の面を管理していました。(野嵩クシヌカー)「ヌンドゥンチ」の東側に宜野湾市指定史跡の「野嵩クシヌカー」と呼ばれる立派な石積みの井泉があります。「野嵩集落」の"ムラガー"で住民の生活用水、赤ちゃんのウブミジ(産水)、正月のワカミジ(若水)を汲む井戸として人々の暮らしを支えてきました。水量が豊富で沖縄戦の最中は軍作業の洗濯場として利用されていました。「野嵩集落」で最も規模が大きいこの井泉は現在でも枯れる事なく水が湧き出ています。(ハウスナンバー32)(MP事務所)1945(昭和20)年4月1日に沖縄本島に上陸した米軍は、3日後「野嵩集落」に民間人収容所を設置しました。そのため集落は攻撃対象にならず破壊を免れた民家の母家をはじめ、家畜小屋に至るまで収容所として使われました。この家のヒンプン(衝立)に記された「32」は収容所を管理する米軍が付けた番号で、当時163番まであった番号は現在32番のみ現存しています。この家の東側には「MP(憲兵隊)事務所」として利用されていた屋敷があり、戦後は集落の警察署として使われていました。(ウガンヌカタ/う願のかた)「野嵩集落」の北東端で、県道29号線(那覇北中城線)と県道35号線(本町通り)の交差点「安谷屋(南)」付近の丘稜に「ウガンヌカタ(う願のかた)」の御嶽があります。集落の「東の神」であると言われ旧暦8月15日の「ウチチウマチー(収穫祭)」の際に祈願されています。この行事では集落の住民が「ウガンヌカタ」に神酒を貰いに行く伝統のしきたりがありました。現在、拝所の祠内には霊石が祀られています。(野嵩石畳道/袖離れ坂)「ウガンヌカタ」から県道29号線を渡った東側に「野嵩石畳道」があります。琉球王国時代に整備された首里から中城間切への宿道の一部で「野嵩集落」から「我謝橋」までの高低差34m、長さ120mの急坂に造られた石畳道です。古老によると「護佐丸・阿麻和利の乱(1458年)」の際、阿麻和利の軍勢により敗れた護佐丸の妻子が石畳道を渡って逃げていました。その時に追っ手に射かけられた弓矢により彼女の着物の袖が引き離された事から「袖離れ坂(スディバナビラ)」と呼ばれています。(ウフグティ)「野嵩集落」の最南端にある墓地群に「ウフグティ」と呼ばれる牛が座っているように見える巨大な石灰岩が集落の「南の神」として祀られています。隣接する北中城村「新垣集落」に向いていおり、名前の由来は「ウフ(大きい)」「グティ(牡牛)」と伝わっています。普天間川を挟んで「新垣集落」の「ガンワー」と呼ばれる岩が吠えると「野嵩集落」に病気が流行ると言われ、「ウフグティ」が天から落ちてきて「新垣集落」に吠えると病気がなくなったと伝わっています。(ビンジリの拝所)「野嵩集落」の最西端で米軍普天間基地沿いの場所に「ビンジリの拝所」があります。集落の「西の神」と言われ、元々は山林でしたが普天間飛行場の建設用に採石されて大きな窪地になっていました。現在は埋め土で平地になり駐車場として整備されています。西側に隣接する「新城集落」に向けて建てられおり、集落の西側から悪霊を追い払う魔除けや守り神として崇められていました。「ビンジリ」とは霊石信仰の「ビジュル」を意味し、現在は拝所として住民に祈られています。(メーヌカー)(地頭火の神)「ビンジリの拝所」から集落の中心部へ東に進むと「メーヌカー」の井泉があります。石積みの"ムラガー"で生活用水、ウブミジ(産水)、ワカミジ(若水)を汲む場所として人々の暮らしを支えてきました。「メーヌカー」の北側には「地頭火の神」があり「野嵩集落」の火の神を祀る集落の守り神と言われています。「野嵩集落」では戦中戦後の混乱期には伝統行事も途絶えましたが、生活が安定した今日では「ちなひちもうい」「ウチチウマチー」「マールアシビ」が復活して「野嵩集落」の人々の暮らしに大切に受け継がれているのです。
2021.09.09
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(イリヌウタキ/西の御嶽)沖縄本島中部のうるま市に「浜比嘉島」があり琉球開闢の祖である女神アマミキョと男神シルミキョを祀った伝説がある「神の島」として知られています。平安座島から浜比嘉大橋を渡り「浜比嘉島」に入ると左側に「比嘉集落」右側に「浜集落」の2つの集落で形成されています。「浜比嘉島」には神道(カミミチ)と呼ばれる神聖な道に御嶽、拝所、井泉が数多く点在し、古き良き琉球の風景が残るゆったりとした時間が流れています。(地頭代火の神)「浜集落」は「アガリ(東)地区」と「イリ(西)地区」の2つに分かれており「アガリ(東)地区」の中心部にある「浜公民館」の敷地内には「地頭代火の神(ジトウデーヒヌカン)」が祀られています。コンクリート製の小祠の内部に火の神の依り代として三個の霊石が祀られる拝所となっています。琉球王府時代「浜集落」には地頭代のおえか地(役地)があり、地頭代の役職になるにはまず「浜集落」の地頭を勤める必要がありました。その為に「地頭代火の神」がこの地に奉安されました。(地頭代火の神の内部)「地頭代火の神」の祠内には中央に「奉納」と彫られた霊石、その左右に2基の石造りウコール(香炉)と2つの陶器製ウコールが祀られています。ヒラウコー(琉球線香)は陶器製ウコールのみで使用されています。この小祠には1713年に王府が編纂した「琉球国由来記」に記される「殿(トゥン)」と呼ばれる「浜集落」の里主(サトゥヌシ)所が合祀されています。現在も「地頭代火の神」は"立身出世の神"として進学や旅立ちに際し祈願する慣わしとなっています。(綱引きの場)(アガリエーガー/親川家)「旧浜中学校」と「浜公民館」に挟まれたこの道は「綱引きの場」と呼ばれる祭り道で、ここから西に150メートル先の「サーターヤー(製糖場)跡」まで直線の道が続いています。「浜集落」では旧暦6月24日〜25日に五穀豊穣祈願の目的で開催される「豊年祭」で綱引きが行われています。また「綱引きの場」の北側に「アガリガエーガー」と呼ばれる親川家の歴史深い旧家があり、強度と耐久性に富む「相方積み(亀甲乱積み)」の石垣が現在も残っています。旧正月の年頭拝み等で集落の住民により祈願されています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(ヌンドゥンチ内部/向かって中央)(ヌンドゥンチ内部/向かって左)(ヌンドゥンチ内部/向かって右)ノロは琉球王国時代に集落の祭祀を司った神女で「ヌンドゥンチ(ノロ殿内)」に住み、管轄する集落の祈願儀礼を行いました。御嶽や拝所で「オタカベ(お崇べ)」と呼ばれる神への祈願の言葉を唱え、神と交信する琉球神道における女性の祭司として琉球王府から正式に任命されていました。この「ヌンドゥンチ」には「大内家」のノロに琉球王府より献上された扇が祀られており、旧正月の年頭拝み等で集落の住民により拝まれています。(メーヌカー/前ヌカー)(メーヌカーの湧き水)「アガリ(東)地区」の南側に「メーヌカー(前ヌカー)」と呼ばれる井泉があります。ウブガー(産井)とも呼ばれる井戸で、旧正月の若水や赤ちゃんの産水はこの井戸から汲んでいました。亥の年に行われる浜比嘉島の伝統行事である「龕年忌祭(ウフアシビ)」では祈願が行われエイサーが奉納されます。浜グスクの丘陵の麓にある「メーヌカー」は水量が豊富で現在は農業用水としても使用されています。井戸にはウコール(香炉)が祀られ、住民は水の恵みに感謝して祈りを捧げます。(浜グスク)(浜公園の標識)「浜グスク」は「浜集落」を南側から見下ろせる位置に築かれており、グスクの北側崖部分に野面積みの石垣があり南東の崖の面に古墓が分布しています。グスク内は北側と南側で2メートル程の落差があり2つの曲輪から形成されています。「浜グスク」からは土器、陶器、須恵器などが出土されています。現在は「浜公園」として整備されて、自然豊かな住民の憩いの場となっています。展望台もありグスクからの絶景が楽しめます。(カーミット・シェリー大佐の碑)「浜グスク」の中腹に「カーミット・シェリー大佐の碑」が建立されています。カーミット・シェリー大佐は米軍海兵隊の大佐で、沖縄戦直後に浜比嘉島の再建に務めた人物です。シェリー大佐は海兵隊の部下を率いて荒廃した浜比嘉島に来て、家を建てたり学校の修理をし、ドラム缶で風呂を沸かし島民に提供し、発電機を設置して電気を通したりして住民との交流を深めました。野菜作りで住民に収入を与え、クリスマスには海兵隊員がサンタクロースの格好をして島の子供達にお菓子をプレゼントしたりしたそうです。(カーミット・シェリー大佐の碑)米軍に納品する農作物の収入で島の農協を強化して立派な農道も整備されました。米軍が農業用の給水所を造った事で農業用水が枯渇することもなく島全体が活気づいていたそうです。島ではシェリー大佐が亡くなった後、感謝を示すため昭和43年に慰霊碑を建立して毎年6月23日の慰霊の日に慰霊祭を行っています。慰霊の日の前日には島民と海兵隊員が一緒に「シェリー大佐の碑」の清掃を続けており、浜比嘉島の住民は今でも海兵隊への感謝の気持ちを忘れず持っていて、反米軍の感情は無いと言われています。(龕屋/アカンマー跡)(龕屋/アカンマー跡の拝所)「浜グスク」の南側に「龕屋(ガンヤ)跡」があります。集落で亡くなられた方をお墓まで運ぶ木箱を龕(ガン)と言い、別名「アカンマー」とも呼ばれています。龕を収めていた小屋が「龕屋」であり、現在は拝所が祀られています。12年に1回「亥年」に行われる「龕年忌祭(がんねんきさい)」では、明治時代から昭和46年頃まで使用していたとされている龕の修理や修繕、龕屋跡の拝所での祈願が行われています。今日「龕屋跡」は一頭のヤギが門番として大切に守られています。(シーローガー/イーヌカー)「シーローガー(水道ガー)」は「アガリ(東)地区」最南端に位置し、別の名前で「イーヌカー」とも呼ばれています。水量が豊富な井戸で稲作の水を引いており、農作業の休憩場所でもありました。現在はコンクリートで囲って水を溜めポンプで汲み上げて農業用水に利用しています。「シーローガー」の正面にはウコール(香炉)が祀られており、旧正月の年頭拝み等で集落の住民により水への感謝が祈られています。(イリヌウタキ/西の御嶽)(ビジュル神)「イリ(西)地区」の最南端の森は「イリヌウタキ(西の御嶽)」と呼ばれる聖域です。「シリギチャー御嶽」の名でも知られるこの御嶽は「琉球国由来記」に勝連間切の拝所として「マサゴロヨリアゲ嶽」と記録されています。民話では「メーベーヌウタキ」と呼ばれ、金武王子のウナイ(姉妹)がノロとして来た事から「チンヌウタキ」とも言われました。御嶽の森を昇る石段の先には「ビジュル神」が粛然と佇み、霊石とウコール(香炉)が祀られています。(竜宮神)(七竜宮)「浜集落」の最西端に「浜比嘉ビーチ」があり、ビーチ南側に「竜宮神」の石碑が建立されています。「サングヮチャーの石」と呼ばれ旧暦3月3日の"サングヮチャー"に豊漁と航海安全などを祈願する拝所です。以前は海岸に平い大きな石があり、海獣のジュゴンや魚類、豚などを解体する場所でした。さらに「浜比嘉ビーチ」の最南端には「七竜宮」があり、霊石と貝殻が祀られ海の神に祈願する場所となっています。(浜集落の路地)「浜比嘉島」の「浜集落」は琉球王朝時代の原風景が残り、歴史と文化が大切に継承されています。世界遺産に登録されている「中城城跡」に使われている同じ技法の石垣積みが集落の生活に自然に現存し、琉球のロマンを存分に醸し出しています。島の外からの来訪者を優しく受け入れてくれる「浜比嘉島」の住民の心の温かさを感じ、御嶽や拝所のパワースポットが点在する「浜集落」は、まさに「神の島」の名に相応しい空間として我々を癒してくれるのです。
2021.09.06
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(野國總管の墓)沖縄本島中部西海岸の嘉手納町「兼久集落」に「嘉手納マリーナ」があり、敷地の最南端の「砂辺集落」との境にある海岸沿いに「野國總管の墓」が佇んでいます。「野國總管(のぐにそうかん)」は琉球王国時代の沖縄本島の北谷間切野国村(現嘉手納町野国)の進貢船乗組員でした。日本が慶長年間(1596-1615年)に当たる時期に「總管」の役職に就いており、個人名は「与那覇松(ヨナハマチュー)」と推定されています。「野國總管」は中国に渡り甘藷(かんしょ)を琉球に持ち帰り貧困から人々を救った偉人として「芋大主(ウムウフシュ)」と呼ばれ沖縄の人々に親しまれています。(Kadena Marinaの入口)(甘藷発祥の地/野國いも宣言の碑)「嘉手納マリーナ」がある地域は北部にNavel Kadena(ネーブルカデナ)ショッピングセンターと兼久海浜公園、東部から南部にかけて広大な米軍嘉手納基地が続いています。沖縄戦後に米軍に接収され米兵や米軍関係者の為のリクリエーション施設としてビーチ、BBQエリア、レストラン等が整備されました。Kadena FSS (旧18th Force Support Squadron)のSeaside (旧Seaside Ristorante)というレストランがあり、米軍のみならず民間にも解放されています。「嘉手納マリーナ」の入口は「野國貝塚郡」が分布しており「甘藷発祥の地/野國いも宣言の碑」が建立されています。(野國總管の墓)(甘藷発祥之地の碑)「嘉手納マリーナ」の最南端にある「野國總管の墓」は1700年(元禄13年)、当時の野国村の地頭であった野国正恒親方が「野國總管」の功績を讃え、その供養も兼ねて石厨子(厨子甕と呼ばれる骨壷)を造り「野國總管」の遺骨を安置しました。その石厨子は沖縄戦で米軍により破壊され、現在「野國總管の墓」は屋根形の石蓋のみが昔のままに残っておりウコール(香炉)が設置されています。墓の脇には「甘藷発祥之地の碑」が建立され「野國總管」の偉業を讃えています。(野國總管の立像)(嘉手納町のマンホール)国道58号線を嘉手納ロータリーから読谷村方面に向かうと左側に「嘉手納町商工会」があり、その敷地には「野國總管の立像」が建立されています。この立像は以前「嘉手納マリーナ」の入口に建てられていましたが、現在は移転されています。立像は「野國總管」が左手に中国から持ち帰った甘藷の苗を大切に抱えている姿を表しており、その堂々とした風貌からは威厳を感じ取れます。さらに、嘉手納町のマンホールには甘藷のデザインが施され「甘藷発祥の地」を誇り高く示しているのです。(野國總管宮)(友好の獅子像/向かって左)(友好の獅子像/向かって右)「野國總管の立像」の西側にある嘉手納町立嘉手納小学校/中学校の北側で比謝川沿いに「野國總管公園」があり、敷地内に「野國總管宮」が建立されています。嘉手納町の偉人である「野國總管」の魂を祀った神社は、隣接する小中学校の生徒が地元の偉人と歴史を学ぶ教育に役立つと共に地元愛を育んでいます。鳥居の麓には獅子像が2体設置されており「野國總管」に甘藷を紹介して栽培方法を伝えた中国福建省の泉州市恵安県人民政府から友好親善の証として1993年に寄贈されました。(親志の土帝君)(野國總管之碑)「野國總管」は嘉手納町出身の偉人ですが、北側に隣接する読谷村の「親志集落」にも「野國總管之碑」が祀られています。「野國總管の墓」から北に約8キロほどの「親志集落」に「親志の土帝君」があります。「土帝君」とは中国の土地神信仰に起源を持ち、功労があった高徳の人が死後に土地神となり家や集落の守り神となると信じられています。沖縄にも土地神信仰が広く伝わり、沖縄本島やその周辺部では農業神としても良く知られています。読谷村の「親志集落」では「野國總管」を土地神として崇めて「土帝君」の祠の脇に「野國總管之碑」が祀られています。(野國總管の座像)米軍嘉手納基地北側の嘉手納町と沖縄市が隣接する場所に「道の駅かでな」があり、敷地内には「野國總管の座像」が建立されています。座像の左手には大きな甘藷があり貧しい人々に分け与える様子を醸し出しています。琉球王統(第二尚氏王統)の人物である儀間村地頭の儀間真常は「野國總管」が甘藷の苗を持ち帰ったことを聞きつけ「野國總管」から栽培法を学び、その後に琉球各地に広めました。その後、琉球から「琉球芋」として薩摩へ伝わった甘藷は、青木昆陽(あおきこんよう)によって全国に広められました。そのため薩摩の名をとり現在では「さつまいも」と呼ばれるようになったのです。(野國總管の墓がある嘉手納マリーナ)「野國總管」を讃える行事として戦前まで「野国集落」の年中行事では「旧暦二月春の彼岸は野國總管霊前にて行う」とあり、近隣の「野里集落」でも同様の行事が行われてきました。現在、嘉手納町では毎年秋に「野國總管まつり」を開催しています。さらに、甘藷伝来から400年目を迎えた2005年(平成17年)には「甘藷伝来400年祭」と称して「野國總管」の偉業を讃える記念事業が嘉手納町主催で執り行われ、記念式典では甘藷のことを正式に「野国いも」と呼ぶ「野国いも宣言」を行いました。嘉手納町民は「野國總管」の事を親しみを込めて「總管」と呼び、心の中に嘉手納町民としての誇りを持ちながら暮らしているのです。
2021.08.28
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(比嘉グスク)沖縄本島「うるま市」の勝連半島から平安座島を結ぶ海中道路があります。さらに平安座漁港より浜比嘉島を渡る浜比嘉大橋を渡ると、右側に「浜集落」左側に「比嘉集落」があります。「比嘉集落」には琉球開闢の神々が祀られる「アマミチューの墓」や、アマミチューとシルミチューが居住した洞窟の「シルミチューの拝所」で有名な神秘の伝説があります。この聖域である「比嘉集落」の中心にそびえるグスクが「比嘉グスク」です。(ミーガー)「比嘉グスク」の西側に「ミーガー」と呼ばれる井戸があります。「比嘉集落」のイリ(西)地区とアガリ(東)地区を分ける道沿いにあり、集落の中心地の井戸として洗濯物や野菜洗いに利用され、更に子供達の水遊びをしていたほど水量が豊富でした。現在は水は枯れていますが、井戸周りの石垣は戦後に造られて集落の人々が水の神様に感謝する拝所として大切に守られています。(火の神/ニーヤー)「ミーガー」から「比嘉公園」に向かうと「火の神」の祠があります。この土地は「ニーヤー(根屋)」と呼ばれ、かつて「比嘉集落」の創始者が住んだ家があり集落の祭祀を中心に行う場所でした。この土地の外周には石垣が積まれ周囲の家よりも一段高い造りとなっておりコンクリート製の「火の神」の祠が建立されています。祠の内部にはウコール(香炉)が一基設置されており、集落の守り神として人々に祈られています。(比嘉公園)(地頭代火の神)「ニーヤーの火の神」の西側に「比嘉グスク」の小高い丘があり、その麓に「比嘉公園」と「地頭代火の神」の拝所があります。「地頭代火の神」の祠には大小5つのウコール(香炉)と霊石が祀られています。沖縄の地頭代(ジトゥデーヌヤー)は琉球王国時代の1429年から1879年にかけて各間切(現在の市町村)の地頭(領主)の代官として地方行政を担当した人物を示します。間切番所(現在の役場)の最高役位であり、行政を監理する役目を担っていました。この「地頭代火の神」は「比嘉グスク」への"お通し"の役割がある拝所として崇められています。(比嘉グスクの入り口)(比嘉グスク中腹からの風景)浜比嘉島には「浜グスク」と「比嘉グスク」の2つのグスクがあり、浜比嘉島周辺の島々は全て「勝連グスク」の統治下に組み入れられていました。浜比嘉島に築城された2つのグスクの按司達は、より強力な勝連按司の支配下で「浜集落」と「比嘉集落」の支配を行なっていたと考えられます。「比嘉グスク」は琉球石灰岩からなる小高い丘の上にあり、主郭がある丘上は周囲が断崖絶壁に囲まれる自然の要塞となっています。(比嘉グスクの頂上)(頂上の拝所)(頂上から見た宮城島)沢山の蝶々が飛ぶ230段の階段を昇ると頂上に約150坪(約500平方メートル)の平地が現れます。「比嘉グスク」の主郭はこの頂上の平場にあり、主郭への侵入を防ぐために虎口を故意に狭めたり段差を付けたりするなど工夫された跡が確認されます。頂上にはコンクリート製の拝所があり、祠内には多数の霊石と貝殻が祀られています。「ウマチー」と呼ばれる豊穣祈願と収穫祭の際には、この拝所が「比嘉集落」の住民により祈られています。(ウィヌカー/上ヌカー)(シーガー/チンガー)「比嘉グスク」北側の麓で旧比嘉小学校へ向かう坂道の途中に「ウィヌカー」と呼ばれる井戸があり、旧正月の際に「ヌンドゥンチ(ノロ殿内)」と「テーラ」と呼ばれるアマミチューを祀る拝所がある神屋だけは「ウィヌカー」で若水を汲む事になっています。また「比嘉集落」の西側の住民が飲料水として使用していた事から「イリ(西)ガー」とも呼ばれています。更に「比嘉グスク」の南側に「シーガー」と呼ばれる井戸があります。衣類を洗濯する井戸で水浴びにも利用されていました。また、着物のことを"チン"と呼ぶことから「チンガー」とも言われています。(アガリガー/東ガー)(ユチャガー/世ちゃ川)(ユチャガーのウコール)「比嘉集落」の南側に「神道(カミミチ)」と呼ばれる神様が通る道があります。その聖道沿いにアガリ(東)地区の井戸である「アガリガー(東ガー)」が湧き出ています。水量が豊富な井戸だった事から昔から生活用水を汲んだり、洗濯をする場所として重宝されていました。1960年頃に井戸の周囲をコンクリートで固め、現在は旧暦の年頭拝みで水への感謝が祈願されています。井戸の正面の凹みにはウコール(香炉)が設置されており、集落の住民により祀られています。「比嘉グスク」の西側で「浜比嘉島」の中心部にある森に「ユチャガー(世ちゃ川)」があります。隣接する古墓群の丘陵から湧き出た井戸で比較的規模が大きく水量が豊富です。現在は周辺の農業用水として活用されています。(比嘉公民館方面からの比嘉グスク)以前、伊計島のノロの方にお会いした時に「御嶽や拝所に行っても神様の声を聞けなかったら意味がない。神様に御嶽や拝所に呼ばれた意味が確実にあり、神様は何かを伝えようとしている」と教わりました。「比嘉グスク」頂上の拝所で私は祠の貝殻と霊石に「どうやったら神様の声が聞けるのでしょうか?」と話しかけました。その帰り道の「比嘉グスク」中腹で写した写真に虹色オーブが映り込んでいたので、明らかに神様は私に何かメッセージを伝えようとしていたに違いありません。浜比嘉島は間違いなく"神の島"であり、島全体が神秘の力で溢れているのです。
2021.08.15
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(イユミーバンタからの比謝川河口)沖縄本島中部の西海岸に「嘉手納町」があり「読谷村」との境を流れる比謝川の河口に「イユミーバンタ」と呼ばれる断崖絶壁の丘稜が聳え立っています。「イユ」は"魚"、「ミー」は"見る"、「バンタ」は"崖"という意味で、昔の住民はこの崖の頂上から海を眺めて魚の群れを発見して漁をしていました。「イユミーバンタ」から「嘉手納漁港」までの比謝川沿いの道は「イユミーバンタ通り」と呼ばれ、その周辺は貴重な遺跡文化財が多数存在しています。(奥間ぬ毛)(水釜の洞)比謝川河口の入り口に「奥間ぬ毛」と呼ばれる小高い崖があり、その麓に「水釜の洞」のガマがひっそりと佇んでいます。この地は「水釜」の地名の由来になった場所で、戦前は洞窟の入り口まで海水に浸かり、漁師達が船を繋ぐ場所として利用されていました。洞窟内のシージル(岩汁)により岩ひだに溜まった真水は貴重な飲料水として利用されていました。現在も洞窟の上部より岩汁が滴り落ち「奥間ぬ毛」の神水として崇められています。(水釜の洞の拝所)(水釜の洞の龍宮神)「水釜の洞」のガマ周辺は昔、唐の国から沖縄本島を探索しに来た人々が船を縄で結びつけるため、縄を投げ打った(打ち縄)ことから「ウチナー(沖縄)」の地名の由来になった場所だとの伝説があります。「水釜の洞」には拝所があり、祠には霊石が祀られておりガマからのシージル(岩汁)への感謝が祈られています。また「龍宮神」の祠にはウコール(香炉)が設けられ、海の安全と豊漁を祈る拝所として大切に祀られています。(読谷村渡久地から見たイユミーバンタ)(イユミーバンタ通りの始点)(イユミーバンタの崖)「水釜の洞」を始点とした比謝川沿いに進む道は「イユミーバンタ通り」と呼ばれています。戦前まで比謝川河口流域は「沖縄八景」と呼ばれるほど美しい場所として人々に愛されていましたが、沖縄戦で米軍がこの比謝川河口より沖縄本島に上陸し水釜集落は戦火に襲われました。上陸する米軍に対抗する旧日本軍は読谷村側の比謝川流域にある天然洞窟に特攻艇の基地を構え、爆薬を載せたベニヤ作りのモーターボートで米軍の船に特攻攻撃で玉砕し、多数の死者が出た歴史があります。(ヤラバンタ)(ナナチジョーバカ/七門墓)(水釜シチャヌカー/下ぬ井戸)「イユミーバンタ通り」を進むと「イユミーバンタ」の隣に「ヤラバンタ」の崖が続きます。「ヤラバンタ」南側の丘稜には「嘉手納集落」の伝説の豪勇「カディナーチナー」の墓である「ナナジョーバカ(七門墓)」があります。この墓を築く際に掘られた井戸が墓の南側にある「水釜シチャヌカー」だと伝わります。「嘉手納集落」周辺の村人にも貴重な飲料水として利用され、現在でも井戸拝みのために多数の人々が訪れます。石積みで保存状態の良い「水釜シチャヌカー」は、嘉手納町内に現存する最古の井戸だと推測されています。(西タケーサーガマ)(仲今帰仁按司祖先之墓)(仲今帰仁按司祖先之墓)「ヤラバンタ」北側丘稜の中腹に「西(イリ)タケーサーガマ」があり、この洞窟には「仲今帰仁按司祖先之墓」が祀られています。14世紀頃、今帰仁城第四代城主「仲今帰仁按司」が家臣の反乱に遭い滅ぼされた時、難を逃れた中北山の一族が今帰仁城の一代目から三代目までの城主の遺骨を水釜の「西(イリ)タケーサーガマ」に葬りました。「初代屋良大川按司」は第三代今帰仁城主の五男にあたり、祖父の墓を大事に守ったと伝わります。(東タケーサーガマ)(東タケーサーガマ)「イユミーバンタ通り」を更に東に進むと「ヤラバンタ」東部の崖麓に「東(アガリ)タケーサーガマ」があります。このガマは入り口がコンクリートブロックで完全に封鎖されており、4基のウコール(香炉)に霊石が供えられています。入り口には空気穴もなく頑丈に密閉されている事から、沖縄戦で亡くなった人々の共同無縁墓だと考えられますが詳細は不明です。かつては風葬に使われていたガマの可能性もありますが、霊魂が閉じ込められているような雰囲気が漂う不気味さに包まれています。(水釜発祥之碑)「ヤラバンタ」から更に「イユミーバンタ通り」を東に300メートルほど進むと右手に小高い崖があり、その比謝川を望む頂上に「水釜発祥之碑」が建立されています。「水釜」ほ今から約250年前、久米の人毛氏奥間家の祖先「乗仁」が初めてこの地に移住しました。その後12家の祖先が移住して「水洞屋取」を形成しました。その後「水洞屋取」は所属していた「字嘉手納」から独立して昭和13年に「水釜」と改名したのです。(感應の宮)(感應の霊石)「水釜」は農業で生計を維持し、主な作物は甘蔗(サトウキビ)と甘薯(サツマイモ)でした。沖縄戦において水釜海岸は米軍の上陸地点となり、激しい艦砲射撃によって「水釜」は焼け野原となりました。大正6年に「水釜」の鎮護と豊作繁栄を祈願して建立された「感應の宮」は"お宮“と呼ばれ「水釜」の守護神であり、戦後の貧しい人々の心の拠り所でした。戦後の復興を遂げた現在でも「水釜」の住民は"お宮"を建立した祖先の偉業を讃えて大切に守り続けています。(嘉手納漁港)「イユミーバンタ通り」終点の「嘉手納漁港」です。漁港を出発する一般客向けの漁船や、比謝川をカヌーで下るレジャーも増えてきています。「イユミーバンタ通り」には未だに解明されていないガマや墓が多数存在しています。今後の調査により琉球の歴史を変えるような遺跡や文化財が発見される可能性もあります。かつて「沖縄八景」と呼ばれた絶景を誇った歴史と自然豊かな「水釜」が復活してほしいものです。
2021.08.13
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(護佐丸の墓)琉球王国の歴史において「護佐丸(ごさまる)」と「阿麻和利(あまわり)」の2人の武将は欠かす事ができない存在です。「護佐丸・阿麻和利の乱」は1458年に尚泰久王治世下の第一尚氏王統琉球王国で発生した内乱で、第6代王に即位した「尚泰久王」の権力基盤は不安定で、国王の後継者争いの中で「護佐丸」や「阿麻和利」をはじめとする地方の有力按司(あじ)がせめぎ合っていた混乱する時代背景がありました。(護佐丸公之御墓の石碑)(護佐丸の墓への階段)沖縄本島中南部の「中城村(なかぐすくそん)久場」に「護佐丸の墓」があります。世界遺産に登録されている「中城城跡」の東側に隣接する「台グスク(デーグスク)」の丘稜に佇む「護佐丸の墓」は現存する亀甲墓としては、沖縄県内で最も古いものの一つといわれています。「台グスク」は「琉球国旧記」(1731年)には「泰城」と記されており「中城城」が造られる以前から存在した古いグスクと伝わります。丘稜の中腹にある「護佐丸の墓」まで登る階段が続き、亜熱帯の植物が生い茂る森を進んで行きます。(護佐丸の墓)「護佐丸(生年不詳-1458年)」は恩納村出身の15世紀に活躍した琉球王国(中山)の按司です。大和名は中城按司護佐丸盛春(なかぐすくあじごさまるせいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)です。1422年、第一尚氏王統の第2代国王となった「尚巴志」は二男「尚忠」を北山監守に任じ、「護佐丸」を読谷村の「座喜味城」に移して北山の統治体制を堅固にしました。その後「護佐丸」は「座喜味城」に18年間居城し、中国や東南アジアとの海外交易で黎明期の第一尚氏王統の安定を経済的にも支えました。(毛國鼎護佐丸之墓の石柱)「勝連城」を根拠地とする「茂知附按司(もちづきあじ)」が勢力を拡大すると「尚巴志」は1430年、中城の地領を「護佐丸」に与え「中城城」の築城を命じました。さらに息子の「尚布里」を江洲(現うるま市)、「尚泰久」を越来(現沖縄市)に置き「勝連城」を牽制したのです。「護佐丸」は与勝半島を眺望できる「中城城」の改築にかかり、1440年「尚忠」が第3代国王となると、王命で同年に完成した「中城城」に居城を移しました。(阿麻和利の墓)沖縄本島中部の「読谷村(よみたんそん)楚辺」に「阿麻和利の墓」があります。「阿麻和利(生年不詳-1458年)は15世紀の琉球王国において、勝連城主として勝連半島を勢力下に置いていた有力按司です。北谷間切屋良村(現嘉手納町字屋良)出身で幼名は「加那(カナー)」でした。中北山末裔の「伊覇按司一世」の五男が「安慶名大川按司一世」であり「阿麻和利」は「安慶名大川按司一世」の次男「屋良大川按司」と「兼城若按司(南山)」の娘の子と伝わります。(阿麻和利の墓)「阿麻和利」は悪政を強いる勝連城主の「茂知附按司」を倒して10代目勝連城の按司となりました。東アジアとの貿易を進め、大陸の技術などを積極的に取り入れて勝連半島に富をもたらします。勢いを増す「阿麻和利」に第一尚氏王統の第6代国王「尚泰久王」は、正室である「護佐丸」の娘との間に生まれた娘の「百度踏揚(ももとふみあがり)」を妻にとらせ「護佐丸」と「阿麻和利」の有力按司との姻戚関係を後ろ盾に、内乱で失墜した王権の復興を図りました。(阿麻和利之墓の石柱)しかし、1458年8月「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発したのです。王府史書によると、勢力を増す「阿麻和利」に対抗するため「護佐丸」が兵馬を整え、これを「阿麻和利」が「護佐丸」に謀反の動きがあると王府に伝えます。「尚泰久王」が「阿麻和利」を総大将に任じ「中城城」を包囲すると、王府軍と聞いた「護佐丸」は反撃せず妻子とともに自害しました。宿敵の「護佐丸」を除いた「阿麻和利」は王府に謀反を起こしましたが「百度踏揚」が「勝連城」を脱出し王府に変を伝え「阿麻和利」は王府軍(中山軍)によって滅ぼされたと伝えられます。(ガジュマルが絡まる阿麻和利の墓)王府軍により「勝連城」を追われた「阿麻和利」は生まれ故郷の「屋良(現嘉手納町)」方面に逃れてきます。さらに王府軍に追われた「阿麻和利」は「屋良」から読谷の「楚辺」に逃げ隠れますが、ついに、この墓の近くにある「親見原」の「ウェンミモー」と呼ばれる場所(現在の米軍通信施設トリイステーション内)で捕らえられ、首を斬られ殺されたと伝わります。ちなみに「阿麻和利」が捕らえられた「ウェンミ」とは"降参する"と言う意味だと言われています。(護佐丸の墓への階段)正史では「護佐丸」が忠臣で「阿麻和利」が悪人とされていますが、首里王府によって編纂された歌謡集である「おもろさうし」(1531-1623)には「阿麻和利」を英雄として讃える"おもろ"が多数収録されています。「勝連の阿麻和利 聞ゑ阿麻和利や 大国 鳴響み 肝高の阿麻和利 聞ゑ阿麻和利や 大国 鳴響み」"勝連の阿麻和利 その名は沖縄全土に鳴り響いている 志高き阿麻和利 その名は沖縄全土に鳴り響いている"「勝連の肝高の阿麻和利 玉御柄杓 有り居な 京 鎌倉 此れど 言ちへ 鳴響ま」"勝連の阿麻和利は 玉御柄杓を持っているほどのお方です 京都 鎌倉にこのことを言って その名を鳴り響かせよう"
