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本日は若草読書会の新年会。 参加者は、智麻呂・恒郎女ご夫妻、凡鬼・景郎女ご夫妻、小万知さん、謙麻呂さん、和麻呂さん、槇麻呂さん、和郎女さん、千葉から参加の祥麻呂さん、東京から参加のりち女さん、それにけん家持の12名。 いつの頃よりか新年会の講話はヤカモチが担当して、万葉集に関連したお話をし、自作の歌や俳句を持ち寄るということが恒例となっている。その後は鍋を囲んで呑んだり、食ったりするというのもお決まりの形である。 今年は、凡鬼さんの要望もあって柿本人麻呂を取り上げることとし、その生涯や歌のいくつかを鑑賞するということとしました。 人麻呂は正史に登場せず、万葉集に掲載の歌やその歌に付された題詞・左注が唯一の文献資料ということで、生没年は勿論、死んだ場所・死に方なども諸説紛々でなかなかに面白い。1293歳の偐家持でさえ、その誕生の前後に亡くなっておられるので、面識は勿論なく、和歌史上燦然と輝く巨星であるにも拘わらず、実の処が判然としないのでありますな。ということで、適当にやって置きました(笑)。何しろ宴会と歌会の前座を勤める「お話」でありますので。 宴会の後は智麻呂・恒郎女ご夫妻を中心に讃美歌や懐かしいその他の歌を一緒に歌ったり、好き好きに談笑してくつろいだひと時を過ごしました。 歌会はいづれ取りまとめて河内温泉大学図書館の若草歌集に収納する予定でありますので、興味ある方は覗いて下さい(かなり先のことになるかと存じますが・・)。 また、和郎女さんが作品をお持ち下さり、参加者に配分しプレゼントして下さいましたが、それらを写真に収めましたので、いづれ本ブログでご紹介させて戴きます。智麻呂さんの新作絵画も「仕入れ」ましたので、これも近日中に公開予定です。 今回の目玉は、子供達に絵本や昔話の読み語り・読み聞かせの活動をされている景郎女さんが、その語りの一つを実演して下さったことでありました。彼女の活動のことは夙に承知して居りましたが、実際を耳にするのは初めてのことで、思わず引き込まれて聞き入ってしまいました。 彼女は野の花文庫をご自宅に開設し長年に渡って子供たちへの本の読み聞かせや人形劇を上演したりする傍ら、若いお母さん方に、子供達に本を読んであげましょう、というような指導・啓蒙活動を仲間とご一緒にされて来られたが、この程、大阪府高槻市の郷土史家の宇津木秀甫氏が収集された地元高槻の昔話や伝承をもとにして、これらの中から子供達に伝えたいお話やわらべ歌を、お仲間と一緒に、本にまとめるということをされました。語り口に工夫したり、方言を取り入れるなどして、子供達に語り聞かせるということを目的とした本である。 今日お聞かせいただいたお話もこの本の中のお話の一つなのであろう。子供達が目を輝かせて聞き入っている姿が彷彿としてくる、なかなか魅力的な語り口でありました。(おはなしぱんぽ) ご主人の凡鬼さんの俳句に「平凡を重ね非凡の文化の日」という秀句がありますが、地道に子供達に向けての活動を重ねて来られた景郎女さんにこそ相応しい句と言うべきだろう。一貫して揺るぎないその姿勢と活動には敬意のほかありませぬ。(野の花文庫35周年記念誌) 彼女は短歌もお作りになられます。NHKの短歌コンクールでも先般は優秀作か何かそのようなものに選ばれるなどされたようですが、本日は彼女の短歌をご紹介してみることといたしましょう。 野の花文庫 (「弦」2010年No13所収) 腹ばいで読む子もいたり一冊に顔つきあわせ笑い合う子ら早やチョンと子らに倣(なら)いて正座して絵本に見入る書架荒らし君は初めてのママの読み聞かせタク君は前に陣取り「しずかにしろよ!」ママの声ふるえているなタク君は身じろぎもせず母を見守るろうそくの灯(あか)りの中で素ばなしを聞く子ら翔けるかファンタジー世界"おはなし"に聴き入る子らのドキドキが伝わりてくるその肩その眸(め)十人が十のマーシャをイメージ「絵みてるみたい!」フーと呟くガッコキライ!と言う子はゴザ運び幼の世話して緑陰図書の日カゴとアミ持ちて文庫の部屋に来て飛び出してゆくバッタ残して玄関に返却本の音ドサリ!空き地へ走る閑古鳥文庫ピーピーと風に乗りくるエンドウ笛わたしも飛び出す文庫より野へ三角の紙帽子かぶり『もりのなか』大人に見えぬ隠し道あり『またもりへ』行きし子迎えて肩車 「とうさんもおまえみたいに笑ってみたい」『三びきのがらがらどん』は一人かも幼児・少年・孰年期の人生頭のしんの重さとれぬ憂いの日『ぼちぼちいこか』と蝸牛に囁く咳・くしゃみ憚ることなく連発す『屁っぴり嫁さ』の「ヘヤ」に臥せいてどうぞどうぞお入りなさい詰め合えばなんとかなるよ『てぶくろ』のいえ出入り自由、小さなちいさな本のへや 「野の花文庫」は『てぶくろ』みたいゆっくりと野の花文庫の窓全開 たんぽぽ綿毛は何処へ飛び立つ変移(かわ)るもの変わらぬものありひなげしの丘に還(かえ)りし『ちいさいおうち』
