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またまた岬麻呂旅便りです。今度は北海道です。 つい先日は宮古島でありましたが、今回は雪の北海道、富良野・美瑛。 何ともお元気と言うか、行動的と言うか、実に精力的に旅をなさって居られ、感心するのほかないのであります。 今回も富良野ご在住のわがブロ友のfurano-craftさんをお見舞い下さったようで、順調にご回復されているとの近況をお知らせいただけたのは嬉しいことでありました。ブログへのご復帰は暖かくなってからかもしれませんが、除雪作業や木工作品の作成にも取り組み始めて居られるようですから、日ごとにお元気になられているご様子で、何よりのことと喜んでいます。<参考>過去の岬麻呂旅便り関連記事はコチラ。 フォト蔵の岬麻呂写真集アルバムはコチラ。 では、例によって同氏からPCメールで送られて参りました写真をご紹介申し上げます。(美瑛岳の朝)(白髭の滝)(ブルーリバー橋) 今回の旅は1月23日~26日の3泊4日のご日程。 詳細は、下掲の「旅便り215」と「写真説明」をご参照下さい。他人様の旅について同行者でもない小生が説明するのは烏滸がましい営為。ご本人に語っていただくべきものでありますな(笑)。写真部分をクリックすると、フォト蔵の大きいサイズの写真に切り替わりますので、それでお読み戴くと読み易いかと存じます。(旅便り215と同写真説明) ということで、手抜き編集であります。 以下も、写真のみ並べて置きます。 雪、雪、雪の雪景色であります。(銀河の滝)(氷瀑祭り)(大雪山・旭岳遠景)(旭岳ロープウェイ)(麓郷の風景)(鳥沼公園) 以上です。 お寒い中お付き合い下さりありがとうございました。(笑)
2018.01.30
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今日は偐家持の誕生日。満1300歳になりました。 一昨日の読書会で、小万知さんから「お誕生日おめでとう」と頂戴したのが、下掲の花です。 また、今朝、友人のオガクニマン氏から誕生日おめでとうの電話がありました。 ご両名に、この場をお借りしてお礼申し上げます。感謝です。(小万知さんから頂戴したお花) さて、ご本家、大伴家持さんは718年生まれなので今年が生誕1300年になるのであるが、誕生日がいつであるかが不明。従って、今日現在で彼が既に満1300歳になっているのかどうかは不明である。確率的には、1月29日以前に生まれている可能性は7.9%。未だ1299歳である可能性の方が高いことになる。 昔は、数え年で年齢を数え、生まれた時を以て1歳とし、翌年1月1日に一つ歳を取るという慣わし。つまり年を越すごとに国民すべてが一斉に一つ歳を取る訳である。誕生日の到来するごとに歳を取る今のように、個々人の誕生日というものは余り意味を持たない。従って、ハッピー・バースデイなどという言葉、考え方は存在する余地は無かったことになる。 因みに、旧暦による今年の元日は2月16日だそうな。立春は2月4日。その前日が節分・年越しとなる。 四季の始まりである立春の日と一年の始まりである元日が一致するのが暦としては望ましいところ、月の公転周期が30日余、地球の公転周期が365日余ということで、どうしてもズレが生じてしまい、立春と元日が同一日となるのはむしろ珍しいことになるというのが普通。 この両日が一致すると、「朔旦立春」と呼んで、大変縁起がいいそうである。次の朔旦立春は2038年になるそうだが、20年も先のことであるから、1300歳の超高齢者である偐家持、縁起がいいとはいかなるものであるのか、これを見届けることは先ず無理というものである。 なお、万葉集掉尾を飾る歌、4516番の大伴家持の歌「新しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重け吉事」が詠われた天平宝字3年(759年)元日は、この朔旦立春であったということである。 話が横道にそれましたが、わが齢も本日をもって1300歳の大台に乗りましたので、この段ご報告申し上げ候。生き恥を千歳(ちとせ)あまりて三百歳(みももとせ) さらし今日までめでたくも生き (偐家持)よしあしは更にも問はず昨日今日 明日のこの身は神がまにまに (偐家持)
2018.01.29
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第22回和郎女作品展 本日は和郎女作品展であります。 昨日の若草読書会にお持ち下さった作品のご紹介です。 <参考>過去の和郎女作品展はコチラ。 フォト蔵アルバム「和郎女写真集」はコチラ。 最初の作品は戌年ということで、5匹ワンちゃん物語であります。これは、智麻呂邸の若草ホールに飾られているもので、和郎女さんが智麻呂邸用にお作りになり、別途お持ちになったものにて、昨日の読書会にご持参された作品群とは別のものであります。(今年は戌年だワン) 以下の作品が昨日撮影のもの、昨日の若草読書会新年会にご持参下さったものであります。 先ず、「笹と犬」5種です。犬は柴犬のようですが、此処では「笹犬」又は「竹犬」と呼ぶのが適当かも。 ご来場の皆さまにも「福」がありますようにと、招福・開運の札を掲げて居ります。(笹と犬・千両万両) 同じく、笹犬です。表情を始めそれぞれ微妙な違いがあるのも手作りなる由縁。このように並べると「間違い探しクイズ」の趣もあります。(同上・黒いマフラーと緑のマフラー) (同上・扇型の背景と川の背景) 次は梅と犬です。絵馬ならぬ絵犬であります。(梅と犬A)(梅と犬B) 松と犬もあります。(松と犬) そして竹と犬。(竹と犬) 梅と犬もあって、松竹梅という次第。(梅と犬・月と鞠)こちらは、梅と犬のペンタゴン。(梅と犬・角型) 丸い形のものもありますが、これは犬と言うよりも猫のような印象を受けます。