2021.08.10
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(浜川御嶽)沖縄本島南部にある「南城市」の東海岸に「百名(ひゃくな)ビーチ」があり、その北側には「浜川御嶽」の森が静かに佇んでいます。「百名ビーチ」は美しい白い砂浜と広範囲に渡る遠浅が特徴の天然ビーチで、地元住民からは聖なる浜として親しまれています。また"神の島"と呼ばれる「久高島」と深く関係するパワースポットとしても知られており「浜川御嶽」(神名:ヤハラヅカサ潮バナツカサの御イベ)は聖地として崇められています。(ヤハラヅカサの石碑)「百名ビーチ」の北側の海中に「ヤハラヅカサ」の石碑が建立されており、満潮時には水没し干潮時のみ石碑の全容を現します。石碑がある地点は琉球開闢の女神「アマミキヨ」が「ニライカナイ」と呼ばれる理想郷から上陸した際の第一歩を印した場所と伝えられています。石碑には「ヤハラヅカサ」と記され、石造りのウコール(香炉)が設置されています。4月の稲穂祭には琉球国王や聞得大君(きこえおおぎみ)が参拝しました。(浜川御嶽への石段)(浜川御嶽の祠)「ヤハラヅカサ」の石碑がある「百名ビーチ」から森に入ると「浜川御嶽」に向かう石段が続いています。琉球開闢の女神である「アマミキヨ」が「ヤハラヅカサ」に上陸後、50メートルほど森に入った場所にある「浜川御嶽」に暫く仮住まいしたと伝わります。その後、南城市玉城の仲村渠(ナカンダカリ)集落の「ミントングスク」に安住の地を開いたと言われます。「アマミキヨ」はこの地で3男2女を儲け、その子孫が沖縄全土に拡散したと伝わります。(浜川御嶽/南東の拝所)(浜川御嶽/祠後方の拝所)(浜川御嶽/祠前方の石樋)「浜川御嶽」がある岩山の下に懇々と清水が湧き出る泉があります。「アマミキヨ」は「ヤハラヅカサ」に上陸後、この泉で疲れを癒やしながら近くの洞穴で暮らしたと言われます。現在も水量の多い湧き水が豊かに湧き出ており神の水として崇められています。「浜川御嶽」には拝所が多数あり石造りのウコール(香炉)や霊石が祀られています。御嶽の祠内には陶器製のウコールが設置されておりヒラウコー(沖縄線香)がお供えされています。祠の前方には湧き水を海に流し出す為の石樋も設置されています。(天然岩のトンネル)(岩を絞め殺すガジュマル)「浜川御嶽」で現在も行われている「東御廻り(あがりうまーい)」と呼ばれる聖地礼拝は、太陽の昇る東方を「ニライカナイ(理想郷)」のある聖なる方角と考え、首里からみて太陽が昇る東方(あがりかた)と呼ばれた「南城市」の玉城、知念、佐敷、大里にある御嶽を巡るものです。 起源は国王の巡礼と考えられており、以後時代の流れにより士族や民間へと広まりました。(岩間に絡まるガジュマル)琉球国王と共に「浜川御嶽」を参拝した「聞得大君(きこえおおぎみ)」とは、沖縄で古くから信じられてきた女性の霊力に対する信仰をもとにした「おなり神」の最高位の呼称です。国王の姉妹や王女など、主に王族の女性が国王によって任命され、第二尚氏時代の琉球神道における琉球王国全土のノロ(祝女)の頂点に立ち様々な儀式を司ってきました。(受水速水の入り口)(受水走水の拝所)「浜川御嶽」から南南西に500メートル程の場所に「受水走水(うきんじゅはいんじゅ)」と呼ばれる拝所があります。神名は「ホリスマスカキ君ガ御水御イベ」で、沖縄稲作の発祥の地として伝えられています。「琉球国由来記(1713年)」によると「アマミキヨ」が「ニライカナイ(理想郷)」から稲の種子を持ってきて、この地の「玉城親田」と「高マシノシカマノ田」に植え始めたと言われます。(御穂田の石碑)(受水走水の霊石)(受水走水のガジュマル)伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村の「カラウカハ」と呼ばれる場所に落ちて死んでしまいました。稲穂の種子は発芽し「アマミキヨ」の子孫である「アマミツ」により「受水走水」の「御穂田(みふーだ)」と呼ばれる水田に移植されたと伝わります。この地は「東御廻り(あがりうまーい)」の拝所として霊域になっており、旧正月の初午の日には田植えの行事である「親田御願(うぇーだうがん)」が行われています。(アマミキヨのみち)「南城市」の「百名ビーチ」沿いに「新原ビーチ」から「浜川御嶽」に長閑に続く約1キロ程の道は「アマミキヨのみち」と呼ばれています。沖縄では琉球王国時代から伝わる自然崇拝的な信仰思想に基づく各種の宗教儀礼や祝祭が今日でも盛んに行なわれており、市民の生活や精神の中に資産が活用され、伝統文化として生き続け継承されています。「百名ビーチ」は透明度が高い美しい海で、まさに神に選ばれた"美ら浜"として人々に愛されています。「浜川御嶽」と「受水走水」の拝所には力強いパワーがみなぎり、自然界の神々を五感で感じ取れる聖域として存在しています。
2021.08.09
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(泡瀬ビジュル/境内)沖縄県沖縄市「泡瀬集落」は沖縄本島の東海岸沿いの中城湾に位置しています。「泡瀬」はその昔「あせ島」や「あわす小離」と称され「高原村」より東におよそ九町の位置の臨海に突出した無人の小島で、自然に形成された砂州と南西に広がる豊かな干潟を有していました。1768年頃、読谷山間切の在番役を退役した「樊氏高江州(筑登之親雲上)義正」は、初期の移住者として入植し、広い砂州と干潟を開墾して農耕の傍ら塩を焚き安住の地ここに定めました。ある日、漁猟に出た高江州義正は海面に浮かぶ霊石(ビジュル)を見つけて持ち帰り、霊験が著しいビジュル神として島の西側磯のほとりに石祠を建てて安置し信心しました。これが沖縄に伝わるビジュル神信仰の始まりだと伝わっています。旧暦の9月9日には「ビジュル参り」の例祭があり無病息災、子安、子授けなどの祈願する参拝者が多数訪れます。(泡瀬ビジュル/一の鳥居)(泡瀬ビジュル/手水鉢/手水舎)(泡瀬ビジュル/二の鳥居)(泡瀬ビジュル/社殿)「一の鳥居」が向かって東側に「社殿」が建てられ、鳥居をくぐると右側に「絵馬掛所」があり、左側には「手水鉢」と「手水舎」が設置されています。この「社殿」は桁行一間(1,822mm)、梁間一間半(2,800mm)、高さ約12尺(3.940mm)の一間社流造り、鉄筋コンクリート造り、人造石洗出し仕上げです。鉄筋コンクリート造りでは難しい屋根ね曲線や円柱、梁、桁、貫、斗、垂木などを丁寧に仕上げています。昭和13年(1938年)に旧石の祠を改修し社殿、二基の鳥居、灯籠、手水鉢、内外玉垣を鉄筋コンクリート造りで建立されました。改修された当時の建築技術を知る上で貴重な資料となっています。(社殿裏側のビジュル石)(社殿北西側の改築寄附者芳名の石柱)(泡瀬ビジュルのアコウ)「社殿」の北側裏には11個のビジュル(霊石)が祀られています。16羅漢の一つの賓頭盧(びんずる)がなまり「ビジュル」と呼ばれています。また「社殿」北西側の角に「改築寄附者芳名」の石柱が建てられています。石柱には寄付金の額と寄付者の氏名が彫られています。また「泡瀬ビジュル」の敷地内には沖縄市の名木「アコウ」が育ち、推定樹齢は150年、樹高8.3m、幹周8.5mです。台風で塩を被ると落葉し薄い赤茶の皮を剥ぎ新芽を出します。沖縄の方言で「アコーギ」や「ウシクガジュマル」と呼ばれて親しまれています。(泡瀬ビジュル/千秋堂入口)(泡瀬ビジュル/千秋堂)(メーヌウタキ/前之御嶽)(上屋内部の石祠)無人の小島であった「泡瀬」の地に首里、那覇からの移住者が入植し、定住を始めたのが1768年頃と伝えられています。当時「泡瀬島」は美里間切高原村の属地でしたが、1903年(明治36年)に県令により高原村から分離され泡瀬村が創設されました。2003年(平成15年)の泡瀬村設立100周年を迎えるにあたり、その記念事業の一環として「泡瀬ビジュル」の社務所「千秋堂」が建立されました。「泡瀬ビジュル」の東側に「メーヌウタキ/前之御嶽」があります。琉球王国第二尚氏王朝の14代国王「尚穆王/しょうぼくおう」の時代(1768年頃)に首里、那覇から移住者が次第に増え集落を形成し島建てが始まりました。口碑によると「泡瀬」の小島の中ほどに石造りの祠を設え「繁昌の神」と称して尊信したのが「メーヌウタキ」の由来です。珊瑚石灰岩で建造された宝形造の石祠は200余年も雨風に耐え、現存する泡瀬の拝所の中でも最も古い石祠です。1997年(平成9年)12月に石祠を雨風から保護する為に上屋が築かれました。(火之神/御三物)(ウブガー/産井泉)「メーヌウタキ」の東側に隣接する場所に「火之神/ヒヌカン」があり「御三物/ウミンチムン」とも呼ばれています。「火之神」は古来から家々の竃に祀られる神で、後世は家を守る神として尊信されました。その後、門中の神、村の神、間切の神、更に「尚真王」代より首里王府の最高官「聞得大君加奈志/チフィジンカナシ」が琉球王国の最高守護神となりました。旧暦12月24日に「火之神」の昇天を送り、翌年の旧暦1月4日に再び「火之神」を迎えれる「火之神祭」があります。また「火之神」の敷地に隣接して「ウブガー/産井泉」があります。「ウブガー」は「泡瀬集落」形成の初期(1768年)に飲料用水の井戸として自然の湧き水を利用して造られました。飲料水だけでなく出産時の産湯用の水を汲んだり、正月元旦の若水を汲んだりするカー(井泉)でもありました。「ウブガー」は古くから集落の原井泉(ムートガー)として人々から大切に崇められてきたと伝わります。(ミーガー/新井泉)(東之御嶽/アガリヌウタキ)「泡瀬集落」の東の「泡瀬ビジュル通り」沿いに「ミーガー/新井泉」があります。「ミーガー」は昔、野良仕事や漁の帰りに使用されていたと伝わります。戦後「泡瀬集落」全体が米軍施設に接収され井泉の原型は消滅してしまいましたが、集落の返還後「ミーガー」は以前とは位置形状を異にして「東之御嶽/アガリヌウタキ」の敷地内に新装併置されました。さらに「ミーガー」の東側に隣接して「東之御嶽(アガリヌウタキ)」の拝所があり、石祠にはウコール(香炉)が祀られています。世持神(ユームチガミ)として「泡瀬集落」の東方、アダンの木が繁る砂丘に石灰石造りの石祠が設られ、理想郷であるニライカナイから豊穣と繁栄を招く神として崇められています。「東之御嶽」の敷地は御嶽庭(ウタキナー)と呼ばれ、およそ三千坪を有し子供達の遊び場や砂糖樽用の榑板(くれいた)や乾物の干し場、また村遊びの際の出し物の稽古場として集落の住民に親しまれました。(泡瀬遊び庭跡の碑)(泡瀬遊び庭跡)(泡瀬塩田跡之碑/ぐるくん公園)(泡瀬塩田跡/ぐるくん公園)「メーヌウタキ/前之御嶽」と「泡瀬漁港」の間に「イルカ公園」があり、この敷地はかつて「泡瀬遊び庭/アシビナー」として住民で賑わっていました。近隣の村々から農作物等を売りにくる青空市場、娯楽会場、村芝居、集会所、相撲競技まで催される村人の憩いの広場でした。沖縄戦では米軍の占領下で避難民収容所や食糧配給場として利用されましたが、後に避難民は現うるま市に強制移住させられ「遊び庭」は消滅してしました。返還後の1977年に「イルカ公園」として整備され、現在は公園の北側に「泡瀬遊び庭跡の碑」が建立されています。「泡瀬集落」の北部に「ぐるくん公園」があり「泡瀬塩田跡之碑」が建立されています。1767年頃に泡瀬の無人島に入植した移住者は農業のかたわら、南西砂州に続く干潟を開拓し「入浜式塩田/シンナー」を作り製塩業を興しました。廃藩置県(明治12年)を境に「泡瀬」の製塩業は県内一の生産量を誇る「アーシマース」は県下にその名を馳せました。(カーヌモー/川ノ毛)(カーヌモー/川ノ毛の拝所)「泡瀬集落」が規模や人口ともに増大するに伴い水量豊かな飲料水用のカー(井泉)が望まれていた矢先に「カーヌモー/川ノ毛」から湧水が堀り当てられました。この井泉はどんな旱魃でも水が枯れる事はなく、集落で唯一の共同井戸として「泡瀬集落」繁栄の象徴となったと言われています。1906年(明治39)に大規模な改修が行われ下層石積を新たに構築し、井戸の周辺には広大な芝生地帯の「カーヌモー/川ノ毛」を増設しました。また1923年(大正12)には上層の鉄筋コンクリート造りの屋根が築かれたと伝わっています。また1948年(昭和23)には「カーヌモー」に山積みされていた米軍のコールタール缶の火災により井戸の屋根は消失し崩壊してしまいましたが、1985年(昭和60)9月に復元され現在の姿に改築されました。井戸には水の神様を祀る拝所が設けられウコール(香炉)が設置され多くの参拝者が訪れています。(泡瀬ビジュル通り沿いのカミヤー/神屋)(竜宮神の祠)(竜宮神の祠内部)「泡瀬干潟」は干潟や藻場の広がりが南西諸島でも最大級であり干潟の生物(特に鳥類や、 貝類、海草、藻類)の貴重な生息地と生育地であることが知られています。そのため日本の環境省に「日本の重要湿地500」に選定されています。現在も「泡瀬」半島の最東端には米軍施設の「泡瀬通信施設」があり「泡瀬集落」の完全返還は進んでいません。更に「泡瀬干潟」埋め立て事業が進み豊かな生態系への悪影響も危惧されています。この「泡瀬干潟」に向かって米国海軍の通信施設に隣接する位置に「竜宮神」を祀る祠が建立されています。祠内部には「竜宮神」と刻まれた石碑に3基のウコール(香炉)と霊石が数個設置され、更に向かって左側には「寿海仙泪明君」と記された石碑に1基のウコールが祀られています。
2021.07.15
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(残波岬公園)「宇座集落」は沖縄本島西海岸にある読谷村の北端に位置し、全体的に東高西低のなだらかな傾斜の地形をしています。海に迫り出した残波岬は観光地として有名で、その北側の海岸線は断崖絶壁で南西側には広い砂浜海岸のイノー(礁池)が広がっています。豊富な漁場と水源に恵まれた農地で「宇座集落」は"半農半漁"の村として栄えました。また「宇座集落」には拝所やカー(井泉)が多く存在し、旧暦1月の初御願(ハチウガン)や12月24日の解御願(フトゥチウガン)で十三箇所が拝まれています。(神アサギ)「宇座集落」の中心部に「神アサギ」があります。戦前までは小高く盛り上がった地形になっており、当初は神殿は無く広場のみ存在した。後に四本柱の瓦葺の小屋が建てられましたが、壁も床もなく軒の低い簡易様式でした。かつては「瀬名波集落」からノロ(祝女)が訪れ「宇座集落」の山内門中や与久田門中の神人も加わり祭祀が執り行われていました。現在「神アサギ」の祠には神を祀る三体の霊石が設置されヒヌカン(火ヌ神)として祀られています。(西井戸/イリガー)(男井戸/イキガガー)「神アサギ」の西側に「西井戸(イリガー)」があります。「宇座集落」の産井(ウブガー)でもあり、この井戸で出産の報告と赤子の健康を祈願しました。与久田門中に伝わる伝承では「義本王(舜天王統最後の王/在位1249~1259年)」が与久田の屋敷に逗留し漁の帰りにここで網を洗ったことから「網洗井戸(アミアレーガー)」とも呼ばれます。さらに西側には「男井戸(イキガガー)」があり、かつては畑仕事や海からの帰りに手足を洗ったり水浴した井戸でした。戦後、米軍基地建設により埋立てられましたが、1979年に井戸跡を掘り当ててタンクを設置し、水の神様を祀る拝所となりました。(ワランジャ井戸/ワランジャガー)(松田井戸)「ワランジャ井戸(ワランジャガー)」は「宇座集落」の南西部にあり、1846~1854年の間に沖縄に滞在したハンガリー出身のキリスト教宣教師で医師でもある「バーナード・ジャン・ベッテルハイム」が宇座を訪れ、ここの水を飲んだという伝説が残る井戸です。また、集落南部には「松田井戸」があります。この井戸がある場所にはかつて「宇座集落」の発祥とされる「松田シマ(集落)」があり、この住民により利用された井戸だとされています。ちなみに「琉球国由来記(1713年)」には「松田」の名が記載されています。(スヌメー殿内/スヌメードゥンチ)「宇座集落」の南東部に「スヌメー殿内(ドゥンチ)」があります。「宇座集落」の拝所の中で第一の拝所とされ、セジ(霊力)の高い神であると言われています。集落の大きな行事や対外行事の際には、先ずここに拝みに行く慣わしとなっていました。「スヌメー殿内」は「宇座集落」発祥の七家の一つである「クニシー」が最初に仮の住居をここに構えた場所であると伝わります。戦前までこの地には松の大木が茂っており、昼でも暗く物静かで神々しい雰囲気に包まれる聖域でした。祠内には霊石とウコール(香炉)が祀られています。(東井戸/アガリガー)(石小堀/イシグムイ)「東井戸(アガリガー)」は「宇座集落」の東部にあります。かつては正月の若水を汲む井戸であり、飲料水として利用されたために水浴や洗濯は厳禁でした。「宇座集落」では最も古いカー(井戸)の一つとされており「西井戸(イリガー)」と同様に、形状は切石を丁寧に積んだもので保存状態が良好な石造建築物です。更に東側には「石小堀(イシグムイ)」と呼ばれる井泉があります。現在は草木に覆われていますが、岩の下から清水が湧いており、その水を溜めてクムイ(ため池)を作っています。(クニシーの御神)(百次シー/ムンナンシー)「クニシーの御神」は「神アサギ」の東側に位置します。「クニシー」と呼ばれた人は最初「スヌメー殿内」で生活し、その後そこから150mほど西方の場所に屋敷を構えて新しい村づくりを始めたと伝わります。屋敷跡には「クニシーの御神」として祈られており、建物内部にはウコール(香炉)や霊石が祀られています。その西側には「百次シー(ムンナンシー)」があり「百次シー」屋敷跡の一画に祠がつくられています。祠内にはウコール(香炉)、花瓶、茶碗が供えられています。(鍋之甲/ナービナク)(鍋之甲の内部)「百次シー屋敷跡」の北側に隣接して「鍋之甲」があります。首里王府が派遣した鍛冶職であったのか、以前から宇座に住んだ人であったのか不明ですが、鉄器や農具の製作や修繕を行った家です。絶家した後も屋敷地や墓地は「宇座集落」が拝所として管理してきました。現在も屋敷には位牌が祀られ、毎年旧盆と大晦日(トゥシヌユール)には集落の役員によって祈られています。建物内部には5つのヒヌカン(火ヌ神)と霊石が祀られています。(宇座グシク)(鍋之甲墓)(二重兼久鍋之甲墓/クニシーの墓/無縁墓)「鍋之甲墓」は「宇座集落」の北部にある「宇座グシク」の北側にあります。隣接して儀間の二重兼久(ティーガ ニク)から移転された「鍋之甲(パーパー/お婆さん)の墓」や「クニシーの墓」があり「無縁墓」も同じ場所に祀られています。「宇座グシク」は支配者の居城や集落ではなく、葬所や古墓を由来とする聖域としてのグシクです。他にもグシク周辺には「宇座集落」で一番の金持ちであった「宇座イェーキ」の墓をはじめ多くの墓が位置しています。(東ノ神之屋/アガリヌカミヌヤー)(東ノ神之屋の霊碑)(東ノ神之屋の霊石)「宇座集落」の北端側には「残波岬公園」があり、公園の最東端の断崖絶壁に「東ノ神之屋(アガリヌカミヌヤー)」と呼ばれる航海安全を祈願する拝所があります。「東ノ神之屋」は絶壁の中腹にある自然洞窟を利用した拝所で、ニライカナイ(理想郷)に通じる聖域とも言われています。拝所には3基(天・地・海)の霊碑が建立されており、それぞれ石造りのウコール(香炉)と霊石が祀られています。「東ノ神之屋」と記された石碑にもウコールが設置されて拝まれています。(南妙法蓮華経の石碑)(潮吹穴/スーフチガマ)(西ノ神之屋/イリヌカミヌヤー)「東ノ神之屋」の西側の岬に「南妙法蓮華経」の石碑が祀られています。石碑の裏側には「日本山妙法寺」と彫られています。「残波岬公園」の中央にある「潮吹穴(スーフチガマ)」は海に通じる竪穴の洞穴で、かつては海が荒れると空高く潮を吹き上げました。更に西側には「西ノ神之屋(イリヌカミヌヤー)」の祠があり「東ノ神之屋」と対になる拝所となっています。航海安全や武運長久を祈願した拝所で、両神之屋はかつて芝生道(神道)で繋がっていました。(泉井戸/イジュンガー)(北浜屋原のマチ矼)「宇座グスク」の北側にある「泉井戸(イジュンガー)」は1879年(明治12年)の廃藩置県以後、首里から移り住んだ崎原屋取の人々が使用した井戸です。「宇座集落」の西部に「北浜屋原のマチ矼」と呼ばれるアーチ形状の矼があります。設計から施工まで「宇座集落」の人々を中心に行われ、石材は隣接する宇座海岸から切り出された宇座石が使用されました。技術や材料ともに宇座が生み出した石造建築物で、アーチ部分は崩れることなく矼の美しい形を現在に伝え、当時の石工技術の高さを知ることができます。(残波岬公園の大岩)沖縄戦後「宇座集落」の全域が米軍基地として接収されたため住民は「長浜」「高志保」地域へ集団移住を余儀なくされました。それから約30年後の1976年に米軍基地が返還されると、土地改良事業により整備されて集落は復帰先地公共施設整備事業(道路、水道、排水路など)により生活の基盤が整えられました。その後、宇座農村公園や拝所の整備も行われ、住民念願の生まれ故郷への復帰と帰住が現在も進んでいます。「宇座集落」の本当の意味での「終戦」を一日も早く迎えて欲しいと心から望んでいます。
2021.07.03
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(旧古堅國民學校跡のデイゴ)沖縄本島中部の西海岸に読谷村「古堅(ふるげん)集落」があります。「古堅集落」は沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」に「ふるけものろのふし(古堅ノロの節)」と登場し「古堅」の創始は今帰仁按司系統との伝承が残ります。「古堅集落」の南側には戦前「南沖縄八景」に選ばれた比謝川渓流があり、かつては川に回転橋(現在の比謝川大橋)が架かっていました。また、対岸にある嘉手納製糖工場へのサトウキビ運搬用トロッコレールが敷かれていた長閑な風景が広がっていたのです。(古堅ガー/ウブガー)「古堅集落」の最東端にある「ウブガー」と「ミーガー」の2つを総称して「古堅ガー」と呼ばれ、戦前まで「古堅集落」の人々の飲料水や生活用水として重宝されました。「ウブガー(産井)」は隣接する「ミーガー」よりも先に造られた井泉です。この井泉では産湯用に水が汲まれ、その水で赤子の額を撫でる「ミジナディー(水撫で)」の儀式を行う習慣がありました。更に、産湯を汲む際に小さなエビを捕らえてきて、赤子の身体に這わせて健康の祈願が行われていました。(古堅ガー/ミーガー)(ヒージャーガーグヮーの石碑)「ミーガー(新井)」は1923年(大正12年)頃に造営されたと伝わりますが、明治時代から存在していた説もあります。水量が豊富で「古堅集落」の人々の生活用水として利用されていました。かつて妊婦の夫たちが浜辺から砂利を運んできて井泉の底に沈める「カーソウジ」と呼ばれる儀式を行い水を清めました。「ヒージャーガーグヮー」は元々「古堅ガー」から100メートル程にある比謝川と合流する場所にありましたが、現在は「ミーガー」の手前に拝所として石碑が建てられウコール(香炉)が設置されています。(ビジュル)「古堅ガー」の西側に隣接する場所に人型をした「ビジュル」があり、ウコール(香炉)が設置された拝所となっています。「古堅集落」の最東端で東側に向いて建てられる「ビジュル」は読谷村大湾方面から入ってくる厄災を防ぐ悪風返しの祈願所とされています。また、この「ビジュル」では豊作、子授け、子供の健康などを祈願する「古堅集落」で非常に重要な聖域として崇められてきました。石碑には微かに「不動明王」の文字が彫られており、厄除開運、健康長寿、商売繁昌、学業成就などに御利益があると考えられます。(仲宗根屋敷跡)(仲宗根カー)「ビジュル」の北側に「仲宗根屋敷跡」と「仲宗根カー」があります。「古堅集落」の発祥に関わる仲宗根家の屋敷跡で「仲宗根カー」は屋敷の敷地内にあります。「仲宗根カー」は井泉として水を汲む為に造られたものではなく「古堅集落」の創始である今帰仁按司の出身地である今帰仁に向かって遥拝するために造られた井泉だと伝わります。いわゆる「根屋(ニーヤー)」の「根人(ニーチュ)」である仲宗根家の屋敷は、集落根源の今帰仁と繋がる聖地として住民に崇められていました。(古堅ノロ之墓)「ビジュル」から西に進むと比謝川沿いの丘稜の中腹に「ノロ之墓」があります。「古堅集落」の歴代ノロ(祝女)が祀られる墓で「ヌール墓」とも呼ばれています。「ノロ」は主に神様が暮らすとされる「ニライカナイ」の神々や、その地域の守護神と交信するのに対し「ユタ」は霊、心霊、死霊と交信します。「ノロ」は琉球王府により各地に整備設置された「神人(カミンチュ)」職です。琉球神道における女性の祭司や神官で、集落の祭祀を取りしきり御嶽の祭祀を司る重要な役割がありました。(シーシヤー/獅子屋)「古堅集落」の南東部にある「シーシヤー(獅子屋)」は「ハタスガシー」(旧暦7月16日)に演舞される獅子舞の獅子を安置する場所です。獅子は集落の守り神とされ、獅子舞が演じられる際には集落の役員や演者たちがここを拝みます。「古堅」の獅子や獅子舞がいつ頃からあったかは定かではありませんが、伝承によると「古堅」の獅子は隣接する「大湾集落」の「ガン(遺体の収まった棺桶を運ぶ赤塗りの輿)」と夫婦一対で「古堅」の獅子が雄で「大湾」の「ガン」が雌であると言われています。(カンカーモー)「古堅集落」の東部に「カンカーモー」と呼ばれる森があります。集落の災厄を防ぐため毎年旧暦10月初庚の日に「カンカー(シマクサラシ)」を行い牛をこの場所で殺して肉を獲りました。牛をさばく際に牛の鼻綱をつないだ穴の開いた大きな石が現在も残っています。沖縄では「カンカー」の際に牛の他に豚を殺して骨や肉片を左巻きの縄にくくりつけ、集落の四方の入り口に設置して集落の外から悪霊の侵入を防ぎました。ちなみに「カンカー」とは「見張る」という意味で、厄病などが集落に入るのを見張る役目がありました。(イリイーの宮/西上の宮)(ヒヌカン/村の火ヌ神)「古堅集落」の北東部に「イリイー(西上)の宮」があります。コンクリート製の祠の入り口に2本の門柱が建てられています。「イリイーの宮」は「古堅」の「守り神」とされ、旧暦1月7日の「ナンカヌシークー」と呼ばれる「世果報拝み」で集落の住民に祈られています。「イリイーの宮」の西側に祀られている「ヒヌカン」は「村の火ヌ神」とも呼ばれ祠には霊石とウコール(香炉)が祀られています。「ヒヌカン」は「ナンカヌシークー」に集落の役員によって「古堅」の繁栄と五穀豊穣を祈願して拝まれています。(ウタキ/ウグヮン)(古堅ウグヮンのフクギ)「ウタキ/ウグヮン」は「古堅集落」の北東部に位置し、戦前はフクギや種々の樹木が多数生い茂っていました。「古堅集落」の「鎮守の神」として「ナンカヌシークー」には集落の役員によって拝まれています。かつては干ばつの際に雨乞いの祈願もなされ「雨乞ウタキ」とも称されました。祠内には2つのビジュル岩、3つの霊石、3基のウコール(香炉)が祀られています。また「古堅ウグヮンのフクギ」は「ウタキ/ウグヮン」の敷地内にある数本のフクギの事で、そのうちの一本は樹齢約300年を超える見事なフクギとして「沖縄の名木百選」に選定されています。(慰霊之碑/生き残ったフクギ)「ウタキ/ウグヮン」の敷地内に沖縄戦で命を落とした古堅区戦没者御芳名が刻まれた「慰霊之碑」が2002年に建立されました。毎年6月23日には集落主催の慰霊祭が執り行われ沢山の人々に拝まれています。更に「生き残ったフクギ」と呼ばれるフクギが「慰霊之碑」に向かって右側にあります。戦前は敷地内に多くの木が生えていましたが激しい戦火で大部分が消失しました。「生き残ったフクギ」は幹を焼かれ半ば空洞化しましたが奇跡的に現在まで生き永らえ、沖縄戦の戦禍を語る生き証人としてそびえ立っています。(旧古堅國民學校跡のデイゴ)(旧古堅國民學校/古堅青年學校校門の門柱)(旧古堅國民學校の国旗掲揚台)「古堅集落」中心部の北側に「旧古堅國民學校跡」があります。沖縄戦により戦禍を受けた校門の門柱とその一帯が整備されています。校門の位置や向きは当時とは異なるものの門柱の形状、左右の間隔、門札の校名表示等はほぼ元通りに復元されています。校門前にあったデイゴは奇跡的に戦禍をまぬがれ、樹齢100年を超える「沖縄の名木百選」に選定されました。敷地の奥には「旧古堅國民學校/古堅尋常高等小學校の国旗掲揚台」が状態が良い形で残されています。(比謝川大橋)(旧トロッコレール跡)「古堅集落」南部の嘉手納町と隣接する比謝川に「比謝川大橋」が架かっています。現在も「回転橋」の名称で親しまれる「比謝川大橋」は1991年に架橋され「大木―水釜線」として整備されて読谷村の新たな南玄関となりました。 戦前は読谷村からのサトウキビ運搬用のトロッコを通すために旧嘉手納製糖工場が架けた橋でした。船が比謝川をのぼって比謝橋まで通行していたので、それらの船を通過させるため当初は開閉式の橋でした。しかし、後に橋の一部が回転する仕組みになり「回転橋」と呼ばれるようになったのです。(池原子終焉乃地)戦後、米軍に接収された「古堅集落」は「モーガンマナー住宅地」と呼ばれる米軍人や軍属家族用居住地として使用されました。そのため集落の住民は自由に集落へと戻ることができず、古堅差門原(サシジョーバル)と大湾西原(イリバル)の一部に集団移転させられました。「古堅集落」は1977年にようやく返還されましたが、長期に渡る軍用地としての使用により土地の境界が不明瞭で、返還後もその利用を巡って大変な困難に直面していたのです。元の集落での生活を回復させるまでは相当の時間を要しましたが、1990年に古堅地区土地区画整理事業が完了し「古堅集落」は新たな住宅地として生まれ変わったのです。