2011.01.30
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偐万葉・若草篇(その3) 本日は偐万葉・若草篇といたします。偐万葉第91弾となります。 <参考>過去の偐万葉・若草篇はコチラからどうぞ。 偐家持が小万知に贈りて詠める歌10首冬過ぎて 春盛るらし 金剛の 山の木々みな 雪の花咲く (持冬天皇) (写真は小万知さんの提供)梼原(ゆすはら)を 越えて龍馬の 桜坂 駆け抜け行きし をのこのひとり御食(みけ)つ国 志摩の海女らの 片恋の 夢の雫か 花は咲くらむゆふぐれに なくはよけれど ひぐらしの さ夜のまどべに なにやまどへる (アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク)あなをかし 風船葛 種見れば ハートは顔ぞ 猿にかも似る (中伴旅人)フウチ草(くさ) それと知るらむ 秋風は 待たれる人の 音も告げ来よ忘れじの 花にあらねば 野に合ひて 都忘れの 菊は咲くなり若草の 野にかぎろひの 立つ見えど 人こそ知らね われは智麻呂 (柿本恒郎女(かきのもとのつねのいらつめ))うさぎの目 なぜなぜ赤い 南天の 赤い実食べた 赤い実食べたヤカモチは なぜなぜ黒い 炎天下 銀輪で駆けた 銀輪で駆けた 偐家持が偐山頭火に贈りて詠める歌2首桜酒 花浮かめ呑む 山頭火 呑んでも呑んでも 底なしの酒 (酔家持)湯かぐらの 前にしあれば テント張り みなせといふも みばえのわろし 偐家持が凡鬼に贈りて詠める歌11首。 但し、赤字なるは凡鬼が作れる俳句にてあり。兄逝くや そぼ降る雨の 秋彼岸 風も泣けとか 涙の干(ひ)なく菊の香や 兄の旅路の 安らけく あれと祈りの 花ちぎり添へななととせ あまりてむとせ あにさまは いきてゆきにし やしほの秋に神の庭 なれど商(あきなひ) 小正月 理屈言ふまい 利益(りやく)が肝心 (蕪蕉鬼)淡緑(うすみどり) 色してメロン 初荷かな 播磨(はりま)河内(かはち)を つなぐ笑(ゑ)みなれ餅数多(あまた) 幸(さち)ふくらむや 胸のうち 描(か)きたるのちは たらふくに食(く)へクッキーの 甘き香(かほ)りや 寒牡丹 二人し咲かむ 人な妬(ねた)みそケーキ食(く)ふ 雑煮に厭きた 四日かな 初珈琲(はつコーヒー)の 香(か)もや添ひたり山茶花や 散るを厭はぬ 潔(いさぎよ)さ 桜ほどには なきがまたよし子ら自立 残れる二人 冬すみれ 恋の春野し 待つにあらねどデフォルメの ごとき絵画や 冬うらら むべハワイアン キルトなるらむ
2011.01.27
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第8回和郎女作品展 久し振りに和郎女作品展であります。今回は展示点数が少ないのでありますが、お正月に因んだ作品なので、1月が終わる前にはアップしないといけないかと。(紅梅と白兎) 紅梅と白兎の色紙です。 さらさらと和歌などをしたためて、年賀状にしてもよろしいかと。うすべにの 梅の花咲き 白雪の 卯の初春の めでたかりけれ (偐家持)(玉兎) 月には玉璧の兎が住むという。それで月を玉兎とも言うそうな。 万葉では月のことを月讀とか月讀壮士とか言ってますが、これは月の神、ツクヨミ(アマテラスの弟、スサノオの兄)から来ていますな。南天の ひとつこぼれぬ 雪明かり 雲間漕ぎ行く 月讀壮士(つくよみをとこ) (偐家持)(うさぎおひし・・) うさぎ追ひし~ではなくて、うさぎ負ひし~でありますが、さて何を負っていますのでしょうか? 万葉集にも兎の歌が1首あります。 等夜乃野尓 乎佐藝祢良波里 乎佐乎左毛 祢奈敝古由恵尓 波伴尓許呂波要等夜(とや)の野に 兎(をさぎ)狙はり をさをさも 寝なへ子ゆゑに 母に嘖(ころ)はえ(巻14-3529) (訳)等夜の野に ウサギを狙うのではないけれど、をさをさ(ろくに) 共寝もできないあの娘のために おっかさんにこっぴどく叱られ たよ。(羽子板) 羽子板の絵は桜の花が咲き散る、ひと足早い春爛漫でありますので、偐家持も春爛漫の歌を。桜花 咲き散るなへに 夕月の 霞みかかれり 生駒高嶺は (偐家持)<参考>過去の和郎女作品展はコチラからご覧戴けます。