ヒゲを付ければ完全に猫でしょうが、どのようなフォルムが猫または犬と認識する上での境界になっているのか、また、その認識境界は万人に共通なのか、各人それぞれに異なるのか、ちょっと興味があります。(梅と犬・丸型) 次は、三連式壁掛けタイプの犬三態であります。(犬三態) 次は、「手ほどきする犬」であります。 紐を束ねたものを、顔にする部分と頭から背中にする部分を接着剤で固めてしまい、その他の部分をひたすらほどいて糸に還元して行くとこのような犬になる、つまり「手編み」の反対の「手ほどき」によって作られる犬なので「手ほどきする犬」と命名してみました。(手ほどきする犬)(こちらは箱入りです。) 干支がらみの犬だけでなく、花図柄の物もありました。 そして変わり種は、カレンダーとのドッキングの「わんわんカレンダー」であります。犬だけにドッキングとは言わず、ドッギングと言うのだという説もあるそうな。(花三態とわんわんカレンダー) 次は熊型犬ではなく、熊そのものかと思います。(熊さん) 熊さんの次はウサギさんです。(人参と菟) さて、寒い日が続いていますが、春も近づいて来て居ります。(冬来たりなば春トウガラシ) そして、猫のお月見、と思いましたが、この季節に月見でもあるまい、でしょうから、これはきっと初日の出をモチーフにしているのでしょう。(猫のお月見ではありません) ならば、お日様と分かるように赤い布で仕上げるべきであったのでしょうが、あり合わせの布端切れにて作成するアート、たまたま赤っぽい布が手許に無かったというような事情があったのやも、とヤカモチの想像は膨らむのでありました。 次はひな祭りの先取りでしょうか。それとも単なる観梅の図でしょうか。背後の花は梅よりも桃の感じがするので、やはり雛祭りをイメージしているのか、和郎女さんとは個々の作品についての情報のやり取り、取材をせぬままであったので、いざ、ブログ記事にまとめる段になると、説明に曖昧さが生じてしまうことも時に生じます。(ひな祭り) 押し絵以外の作品もあります。 これは、ペットボトルのキャップを利用した匂い袋。苺の香りがします。(ペットボトルのキャップのポプリ) そして、パンツではなく巾着です。 こんな風に並べて撮影すると、何やらパンツに似ていなくもない、と思ったのでした(笑)が、勿論、サイズはそんな大きなものではないのであります。(巾着袋) そして、草履のストラップです。 百貨店などのトイレで掃除をされている方に出会った時などには、「いつも綺麗にお掃除下さってありがとうございます。」と言って、このストラップを差し上げるようにしている、とのことで、大阪のおばちゃんの飴ではないが、和郎女さんはハンドバッグなどにこのストラップをいつも何個か入れて居られるらしい。彼女の心優しい人となりがよく分かる話であります。(草履のストラップ) 以上です。本日も和郎女作品展にご来場・ご覧下さり、ありがとうございました。
2018.01.28
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24日は健人会の新年会、25日はSS会の新年会、そして今日27日は若草読書会の新年会でした。 24日の健人会新年会は、午後6時開宴で、会場は昨年と同じ淀屋橋の「こぼけ」。出席者は、木〇氏、杉〇氏、只麻呂氏、田〇氏、鯨麻呂氏、平〇氏、岡〇氏、森〇氏、草麻呂氏、今〇氏、竹〇氏、徳〇氏、正〇氏、生〇氏、木△氏と小生の16名。 翌25日のSS会の新年会は、同じく午後6時開宴で、会場は梅田の阪急グランドビル32番街31階の「くるみ」。出席者は、福麻呂氏、草麻呂氏、福〇氏、早〇氏、山〇氏、石〇氏、矢〇氏、松〇氏、川〇氏と小生の10名。(くるみ) そして、今日27日の若草読書会の新年会は、午前11時開会で、会場は若草ホール。出席者は、智麻呂・恒郎女ご夫妻、凡鬼・景郎女ご夫妻、謙麻呂氏、小万知さん、祥麻呂氏、槇麻呂氏、リチ女さん、和郎女さん、偐山頭火氏と小生の12名。 若草読書会の新年会はヤカモチが万葉関連のお話をするというのが恒例になっているので、今年は大伴家持生誕1300年の年でもあることから、家持関連の話がよかろうと思っていた処、偐山頭火氏から「大伴家持の女性関係」をという要望があり、テーマはこれに決定。彼の女性関係を万葉集に掲載の歌からこれを探ることとしました。しかし、万葉時代には週刊文春や週刊新潮もなく、証拠不十分。偐山頭火氏のご期待に添えるような話にはなかなかならないのでありました。 「大伴家持の女性関係」という範疇に入る女性は、その名の知れる女性が正妻の坂上大嬢を含め12名、妾、娘子、童女などとその名の知れない女性が複数名存在する。彼女らが大伴家持に贈った歌74首、家持が彼女らに贈った歌81首、合計155首がその手掛かりである。 限られた時間であるから、これら全てを見る訳には行かないので、後日にでもゆっくり鑑賞頂こうと、その全てを書き出し、現代語訳を付した資料を作成して皆さんの参考に供しましたが、その中から何首かを拾い読みすることとし、坂上大嬢、笠郎女、妾、紀女郎、平群女郎などを中心にその歌を取り上げることとしました。 11時半から始めて、講話終了が12時50分。 終了後、お寿司と恒郎女さんがご用意下さったお雑煮で昼食。ビールや酒を飲む人は飲み、雑談タイム。 祥麻呂氏の短歌と凡鬼さんの俳句のご披露があって、恒例の歌留多取り大会。ヤカモチが詠み手となり、男5名、女5名の二組に分かれてそれぞれで札の取り合いとなり、男組1位が凡鬼氏、女組1位が景郎女さんとなり、両者同数の取り札数であり、ご夫婦でもあるので、決戦は行わず同点優勝としました。 次に景郎女さんに絵札を任意に1枚引いていただき、その歌の文字札を取り札として持って居られた方に贈られる「家持賞」は偐山頭火氏とリチ女さんのご両名が引き当てられました。 景郎女さんからは卵・ひよこ・にわとりの軍手を利用した手品風のお遊戯の紹介があったり、小万知さん手作りの団栗トトロ(下掲)を頂戴したほか、恒例の和郎女さんの干支などの押し絵作品の分配もありで、楽しい一日を過ごさせていただきました。(団栗トトロ)