2021.06.28
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(喜名番所)沖縄本島中部の西海岸沿いに読谷(よみたん)村があります。読谷村の西側に「喜名集落」があり、国道58号線を中心に西側に住宅地、東側は米軍嘉手納弾薬庫地区の森に覆われています。「喜名(チナー)」の歴史は古く琉球最古の歌謡集「おもろさうし」には「きなわ」の名前で登場し、各村の生産高を示した17世紀の文献「琉球国高究張」には「喜那村」と記載されています。「ムトゥチナー」「ニシンダムラ」「シミチムラ」の3つの村が統合して「喜名村」になったと伝わります。(読谷山村道路元標)「道路元標」とは1933年に公布された道路法により、全国の各市町村に一つづつ設置されたもので市町村における道路の基準点を示す石標です。沖縄でも各市町村に「道路元標」が設置されていましたが、そのほとんどが沖縄戦で失われてしまいました。「喜名番所」の入り口に設置された「読谷山村道路元標」も旧道路法の規定に基づいて一辺が25センチ、高さが60センチの四角柱で、かつての街道に向けて建てられています。(喜名番所/読谷山役場跡)「番所」とは間切(まぎり)と呼ばれる琉球王国時代の地方行政区に置かれた拠点施設で、現在の役場に相当します。「喜名集落」は首里と国頭(くにがみ)地域の中間にあります。徒歩で双方の地域から朝に出発するとちょうど夕方頃に着く地域的位置であったため、旅人が宿を求める宿場町として賑わいました。その交通の要の地点として「喜名番所」が置かれ、1853年には来沖したペリー提督の調査隊一行もこの番所を訪れた記録が残されています。(読谷村教育発祥の地碑)「喜名番所」の北側に「読谷村立喜名小学校/幼稚園」があり、敷地の東側に「読谷村教育発祥の地碑」が建立されています。1882年(明治15年)、この地に「読谷山小学校」が読谷村内最初の公的教育機関として開校し、村中の子供達がこの学校に通いました。戦後は小中併置の「喜名初中等学校」として認可され、後に村内最初の高校がこの地に「コザ高校喜名分校」として設立されました。この分校はその後「読谷高校」として独立認可され、現在地(読谷村伊良皆)に移転したのです。(山吹の碑)(梯梧之塔)(さくら之塔)「喜名集落」北部で国道58号線沿いの丘に「山吹の碑」「梯梧之塔」「さくら之塔」の慰霊碑が建立されており、日露戦争、支那事変、沖縄戦において戦死した戦没者の氏名が刻まれています。「梯梧之塔」には「さきほこる はなびらちりし でいごじゅに くれないそめて なつはきにけり」と謳われ、「さくら之塔」には「やまざくら あらしにちるも はるくれば いろかはたかく さとにみなぎる」という詩が刻まれています。この地には旧日本陸軍や海軍の兵士のみならず、沖縄の無名戦没者の魂も祀られています。(喜名古窯跡)(喜名古窯跡の内部)「喜名古窯(喜名焼)」は沖縄の代表的な古窯の一つで、壺、甕、厨子甕、鉢などの様々な種類の器が現代に伝わっています。1250〜1280度の高温で焼かれ、固く焼き締まっているのが「喜名焼」の特徴です。15〜16世紀に行われた南蛮貿易の中で、泡盛のルーツと言われるシャム(タイ)の蒸留酒「ラオロン」と共に甕の製造技術が沖縄に伝わったとされています。「康𤋮九年(1670年)」の銘書がある「喜名焼厨子甕」が発見されており、沖縄県立博物館に所蔵されています。(マチガー/松川井)「喜名集落」の北西地区は「松川原」と呼ばれ、喜名小学校の北西側に「マチガー/松川井」があります。かつて「松川原」地区の住民の飲料水として重宝されてきました。現在の井戸はコンクリート製の蓋で閉じられていますがウコール(香炉)が設置されており、お賽銭が供えられ住民が水への感謝と神に祈る拝所となっています。ちなみに「松川原」の南側は「中原」地区があり、集落の西側は「喜名原」「前原」「中地原」「東原」「西平原」「後間原」地区に分かれています。(喜名観音堂)(土帝君/トゥーティークー)喜名小学校の西側に「喜名観音堂」と「土帝君」が祀られる聖域があります。「喜名観音堂」は1841年の旧暦9月18日に金武町の「観音寺」より勧請したもので、建物は瓦葺で四周は石が積まれ内部には千手観音が祀られていました。現在でも旧暦の9月18日には「喜名集落」の住民により観音堂拝みが行われています。観音堂の西側には農業の守護神である「土帝君」が祀った石造りの祠があります。祠内には霊石、ウコール、花瓶が設置されており、集落の住民により大切に祈られています。(ボージガー/坊主ガー)「喜名観音堂」の西側に「ボージガー/坊主ガー」があります。第17代琉球国王「尚こう王」が退任後、坊主御主として隠居生活を「喜名」で送っていました。この井戸は1822年から1827年頃に造られたと伝わります。戦前まで井戸の前は馬車も通れる大きな道があり、水を汲む馬車が行き交う活気ある場所でした。井戸の造りは石積みで囲った長方形をしており、釣瓶を使用せずに直接水を汲む方式でした。また「喜名集落」にはこの井戸の他にも「坊主カー」や「坊主チー」など坊主御主にまつわる多数の言い伝えが残されています。(西原屋取西井戸之跡の碑)(西原屋取東井戸之跡の碑)「喜名集落」の西側にある「伊良皆集落」の「西原地区」と隣接する場所に「西原屋取西井戸之跡の碑」と「西原屋取東井戸之跡の碑」が建立されています。「屋取(ヤードゥイ)」とは士族の帰農によって沖縄本島の各地で形成された小村落のことで、 18世紀の初頭に政治/経済/文化の中心地域であった首里から沖縄本島の農村地域に「良人(ユカッチュ)」と呼ばれる士族の人口移動がおこなわれました。「西原地区」の「屋取」が使用していた井戸跡として現在は石碑が建てられています。(喜名公民館)(番前池跡)現在「喜名公民館」がある場所はかつてトロッコ列車の駅があった場所で、公民館の建物の手前にある長方形の場所が正に駅の起点と終点でした。「喜名集落」周辺で収穫されたサトウキビはこの地に集められ、トロッコ列車に積まれて「嘉手納製糖工場」に運搬されました。トロッコ列車の駅の向かいには「番前池跡」があり「喜名番所」にほど近い場所に造られた溜池として水源を確保していました。現在は「喜名集落の木」として愛される楠木が記念木として植えられています。(喜名馬場跡の南側入り口)(喜名馬場跡の北側入り口)国道58号線沿いに「喜名番所」を中心に南北に300メートルほど延びる旧道一帯は「チナーンマイー(喜名馬場)跡」と呼ばれ、かつて「喜名ウマイー/ンマイー(馬追い)」という「琉球競馬」が行われた馬場跡があります。明治末期頃まで盛んに「与那国馬」による競馬が行われており「琉球競馬」は馬の速さを競うものではなく、馬の走り方の美しさを競うものでした。戦前までは道の両側にあった大きな琉球松がその名残りを留めていたのです。現在は「喜名大通り」の名で親しまれ、数多くの飲食店や駐車場が整備されています。(西森御嶽/ニシムイウタキ)「喜名集落」の東側は米軍嘉手納弾薬庫のフェンスが南北に横断しており「西平原」と「東原」地区には立ち入りができませんが、フェンスに隣接して「西森御嶽(ニシムイウタキ)」があります。この御嶽がある周辺が「喜名集落」発祥の地とされており、御嶽の西側に旧家や祭祀場が位置しています。この場所から更に西に向かって村を切り開きムラウチ(集落)を形成して行きました。その後、水源を確保する湧き水や井戸が多数存在する現在の国道58号線沿いに人々が移り住んだと考えられます。(世立火の神/ヨダチヒヌカン)(逢拝所/ウトゥーシー)「西森御嶽」は「喜名」のノロや神人らによって祭祀がなされた神聖な場所であり、かつては一般の人々が立ち入る事が出来ませんでした。1713年に琉球王府によって編纂された「琉球国由来記」にも「喜名の御嶽」として記載されています。「西森御嶽」には石造りの祠が2つあり、西側の祠には「世立火の神」が祀られ東側の祠は「ウトゥーシー」と呼ばれる逢拝所となっています。この「ウトゥーシー」は「喜名集落」発祥の地である「ムートゥンナー」に向けて建てられています。旧暦12月24日の御嶽願に集落の無事や発展に感謝と祈念を込めて拝まれています。(郵便局跡)昔から多くの人々が行き交った「喜名集落」は他の地域からの流入者(寄留民)も多く、廃藩置県以降は地人(元からの住民)と寄留民による独特な村が形成されてきました。沖縄戦後「喜名集落」と周辺の耕作地が米軍に強制接収され、現在地への移転を余儀なくされました。しかし、戦後の混乱と困難の中でも「喜名」の精神である「和衷協力」の旗印のもとに先進的な村作りが営まれ、今日の「喜名集落」の発展を迎えているのです。
2021.06.20
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(字渡具知集落のムラヤー跡)沖縄本島中部西海岸に古い歴史を持つ読谷村「字渡具知集落」があり、約7000年前の縄文時代早期には集落の南東部に位置する「東原(あがりばる)」地域には既に人類が生活していました。伝承によると「字渡具知集落」の発祥は比謝川流域にある「渡具知東原遺跡」から更に東側にある「潟原(かたばる)」と呼ばれる地域(現在の読谷村古堅)に人々が住み始めた事とされています。「東原」にあった「ムラヤー/村屋」は現在で言う公民館にあたる建物で「字渡具知集落」の中心地で現在は「ムラヤー跡」の石碑があります。(東井戸/アガリガー)度重なる洪水で集落が流された事から、「字渡具知集落」発祥の家であるニーヤ(根屋)を残して現在の高台に移住しました。「ムラヤー」の北側に「東井戸(アガリガー)」があり、祠は東側に向けられて建てられています。「字渡具知集落」は中心地であった「東原」、現在の渡具知公民館がある「前原」、渡具知泊城がある「西原」、渡具知の浜周辺の「裏牛原」、その北側の「木綿原」、「前原」の北側に隣接する「中原」、そして更に北側にある「中道原」の7つの地区で構成されています。(渡具知東原遺跡)「字渡具知集落」南部を流れる比謝川のほとりある「渡具知東原遺跡」では沖縄で出土例がない曽畑式土器(熊本県周辺で出土される土器)が見つかり、その下の古い地層からは発掘当時(1975〜1977年)では沖縄最古の土器となる爪形文土器が見つかりました。「渡具知東原遺跡」の発見によって沖縄の土器文化の源流が約5000年前(縄文時代前期)の曽畑式土器に辿れる事がわかったのです。また、当時沖縄最古の土器として約7000年前(縄文時代早期)の爪形文土器の頃まで一気にさかのぼる事となり、沖縄考古学会では戦後最大の発見と称されました。(東原遺跡のチンガー)(東原遺跡の産井戸/ウブガー)「渡具知東原遺跡」の麓に「チンガー」があり「渡具知鎮御井戸」と彫られた石碑にはウコール(香炉)が設置されています。かつて「チンガー」はつるべ式井戸でしたが、現在は井戸跡のみ残されています。「チンガー」に向かって左側には古いニービ石造りの霊石が祀られています。更に左側には「産井戸(ウブガー)」が隣接しており、祠内には「産井戸」と記された石碑とウコールが祀られ、前方に半円型をした井戸跡があります。「東原」地区で子供が生まれると、この井戸から産水を汲んで健康祈願をしました。かつて東原遺跡の丘陵から水が湧き出ていましたが、現在は拝所として水の神を祈る聖地として崇められています。(東ヌ御嶽/野奴実嶽の森)(今龍宮/イマルーグー)(渡具知昔泉井戸)「渡具知東原遺跡」の東側にある森の中腹に「東ヌ御嶽(アガリヌウタキ)」があります。「野奴実嶽(ヤノミノ嶽)」とも呼ばれ、神名は「ヒキツカケカサノ御イベ」と称します。昔から「字渡具知集落」の「東原」地区では神が宿る御嶽の森として祈られ"腰当て"として崇められてきました。「東ヌ御嶽」の南側の岩壁には「今龍宮(イマルーグー)」と呼ばれる竜神宮が祀られ、隣接する比謝川河口周辺や西海岸での豊漁や航路の安全が祈られていました。さらに「東ヌ御嶽」の森麓には涸れた古井戸があり「渡具知昔泉井戸」と彫られた石碑とウコール(香炉)が設置されています。現在は水は湧きませんが水の神に祈る拝所となっています。(旧日本軍特攻艇秘匿壕群)「東ヌ御嶽」の森の麓はいくつもの鍾乳洞の壕があり、沖縄戦における旧日本軍特攻艇を秘匿格納するために利用されていました。旧日本軍の特攻艇は「マルレ」と呼ばれベニヤ板製の全長5.6m、幅1.8mの一人乗りモーターボートに250kgの爆雷を艇尾に積んで敵の艦船に体当たりする自爆兵器でした。現在6基の壕が確認されていますが、中には土砂の堆積や岩盤の崩落が著しいものがあります。原型のまま残る壕は4基あり「旧日本軍特攻艇秘匿壕群」は過去の過ちを学ぶ歴史的遺産として非常に重要となっています。(地頭火ヌ神)(ミーガー/旧ガー)「字渡具知集落」の「東原」地区の西側に「地頭火ヌ神」があり、祠内には霊石とウコールが祀られています。琉球王府時代の地方役人(地頭)と結びついた火ヌ神を「地頭火ヌ神」と呼び、この拝所は「字渡具知集落」の守護神として崇められる土地の神様です。更に「東原」と「中原」の中間には「ミーガー(新井戸)」と「旧ガー(旧井戸)」を祀る祠があります。現在、それぞれの井戸から水は湧き出ていませんが、霊石とウコールが祀られ水の神様に祈る聖地として拝まれています。(カンカーモー)(カンカーモーの石碑)「地頭火ヌ神」と「セクルディドゥビーチ」の間にある海沿いの森は「カンカーモー」と呼ばれ、北側の麓には石碑が建立されています。「カンカー」とは「見張る」と言う意味で、この森は集落外からの悪霊を退散させる力がある守護神の森となっています。沖縄各地で「島カンカン/島カンカー」と呼ばれる悪霊退治の重要な祭事があります。集落の東西南北の入り口に左巻きの縄を張り、豚肉や骨を括り付けて悪霊を集落に呼び込まない行事で「字渡具知集落」ではこの「カンカーモー」は祭祀の中心地だったと考えられます。(中原神の石碑)「字渡具知集落」の東側に「中原」地区があり、その最東端に「中原神の石碑」が北向きに建てられています。この地点は東側の「読谷村古堅」との境界線で、かつて「トロッコ列車」の線路が敷かれていました。嘉手納製糖工場と各地のサトウキビ収穫地域を結ぶ鉄道で「中原神の石碑」の地点は南は「嘉手納」方面、北は「残波岬」方面、西は「字渡具知集落」とトロッコ列車の線路の三叉路となっていました。因みに、トロッコ運搬が始まるまではサトウキビは渡具知港に集められ船で那覇に運んでいましたが、鉄道が開通してからは船便は天候のリスクも理由に廃止されたのです。(渡具知ビジュル/地母神)(渡具知ウカミヤー/神殿)(渡具知ウカミヤーの火ヌ神)「字渡具知集落」の中心部にある「前原」地区に渡具知公民館があり、敷地内の「字神殿」には「渡具知ビジュル(地母神)」があり、祠には3基の霊石柱が祀られウコール(香炉)が設置されています。「地母神(ちぼしん/じぼしん)」とは母なる神を意味しており、一般的な多産、肥沃、豊穣をもたらす神の事を示します。更に、隣接する「渡具知ウカミヤー(カミアサギ)」の建物内部には神殿があり、天地空を祀る3つの火ヌ神が設置されて拝まれています。「カミアサギ」は集落の守護神が祀られる神聖な場所で、集落の「字渡具知ノロ」により守護神が招かれ祭祀が行われる聖域となっています。(西ヌ御嶽/裏牛嶽)(西ヌ御嶽の石碑)「字渡具知集落」北西に位置する「裏牛原」に渡具知の浜があります。この浜沿いに「西ヌ御嶽(イリヌウタキ)」が祀られており「裏牛原御嶽/裏牛ヌ嶽(ウラウシヌタキ)」とも呼ばれています。御嶽には霊石とウコール(香炉)が祀られており、頭上には「西ウラウシノ嶽 神名ナデルワンヅカサノ御イベ」と彫られた石碑が建立されています。「西ヌ御嶽」の北東側に位置する「木綿原」地区では、箱型石棺墓を伴う弥生時代の「木綿原遺跡」があり国の指定を受けています。(木綿原遺跡跡の記念碑)(渡具知木綿原遺跡)「字渡具知集落」の北西端に位置する木綿原ビーチ沿いに「木綿原(もめんばる)遺跡」があります。この遺跡は沖縄に埋葬があったという最初の証拠遺跡で、昭和52年の調査で約2200年前(弥生時代)の沖縄県貝塚時代の7墓の「箱式石棺墓」と17体の化石人骨出土しました。各々の石棺には複数の遺骨が納められ、4墓の石棺から13体の被葬者が確認されました。棺内の遺骸は伸展葬による埋葬法がとられ、骨の上には摩滅したシャコガイが置かれ、当時の人々の死者に対する精神生活が垣間見ることができる貴重な資料となっています。(渡具知の浜)「渡具知の浜」は約7000年もの長い歴史の中で人々の営みを見つめてきました。縄文時代からの人類進化、「字渡具知集落」の発祥、三山戦国時代、琉球王国時代、薩摩侵攻、沖縄戦の米軍上陸、米軍による土地接収、戦後の復興と続いた沖縄において「字渡具知」は歴史の転換機を迎える主要な土地として名を残しています。現在は平和な浜の集落として、沖縄本島各地よりマリンスポーツ、BBQ、潮干狩りなどを楽しむ人々の憩いの場となっています。「渡具知の浜」からの夕陽は特に美しく、我々にはかけがえのない平和と幸福を守り、後世に継承してゆく大切な責任があると再確認させられるのです。
2021.06.11
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(渡具知泊城/トゥマイグシク)沖縄本島中部の西海岸に読谷村「渡具知集落」があります。比謝川の河口に天然の良港を有し、昔から文物の交流の地として栄えてきました。「渡具知」は「ワタイグチ」と呼ばれ「絵図郷村張(1649年)」には「戸口村」と当てていましたが、現在では「渡具知」と表記するようになりました。沖縄の歴史の大きな節目には読谷村「渡具知」の名前が必ず現れ、1609年(慶長14年)の薩摩島津の琉球侵攻軍も、1945年(昭和20年)の沖縄戦の米軍も「渡具知」を上陸拠点にしています。(渡具知泊城/トゥマイグシク)今から約640年前、三山(北山/中山/南山)戦国時代に「英祖王」のひ孫と伝えられる3代目「湧川按司(今帰仁按司一世)」が家臣の本部大主(もとぶうふぬし)の謀反により滅ぼされました。本部大主の策略で国頭の山賊の成敗に「湧川按司」に行かせて、その留守中に城を乗っ取ってしまいました。家臣の潮平大主(すんじゃうふぬし)に助けられた「湧川按司」の幼い息子「千代松金」は乳母に抱かれ父の従兄弟である北谷大主(ちゃたんうふぬし)のいる北谷城下の砂辺砂辺村に身を隠したのです。「千代松金」は名前を「丘春(うかはる)」と変え殿内屋(トゥンチャー)で育てられました。(渡具知泊城/トゥマイグシク)その後「丘春」は読谷山間切「渡具知」に移り「渡具知泊城」を築き城主となりました。巨大な奇岩で構築された城で「丘春」は18年の長い歳月をかけて「本部大主」に殺された父の仇を打つ計画を練り機会を伺っていました。「丘春」は読谷山「大木徳武佐」にて旧臣を集め、今帰仁城(北山城)に攻め入り「本部大主」を討ち城を奪還したのです。しかし「丘春」と家族は湧川王子の孫で湧川按司二世の子「怕尼芝」の反乱に討たれ「丘春」の子「今帰仁仲宗根若按司」が落命し、一族は再び中頭や大宜見に離散する事となってしまいました。(今帰仁城主之墓の案内板)(今帰仁城主岳春/真玉津/臣下之墓)(鷹の目洞窟/タカミーバンタ)隠居の身であった「今帰仁按司丘春」は戦に追われ、長年住み慣れた読谷村間切に逆戻りします。「渡具知泊城」で再び今帰仁城奪還の態勢を整えようと試みましたが「丘春」は力及ばす当地で終身しました。岩グスクの東側にある「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」に「今帰仁岳春(丘春)」、丘春の妃「真玉津」、臣下の合葬墓があり、墓に向かって右側には「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」が東側に続いています。墓の建立に伴い、この周辺一帯は「渡具知泊城(トゥマイグシク)」と称されました。(今前昔大湾按司時代ノロ之墓)(渡具知大湾按司之墓)「今帰仁城主岳春/真玉津/臣下之墓」の左側には「今前昔大湾按司時代ノロ之墓」が隣接している事から「丘春」に深い繋がりがあった、非常に位の高いノロ(祝女)であったと考えられます。さらに「ノロ之墓」西側に続く崖の中腹には「渡具知大湾按司之墓」が鍾乳洞に構えています。初代「大湾按司」は今帰仁城主「丘春」の孫にあたり、按司の遺骨はこの「渡具知泊城(トゥマイグシク)にて「丘春」を衛るように祀らています。(親泊大主/今帰仁下り世/渡口掟/村世之墓)因みに「渡具知泊城(トゥマイグシク)」の東側に「セクルディドゥビーチ」と呼ばれる浜があり、ビーチ脇の「メーヌハンタ」の崖下に「親泊大主/今帰仁下り世/渡口掟/村世之墓」があります。今帰仁城下には「今帰仁集落」と深い関わりのある「親泊集落」があり今帰仁城を支えた人々が住んでいました。「親泊大主」も「丘春」と縁のある豪族で「怕尼芝の変」の混乱で今帰仁を逃れたと推測されます。「渡口掟(ウッチ)」は読谷山間切渡具知村の掟(役人)で「親泊大主」は「渡具知」の地に移り住み深い関係を築いたと考えられます。(鷹の目洞窟の西側出入り口)(渡具知の梵字碑)「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」を東側に抜けると「梵字碑」の祠があります。この碑は16世紀前半に琉球国に仏教を広めた「日秀上人(にっしゅうしょうにん)」に関係し、石碑に刻まれている五文字は古代インドのサンスクリット語で「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」と読み、漢字表記では「阿毘羅吽欠」となります。これは「大日如来」の真言で宇宙の5大要素である「地水火風空」を表し「オン・ア・ビ・ラ・ウン・ケン・ソワカ」と唱えることによて、魔障を退散させ善福を招く力があると信じられています。(アビラウンケンの梵字碑)「梵字碑」の建立当初は渡具知港が見渡せる「メーヌハンタ」断崖台地の上にありました。「ヒーゲーシ(火返し)」の神と呼ばれる七福の神で「ンナトゥゲーシ(港護り)」の神でもあり、港の安全と比謝川流域の航路の無事を祈願して祀られています。「渡具知集落」では旧暦9月の御嶽御願(ウタキウガン)の時にこの「梵字碑」を拝みます。石碑の材質は細流砂岩で「ニービフニ」又は「ニービ石」と呼ばれます。2016年、台地下の崩落により現在地に移設されました。「梵字碑」の祠内にはウコール(香炉)と霊石が祀られています。(米軍上陸の地碑の展望台)(米軍上陸の地碑)余談になりますが「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」の真上には「米軍上陸の地碑」と渡具知港を見渡す展望台があります。1945年4月1日に米軍が読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸しました。かつて経験した事のないこの戦争は島の文化と人々の平和な暮らしと多くの尊い人命を奪いました。この美しい海岸が二度と再び如何なる軍隊の上陸の地ともならないことを村民は祈念しています。「米軍上陸の地碑」は太平洋戦争と沖縄戦終結50周年を期して1995年12月に建立されました。(ウフガチシ)(ウフガチシの仲龍宮/中龍宮)(トゥマイグシクの世龍宮)「渡具知」の西ヌ浜(イリヌハマ)に「ウフガチシ」と呼ばれる大岩があり、岩の上に「仲龍宮/中龍宮(ナカルーグー)」と称する「龍神宮」の石碑が建立されています。干潮の時のみ訪れる事が出来る聖地で地元住民に崇められています。更に「渡具知泊城/トゥマイグシク」の岩間には「世龍宮(ユールーグー)」と呼ばれる「龍神宮」が祀られており、これらの拝所は「渡具知の聖地」として親しまれ旧暦9月の御嶽御願(ウタキウガン)の際に住民に祈られています。沖縄戦での戦没者への祈りと共に海の神への感謝を込めて参拝されています。(大木徳武佐の鳥居)「渡具知泊城」の北北東約3キロの場所にある丘陵岩陰に「大木徳武佐」と呼ばれる祠があります。一帯は樹木が茂り岩陰にコンクリート製の鳥居と祠が建っています。祠に向かって右側の「徳武佐碑」には「今から六百年前 三山戦国時代 中今帰仁按司 戦に追われ 此処にて身を遁る 其の後当他方にて過し帰城す 古来徳武佐お宮と称し崇拝す (毎年旧九月十三日参拝) 一九六四年旧九月十三日」と記されています。(大木徳武佐の祠)(大木徳武佐の祠内部)今帰仁城を追われた「丘春」がこの地で旧臣を集め、今帰仁城(北山城)に攻め入り「本部大主」を討ち城を奪還した事により、その子孫がこの場所を徳として毎年9月13日に参拝するようになりました。その後「大木集落」でも「徳武佐拝み」を行い集落の繁栄を祈るようになったと言われています。「大木徳武佐」のお宮は救世の神や子授けの神のみならず、除難、招福・家内健康・繁栄のご利益もあるとして多数の人々が参拝に訪れます。(泊城公園の入り口)(渡具知泊城/メーヌハンタの台地)「梵字碑」と「米軍上陸の地碑」があるメーヌハンタの花咲く台地にはヤギが放し飼いされる平和な光景があります。かつては「丘春」が今帰仁から逃げ落ち身を隠した「渡具知泊城」周辺は「琉球処分」や「沖縄戦」の上陸地にもなり、時代の戦乱の世に翻弄されてきました。「泊城公園」は琉球の長い歴史が詰め込まれた時代の証人として存在し、多くの拝所を有する聖地として人々に崇められ拝まれているパワースポットなのです。
2021.06.05
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(慈眼院の獅子)うるま市伊計島の「伊計神社」を訪れた際に「伊計ノロ」の中村ユキ子さんに出会いました。神人(カミンチュ)の中村さんは「伊計権現堂」で神のお告げを聞き、私に「首里十二ヶ所巡り」をするように伝えてくれました。那覇市首里にある四つの寺に十二支が祀られており、自分の干支のみならず十二全ての干支を参拝するように勧めてくれたのです。十二支あっての自分の干支であり、四つの寺で祈る事で次の扉が開くと教えてくれました。(慈眼院/首里観音堂)(慈眼院の石碑)「首里十二カ所巡り」とは那覇市首里にある四カ所の寺院に祀られている十二支の守り本尊を巡拝して、健康や開運を祈願する琉球王国時代から大切に継承される首里伝統の風習です。「首里十二支巡り」や「寺回り(テラマーイ)」とも呼ばれ現在でも多くの参拝者が沖縄県内のみならず日本全国から祈りに訪れます。琉球王国時代より寺院は王府に大切に保護されてきました。現在は十二支を守護する全八体の仏像が首里にある四つのお寺に祀られています。まず一つ目の寺は那覇市首里山川町にある「慈眼院(首里観音堂)」です。(慈眼院本殿の本殿)(萬歳嶺記の石碑/観音竹)臨済宗妙心寺派萬歳嶺「慈眼院(首里観音堂)」の守り本尊と干支は「千手観音菩薩(子)」「虚空蔵菩薩(丑・寅)」「普賢菩薩(辰・巳)」「勢至菩薩(牛)」の四支です。「萬歳嶺(ばんざいれい)」とは「上(ウィー)ナチジナームイ」とも呼ばれていた首里台地の西端に位置する丘です。1617年に後に国王となる「尚豊」が国質として赴いていた薩摩から無事に帰国しました。首里に入港する船が丘から見えて「万歳」を繰り返した事から「尚豊」の父「尚久」がその丘を「萬歳嶺」と名付け、千手観音像を奉じ「観音堂」と「慈眼院」を建立しました。(大平山安國寺/仁王門)(安國寺本殿/不動殿)那覇市首里寒川町にある臨済宗妙心寺派太平山「安國寺」は、第一尚氏の第六代「尚泰久王」の時代(1457年)に開山した歴史ある禅寺です。「安國寺」の守り本尊と干支は「不動明王(酉)」です。「安國寺」はもとは那覇市首里久場川町に位置していましたが康熙13年(1674年)に現在地に移転しました。沖縄戦で寺院が焼失し住職も戦死しましたが、戦後に復興し現在に至っています。(安國寺/首里森十二支堂)(安國寺/観音菩薩)「安國寺」は県立首里高校と世界遺産の「玉陵(たまうどぅん)」に隣接した閑静な地域に位置しています。「尚泰久王」や次代の「尚徳王」(位1461~1469年)の時代には「護佐丸・阿摩和利の乱」や「鬼界島征服」が行なわれ、多くの人命が失われたことから「安國寺」創建の動機として、敵味方問わず供養を行ない善願をもって日々に願いを立て冥福を祈る目的があったと考えられます。また、世祖の冥福を修し当君の健康を祈るために造られた梵鐘にみえることから、戦乱の世を沈め平和を懇願する意図が建立に込められていたと思われます。(西来院/達磨寺)(達磨寺本殿)那覇市首里赤田町にある臨済宗妙心寺派「西来院(達磨寺)」の開山は菊隠宗意、山号は達磨峰、寺号は達磨寺です。1573~1619年に建立されたとされていますが、実際の建立時期はそれよりも前にあり「西来院(達磨寺)」の守り本尊と干支は「文殊菩薩(卯)」と「阿弥陀如来(戌・亥)」です。建立当初は那覇市儀保町ありましたが明治時代に現在地に移設されました。沖縄戦で消失しましたが直ぐに再建され「首里十二カ所巡り」や健康、開運、安産祈願で沖縄県内外から多数の参拝者が訪れます。(南無水子地蔵菩薩)(稲荷大明神)(ニ尊堂)「首里十二カ所巡り」は沖縄の言葉で「テラマーイ」と呼ばれ、自分の守り本尊(守護仏)を知り、今生に感謝しながら巡礼することを意味します。本殿には「達磨仏」の銅像が設置されており「なぜだるま」として長年に渡り参拝者に撫でられて祈願されています。「達磨寺」の境内には、観音様や水子地蔵が祀られたお堂があります。本殿前の鐘の脇を下りると正面に「稲荷大明神」の鳥居があります。その奥に弁財天と観世音菩薩が祀られた「二尊堂」や「金運神社」が建立されています。(盛光寺の仁王像)(盛光寺本殿)臨済宗妙心寺派「盛光寺」の詳しい建立時期は不明ですが、明治元年には那覇市久米に存在していました。明治の後期頃に現在の那覇市首里宜保町に移転しました。沖縄戦で消失してしまいましたが、十二代住職により再建され現在に至ります。「盛光寺」の守り本尊と干支は「大日如来(未・申)」です。「盛光寺」のニ階にある本殿には「釈迦如来坐像」が祀られており"今月のことば"として「本来無一物」と「親が拝めば 子が拝む 拝む姿の 美しや」と掲載されていました。(涅槃堂)(智拳印の釈迦如来坐像)「盛光寺」の一階には「涅槃堂」の納骨堂があり「釈迦如来坐像」が祀られています。「釈迦如来坐像」は「智拳印」の印相を構えています。「智拳印」とは「大日如来」独特の印相で、最高の智慧を表している姿だと言われています。右手が左手の指を包むような形は、インドで"清浄の手"とされる右手が「仏」を表し"不浄の手"とされる左手が「衆生」を表します。つまり「仏」の智慧が「衆生」を包み込むことを表しています。薄暗い納骨堂には「釈迦如来坐像」が醸し出す静かで優しい雰囲気に包まれていました。(宜保の南無地蔵菩薩)(盛光寺の石碑)「盛光寺」本殿の「本来無一物」とは「事物はすべて本来、空(くう)であるから、執着すべきものは何一つない」という事を意味します。「涅槃堂」の納骨堂の入り口には「宜保のお地蔵さん」と呼ばれる「南無地蔵菩薩」が祀られています。菩薩像の足元には二十六体のお地蔵さんが並んでいます。「涅槃堂」の正面に「心の内に仏あり」と刻まれた石碑があります。「首里十二カ所巡り」の最後を締め括る素晴らしい言葉で、私は「伊計ノロ」の中村ユキ子さんの言葉を思い出しました。「神に祈る事は人として自然な事だが、神は祈っても何かを叶えてくれる存在ではない。祈る人の心を変えるのが神なのです」