2011.01.26
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21日は元の勤務先企業のグループ会社OB有志の新年会で梅田まで。出席者は福○氏、福△氏、山○氏、早○氏、松○氏、川○氏、竹○氏、石○氏、中○氏、草○氏と小生の11名。年に2回程度集まって会食していますが、今回は梅田のヨドバシカメラビル8階にあるお店で、旧交を温めました。(ヨドバシカメラ) また、元部下のH君より、メールがあり、2月に転勤が決まったとのこと。で、その返信メールに1首応援歌を添えて置きました。 つらつらに つらつら椿 咲けよかし 春野いづくも 君がまにまぞ (偐家持) まあ、「巨勢の春野」の万葉歌のパクリみたいな歌ですが、H君の新天地でのご活躍をお祈り申し上げる次第。 22日には友人の健麻呂さんからアンコールワット遺跡旅行の写真の葉書が届いた。ご夫妻で旅行されたようだ。(アンコール・ワット遺跡紀行) 23日は富山の男性が当ブログをお気に入りにご登録下さった旨の楽天からの通知メールが届いた。愛読者がまたお一人増えました。有難いことであります。 富山は本家大伴家持殿ゆかりの地。小生の好きな県の一つであるが、今冬は大雪でしょうな。大阪は雪景色は滅多に見られませんので、雪景色には理屈抜きで憧れる風がヤカモチにはある。 ということで、本日は小生の写真ストックの中から雪景色をピックアップして歌など付けてみることといたします。 このような雪野を目にすると、もう心がそれだけで踊って、いや違った、躍ってしまうのが大阪人のヤカモチなのであります。 わが背子と 二人見ませば 幾許(いくばく)か この降る雪の うれしからまし (光明皇后 巻8-1658) 光明皇后は聖武天皇と一緒に見たならどんなにか嬉しいことでしょう、と詠った雪でありますが、ヤカモチは一人でも十分に嬉しいのであります。 わがひとり 見れどうれしき 雪の原 つばらに見てや 家づとにせむ (偐雪持) 明るい日差しの中の雪は何やら人を童心にさせるもののようでもあります。 われにもや わらはのこころ のこれるや 手形ひとつが きりなくなれり (手持の無沙太) これみんなヤカモチの手形であります。犯人のものではありませぬ、捜査一課長殿。 四五本の 校舎裏の木 雪まみれ 授業さぼれる 悪ガキならむ (在りし日の家持) ああ、そのような日もありき、であります。 雪衣 纏ひそろひて 待ちかねし み神は今し 来たれるならむ (偐神待) 日の神の 笑みぞこぼれぬ 木々たちは 身の白雪を 花としなせば (雪花郎女) 雪煙 立てつつ列車 過ぎ行きて 無人の駅に 雪また降り来(く) (大雪旅人) 偐家持の雪まみれの旅は続くのでありました。 なお、この旅はフィクションであり、登場人物などは実在の人物とは一切関係ありません(笑)。
2011.01.24
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第70回智麻呂絵画展 智麻呂絵画展も回を重ね70回目となりました。皆さまのご愛顧心より感謝申し上げます。では、ごゆるりとご覧下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(メロン)メロンひとつ ありてはつ春 年の明け 人みな幸(さき)く あれといふらし (偐瓜持) このメロンはお嬢様の嫁ぎ先のご実家から届いたものとか。この絵が完成し、お礼状と共に送らなくてはならないのに、なかなかヤカモチが訪問して来ないので、恒郎女様よりヤカモチにお電話がありました。丁度その日にご訪問しようとしていたことでもあり、渡りにメロン、いや舟と、お訪ねいたしました。今年最初の撮影になる絵です。(お餅)子餅らの 寄りてぞあれば めでたかり 豆の智(とも)餅(もち) さ丹(に)の恒(つね)餅(もち) (偐家餅) この餅は偐山頭火さんが年末にお持ち(お餅の洒落ではない。)になったらしい。 眺めていると、お子さんやお孫さんに囲まれ、にこやかにされているご夫妻のお正月風景にも見えて来ましたので、上の歌となりました。(クッキー)クッキーも 菓子つ競(きほ)ひの 春なりて まず先われを 食(く)へとや告(の)らし (偐菓子麻呂) このクッキーは和郎女さんご持参のものとか。綺麗に並べられて「ワタシから食べて」とそれぞれに言っているみたいではありませんか?