2018.01.27
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(承前) 昨日の記事の続きです。熊野三所神社で掲載し忘れた写真がありました。 1929年(昭和4年)6月の昭和天皇の当地への行幸の際に、神島などへ渡るためにご乗船された船(御座船)が境内の奉安庫建物内に保存されているのである。(御座船奉安庫)(同上・説明碑) この折に天皇へのご進講と島でのご案内を担当したのが南方熊楠であるから、南方熊楠記念館を訪ねる前にこれをご紹介して置こうという次第。建物内の船を撮影していなかったのは、ヤカモチさんの手落ちであります。(同上) 熊野三所神社を出て、浜通りを北へ少しばかり行くと御船足湯があった。御座船と関係あるのかどうかと調べてみると、この目の前の瀬戸湾は、斉明天皇行幸の折にその御座船を繋留した場所ということで、「御船の谷」と呼ばれているそうな。御座船は御座船でも昭和天皇のそれではなく、斉明天皇の御座船に関係した命名でありました。 円月島を眺めながら足湯が楽しめるというのが売り物のようです。(御船足湯) 御船足湯からは手前の突堤越しに円月島を見ることになるが、更に北へと行くと突堤に邪魔をされないで円月島を見ることができる。 この島は白浜のシンボルにもなっているのか、路上のマンホール蓋の図柄もこの島である。珈琲休憩に立ち寄った喫茶店「甲羅館」の店内の壁に、円月島の真ん中に沈もうとしている満月の写真が飾ってありましたが、この写真は店主の向井さんが撮影されたもののよう。写真の脇に紀州日報だったか地元紙の記事のスクラップが貼られていて、その記事にはこの写真と向井さんのことが紹介されていました。(円月島) 円月島の右手奥に見えるのが「番所の崎(番所鼻)」である。 岬に立っているのが番所鼻灯台。灯台の右手の丘の上に南方熊楠記念館がある。(同上) 番所山公園・南方熊楠記念館への入口に到着。記念館へはここから急な坂道をもう少し上らなくてはならない。(番所山公園・南方熊楠記念館入口)(番所山案内マップ)※写真をクリックするとフォト蔵写真の特大サイズでご覧いただけます。 更に「元画像」をクリックするともっと大きい画面に切り替わります。(南方熊楠記念館) 館内は撮影禁止ですから、パンフレットの写真を掲載して置くこととします。上のリンクで同記念館ホームページでご覧いただくとなおよく様子がお分かりいただけるかと存じます。(南方熊楠略年表) 博覧強記の「知の巨人」、南方熊楠であるが、その著作で小生が読んだものと言えば「十二支考」だけであり、断片的な知識を有するのみ。語るべきものは何とても是無く候。 天皇に献上した粘菌標本はキャラメル箱に入れられていたという話は、いかにも熊楠の人となりを表すものとして夙に有名なエピソードであるが、小生はこれまで、小さな普通サイズのキャラメル箱を想像していました。実際のそれは大箱で堅牢な厚紙で作られたもの。普通のキャラメル箱が何十個も入る巨大な箱であったということを、今回その実物展示から初めて知りました(笑)。 記念館の前庭には、その昭和天皇が南方熊楠のことを偲ばれての御製の歌の碑が建てられている。雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ(昭和天皇御製歌碑)(同上説明碑) 記念館を出た後、番所山公園を散策。(番所山公園からの眺望・第一展望広場から)(同上パノラマ撮影写真)(番所山公園第二展望広場付近) 灯台の手前の広場(第三展望広場)に展望台があり、上ってみて、パノラマ撮影したのが下の写真。(番所山公園展望台からの北・東側眺望) ※右寄りの白い建物が南方熊楠記念館。(同上南・西側眺望) ※中央の木立の先に灯台があるのだが、木に遮られて灯台は見えない。 岬麻呂氏やビッグジョン氏に倣い、ヤカモチも灯台の写真を撮る。 立地がイマイチにて、このような下から見上げるアングルでしか写真は撮れないのでありました。(番所鼻灯台) 番所山公園には自生か植栽されたものか存ぜぬことであるが、あちらこちらにゲットウ(月桃)が沢山生えていて、実が弾けていました。(月桃の実)(JR白浜駅) JR白浜駅に戻り、帰阪。天王寺駅で妻・娘とは別れて、小生は地下鉄で淀屋橋へ。午後6時からの健人会の新年会に出席するためでありました。まあ、このような予定も入っていた関係で、白浜散策も慌ただしいものになってしまった感無きにしも非ずですが、ひとまずこれにて完結とします。
2018.01.26
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家内と娘と3人で23日~24日と白浜を散策して来ました。 白浜は2009年3月以来なので9年ぶりになる。 <参考>藤白坂・岩代から白浜へ 2009.3.17. 前回は銀輪散歩であったが、今回はただの散歩である。 海中展望塔の近くにあるホテルに荷物を預け、近くを散策。(千畳敷)<参考>千畳敷(和歌山県)・Wikipedia(同上)(三段壁)<参考>三段壁・Wikipedia(同上) 翌24日は、ホテルから海沿いに番所鼻灯台、南方熊楠記念館のある番所山公園へと散策。よく晴れた好天なるも、時々風花が舞う寒さに加えて海からの強風に悩まされながらの、物好きな散策であるが、その分打ち寄せる白波が美しい。シーズンオフとあって観光客の姿もまばら。閉まっている店も多い。(海中展望塔)<参考>白浜海中展望塔・Wikipedia(牟婁の湯)<参考>南紀白浜温泉・Wikipedia(湯崎七湯の碑) 牟婁の湯の前にある湯崎七湯の碑には斎藤茂吉の歌が刻まれている。