2021.06.02
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(尚巴志王之墓)沖縄本島中部の読谷村「伊良皆集落」に「サシチムイ(佐敷森)」と呼ばれる緑豊かな森林があります。この森は国道58号線と米軍嘉手納基地弾薬庫の間に位置し、琉球三山(北山/中山/南山)時代を統一した第一尚氏王族の陵墓がひっそりと佇んでいます。「佐敷森」の名前は第一尚氏の出身地である「南城市佐敷」を偲んで名付けられ、王族が眠るこの森は混乱の世を生き延びた一族の誇りと、親子三代の強い絆を物語る逸話が込められています。(殿内火之神/トゥンチヒヌカン)国道58号線を嘉手納町から読谷村に入り「伊良皆」の信号を超えて直ぐ右に東に進む農道があります。真っ直ぐ進むと「ヒーハナジモー」がありますが、現在は米軍嘉手納弾薬庫の敷地内にあります。農道の一番初めを左折すると「サシチムイ(佐敷森)」に進む小道が続きます。まず初めに右手に「殿内火之神」があり「サシチムイ」を背に建てられており、祠内には中央の霊石を囲むように3つのビジュル石が祀られています。「サシチムイ」の入り口にある「殿内火之神」は聖なる森の"お通し"を意味する拝所となっています。(前ヌカー)(前ヌカー脇の香炉と水甕)ちなみに「殿内」とは琉球士族の総地頭職にある親方家を指す尊称で、王族である御殿の下に位置し高い格式を誇る家柄を指します。「殿内火之神」から続く「新綱引き(チナヒチ)道跡」を100メートルほど進むと右側に「前ヌカー」があります。状態の良い石垣で囲まれたこの井泉には現在も豊富な湧水があり、井戸の上部には2つのウコール(香炉)が祀られています。さらに井戸に向かって左側にはもう1つの香炉と非常に古い石造りの水甕が設置されていました。(ウフカー)(唐ヌカー/ウブガー)「前ヌカー」をさらに「サシチムイ」方面に向かうと右側に下る脇道があり進んで行くと「ウフカー」と「唐ヌカー」があります。子供が産まれた時に使用する産水を汲んだ井戸で、2つの井戸は近い位置に存在しています。「ウフカー」は水が枯れた井戸跡でしたが3つのウコールが設置されています。「唐ヌカー」は保存状態が良い石垣造りの井戸で、現在も豊かな水源をもたらしています。井戸にはウコール(香炉)があり、水の神に祈る拝所にもなっているのです。(ユナサモーの拝所)さらに農道を北に進むと沖縄戦の際に造られた「軍用機秘匿場跡の石畳」が続きます。この石畳に沿った右側は「ユナサモー」と呼ばれる森の御嶽となっています。「ユナサモー」には拝所が森の御嶽に向かって建てられおり、祠内には中央奥に御嶽を祀る主体のウコール(香炉)があり、前方に4基の香炉が設置されていました。御嶽の神と天地海空を意味するウコールが祀られ、集落の住民により祈られています。(イーヌカー/上ヌカー)「サシチムイ」の麓に「イーヌカー(上ヌカー)」があり、周辺では一番大きく湧き出る水量も最大となっています。「伊良皆集落」の住民の飲料水や生活用水に利用され、収穫した野菜を洗ったり衣類の洗濯をした井戸であったとも考えられます。「イーヌカー」は旧正月には若水を汲み、年中行事の中で祈りを捧げる神聖な場所であります。井戸の上部には祠が設置されておりウコールが祀られています。現在は農業用水として利用され、この一帯は現在も伊良皆の人々により整備や清掃がされて大切に守られています。(平田子之墓の鍾乳洞)(平田子之墓)(平田子の家系図)「イーヌカー」の直ぐ脇に「サシチムイ」の森があり、中腹には「平田子之墓」があります。「平田子(ひらたぬしー)」とは琉球三山時代を統一して琉球王国の初代国王に即位した「尚巴志」の長男です。「尚巴志」は父である「尚思紹」の次男「平田大比屋」が南山攻撃で戦死した際に「佐敷王子」だった長男を跡目に継がせました。こうして「尚巴志」の長男は平田家の養子となり「平田子」となりました。「平田子之墓」には「平田子」の家系図を示す石碑があり、息子が「高荘平田」その息子が「休林平田親雲上」さらに、その息子が「平田親雲上嗣嵩」と家系は続いてゆきます。(尚巴志王之墓の石碑)(尚巴志王之墓に向かう森)(第一尚氏王族陵墓の石碑)「尚巴志」は1429年に三山を統一して初代王に父の「尚思紹」を押し立てて「第一尚氏」王統の始祖となりました。父が亡くなった後に「尚巴志」は二代目の王となりました。その後、7代(63年)続いた「第一尚氏」の王達は最初、首里の天山陵に葬られていましたが、金丸(のちの尚円王)擁立のクーデターで一族と家来たちは首里を追われ、陵墓が焼き討ちにされる前に家臣の「平田子」と「屋比久子」達は亡き王達の遺骨をたずさえ各地に逃げ落ちたのです。(尚巴志王/尚忠王/尚志達王陵墓の鍾乳洞)(尚巴志王/尚忠王/尚志達王陵墓)(陵墓の脇に続く鍾乳洞)かつて「尚巴志」が北山討伐の際に駐屯し、妾(めかけ)の「喜納東松田ノロ(祝女)」の故郷である読谷村伊良皆の森の岩陰に「二代目尚巴志王」の遺骨を埋蔵し「三代目尚忠王」と「四代目尚思達王」の遺骨は同村喜納の東側にある「竹山慶念堂」に葬り、後世になり伊良皆の「サシチムイ」の森に移動されました。陵墓の鍾乳洞からは現在も水滴が滴り落ち、墓前のウコール(香炉)には献花、酒、果物、お賽銭が供えられ、常日頃から参拝に来る人々が絶えない事が分かります。陵墓に向かって左側には鍾乳洞穴が奥深く続いており、非常に神秘的な雰囲気に包まれています。(屋比久子之墓の鍾乳洞)(屋比久子之墓)首里の天山稜で「尚巴志」「尚忠」「尚思達」の遺骨を焼き討ちから守った「屋比久子(やびくぬしー)」は一緒に遺骨を持ち出した「平田子」の息子で「尚巴志」の孫にあたります。祖父の遺骨を「サシチムイ」に葬った「屋比久子」の墓も同じ森に位置しています。「屋比久子之墓」は丁度「平田子之墓」と「尚巴志王之墓」の中間にあり、現代に至ってもなお「第一尚氏王族」の陵墓は「平田子」と「屋比久子」に守られている形となっています。墓前には父親である「平田子之墓」と同じ扇子の模様が彫られたウコール(香炉)が設置されています。(佐敷村字佐敷みひち門中参拝記念碑)「尚巴志王/尚忠王/尚志達王陵墓」の入り口に「佐敷村字佐敷みひち(御引)門中」の参拝記念碑があり、現南城市のこの門中は「第一尚氏王族」を氏神と称して崇める氏子(うじこ)です。「門中(もんちゅう/ムンチュー)」とは沖縄県における始祖を同じくする父系の血縁集団の事です。「門中」は17世紀後半以降、士族の家譜編纂を機に沖縄本島中南部を中心に発達し、のちには本島北部や離島にも拡がりました。 その活動形態や組織結合の度合いは地域によって大きく異なります。(宮城島東江門中参拝記念碑)更に「サシチムイ(佐敷森)」の陵墓には「宮城島東江門中」の参拝記念碑も建立されています。うるま市宮城島宮城自治会の「なぁぐすく字誌」(2005年11月発行)によると「宮城島東江門中」は中山系で宗家は佐敷の新里にあると言われています。始祖は尚巴志の父(尚思紹王)の兄弟の分かれで、三山統一後に宮城島に逃れた者がいないか調べに来た際に、宮城島の女性と結婚して島にそのまま住み着きました。両門中は「神シーミー(神清明/門中シーミー)」や「東御廻り(アガリウマーイ)」に毎年訪れて参拝しています。(平田子のマーイサー)「尚巴志」「平田子」「屋比久子」の墓が祀られる「サシチムイ」の麓にある「イーヌカー」には大岩があり、これにまつわる「大力平田子(だいりきひらたしー)」という民話が読谷村に伝わります。『「平田子」は伊良皆に住むようになってからは畑仕事をしていたそうです。ある日、牛に犂すきを引かせて田を耕していると、金丸(のちの尚円王)からの刺客が佐敷森に「平田子」を探しに来たのです。すると「平田子」は田を耕していた大きな牛を捕まえて引っ張り畦あぜに放り上げました。さらに「イーヌカー」脇の土手にあった非常に巨大な石を「平田子」が一人で持ち上げ放り投げたのです。「こんな大きな牛を掴まえて放り投げるし、更にこんなに大きな石も取って放り投げるのだから恐ろしい人だ」と刺客は逃げ帰ったのでした。』(サシチムイ/佐敷森)この民話にちなんで「イーヌカー(上ヌカー)」の脇にある大岩は現在「平田子のマーイサー(大きな石)」と呼ばれて多くの人々に愛されています。そして、琉球王国の初代の王「尚巴志」は実の息子である「平田子」と孫の「屋比久子」に現在も守られ、更に所縁の深い「佐敷村字佐敷みひち(御引)門中」と「宮城島東江門中」に毎年参拝され「第一尚氏」一族は「サシチムイ(佐敷森)」に安らかに眠っているのです。
2021.06.01
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(旧字桑江御願所)沖縄本島北谷町にある「桑江集落」は元来、現在の北谷町美浜地区と米軍キャンプ桑江(キャンプレスター)が所在する地域にありましたが、沖縄戦後に米軍により「桑江集落」の土地は接収されてしまいました。行き場を無くした集落の住民は現在の北谷町桑江地区の丘稜地に移住させられ、山や森を切り拓いて戦後の混乱を必死に生きてきました。そのため、集落に代々継承される数多くの拝所は米軍基地内に取り残されていたのです。(旧字桑江御願所と竹山御嶽)(竹山御嶽の拝所)戦後「桑江集落」の住民は米軍に強く懇願して集落に点在していた拝所への御祈りを求めました。米軍側はキャンプ桑江(キャンプレスター)内に集落の11の拝所を合祀する御願所の建立を許可して基地内にある「ナルカー(奈留川)原」の水源地近くに所在する場所に「旧字桑江御願所」を設置して集落の神々を祀りました。しかし、基地内という事で住民はいつでも自由に拝する事が許されず、御願所は現在の「桑江公園」内にある「竹山御嶽」の麓に移設されました。(竹山御嶽の階段)(竹山御嶽の石碑)「桑江集落」の北東側にある竹林の山は「竹山(だきやま)」と呼ばれ、所在したガマ(鍾乳洞)を祀り「竹山御嶽」と称されました。竹山には太さ10センチ程のモウソウチク(孟宗竹)が多数生えており「桑江集落」の住民は収穫した竹を物干し竿に加工し利用していました。伝承によれば「谷茶大主」に攻め滅ぼされた「北谷グスク」の「大川按司」が逃げ延びた場所で「竹山御嶽」はそれに由縁する御嶽であると言われます。(奈留川の石碑)「奈留川(ナルカー)」は昔より「桑江集落」に豊かな水源をもたらす"神が宿る川"として大切に崇められてきました。「竹山御嶽」の麓に移設される際に「奈留川」の神様も合祀されて住民に拝まれるようになりました。戦後、米軍キャンプ桑江(キャンプレスター)の敷地内にあった「旧桑江御神所」には元々10基の石碑が合祀されていましたが、移設後に「奈留川」の石碑が向かって一番右側に新しく追加され、現在は11基の石碑が合祀されているのです。(ニーヌーファの石碑)「ニーヌーファ」は現在の御願所に位置し、集落の古老によると支那事変(日中戦争)の頃に「竹山御嶽」の神を遷して祀ったようです。戦前「ニーヌーファ」では集落のノロ(神人)やヤクミ(役目)と呼ばれる行事世話役によって一年間の神事開始を告げるハチウガミ(初拝み)が行われ、住民の無病息災や豊作祈願なども併せて行われていました。昭和13〜14年頃に出征軍人が拝んでいた拝所です。現在では「桑江集落」の安泰や住民の健康祈願が行われ拝まれています。(土帝君の石碑)「土帝君」は「土地公」と呼ばれる中国由来の土地の神様の事で、戦前の「桑江集落」の南側に位置していました。「琉球國由来記(1713年)」によれば「土帝君」では戦前まで旧2月1日から3日間「ニングヮチャー」の行事が行われ、その際「シンムイ」と呼ばれる、お膳に大根や豆腐などを盛ったものを供えて豊作の祈願を行ったと伝わります。石碑にはウコール(香炉)が設置されており、現在も「桑江集落」の住民により拝まれています。(カンカ神の石碑)現在の「北谷町役場」付近には戦前には池があり、その池の近くに「カンカ神」が祀られていました。旧暦の12月7日には「カンカー」と称した悪霊侵入防除の儀礼を行なっていました。「カンカー」とは"見張る"という意味で、行事は先ず池で豚を殺して解体し、その骨片や肉をヒジャイナー(左巻の縄)に挟み、村の入口に吊り下げたり「カンカ神」に供えて、悪霊や悪疫の集落内への侵入を阻止しました。残りの豚肉はその場で煮炊きされて「桑江集落」の老若男女が共に食したと伝わります。(豊年神/サーターモー/遊神の石碑)「桑江集落」の南側で現在の米軍キャンプ桑江(キャンプレスター)内の米軍病院の裏側には「サーターヤー(製糖工場)」があった為、この一帯を「サーターモー(砂糖森)」と呼んでいました。そこには「豊年神」と「遊神」が祀られ旧暦8月15日の「十五夜の遊び」には、豊作を感謝する唄や踊りが奉納されたと伝わります。現在はフチャギ(沖縄伝統のお餅)や果物などを供えて祈願がおこなわれています。(びじゅる/産川/大荒神川の石碑)「びじゅる」は戦前に存在した北谷トンネル(現在の国道58号線「謝苅交差点」)の北西側に位置していました。「北谷町史」には「びじゅる」はクスッキー(腰憩い)と呼ばれる農耕儀礼を行う聖地で、琉球八社の一つである「普天間宮」の発祥に関わる「普天間権現」とクサイ(特別な関係)と言われていたと記されています。「産川(ンブガー)」は集落で子どもが誕生した際に産湯(ンブミジ)に使用する水を汲む井戸で、戦前までは「桑江集落」の南側に位置していました。「大荒神川」については未だに詳細が解明されていなく、米軍基地返還後に本格的な調査が行われる予定です。(トン/村火神)「トン(殿)」は戦前の「桑江集落」北側、現在の「北谷高校」周辺に位置していました。「琉球國由来記(1713年)」によれば「トン(殿)」では集落北側に隣接する「平安山集落」のノロ(祝女)が「四ウマチー(2月/3月/5月/6月の収穫祭と感謝祭)」を司っていました。「村火神」は「桑江集落」の火ヌ神(ヒヌカン)で集落の守護神が祀られて住民に拝まれていました。「村火神」は現在、米軍キャンプ桑江(キャンプレスター)の敷地内にあると考えられ、正確な位置は戦後の混乱で不明になっています。(竹山御嶽の麓にある井泉)(桑江公園と桑江自治会の間にある井泉)「竹山御嶽」の丘稜は豊かな水源を生み出し現在も水量が豊富に湧き出ています。かつて竹林で竹を収穫した住民も作業の合間に喉を潤していた事でしょう。「竹山御嶽」に逃げ込んだ「北谷グスク」の「大川按司」は御嶽からの恵みにより生き延びたと考えられます。「竹山御嶽」の麓にある井泉はウコール(香炉)が設置されており、神の水として現在も住民に崇められてらいます。桑江自治会に近い場所にある井泉にはポンプが設置されており周辺地域に恵みが分けられています。(竜宮神)北谷公園入口の北東側に「龍宮神」を祀る祠があり、中には神体としてニービヌフニ(微粒子砂岩の石核)が3つ安置されています。この場所は現在「北谷町美浜2丁目」に属しますが、戦前は「桑江集落」の南側に位置していました。「竜宮神」がある場所の西側に大型ショッピングモール「イオン北谷店」、北西側には「美浜タウンリゾート/アメリカンビレッジ」がありますが、いずれも戦後に開発された埋め立て地です。つまり「竜宮神」は海に面して建てられていた事が分かります。(竜宮神の祠内部)「龍宮神」へは年末の御解ち(ウフトゥチ)とも呼ばれる解ち御願(フトゥチウガン)や正月の初拝みや、5月5日のハーリーの後にはニーヤー(根屋)の家人と共に「桑江ヌ前」や「桑江ヌ中(屋取集落)」のフニムチャー(船主)が拝んでいたと伝わります。現在は5月の吉日に「竜宮拝み」と称して「桑江集落」の住民が魚貝類などの海の幸を供えて拝んでいます。ちなみに「竜宮神」の南西側に「北谷町立桑江中学校」があり、現在の住所は「北谷町美浜1丁目」ですが、この地がもともと「桑江集落」だった事を示しています。(竹山御嶽の猫)(桑江公園入り口)沖縄戦で米軍に没収された「桑江集落」は戦後半世紀を経て部分的に沖縄に返還されています。しかし、もともと「桑江集落」だった土地は現在「北谷町美浜」と名を変えて沖縄有数のリゾート地として生まれ変わり数多くの観光客で賑わい、新しく建設された高層マンションには米軍兵士やその家族が数多く暮らしています。「桑江集落」が先祖代々受け継いできた伝統文化、拝所、ガマ、井戸、軽便鉄道は姿を消してしまいました。本当の意味での「終戦」や「沖縄返還」とは何なのか?「桑江集落」は良くも悪くも、戦争が全てを変えてしまう現実を我々に訴えかけているのです。
2021.05.28
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(イツクマの浜)「伊計島」は沖縄本島中部のうるま市にあり面積1.8平方km、長さ約2km、幅約1km、周囲7.5kmの南北に細長い島です。与勝半島の北東側に浮かぶ平安座島、宮城島、そして伊計島に順に並ぶ島々はそれぞれハナレ、タカハナレ、イチハナレと呼ばれ、昭和47年に海中道路が開通されるまでは屋慶名港から出る船が唯一の交通手段でした。「伊計島」の住民は島の南部にある「伊計集落」に集中し、さまざまな遺跡文化財を有しています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(ヌンドゥンチ内部/向かって右側)(ヌンドゥンチ内部/向かって左側)「伊計集落」の中心部に「ヌンドゥンチ」と呼ばれるノロ殿内があり赤い鳥居が建てられています。伊計島のノロ(神人)が神々に祈りを捧げる聖域で、殿内の内部には向かって右側にヒヌカン(火の神)と七福神の掛け軸が祀られています。向かって左側にもヒヌカン(火の神)とビジュル霊石とウコール(香炉)が祀られています。琉球古民家の仏間と家屋構造は文化的にも歴史的にも非常に価値があります。(ウドゥイガミ/天神堂)(ウドゥイガミ内部/向かって右側)(ウドゥイガミ内部/向かって左側)「ヌンドゥンチ」の東隣に「N高等学校(旧伊計小中学校)」があり、校庭はかつて「伊計集落」のアシビナー(遊び庭)としてエイサーや獅子舞が披露される芸能の中心部でした。現在、その場所に「ウドゥイガミ/踊神」が祀られる「天神堂」があります。建物内部には向かって右側に七福神の掛け軸とウコール(香炉)、中央の仏壇にウコールと花瓶、更に向かって左側にはビジュル霊石とウコールがそれぞれ祀られています。(神アシャギ)(地頭火ヌ神)「天神堂」の南東側に「神アシャギ」があり「トゥンチマー」とも呼ばれます。伝統行事の拝みの際に海から訪れた神をこの場所で集落のノロが迎い入れてもてなします。さらに樹齢の長いガジュマルの木の下に「地頭火ヌ神」が祀られています。ニービ石で造られた石碑にはウコール(香炉)が設置されており、幾つもの霊石が供えられています。「地頭火ヌ神」があるこの場所は昔から集落の中心部であった事が考えられます。(伊計神社/種子取神社)(弁財天)「神アシャギ」と「地頭火ヌ神」があるこの地は「掟殿内(ウッチドゥンチ)」と呼ばれる「掟神(ウッチガミ)」を祀る聖地です。「ヌルドゥンチ」よりも古い歴史があると言われ「伊計集落」の祭祀行事の中心地として崇められました。現在、この地には「伊計神社」があり、境内には「弁財天」の社殿があります。「伊計神社」は「種子取神社」とも呼ばれ「琉球八社」の一つである那覇市奥武山「沖宮」の末社として奉仕されています。「伊計集落」の根所(集落発祥の地)に「伊計ノロ」の家と集落の4つの家の合資により建立された「伊計神社」の御本尊には「大黒」「恵比寿」「弁財天」が祀られています。「沖宮」の先代宮司の一番弟子であったカミンチュ(神人)の「伊計ノロ」が建立した神社であるため「伊計神社」には「沖宮」との強い結びつきが生まれたのです。(伊計権現堂)「伊計神社」に隣接して「七観音」が祀られている「伊計権現堂」があります。ここで「伊計神社」の代表である「中村ユキ子」さんとの出会いがありました。中村さんは現役の「伊計ノロ」で「伊計神社」を建立した「伊計ノロ」は中村さんの母親です。中村さんは「せっかくだから、見てあげるよ」と言い私を権現堂に案内しました。自己紹介と生まれ年と干支を言い会話が始まりました。「ここに迷わずにたどり着けたのは神様に呼ばれた証。あなたのように御嶽などに足を運ぶのは、そこの神様に呼ばれているから。もし肩が重くなったり体調不良になったら、歓迎されていないので立ち去るべき。もし歓迎されているなら非常に心地良い気分になる」など私は現役の「伊計ノロ」との会話に引き込まれていました。(権現堂の内部)続けて中村さんは権現堂の祭壇に目を向けると「あなたは"琉球八社(七宮八社)と首里十二支巡りをしなさい"とたった今、神様から告げられた。時間がある時に無理せず急がず全て巡れば、扉が開き次の段階に行ける。次の段階では新しく理解する事に気付き、新しく見えるもがある」と「七観音」の神様からのお告げを私に伝えたのです。さらに「あなたが住んでいる場所の土地神は普天満宮だから必ず拝みに行きなさい。働いている場所の土地神にも挨拶を忘れずに行うこと」と続け、土地や自然への感謝は人として当然の事だと伝言を頂きました。(伊計神社の祈りの30箇条)更に中村さんから「伊計神社の祈りの30箇条」を頂戴しました。第1条は「伊計神社」を祈る事から始まる意味が込められて、30箇条は第2条から始まっています。「伊計神社」と「伊計権現堂」に描かれた龍の絵画の作者による「弥勒菩薩(ミルク神)」が添えられています。30箇条の全てが大切で重要な要素でありますが、「2. 祈りは魂を込めて」「5. 祈りは無欲無心に」「18. 祈りは原始からの行動である」「22. 祈りは魂の根源に存在する」「23. 祈りは人間性を高める」の5つが現在の私の心に特に響きます。非常に貴重なものを頂いたので額縁に飾り大切にしてゆきます。(伊計島亀岩龍宮神)「伊計ノロ」の中村さんは「今度来る時は電話してから来たら良い」と言って私は名刺を頂戴しました。最後に中村さんに「これから龍宮神に行きなさい」と告げられました。「伊計神社」から南に一本道を進むと「イツクマの浜」に出て「伊計亀岩龍宮神」に到着しました。「亀岩」と呼ばれる孤立した岩には「龍宮神」の石碑が東向けに建てられており、海の神様である「ニライカナイの神」が祀られています。「伊計集落」の神事の中心地である「ウッチドゥンチ」から「竜宮神」への一本道は昔から「神道」であったと考えられます。(イツクマの浜/石獅子)(ウスメーハーメー)「伊計島亀岩龍宮神」に隣接して「イツクマの浜」があり、浜の脇には「石獅子(シーシ)」が設置されています。この「石獅子」は海中から発見されて引き上げられ、次のような逸話が伝わります。『昔、ある男が土地の開墾の為に石獅子を3つに割り除去しました。すると男に災いが起きた事から石獅子の祟りだと信じられたのです。』「石獅子」は元の姿に復元され「イツクマの浜」に向けて海の安全を見守っているのです。また「石獅子」の直ぐ西側には「ウスメーハーメー」の石柱が建立されています。「ウスメー」は"お爺さん"「ハーメー」は"お婆さん"の意味があります。(セーナナー御嶽)(セーナナー御嶽の鳥居)伊計島の最南端に「セーナナー御嶽」があります。この地は伊計島に最初に人が暮らした地と言われる聖なる森です。この御嶽の入り口に「御嶽の鳥居」が建てられています。現役「伊計ノロ」の中村ユキ子さんによると、この御嶽は「伊計神社」と深い関わりがあり、神社建立の礎となった神様が降臨した聖地と崇められています。SNS、YouTube、インターネット上では「セーナナー御嶽」が間違えた認識で紹介されています。御嶽の先の岩場にある"丸い鏡"は新興宗教が勝手に設置したもので「セーナナー御嶽」とは全く関係がありません。勿論、歴代の「伊計ノロ」も現役の「伊計ノロ」の中村さんも岩場の"丸い鏡"を絶対に拝む事はありませんし、うるま市教育委員会も文化財として認めていません。(セーナナー御嶽の石碑)(セーナナー御嶽の社)「セーナナー御嶽」の森に「金刀比羅大神、恵比須大神、大國大主神」が祀られています。「金刀比羅大神」は天神地祗八百万神の中で運を掌る神。「恵比須大神」は七福神の福の神、漁業の神。「大國大主神」は国造りの神、農業神、薬神、禁厭の神。石造りの拝所は本殿と社殿に3つの神々が祀られていると考えられ、それぞれの神にウコール(香炉)と霊石が供えられています。「セーナナー御嶽」は定期的に「伊計神社」の現役「伊計ノロ」の中村さん達により清掃され拝まれているそうです。(セーナナー御嶽の拝所)(御先神様御降臨の聖地)「セーナナー御嶽」の森から海側に抜ける通路があり、向かって左側に御嶽の守護神である石造りの拝所がありヒラウコー(琉球線香)が供えられていました。海に抜ける道の先も聖域となっており、拝所は神聖な場への"お通し"の役割もあると考えられます。更に向かって右側に「御先神様御降臨の聖地」と刻まれた石柱があります。つまり、この石碑が建立されている森の一帯は神様が降臨した聖地であると示しています。森を抜けると突然辺りが太陽の光に包まれており、大小数えきれない程の色とりどりの蝶々が私の周りを舞っていました。後に「伊計ノロ」の中村さんに話したところ「聖地があなたを歓迎している証。実際に蝶々がいたのか、それともあなたにしか見えない神業か、いずれにせよその不思議な体験は、一つクリアした事になる」と仰っていました。(聖地の石碑)無数の蝶々に歓迎されて森を抜けた突き当たりにニービ石造りの石碑が建っています。「天帯子御世結び (てんたいしうゆうのむすび) 伊計種子取繁座那志 (いけいたんといはんざなし) 中が世産女母親 (なかがゆううみないははしん)」と彫られています。つまり「伊計種子取」の神様を祀る石碑で13〜14世紀の「天帯子」の三山時代に「産女母親」によって建立された事を意味しています。この「種子取」の神は「農耕の神様」を意味し「伊計ノロ」の中村さんによると「伊計神社」は元来、この農耕神を祀った神社で、その証拠に「伊計神社」は別名「種子取神社」と呼ばれます。実際に「伊計権現堂」には「伊計種子取神社」と木彫りされた古い扁額(へんがく)が存在します。(伊計神社のフクギ道)「伊計ノロ」の中村さんが歴代ノロから受け継いだ「種子取神」の伝承があります。その昔、伊計島の先人が「セーナナー御嶽」を抜けた岩場から海に浮く大きな甕壺を見つけました。いくら手を伸ばしても甕壺は逃げてゆきます。その時は汚れた衣服だったので、後日きれいな正装をして再び訪れると甕壺が海から飛び出し上陸したのです。甕壺の中にはサトウキビ、イネ、イモの種子が入っており、先人は荒れた地を耕し種を植えて育て伊計島に果報をもたらしました。それ以来、伊計島では「セーナナー御嶽」の先に降臨した「種子取」を"農耕の神"と崇めて来たのです。(宮城島から見た伊計島)「種子取」の神がもたらした甕壺が浮いていた海底には大きな亀裂が入っており、干潮の時のみ全貌を見せます。「伊計ノロ」の中村さんはその亀裂がある場所に来る度に必ず見えるものがあると言います。どこかの国の民族衣装を着た数名の古代人が亀裂のある場所で祭事を行っている光景で、もしかしたら琉球発祥の地は久高島でも浜比嘉島でもなく、実は「伊計島」なのではないかと考えているそうです。「伊計島」は未だに解明されていない数多くの遺跡があり、島全体に神が宿るパワースポットとして日出る太平洋に今日も浮かんでいるのです。
2021.05.22
