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先日(1月18日)、喫茶・ペリカンの家のお客さんからお聞きした、幸運のオリーブの葉というのは、こういう葉なんだろうか。 その話のことは、下記<参考>の記事をご参照ください。<参考>健康診断&ペリカンの家で遅い朝食 2024.1.18.(ハート型のオリーブの葉) これは、ペリカンの家の前にあるオリーブの木のものではなく、別の場所にあったオリーブの木でたまたま見つけたものである。 その日にお聞きした話のことを思い出し、通りがかりの道端で目にしたオリーブの木を、それほど熱心にというのではなく、冷やかし半分で枝先の葉を試しに見ていたら、ほんの数秒でこの葉に気が付きました。 これは、多分、葉先の先端、中央を、虫に齧られたか何かで少し欠損した結果、このようなハート型になったものと推測される。(同上) もっと大きく齧られたら、もっとハート型らしくなったかもしれないのだが、要は、葉先中央、左右均等に欠損する必要があり、そうでないと左右対称とはならず、ハート型を形成しない。こういう偶然はそうはないだろうから、稀有な葉の形ということになるのだろう。 普通、虫の齧った葉は、もっと乱雑、不定形で、こういう形になることはない。 さて、幸運の葉であるのかどうか、そういうことには、余り頓着するヤカモチではないので、写真撮影が済むとすぐに行方不明となってしまったから、幸運の葉であったとしても、その幸運はヤカモチのもとをすりぬけてしまうことでしょう(笑)。(通常のオリーブの葉)(追記2024.1.31.)通常の形の葉の写真も比較のため追加掲載しました。
2024.01.30
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今日はヤカモチの誕生日であります。 めでたく1306歳を迎えることとなりました。 毎年この日に先ず行うことは、ブログのプロフィールに記載の年齢を一つ多い数字に書き換えること。 そして、〇〇歳になりました、という記事を書くこと。 まあ、それだけであります(笑)。 謡曲「鶴亀」の「亀は萬年乃齢を経て、鶴も千代をや重ぬらん」ではないが、鶴の年齢を超えてしまってはや306年、どこまで生きながらえるというのであるか。 亀の万年には届きそうになく、そろそろその時でもあり、それは明日のことかも知れないから、メメント・モリ(memento mori)を肝に銘じて、残余の命を生きることといたしましょう。<参考>メメント・モリ-Wikipedia(祝誕生日の花) これは、一昨日の若草読書会の新年会でヤカモチが誕生日のお祝いとして贈呈を受けたお花であります。をのこしも うれしかるらむ 生(あ)れし日の 祝(いは)ひと花を 受くるのあるは (偐家持)(本歌)士をのこやも 空しかるべき 万代(よろづよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして (山上憶良 万葉集巻6-978)<参考>関連過去記事〇ヤカモチ1305歳 2023.1.29.〇ヤカモチ1304歳 2022.1.29.〇1303歳になりました。 2021.1.29.〇1302歳になりました。 2020.1.29.〇1301歳になりました。 2019.1.29.〇1300歳になりました 2018.1.29.〇1299歳になりました・若草読書会新年会 2017.1.29.〇1298歳です 2016.1.29.〇1297歳になりました。 2015.1.30.〇1296歳になりました。 2014.1.29.〇ヤカモチ1295歳・健人会の新年会 2013.1.29.〇偐万葉・ひろろ篇(その3) 2010.1.29.
2024.01.29
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昨日(27日)は若草読書会の新年会でありました。 昨年は若草読書会の公式行事としては、1月29日の新年会と4月1日の花見会の2回が開催されただけでありましたので、今回の新年会が久々の例会ということになりました。 昨年の新年会では凡鬼さんに講師をお願いしてヤカモチは万葉の話をせずに済んだのですが、その代わりということで、お花見会で万葉の話をさせられる羽目となりました。 もう長らく、新年会はヤカモチの万葉の話というのが恒例になっていたので、今年もその例にならいヤカモチによる山上憶良の話ということになりました。(万葉講話・山上憶良のレジメ 全21頁) 今年の参加者は、凡鬼さん、恒郎女さん、めぐの郎女さん、小万知さん、槇麻呂さん、リチ女さん、偐山頭火さんとヤカモチの全8名。 常連の、景郎女さん、祥麻呂さん、和郎女さんは都合が悪くなり欠席でした。恒郎女さんのお嬢さんである、めぐの郎女さんは今回が初参加であります。 午前11時開会のところ、10分遅れの11時10分からの講話開始となり、予定よりこれも10分遅れの12時10分終了で、きっちり1時間のお話をさせていただいたことになる。 年表に基づき山上憶良の生涯を概観した上、彼の歌をいくつか取り上げ鑑賞することとしました。 先ず、貧窮問答歌を取り上げ、その他比較的有名な歌をいくつか鑑賞しましたが、それらの歌は下記の通りです。