(フルーツ・ケーキ)五十(いそ)の神 フルーツ・ケーキ 召しませや 嵐(あらし)な吹きそ 年(とし)平(たひ)らかに (石上布留麻呂(いそのかみふるまろ)) このフルーツケーキはいつもの通り、Iさんからの贈り物。ここで気がつきましたが、ここまでずっと食べ物ですな。花の智麻呂も最近は食欲旺盛なようであります(笑)。 歌の方は、石上布留と、万葉では馴染みの言葉に掛けてみました。万葉風に言えば「五十の神」はフルーツケーキの「フル」の枕詞ということになります。ついでにこの一年の平安もお祈りして置きました(笑)。(林檎)和麻呂の どちぞ作れる 赤き実を 届けむとかや 槇麻呂来たり (林檎郎女) この林檎は若草のメンバーの和麻呂氏のご友人が作って居られるもので、それを槇麻呂氏が買い求めて、智麻呂氏にお届けになったらしいです。 まあ、林檎のお話だけに「聞き齧り」でありますので、少し内容が違っているかも知れません。しかし、絵の出来には影響しませんので、間違っていても説明は撤回しないのだ(笑)。反転攻勢とか仰ってる方に倣った訳ではありませぬ。(山茶花)山茶花の 咲きたる道の 朝寒も 妹とし行けば 寒けくもなし (山部茶花人(やまべのちゃかひと)) 冬の道は山茶花の花ですね。寒い朝の道も二人で行けば、ほの温かくあるというものです。 山部の茶花人ですが、茶化している訳ではありませぬ(笑)。(花とフォルム)なにこれと ひとはな尋(と)ひそ 織布(おりぬの)の 真中(まなか)に咲ける 花にしあれば (布哇(ハワイの)真人(まひと)) これはキルトの図柄を面白いと写されたものであります。恒郎女様は「このような何とも分らぬ絵は駄目。」と「お蔵入り」にされていましたが、ヤカモチが発見、救い出してまいりました。 ハワイアン・キルトかどうかは存じませぬが、詠み人はハワイアンにしてみました。(神田真人「カナディアン・キルトだったかなぁ?」)(パンジー)思はゆる 妹と来(こ)し道 いまさらに 恋の道とふ 花はいふらむ (恋野道麻呂) 知る人ぞ知る、「すみれ」は智麻呂ご夫妻のキューピッドみたいな花にてあれば、時にはこれを思い出さなくてはならないのであります。 食べ物ばかり描き過ぎた智麻呂氏は奥方の恒郎女様に「すみれ」を買って来るように求めましたが、店にはなくて、下の三色の花を買って来られました。しかし、やはり「すみれ」をということで、今度は店にもあって無事ゲットとなった次第。 歌の「今さらに」というのは現在は少し否定的なニュアンスで使用しますが、万葉歌では「ますます」「いよいよ」「さらにもさらにも」という感じで使用しているように思います。で、いまさら、ではありますが、この言葉を使いました(笑)。(三色の花)三(み)つの色 競(きほ)ひ咲くなれ 愛(は)しき子の 真幸(まさき)くあれや 卯なるこの年(とし) (母草郎女(ははくさのいらつめ)) 最後の歌は、お正月でもありますので、恒郎女様の母心を体して、三人のお嬢様への思いを表現してみました。 いづれの花も美しく咲いています。どうぞお幸せに。これはヤカモチのメッセージでもあります(笑)。<追記・注>写真5枚(「メロン」「フルーツ・ケーキ」「林檎」「花とフォルム」「三色の花」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月12日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.01.21
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偐万葉・松風篇(その14) 久しぶりの偐万葉。本日は第90弾、松風篇(その14)であります。 字数制限にかかり、直近の3首1句は次回に繰り延べました。 <参考>過去の偐万葉・松風篇はコチラからどうぞ。 松風さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が松風朝臣麻呂に贈りて詠める歌21首白鷺の 帰り行く空 青馬の 駆けにしあとや 蛍の舞ひぬ (鶴見松麻呂) 草刈れば 鶴見の空に 冬立ちて 風車の丘は 波の打つらし初冬(はつふゆ)の 野に槻の木の われひとり 立ちていづくへ 時の旅人 (幻家持) 九十九(つづら)折る 道に子供の 声すれば 苑生(そのう)の木間(こま)ゆ 照れる冬の日草もみぢ 燃えにし岡も 西日(いりひ)落ち 影絶えぬれば 冬ぞ待つらし あふちの木 来し方なにと 問ふまじや 冬の広野に ひとりし立てり日に燃えて 鶴見槻群(つきむら) 