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(西森御嶽/ウガンヌカタ)沖縄本島宜野湾市の北東部に「真志喜集落」があり、米軍普天間飛行場(普天間基地)と宜野湾市西海岸に挟まれた集落に「森川公園」があります。国道58号線の「真志喜(南)交差点」から北に約400m進んだ場所にある公園の北側に御嶽、拝所、井泉があり、南側に展望台、多目的広場、滑り台、ブランコ、砂場、ウォーキングコース、テニスコートなどがあり地域住民に愛されています。また「森川公園」は様々な都市伝説があるスポットとしても知られる聖地となっています。(森川公園入り口)(森の川)「森川公園」の北側に「森の川」と呼ばれる井泉があります。この井泉は宜野湾市に伝わる「羽衣伝説」の発祥の地で神聖なパワースポットとして知られています。14世紀の中世琉球時代、浦添間切の謝名村(現在の宜野湾市真志喜)に「奥間大親(おくまうふや)」という人がいて、嫁の来手もない程の貧乏でした。ある日、畑仕事を終えて手足を洗おうと「森の川」に立ち寄ったところ、水浴びをしている一人の美女が見えました。物陰から様子をうかがっていると、木の枝に衣がかかっていました。(森の川の井泉)(森の川の通路)奥間はすばやく衣を草むらに隠した後、女の前に姿を現しました。驚いた女は急いで衣を取ろうとしましたが、木の枝にかけていたはずの衣が有りません。女は「私は天女です。羽衣がなければ天に昇れません」と泣き崩れました。すると奥間は女の身の上話などを聞き「それはお困りだろう。私が衣を探してあげるから、それまで私の家で休まれるがよい」と言うと、女は感謝して奥間の家に世話になりました。奥間はその羽衣を家の倉の奥深く隠してしまいました。(筒状の石垣構造)(井戸口の香炉)それから10年の月日が流れ、二人の間には一男一女が生まれました。さらに何年か経ち、女の子が偶然に羽衣を見つけ弟と遊びながら「母の飛び衣は6つの柱の倉にあり、舞衣は8つの柱の倉にある」と歌ったのです。それを聞いた母親は大いに喜び、夫の留守中に羽衣を取り出して身につけ、たちまち天高く舞い上がりました。しかし、愛しい夫や二人の子どもの泣き声を聞くと、急には去りがたく空の上をぐるぐる飛び回り、ついに風に乗って大空の彼方に飛び去ったのです。(西森御嶽の石垣)(石垣の門と香炉)「森の川」の東隣に「西森御嶽(ウガンヌカタ)」があり御嶽の森には石門が設置されています。尚清王(在位1527〜1555年)の第七子を初代とする向氏伊江家の人々が「森の川」の石積み工事を行いました。資金を寄せて石工を集め、石を切り敷き詰めて井泉を囲み門を造ったのです。さらに「西森の御嶽」の前にも長さ5尺4寸(約16.4m)の石垣を造り、門を開けて出入りできるようにしたのです。この御嶽は祈りの対象とされており、この門前で祈りを捧げる人が多数訪れます。(石垣の門の内側)(西森碑記)石門の内側は「ウガンヌカタ」と呼ばれる聖地となっており「西森碑記」が建てられています。この石碑は高さ120センチ、幅30〜60センチ、厚さ10〜22センチのニービヌフニ(微粒砂岩)で作られています。1725年に建立され碑文が彫られています。碑文には「森の川で沐浴していた天女と奥間大親とか出会い一女一男が生まれた。男の子は察度と名付けられ後に中山王に就いた。私達の元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は宜野湾間切謝名村の野国掟の娘で、名を城の大按司志良礼といい、尚清王の夫人である」と記されています。(西森御嶽の丘陵)(マヤーアブの入り口)「西森御嶽」がある森川丘陵の中腹に「マヤーアブ」と呼ばれる自然洞穴(ガマ)があります。沖縄の言葉で「マヤー」は"猫"「アブ」は"縦穴"で「猫穴」を意味します。1945年の沖縄戦の際、真志喜集落の住民約300人は米軍の上陸直前に「マヤーアブ」に避難して尊い命を守る事が出来ました。このガマに避難した住民は戦場の恐怖と飢えに耐えながら、お互いに助け合い悲惨な戦禍を乗り越えて、今日の真志喜集落の礎と繁栄を築き上げて来たのです。「マヤーアブ」の入り口には香炉が祀られて人々が祈る聖地となっています。(神酒森拝所)「西森御嶽」の西隣に「神酒森(ウンサクモー)」があり森の頂に「神酒森拝所」の石碑が祀られています。かつて「真志喜集落」を司っていたノロ(祝女)が「森の川」の井泉で汲んだ湧き水で神酒(ウンサク)を造り、この森で集落の住民に配っていました。ノロは琉球王国により公認された神職で、集落の祭祀行事の他にも住民への奉仕活動や交流行事を積極的に行っていました。神酒は「森の川」の神水から造られている事から「森の川」はノロの祭事を行う「ノロガー」の役割があったと考えられます。現在は拝所としてウコール(香炉)が設置され、集落の綱引きの行事の際に住民により拝まれています。(マヤーガマ)「真志喜集落」の北側に「大山集落」が隣接しています。国道58号線から普天間基地のメインゲートに向かう途中に「大山マヤーガマ洞穴遺跡」があります。「マヤーガマ」とは"猫洞穴"という意味です。昔、この「マヤーガマ」に住む魔物(マジムン)が猫に化けて「大山集落」の子供達を行方知らずにさせたそうです。それを見かねた集落の力持ちが化け猫を懲らしめ、逃げ込んだ洞穴の中の甕を棕櫚(しゅろ)と呼ばれるヤシ科の樹木の皮で作った左巻きの縄で括り付けました。それ以来「マヤーガマ」の化け猫は、二度と集落に現れなくなりました。(大山マヤーガマ洞穴遺跡)「大山ヤマーガマ洞穴遺跡」は沖縄諸島の墓の造りと死者の葬り方の移り変わりを知る上で大切な遺跡です。遺跡は標高50m程の傾斜地に位置し、後背に平坦な琉球石灰岩の大地が控え、全面に西海岸の海が一望できる場所です。洞穴の入り口は北西側に向かって開き、その内部は高さ2.5m以上、幅12m、奥行き7.5m程の人が動きやすい広さとなっています。現在、3箇所の通路がありますが、もともとは1連なりの入り口でした。(マヤーガマの左側と中央の入り口)(マヤーガマの右側の入り口)洞穴の中には新旧の人骨と死者に添えて葬られた副葬品などの遺物が、積み重なる土層の順に埋もれています。古く沖縄貝塚時代の前期(約3000年前)と中期(約2300年前)の時期には、人骨に伴って壺型の土器や貝輪などの副葬品があり「洞穴墓」として利用された事が分かります。後期(約1500年前)とグスク時代には、鍋型の土器や植物をすり潰す擦り石などの生活用具があり、当時の人々が洞穴で生活していた事がうかがえます。さらに、琉球王府時代(約200年前)には洗骨の儀礼を終えた遺骨を土器や陶器製の蔵骨器に納め直して、再び洞穴墓として利用したのでした。(普天間基地のフェンス)「西森御嶽」や「マヤーガマ洞穴遺跡」などの重要な文化財がある「真志喜/大山集落」は米軍普天間基地に隣接した地域にあり、基地のフェンス内には宜野湾市のみならず沖縄県にとって非常に大切な歴史が未だに奪われたままとなっています。フェンス越しにも興味深い地形や森が見えて、基地中には古い拝所や御嶽も存在します。本当の意味での終戦や基地返還とは一体何なのか?フェンスによって歴史が閉ざされる思いになってしまいますが、遺跡文化財は歴史の証人であり沖縄の人々が生きてきた証は確かに現存しています。
2021.05.18
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(江洲グスク/イーシグスク)うるま市の「宮里集落」の南西側に「江洲グスク」があり「イーシグスク」の名称でも知られています。県道224号線の江洲交差点や宮里交差点からひときわ目立つ小高い腰当森は「宮里集落」のシンボルであり、集落を繁栄させたグスクとして愛されています。「宮里集落」は人口約3,700人の小さな集落ですが、拝所や集落の環境美化や集落の恒例行事が盛んな地域となっています。(ヌルジガー)「江洲グスク」の南側に「江洲ヌン殿内」があり、敷地内に「ヌルジガー」の井泉があります。かつて江洲グスク周辺を司ったヌル(ノロ)が住んでいた殿内に湧き出ていた神聖な井泉で、ノロ(祝女)の祭祀行事に使用された神水を汲んでいた井戸でした。現在は井戸がコンクリートで閉じられていますが、祠とウコール(香炉)が祀られ人々に拝まれています。(イチャガーガー跡への階段)(イチャガーガー跡)「江洲グスク」の西側に中原小学校が隣接しており、残される古地図によると小学校脇のグスク中腹に「イチャガーガー跡」があると考えられます。井泉の周辺はグスク西側を守る堅固な古い石垣が現在も残っています。普段は湧き水は確認されませんが、長雨などでグスクの琉球石灰岩の地盤に水が溜まると、現在でもグスク中腹の「イチャガーガー跡」周辺から水が湧き出ます。湧き出た水は井泉跡への階段を下り、階段下の用水路に流れ込む構造となっています。(ウフガーのフェンス)(ウフガー/産川)「江洲グスク」北側の麓に「ウフガー(産川)」があり、現在でも水が豊富に湧き出る現役の井泉となっています。横幅が約3m、縦に約1mの長方形の井戸が、コの字に積まれた高さ1m程の石垣に囲まれています。かつて「宮里集落」で子供が生まれると「ウフガー」の水を汲み産湯に使用していました。現在は鍵の掛かったフェンスに囲まれており、井戸にはウコール(香炉)は設置されていません。農業用水に特化した井戸として周辺の田畑に利用されています。(ミーカーのフェンス)(ミーカー)「ミーカー」は「江洲グスク」の北東側に湧き出ており簡易フェンスに覆われています。深い草木が生い茂っていますが、横幅が約3mで縦に約1mの長方形をした井戸が確認できます。古地図にはこの場所に「ミーカー」がある事を示しており、この井戸から農業用の水路が東側に延びています。現在も豊かな水源となっており、ポンプで水を汲み上げるホースが周辺の田畑に農業用水を提供しています。(シードーガーのフェンス)(シードーガー)「ミーカー」のすぐ南側に「シードーガー」があり、この井戸も鍵が付いたフェンスに囲まれています。「シードーガー」は直径1.5mの円形井戸で比較的小型の石を積み上げた構造になっています。井戸は深さ1mの位置にまで豊富に水が沸いており、井戸には水を汲み上げるポンプのホースは確認できませんでした。水の神を祀るウコール(香炉)も見当たらず、井戸を囲むフェンスは誤って人が井戸に落下しないように安全面を考慮して設置されたと考えられます。(マーカー)(マーカーの石構え)「江洲グスク」の西側の麓に「マーカー」があります。現在も水が湧き出ており、井戸は横幅が約3mで奥行きが約2.5mの長方形の石造りとなっており、上部に「マーカー」を祀る祠の内部にウコールが設置されています。 井戸を囲む敷地全体の広さは横に約5m、縦に約10mもある大型で、井戸を囲む石垣は4段構え(1段目/1m、2段目/1.5m、3段目/2m、4段目/2.5m)となっています。井戸の神水で育った樹齢の長いフクギが神秘的に枝を伸ばしています。(火の神/ヒヌカン)(根屋/ニーヤー)「宮里集落」の中央に宮里公民館があり、その東側に集落の守護神である「火の神(ヒヌカン)」があります。祠には天地海を示す3つのビジュル霊石とウコールが祀られておりヒラウコー(沖縄線香)が供えられてありました。「火の神」にはニービ石造りの霊石も一緒に祀られてあります。向かって右側にある「根屋(ニーヤー)」は宮里集落の創始者が住んだ屋敷から現在の位置に移動されて、この場で集落の祭祀行事が行われています。(ウブガー/産川)宮里公民館の北東側に「ウブガー(産川)」があり、両側を芭蕉(バナナ)の木に挟まれています。かつて「ウブガー」は集落の飲料水や生活用水に利用された他にも、子供が産まれた時にこの井戸から水を汲み産湯に使用して健康祈願をしていました。旧正月元旦には若水を汲み、湯を沸かしてお茶を飲み一年の無病息災を祈願しました。井戸にはウコール(香炉)が設けられており、水の神に感謝する祈りが捧げられいます。(ティランナーの森)(ティランナーの拝所)宮里公民館の東側に「ティランナー」と呼ばれる拝所の森があります。小高い丘に立派なガジュマルが育つ不思議な雰囲気の一角で、「ティランナー」の東側に入り口があります。森の中央には3つの石造りの祠が北を向いて建てられています。それぞれの祠には石造りと陶器のウコールが祀られており霊石が供えられています。「宮里集落」では収穫祭や感謝祭に「ティランナー」で五穀豊穣の祈願が行われています。(宮里児童公園からの江洲グスク)標高100mの丘にある「江洲グスク」は「おもろさうし」に記される古いグスクで「ゑすのもりくすく ゑすのつちくすく」と謡われ、かつてグスク周辺に立ち並んだ琉球古民家の情景の美しさを今に伝えています。「江洲グスク」は琉球王国時代より周辺集落の中心地で、グスク土器、須恵器、中国製の陶器などが多数見つかっています。現在もグスクの面影を変える事なく、集落住民の心の拠り所として大切に崇められているのです。
2021.05.15
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(屋慶名のガジュマル)「屋慶名集落」は沖縄本島うるま市の東方に位置し太平洋と金武湾に面しています。琉球王朝時代に勝連間切りに含まれ、与那城の先人は奄美から大和、朝鮮にかけ海外貿易の船乗りとして活躍していました。屋慶名港は前に浮かぶ藪地島が太平洋の荒波を防ぐ防波堤となり、船舶の出入りに都合の良い港であり当時のエネルギーであった薪や炭を始め、あらゆる生活物資を輸送するマーラン船(山原船)の中継拠点として大いに栄えていました。(屋慶名の土帝君)「土帝君(トゥーティークー)」とは沖縄における中国の土地公(土地の神様)を意味し「球陽」の巻九によると、1698年に大嶺親方鄭弘良が中国から土地公の神像を持ち帰り自分の領地である旧小禄村大嶺を祀ったのが最初だと言われています。現在、沖縄では42箇所の「土帝君」が見つかっており「屋慶名の土帝君」の祭祀は農業等の繁栄を祈願し、中国の土地公の誕生日である旧暦2月2日に拝まれています。(3代目屋慶名のクワーディーサー)(屋慶名のクワーディーサーの歌碑)屋慶名自治会の敷地に「屋慶名のクワーディーサー」があり、現在のクワーディーサーは3代目となっています。古葉手樹(コバテイシ)と呼ばれる木で沖縄だけでなく小笠原、アジア、アフリカの海岸に分布しています。墓の庭に植えられ人の泣き声を聞いて成長すると言われる神秘の木です。1670年頃から歌い継がれる「屋慶名クワーディーサー」の歌はとても有名で、木の麓には歌碑が建てられています。また、10月には「屋慶名クワーディーサー祭」が行われ集落の有志によるエイサーの演舞が奉納されています。(旧屋慶名区役所のヒヌカン)(ヒヌカンの祠内部)屋慶名区役所と屋慶名公民館は道を一本挟んだ「屋慶名自治会」に移転しており「ヒヌカン(火の神)」は昔から同じ場所で住民に拝まれています。祠の内部には3基のウコール(香炉)と、天地海を意味する3つのビジュル霊石が祀られています。屋慶名集落の守護神として外部からの悪霊を祓う役割があります。隣接する「屋慶名のクワーディーサー」と共に屋慶名集落の長い歴史を見つめてきた大切な文化財となっています。(屋慶名のフクギ)(フクギの麓にある古井戸)屋慶名集落の中央に「西屋慶名」と「東屋慶名」を分ける屋慶名川が流れています。西屋慶名にある屋慶名川沿いの屋敷に、周囲をブロックで円状に囲んだ古井戸があります。古井戸には石作りの半蓋と屋根が取り付けてあり、苔に覆われた古い石段が敷かれています。古井戸の脇には樹齢の古いフクギの木が育っており、古井戸の水の神を祀っているように天に向かって一直線に伸びていました。(屋慶名西公園のガジュマル)(屋慶名西公園の拝所)屋慶名自治会の北側に「屋慶名西公園」があります。公園には高樹齢のガジュマルがあり、幾本もの枝がお互いに絡み合いながら大地にしっかりと根を伸ばしています。ガジュマルはキジムナーと呼ばれる妖精が宿る神の木として崇められ、勝手にガジュマルの枝を切ったりすると妖精に祟られると言われています。公園の東側には小さな井戸跡に拝所の祠が祀られていました。(与那城監視哨跡の入り口)(与那城監視哨跡)「与那城監視哨」は航空機を早期に発見し、敵味方を区別して防空機関に知らせるための施設で、屋慶名集落の「イシマシムイ」の丘の上にあります。正八角形のコンクリート製で、入り口以外の7つの壁面には1つずつ窓枠があり360度見渡せる構造になっています。壁面には沖縄戦当時、米軍による銃撃を受けた痕跡が現在も生々しく残っており、戦争遺跡として大変貴重な文化財となっています。(イシガー)(イシガーのガジュマル)「屋慶名監視哨」がある「イシマシムイ」の丘の麓に「イシガー」と呼ばれる井泉があります。水源が豊富な「イシガー」はかつて集落の飲料水や生活用水に使用され、水の神様が祀られています。井泉の霊水の恵みを受けて樹齢の高い立派なガジュマルが育っています。神が宿る「イシガーのガジュマル」と呼ばれ、昔から集落の住民の信仰対象とされていました。(イリーガー)(アガリガー)「屋慶名集落」の西側(西屋慶名)に「イリーガー」、東側(東屋慶名)には「アガリガー」があります。沖縄の言葉でイリーは西、アガリは東、ガーは川や井泉を意味します。屋慶名集落の井戸は比較的大規模で井戸の手前に広い空間が設けられている事が特徴的です。他集落ではあまり見かけない構造を可能にしているのが屋慶名集落の豊富な湧き水で、この集落が古より港町として繁栄した証となっています。(メーガー)(フルガー)「屋慶名(東)交差点」の周辺には井泉が集中しており、東屋慶名地区が水源の宝庫となっています。西屋慶名はガジュマル、フクギ、クワーディーサーなど数多くの霊木に覆われており、東屋慶名には豊富な神水が湧き出ているのです。「メーガー」も大規模な井泉で門構えがある堅固な構造です。「フルガー」は東屋慶名の「兼久商店」駐車場にある小さな古井戸となっています。(兼久商店)(兼久商店の自動販売機)(屋慶名の海にあるHYロゴマーク)東屋慶名の「兼久商店」は沖縄のバンド「HY」のファンにとって、余りにも有名な聖地として知られています。HYが2001年に発表したアルバム「Departure」に「兼久商店」というタイトルの曲が収録されています。商店の自動販売機には「HY誕生の地」と記されており、HYと非常に関わりのある商店としてメンバー、ファン、地元住民に愛され続ける非常に価値の高い文化財となっています。更に、屋慶名の海には石が並べられてHYのロゴマークがデザインされています。このロゴマークは干潮時のみ現れて見ることが出来ます。(屋慶名郵便局前のフクギ)「海の民」であった与那城の人々は大正から昭和初期にかけて東南アジア、中南米など広く海外へ雄飛し活躍し、屋慶名地区は周囲の離島を結ぶ拠点として政治、経済、文化の中心地として繁栄しました。屋慶名集落には東屋慶名の井泉と西屋慶名の木々の自然という貴重な財産があり、琉球王国時代からの遺跡文化財が多数継承される魅力溢れた地域となっています。集落には古き良き琉球の時間がゆっくりと流れており、大自然の神々を感じるパワースポットとなっているのです。
2021.05.13
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(伊芸のがじまる)「伊芸/屋嘉集落」は沖縄本島の金武町西部にあり、うるま市石川に隣接する海沿いに位置しています。「伊芸のがじまる」は伊芸集落の中心に位置し、周囲は伊芸遺跡の布分地で古くは拝所があり神アサギがありました。金武町指定文化財に登録されるこのガジュマルは推定樹齢約330年、胸高円周3.9メートル、樹高11メートルの巨木で集落の住民の心の拠り所となっています。(伊芸のがじまる/神アサギ跡)長い歳月を生き続けるガジュマルは見事な気根を形成し、集落の歴史を樹幹に刻む「風水がじまる」と呼ばれる伊芸のシンボルとなっています。このガジュマルがある「がじまる公園」には神アサギ跡があり、かつて集落のノロが祭祀を行った聖域が継承されています。ガジュマルには神が宿ると言われ、木の枝を勝手に折ったり木登りをするのは厳しく禁止されているのです。(坊主森/拝殿)(山里和尚の墓)「伊芸集落」の東側に「坊主森」と呼ばれる森があり、中腹に拝殿があり祠の奥に「山里和尚の墓」が祀られています。山里和尚は伊芸集落で真言宗の布教活動を行っていた僧侶だと伝わります。2つある石碑の向かって左側には「大清康煕五十九年 権大僧都法卯頼宥 正位 康子十月二十二日去」と彫られています。石碑の上部に梵字のア(阿)の字が記され「大日如来(胎蔵界)」を意味しています。真言宗では戒名の上に阿字をつけることにより、亡くなった方が本来の世界に還り、仏そのものになったという事を表しています。(さくまつ公園の御嶽)(さくまつ公園の井泉拝所)「伊芸集落」の中央に「さくまつ公園」があり、公園の森の頂に御嶽があり香炉が設置されています。この森は古より伊芸集落の住民の信仰の対象だったと考えられ、森の頂に祀られている御嶽の拝所は集落の守護神と崇められています。御嶽の正面からは下り階段が続き、麓には井泉が祀られています。森からの恵みに感謝する神水を崇める香炉が設置されており住民に拝まれています。(ノロ家)(神屋)(御嶽)伊芸公民館に「ノロ殿内」の敷地が隣接しています。向かって右側の白い建物か「ノロ家」で、伊芸ノロが住む家として畳部屋の琉球仏壇に位牌が置かれています。左側の赤い建物は「神屋」と呼ばれる神アサギで、ノロが祭祀の儀式を行う神聖な場として3基の香炉、3つのビジュル石を祀るヒヌカン(火の神)が設置されていました。敷地の一番奥には「奉 皇紀二千六百年紀念」と記された「御嶽」の祠があり2基の香炉が祀られています。(カーメー/産川)(美徳川沿いの香炉)「ノロ殿内」の北側の山中に泡盛醸造所「松藤(旧崎山酒造廠)」があり、敷地の脇に美徳川が流れています。酒造場の北側にある森の中に「カーメー(産川)」の湧き水があり、湧き水が流れ込む川沿いの場所に香炉が祀られています。かつて伊芸集落の住民が「カーメー」の水を飲料水や生活用水の他にも、子供が生まれたときの産水や旧正月の若水に汲んでいました。美徳川に向けて香炉が設置されており「カーメー」の恵みを授かる聖なる川として崇められています。(祝女之墓/ノロの墓)伊芸集落の最東端の森に「祝女之墓」があり、歴代の伊芸ノロ達の魂が祀られています。このノロ墓は金武湾の「平田原の浜」に隣接する場所にあり、墓は伊芸集落のノロ殿内の方角を向いて建てられています。伊芸ノロ達は祭祀行事だけでなく、旧盆には「カーメー」の湧き水で神酒を造り住民に振舞うなど、集落の暮らしに深く根付く存在でした。(屋嘉集落の根屋/トンチ小)(根屋のヒヌカン)「屋嘉集落」は「伊芸集落」の西側に位置し、うるま市石川地区と隣接する小さな集落です。「屋嘉集落」の中央に屋嘉児童公園があり、敷地内に「根屋(トンチ小)」があります。屋嘉集落が発祥した時の火種を保管し住民に火種を分け与えたのが根屋(トンチ小)でした。それに由来して根屋を集落の火の神として祀り、屋嘉の守護神として崇めるようになったそうです。根屋には4基の香炉、ヒヌカンには3つのビジュル石が祀られています。(屋嘉のウフカー/大井戸)「屋嘉のウフカー」が「根屋」の北側にあります。金武町指定文化財の「ウフカー」は石積みの掘り下げ井戸で、屋嘉の村カーとして造られ飲料水や生活用水として利用されていました。この井戸は長年に渡り集落の祭祀と深い関係がある神カー(神井戸)とされ、旧正月元旦の若水や産水を汲み、死者の清めの水にも利用されました。(底森御嶽の鳥居)(底森御嶽の拝所)「屋嘉集落」の北西側に「底森御嶽(神名:コバヅカサノ御イベ)」があります。この御嶽は「琉球国由来記(1713年)」に金武間切屋嘉村底森御嶽と記され、屋嘉の「西の御嶽」と呼ばれています。屋嘉集落の成立と遍歴を知る上で重要な御嶽とされ、御嶽の森にはヒヌカン(火の神)が祀られる祠があります。屋嘉集落での神事の折々には祭司が祈願を司る聖地として信仰されている御嶽です。(ヨリブサノ御嶽の鳥居)(ヨリブサノ御嶽の拝所)「ヨリブサノ御嶽」は屋嘉集落の北東側に位置し「琉球国由来記(1713年)」に金武間切屋嘉村ヨリブサノ御嶽(神名:アコウヅカサノ御イベ)、祭祀は伊芸ノロに所掌と記されています。この御嶽は屋嘉集落の発祥と深く関わりを持ち、遥か昔から土地の守護神として崇められていました。屋嘉集落での神事の祈りには祭司により集落の繁栄と豊年の祈願が行われている由緒ある御嶽です。(ヨリブサノ御嶽の森)金武町「伊芸集落」と「屋嘉集落」共に御嶽は集落発祥の起源として崇められ、土地の守護神として祀られ続けています。御嶽の森が豊かな水源の井泉を生み、そこに人々が集まり集落を築き文化を形成させてきました。琉球国由来記にも記されるように、御嶽は神名が付けられており、神が宿る聖域として現在でも集落住民の祈りの対象とされているのです。
2021.05.09
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(観音寺鍾乳洞の布袋尊)「金武/並里集落」には数多くの町指定文化財があり、いずれも金武町の長い歴史に培われてきた貴重な文化財です。昔から人々の生活や風習との関わりを強く持ち、集落の歴史を知る上で欠くことのできない文化遺産です。金武集落の郷土に対する誇りを高め、文化の向上と将来への継承に資することを目的にその保存と活用が図られているのです。(観音寺本堂)(観音寺本堂の内部)「金武集落」の北部に「観音寺」があり、16世紀に真言宗の僧侶である日秀上人によって創建されました。 現存する観音寺は昭和17年に再建されたものですが、建築手法には近世社寺の手法が取り入れられています。 沖縄県下の社寺建築の多くは沖縄戦で焼失しましたが、幸い観音寺は戦災を免れ古い建築様式をとどめた貴重な木造建築として今日に至っています。(観音寺のフクギ)「観音寺」のフクギは正門礼拝道を下った17m左側に位置し、その樹根と樹枝の大きさは、沖縄本島各地の樹木調査の中でもひときわ大きいフクギの木で、各地の調査と比較した結果(平成3年)によると樹齢約350年と推定された希少な巨木です。現在は樹齢約380年の歴史を積み重ねて成長し、なお力強く根を張り高くどっしりとそびえる巨木となっています。(観音寺鍾乳洞の入り口)(鍾乳洞の金武権現宮)本堂に向かって右側には「日秀洞」と呼ばれる鍾乳洞窟があります。ここには観音寺鎮守「金武権現(熊野三所権現)」と「水天」が祀られています。更に、この鍾乳洞の内部に琉球八社の一つである「金武宮」の祠が建てられて祀られています。高野山で修行を積んだ日秀上人が浄土を目指して熊野から出発し、金武集落の富蔵津(現在の福花)に漂着した後、この地に金武観音寺を建立しました。その頃「日秀洞」の鍾乳洞内に熊野三所権現を勧請し「金武権現宮」を建立しました。地下30メートル、長さ270メートルと言われており、戦時中は防空壕として使われ多くの人々が命を救われました。(金武グスクの石垣)(金武グスクの霊石柱)「金武グスク」は観音寺の東側に位置する「上ヌ毛」と呼ばれる丘の上に立地しています。金武町内で唯一確認できるグスクで、築城時期は14〜15世紀頃とみられます。現在は「上ヌ毛公園」として整備され、城壁の石垣が残っています。丘の上には霊石柱が祀られておりウコール(香炉)が設置されています。他にもフィリピン移民の父「大城孝蔵」の銅像や、金武湾を見渡せる展望台がある公園として集落の憩いの場になっています。(金武公会堂のガジュマル)(金武城門の石)「金武グスク」の東隣に金武公会堂があり、立派な高樹齢のガジュマルが周辺地域のシンボルとなっています。キジムナーが宿ると言われるガジュマルの木の下に「金武城門の石」が移設されています。かつて「金武グスク」の城門を守った琉球石灰岩で、ガジュマルの古木と共に古より金武集落の人々の暮らしと歴史を見つめ続けてきた貴重な文化財です。(トゥムスズ御嶽のガジュマル)(トゥムスズ御嶽の鍾乳洞穴)「金武集落」の金武公会堂の東側に「トゥムスズ御嶽」があり琉球国由来記(1713年)に金武間切金武村「トゥムスズイベ(神名:シマネドミ)」金武ノロ崇拝所と記された御嶽です。村建ての火神として御嶽を中心に周辺には根神、祝女殿内、外間、掟神の居所が築かれている事から村落構成の基礎をなした地域と推察されています。御嶽の森の中腹に鍾乳洞穴がありウコールが設置された拝所となっています。(トゥムスズ御嶽のノロ殿内)(ノロ殿内の内部)「トゥムスズ御嶽」は金武の村落共同の火神が祀り継がれてきた歴史ある御嶽で、先人の遺産分布地帯であり琉球石灰岩地帯に自生する植物群落の森は、先祖が守り育ててきた自然の遺産となっています。御嶽の西側の麓に「ノロ殿内」があり内部にはヒヌカン(火の神)とビジュルが祀られており、天地海を示す3つの霊石、花瓶、陶器のウコール、二枚貝のウコールが設置されています。(ナーカムイの拝所入口)(ナーカムイの拝所)「金武集落」の金武児童公園の北側に「中森(ナーカムイ)の拝所」があります。この付近一帯は「御願原」と呼ばれ琉球国由来記(1713年)の金武村の概要に「中森二御前」(神名:タケノコホツカサノ御イベ、ヨンサノツカサ御イベ」と2つのイベ(拝所)が記されています。東の方角に向けられた「ナーカムイの拝所」には、大小12基の香炉群が正方形の枠内に並び、そこに別の2つの香炉が設置されています。(へーシンバの拝所)(へーシンバの拝所/右側の香炉群)(へーシンバの拝所/左側の霊石と香炉)「ナーカムイの拝所」の北側にある「金武区公民館(金武区図書館)」の敷地に「へーシンバ(拝神場)の拝所」があります。拝所の右側には大小30基余りの香炉群が長方形の枠内に祀られています。その左側に隣接する場所には天地海を示す3つの霊石を祀るビジュル、3基の香炉と1つの別の霊石が北東の方角に向けて設置されています。「御願原」と呼ばれるこの一帯は、古より先人によって神を拝む聖域とされていました。(金武観音寺の梵字碑)「観音寺」に建つ梵字碑の梵字には旧梵字が用いられており、歴史を伝える大変貴重な文化遺産となっています。昔から「観音寺」周辺には無縁墓が多数あり、梵字碑はその行き場の無い霊魂を鎮めるために祀られたそうです。「金武集落」と「並里集落」には多数の御嶽や拝所が存在し、金武間切の文化的かつ宗教的中心地として発展してきました。その歴史を受け継ぐように両地区は、現在の金武町の経済的中心地として人々の暮らしを支えています。「金武/並里集落」に受け継げられた遺跡文化財は金武町の人々の誇りであり、郷土愛の礎となる宝として未来に大切に継承されてゆく事でしょう。『追加情報』(観音寺元山住職からの書面)「金武観音寺」の「梵字碑」について金武町教育委員会に問い合わせをしました。後日「金武町教育委員会社会教育課金武町教育文化センター」の担当者より連絡を頂いたのです。「梵字碑」は前住職のときに建立され、旧字体が含まれるため、現住職の元山住職も詳細については不明な箇所もあるとお聞きしているそうです。金武町教育委員会でも関係各所で梵字について調べましたが、全ての字体の意味は把握することは出来ませんでしたとの連絡を頂きました。しかしながら「梵字碑」の内容について「金武観音寺」の元山住職から書面を頂いたという事でその貴重な資料を送ってくれました。金武町教育委員の担当者と「金武観音寺」元山住職に非常に感謝しています。どうも有難う御座いました。
2021.05.04