ふる國の磯のいで湯にたづさはり夏の日の海に落ちゆくを見つ (茂吉) この歌は崎の湯(下掲)から夕日を眺めて詠んだものかもしれない。(崎の湯・写真はWikipediaより借用)(牟婁の湯付近から白良浜方面を望む。) 牟婁の湯から500mほど鉛山湾沿いに行くと左手に白良浜で右手に小さな緑地があって、そこに有間皇子の碑がある。牟婁の湯と言えば先ず思い起こされるのが有間皇子の悲劇である。前回の白浜への銀輪旅の記事にその概略を紹介しているので、此処では記載を省略します。同記事(下掲)をご参照下さい。<参考>藤白坂・岩代から白浜へ 2009.3.16.(有間皇子之碑) 裏面には有間皇子の事件のことが説明されている。また、側面には皇子の歌2首が刻されている。(同上裏面)(同上側面)磐白の濱松が枝を引き結びまさきくあらばまたかへり見む (万葉集巻2-141)家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る (万葉集巻2-142) 白良浜を通って熊野三所神社へと向かう。(白良浜) 写真右手奥の森が熊野三所神社の杜。(同上) 町営露天風呂の「しらすな」の脇に白良浜の甲羅法師の碑がありました。(同上・白良浜の甲羅法師の碑) 更に行くと白良湯の裏辺りの場所に西行歌碑がありました。山家集にある歌である。(同上・西行歌碑)波寄する白良の浜の烏貝拾ひやすくも思ほゆるかな (山家集下1196) 上の伝説の通り、河童がどんなにしても黒くすることのできなかった白良浜の白砂であるから、黒い烏貝が打ち上げられていたら目立ってすぐに見つけられるというものではあるが、まあ、それだけの歌ですな(笑)。(同上・西行歌碑裏面) それにしても風が強い。風に飛ばされた砂が時に顔を打つ。 砂の飛散を防止するネットが浜に張りめぐらされているが、それでも時々砂が飛ばされて来て顔にプチプチと当たる。少し痛い。風つよみ浜の白砂いたづらにわれに吹き来て行きがてにする (偐家持)(本歌)風なしの浜の白波いたづらにここに寄り来る見る人無しに(長意吉麻呂 万葉集巻9-1673)(白良浜)(同上) パノラマ撮影だとこんな感じになります。(同上)(熊野三所神社) 白良浜の方から入るこちらの参道は言わば裏口。正面は浜通りから入るもののようですが、ここでもヤカモチ流の裏口からの参内と相成りました。 境内に入ると木々が防風林の役目を果たしていて、あれほどの強風も嘘のようにピタリと止んで無風。静かである。(同上・拝殿と本殿) 本殿脇の杉木立の間には斉明天皇行幸之史蹟の碑がありました。 有間皇子の悲劇は女帝・斉明天皇がこの地に来ている時に起こっている。 有間皇子は孝徳天皇の息子。先の天皇であった孝徳天皇は斉明天皇の弟。従って有間は斉明の甥に当たる。孝徳天皇亡き後の皇位継承については微妙な問題が絡んでいて、斉明の息子である中大兄皇子がこれを直ちに継承することが難しい状況にあったのでしょう。そこで、彼女が重祚して再度皇位につき斉明天皇となったと思われる。 中大兄皇子を天皇位につける上での最大の障害が有間皇子であったということで、有間を排除するために仕組まれたのがこの事件だとすれば、それは斉明か中大兄かのどちらかが仕組んだものであるだろう。或は、両名の意を汲んで、近頃も流行った「忖度」をして誰かが仕組んだものということになる。 白良浜を挟んで向き合うようにして斉明天皇行幸之史蹟碑と有間皇子之碑が建てられているというのも何やら面白い。(斉明天皇行幸之史蹟碑)(熊野三所神社鳥居)<参考>熊野三所神社 こちらが熊野三所神社の正面鳥居(東鳥居)。浜通り側の鳥居である。 この後、南方熊楠記念館へと向かいますが、本日の記事はここまでとし、続きは明日にします。(つづく)
2018.01.25
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友人・岬麻呂氏からの旅便り214が届きました。 前回に続いて今回も沖縄ですが、今回は宮古島です。 今回の旅は、「温泉とビール一杯の会」の例会の旅であったようで、ご友人T氏、Y氏と幹事役の岬麻呂氏の男三人による1月9日から12日にかけての3泊4日の旅であったようです。詳細は下掲の「岬巡り報告214」をご覧下さい。(なお、写真をクリックすると大きい画面表示に切り替わりますので、字が小さくて読みづらい場合は、大きい画面表示にしてご覧下さい。)(岬巡り報告214)<参考> 過去の岬麻呂旅便り記事はコチラから。 フォト蔵アルバム「岬麻呂写真集」はコチラから。 以下に掲載の写真は、岬麻呂氏からPCメールで送付されて参った写真です。(スターフルーツの木)<参考>スターフルーツ・Wikipedia(砂山ビーチ)<参考>砂山ビーチ・Wikipedia(東平安名崎)<参考>東平安名岬・Wikipedia(渡口の浜)<参考>渡口の浜・Wikipedia(池間大橋)<参考>池間大橋・宮古島ねっと「ガイドブック宮古島」
2018.01.19