●貧窮問答歌風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげかき撫でて 吾(あれ)を除(お)きて 人は在らじと 誇(ほこ)ろへど 寒くしあれば 麻ぶすま 引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと 着襲(きそ)へども 寒き夜すらを 吾(われ)よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝(な)が世は渡る 天地(あめつち)は 広しといへど 吾(あ)がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 吾(あ)がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾(あ)のみや然(しか)る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾(あれ)も作(な)れるを 綿もなき 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け 伏(ふせ)いほの 曲(まげ)いほの内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて 父母は 枕の方(かた)に 妻子(めこ)どもは 足(あと)の方に 囲(かく)みゐて 憂へ吟(さまよ)ひ かまどには 火気(ほけ)ふき立てず こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く 事も忘れて 奴延鳥(ぬえどり)の のどよひをるに いとのきて 短き物を 端(はし)きると いへるがごとく しもと取る 里長(さとをさ)が声は 寝屋處(ねやど)まで 来(き)立ち呼ばひぬ かくばかり 術(すべ)無きものか 世間(よのなか)の道 (巻5-892)<風に交じって雨の降る夜、雨に交じって雪の降る夜は、どうしようもないほど寒くてたまらないので、焼き固めた堅い塩をちびちび食べては、湯に溶いた酒粕をすすりすすり、何度も咳き込み、びしびしと鼻汁を啜りながら、ろくに生えてもいない髭をかき撫でて、俺以外に人はあるまいと威張ってはみるものの、寒くてたまらないので、麻の夜具を引きかぶり、布製の丈の短い袖なしをあるだけ全部重ね着ても、なお寒い夜でさえあるのに、私よりも貧しい人の父母は飢え凍えているだろう、妻子たちは食べ物をせがんで泣いているだろう、こんな時はどのようにしてあなたは世を渡っているのだろうか。天地は広いというが、私に対しては狭くなったのか、日月は明るいというが、私の為にはてってくださらないのか、人みながこうなのか、私だけこうなのか、たまたま人として生まれたのに、また人並みに生まれついたのに、綿もない粗末な肩衣の、海松(みる)のように裂けて垂れ下がったぼろ切れだけを肩に掛け、屋根を伏せ覆った庵の、傾いた庵の内に、地面直接に藁を解き敷いて、父母は私の枕元に、妻子たちは足の方に、互いに身を寄せ合って悲しみ呻き、竈(かまど)には煙も吹き立てず、甑(こしき)には蜘蛛が巣を掛け、飯を炊くことも忘れ、トラツグミのように細々と力ない声で呻吟している時に、とりわけ短い物を更に端を切り詰めるというかの如く、鞭を手にした里長の声は、寝床まで来てわめき立てる。こんなにもやるせないものであるのか世の中の道理というのは。> 反歌世間(よのなか)を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば (巻5-893)<世の中を厭わしい、生きているのも恥ずかしいと思っても、飛んで行くこともできない、鳥ではないので。>●日本挽歌1首(柩を挽く者が詠うという意の「挽歌」を日本語で詠ったもの)大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と しらぬひの 筑紫(つくし)の国に 泣く子なす 慕(した)ひ来まして 息(いき)だにも いまだ休(やす)めず 年月(としつき)も いまだあらねば 心ゆも 思(おも)はぬ間(あひだ)に うちなびき 臥(こ)やしぬれ 言はむすべ せむすべ知らに 石木(いはき)をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば かたちはあらむを 恨(うら)めしき 妹(いも)の命(みこと)の 我(あれ)をばも いかにせよとか にほ鳥の 二人(ふたり)並び居(ゐ) 語らひし 心そむきて 家離(いへざか)りいます(巻5-794)<大君の遠い政庁として、(しらぬひの)筑紫の国に(泣く子なす)慕ってやって来られ、息を整えるいとまさえ未だなく、年月もまだ経っていないのに、思いもかけず力なく横たわってしまったので、何と言ってよいのか、何をしてよいのか分からず、岩や木に問うてみても仕方がない。家に居たのなら、姿かたちはもとのままでいただろうに、恨めしいわが妻の君は、この私にどうせよと言うのか。カイツブリのように二人寄り添って語り合った、その約束にそむいて、家を離れていってしまわれる。> 反歌5首家に行きて いかにか我(あ)がせむ 枕づく つま屋さぶしく 思ほゆべしも(巻5-795)<家に帰って、私はどうすればよいのか。(枕づく)つま屋は寂しく思われるに違いない。>はしきよし かくのみからに 慕ひ来(こ)し 妹が心の すべもすべなさ(巻5-796)<ああ、いとしいことだ。こんなことになるだけだったのに、私を慕ってやって来た妻の心がやるせない。>悔しかも かく知らませば あをによし 国内(くぬち)ことごと 見せましものを(巻5-797)<後悔するばかりだ。こんなことになると知っていたら(あをによし)国中ことごとく見せておくのだった。>妹が見し 楝(あふち)の花は 散りぬべし 我(わ)が泣く涙 いまだ干(ひ)なくに(巻5-798)<妻が見た楝の花は散ってしまうだろう。私の流す涙が未だ乾かないのに。>大野山(おほのやま) 霧立ちわたる 我(わ)が嘆く おきその風に 霧立ちわたる(巻5-799)<大野山に霧が立ち込めている。私が嘆くため息の風によって霧が立ち込めているのだ。>●瓜食(は)めば 子等(こども)おもほゆ 栗食めば ましてしのはゆ いづくより 来たりしものぞ まなかひに もとな懸りて 安眠やすいし寐なさぬ(巻5-802)<瓜を食べると子どものことが思われる。