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(ウッカガー)「金武/並里集落」は沖縄本島中央部の東海岸に位置し、金武湾に面して対岸に勝連半島、平安座島、宮城島、伊計島を望む地域にあります。「金武/並里集落」の北側は恩納岳連山を挟んで恩納村と接し、面積の約60%を米軍基地(キャンプ・ハンセン)が占めています。「金武/並里集落」は水源豊富な井泉に恵まれ、沖縄貝塚時代の古代より人々の平穏な暮らしがありました。(ウッカガーの赤瓦屋根)(ウッカガーの正面)「並里集落」に金武町指定文化財に登録される「ウッカガー」の井泉があり「金武大川」の名でも知られています。「ウッカガー」は琉球石灰岩の多孔質を基盤とした地下水の湧き出た代表的な井泉です。大正13年に衛生上の見地から用途別に区切り、井泉口の根を飲料水、男女別の水浴場、洗濯場、芋洗場を設けて構築され住民に重宝されたのです。(長命の泉の石碑)この井泉は上水道が普及する以前は「並里集落」の住民の飲料水であり、元旦の若水を汲み、夏には水浴を楽しみ、また地域住民の出会いの場でもありました。井泉は干ばつ時にも渇水せず豊富な湧水量は1日に1000トンを超え、先人より継承された清水は石碑に示された「長命の泉」を象徴しています。(ウッカガーの火の神)(金武大川鍾乳洞)「ウッカガー」の井泉の丘の中腹にヒヌカン(火の神)の祠がありウコール(香炉)が設置されています。「ウッカガー」の守り神であり水の神が祀られています。ヒヌカン(火の神)から更に丘を登ると「金武大川鍾乳洞」があり、豊富な水源を生み出す土地の神が祀られています。鍾乳洞の入り口にはウコール(香炉)が設置されており拝所として聖域となっています。(キンタガー/飲料水井戸)(キンタガー/水浴場)金武町指定文化財に登録されている「キンタガー(慶武田川)」は「並里集落」南東の端に位置し、周辺地域は並里集落発祥の地とされています。湧き出る水は夏場でも枯れる事なく、井戸は飲料水井戸、男女別の水浴場、洗濯場、芋洗場に分かれています。飲料水用の井戸には10箇所程から豊富な水が勢い良く流れ出していました。(キンタガー/芋洗場・洗濯場)(神泉の石碑/ビジュル神)上水道が普及する以前は周辺住民の飲料水であり、洗濯や水浴の他にも夕涼の場としても住民の生活に根付いていました。現在でも井泉は農業用水として大切に利用されています。キンタガーには「神泉の石碑」と「ビジュル神」が祀られており、それぞれウコール(香炉)が設置された拝所として地域住民が豊富な水源に感謝して水の神に祈っています。(ティダガー森林公園)「金武集落」の金武町立金武中学校西側に「ティダガー森林公園」があります。南北に400メートル、東西に100メートルに広がる森林公園には3つの井戸が拝所として祀られています。公園には南北にせせらぎが流れており、種類が豊富な亜熱帯植物のジャングルになっています。御嶽のように神聖な雰囲気を醸し出し、神が住む聖域と呼ぶに相応しい深い森に包まれています。(ナーカヌカー)「ティーダガー森林公園」にある3つの井泉のうち一番北側に「ナーカヌカー」があります。嘉陽層の谷筋を掘ったカー(湧水)で、現在も香炉があり旧正月のカーウガン(井戸の拝み)でティダガーの参道から遙拝されます。以前は周辺住民の飲料水や洗濯等生活用水に使われていました。今でも水量が非常に豊富で「ナーカヌカー」の学習広場は湧水で溢れていました。(ティーダガー)「ティーダ」は沖縄の言葉で「太陽」を意味します。「ティーダガー」は嘉陽層の谷筋を掘ったカー(湧水)で、香炉が設置されており金武集落の金武地区、並里地区、他の地区の人々が信仰の対象として拝んでいます。旧正月に「ティーダガー」の水を含んだ土を持ち帰り、豆団子にして額に付けるミンナデ(水撫で)の儀式が行われていました。「ティーダガー」の水は飲料水に使われる事はなく、信仰の対象として崇められていました。(ミーガー/ジョーガー)(ミーガー/ジョーガー)「ミーガー/ジョーガー」も嘉陽層の谷筋を掘ったカー(湧水)で隣接し合った井泉です。今となってはその位置関係を明確に知る事は出来ませんが、小さなサークダー(谷底の田んぼ)の水源の他にも飲料水や生活用水として使われていました。近隣住民の子供達の絶好の遊び場で水浴びの姿がよく見られたそうですが、現在は井泉の拝所として拝まれています。(モーシヌ森公園の神アサギ)「並里集落」の東部に「モーシヌ森公園」があり神アサギが建てられいます。かつてこの森に「ヌンドゥンチガー」と呼ばれる井泉とノロ殿内がありました。戦前は金武ノロが拝み祭祀の行事をする場所であった事から、公園整備の際に現在の場所に「神アサギ」が移されました。また、琉球王国時代にはこの地にウトゥンヤーシキ(御殿屋敷)があったと伝わっています。(神アサギの御嶽神)(神アサギのビジュル神)モーシヌムイ(モーシヌ森)は御嶽の森として崇められ、神アサギの内部右側には「御嶽神」が祀られています。左側には「ビジュル神」が祀られており、天地海を意味する3つの霊石とウコールが設置されています。明治時代までは「並里集落」の女性達による祭祀舞踊のウスデーク(臼太鼓)が神アサギにて奉納されていました。(モーシヌ森公園の川神)モーシヌ森にかつてあった「ヌルドゥンチガー」や、かつて御嶽の森から湧き出ていた井泉を祀る「川神」の祠があります。「金武/並里集落」では水の恵みに対する神への信仰心が非常に強く、住民は豊かな水源に感謝して生活してきました。湧水が出る森や御嶽も多く存在し「金武/並里集落」の人々の生活根源である水源は、これからも未来永劫と平和を象徴するように湧き続ける事でしょう。
2021.05.02
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(砂辺の御嶽)北谷町「砂辺集落」の東側にある「御嶽の山」は神が住む聖域であり、砂辺集落の根所の住人以外の人がこの山で木を切ったり枝を折ると祟られると言われて非常に恐れられていました。沖縄戦の時、御嶽の山に掩体壕(えんたいごう)と呼ばれる壕を作る際、祈願を行わず樹木を伐採して作業員が怪我や病にかかったと言われています。(ヌールガー)御嶽の山麓には湧泉の「ヌールガー」があり拝所として拝まれていました。深さが5メートル程ある井戸は現在も水が湧き出ており「タキガー」「ウガンガー」「タキグサイウカー」とも呼ばれています。戦前、平安山ヌル(ノロ)が白装束を着て井戸で手足を清めてからトゥン(殿)など砂辺集落の拝所を巡りました。集落の住民は御嶽の山を「シジダカサン」と呼び、祟られると恐れ「ヌールガー」に近寄らなかったそうです。(村グサイ之墓)(大里ムチウリ之墓)御嶽の山の中腹に「村グサイ之墓」と「大里ムチウリ之墓」があります。隆起した石化珊瑚にガジュマルの枝が無数に絡まりつく墓にはウコール(香炉)が設置され霊石が祀られています。かつて「ムラシーミー」と呼ばれる集落で行う墓参りでは御嶽と共に祈願が捧げられていました。古老の話によると、御嶽の山には「ヤマサリーン」と呼ばれる神が住み、樹木の伐採の他にも葬式や弔問からの帰りに身を淨める事なく山に立ち入ったり、近くを通ったりすると大きなハブに追われたと伝わります。(砂辺御嶽/照神)「照神」の拝所が御嶽の山の頂にあります。赤瓦屋根の御堂の中には砂辺集落の守護神を祀るウコール(香炉)が設置されています。旧正月2日にはニードゥクル(根所)の家人などがタティウガン(立て御願)を行い、長寿、子孫繁栄、集落住民の無病息災などの祈願が行われています。また、旧3月のシーミー(清明祭)には「カミウシーミー」が行われます。(ヌール之墓入口)(ヌール之墓)御嶽の山の杜奥深くには「ヌール之墓」と呼ばれる拝所があります。この墓には、かつてノロ職にあった歴代のカミンチュ(神人)が葬られています。「ヌール之墓」には大小二つの石碑が建立されています。大きな石碑は高さ88センチメートル、幅67センチ、厚さ11センチで中央に「ヌール之墓入口」と陰刻されています。小さい石碑は「ヌール之墓」と刻まれ墓口右側に建立されています。この墓は3月のムラシーミー(カミウシーミー)の際に拝まれています。(ウチヤタイウメー之墓入口)(ウチヤタイウメー之墓)「ウチヤタイウメー之墓」が御嶽の山の東側にあります。砂辺集落の「ウチヤタイ(ウチャタイ)」と呼ばれる地域に残る歴史的価値が高い古墓で、戦前は非常に不気味で怖い場所として恐れられていました。この墓は無名の墓でしたが高貴な方の墓であるとして戦後に調査が行われました。墓の名前は「ウチヤタイの前(ヌメー)の墓」と「ウチヤタイ爺さん(ンメー)の墓」の二通りに解釈され、現在は「ムラシーミー」で拝まれています。(砂辺之殿)「砂辺之殿」は平安山ヌル(平安山、伊礼、浜川、砂辺、桑江の5集落の祭杷を管轄したノロ)が砂辺集落に来て拝んでいた拝所です。かつてはこの場の岩陰にウコール(香炉)が置いてあるだけで建物はありませんでした。「琉球国由来記」には砂辺集落の住民がこの拝所に芋の神酒六完を供えたと記されています。現在は琉球赤瓦の建物があり、内部には霊石とウコールが設置されて拝まれています。(御神屋根所)(ニガン)「砂辺之殿」に隣接した場所に「御神屋根所」があり、敷地内に「ニガン」と呼ばれるヒヌカンが祀られている拝所があります。集落の神官が住む家を根所(ニードゥクル)と言い、村の行事の祈願が行われる拝所を「御神屋」と呼びます。「御神屋根所」はシーシヌウグヮン(獅子の御願)の際に獅子舞の出発点となっており、戦時中には兵士がここに立ち寄り拝んでから出征していました。(犬川之井水神)(上ヌ犬川の屋敷にある霊石)(上ヌ犬川の屋敷にある霊石)「犬川之井水神」は「インガー」と呼ばれた集落の共同井戸で「上ヌ犬川」の屋敷の西側にあります。井戸は飲料水や炊事、野菜や手を洗う為にも用いられました。「上ヌ犬川」の屋敷の東側には霊石とウコールが設置されています。更に屋敷の西側の壁には穴が開けられており、その奥に霊石が祀られウコールが設置されています。(トゥティクゥの神の石碑)(トゥティクゥの神)「トゥティクゥの神」は「砂辺土帝君」と呼ばれ砂辺公民館北東側に位置します。「クラガーシルウム」と呼ばれる白芋を根所の祖先が初めて唐から持って来たという伝承があり「トゥーティークーの神」が祀られました。旧正月の7日には「世果報拝み」と称するトゥティクゥ拝みが行われます。(ウフシヌシー/石良具御イビ)御嶽の山の北側に「クシムイ」と呼ばれる高い山があります。クシは後方、ムイは山や丘の意味があり、砂辺集落の後方にある山という意味で「クシムイ」と言われています。この山の頂上には「ウフシヌシー」と呼ばれる珊瑚が石化した大岩があり拝所として祀られています。海から約500メートルの山の上に珊瑚の大岩がある謎に包まれた聖域となっています。(ウフシヌシーの拝所)(ウフシヌシーの拝所)「ウフシヌシー」の大岩には「伊平屋森/石良具御イビ」と刻まれた石碑が建てられています。石碑の左側には下り階段があり、階段を降りて直ぐ右側に一つ目の拝所がありウコールが設置されています。更に階段を降り突き当たりにはもう一つの拝所があり、同じくウコールが設けられてらいます。「ウフシヌシー」は大岩の迫力と共に、神が宿る神聖な空気に包まれるパワースポットなのです。(砂辺集落の西海岸)沖縄戦よりも琉球王国時代よりも更に昔の時代より「ウフシヌシー」の大岩は、聖なる山である「クシムイ」の頂で動かざる事なく砂辺集落と西海岸の美ら海を見つめて来ました。謎多き神の聖なる山は砂辺集落の平和も苦しみもひたすら黙って見守って来ました。私たちには争い事のない平和な世界を砂辺の「御嶽の山」や「クシムイ」に見せてあげる責任があるのでしょう。
2021.04.27
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(砂辺馬場公園)「砂辺集落」は沖縄本島中部北谷町の西海岸に位置し、集落の歴史は古く1713年に琉球王国の王府が編纂させた地誌「琉球国由来記」にも名前が記されており、美ら海を望む平和な暮らしがあった集落でした。海面を覆い尽くす米軍艦隊による艦砲射撃と共に上陸作戦が遂行された悲劇の日、1945年4月1日までは…(第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント)「砂辺馬場公園」には「第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント」があります。日本唯一の悲惨な地上戦は、一般住民をも巻き込み沖縄全体で20万余りの尊い命を奪い去りました。モニュメントには「沖縄戦の体験と実相から、戦争の不条理と残酷さを正しく次代に伝え、平和の理念として戦争に繋がる一切の行為を否定する…沖縄戦の風化をゆるさない歴史的礎として、米軍上陸碑をここに建造する」と記されています。(砂辺馬場公園の砂辺之竜宮神)「砂辺集落」西側の海辺には「砂辺馬場公園」があり、敷地内に「砂辺之竜宮神」の拝所があります。竜宮神は海の神様が祀られており竜宮神の石碑と石造りの香炉が設置されていました。沖縄戦で米軍に占領されていた砂辺集落は1954年(昭和29年)に沖縄に返還されました。集落に戻った住民は砂辺集落の復興に力を尽くしたのです。(唐井之水神)(唐井之水神の井戸内部)砂辺馬場公園の北側に「唐井之水神」があります。「トーガー」と呼ばれるこの井戸は深さ3メートル程あり、水量は現在も豊富で石組は戦前から存在しています。米軍により井戸は埋め立てられていましたが、ある住民の眼病をきっかけにユタの助言で井戸が発見され整備されました。「トーガー」は戦前より水の神に祈るムラウガミ(村拝み)の対象であり、現在は旧暦1月2日の「カーウガミ(井戸拝み)」で拝まれています。(ウブガーの入口)(砂辺ウブガー水神の石碑)「ンブガー」または「ホーヤーガー」とも呼ばれ、階段を降りた鍾乳洞窟の先に水が沸いています。子供が産まれた時に井戸の水を音を立てないように汲み眉間に水を付けました。また、水を組む時に手を振るわせると子供が喘息になるとも言われたのです。正月の若水もこの井戸から汲み、芭蕉(バナナ)の葉で作ったニーブと呼ばれる器でゆっくりと水を飲んでいました。(クマヤーガマの門)(クマヤーガマへの階段)砂辺集落の南部にある自然の形のままのガマ(洞窟)で「クヤマー」と呼ばれています。米軍による1945年10月10日の「十・十空襲」の後、クマヤーガマを防空壕として使う様に整備されて天井には6つの空気穴が設置されました。その後の空襲では300人余りの住民が非難し、1人も死傷者を出さなかったと言われています。(クマヤーガマ納骨拝殿)戦後に砂辺集落が米軍に摂取されガマの入口が埋められてしまいました。クマヤーガマ周辺は1956年に返還され更地になり、住宅地の開発が行われました。平成元年にガマの入口が発見されると発掘調査が行われたのです。ガマの入口からヒスイやかんざし等の装飾品が出土した他に、風葬が行われた場所であったため多数の古い頭蓋骨や人骨が発見されました。それらの人骨はクマヤーガマに隣接した納骨拝殿に納められています。(砂辺之寺/ティラ)(ティラのガマ)「クマヤーガマ」の西側にあるガマで拝所として聖域として拝まれていました。ガマの内部は10名程が入れる狭さでしたが、戦時中に「クマヤーガマ」と細い地下通路で結ばれて防空壕として利用されました。旧暦8月15日に「ティラメー」という拝み行事があり、旧暦9月には住民が重箱に揚げ豆腐、芋の天ぷら、魚料理などを持ち寄り「ティラ」に拝みに行きました。(天孫子按司之墓)国頭村辺戸の「安須森」今帰仁村の「カナヒヤブ」南城市の「斎場御嶽」を創った天帝と呼ばれる琉球開闢の神様が、自分の子供である男女を地上に降ろし、二人は三男二女をもうけて長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は上級神女、次女はノロとなったのです。長男は「天孫子」と名乗り国の主として統治したと伝わり、砂辺集落にあるこの「天孫子按司之墓」は次男の按司が眠る墓だと言われています。(踊神之墓の石碑)(踊神之墓)砂辺公民館に隣接する場所に「踊神之墓」がありウコール(香炉)が設置されています。戦後に砂辺公民館を建設する際に多くの人骨が発掘された為この地に祀られています。戦前にはこの地にアシビナー(遊び庭)があり、集落の住民はムラアシビ(村遊び)でエイサーを踊っていました。それに因んで踊神(ウドゥイガミ)を祀る墓が建てられたのです。(獅子屋/シーシヤー)「踊神之墓」から東側の道路を1本渡った場所に「獅子屋」と呼ばれる獅子舞を奉納する拝所があります。獅子舞の獅子を収める小屋で集落では神聖な場所とされています。旧暦7月17日のシーシヌウグヮン(獅子の御願)や旧暦8月15日の十五夜に集落の有志により獅子舞が披露され、普段は「獅子屋」に箱に収められ大切に安置されています。(地頭火の神の入口)(地頭火の神)この地はもともと地頭と呼ばれる砂辺集落の集落長の屋敷があった場所で、廃藩置県で地頭が那覇に引き上げた後も残ったヒヌカン(火の神)を祀っています。この場ではかつて集落の公的な祭祀に使用された場所で、以前はヒライサーと呼ばれる石化したテーブル珊瑚で造られた祠でした。弱い造りだったため台風が来るたびに劣化してしまい、現在は砂辺集落により堅固な祠が建立されています。(伊平屋ウトウシ神)「伊平屋ウトウシ神」はイヒュウトゥーシとも呼ばれる拝所で、伊平屋の按司を遥拝するための拝所です。砂辺集落の最北端に位置し、「カンカー」と呼ばれる魔除けの儀式や「イヒャウトゥー拝み」と呼ばれる祈願行事を行なっていました。砂辺集落の北の入り口を見張る守り神としての役割があり、集落への「お通し(ウトウシ)」として拝する場でもありました。(砂辺集落北部を仕切る嘉手納基地のフェンス)(砂辺集落上空を飛来するMC-130J)1945年の沖縄戦に米軍が上陸した砂辺集落は米軍嘉手納基地に隣接しておりフェンスで仕切られ、上空を特殊作戦機MC-130Jが爆音を立てて日常的に飛来します。かつて米軍が上陸したビーチには現在、米軍関係者を対象とした巨大マンションや宿泊施設が建てられ、砂辺集落には米軍関係者が数多く生活しています。砂辺集落は琉球王国から継承される遺跡文化財が数多く残ると共に、返還後も米軍関係者が普通に生活する"チャンプルー集落"となっています。沖縄では米軍基地問題は賛否両論多々ありますが、砂辺集落は沖縄の米軍基地の現状を分かりやすく示している集落となっているのです。
2021.04.26
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(喜友名のシーサー)沖縄本島宜野湾市の北部、県道81号線沿いに「喜友名(きゆな)集落」があります。アメリカ軍普天間基地とアメリカ軍Camp Foster(キャンプ瑞慶覧)に挟まれた集落は、地区全体が碁盤の目のように規則正しく整理された古き時代の計画集落の1つです。「喜友名集落」を取り囲むように7体の石彫りシーサー(獅子像)が置かれ、宜野湾市の「市指定有形民俗文化財」に登録されています。(メントー前のシーサー)「メントー前のシーサー」は喜友名集落の北西側外れに設置されています。この喜友名2丁目5番地にある「メントー前シーサー」は宜野湾市の中心部に向けて建てられています。シーサーには集落や屋敷内に厄や忌み嫌われるものが入らないようにする「反し(ケーシ)」としての役割があります。(メーマシチ前のシーサー)「メーマシチ前のシーサー」は「メントー前のシーサー」の東側、喜友名2丁目3番地に設置されています。元々は喜友名集落の北側に隣接する神山集落(現普天間基地)への「反し(ケーシ)」の役割でしたが、現在はメーマシチの庭に移動しました。分家によって集落が拡がるとシーサーも更に前に移して集落の全員がシーサーの恩恵を受けられるようにしているそうです。(クラニーグァー前のシーサー)喜友名2丁目17番地に「クラニーグァー前のシーサー」があり、宜野湾市の中心部である南側を向いてます。喜友名公民館の南東方向に位置するこのシーサーは南側の「いすのき通り」から見て突き当たりの場所に設置されています。喜友名集落の石獅子は集落を守るものとしては沖縄県内で最多で、7体のシーサーは面構えや形も違い、さまざまな表情を見る事が出来るのです。(イリーグァー前のシーサー)「イリーグァー前のシーサー」は「クラニーグァー前のシーサー」の東側である喜友名1丁目3番地の三叉路に位置しており、西側に隣接する「新城集落」方面を向いています。シーサーの集落での置き方、顔の向き、形状の違い等はそれぞれのシーサーが持つ特別な意味を知る上で重要な手掛かりとなります。(トゥクイリグァー前のシーサー)「トゥクイリグァー前のシーサー」は喜友名集落の北東部にある「シオン幼稚園」の交差点にあります。喜友名1丁目29番地から北東方向を向くこのシーサーは比較的に保存状態が良く、身体の横幅1メートルで高さ80センチ以上の大型シーサーで、顔の表情、歯の形、足の形、尻尾まではっきりと形状が綺麗に残されています。(メートーヤマ前のシーサー)国道58号から県道41号を普天間神宮方面に向かう坂道の途中に「メートーヤマ前のシーサー」があります。喜友名集落の北側で喜友名2丁目29番地に構えるこのシーサーは北部の北谷町と西海岸の海を向いています。「メートーヤマ前のシーサー」は頭部だけがこの場に設置されており、胴体部分と思われる部分は喜友名公民館の敷地内にあります。(ナカムトゥー前のシーサー)「ナカムトゥー前のシーサー」は喜友名集落の西側で喜友名2丁目25番地にあり南側を向いています。1960年代には仲元家後方のガジュマルの木の中にあったそうで、現在でもシーサーの顔の表情が良く残っています。現在、集落を守るシーサーが残るのは喜友名集落のみで、宜野湾市の民俗を考える上で大変貴重で重要な文化財となっています。(ヒージャーグーフー)(ウフブタ)「ナカムトゥー前のシーサー」の西側で喜友名2丁目9番地に「ヒージャーグーフー」と呼ばれる石柱があります。グーフーとは「高まり」や「たんこぶ」の意味で、明治時代に「反し」として建てられました。この場所から一本道が喜友名集落の東側まで続いており、その場所である喜友名1丁目12番地の「シオン幼稚園」敷地内には「ウフブタ」と呼ばれる大岩があります。「ウフブタ」も同じく「反し」の意味があり、シーミー(清明祭)の際に集落の住民が祈っていました。(パイプライン標識)「シオン幼稚園」の敷地内に「パイプライン標識」が残されています。パイプラインと呼ばれる那覇軍港から普天間基地に燃料を送る輸送菅が喜友名集落の北側から東側を通っていた事を今に伝える当時の標識が残っています。「POL R-O-W/NO THOROUGHFARE UNAUTHORIZED VEHICLES/KEEP OUT」「軍油線道路 許可なき諸車の通行を禁ず」と記されています。(ウィユクイビラ)(チュンナーガーの入り口)(チュンナーガーの歌碑)喜友名集落の北側にある「メートーヤマ前のシーサー」は「ウィユクイビラ」と呼ばれる坂道にありました。この場所はチュンナーガー(喜友名泉)の湧泉から集落までの道の途中にある休憩場の1つでした。現在はアメリカ軍Camp Foster(キャンプ瑞慶覧)内にあるチュンナーガーまでの道のりは急勾配で険しく、水汲みは大変な重労働で喜友名集落への嫁は少なかったと伝わります。その反面、喜友名に嫁いだ女性は「働き者」として非常に評判だったそうです。(喜友名の合祀祠)(祠内/向かって右側)(祠内/向かって左側)「ウィユクイビラ」の西側に「喜友名の合祀祠」があり鳥居の向こうに祠が建てられています。この祠は現在の「米軍キャンプ瑞慶覧」の敷地内(県道81号線沿い)にあった「喜友名グスク」の拝所を昭和34年に移設したものです。祠内は6つに分けられており右から「ヌール(ノロ)」「東門」「正門」「北門」「海」「泉」の拝所が合祀され、それぞれに霊石とウコールが祀られています。(喜友名の火の神)(火の神の祠内部)喜友名集落の中心部に「喜友名公民館」があります。公民館の敷地に「火の神」が祀られており、祠の内部には天地海を示す3つの霊石とウコール(香炉)が設置されています。喜友名集落の守り神であり、7体の石獅子と共に喜友名集落を悪霊から守る大切な聖域となっています。ウコール(香炉)にはヒラウコー(沖縄線香)が燃えた山盛りの灰が残されており、集落住民の信仰心の強さが見てとれます。(喜友名公民館のシーサー通り標識)(喜友名公民館の入り口にあるシーサー)「喜友名集落」は1671年に浦添間切から分離され宜野湾間切に編成されました。方言名で「チュンナー」と言います。琉球王国時代の地割制度の名残りで集落全体が規則正しく区画整理され、現在でも旧喜友名集落の面影が残っています。沖縄戦後に喜友名集落の遺跡文化財の多くが普天間基地とCamp Foster(キャンプ瑞慶覧)に接収されてしまいました。1日も早い普天間基地とCamp Fosterの返還を心から望み、喜友名集落の大切な宝を取り返したいものです。
2021.04.20
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(謝刈公園から望む北谷町美浜)沖縄本島中部の西海岸に北谷町があります。戦後の混乱の中で北谷町で最も栄えた地区が謝刈(じゃーがる)部落です。険しい山岳地帯を切り開いて形成された部落は、幾つもの急な坂道や迷路のような細い路地が所狭しと詰め込まれています。戦争の逆境を見事に力に変えて開拓された「謝刈部落」は、地区そのものが沖縄戦を語る上で非常に重要な遺跡文化財として高い価値があります。(米軍基地内の旧北谷集落)1945年の沖縄戦でアメリカ軍が北谷町の海岸より上陸し一帯を占領しました。米軍はその海沿いの土地にアメリカ陸軍のHamby Airfield(ハンビー飛行場)の滑走路を建設し、更に現在の国道58号線の内陸部の土地も徴収してアメリカ海兵隊のCamp Foster(キャンプ瑞慶覧)を構築したのです。アメリカ軍に土地を奪われた北谷集落の住民は、北に数キロ離れた謝刈部落の険しい山中に移住する事しか許されませんでした。(謝刈三叉路)謝刈部落の中心部に「謝刈三叉路」があり「ジャーガルミチ」と呼ばれる県道24号の坂道が90度に差し掛かっています。三叉路の「幸地書店」は歴史の長い老舗で周辺地域の店舗が閉まる中でも営業を続けている謝刈部落のシンボル的な店として謝刈の住民に愛され続けています。琉球バスの「謝刈原」バス停の赤瓦屋根の古民家は、古き良き謝刈部落の雰囲気を醸し出しています。(ナポリ座跡)(謝刈劇場跡の敷地)険悪で急な山岳地帯であった謝刈部落には戦後1万人以上が移住させられました。謝刈三叉路には映画館の「ナポリ座」が1953年辺りに建てられ、1965年に閉館してからは部落のエイサーを披露する場として現在でも建物は残っています。「ナポリ座」の裏手には以前より露天劇場の「大平劇場」があり、1952年に改築されて「謝刈劇場」に改称されました。1965年頃に閉館するまで琉映貿系の映画館として住民に親しまれていました。(謝刈公園沿いのワイトゥイ跡)謝刈部落の北部に「ワイトゥイ」と呼ばれる切り通しの道がありました。断崖を掘削した農道の事で、うるま市勝連の平安名集落にある「ワイトゥイ」が有名です。謝刈部落のワイトゥイの断崖はかつて10メートル以上あり、昼間でも非常に暗く住民に恐れられていました。道幅は3メートル位で荷馬車が1台通れる細道だったと伝わっています。現在は広い道が整備されて、ワイトゥイの片側は眺めが良い謝刈公園として地域住民の憩いの場になっています。(トーヤマヌカー)謝刈部落の中心部に北玉児童館があり敷地内に「トーヤマヌカー」があります。謝刈部落にあった2つの共同井戸の1つで、深さが2〜3メートル以上あった「チンガー」と呼ばれる釣瓶井戸でした。「トーヤマヌカー」はワク(湧水)ではなかったので干魃の際には水が枯れていました。現在は「水神」と刻まれた石碑が建てられ、ウコール(香炉)が設置されていました。(イーヌカー)「トーヤマヌカー」の北側に「イーヌカー」があり、謝刈部落にあった2つの共同井戸のもう1つでした。部落に個人井戸があった家はほんの数軒だったため、ほとんどの住民が「イーヌカー」を利用していました。謝刈部落で1番水量が豊富な井戸で、深さは1メートルほどあり釣瓶を利用して水を汲んでいました。水量は戦前の半分くらいになりましたが現在でも水が湧いています。部落では「カーウガミ」と呼ばれる水の神を祀る行事が行われています。(ジャーガルビラ)(ワイトゥイから降るジャーガルビラ)ジャーガル公園の南部からワイトゥイを結ぶ「ジャーガルビラ」と呼ばれる急勾配な坂道があり、かつては石畳で頑丈に造られていました。「ジャーガルビラ」はイニンビー(死者の人だま)が出る事で有名で、謝刈部落の南側にある白比川からイニンビーがやって来ると信じられていました。また、米軍が上陸して来た時には「ジャーガルビラ」に地雷を設置して誰も通さないようにしていたそうです。ちなみに「ジャーガルビラ」の東側を「アガリグミ」西側を「イリグミ」と部落を分けて、親戚同士を一緒に住まわせたと伝わります。(謝刈のビジュル/拝所)(祠の内部)謝刈部落の西側に「ジャーガルモー(謝刈毛)」と呼ばれる野原があり、そこに3つのウンチケー(霊石)が祀られた祠があります。沖縄には古くから石信仰があり、3つの石はそれぞれ「天地海」を現しています。祠の内部には霊石、ウコール(香炉)、賽銭箱が設けられていました。この拝所は旧暦2月2日、旧暦8月15日、旧暦11月15日に拝まれています。かつてこの場所では旅の安全を祈って船を見送る「フナウクイ」が行われていました。(ビジュルの石碑)(マーイサー)「ジャーガルモー」にはビジュルの石碑があり「拝所 字謝刈部落」と刻まれています。石碑の下には「マーイサー」と呼ばれる1つ100キロ程ある丸石が数個置かれています。部落の若者達が力比べで持ち上げていたと伝わります。「マーイサー」はもともと南東側にあった「マーイサーモー(セーネンモー)」と呼ばれる野原に設置されていましたが、現在はジャーガルモーに移されています。(ジャーガルミチ/県道24号)(吉原14番地の霊石)謝刈部落の中心部のジャーガルミチ(県道24号)沿いに、ニービ石造りの古い霊石と石敢當の石碑が設置されています。T字路や突き当たりではなく民家の入り口に設置されており、ジャーガルミチの北側を向いています。白比川から謝刈部落に昇ってくるイニンビー(死者の人だま)を追い返す魔除けとしての役割があると考えられます。(ホースガー)謝刈部落の南西側に「ホースガー」と呼ばれる涌井戸があります。「ホースガー」は宇地原(うじばる)公園の敷地内にあり、戦前より水が豊富な井泉でした。ホースガーの名称は戦後に付いたもので、ゴムホースを入れて水を引いていた事が名前の由来になりました。戦前は宇地原(うじばる)のガー(井戸)なので「ウージガー」と呼ばれて周辺住民に重宝されていました。(謝刈湯の跡地)(謝刈部落の細道)謝刈部落の中心部にはかつて「謝刈湯」と呼ばれた銭湯があり、現在は解体後に新しいアパートが建てられています。謝刈部落の路地裏は急勾配な細道が迷路のように張り巡らしています。東西南北が分からなくなる不思議な路地が多く、部落の高齢者が元気に坂道を登ってゆく姿を頻繁に見かけます。かつては北谷町で一番栄えた地区ではありましたが、現在は学校や児童館が建ち並ぶ住宅地として穏やかで落ち着いた街並みになっています。謝刈部落は戦後の激動の沖縄を力強く生き抜いた人々の魂が込められた地区であり、平和を象徴する特別な聖域となっているのです。
2021.04.19