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第198回智麻呂絵画展 ブログの更新をサボっているうちに6日間が経過していることに気付きました。それでと言っては智麻呂画伯に失礼になりますが、智麻呂絵画展を開催することといたします。今年最初の智麻呂絵画展であります。 今年も智麻呂絵画展ご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。<参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ フォト蔵アルバム「智麻呂絵画集」はコチラ。 花の智麻呂なるも、今回は花の絵はこの水仙の絵、1点のみとなりました。(水仙) ひろみの郎女さんが、ご自宅庭に咲いていたものをお持ち下さったのだそうです。若草の 里にさやさや 水仙の 群れ咲く花に 風わたる見む(偐家持) 次は、蜜柑二題です。 Aは槇麻呂さんからの紀州の蜜柑。Bは偐家持からの香川の蜜柑。(蜜柑A) 美味しい蜜柑の見分け方、というのを何日か前のNHKの朝のTVでやっていましたが、それによると、「(1)枝と切り離された部分・ヘタの軸が細い方が甘い。(2)同じ品種なら色が赤っぽいと言うか、色の濃い方が甘い。(3)ヘソ面(軸のある面・ヘタと反対側の面)の中心部がデコボコして菊のような模様が浮かび上がっているのが甘い。」のだそうな。 しかし、これを実際の蜜柑で見てみると、菊の模様らしきものが浮かび上がっているかどうかの判定が難しい上に、そのように見えるものであっても、そのヘタの軸が、そうでないものの軸よりも太かったりもする。つまり、どちらの要素を優先してよいのか分からぬという矛盾があったりするのである。そもそも菊の模様だの色の濃さだと言っても、現実には似たりよったりで、比較しても殆ど区別が付かないのではある。つまり、素人には余り意味のない鑑別法のような気がするのであります(個人的意見であります<笑>)。 なお、蜜柑Aと蜜柑Bを比べるとBの方が明らかに赤っぽい色をしているから、上の見分け方に従うならBの方がAよりも甘いということになるが、この色の濃さによる区分は「同品種なら」という条件が付いているから、色の異なる異品種間には当てはまらない。Bは色が赤っぽい品種の蜜柑なのである。(蜜柑B) 次は苺。 美味しい苺の見分け方は存じませんが、軸が細い、色がより赤い、などは蜜柑のそれを共通して使えそうな気もしますな。(苺) この苺は智麻呂・恒郎女ご夫妻の一番上のお嬢さん、万葉風に呼べば一嬢とか大嬢とか言うのでしょうが、その大嬢さんの手土産だそうです。 次は、偐山頭火氏の自家製の燻製です。 小生が智麻呂邸をお訪ねした日の前日(12日)に、偐山頭火氏のご訪問があったらしいですが、この燻製がその日にお持ちになったものかどうかは、定かではありません。もしそうなら、この絵がその日のうちか、翌日(13日)の小生がお訪ねした午後2時過ぎよりも前の時間に完成したものということになり、最新の作品ということになります。(燻製) 一昨年、昨年と入院続きで大変な年を過ごされた偐山頭火氏であるが、今年はどうやらお元気なスタートを切られたようで、結構なことであります。 恒郎女さんも「このように、燻製を始められたのはお元気になられた証拠で、何よりも嬉しいことです。」と仰っていましたが、小生も同感です。燻製を 持ち来たれるは 我背子が 元気のしるし 常かくしもが(若草郎女) 最後は「みたらし小餠」の箱の絵です。 和菓子舗の千鳥屋のそれです。(みたらし小餠) 今回は作品数6点と少ない出展となりました。その所為もあってか、花の絵は1点のみで、残り5点は果物など食べ物関連の絵となりました。 まあ、たまには「食べすぎ絵画展」もいいでしょう。 次回からはダイエットメニューにする所存(笑)。 以上です。 本日もご来場、ご覧下さりありがとうございました。
2018.01.16
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今日は今年最初の囲碁例会の日。天気予報では正午頃から小雨ということであったが、雨具を用意してMTBで出掛けました。自宅を出る時に、既に少し雨がパラついていましたが、そのまま出掛ける。暫く走ったところで少し雨が強くなったので、雨具を着用することとした。ところが、ザックに入っていたのは上衣だけで、ズボンは入れ忘れていたのでした。仕方ないので上衣だけ着て走ることに。幸い雨は酷くならず、パラついたり小止みになったりで、ズボンは太腿部分が少し濡れましたが、さしたることもなしでありました。 大阪城公園に入った頃には、雨も止んでいました。(大阪城公園) 大阪城の堀端にはユリカモメの列。 カメラのシャッターを切ると、一斉に飛び立ち、別の場所へ移動してしまいました。(大阪城公園のカモメ)(同上) 昼食は、れんげ亭でとることとする。 店の前の自販機の脇に停めている手前の自転車が我が愛車のMTBである。小生が店に入った時は男性一人、女性一人の先客が居られました。(れんげ亭) ブロ友のふろう閑人さんが当ブログの1月2日の記事のコメント欄に、「今日(5日)読売テレビのテンという番組だったと思いますが、見ていると、大阪によくあるノリで、『大阪で二番目に美味しい‥』と書いている店として、れんげ亭が取り上げられ、ママさんも写っていました。」というコメントを下さっていたので、そのことをお話申し上げましたが、れんげの郎女さんは、小生もその番組を見たと早合点されたようで、「ご覧いただいたのでしたか。」というお返事。「いや、残念ながら僕は見ていないのです。」と締まらないオチと相成りました(笑)。 梅田スカイビル到着は12時半頃。 本日の出席者は福〇氏、村〇氏、平〇氏と小生の4名。 今年の初対局は福〇氏と。2局続けて打ちましたが、何れも序盤でつまらぬミスと言うか、思い違いをして不利な展開となり、完敗。3局目は村〇氏と。これも大きな見落とし、勘違いがあって、中押し負け。今年は開幕3連敗という最悪のスタートとなりましたが、今日のような雑な碁を打っていてはそうなるのも当然と言うもの。反省しきりであります。 例会終了して、皆さんと別れて駐輪場へとやって来ると、初めて見る顔の青年が駐輪場の番をしていました。 我がMTBのサドルが降った雨で濡れているので、ハンカチで拭こうとしていると、「雑巾がありますのでお貸ししますよ。」とその青年。「いや、ハンカチがあるからいいよ。ありがとう。」と小生。「チタンですね。チタンの自転車が駐輪しているの初めて見ました。」と彼。小生のMTBのフレームがチタン合金製であることを知っての言であったが、聞くと彼もチタン製の自転車に乗っているのだと言う。そのことを小生に言いたかったのでもあるか。最近は、仕事の関係もあって余り走れていないと言っていたが、彼も自転車族なのでありました。(大阪天満宮) 帰途、大阪天満宮の前を通ると、「えびす祭」という表示がしてあって、境内は結構な人出。天満宮でも「十日戎」という訳であるか。(同上) 上の写真の左側のテント周りの人の群れ。何かと覗いてみると、猿回しをやっているのでした。 小生が覗いた時にはショーは終わったところであったので、退散。再び大阪城公園経由、中央大通りを東上、途中で南に進み、花園中央公園で煙草を一服しつつ友人に電話。暗くなる前に自宅に帰着。 というようなことで、本年の囲碁初めの一日が、不本意ながらもめでたく終了でありました(笑)。<参考>(追記2018.1.11.)囲碁関係記事