栗を食べるとまして偲ばれる。いったい何処からやって来たのか、面影が目の前にちらついて、安らかに眠らせてくれない。>●銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも(巻5-803)<銀も金も珠玉も何であると言うのか。素晴らしい宝である子どもに及ぶだろうか。>●春されば まづ咲く宿の 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ(巻5-818)<春になるとまず咲く庭の梅の花をひとり眺めて春の日を過ごそうというのか。>●いざ子ども はやく日本やまとへ 大伴の 御津みつの浜松 待ち恋ひぬらむ(巻1-63)<さあ皆の者、はやく大和の国に帰ろう。大伴の御津の浜松が待ちわびているだろう。>●憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それ彼(そ)の母も 吾(わ)を待つらむそ(巻3-337)<憶良めはここで失礼いたしましょう。子供が泣いているでしょう。その母親も私をまっていることでしょう。> ●松浦佐用姫の歌海原(うなはら)の 沖行く船を 帰れとか 領巾(ひれ)振らしけむ 松浦佐用姫(まつらさよひめ)(巻5-874)<海原の沖を行く船に向かって、帰って来てと、領巾をお振りになったのか、松浦佐用姫は。>行く船を 振り留みかね いかばかり 恋しくありけむ 松浦佐用姫(巻5-875)<行く船を、領巾を振っても留めることができず、どれほど恋しかったであろうか、松浦佐用姫は。>●秋の七種の花の歌秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種ななくさの花(巻8-1537)萩の花 尾花葛花 なでしこの花 女郎花 また藤袴 朝がほの花(巻8-1538)●七夕の歌彦星(ひこほし)し 妻迎へ船 漕ぎ出(づ)らし 天の川原に 霧の立てるは(巻8-1527)<彦星が妻を迎える舟を出したらしい。天の川の川原に霧が立っているのは。><参考> 織女たなばたし 船乗りすらし まそ鏡 清き月夜つくよに 雲立ち渡る(巻17-3900 大伴家持) 天の川 梶の音(と)聞こゆ 彦星と 織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも(巻10-2029 柿本人麻呂歌集)●士(をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろづよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして(巻6-978)<男と生まれた身として無為に終わってよいものだろうか。後世に語り継がれるに足る名声をうち立てることもなく。>(若草ホール前から高安山遠望) お昼は出前の寿司と恒郎女さんがご用意くださったお味噌汁で昼食。 第二部は歌留多会。 百人一首の部は、恒郎女さんが優勝で、偐家持賞が凡鬼さん。 坊主めくりの部は、小万知さんが優勝、偐家持賞は恒郎女さん。 第三部は喫茶「若草」。 珈琲、クリームソーダ、お菓子などで、暫しの歓談。 最後に、今回ご欠席の和郎女さんが、前以って若草ホール宛てに送っていただいた多数の押絵作品(その一部については写真撮影しましたので、後日紹介させていただきます。)を希望者が頂戴して帰ることに。 なお、席上、二日後に誕生日を迎えるヤカモチは小万知さんが手配下さった花束とハッピーバースデイの歌を頂戴し感謝でありました。<参考>過去の若草読書会関連記事はコチラ。(若草ホール前の小公園の空)
2024.01.28
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昨日(22日)、若草読書会の新年会でヤカモチが担当する万葉講話に使用するレジメを印刷しようとしたら、コピー用紙が足らないことが判明。 これを買い求めるため、石切にあるホームセンター、コーナンまでMTBで出かけることとした。 ついでに先日の健康診断の肺がん検診のために採取した痰を石切生喜病院の検診センターまで届ける。 少し早い時刻であったが、病院向かいの喫茶店・ペリカンの家で昼食を済ませ、付近を少し銀輪散歩することにした。 恩智川沿いに北へと走り、加納緑地を過ぎて大東市に入ってすぐのところに御供田公園という公園がある。 地元の人たちがその公園のグラウンドでゲートボールを始めようとされているところでありました。 公園を北へと通り抜けて少し西に入ったところに、八幡神社があったので立ち寄ってみた。(御供田八幡神社) 鳥居には八幡神社という扁額が架かっているだけなので、ナニ八幡神社であるのかは不明であるが、この地区の地名が「御供田」であるから、先ほどの公園にならって「御供田八幡神社」として置く。(同上・拝殿と本殿)(同上・拝殿内風景) 拝殿のガラス窓越しにカメラを向けると、奥に本殿が見えています。(同上・由緒) 拝殿脇に掲示されている「八幡神社縁起」によると、1655年頃に石清水八幡より分霊を勧請したものであるとのこと。 この地域は、昔は岡野村という呼称であったが、その岡野家所蔵の古文書には、次のように記載されているという。「河内国讃良郡御供田村いにしへは岡野村と号す。石清水八幡宮の社領となりしより御供田村と名を改む。岡野浄忍入道、性は紀氏なるが故に八幡宮を勧請し、一村の氏神とす(中略)七十代後冷泉院の御宇、八幡太郎源義家奥州の朝敵を誅し上洛の後、石清水八幡宮へ御供田村を寄附したまふ。よって村名となる事しかり」 大阪府史によれば、当地は鵠森神社の社領であったと誌されているが、いつ頃の時代かは定かではない、とのこと。 