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(美里集落の琉球赤瓦屋根)沖縄市「美里集落」の南部(美里1丁目/2丁目)には数多くの琉球赤瓦屋根の古民家が現在も立ち並び、令和の時代から古の沖縄の時代へ一気に空間を超越する事が出来ます。そこには歴史的価値が高い文化財が豊富に人々の暮らしに自然に溶け込み、先祖が残した大切な遺産を受け継がれているのです。(美里グシク)(美里グシクの香炉)美里集落の南部に「美里グシク」の拝所があります。この拝所は国道329号線と国道330号線が交わる場所にある小高い丘の頂上にあり、南南東に向けられて建つ祠内には「美里御城」と刻まれた石碑が祀られています。また「美里グシク」のウコール(香炉)は西南西に向けて設置されており霊石、貝殻、花瓶が供えられています。(グシクヌニー井戸)(仲元前のカーグヮー)「美里グシク」の北西側に「グシクヌニー井戸」があり「ソニーヌチンガー」とも呼ばれています。「美里グシク」から一番近い場所にある井戸の脇にはニービ石作りの霊石が魔除けとして祀られており「グシクヌニー井戸」は神聖な水源として、集落では水の神様へ祈る拝所となっています。さらに、この井戸から北西側には「仲元前のカーグヮー」と呼ばれる井戸があり、美里集落南部の生活用水や飲料水として重宝されていました。(ヌルドゥンチャー)(ヌルドゥンチャーの内部)「仲元前のカーグヮー」の西側に「ヌルドゥンチャー」と呼ばれるノロ殿内(ヌルドゥンチ)があります。「美里の殿」の名称でも親しまれる神アサギで、美里集落の琉球ノロが祭祀を行う神聖な場所でした。沖縄戦の前に造られた琉球赤瓦の建物で、歴史的にも文化的にも非常に価値があります。「ヌルドゥンチャー」内部には天地海を表す3つの霊石、3つの香炉、貝殻が祀られています。(ヌルドゥンチャー南西の霊石)(ヌルドゥンチャー北西の霊石)「ヌルドゥンチャー」は集落で行う祭祀において中心となる場所であり、村落の最高祭祀であるノロ(祝女)の火神が祀られています。集落でいくつか行われる祭祀において、ノロ(ヌル)はここに集合してから祭事に取り掛かります。「ヌルドゥンチャー」は豊年祭、ウシデーク、エイサーなどの諸芸能が奉納される場でもあり、ノロが神と交信交歓できる聖域でもあるのです。(ヌルドゥンチャー北東の霊石)(ヌルドゥンチャー南東の霊石)美里集落の「ヌルドゥンチャー」はこの他に東西南北にも霊石が祀られており、四方八方が魔除けの霊石で守られています。ノロは琉球王府に正式に定められた神職で、ニライカナイや太陽の神々と交信することのできる存在でした。また祭祀の間はその身に神を憑依して神そのものになる存在とされています。そのためノロは神人(かみんちゅ)とも呼ばれているのです。(美里間切地頭火の神ガー)「ヌルドゥンチャー」の西側に「地頭火之神」があります。石碑には「美里間切地頭火の神ガー」と記されていますが、現在はガー(井戸)は確認されません。井戸跡とウコール(香炉)が設置されており、美里集落の西側を悪霊を払う土地の守護神として祀られています。また、美里集落のお通しの役割を果たす拝所でもあり、住民だけでなく集落に訪れる人々の玄関口としても重要な場所でありました。(セークガー)美里公民館の南側に位置する「セークガー」は沖縄市の指定文化財に登録されています。井戸は堅固な石積みで2つの取水溝と四角の形をした覗き穴がある。戦後に改修された記録はなく、往年の技法を伝える重要な文化財となっています。詳しい建造年代は不明ですが、美里集落の発祥に関わる井泉だと言われています。美里集落の中心部に「メーデーガー」があり、現在でも豊かな水が湧き出ています。井泉は飲料水や生活用水の他にも、収穫した野菜や衣類を洗う為にも使用されていたと考えられます。旧正月には若水を汲み茶を沸かし一年の健康を祈願して飲んでいました。また、集落で子供が産まれた時には産水としても使用されていました。(美里2丁目11番地の石敢當)(美里2丁目17番地の石敢當)(美里2丁目21番地の石敢當)美里集落の美里2丁目には数多くの古い石敢當が点在しています。ニービ石で造られた石敢當は少なくとも100年以上前のものと考えられ、昔からこの地域に人々の暮らしがあった事が分かります。また、美里2丁目には琉球赤瓦屋根の古民家も集中的に多数残っており、美里集落が発祥した地域としての可能性も高まっています。(カニチヌマーチ)「美里集落」には道の角に孤立した三角地が設置されている独特な風景があります。これは美里2丁目18番地にある「カニチヌマーチ」と呼ばれる三角地です。美里集落でしか見られない珍しい区画形式で、魔除けの意味があると考えられますが詳細は不明です。美里集落の南部は美里集落発祥の地と考えられ、歴史あるノロの祭祀建物も大切に保存されています。美里集落に伝わる古き良き琉球文化を肌で感じる事ができるこの地は、スピリチュアルなパワーを感じる聖域として、ゆったりとした時間が今日も流れているのです。
2021.04.13
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(美里集落の石敢當)沖縄本島の沖縄市中部に「美里集落」があり、現在の沖縄市の前身となった美里村があった歴史の古い地域です。沖縄戦の前から残る琉球赤瓦の古民家が多く現存する古き良き琉球を感じる街並みには、数多くの貴重な遺跡文化財が大切に保存継承されています。「美里集落」は平地でありながら井泉が多数湧き出る水の聖域として崇められています。(美里ビジュル)(ビジュルの霊石)「美里集落」の北側の境界に「美里ビジュル」があります。「んさとびじゅる」と刻まれた石碑と一緒に"天地海"を示す3つの霊石とウコール(香炉)が祀られています。ビジュルとは十六羅漢のひとり賓頭盧(びんずる)に由来し、沖縄では主に霊石信仰として豊作、豊漁、子宝などの祈願が行われる神聖な場所として拝されています。(イジュンガー)美里集落北部にある沖縄市立美里小学校の東側に隣接する場所に「イジュンガー」があります。「泉川」と刻まれた石碑があり井泉の跡を保存継承しています。小学校の身近な場所に美里集落の歴史跡がある事で、子供達への歴史教育に役立つ非常に貴重な文化財として地域住民により大切に拝されています。(ヒージャーガー)「ヒージャーガー」とは湧水を樋でひいて利用する形態の井戸の事です。明治25年(1895年)に生まれた地元の古老が物心ついた頃には井泉が存在したと言われています。「ヒージャーガー」は子供が産まれた時に産水を汲むウブガー(産井)として利用され、ウマチー(豊年祭)には集落の融資が祈りを捧げました。また、昭和初期まで集落の飲料水として使用され、洗濯をする「洗濯ガー」としても賑わっていたと伝わっています。(ヒージャーガー池跡)「ヒージャーガー」の南側にある溜池跡で「ヒージャークムイ跡」とも呼ばれています。水道が整備される以前の沖縄では、5〜6月の梅雨時期と8〜9月の台風の季節以外は干魃が相次ぎ、農業用水として雨水や排水をためる共同の溜池(クムイ)も使用していました。「ヒージャーガー池跡」の片隅には拝所が設けられており「「元」樋川池」と「馬□□」と刻まれています。(イリーアタトウヤマの入り口)(銀山御嶽/ヒンジャン御嶽)(シチャヌウカー/ヒチャヌウカー)美里公民館の北側にある「イリーアタトウヤマ」と呼ばれる聖なる小高い山があります。東側にある「アタトウヤマ」の西(イリ)側にあり、石垣や居住地跡が残されています。山の上には「銀山(ヒンジャン)御嶽」と呼ばれる拝所があり、祠内には霊石とウコールが祀られています。「イリーアタトウヤマ」の南東側の麓には「シチャヌウカー(ヒチャヌウカー)」と呼ばれる井泉があり、聖なる山からの神聖な水として崇められています。(村屋跡/アシビナー)(村屋跡の記念碑)「美里村屋」や「ンザトゥムラヤー」と呼ばれる美里集落の「遊び庭(アシビナー)」で、集落の子供達や若者が集う遊び場でした。また、集落の年間行事が行われる中心地として賑っていました。現在は集落の青年会会館として利用されています。集落の古老によると、村屋が建てられたのは1914年頃と言われています。「村屋跡」は文化庁の登録有形文化財として、建造物は貴重な国民的財産に指定されています。(石畳跡)(サークヌカー/ニーブガー)美里小学校の南側に位置する場所に「石畳跡」の道があります。現在は石畳跡の西側に国道329号線が並行していますが、琉球王国時代には集落の主要道路として石畳が敷かれていました。この石畳跡を進んだ先には「サークヌカー(ニーブガー)」があり井泉の周りには畑地が広がっており、周辺にも敷石と考えられる遺構が残っています。現在「サークヌカー」の水は農業用水として重宝されています。(ジナンヌシチャヌカー)(キャッチャガー)「ジナンヌシチャヌカー」は石畳跡の北側にあり畑地に囲まれています。かつては集落の生活用水として重宝されていたと考えられます。また「ジナンヌシチャヌカー」の西側には「キャッチャガー」があり、飲料水としてだけではなく農作物を洗ったり、衣類を洗う井戸として使用されていました。現在でも豊富な水量があり、農業用水として大切に利用されている現役の井泉です。(印部石/しるべいし)美里3丁目7番地に沖縄市指定文化財の「印部石(ハル石/さ/さく原)」があります。「ハル石」とは琉球王府により行われた「元文検地(1737〜1750年)」と呼ばれる土地測量の際に各地に設置された石の事です。美里集落に残る唯一の印部石(しるべいし)で、約280年前に建てられたこの「ハル石」は、琉球王国時代に行われた測量の状況を知る上で非常に貴重な文化財となっています。(美里3丁目8番地の霊石)ニービ石(ニービヌフニ)の霊石は魔除けとして集落のT字路や突き当たりに設置され、現在では珍しく歴史的にも文化的にも価値が高まっています。沖縄市「美里集落」は琉球王国時代から続く古い地域で、現在でも迷路のような細い路地や琉球古民家が残る歴史を感じる聖地となっています。「美里」という名前が示す通り琉球の文化美が詰まった空気が漂い、静かでゆったりとした時間が流れる里として私達を癒してくれるのです。
2021.04.12
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(ウガングヮームイ/御願小森)「大里集落」は沖縄市の南側に位置し泡瀬地区の西側にあります。大里集落の最南端に「ウガングヮームイ/御願小森」と呼ばれる小さな森があります。竜宮神を祀っていると言われる拝所で、かつて「ウガングヮームイ」周辺には船着場や防空壕がありました。勝連グスクの阿麻和利を討伐した鬼大城が百度踏揚を連れて首里に向かう前に隠れた場所との伝承があります。(ウガングヮームイの内部)「ウガングヮームイ」の内部には宇宙を構成する「地水火風空」を示す5つのウコール(香炉)と霊石か祀られています。昔は海外へ移住した村人たちの健康祈願も行われていた場所で、戦時中は戦地へ出発する兵隊を見送る場所でもありました。「ウガングヮームイ」は地元の住民に「イチバンチ」の名称で呼ばれています。(ウサチウガンジュ)(火之神)「大里集落」の東側に「ウサチウガンジュ」と呼ばれる拝所があります。「ウスクギー」と呼ばれるアコウの木の下に「大里氏地頭」と刻まれた石柱とウコールが設置されています。「ウサチ」とはそのアコウの木に由来しており、この木の樹齢は約100年と言われています。アコウの木の右側に「火之神」の霊石があり、集落の住民は俗に「ウサチヒヌカン」と呼んで拝しています。(カーウリガー)(カーウリガーの正面にある石敢當)「ウサチウガンジュ」の西側で大里2丁目23番地に「カーウリガー」があります。この井戸は出産時の汚れた衣服や布を海で洗った後に、仕上げをするために使用されていました。「カーウリガー」から道を挟んだ正面にはニービ石造りの石敢當があります。神聖な「カーウリガー」の井戸を悪霊から守るように設置されています。(ソーリーガー)(ヒーゲーシー)「大里集落」の北東に「ソーリーガー」があります。飲料水や生活用水として利用された他に「大里集落」で死者が出た際に死者の身体を清める水をこの井戸から汲む慣わしがありました。道路に突き出るように造られた井戸は比較的珍しい型で、一般的な井戸に併設しているウコール(香炉)が設置されていない事も特徴があります。大里公民館の北東側に隣接する桃原集落との境目に「ヒーゲーシー」があります。現在のクムイ(溜池)には水は見られませんが、重要なクムイの跡として現存しています。このクムイは村のヒーゲーシー(火を返す魔除け)のために設置されたと言われています。(地頭火之神)(地頭火之神の内部)「大里集落」の北側の坂道にある「地頭火之神」で、祠にはジトゥーヒヌカン(地頭火之神)とカミジー(神の土地)が祀られています。「地頭火之神」と刻まれた石碑と霊石が設置されヒラウコー(沖縄の線香)が供えられていました。集落の土地の守り神として地元住民により大切に拝されています。ちなみに「地頭」とは琉球王朝時代(1429~1879年)に各間切(マギリ/現在の市町村)の地頭(領主)として地方行政を担当した人のことで、間切番所(現在の町村役場)の最高の役で、諸般の行政を監理する役目を担っていました。(エーヤマ遺跡の案内板)「地頭火之神」の西側に「エーヤマ」と呼ばれる遺跡の森があります。「大里集落」の6つの拝所がある聖地で、この地の植物を切ったり刈ったりする事は固く禁じられていました。「大里集落」はこの森の周辺で発祥したと言われており、旧暦4月15日の「アブシバレー」と呼ばれる虫払いの儀式では住民が山の森全体を拝んでいます。「エーヤマ」はグスク時代(12〜16世紀頃)の遺跡として永きに渡り「大里集落」を見守っているのです。(トゥンチナー/殿内庭)(ウサチガー/御先井)「大里集落」の「火の神」が祀られておりトゥンチナーやトゥンヤーと呼ばれています。この場所では旧暦3月、5月、6月のウマチー(豊年祈願/感謝祭)の行事、旧暦6月25日の綱引き、旧暦9月9日の菊酒(健康祈願)が行われます。戦前は瓦屋根の建物でしたが沖縄戦で失われました。戦後、他の拝所に先駆けて現在の形に復元されました。「ウサチガー」は初めて大里集落に住んだ人々が使用していたとされる井戸です。戦前は隣接する国道329号線内にありましたが、道路建設に伴い現在の位置に移されました。現在でもカーウガミ(井戸拝み)などの集落の行事で拝まれています。(エーガー/ウフガー)(ヌンミジガー/飲水井)「エーガー」は「大里集落」で最も古い井戸の一つです。「ナナヒチヒャーイ」という記録的な大干ばつの時にも水が枯れる事がなく、周辺の集落からも「エーガー」に水を汲みに来たと伝わります。以前は「エーガー」から若水(元旦に初めて汲む水)を汲み茶を沸かし、1年の健康を祈願して飲んでいました。「ヌンミジガー」は大干ばつの際に「エーガー」だけでの水では足りなくなり造られた井戸です。井戸の構造が三日月に似ている事から「ミカヅキガー」の名称で親しまれています。「エーガー」同様、正月にはこの井戸から若水を汲み重宝されていました。現在でもカーウガミ(井戸拝み)などの集落の行事で拝まれています。(タキグサイ)(カンジャーガー)戦前は「エーヤマ」の頂上に香炉が置かれていましたが、戦後に「エーヤマ」が大きく削られた際に香炉や霊石が木の根付近にまとめられていました。その場所は現在のように屋根を付けて復元されました。祠内には天地海を示した3つの香炉と霊石が祀られています。また、海外へ移住した人々の健康祈願も「タキグサイ」で行われていました。「エーヤマ」のこの地で鍛冶屋(カンジャー)を始めた人が使った井戸と伝えられています。戦前は水溜りぐらいの井戸だったそうですが「エーヤマ」が削られた際に失われてしまいました。現在の「カンジャーガー」は実際の場所を探し当てて復元されたものです。(望月按司の石碑)(大里繁座那志の石碑)「エーヤマ」には「望月按司」の石碑があります。望月(茂知附)按司は9代目の勝連グスク城主で、その後10代目城主になる阿摩和利に追放された人物です。勝連グスクから追放された望月按司がエーヤマに逃れて大里の地で祀られています。「望月按司の石碑」の近くには「大里繁座那志の石碑」が建てられおり、大里の土地神がエーヤマの森に一緒に祀られているのです。(大里集落の琉球赤瓦屋根と芭蕉)「大里集落」は「エーヤマ」の聖地に守られている神秘的な集落で、琉球の文化が大切に継承される魅力溢れる土地です。琉球赤瓦屋根の古民家が残る静かでゆったりとした時間が流れる集落です。「大里集落」はかつては海に面していた集落で船着場跡も残っています。比較的小さな集落ですが、古の琉球ロマンがたくさん詰まった聖地として、現在でも集落の住民により神様への祈りが捧げられ続けているのです。
2021.04.06
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(田場集落/古民家の赤瓦門)旧具志川市の「田場集落」は、現うるま市の中心部で金武湾に面した地域にあります。古い石垣とフクギに囲まれた古民家が残る、古き良き琉球時代の雰囲気を感じる集落です。「田場集落」は伝統芸能が盛んな地域でもあり、臼太鼓や獅子舞、無形文化財指定のティンベーと呼ばれる盾と槍を用いた琉球古武術等が大切に保存継承されています。(浜千鳥の歌碑/表側)具志川ビーチと赤野漁港の間に位置する海辺に「浜千鳥の歌碑」があります。沖縄民謡の「浜千鳥節」や琉球舞踊の「浜千鳥」は非常に有名で、浜千鳥は沖縄の言葉で「チャジュヤー」と呼ばれます。具志川小学校近くの田んぼの水管理をしていたら、赤野浜で鳴く千鳥の声に郷愁感に誘われて歌に詠んだと伝えられ、旧具志川市の伊波家で19世紀半ば頃から代々口承されてきたそうです。(浜千鳥の歌碑/裏側)歌碑に刻まれた歌詞は表側に「旅や 浜宿り 草の葉と枕 寝ても忘ららぬ 我親の おそば」とあり、裏側には「たびや はま やどぅい くさぬ ふぁどぅ まくら にてぃん わすぃ ららん わやぬ うすば」と記されています。(竜神宮の森)(田場竜神宮の祠)「浜千鳥の歌碑」の南側に「田場の竜神宮」がある森が海辺に佇んでいます。森の入り口から細い階段を登ると竜神宮の祠があります。竜神宮には海の神様が祀られており、海の恵みや航海の安全を祈る拝所となっています。「田場の竜神宮」の森からは金武港、浜比嘉島、平安座島、宮城島、伊計島を見渡し、ニライカナイ(理想郷)がある東の海に祈りを捧げる聖地となっています。(竜神宮の祠の右側にある石碑)(竜神宮の祠の左側にある石碑)「竜神宮の祠」の向かって左側に建つ石碑には「あがり世遙拝之碑」と刻まれています。「あがり」とは沖縄の言葉で「東」を意味しており、遠く離れたニライカナイに遙拝(ようはい)する石碑が祀られています。左側にある石碑には「天在子(テンザイシ)の結(ムス)び 田場久麻牟繁座那志(タバクマムハンザナシ) 中が世うみない母親」と記されています。(アカザンガー入り口)(アカザンガー)「アカザンガー」は田場集落で生活用水として利用されてきた水量が比較的豊富な井泉です。この井泉の周辺で弥生時代後期頃(沖縄貝塚時代後期)の遺跡が発見されており、この井泉の名に因んで「アカジャンガー貝塚」と呼ばれています。この貝塚から出土された土器は「アカジャンガー土器」と命名されました。この井泉は現在、地域の子供達の水遊び場として親しまれています。(田場ガー)(洗濯ガー)「アカザンガー」の北西側に「田場(ダーバ)ガー」という井泉があり、別名「産(ウブ)ガー」と呼ばれています。かつて飲み水や生活用水として利用してきた他に、正月の若水や子供が生まれた時の産水、ウマチー(豊年祭)や水ナディー(水撫で)の際に「カー拝」がありました。「田場ガー」の大きな井泉は飲み水や生活用水に使用し、小さな井泉は「洗濯ガー」と呼ばれ、井戸の前にある丸型の石を利用して洗濯をしていました。(田場ガーの祠)(石敷と石段)「田場ガー」は沸口を囲んだ2つの井池と水神の祠、マグサ(目草)、洗濯石、歩き道の石敷で形成されます。石積み様式は相方積み、布積み、土留めの上部には小石の野面積みも確認されます。旧具志川市内では最も優れた石造技術で施されたカー(井泉)の1つとして、田場集落では「命の泉」への感謝が込められ大切にされています。(田場港原の記念碑)「アカザンガー」と「田場ガー」の間に「港原」と呼ばれる田園地帯があり、人知れず草木に覆われて石碑が建っています。この一帯はかつて具志川最大の美田地帯でありましたが、昭和46年の大干ばつを境に土地が荒廃してしまいました。10年後の昭和56年に土地の蘇生整備が行われ、広大で肥沃な土地を再び荒廃させる事の無いよう記念碑が建てられました。そのお陰で現在の港原は豊かな自然に恵まれています。(田場の神女殿内)(田場の神屋)田場集落の北側で赤野集落に隣接する仲本家の屋敷は「神女殿内」で敷地内には「神屋」があります。「神女殿内」はヌルドゥンチと呼ばれ、集落で最高位のノロ(神女)が住む家となっています。「神屋」は神アシャギと言われ、ノロが神を呼び祭祀を行う神聖な場所です。神屋は扉が開けられており、内部には3つの霊石、陶器のウコール、石造りのウコールが設置されていました。(高等教育発祥の記念碑)田場集落の南側(田場1054番地辺り)に「高等教育発祥の地」と刻まれた石碑があります。石碑の裏側には「太平洋戦争直後の1946年1月より40年余、ここ田場原頭に極度の窮乏のなかて、学びて倦むことを知らぬ燃える青春群像があった。琉球大学の前身としての役割を担った沖縄文教学校、沖縄外国語学校が、幾多の俊秀を世に送り出した、ここは、戦後高等教育の発祥の地である。」と記されています。(田場168番地の拝所)田場集落は古より広大な田畑が広がる地域で「田場」という地名もそれに由来していると考えられます。井泉(カー)、神女殿内(ヌルドゥンチ)、御嶽などの遺跡文化財は県道8号の南側に集中している事から田場集落は北側で発祥し、時代と共に居住地が南側に広がったと思われます。そして田場集落の南側で沖縄の戦後高等教育が生まれ、現代の沖縄県の発展に大きく役立つ重要な地域として発展してきたのです。今後も歴史、文化、伝統を大切に守り、未来の沖縄に明るい光を灯す集落で居続ける事を期待しています。
2021.04.05
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(喜屋武マーブ公園展望台)うるま市にある「喜仲集落」は1956年に「喜屋武/チャン集落」と「仲嶺/ナカンミ集落」が統合された地域で「喜仲/チャンナカンミ」の愛称で呼ばれています。「喜仲集落」のシンボルである「喜屋武マーブ」は旧具志川市で一番標高が高い位置にあり、古より御嶽、グスク、火打ち嶺と役割を変えながら「歴史の証人」として存在し続けています。(シードゥーガー)(仲嶺の殿)(地頭火ヌ神)「シードゥーガー」は「喜屋武マーブ」の森にある井泉で、琉球王府時代の男子が15歳になり結髪式の際に身を清める王府公認の井泉です。当時の具志川間切には15の村がありましたが「シードゥーガー」と呼ばれる井泉は仲嶺と田場の2集落だけでした。建造年代は不明ですが、小規模ながら切り石積みで作られ保存状態は良好を保っています。「喜屋武マーブ」の中腹に「仲嶺の殿」と「地頭火ヌ神」があり「琉球国由来記」には『マフノ嶺ノ殿』と記されています。「殿/ドゥン」とは祭祀の際に根神たちが集合する場所で、大きなミートゥ(夫婦)松があった聖域でした。「仲嶺の殿」に隣接して「地頭火ヌ神」が祀られています。旧正月三日の「ハチウクシー/初興し」や年4回の「ウマチー/豊穣祈願と収穫祭」に祈られています。(山乃神)(マーブの嶽)(マーブの嶽/祠内部)「喜屋武マーブ」の北部に「山乃神」があり祠は南西を向いています。祠内には"山乃神"と彫られた霊石が設置されています。「山乃神」を更に北に進んだ森の奥地に同じく南西に向いた「マーブの嶽」が佇んでいます。「仲嶺集落」の守護神で「琉球国由来記」には『マアブノ嶽』と記されています。近世では、この御嶽から煙を焚いて旅に出る家族を見送った事で「火タチモー」と呼び、旅の安全を祈願する役割も果たしています。(喜屋武按司の墓)(喜屋武按司の墓)(喜屋武按司の墓/アコウの木)「喜屋武グスク/喜屋武マーブ」の中腹には「安慶名大川按司」一世の四男である「喜屋武按司」の二男と三男の按司墓があります。1972年(昭和47年)に行われた按司墓の修復の際、釉薬仕上げの御殿(ウドゥン)型の厨子甕(ジーシガーミ)が2基確認され、いずれの墓からも遺骨が発見されました。因みに「喜屋武グスク」の4代目按司になる「大城賢雄」は1458年の「阿摩和利の乱」で「勝連グスク」城主の「阿摩和利」を討伐した人物で「鬼大城」の名で知られています。(仲嶺のブーマー神)(仲嶺の村神/喜屋武按司神屋)(仲嶺の根人屋/ニーチュヤー)「仲嶺集落」北部に「仲嶺のブーマー神」があり霊石が祀られています。ブーマー神とは古代の先祖の葬所で祖霊神が鎮座する聖域で、関係する御嶽を遥拝する場所だと考えられています。更に「仲嶺のブーマー神」は海が見える小高い場所にあるため、神様が住む理想郷であるニライカナイから豊穣の神様を迎える御嶽との説があります。「仲嶺の村神/神名イシズカサノ御イベ」は「喜屋武按司神屋」の新築に伴い2003年に同じ建物内に合祀されました。新しく仲嶺の住民になった際に引っ越しの報告、家庭円満、無病息災等を祈願します。ウマチー(豊穣祈願/収穫祭)ではお粥を作ってお供えします。「仲嶺の根人屋」は仲嶺集落に初めて住み始めた「根人/ニーチュ」が暮らした場所として伝わっています。(カミミチの東側入り口/喜仲4丁目5番地)(カミミチの西側入り口/喜仲4丁目4番地)「仲嶺集落」には「カミミチ/神道」と呼ばれる道があります。「カミミチ」は非常に神聖な道で「マーブの御嶽の殿」を参拝する時に籠に乗って通る道でした。また、龕(ガン)という葬列葬式に棺を入れて墓まで運ぶ神輿を運ぶ時に決して通ってはいけない道でした。「カミミチ」に接する家では「カミミチ」側に台所、便所、畜舎は作らず必ず一番座(床の間)を設けます。そのような特別な家の設計を「ヒジャイガメー」と呼びます。(仲嶺の産泉/ウブガー)(昭和タマガー)(仲嶺の根人井/ニーチュガー)「カミミチ」には「仲嶺の産泉/ウブガー」があります。集落で子供が産まれると産泉に報告し加護を祈念しました。赤子の額を「ウブガー」の水で撫でた後に産湯として使用しました。結婚の時には新婦は産泉の水を婚家の仏壇に供え、正月には若水を汲み身を清めるお茶をたてて心身の若返りを祈願しました。また、日常の生活用水や死者の湯かんにも「ウブガー」の水が使われていました。「喜屋武マーブ」の麓には井戸が点在し「昭和タマガー」や「仲嶺の根人井」からも豊かな水が湧き出ていました。井泉は水の神様に祈る拝所として集落の住民に崇められていました。「仲嶺集落」では旧暦の8月に集落にある数十ヶ所の井泉を巡り祈りを捧げる「カーウガミ」が行われています。(喜屋武マーブ公園)「喜屋武グスク」は別名「喜屋武マーブ」「仲嶺マーブ」または「火打嶺/ひうちみね」とも呼ばれていますが、地元では「喜屋武マーブ」の名称で親しまれています。首里王府が海上を見張らす為に琉球国内各地の要所に遠見番を置き御冠船、進貢船、薩摩船の入港を王府に通報する烽火台を設置しており、火立(ヒタチー)があった場所でもあるため「喜屋武グスク」は「火打ち城」とも呼ばれていました。現在は「喜屋武マーブ公園」として整備されて地元の住民の憩いの場として愛されているのです。
2021.03.30
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(喜仲公民館落成記念碑)沖縄本島うるま市にある「喜仲集落」は1956年(昭和31年)に「喜屋武集落」と「仲嶺集落」が統合され一つの字名となりました。琉球王府が編さんした「おもろさうし」巻十四(1623年)に「きやむもり」とあります、17世紀の「琉球国高究張」にも「喜屋武村」と記されています。喜仲公民館には「喜仲公民館落成記念碑」が建てられています。(喜屋武の産井/ウブガー)喜仲集落の東部にある「喜屋武マーブ」の麓に「喜屋武の産井/ウブガー」があります。産湯を汲む井泉で正月には若水を汲み身を清め、お茶を入れて一年の幸せを祈願します。また、結婚の際には新婦がウブガーの水を婚家の仏壇に備えるなど、人生の節目や日常生活水としても使用されていました。現在も喜屋武と仲嶺の有志によりカーウガミの際に参拝します。(御神カーの入り口)(御神カーの井戸)「御神カー」は「喜屋武の産井」の北西に位置する井戸です。喜屋武集落に住む人々の生活飲料水として利用されていました。現在は「喜屋武マーブ公園」の敷地にあり、井戸の内部には沢山の石が敷き詰められています。また、井戸にはウコール(香炉)が設置されており、喜屋武グスクから湧き出る水源への感謝を祈る拝所となっています。(喜屋武土帝君)(喜屋武の土帝君内部)「土帝君」は中国起源の土地神で、沖縄へは1698年に大嶺親方が神像を持ち帰り祀らせたのが土帝君祭祀の始まりだと言われています。「土帝君」内にはウコール(香炉)と霊石が設置されています。旧正月三日の初ウガミ(ハチウクシー)、八月十五夜、九月九日菊酒、九月カーウガミの時に、集落の代表者がビンシー(御願の道具箱)、ウチャヌク(お供え物のお餅)、シルカビ(白紙)等をお供えして土地神に五穀豊穣、村の繁栄、住民の健康、子孫繁栄などを祈ります。(喜屋武の殿の標柱)(喜屋武の殿/喜屋武のウガン)「琉球国由来記」に「タケナフ嶽ノ殿」「神名コバズカサノ御イベ」と記されています。その周辺は終戦直後まで松の大木、クバ、アダンも生い茂り、聖域として特定の人しか立ち入り出来ませんでした。かつてはウマチー(収穫祭)の際に新米で作ったウケーメー(お粥)を備えて豊年を祈願しました。現在は旧正月のハチウクシー、八月十五夜、九月九日菊酒、九月カーウガミの時に、喜屋武集落の有志により拝まれています。(喜屋武の村ガー入り口)(喜屋武の村ガー)「喜仲集落」を通る県道224号沿いにある「印刷/なかま企画」脇の細い路地を進んだ先に「喜屋武の村ガー」があります。「喜屋武の殿」で行われる祭祀の際に、白装束を着けたノロやカミンチュ(神人)が髪を洗いみそぎをしました。現在は「ウブガー(産井)」として、集落で子供が産まれるとミジナディという儀式で額に「喜屋武の村ガー」の水を付けて健康祈願する聖水として利用しています。印刷店の方に村ガーの見学をお願いした所、快く通してくれたので心地良く「喜屋武の村ガー」を視察できました。(喜屋武の神屋/カミヤー)喜仲集落の北東部、石川家の敷地内に神アシャギと呼ばれる神を招き祭事を行なう場所があり、喜屋武の村神と火ヌ神が祀られています。旧正月のハチウクシーをはじめ、集落の諸行事にはまず初めに拝まれます。年4回のウマチー(収穫祭/感謝祭)には喜屋武集落の有志がビンシーとお供え物で祀り、集落外から移住してきた人や、子供が産まれた家などは「喜屋武の神屋」を拝みます。(喜屋武のブーマー神)(喜仲3丁目6番地の石敢當)喜仲公民館の東側に「喜屋武のブーマー神」があります。祠内にはウコール(香炉)、巻貝、霊石が設置されていました。喜屋武集落のウガンジュ(拝所)として拝まれ、土地の守り神として崇められていると考えられます。喜仲3丁目6番地にある石敢當は「喜仲集落」では珍しいニービ石(瓢箪石)で作られた古い石敢當です。「喜屋武集落」のような歴史ある集落には必ず多数の古い石敢當が点在するのですが、不思議と魔除けの石柱やニービ石の石敢當は確認できない不可解なミステリーがこの集落には存在します。(喜仲公民館横の五叉路 /シマクサラシ)(喜仲3丁目13番地の交差点 /シマクサラシ)(県道224号と36号の五叉路 /シマクサラシ)「喜屋武集落」では「シマクサラシ」と呼ばれる悪霊祓いの儀式が行われていた場所が3箇所あります。「喜仲公民館横の五叉路」「喜仲3丁目13番地の交差点」「県道224号と36号の五叉路」の3地点に豚肉の骨や皮を左巻きの縄に吊るし、集落外から悪霊が入り込まないように祈願する「シマカンカー」とも呼ばれる祭祀です。"カンカー"とは"見張る"という意味で、悪霊を見張って追い出す役割があります。残念ながら、うるま市では数キロ離れた「江州集落」のみ現在でも「シマクサラシ/シマカンカー」が行われているので「喜仲集落」での儀式が復活する事を心からの望んでいます。(喜仲の古墓群)「喜屋武」は琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年から、尚豊王代の天啓3年にかけて首里王府によって編纂された歌謡集である「おもろさうし」に記される歴史の深い集落で「喜仲の古墓群」周辺の森が「きやむもり」として歌謡集に登場することから、この辺りが1000年前の沖縄貝塚時代に生まれた「喜屋武」発祥の地だと考えられます。古の時代から伝わるこの土地を巡ると不思議なパワーを感じる事が出来て、土地の神様に守られている雰囲気を強く感じるのです。
2021.03.29