散りぬべし とくや見に来ね 明日には待たじ 群れおやぢ 紙の飛行機 飛ばさむと 生まれたるらし とこわらはにて (後鶴見法皇「良人飛行(りょうじんひこう)」より)地の果てを 覆へる槻も 葉の散りて 冬に向きたる 極月(ごくげつ)の朝 漆黒の 馬にしあれり 鶴見野の 朝の光の 風分け行ける (ヨハネの黙麻呂(もくまろ))さんさんと 降る日や冬の 木々はみな ちからためてぞ 春待つらむか 鶴見野の 冬至の朝は もみぢ葉の 名残りの秋を 銀輪の行く (名残家持(なごりのやかもち))クリスマス イヴにしあれば 白薔薇も 消(け)残る雪と 見よや鶴見野 (鶴見薔薇持(つるみのばらもち)) 返し馬の 背にどよめきの 声のして 有馬記念の 時は来にけり (有馬皇子(ありまのみこ))シャッターを 閉ざし売店 年の暮 カモメのほかは たれや訪(と)ふらむ (鴎百合麻呂(かもめのゆりまろ)) 師走風 どこや吹くらむ この丘は とふ人なけれ われに向くらし (独占家持(ひとりじめのやかもち))よき年の よしとよく明け よき人の よき絵よく見よ よき人よく見つ (西山天皇) 生駒嶺は 遠み青みか おだやかに 鶴見岡の辺 年は明けたりをのこらの かなはぬゆめか おともなく かみのひかうき しばしはとびぬ (紙野飛麻呂(かみののひまろ)) 風花の 少し散りきて 鶴見野の 槻の大木(おほき)の 影濃くなりぬ (槻冬麻呂(つきのふゆまろ))冬枯の 榎(え)にしぞあれば 朝鳥も 来(こ)なくに君は 継ぎて来(き)ませる (鶴見郎女(つるみのいらつめ)) (注)掲載の絵画は全て松風氏のブログからの転載です。
2011.01.17
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<承前> (その1) (その2) 前回は竹林の中の異界で終りました。異界を出て公園(高塚公園)に戻り、坂を下って眼下の集落に入って行く。やがて「和珥坂下伝承地」という文字の刻まれた標石が目に入り、その指し示す方向の坂を上って行くと、和爾坐赤坂比古神社を示す道標があった。左折すると、間もなくそれらしきものが見えて来た。(和爾坐赤坂比古( わににますあかさかひこ)神社)(拝殿) 小さな神社、境内には「和邇公民館」とある建物も建っている、いかにも村の神社である。現在の祭神は阿田賀田須命とあるが元は和邇氏の祖神を祀っていたのであろうか。 この神社、もとは現在地の東方にあった和珥池の南側の天神山にあったと伝えられているのだが、今は和珥池も天神山もその所在は不明となっている。和珥池は日本書紀仁徳13年10月の条と推古21年11月の条に「和珥池を作る」と出て来るが、これが同一の池で、この地の和珥池のことであるのかは不明のようだ。 <参考>和爾坐赤坂比古神社 神社から北へ少し行った辻の寺の前に、また、「和邇坂下伝承地」の道標。その示す西方向に坂を下って行くと、その伝承地碑なるものがあり、説明板が立っていた。(和珥坂下伝承地の碑)(和珥坂下伝承地の説明はこの案内板をご参照下さい。) 碑の前の坂道はいい雰囲気だが下って行くと工場のフェンスで行き止まり、田畑へ行くための農道のようだ(笑)。(和珥坂下伝承地碑の前の道) 後は、近鉄奈良駅目指して気儘散歩。まあ、これまでも気まま散歩ではありましたが。ひとまず国道169号を北上することとする。奈良市横井から同市古市町に入る手前あたりで右手に小さな杜が見えて来る。穴栗神社である。 万葉集巻17-3952の歌に出て来る「伊久里の杜」との説のある場所である。この神社の境内にはその歌碑がある。(高安王万葉歌碑)妹(いも)が家に 伊久里(いくり)の杜の 藤の花 今来(こ)む春も 常かくし見む (巻17-3952 高安王) (歌意)妻の家に「行く」という名の伊久里の森の藤の花よ、 また来る春にも、いつもこのように賞美し眺めよう。 穴栗神社には4社があり、そのひとつが伊栗社。春日大社の記録に、平安時代にこの地から穴栗・井栗の神が春日大社に勧請された、とあることから、「伊久里の杜」はこの地だという説です。 伊久里の杜については、新潟県三条市井栗説、富山県礪波市井栗谷説があるが、どちらにも難点があり、この奈良市説が妥当かも知れない。 <参考>高安王(穴栗神社拝殿)(穴栗神社鳥居と相棒トレンクル君) 「布留の神杉の老い楽の恋」の歌で始まった今回の銀輪万葉散歩も「伊久里の杜の藤の花の妻」の歌で終るのであるから、先ずは一件落着。納まりがいいようです(笑)。 穴栗神社の鳥居を抜けて、東側の道を北へ行くと墓地があり、そこに「北浦定政墓所」の標識板があったので覗いてみた。