2018.01.10
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大伴家持は養老2年(718年)の生まれなので、今年が生誕1300年に当たる。尤も、養老元年(717年)生まれという説もあるが、当ブログは養老2年説であります。 718年の干支は戊午(つちのえうま)であるから、大伴家持さんはウマ年の生まれである。因みに、偐家持は戊子(つちのえね)の年の生まれ、つまりネズミ年の生まれである。今年は戊戌(つちのえいぬ)で、イヌ年ですから、両者共に十二支で言うところの、所謂「年男」ということにはならない。しかし、「干」の方は「戊」で今年と一致しているから、十干で言えば「年男」とも言える。特に大伴家持さんの方は、生誕1300年という節目の年であるから、こちらは「年男」と言うのが相応しいのではないか。 ということで、今年の若草読書会は「大伴家持の女性関係」というテーマで話をすることになっている。目下、その資料作りをして居りますが、下記の年表もその一つ。何かの参考になるかとブログ記事にアップして置くこととします。大伴家持関連年表718年(養老2)家持1歳 家持誕生。父・旅人54歳 藤原不比等、養老律令撰進719年(養老3)家持2歳 首皇子朝政に参画720年(養老4)家持3歳 日本書紀成る。 右大臣藤原不比等死去。724年(神亀元)家持7歳 首皇子即位(聖武天皇)726年または727年(神亀4)家持9歳または10歳 旅人、大宰府長官(大宰帥)拝命、赴任 (この時家持も同行したか。) この当時、山上憶良は筑前守であった。(筑紫歌壇)728年(神亀5)家持11歳 旅人の妻、大伴郎女死去。 夫(大伴宿奈麻呂)を亡くしていた坂上郎女は、 娘の坂上大嬢(7~9歳)を連れて大宰府に下向。729年(天平元)家持12歳 長屋王事件 10月7日旅人、藤原房前に手紙を添え、琴を贈る。 (巻5-810~2)730年(天平2)家持13歳 1月13日梅花の宴(巻5-815~846) 6月旅人重病 10月旅人、大納言に昇進、大宰帥の任を解かれ帰京。 家持も共に帰京。731年(天平3)家持14歳 7月25日旅人死去。732年(天平4)家持15歳 処女作の歌(巻8-1441)733年(天平5)家持16歳 家持、この頃から仕官したと見られる 初月の歌(巻6-994) 坂上大嬢との歌の贈答始まる。 笠女郎との恋愛 山上憶良死去。734年(天平6)家持17歳 坂上大嬢との仲は中断、その他の女性との歌の贈答始まる。737年(天平9)家持20歳 天然痘の大流行。藤原4兄弟相次ぎ死去。 橘諸兄、右大臣に就任。738年(天平10)家持21歳 内舎人任官(養老元年生誕説では737年とする。) 10月17日橘奈良麻呂の宴席で内舎人として歌を詠む(巻8-1591)。739年(天平11)家持22歳 蔭位により正六位下に初叙? 6月亡妾悲傷の歌(巻3-462、464~74) 坂上大嬢との歌の贈答再開(大伴家持と坂上大嬢の像)※この像は高岡市万葉歴史館にあるもの。 写真はブロ友のあすかのそらさんの ブログ記事に掲載の写真を転用させ ていただきました。740年(天平12)家持23歳 9月3日藤原広嗣の乱 10月23日広嗣捕縛。斬首(11月1日) 10月29日聖武天皇、東国行幸(彷徨の5年が始まる。) 家持も内舎人としてこれに従う。 11月伊勢国河口行宮(巻6-1029) 狭殘行宮(巻6-1032~3) 美濃国多藝行宮(巻6-1035) 不破行宮(巻6-1036) 12月15日恭仁京造営開始743年(天平15)家持26歳 7月26日聖武天皇紫香楽離宮に行幸。 家持は供奉せず、恭仁京にとどまっていた。 8月16日恭仁京讃歌(巻6-1037) 橘諸兄、左大臣に就任。 大仏造立の詔、墾田永代私有令発布。744年(天平16)家持27歳 1月11日家持、活道岡で市原王と宴(巻6-1043) 閏1月安積皇子急死。 家持、安積皇子の薨去を悼む歌を詠む(巻3-475~7、478~80)。 難波京が皇都と決まる。745年(天平17)家持28歳 平城京遷都。 1月7日家持、従五位下に叙される。746年(天平18)家持29歳 1月元正上皇の宴に参席、応詔歌を詠む(巻17-3926) 3月10日家持、宮内少輔に就任 6月21日家持、越中守に転任。 8月7日家持、越中での最初の宴席。(巻17-3943~55) 9月25日弟・書持死去。家持、挽歌を作る。(巻17-3957~9)747年(天平19)家持30歳 家持、病臥。(巻17-3962) 3月30日二上山之賦(巻17-3985~7) 4月24日布勢水海遊覧の賦(巻17-3991~2) 4月27日立山之賦(巻17-4000~2) 5月家持、税帳使として上京748年(天平20)家持31歳 1月29日「あゆの風」連作4首(巻17-4017~20) 2月出挙のため越中諸郡を巡行。(巻17-4021~9) 3月23日橘諸兄の使者・田辺福麻呂が来越、宴席(巻18-4032~55) 4月21日元正上皇崩御。