御供田とは、神仏にそなえる米を作る田のことであるが、これが地名となっている地は各地にあるようです。また、人名(名字)にもなっていますが、読み方は「ごくうでん、ごくでん、ごくだ、おともだ、おくだ」など色々のようです。大東市の此処では「ごくでん」と読みます。(同上・旧鳥居の石柱の一部) 現在の鳥居の左脇には旧の鳥居の一部が残されていますが、旧の鳥居は、明治4年(1871年)に恩智・秋岡両家によって奉献されたとあり、現在の鳥居は平成26年(2014年)3月に建立されていますから、143年の寿命であったことになる。耐震設計上何らかの危惧があったのかもしれない。 参考までに、この八幡神社の所在位置を地図で示して置きます。(同上・位置図) それほど広くはない境内であるが、大東市が保護樹木に指定している樹木が3本存在している。(同上・保護樹木、ムクノキ第35号) これは、神社・社務所の南隣にある木。 もう一本のムクノキは境内南西隅にある。(同上・保護樹木、ムクノキ第5号) もう一本の木はイチョウで、本殿北西脇にある。(同上・保護樹木、イチョウ第24号) 帰宅後、レジメの印刷を完了し、新年会の講話の下準備は、一応できました。もっとも、どんな話の展開とするかは、未だ決めていないので、当日の成り行きに任せることとします(笑)。<参考>近隣散歩関連過去記事は下記です。 近隣散歩(その1) 2009~2013 近隣散歩(その2) 2014~
2024.01.23
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前回の「岬麻呂旅便り」記事で、「最終回」とさせていただきましたが、多くのご友人から「何らかの形で継続せよ」とのお便りを頂戴されたようで、旅報告の休止は取り止めとなり、いささかのスタイル変更を加えて継続されることとなりました。 よって、この「岬麻呂旅便り」シリーズ記事も、従前通り継続することといたします。 ということで、今年の初旅となる石垣島旅行の旅便りを以って2024年の幕明けとさせていただきます。(旅・岬巡り報告324・石垣島) 今回は、1月11日~14日の3泊4日のご夫婦旅でありますが、昨年末に奥様が腰痛を発症され、長い距離の歩行が困難になってしまわれたとかで、恒例の西表島や竹富島など高速船利用の離島には行けず、石垣島・島内ドライブのみになってしまったとのこと。奥様の腰痛が一日も早く軽快されることをお祈り申し上げます。1月11日関西空港→新石垣空港→(レンタカー)→ホテルミヤヒラ(3連泊) 午後便による出発ということで、旅初日はホテルレストランで夕食時に泡盛を楽しむなど、ごゆっくりされたようで、この日の写真はありません。 なお、石垣島の日没は大阪よりも90分ほど遅いとのこと。1月12日島内右回りドライブ→バンナ公園→石垣港に巨大クルーズ船遠望→観音崎灯台→唐人墓→御神埼灯台→川平湾→底地ビーチ→富野小学校→平久保埼灯台→玉取崎展望台→ホテルミヤヒラ15時帰着(一周約120km) この日から観光開始。島内右回りでドライブ。 先ずは、世界三大花木の一つ、カエンボクを見に、バンナ公園へ。(カエンボク)(カエンボクの樹) トックリキワタの花が満開になるのは11月とのことですから、これは季節外れに咲く「ときじくの」花ということになるか。(トックリキワタ) 黄色と言うべきか、オレンジ色と言うべきか、こんな色のカエンボクの花も咲いていました。(花がオレンジ色のカエンボク) 石垣港には、巨大なクルーズ船が停泊中。(石垣港遠望) 船名は、MSCベリッシマ。総トン数167,600トン、全長315m、 就航2018年6月、乗客定員5714名、乗組員数1536名、だそうです。 翌13日にこの船を間近に見てみようと港へと向かわれたようですが、この日の夜のうちに、つまり前夜に出航してしまっていたとのこと。 まさに「夜半に出航のあらぬものかは・・」であります(笑)。 石垣島最北端の平久保崎へと向かいます。(平久保崎の海・東方向)(同上・南東方向) 岬の先端にある平久保埼灯台の写真は、13日撮影のものを、13日の項に掲載しています。 そして、県道206号を南へと、とって返して玉取崎展望台へ。(玉取崎・北方向) 玉取崎展望台は金武岳東麓の高みにあり、平久保崎のある半島が東シナ海と太平洋を切り裂くように突き出している様が一望できるビューポイントになっている。 写真中央奥に見える三角形の山は、はんな岳。 左側の海が東シナ海、右側の海が太平洋。 少し東寄りにカメラの向きを変えると、こんな眺め。(同上・北東方向)1月13日島内左回りドライブ→八島人工島→平久保崎→野底海岸→吹通川マングローブ林→川平湾→ホテルミヤヒラ この日の最初の写真は、マンホール。(石垣市のマンホール) アカショウビンが羽ばたいている図柄のマンホールです。 リュウキュウアカショウビンは火の鳥とも呼ばれる赤い色が特徴の鳥。 カエンボクを先ず見に行かれた岬麻呂氏がこの図柄のマンホールに遭遇されたのも「火の色」つながりの縁ということであるか。火の色に 咲く花見むと わが来れば 火の鳥はばたく マンホールのふた (蓋家持) この鳥は、春に南から飛来し、石垣島で繁殖し、秋に南へ帰る渡り鳥。 島の大浜小学校のマスコットキャラクター「オカピー」のモチーフになっている鳥だそうです。 旅の三日目。 この日は、島内左回りのドライブであります。 巨大クルーズ船ベリッシマが前夜に出航してしまっていて、空振りとなったことは、既に述べました。(玉取崎・南方向の風景) 先ず、玉取崎展望台にて、赤いハイビスカスの花を愛で・・。 これも火の色であるか。(ハイビスカス) 黄色のハイビスカスも愛でて・・・。(同上)(同上) 最北端の平久保埼灯台に立ち寄り・・。 灯台の沖合の小さな島は、地図によると大地離島という名のようです。