定政は幕末の頃の学者で平城宮跡の研究と保存に打ち込み、それが明治になって棚田嘉十郎(当ブログ2010年11月7日記事参照)らの平城宮跡保存運動に受け継がれることになるという先駆者である。彼はこの地、古市村の出身とのこと。このように通りかかったのも何かの縁、お墓参りして置きましょう。(北浦定政の墓) (北浦定政) 脇道は、どうしてもジグザグになり、また国道に戻ってしまったが、護国神社の前に通じる道を東に入り、神社境内でしばし休憩。以前(2009年5月19日)訪問した時よりも万葉歌を記載した木柱が随分増えているようだ。 護国神社前の道を北に進むと春日大社の鳥居の前に出る。左折して三条通りを下り、近鉄奈良駅前到着は午後4時過ぎ、約5時間の銀輪散歩でした。 今回も最後までお付き合い下さり、有難うございました。最後に奈良公園・荒池の岸辺で見た景色と鹿さんをご紹介して、今回の銀輪散歩完結といたします。(荒池の畔から春日山を眺める。)(鹿の親子)
2011.01.16
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<承前> (その1) さて、和邇下神社の鳥居前にやって来ました。JR桜井線の櫟本(いちのもと)駅の真東の位置にある。(和邇下神社鳥居)(和邇下神社) 和邇下神社は和邇下神社古墳の墳丘の上に建てられている。和邇下神社古墳は4世紀末から5世紀初頭の築造と推定される全長120mの前方後円墳である。和邇氏一族の誰かの墓なのであろうか。 この辺りから北が和邇氏、南が物部氏。櫟本は上つ道と都祁山の道との交差する衢であり、両氏族の勢力の境界もこの辺りにあったと見られる。 (拝殿への階段) (南側の階段)(拝殿)(本殿) 和邇(和爾、和珥)氏は、応神天皇の時代に我が国に漢字(論語と千字文)を伝えたとされる王仁(和珥吉師)の子孫とか第5代孝昭天皇の子、天足彦国押人命(この息子が和邇日子押人彦命)を祖とする別の古い氏族だとする説などもあって、よくは知らぬが、春日氏や柿本氏や小野氏や粟田氏は和邇氏の支族とされる。神社の北東に和邇集落があるが、人麻呂がこの地で生まれ育ったとしてもおかしくはないだろう。 王仁の子孫は河内に勢力を張り、船氏や津氏はその子孫とされるが、和邇氏も元は河内に居て、後にこの辺りに移って来たのかも知れない。 いづれにせよ、人麻呂については生まれた場所も死んだ場所も諸説あり、定かではない。人麻呂の ことはひとにぞ まかせなむ 我は歌追ひ 銀輪を行く (偐家持) と言っても、この付近には万葉歌は存在しませぬ。もう少し北の「伊久里の杜」までお待ち戴きましょう(笑)。 で、日本書紀の歌です。和邇下神社の石段下に歌碑がありました。日本書紀武烈即位前紀11年8月の条に出て来る歌です。(「影媛あはれ」の歌碑)石(いす)の上(かみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ 物多(ものさは)に 大宅(おほやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ 妻隠( つまごも)る 小佐保(をさほ)を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯(いひ)さへ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣き沾(そほ)ち行くも 影媛(かげひめ)あはれ 影媛は物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の女(むすめ)。皇太子(武烈)は、妻にと望んだ影媛が既に平群鮪(へぐりのしび)のものになっていたことや日頃からの平群真鳥(まとり)、鮪父子の専横に怒り、大伴金村(おおとものかなむら)に命じて平群氏を滅ぼしてしまう。影媛は夫の鮪が殺される処を目の前にし、心まどい、悲しみに暮れつつこの歌を作った、とある。 さて、再び万葉に戻って、この和邇下神社の辺りに柿本寺があったらしく、神社の西側の一角には柿本寺址の表示がある。此処は有岡某さんとか仰る方が私費を投じて整備されているようであるが、柿本寺がこの辺りの何処かにあったのでありましょう。(柿本寺址)(2006年3月の写真) 神社の西側に接して小さな公園があり、その一角にある陪塚と思しきものが人麻呂塚(歌塚)として祀られている。人麻呂像もある。