749年(天平勝宝元)家持32歳 2月22日陸奥国より黄金貢上。 4月1日聖武天皇、東大寺に行幸、廬舎那仏に黄金出土の報告。 この折に、大伴・佐伯両氏を「内の兵」と称賛。 同族と共に家持も昇叙され、従五位上となる。 4月14日天平感宝に改元。 5月5日東大寺の占墾地使の僧・平栄らを迎えて宴席。(巻18-4085) 5月12日陸奥国出金詔書を賀く歌(巻18-4094~7) 5月15日尾張少咋を教え諭す歌(巻18-4106~9) 6月1日雨乞いの歌(巻18-4122~3) 6月4日降雨を賀く歌(巻18-4124) 7月2日安倍皇女天皇に即位(孝謙天皇)、天平勝宝に改元。 藤原仲麻呂、大納言に就任。紫微中台を創設。 家持、秋(7月)に大帳使として上京し、 初冬(10月)に坂上大嬢を伴って帰任。750年(天平勝宝2)家持33歳 1月2日ほよの歌(巻18-4136) 2月18日墾田検察の時の歌(巻18-4138) 3月1日から三日間で「越中秀吟12首」を詠む(巻19-4139~50) 3月9日憶良の歌に和する歌(巻19-4165) 3月27日大宰府の梅花宴に追和する歌(巻19-4174)751年(天平勝宝3)家持34歳 7月17日家持、少納言に任ぜらる。 8月5日京に旅立つ。旅中、諸兄を言祝ぐ歌を詠む(巻19-4256) 11月懐風藻成る。752年(天平勝宝4)家持35歳 4月9日東大寺大仏開眼会 11月8日聖武上皇、橘諸兄邸にて宴(巻9-4269~72)753年(天平勝宝5)家持36歳 2月23日・25日春愁絶唱3首(巻19-4290~2) 8月大伴池主、中臣清麻呂と高円山に遊ぶ(巻20-4297)754年(天平勝宝6)37歳 4月5日家持、兵部少輔転任。 11月1日山陰道巡察使就任。755年(天平勝宝7)家持38歳 2月家持、防人閲兵のため難波に赴く。 防人歌採集し、これに和する歌作る。 (巻20-4331~6、4360~2、4398~4401) 10~12月橘諸兄、上皇誹謗と謀反の意図ありと密告される。756年(天平勝宝8)家持39歳 2月諸兄辞職 3月家持、聖武上皇の堀江行幸に従駕。 5月2日聖武上皇崩御、遺詔により道祖王立太子。 6月大伴古慈斐出雲守解任 6月17日家持、一族を諭す歌を詠む(巻20-4465~7)757年(天平宝字元)家持40歳 1月6日橘諸兄死去。 4月大炊王立太子。 6月16日家持、兵部大輔に昇任。 6月23日家持、三形王宅での宴席で歌を詠む(巻20-4483) 7月4日橘奈良麻呂の変 12月18日家持、再び三形王宅の宴席で歌を詠む(巻20-4490)758年(天平宝字2)家持41歳 6月16日家持、因幡守に転任。 7月5日大原今城が家持のため自邸で餞の宴を開く。 家持、別れの歌を詠む(巻20-4515) 8月1日大炊王即位(淳仁天皇)759年(天平宝字3)家持42歳 1月1日家持、因幡国庁での新年の歌(巻20-4516)762年(天平宝字6)家持45歳 1月9日家持、信部(中務)大輔に転任。間もなく帰京。763年(天平宝字7)家持46歳 3月または4月藤原良継の乱。家持、乱に連座、現職解任。 京外追放となるが、 良継が自分一人でやったと言い張ったので、 間もなく放免となる。764年(天平宝字8)家持47歳 1月21日家持、薩摩守転任(左遷)。 9月11日藤原仲麻呂の乱 10月9日淳仁廃帝、称徳天皇重祚。道鏡を重用。765年(天平神護元)家持48歳 2月5日家持、薩摩守解任?その後2年間の消息不明。767年(神護景雲元)家持50歳 8月29日家持、大宰少弐就任。770年(宝亀元)家持53歳 6月16日家持、民部少輔転任。 8月4日称徳天皇崩御、道鏡失脚。 9月16日家持、左中辨兼中務大輔転任。 10月1日白壁王即位(光仁天皇) 家持、正五位下に叙位、749年以来21年振りの昇叙。771年(宝亀2)家持54歳 11月25日家持従四位下に叙位。二階級特進。772年(宝亀3)家持55歳 2月16日家持、左中辨兼式部員外大輔に転任。774年(宝亀5)家持57歳 3月5日家持、相模守に転任。 9月4日家持、左京大夫兼上総守に転任。775年(宝亀6)家持58歳 11月27日家持、衛門督(宮廷守護の要職)に転任。776年(宝亀7)家持59歳 3月6日家持、伊勢守に転任。777年(宝亀8)家持60歳 1月7日家持、従四位上に叙位。778年(宝亀9)家持61歳 1月16日家持、正四位下に叙位。780年(宝亀11)家持63歳 2月1日家持、参議昇任、議政官の一員となる。 2月9日家持、右大辨兼任781年(天応元)家持64歳 4月3日山部王即位(桓武天皇) 4月4日早良親王立太子。 4月14日家持、右京大夫兼春宮大夫に転任。 4月15日家持、正四位上に叙位。 5月7日家持、左大辨に転任(春宮大夫兼務のまま)。 8月8日家持、母の喪により解任されていた職に復任。 11月15日家持、従三位に叙位 12月23日光仁上皇崩御。 家持、山作司(山陵を造る官司)に任命さる。782年(延暦元)家持65歳 閏1月19日家持、氷上川継の謀反に連座して解任、京外追放。 5月17日家持、参議従三位兼春宮大夫に復任。 6月17日家持、春宮大夫兼陸奥按察使鎮守将軍に転任、 ほどなく多賀城に向かう。783年(延暦2)家持66歳 7月19日家持、陸奥駐在のまま中納言就任(春宮大夫兼任)。784年(延暦3)家持67歳 1月17日家持、持節征東将軍兼任 11月11日長岡京遷都785年(延暦4)家持68歳 8月28日家持、死去(785年10月5日)。 9月23日藤原種継暗殺される。 9月24日種継暗殺事件の首謀者として、家持の生前の官位剥奪。 9月28日早良皇太子、廃太子となり、淡路へと流される途中で死去。794年(延暦13) 10月22日平安京遷都800年(延暦19) 7月19日早良親王に崇道天皇号を追贈し、 井上内親王を皇后位に復位、 その墓を山稜とする。