(平久保埼灯台) 最北端というと、宗谷岬やスコトン岬が思い浮かぶが、南の島の最北端とあっては、何やら「果て」感がイマイチであります(笑)。 野底海岸へと回ります。(野底海岸) 此処は、観光客などは余り来ない場所であるとか。 ヤカモチ的には、その方が好ましい場所でありますな。(同上) 一方、こちらは代表的な観光地である川平湾。(川平湾・展望台から)(同上・グラスボート乗り場の上から)1月14日真栄里ビーチ→白保海岸→平久保崎→石垣サンセットビーチ→米原ヤエヤマヤシ群落→底原ダム→新石垣空港→関西空港 いよいよ旅の最終日。 バウヒニアの花。 これは初めて目にする花のような気がします。勿論、名前も初耳。(バウヒニアの花) 川平湾のグラスボート乗り場を湾の対岸から眺めた写真です。(川平湾遠望) 写真奥左手に見えるのが展望台建物。 13日の「川平湾・展望台から」の写真は、この展望台から撮影されたようです。その次の「グラスボート乗り場の上から」というのは、展望台から少し右に寄った位置から撮影されたのでしょう。 全走行距離413kmの島内ドライブ旅、完結です。 島一周が120km程度ですから、4日間で島3周半に相当する距離を走行されたことになるか。 さて、余談ですが、今回の岬麻呂氏の「旅報告」は、本文記載のハガキと以下の紙焼き写真とを封筒に同封して送られて参りました。 ヤカモチに関しては、別途メールで写真が電送されて参りますので、これら紙焼き写真は不要でありますが、折角に同封されていますので、重複するものの紹介して置きます。 今後は、ヤカモチ宛てには本文ハガキだけご送付いただければ十分かと存じます。(同封写真)(同上)(同上)<参考> 過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。 フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。
2024.01.21
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本日(1月19日)午後7時過ぎ、当ブログへの累計アクセス数が450万に達したようです。(450万アクセス) このアクセス数というのは、どのようにカウントされているのだろう。 Aさんという人が、当ブログのホームページ(表題ページ)を閲覧し、次に最新記事タイトルをクリックしてその記事の個別記事ページを開き、更に記載コメントを見ようとしてコメントページを開いたとして、この場合はホームページのPV1件、個別記事ページのPV1件、コメントページのPV1件で計3件のアクセスとカウントするのか、それともこれら一連の訪問を1件のアクセスとしてカウントするのだろうか。 まあ、数え方はどうあれ、50万アクセスごとに節目の記録をすることとしているので、継続性の原則にて、今回も一応記録して置きます。<参考>総アクセス数の推移 2007年 4月29日 ブログ開設 2015年10月11日 50万 2016年11月16日 100万 2018年 2月 9日 150万 2019年 3月21日 200万 2020年 1月21日 250万 2020年11月28日 300万 2021年10月28日 350万 2022年 8月11日 400万 2024年 1月19日 450万 ところで、当ブログ内の個々の記事ページについて、閲覧数(PV)の多い記事トップ10はどうなっているかというと、次の通りであります。○個別記事別アクセス(PV数)ランキング(2024.1.19.現在) 9308 白いキノコと白い花 2011年9月8日 9142 新年向けの万葉歌 2012年12月28日 8105 微小血管狭心症 2018年3月11日 3918 ウリカワなのかオモダカなのか 2015年10月19日 3890 アメリカデイゴの実とクチナシの実 2009年9月30日 3600 花逍遥・ウツギ、シャガ、マムシグサ 2012年5月18日 2994 星の花? 2008年4月16日 2952 言葉遊び(動物篇・魚篇・虫篇・その他篇・地名篇) 2013年2月8日 2940 甲子園と葛の花 2009年9月11日 2741 ノゲシとノボロギクそしてハルジオン 2020年4月18日<参考>PV(ページビュー)とは カテゴリ「万葉」の記事が2位にあるのはよしとしても、当ブログのメイン記事であるカテゴリ「銀輪万葉」の記事が上位10に一つも入っていないというのは、少し残念な気もします(笑)。<参考>当ブログの歩み過去記事一覧はコチラ。
2024.01.19
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今日は健康診断の日。前日夜から絶食で朝9時半までに病院に来てくださいということであったが、朝8時40分頃にMTB(マウンテンバイク)で病院に向かう。 既に雨がパラつき始めていたが、濡れるほどではないので雨具は着用せず、そのまま出かける。但し、傘と雨着・帽子はザックに入れて。 9時前に病院に到着。血圧、体温測定、採血、身長・体重測定、検尿提出と進み、肺のX線撮影。大腸検診は予め採取した便を提出済みであるから、この日にすべきことはない。肺ガン検診は喀痰検査であるが、これは3日連続採痰用の喀痰容器を今日受け取ったので、後日これを提出することとなる。 以上で検査は終了。胃は、先日、胃カメラで検査して貰ったばかりなので、今回は割愛です。 最後は血液検査の結果が出てからの診察であるが、1時間ほどで結果が出るということなので、待つことにする。 診察では、血糖値が少し高めになっているが、問題視するほどの数値ではないようで、その他の点についても特段指摘することはないとのこと。 全て、終了したのが9時50分を少し過ぎた時刻。 病院の向かいにある喫茶・ペリカンの家で遅い朝食とする。