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(北中城村/渡口集落)沖縄県北中城村東部の丘陵地域に「渡口(とぐち)集落」があります。「渡口みどり公園」をはじめとする豊かな緑の自然、琉球古民家や細い路地が残る歴史溢れる集落には、ゆったりとした静かな時間が流れています。「渡口集落」には琉球の文化とロマンがたくさん詰まった遺産が多数存在しているのです。(和仁屋間のテラ/渡口のテラ)「渡口集落」の東部に「和仁屋間のテラ」があります。「渡口のテラ」とも呼ばれるある南向きの石造建築物の構造は、桁と梁が約3.4m、高さ1.35mの方形造りで、石灰岩の屋根の頂上には宝珠があります。壁は大方切石の布積みで、側面と背面に部分的に野面積みが確認されます。前面入口部分の天井は一枚の琉球石灰岩で、他の天井材は第三紀砂岩と呼ばれる材質で造られています。(和仁屋間のテラの内部)「和仁屋間のテラ」の内部には高さ50~80cm程度の砂岩(ニービヌフニ)が四個あり他にも小型の霊石がいくつかあります。これらの石はビジュル、ボージャーブトゥチ(赤子の仏)、クヮンマガハンジュウヌカミ(子孫繁栄の神)などと呼ばれています。祭祀は渡口集落では行わず、一般に子宝に恵まれない婦人が子が授かるように祈っています。(渡口の梵字の碑/アビラウンケン)古代インドの梵語(サンスクリット)の文字が記されているこの碑は高さ104cm、幅55cm、厚さ13cmの細粒砂岩(ニービヌフニ)を使用しています。アビラウンケンは「胎蔵界大日如来」の真言の意で、宇宙の生成要素の地、水、火、風、空を表し、梵字五文字に一切の万象を網羅すると言われています。「胎蔵界」は胎児が母の胎内にいるように、真理が内在している事を示しています。(渡口洞穴遺跡)(渡口洞穴遺跡周辺の霊石)「渡口の梵字の碑」がある細流砂岩丘陵の崖面に立地する「渡口洞窟遺跡」です。弥生〜平安時代(約1700年前)からグスク時代初期(約900年前)の遺跡と考えられています。洞窟の上は拝所になっており、かつて洞窟の北側にある家々に火災や精薄児などが続出したのでユタに占ったところ「拝所の下に地位の高い先人の遺骨があるので、それを掘り出して祀りなさい」とお告げがありました。拝所の下を掘ってみると、洞窟が発見されて人骨や石器類とともに「渡口の梵字の碑」が出土したと伝わります。(渡口の殿)(渡口の印部土手石/しるべどていし)「渡口洞窟遺跡」の上部に位置する「渡口の殿」と呼ばれる拝所です。祠の内部には3つの霊石とウコール(香炉)が設置されています。この「渡口の殿」のすぐ裏に「渡口の印部土手石」があります。シルビグァーや原石(ハルイシ)ともいわれ、琉球王府が元文検地(1737~1750年)を行ったときの土地測量の目印と境界に使った図根点です。材質は細粒砂岩(ニービヌフニ)で「とくち原 ニ」と原名と仮名文字が刻まれています。石碑の大きさは高さ39cm、幅25cm、厚さ3.5cmです。(北東部のムラガー)(ムラガー入り口の拝所)渡口集落の北東部に「ムラガー」があります。渡口集落の共同井戸で飲料水として利用されてきました。戦前は旧暦元日の早朝に井戸の水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈願しました。「ムラガー」の入り口には拝所の祠があり、水の神様への祈りと感謝の場となっています。(北部のムラガー)(ムラガーの泰山石敢當)(ムラガーの霊石)この「ムラガー」は比較的大きな敷地となっている為、集落の飲料水の他にも洗濯や農作物を洗う為にも利用されていたと考えられます。井戸には「泰山石敢當」と刻まれた古い石敢當と魔除けの霊石が供えられています。神聖な水源に悪霊が寄り付かないように設置されたと思われます。この地域で「泰山石敢當」は非常に珍しい石敢當で大変貴重な文化財です。(ンブガー)(ンブガーの石柱)「ムラガー」の西側にある「ンブガー」で、「ウブガー」や「産ガー」とも呼ばれる井泉です。集落で子供が産まれるとこの井泉から水を汲み産湯に使用しました。また、産まれたばかりの赤ちゃんの額に水をつける「ミジムイ」や「ウビナディ」とよばれる水撫での儀式にも「ンブガー」の水を利用していました。「ンブガー」にも霊石が設置されており、悪霊から貴重な水源を守っているのです。(上の御嶽/イーヌウタキ)「和仁屋御嶽」や「和仁屋御願」と呼ばれる渡口みどり公園内にある拝所です。「渡口集落」に隣接する「和仁屋集落」の発祥の地とも言われています。屋根と壁はそれぞれ一枚のサンゴ石灰岩で造られ、東側に向いて建てられています。高さ80cm、幅107cm、奥行き61cmで、祠には三つの神体(砂岩)が安置されています。渡口集落ではハチウビーとウマチー(旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日)に拝している重要な拝所です。(クミシ嶽)(クミシ嶽の内部)「クシミ嶽」は渡口みどり公園内の南東に位置し、渡ロメーガーラ(前の川)にかかるメンター橋の近くにある拝所で「クバジ嶽」とも呼ばれています。瓦ぶきの祠で高さ145cm、横118cm、奥行き94cmです。天井と左右の壁はそれぞれ一枚の粟石(第四紀段丘性石灰岩)で造られ、後方の壁は二枚積み上げられ、祠の中には霊石が5つ安置されています。さらに、この場所は「渡口集落」の南側にある「熱田集落」の発祥の地と伝わります。(北東に向けられた石柱)(東に向けられた石柱)「渡口集落」には古い石柱が多数散財しています。沖縄は昔から石への信仰が強く、集落の至る場所で石敢當や魔除けの霊石を見つける事が出来ます。拝所の祠には必ず霊石が設置されており、人々は祈りを捧げています。古き良き琉球の暮らしが垣間見れる「渡口集落」では、特に歴史の深い貴重な泰山石敢當や魔除け霊石が遍在し、今もなお効力を発揮して生き続けているのです。
2021.03.23
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(島袋集落の古民家)沖縄県北中城村の最北端にある集落が「島袋集落」で"しまぶく"と発音します。米軍施設であった「アワセメドウズ」と呼ばれたゴルフコースが沖縄県に返還されて建設された「イオンモールライカム」に面した集落です。細い路地が交わり琉球古民家が数多く残る、古き良き沖縄の雰囲気を感じる事が出来る癒しの部落です。(ヌルドゥンチ)島袋集落の北部にある「ヌル殿内(ヌルドゥンチ)」で、集落の祭祀を司るノロの居宅です。沖縄ではノロ制度が崩壊しつつありますが、多くの地域で無人の建屋や敷地の一角に拝所のみが設けられ、村の祭祀の重要な祈願所であり豊年祭、感謝祭、エイサーなどが奉納される場であります。また、神と交信交歓できる場としてヌンドゥルチは聖地として崇められいます。(字島袋トゥン火の神)「ヌルドゥンチ」の敷地内で北側にあり「字島袋トゥン火の神」です。ヌルドゥンチの敷地内にあるノロのヒヌカン(火の神)で、島袋集落の南の入り口を守護する役割も果たしていると考えられます。石段を登った先にある火の神は琉球赤瓦屋根の祠になっていて、祠内部にはウコール(香炉)や霊石が祀られています。(島袋197番地の石敢當)(島袋182番地の石敢當)島袋集落は細い路地が多く行き止まりも多数存在します。その為、悪霊が溜まりやすいと信じられているT字路の突き当たりや十字路の角に「石敢當」と呼ばれる魔除けの石碑や石標を発見する事が出来ます。現代の「石敢當」の多くは御影石、大理石、琉球石灰岩が使われていますが、画像にある100年以上前の石敢當の石碑には、ニービ石と呼ばれる細粒砂岩が使用されているのが特徴的です。(梵字の碑/カンマン)島袋集落北部にある安座間家の屋敷外に建つニービ石(細粒砂岩)製の「梵字の碑/カンマン」です。梵字は古代インドで文章語や文章を書く時に用いられたサンスクリット語で、仏教と共にアジアに広まり「神仏を一字で現す文字」として中国を経て日本に伝わりました。いつの時代に沖縄に伝わり島袋集落に設置されたのか不明ですが、不動明王の「カンマン」は「カン」と「マン」のふたつの梵字を組み合わせた荘厳体と呼ばれるものです。(マーカーガー跡)(マーカーの御嶽)(ンマイー/馬場跡)島袋集落の東側に「マーカー」と呼ばれる島袋集落発祥の地があります。島袋集落の創始者である根人(ニーチュ)が使用した井泉がこの「マーカーガー」で、この井戸跡にはウコールが設置されて水の神を祀っています。マーカーガーに隣接する丘陵には「マーカーの御嶽」があり、その「腰当て(クシャティ)」の上部には「ンマイー」と呼ばれる、馬の美しさを競う琉球古式競馬(ンマハラシー)が行われていた馬場の直線道路があります。(九年堂の御嶽)「九年堂の御嶽」は島袋集落の東側、旧外人住宅の北外れにあります。この御嶽周辺の整備に九年の歳月を要した為「九年堂の御嶽」と呼ばれるようになったと伝わります。祠は東向きで幅88センチ、奥行き93センチ、高さ57センチあり、材質はサンゴ石灰岩で造られています。壁はそれぞれ一枚石が使用され、屋根の頂上には宝珠が設置されています。祠内には2つのサンゴ石灰岩の神体とウコール(香炉)が設置されています。(梵字の碑/ボロン)島袋集落の比嘉家屋敷東角の塀上に建つ梵字(古代インドの文語であるサンスクリット文字)の石碑で屋敷の角につき当たる道に向かって建っています。高さ34cm、幅40cm、厚さ11cm、材質は細粒砂岩(二-ビ石)です。ボロンは一字金輪の種子で、仏菩薩の功徳は全てこの一字一尊に帰すると伝わります。比嘉家も地域も梵字の碑に拝する事はなく、石敢當と同じように魔よけの役割がある石碑と考えられています。(梵字の碑/カンマン)島袋公民館がある島袋中央公園に隣接する西側にある「梵字の碑/カンマン」です。高さ35センチ、幅34センチ、厚さ9.2センチ、材質は細粒砂岩(二-ビヌフニ)です。カンマンは不動明王の種子で、除魔、除災、諸願成就を意味する梵字碑です。家人や地域の人が拝することはなく、石敢當と同じように魔除けの役割があると伝わります。(梵字の碑/カンマンの2m右にある石敢當)(島袋中央公園脇の石敢當)島袋集落には100年以上も前に建てられたと考えられる細粒砂岩(ニービ石)製の石敢當が多く点在しています。風化と共に彫られた石敢當の文字が薄くなっているのも特徴で、少なくとも明治時代後期から大正時代より令和の現代に渡り、さまざまな歴史を見つめながら島袋集落の魔除けとして路地脇に立ち続けているのです。そんな歴史ある石敢當に手を触れるだけで、非常に強いパワーを感じる事が出来ます。(タンパラガー)(タンパラガー裏の石敢當)現在の島袋集落は「タンパラ」と呼ばれる屋号の家を中心に発展したと伝わっています。タンパラの屋敷にはこの「タンパラガー」と呼ばれる古井戸が残されています。井戸は非常に深く掘られており、入り口は鉄柵で守られています。さらに「タンパラガー」の直ぐ裏手には古い石敢當があります。T字路でも十字路でもない場所にあるこの石敢當は水の神様が宿る「タンパラガー」を悪霊から守るように建てられています。(島袋499番地の石敢當)(島袋375番地の石敢當)沖縄ては石敢當は神聖な石碑として大切にされており、新しく家を建てたり道路を作っても古い石敢當の石碑を動かす事はありません。魔除けとして昔から先人が守って来た財産を無闇に移動して傷つけたりしたらバチが当たると誰もが知っています。細粒砂岩(ニービ石)製の古い石敢當は明治時代や大正時代から同じ場所に存在しており、古より島袋集落を悪霊から守っているのです。(島袋15番地の小型石柱)この石柱は高さ30センチ程の小型で、石敢當の文字や梵字は刻まれていません。魔除けの意味を持っていると考えられますが、いつの時代に誰が建てたのか詳細は不明です。島袋集落に隣接してイオンモールライカムやプラザハウスショッピングモールなど人々で賑わっていますが、島袋集落に一歩踏み入れると古き良き沖縄が残っています。島袋集落に多数分布する古い石敢當や梵字碑は、沖縄戦も経験している貴重な文化財として単なる魔除けだけでなく、沖縄の有形財産としてこれからも後世に大切に伝わる事でしょう。
2021.03.22
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(熱田マーシリー)沖縄県北中城村に「熱田マーシリー」という有名な悲恋伝説があります。その伝説の聖地が国道329号線沿い、渡口交差点と中城モールのちょうど真ん中に佇む「熱田マーシリー」です。この隆起した琉球石灰岩の大岩が「熱田マーシリー」と呼ばれるクシャティ(腰当て)で、北中城村の文化財として登録されています。(北側から見た熱田マーシリー)悲恋伝説によるとその昔、現在の八重瀬町である具志頭(ぐしちゃん)間切の白川桃原樽金(タルガニー) と、現在のうるま市にある勝連(かつれん)間切浜村の浜川真鍋樽(マナンダルー)がお互いに恋したが、結ばれることなく二人とも恋焦がれ死んでしまい、遺言によって一緒に埋葬されたと言われています。その墓が「熱田マーシリー」と伝わっているのです。(勝利のV字ガジュマル)具志頭(ぐしちゃん)間切は現在の八重瀬町にあり、この「具志頭V字ガジュマル」は具志頭地区のシンボルとして知られています。昭和39年に当時の具志頭中学校の敷地だったこの場所に、幹がVの字に分かれたガジュマルを生徒が見つけて来て卒業記念として植えました。その後は役場の敷地になりましたが、このガジュマルに祈ると勝利につながると言われており「勝利のV字ガジュマル」と呼ばれています。(熱田マーシリーの入り口)「熱田マーシリー」の悲恋伝説は「難題聟」とも呼ばれている琉球民話です。琉球王国時代に具志頭村に白川タルガニーという美男子がいました。ある日、白川タルガニーは商人から「勝連浜の村に琉球一番の美女が住んでいる」と聞きました。すると白川タルガニーは「自分の目で見てみたい」と、わざわざ具志頭から遠く離れた勝連南風原の浜原という村に出掛けたのです。(熱田マーシリーの琉球石灰岩とガジュマル)白川タルガニーは村で浜川マナンダルー見つけ、その美貌に一目惚れしてしまい「私の奥さんになって欲しい」と結婚を申し込みました。浜川マナンダルーも白川タルガニーが美男子であったため、一目惚れしてしまいましたが思い詰めてしまったのです。そこで浜川マナンダルーは白川タルガニーがどれだけ頭が良い人物か知るために謎掛けを出しました。「二頭の馬に鞍を一つ載せて、一人で乗ってきて下さい」(琉球石灰岩の下に湧き出る井泉)白川タルガニーは謎々の意味が分からなくなり、具志頭に戻って村のお婆さんに助けを求めたのです。人生経験豊富なお婆さんはこう言いました。「妊娠している分娩前の馬に鞍を載せて、今すぐ乗って行きなさい」すると浜川マナンダルーは非常に感心して白川タルガニーをますます気に入ってしまいました。浜川マナンダルーは更にこんな謎掛けを出したのです。「上のすだれと下のすだれが仲良くなった時に来てください」(熱田マーシリー内部の空間)再び答えがわからない白川タルガニーは具志頭のお婆さんを再度訪ねました。するとお婆さんは「上のまぶたと下のまぶたが一緒になって眠った時分、つまり夜中に忍び込んで来なさい」と答えました。白川タルガニーは言われた通りに夜中に浜川マナンダルーを訪ねると、見事に謎掛けを解いた白川タルガニーにお盆を出しました。お盆には小刀、ご飯が入ったお椀、竹で作った箸を置いて、そのまま自分の布団の床に就いてしまいました。(小さな石が幾つも積まれた石垣)白川タルガニーは「晩飯でも食べなさい」と思ってご飯を食べてしまいました。すると浜川マナンダルーは突然怒り出して白川タルガニーに「帰れ」と言って家から追い出してしまいました。意味が分からないまま怒らせてしまい失恋した白川タルガニーは、具志頭に戻りお婆さんに全ての経緯を話しました。するとお婆さんは「これは、直ぐに私を抱いてくれという意味だ」と説明したのです。(高くそびえる琉球石灰岩)小刀は沖縄の言葉で"シーグ"だから"直ぐに"という意味、お椀は沖縄の言葉で"わん"は"私"、竹は"ダキ"で"抱き"という意味、米は"込め"。つまり「直ぐに私を抱き込め」という意味だと、お婆さんは答えたのでした。白川タルガニーは「ああ、そうか、残念だった…」と恋に焦がれた挙げ句、恋の病で死んでしまいました。(具志頭〜勝連南風原)白川タルガニーを追い出してしまった浜川マナンダルーも、相手が美男子で気に入っていながら素直になれず謎掛けを繰り返した事に後悔しつつ、同じように恋に焦がれて死んでしまったのでした。二人の遺言で男は女の見える場所、女は男に見える場所に遺骨を納めるようにとあり、具志頭と勝連南風原から両方の村の人々が遺骨を運んで来ました。すると丁度「熱田マーシリー」の拝所で二人の遺骨が出会ったのです。そこで、この地に白川タルガニーと浜川マナンダルーを合葬しようと墓が造られたのでした。(うるま市勝連南風原の「浜川ガー」)「浜川ガー」は「ハンガーガー」とも呼ばれ、浜川マナンダルーが頭髪を洗髪した場所として知られています。浜川マナンダルーは勝連グスク7代目の城主である浜川按司の娘で、彼女の黒髪は身長の1.5倍もあり竿に髪の毛をかけて洗ったとの伝説があります。因みに「浜川ガー」への行き方は、うるま市発行のパンフレット「南風原の文化財」に記載されている地図をお勧めします。(浜川ガー)「浜川ガー」は南風原村のウブガー(産川)として利用されていました。集落で子供が産まれるとこの井泉から水を汲み産湯に使用し、産まれたばかりの赤ちゃんの額に水をつける「ミジムイ」や「ウビナディ」とよばれる水撫での儀式にも「浜川ガー」の水を利用していました。現在でも、旧正月元旦に南風原集落及び、周辺の集落の門中により「カーウビー拝み」で祈られています。(浜川ガーの内部)(浜川ガーのガジュマル)「浜川ガー」は現在も豊かな水が湧き出ています。浜川マナンダルーがその美しく長い黒髪を洗った透き通った聖水は祈りの対象になっていて、井泉にはウコール(香炉)が設置されており、ヒラウコー(沖縄線香)が供えられていました。ガジュマルから生える無数の細い根が、まるで浜原マナンダルーの髪の毛の様に垂れ下がり、非常に神聖な雰囲気に包まれます。(西から見た熱田マーシリー)「熱田マーシリー」は「マーシリーグスク」とも呼ばれています。もともと拝所として熱田集落の人々に拝まれていましたが、この拝所に白川タルガニーと浜川マナンダルーの墓が造られました。「熱田マーシリー」の森の内部には無数の小さな石が積まれた石垣の人工建造物があります。そこに悲恋の末に亡くなった美男美女が寄り添って眠っています。(浜川ガーの入り口から見える勝連グスク)勝連グスクは世界遺産に登録されているグスクで、7代目城主である浜川按司の娘が「熱田マーシリー」の悲劇のヒロインである浜川マナンダルーです。勝連グスクは10代目城主の阿麻和利が1458年に琉球王府により滅ぼされました。「熱田マーシリー」の悲恋伝説は今から600〜700年前から伝わる伝承で、その頃から白川タルガニーと浜川マナンダルーが同じ墓で寄り添っています。この比翼塚は非常にロマンティックな悲恋伝説として琉球の歴史に深く刻まれているのです。
2021.03.16
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(熱田の島根殿)北中城村「熱田(あった)集落」は沖縄本島中部東海岸の中城湾に面し、西の丘陵地から熱田漁港に広がる山麓にある長閑な集落です。熱田集落は車が1台通れる細い路地で覆われており、古き良き琉球赤瓦屋根の民家が多数残る歴史を感じる地域となっています。集落を通る国道329号線は交通量が多い主要な道路ですが、一歩集落に立ち入ると静かでゆったりとした時間が流れています。(熱田シー)熱田漁港の西側の畑の中にある「熱田シー」の祠は、珊瑚石灰岩で造られており西側に向いています。かつて熱田には旧暦3月15日に「サングヮチウマチー」と呼ばれる豊年祈願の祭祀があり、大城ノロ、安谷屋ノロ、瑞慶覧ノロ、島袋ノロが揃い「熱田シー」でネズミなどの害虫駆除祈願をしていました。現在はウマチー(豊年祈願)とウハチー(収穫祭)で祈られています。(熱田公民館の島根殿)「島根殿」は熱田公民館の敷地内にあり、集落の中央部に位置しています。「オミヤ」または「シマニドゥン」と呼ばれ、祈願の対象は海水に侵食された大きな岩です。沖縄戦前までは神人がウマチー(旧暦2月15日、5月15日、6月15日)に御花、線香、神酒を供えて集落の住民の健康とムジュクイ(作物)の豊年祈願をしました。現在でも字の役員が各ウマチーに祈っています。(ロ山石敢當)「ロ山石敢當」は熱田公民館の南東側、民家の西側塀の外に西向きに立っています。石敢當は中国起源の除災招福の石柱で、魔除けの役割があるとして沖縄に伝わっています。この石敢當はそもそも「泰山石敢當」と刻まれていましたが、偉い人と同じ名前を使用するのは失礼に当たる風習に従い「泰」の字を尚泰王(在位1848〜1879年)の時代に削ったと考えられます。「山」の字の上には文字を削った跡が残っています。(アガリユーヌウトゥシドゥクル)「アガリユーヌウトゥシドゥクル」は熱田公民館の敷地内にある西向きに建てられた拝所です。島根殿に祈願するウマチーの日に同時に祈られています。拝所の名前に示されているように「東(アガリ)ユーへの御通し所」の意で、東のニライカナイ(理想郷)に向かって集落に豊穣をもたらす事を祈願するウガンジュ(拝所)です。(ンブガー/産川)熱田公民館の北東側に「ンブガー/産川」と呼ばれる井泉があります。集落で子供が産まれるとこの井泉から水を汲み産湯に使用しました。また、産まれたばかりの赤ちゃんの額に水をつける「ミジムイ」や「ウビナディ」とよばれる水撫での儀式にも「ンブガー」の水を利用していました。(ニーヤー/根屋)(ニーヤーガー)熱田公民館の北側に「ニーヤー」と「ニーヤーガー」があります。ニーヤー(根屋)は熱田集落の創始者のあった家の事で、現在は屋敷だった敷地内に石造りの祠が建てられています。祠内には3つの霊石が供えられており、ウコール(香炉)も設置されて拝まれています。「ニーヤー」から道を挟んだ北側には「ニーヤーガー」があり集落の創始者が利用していた井戸跡が残されています。(ニーヤー脇の石敢當)(熱田214番地の石敢當)熱田集落には古くから残る「石敢當」が多数存在しています。石敢當はT字路の突き当り等に設けられる「石敢當」などの文字が刻まれた魔よけの石碑や石標で知られていますが、熱田集落の古い「石敢當」はT字路の突き当たりではなく、十字路の角に立てられています。100年以上前の沖縄の魔除け石柱と同じ位置に立てられており、琉球から伝わる風習が現代の人々の生活の一部として存在しているのです。(熱田352番地の井戸)(熱田64番地の井戸)(熱田公民館横の井戸)山麓に広がる熱田集落は丘稜から湧き出る水が豊富で、集落の至る場所に現在も井戸跡が多数残っています。古民家の庭には必ず古井戸があり、路地の脇にも名も知らぬ井戸跡を発見する事が出来ます。昔から熱田集落は水源に困らない村として発展してきた事が分かりますし、水道が整備されている現代でも古井戸を大切に残すという事は、集落の人々にとっての井戸は「水の神様」に祈る拝所の役割があると考えられます。(熱田258番地にある謎の石碑)熱田集落には読解不可能な謎の文字が刻まれた石碑があります。北中城村の文化財にも登録されていない石碑で、石敢當と同じような魔除けの意味があると思われます。また、宇宙の生成要素である地、水、火、風、空を表した梵字(アビラウンケン)である可能性もありますが詳細は不明のままです。この謎の石碑は古くから沖縄各地に存在する魔除けの石柱と同じニービヌフニ(細粒砂岩)で造られており、少なくとも100年以上前のものだと考えられます。(熱田公民館の警鐘)熱田公民館にある火事を伝える警鐘です。この警鐘は沖縄戦で米軍が残した不発弾を再利用しています。現在は赤いペンキが塗られ火の用心の文字が記されています。さて、熱田集落には「熱田の南島(フェーヌシマ)」という伝統芸能が伝わっています。1980年に北中城村の無形民俗文化財に指定され伝統芸能で、熱田集落で古くから伝えられてきた踊りです。空手をイメージした動きで手踊りと棒踊りの二種類があります。(エーガー/染物の藍(エー)を洗う専用井戸)「熱田のフェーヌシマ」は赤く長い髪をたらした風貌で行われる手踊りと棒踊りの伝統芸能で、謎の歌と共に手踊りから演舞が始まります。「タウチュンナータイ タウチュンナータイヨ チョウオーヨーティメウターン イエチョウハアタイ フーテーヨーフィヨ フィタイフィタイ チンサーン チントーンヨーオーサイ チューサイヨー スイナー」と歌われますが、その歌の意味は全く不明なのです。(イチバルガー)熱田集落の無形民俗文化財として昭和55年に指定されていますが、熱田集落では少子化や継承者不足に悩まされています。「熱田のフェーヌシマ」という熱田集落だけに伝わる伝統文化を大切な財産として後世に伝えるためにも、無力ではありますが私もこの記事を通じて伝えたいと考えています。そして、1人でも多くの人に北中城村の「熱田集落」や「熱田のフェーヌシマ」を知ってもらうきっかけになれば幸いです。
2021.03.15
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(城前公園/越来グスク跡)「越来集落」と「城前集落」は沖縄市の中心部に位置し比謝川沿いに広がる城下町です。越来(ごえく)グスクは沖縄市城前町周辺の丘陵地に15世紀頃に築城された山城グスクです。沖縄戦などで破壊されて遺跡はほとんど残されていませんが、越来グスクは越来地区の人々の誇りとして大切にされています。(越来グスクの拝所/ギークヌウガンジュ)(越来グスクの火の神)「越来グスクの拝所」は「ギークヌウガンジュ」ともよばれ、城前公園(越来グスク跡)の敷地内にあります。拝所の祠の中には左に「越来城殿」右に「火の神」と記された石碑があり、それぞれに石造りのウコール(香炉)か設置されてヒラウコー(琉球線香)とお賽銭が供えられていました。すぐ隣にある「火の神」の祠には霊石とウコール(香炉)が設置されており、越来グスク跡への御通しと土地の守り神としての役割を持っています。(ムトゥジマガー/クシバルガー)越来集落の南側にある「ムトゥジマガー」です。越来地区の憩いの場である「越来城水辺公園」の直ぐ脇に位置し「クシバルガー」とも呼ばれています。元々この地には安慶田集落があり、村人が生活用水として利用していた井戸だと言われています。(御殿川のヌーメーカー)越来小学校の南東側に位置する「御殿川のヌーメーカー」です。城前集落の住宅と壁に囲まれた薄暗い場所にあり、表の通りからは見えない場所に佇んでいました。井戸にはウコール(香炉)が設置されており、琉球石灰岩の石垣が井戸を囲むように積まれていました。「御殿川のメーヌーカー」に続く細い路地の入り口には、神聖な拝所である旨の注意書きがありました。(ヌルドゥンチ/ヌンドゥンチャー)(ヌルドゥンチ結びぬカー)城前集落の北側に「ヌンドゥンチ」があります。「ヌルドゥンチャー」とも呼ばれ、集落のノロ(神女)の住居で村落の祭祀が行われた神聖な場所として祀られています。祠の中には「祝女火之神」「掟火之神」「地頭代火之神」「地頭火之神」「お通し火之神」が祀られていました。更に「ヌンドゥンチ」の直ぐ北側には「ヌルドゥンチ結びぬカー」があり、井戸の隣には拝所の祠がありウコールが設置されています。(飛び安里の生家跡)越来小学校の北側に「飛び安里の生家跡」の古民家があります。「鳥人飛び安里」として知られており、ライト兄弟が1903年に有人動力飛行を成功させる遥か前の1787年(琉球王朝時代)に空を飛んだ人物です。「飛び安里」は1768年に首里鳥堀に産まれ、その後沖縄市越来に居住しました。弓に鳥に似た翼を付けて足で上下に動かし、泡瀬の海に面した断崖から飛びたったのです。(ターチューガー/イシガー)「飛び安里の生家跡」の西側に「ターチューガー」があります。この井泉は「イシガー」と呼ばれていましたが、昭和3年に越来村が模範衛生集落に設定されたのを機会に造られ、吸い上げポンプが2台取り付けられたために「ターチューガー」と呼ばれるようになったのです。集落の住民は正月の元旦にこの井戸から若水を汲んだり、子どもが産まれると産湯用の水も汲んだりしました。(拝領の白樺)「拝領の白樺」は越来小学校の北側に位置します。越来王子時代(1418年)に尚泰久王は世利久との間に子供を授かり、その記念として蜜柑と白椿の木が植えられました。沖縄戦で蜜柑の木は消失しましたが、白椿は幹に艦砲射撃を受けたにも関わらず根が残り再生したのです。しかし、白椿は平成9年2月に枯れてしまい、現在はその白樺の木の2代目が屋敷地内と、隣接する「ターチューガー」に植えられています。(ワクガー)越来集落にある杉の子保育園の西側に位置する場所に「ワクガー」があります。尚宣威王の子孫であるワクガー(湧川)按司が使用していた井戸と口碑が伝えられています。井戸の上部には石造りの祠があり、内部にはウコール(香炉)と霊石が設置されています。現在も越来集落の人々に拝まれている神聖な拝所となっています。(殿内跡/トゥンチヌスバヌヒヌカン)沖縄県立美来工科高等学校の南側に位置する丘の上に「殿内跡/トゥンチヌスバヌヒヌカン」があります。尚宣威王の子孫が暮らしていた場所と口碑が伝えられており、現在は湧川門中の子孫たちが拝んでいます。祠の内部には「湧川殿内」と「火の神」と記された石碑て3本の霊石が祀られ、ウコール(香炉)が設置されています。(尚宣威王の墓に続く石段)(尚宣威王御来歴の石碑)越来集落の北西部で沖縄県立美来工科高校の南西側に位置する、比謝川沿いにある小高い山の中腹に「尚宣威王の墓」があります。墓の型式は名嘉真宣勝の分類の「岩穴囲い込み墓」です。墓の岩穴は上部の高い場所に設けられており、下部にはウコール(香炉)、花瓶、湯呑みなどを設置する場となっている特徴的な大型の墓となっています。(尚宣威王の墓/上部)(尚宣威王の墓/下部)尚宣威王は第二尚氏尚円王の弟で、尚円王が即位すると越来間切の総地頭に任ぜられ「越来王子」と称されました。1476年に尚円王が亡くなり尚宣威は1477年に王位を継ぎましたが、在位6ヶ月にして王位を尚真に譲りました。その後に越来間切へ隠遁し、同年8月に没したのです。兄の尚円王が世界遺産である「玉陵(タマウドゥン)」に祀られているにも関わらず、弟の尚宣威王は越来の薄暗い森の山に墓を構えている謎は未だに詳しく解明されていません。(越来2丁目4番地の霊石)(越来2丁目10番地の霊石)越来グスクの城下町である「越来集落」と「城前集落」には、悪霊祓いとして知られる「石敢當(いしがんとう)」の他にも古い魔除けの霊石が多数存在しています。井泉(カー/ガー)の数も多く豊富な水源と共に集落が発展してきた事が分かります。この土地は琉球王国時代から沖縄本島中部の越来間切として繁栄し、その後に越来間切が多数に分裂して現在に至ります。この城下町を歩いて巡ると琉球王国の伝統や文化を肌で感じる事が出来ます。「越来集落」と「城前集落」は国道330号と国道329号が交わる比較的交通量が多い地域ですが、城下町の内部に一歩足を踏み入れれば、ゆったりとした優しく心地良い時間が流れているのです。
2021.03.09
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