歌塚は人麻呂の遺髪を埋葬したものと言われるから、大和新庄の柿本寺のそれも、こちらの歌塚も遺髪を埋葬したものということか。 人麻呂は六位以下の下級官人と見られるが、詩歌文章歌ノ神となった人麻呂大明神はここでは正一位を賜っています。(人麻呂塚・歌塚・・現碑は享保17年<1732年>の建立とのこと。) (人麻呂像) さて、和邇下神社を出て、北東の和邇集落にあるという和邇坐赤坂比古神社に向かう。初めて行く場所なので、道がよくわからない。方向だけを頼りに行く。ひとまず上つ道に出ると大きく「楢神社」と表示された看板があり、矢印の方向に杜が見えたので、道の反対側(西)になるのだが、寄り道してみる。(楢神社拝殿)(本殿) 行ってみると記憶にあるので、いつかの銀輪散歩で立ち寄ったことがあるようだ。ヤカモチの銀輪散歩は気の向くままに勝手な道に入って寄り道、道草するので、こういうことがよくある。記憶が途切れ途切れになっているので、ちょっと違う角度からになると分らないのであるが、突然記憶にある道に出たり、行ってみると記憶にある以前に来たことのある場所であったりする。 国道に引き返し、東へ伸びている道を行く。鬼子母神社という道標のある道を行く。小さな祠があった。(鬼子母神社) 鬼子母神社の前で道はカーブし坂を上って行くと広い公園になっている。坂道はかなりきつい。登って来て北を見るとどうやら向いの丘の集落が和邇町のようである。 公園の奥の行き止まりの場所の竹林の中に地蔵が無数に並んだ一角があって奇妙な雰囲気を醸している。何やら修験道に関係する場所のようである。(ここは何処の細道じゃ・・)(その3)に続く。<追記・注>写真6枚(「本殿への階段」「南側の階段」「本殿」「影媛あはれの歌碑」「人麻呂像2枚」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月12日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.01.15
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昨日(14日)は天理から奈良まで銀輪散歩して参りました。 午前11時20分。愛車トレンクルを組み立て、天理駅を出発。先ず、石上神宮に立ち寄ることとする。今回の銀輪の目的は和邇下神社と柿本寺址、歌塚・人麻呂像を訪ねることにあるが、寄り道、道草はお決まりのことゆゑ、回り道である。(天理駅前) 天理市は天理教の町、至る処に天理教関係の建物がある。独特の景観である。(このような感じの建物があちこちにある。) 上の建物の前の広い道を東に進むと、石上神宮の参道の南側に突き当る。そこを左に入ると万葉歌碑が先ず出迎えてくれるのである。(万葉歌碑)石上(いそのかみ) 布留(ふる)の神(かむ)杉(すぎ) 神(かむ)びにし 我(あれ)やさらさら 恋にあひにける (巻10-1927) (歌意)石上の布留の社の年ふりて神々しい神杉のように、年老い た私が、今更思いもかけず、恋にとりつかれてしまったよ。 本日の銀輪散歩は「いい年をした恋」の歌からの出発でありますが、人間いくつになっても恋を忘れてはいけませぬ(笑)。 もう一首似た歌がありますので、それも記して置きましょう。石上 布留の神杉 神さぶる 恋をも我は 更にするかも (巻11-2417) 歌碑から直ぐ北の処が石上神宮の参道入口である。(石上神宮参道)(石上神宮鳥居) 鳥居から先は自転車を肩に担いで行く。「自転車は押してお通り下さい。」とありましたが、トレンクルは肩に乗せた方が楽なのである。 石上神宮は、わが地元の石切神社と同じ物部系の神社。物部氏の祖ニギハヤヒを祀る。この神社にある、国宝「七枝刀」は有名。この刀のことを「布都御魂(ふつみたま)」(古事記)と呼び、石上神宮は、布都御魂神社とも呼ばれていたらしい。刀と言えば東大阪市の石切神社も同じ。石切さんは石切剣箭(つるぎや)神社というのが正式な名前である。 また、石上振(ふる)神社、石上坐布留御魂(いそのかみにいますふるみたま)神社(延喜式神名帳)とも呼ばれていたよう。布都(ふつ)は、「ぷっつり切れる」「ふっ切る」「ぶつ切り」などの言葉にあるように、物を絶ち切ることを意味する言葉であったよう。布都(ぶつ・打つ?)と布留(振る・古)が同根の言葉なのかどうか知らないが、布留は布都から転化したような気もする。 万葉では「石上振」と表記されるが、地名としての石上布留は、「石上」の地域の中の一部地区が「布留」という関係と考えられているようだ。神社の北側には布留川が流れている。