(喫茶・ペリカンの家から病院を望む) 病院は、石切生喜病院でありました。 奥が外来診療棟で、手前の建物が入院病棟。 喫茶店は、入院病棟と道路を挟んでほぼ向き合う位置にある。前ページ記事に掲載の、梅一輪の写真は、この入院病棟の西側庭の梅の木のそれでありました。 今日は開花した花の数も随分と増えて、「今盛りなり」とは行かないまでも、そこそこの眺めになっているのでありました。(梅、三分咲き位でしょうか。) 喫茶・ペリカンの家のママさんは「ももの郎女」さん。 そして、今日のスタッフは「さとみの郎女」さん。 ヤカモチはもう長らく馴染みにしている喫茶店である。 店内は禁煙であるが、店の外側壁際、シマトネリコの木陰にベンチが据えられている。そこが喫煙コーナーとなっていて、灰皿が用意されている。 ヤカモチは、店に入ると、先ずそこで一服というのがお決まりとなっているのである。 そこで一服する傍ら、店の前庭に咲いていたヒヤシンスの花を撮影していたら、男性客のお一人が出て来られて、電子タバコを喫い始められました。 その方からお聞きしたことであるが、オリーブの枝先の若葉でごくごく希にハート型になるものがあるらしい。それを見つけるとその人に何か幸運が訪れるのだという。初めて耳にする話であったが、その男性もどなたかに教えてもらった話だと仰っていましたから、真偽のほどは不明である。 店の前の左側に植えられているのがシマトネリコの木で、それとは反対側の右側に植えられているのがオリーブの木であったことから、このような会話となった次第。(ペリカンの家のヒヤシンス) さて、そのヒヤシンスの写真がこれ。 三色が寄せ植えされている。 ヒヤシンスについては、ギリシャ神話がその名の起源である。 ゼフィランサスやスイセンなどギリシャ神話に因む花は結構あるようですが、ヒヤシンスに因む話は、概略、次のようなものです。ヒヤシンスの名は、ギリシャ神話の美青年ヒュアキントスに由来する。同性愛者であった彼は、愛する医学の神アポロン(彼は両性愛者であった)と一緒に円盤投げに興じていた(古代ギリシャでは同性愛は普通に行われ、むしろ美徳とされていた)。しかし、その楽しそうな様子を見ていた西風の神ゼピュロス(彼もヒュアキントスを愛していた)は、やきもちを焼いて、意地悪な風を起こした。その風によってアポロンが投げた円盤の軌道が変わり、ヒュアキントスの額を直撃してしまった。アポロンは医学の神の力をもって懸命に治療するが、その甲斐なくヒュアキントスは大量の血を流して死んでしまった。ヒヤシンスはこの時に流れた大量の血から生まれたとされる。このエピソードから、花言葉は「悲しみを超えた愛」となっている。(以上、Wikipediaより引用) 遅い朝食を済ませて、ペリカンの家を出ると、雨がそこそこ降り出していたので、上衣だけ雨着をはおり、病院の駐輪場に向かう。 MTBを取り出し走り始めたが、帽子を着用していなかったので、途中からこれを着用し、雨着のフードを被り、雨対策を強化。 それほど、強い雨にはならず、無事帰宅でありました。<参考>ペリカンの家関係記事はコチラ。
2024.01.18
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先日、胃カメラで検査して貰った結果を聞きに病院に立ち寄った際に、その庭先に白梅が一輪開花しているのに出会いました。 年末から年明けにかけて胃に痛みがあり、検査を受けたのであるが、結果は異状なしでありました。(梅一輪) 若草読書会の新年会が今月27日に予定されている。 毎年、新年会はヤカモチが万葉集に関連した話をするというのが恒例になっている。昨年の新年会ではこの恒例を変更して凡鬼さんに俳句の季語についてのお話をしていただいたのであるが、今年は恒例を復活させることとなり、山上憶良をとり上げてヤカモチが話をすることになっている。 山上憶良は、斉明天皇6年(660年)頃に生まれ、天平5年(733年)頃に没したとされる万葉歌人であるが、彼が天平2年(730年)正月13日、大宰の帥・大伴旅人邸で開催された「梅花宴」で詠んだ歌がこれ。春されば まづ咲く宿の 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ(巻5-818)<春になるとまず咲く庭の梅の花をひとり眺めて春の日を過ごすものだろうか。> 下二句は反語表現になっていて、「ひとりで見ようか、いや皆で梅の花を楽しもう。」という意味。 ところで、万葉集の梅花の宴で詠まれた梅の歌32首の冒頭の序文の一部、「初春の令月、気淑しく風和らぐ」が元号「令和」の出典であるというのは周知のことであるが、この序文の作者は、普通には大伴旅人と考えられるところ、山上憶良の作だとする説もあるとのこと。<参考>「天平二年正月十三日、帥そち老らうの宅いへに萃あつまり、宴会を申のぶ。時に初春しょしゅんの令月、気淑うるはしく風和やはらぐ、梅は鏡前の粉に披ひらき、蘭は佩後はいごの香かをりに薫かをる。加以しかのみならず、曙の嶺に雲移りて、松は蘿うすものを掛けて蓋きぬがさを傾け、夕の岫くきに霧結びて、鳥は縠こめのきぬに封とざされて林に迷ふ。庭に新蝶しんてふ舞ひ、空に故雁こがん歸る。ここに於て、天を蓋きぬがさにし、地を座しきゐにし、膝を促ちかづけ觴さかづきを飛ばす。言ことを一室の裏うちに忘れ、衿ころものくびを煙霞えんかの外ほかに開く。淡たん然ぜんとして自みづから放ほしいままにし、快然くわいぜんとして自ら足る。若し翰かん苑ゑんに非ざれば、何を以もちてか情こころを攄のべむ。詩に落梅の篇を紀しるす。古今それ何ぞ異ならむ。宜しく園梅を賦して、聊いささかに短詠を成すべし。」 梅の花は、萩の花に次いで多く詠まれている花であるが、古代中国では、梅、蘭、菊、竹を四君子として重んじたことから、万葉貴族たちもこれに倣って、梅を大陸伝来の文雅の花として重んじたのだろう。 