806年(延暦25) 3月17日桓武天皇崩御、 病床にて、 天皇が種継暗殺事件関係者を本位に復する詔を発し、 家持も従三位に復する。 以上の年表は、2009年に「大伴家持の生涯」というテーマでお話をした時に作成したものがPCのマイドキュメントに残されていたので、これを再編集すればよく、比較的簡単に行きました。 今回は、大伴家持さんの女性関係がテーマであるから、彼と歌をやり取りした女性をとり上げなくてはならない。万葉集から知ることのできるそれらの女性は、名前が判明する女性が10名(追記注参照)、妾とのみ記されている女性1名、その他「娘子(をとめ)」とか「童女(をとめ)」と記されている女性が数名あり、家持が彼女らに贈った歌や彼女らが家持に贈った歌を全て書き出すとなると結構面倒な作業である。(追記注:2018.1.11.)10名というのは間違いで、数えてみると、正妻の坂上大嬢を含めて12名でした。坂上大嬢、笠女郎、巫部麻蘇娘子、日置長枝娘子、山口女王、大神女郎、中臣女郎、河内百枝娘子、粟田女娘子、紀女郎、安倍女郎、平群女郎。 目下、その作業中であるが、気が向いた都度の作業にて、なかなかはかどらない。いつ完成するのやら(笑)。まあ、今月27日が読書会の日であるから、まだ十分な日数はある。
2018.01.06
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本日は恒例の三社巡り。最近は2日に地元の神社3箇所を巡るのが恒例になっている。枚岡梅林と言っても今は梅の木が全て伐採されて「梅林」ではないのであるが、その枚岡梅林から枚岡神社へ。<参考>墓参・花散歩・枚岡梅林 2016.3.5.(枚岡梅林)<参考>枚岡公園の梅林 枚岡梅林には桜の木は残されているが、梅の木は1本もない。その理由は上の参考記事をご覧いただくこととし、ここでは触れません。梅の木を伐採した跡には何やら花の種がまかれたようですから、春にはお花畑になるのでしょう。以前からある水仙は既に咲き始めていました。(同上、梅の木はなく水仙が咲いているだけ) 枚岡梅林から枚岡神社に入ると、裏口から境内に入る感じになるのだが、近道なので、まあよかろう。(枚岡神社)<参考>枚岡神社・Wikipedia 枚岡神社の境内を横切り、姥ヶ池、椋ヶ根橋を経て枚岡公園へ。 枚岡公園から重源寺経由、ホテル石切セイリュウの前を通り、石切神社参道の坂道を下る。(石切神社)<参考>石切劔箭神社・Wikipedia 石切神社は参拝の人の群れでいっぱい。境内を横切り北側の裏道から東高野街道に出て、これを南へ。 瓢箪山稲荷神社に着いた頃にはすっかり日も暮れて・・。(瓢箪山稲荷神社)<参考>瓢箪山稲荷神社・Wikipedia(同上、拝殿) 瓢箪山稲荷神社の参拝を済ませたところで、買い物をしてから帰るという妻と娘と別れて、小生のみひと足先の帰宅。昨年同様の三社巡りでありました。
2018.01.02
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謹賀新年山里は 霞みわたれる けしきにて 空にや春の 立を知るらん (西行 山家集上春7)新年がみなさまにとって どうぞよき年でありますように(石切神社絵馬)旧年中のご厚誼有難く感謝申し上げますと共に 本年もよろしくお願い申し上げます平成30年元旦偐万葉田舎家持歌集 けん家持 (枚岡神社絵馬)^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 偐万葉田舎家持歌集 (にせまんよう いなかやかもち かしゅう)目次 それぞれの項目をクリックすると その項目の記事をまとめて見ることが出来ます。 下記目次はヤフー版の偐万葉田舎家持歌集によって作成しています。 絵画展ほか 智麻呂絵画展 和郎女作品展 近江鯨麻呂絵画展 偐万葉シリーズ 松風篇 大和はまほろば篇 ビターc篇 ひろろ篇 カコちゃん08篇 真澄篇 木の花桜篇 るるら篇 nanasugu篇 カマトポチ篇 くまんパパ篇 ビッグジョン篇 童子森の母篇 半兵衛篇 マダム・ゴージャス篇 英坊篇 アメキヨ篇 オガクニ篇 ふぁみキャンパー篇 ウーテイス篇 ふらの篇 閑人篇 LAVIEN篇 幸達篇 ひろみ篇 あすかのそら篇 ローリングウェスト篇 もも篇 若草篇 その他 銀輪万葉シリーズ 大阪府篇 奈良県篇 兵庫県篇 京都府・滋賀県篇 和歌山県・三重県篇 北陸篇 新潟県・長野県篇 関東篇 中四国篇 九州篇 その他 その他 近隣散歩 花(1)2007~2011 花(2)2012~2016 花(3)2017~2021 虫 マンホール 若草読書会 囲碁関係 岬麻呂旅便り 万葉 ナナ万葉の会関係 短歌・俳句・詩・戯れ歌 言葉遊び・駄洒落集 その他のカテゴリー 自転車 絵画 能・狂言 友人ほか ブログの歩み カテゴリー未分類(瓢箪山稲荷神社絵馬)^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 当ブログの昨年1年間のアクセス件数は383827件でした。 一昨年の501049件には及びませんでしたが、多数のアクセス、 まことに有難く、心よりお礼申し上げます。 今年も引き続きご愛読賜りますれば幸甚に存じます。 <参考>過去の年間アクセス数<括弧内は年末時点のアクセス総数> 2011年 53664件( 151563) 2012年 48490件( 200053) 2013年 39816件( 239869) 2014年 78308件( 318177) 2015年 250713件( 568890) 2016年 501049件(1069939) 2017年 383827件(1453766)
2018.01.01
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