さて、ここからは、言葉遊び。 オクラは、幕末の頃に我が国に伝来した植物であるから、万葉の頃には存在せずで、当然にその万葉歌などは存在しない。 秋の七種の花を指折り数えた憶良さんであるから、当時オクラが存在していたら、ヌルヌルねばねば七種の歌を詠んでいたかもしれない。 モロヘイヤ オクラ納豆 山芋めかぶ つくね芋 なめこ明日葉 根昆布ぬなは 七種ではなく十種になってしまいました。 最後の「ぬなは」とはジュンサイのことで、万葉の頃は「ぬなは」と呼ばれていました。 ヤカモチはイクラは駄目ですがオクラは、そう好きでもないが普通に食べることができます。そして、サクラは西行さんほどではないが、好きな花であります。しかし、憶良には桜を詠んだ歌はなさそうです。梅の花 楝の花は 詠みつれど 憶良は桜 詠まずもあるか (御蔵家持) さて、冒頭のウメの花に戻って・・。 スズメとナツメの写真でブログ未掲載のものがあるので、〇〇メつながりで、便乗掲載させていただきます。載せるならカメかサメの写真だろうという声も聞こえて来そうですが、ない袖は振れません。(花園中央公園の雀)(墓参の道の辺の棗の実) ナツメの実は季節外れでありますが・・。<参考>万葉関連の過去記事はコチラ。 梅花の歌32首の序文掲載の記事 梅花の歌32首の序文 2020.2.21. 梅花の歌32首全文掲載記事 梅の花咲き始めにけり枚岡の・・ 2013.2.21. 若草読書会関係の過去記事はコチラ。
2024.01.13
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昨日(1月10日)は、今年初めての囲碁例会の日でありました。 天気予報では、午前11時頃から午後3時頃まで弱い雨が降るということであったので、ザックに雨具を入れ、MTB(マウンテンバイク)で、会場の部屋がある梅田スカイビルまで出かけました。 コースは中央大通り(R308)を西へと走り、大阪城公園を通り抜け、天満橋を渡って国道1号から2号に移り、新出入橋東交差点から梅田ランプ西交差点経由で梅田スカイビルへという、いつものコース。(大阪城公園・ヤカモチお気に入りのビュウポイント) ご覧のような空模様にて、大阪城公園に入った頃には雨がパラつき始めていましたが、梅田スカイビル到着まで、雨具を着用する必要もない程度で推移。(セグロセキレイ) 堀端の金属パイプ製フェンスの上には、セグロセキレイがいて、ピョンピョンと器用に移動している。時々、脚を滑らせてもいるようだが、絶妙のバランス感覚であります(笑)。 残念ながら、セキレイ君にピントが合ってなくてピンボケ写真になってしまっていますが。(大阪天満宮) 大阪天満宮には、「ゑびす祭」という看板が掲示されていて、学問の神様である天神さんも、十日えびすのこの日は、商売繁盛のえべっさんに席を譲った形になっている。 拝殿中央左寄りには恵比寿様が鎮座されています。(同上) 梅田スカイビル到着は10時45分。 雨が降り出す前にと少し早めに家を出たので、いつもより1時間ほど早い到着となった。 中庭・ワンダースクエアの片隅に設けられた喫煙エリアで煙草一服。 梅田の里山をぶらり散策。(梅田の里山)(同上)(同上) 葉をすっかり落としたムラサキシキブと梅田スカイビルとのコラボ。 今年のNHK大河ドラマは紫式部が主人公ですから、コラボさせてみました。(同上)(同上) 今まで気が付かずにいましたが、1993年に11月に、この里山(当初は「花野」と呼んでいたかと思うが、今もその名が生きているのかどうかは不明)は、大阪施設緑化賞の最優秀賞を受賞しているのですな。 いつものカフェレストラン(Lago di Cielo Parco)が定休日か臨時休業かは不明だが、閉まっていたので、タワーイースト1階の喫茶店でランチとする。 ガーデンファイブ棟の5階の部屋に行くとヤカモチの一番乗り。 碁盤、碁笥の設営を済ませて待つこと20分余。村〇氏がご来場。 新年のご挨拶もそこそこに、早速のお手合わせ。 少し不利な展開かと思われたが、終盤近くで打った両覗きの連打が決定打となったようです。上辺から中央に伸びている大石と一石との両覗きで村〇氏は一石の方を繋がれました。そこで、大石の方を切断。これを攻めることとする。これを攻めつつ左辺下部にある大石を意識しながら、2弾目の両覗き。これでどちらかの大石を取り込めることができる。村〇氏は左辺下部の大石を捨てることを選択、中央の大石を下辺に繋いで生きを図られました。 最初の両覗きで一石の方を捨て、大石と上辺を繋いで置けば、数目程度の損にはなるものの、弱い石を二つ作ってしまうことはなく楽勝であったかと思うのですが・・。 ということで、ヤカモチの数目差勝ち。新年の初戦は勝利となり、幸先のよいスタートとなりました。 しかし、ここで友人のオガクニマン氏が来られ、かねて相談を受けている件でヤカモチに補足して説明したきことありという話。 そんなことで、囲碁は切り上げることとし、先ほどランチをした喫茶店に移動し、彼から説明を受ける。ついでに珈琲もご馳走になる。 そんなことで、囲碁事始めは一局を打ったのみでありましたが、1勝無敗でありますから、先ずはめでたしでありました(笑)。 そして、帰路も雨には降られず、雨具着用することもなく帰宅でありました。これも、めでたしであります。<参考>囲碁関連の過去記事は下記参照。 囲碁関係(その1) 2008年~2019年6月 囲碁関係(その2) 2019年7月~
2024.01.11
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本日(1月6日)、邂逅展に行って来ました。 今年も銀輪散歩を兼ねての邂逅展でありましたので、トレンクル持参であります。銀輪事始めということになります。 近鉄奈良線の新大宮駅で下車。トレンクルを組み立て、会場の「アートスペース上三条」へと向かう。(アートスペース上三条・邂逅展会場) 1階は喫茶店になっていて、展示会場は2階になっている。 2階に上がる。 入り口前に展示されていたのは、家近健二氏の作品「空」と小林和弘氏の作品「輝」。(家近健二氏「空」)(小林和弘氏「輝」) 受付で記帳を済ませて展示室へ。(展示風景1・家近健二氏のコーナー) 毎年、友人の家近氏からご案内を頂戴するので、見学させていただくのが、最近のヤカモチの年初お決まりの行動パターンとなっている。 何名かで共同開催されているので、他の方の作品もざっと拝見。(展示風景2)(展示風景3) 生憎と家近氏はご不在でご挨拶は叶いませんでしたが、上記の展示室には小林氏が居られたので、少し言葉を交わしました。(展示風景4)(展示風景5)(展示風景6)(展示風景7) 1階の喫茶店に入って、珈琲休憩とする。 店内では、森澤麗子氏の草木染め作品が展示されていました。 同氏も来られていましたので、昨年の邂逅展でお聞きした石のカラト古墳と万葉の小径を訪ねたことなどを彼女とお話しました。<参考>2023年邂逅展 2023.1.7. 石のカラト古墳&万葉の小径 2023.6.17.(草木染め・森澤麗子氏作品)(同上)(同上) 邂逅展の後、昨年は中学時代の恩師井〇先生のお墓参りをしたのだが、今年は、平城宮趾公園に立ち寄ったのみで、大和西大寺駅から電車で帰宅でありました。(平城宮趾・大極殿) 大極殿の北西側、道路を挟んだ位置に佐紀池というかなり大きい池があるのだが、そこに十数羽の鴨が群れていました。 その群れの中に、3羽が一列になって水面を嘴ですくうようにして移動するユーモラスな三人組、いや三羽組を見かけました。(佐紀池のカモ) ピッタリくっついて一列になって泳いでいる。(同上)<参考>ハシビロガモ・Wikipedia 他のカモたちには目もくれず、ひたすらどこまでも3羽一列で移動してゆく。他の群れにぶつかっても、隊列を崩さず突っ切ってゆく姿が愉快。(同上) メスを真ん中にオスが前後にいるから、これは繁殖行動の一種であるのかもしれない。とすれば、一列ではあるが三角関係ということになり、言わば緊張関係、厳しい戦いの場ということになる。 近鉄・枚岡駅から自宅までは再びトレンクルであります。遠回りして枚岡梅林に立ち寄って来ましたが、梅はまだ蕾が固いようでした。(枚岡梅林)<参考>家近健二展関連の過去記事はコチラ。 鳥関連の過去記事はコチラ。
2024.01.06
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謹賀新年降る雪を 腰になづみて 参り来こし 験しるしもあるか 年の初めに (大伴家持 万葉集巻19-4230)新年がみなさまに どうぞよき年でありますように(石切神社絵馬)旧年中のご厚誼感謝申し上げますとともに本年もよろしくお願い申し上げます令和6年元旦偐万葉田舎家持歌集けん家持(瓢箪山稲荷神社絵馬)偐万葉田舎家持歌集(にせまんよう いなかやかもち かしゅう)目次それぞれの項目をクリックするとその項目の記事をまとめて見ることができます。下記目次はアメブロ版偐万葉田舎家持歌集により作成しています。銀輪万葉シリーズ大阪府篇(その1)、大阪府篇(その2)奈良県篇(その1)、奈良県篇(その2)京都府・滋賀県篇(その1)、京都府・滋賀県篇(その2)兵庫県篇、和歌山県・三重県篇、北陸篇、関東篇新潟県・長野県篇、中国四国篇、九州篇、その他篇近隣散歩近隣散歩(その1)、近隣散歩(その2)智麻呂絵画展第1回展~第100回展、第101回展~第200回展、第201回展~第217回展偐万葉シリーズひろろ篇、若草篇、ビッグジョン篇、英坊篇、オガクニ篇ふぁみキャンパー篇、閑人篇、LAVIEN篇、幸達篇ひろみ篇、あすかのそら篇、もも篇、龍の森篇、MoMo太郎篇その他(どち篇&雑詠篇)松風篇、木の花桜篇、るるら篇、真澄篇、nanasugu篇カコちゃん08篇、大和はまほろば篇、童子森の母篇半兵衛篇、くまんパパ篇、カマトポチ篇、ふらの篇ビターc篇、マダムゴージャス篇、アメキヨ篇ウーテイス篇、ローリングウェスト篇和郎女作品展絵画家近健二展関連、近江鯨麻呂絵画展、その他の絵画花花(1)、花(2)、花(3)、花(4)、花(5) 万葉短歌・俳句・詩・戯れ歌言葉遊び若草読書会岬麻呂旅便り囲碁関係囲碁関係(その1)、囲碁関係(その2)マンホール友人関係5人組ウオーク関係、健人会関係中学同期関係、夕々の会関係、ナナ万葉の会関係ペリカンの家関係、木力工房関連、その他虫、鳥、犬、猫など墓参関係その他カテゴリー自転車、能・狂言、ブログの歩み、未分類 当ブログの昨年の年間アクセス件数は312762件でありました。 ご訪問下さった皆さまに心よりお礼申し上げます。 一昨年10月半ば以降アクセス数が急減し、昨年もその状況が継続しましたので、前年比ほぼ半減の数字にとどまりました。<参考>過去10年間の年間アクセス数(括弧内は年末時点のアクセス累計総数) 2014年 78308件( 318177) 2015年 250713件( 568890) 2016年 501049件(1069939) 2017年 383827件(1453766) 2018年 455523件(1909289) 2019年 553926件(2463215) 2020年 586955件(3050170) 2021年 562272件(3612442) 2022年 562320件(4174762) 2023年 312762件(4487524)<参考>カテゴリ「ブログの歩み」関連の過去記事はコチラ。
2024.01.01
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