(拝殿前の門)(拝殿) (境内は鶏が闊歩している。) 拝殿の奥にある本殿は写真に撮れるアングルがない。屋根が辛うじて見える程度である。まあ、神社とはそうしたものであるが。 神社を出て、北へと坂道を下って行くと布留川に出る。右手を見ると布留の山である。娘子(をとめ)らが 袖布留(ふる)山の 瑞垣(みづかき)の 久しき時ゆ 思ひき我は (巻4-501 柿本人麻呂)娘子(をとめ)らを 袖布留(ふる)山の 瑞垣(みづがき)の 久しき時ゆ 思ひけり我は (巻11-2415) 上の歌では娘子らが袖を振り、下の歌では娘子らに「我」が袖を振っている。またまた恋の歌でありますが、人麻呂の歌でもあればお許しを(笑)。この「布留山」は石上神宮を指す、神宮東方にある「布留山」を指すなどの説もあるが、特定の山を指すのではなく、布留の地の山というほどの意味というのが一般的である。(布留山。手前の木々のある処を布留川が流れている。) 布留川と来ると「布留の高橋」であるが、河原に降りることが出来ないので「高々」とはゆかない(笑)。 (布留川) (高橋のつもり)石上 布留の高橋 高々に 妹が待つらむ 夜そふけにける (巻12-2997) しかし、ヤカモチは和邇下神社へ行かねばならないので、夜が更けるまで待ってはいられないのである。布留(古)妹にパスを告げて先へと進もう(笑)。 布留大橋を渡った先で小さな神社があった。厳島神社とある。 この神社の境内に小野小町と遍昭が交わした歌の歌碑があった。(厳島神社)(小町と遍昭の歌碑)いそのかみ 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を われにかさなむ (小町)世をそむく 苔の衣は ただ一重 かさねばうとし いざふたり寝む (遍昭) ヤカモチも追和して、世をそむく 我の衣も 一重のみ こがねば寒し 冬の銀輪 (偐家持)(厳島神社拝殿の隣に建っている薬師堂) 遍昭が開いた良因寺が焼失した際、本尊が無事であったので、明治になってこの地にこれを再建したのがこの薬師堂だという。 西へと下る。国道169号(上つ道)に出る手前で道路脇の食堂に入り、昼食。昼食後は、上つ道に平行しつつ村中、畑中の脇道をジグザグに走ったりして、北へ、北へ。上つ道に出た処で、ほどなく和邇下神社の鳥居の前に出た。ここに来るのは2006年3月11日以来のことであるが、本日はこれまで。字数制限です。続きは(その2)をご覧下さい。<追記・注>写真2枚(「布留川」「高橋のつもり」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月12日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.01.15
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本日は今年2回目の囲碁の日。例の通り自宅の東大阪市枚岡から梅田スカイビルまで銀輪です。いつものコースで大阪天満宮の前を通ったら「えびす祭」の看板が門に掲げられていた。 天神さんにえべっさん?覗いてみると社殿にえびす様が鎮座ましますではありませぬか。10日戎は戎神社だけではなく、天満宮にまで戎様はご出張あそばされますか。 厳しい経済情勢と企業間競争で、企業にあってはM&Aや提携が目まぐるしいのは分るとしても、神様の世界にもこのような提携があったのでありましたか。 と、思いきや、江戸時代には天満宮の境内に戎社があって、毎年正月、5月、9月の10日に、お祭が行われていたのでした。それが2007年に復活したということであって、「新規提携」という訳ではなかったのでありました(笑)。 <参考>天神えびす祭(平成20年正月)(大阪天満宮) 社殿には「えべっさん」が上機嫌で座って居られます。ちょっと近寄ってみましょう。(天満えびす) 残り福の11日も過ぎた12日の今日でありましたが、まだお参りされる人も結構ありました。小生は自転車を肩に担いで南門から入って、「えべっさん」を横目に、境内を横断、北門から退出いたしました。 北門を出ると、落語の常設館「天満天神繁昌亭」がある。お正月の装いでありましたので1枚写真に撮って置くことに。(天満天神繁昌亭) 12時ちょっと前にいつもの昼食場所、「アポロカフェ」に到着。小生が昼食一番乗りのようで、珍しく、店には他の客の姿がありませんでした。 昼食後のコーヒーはスカイビル1階の喫茶店でとることに。ここでは、元の会社の仲間、有○君と柏○君と一緒になり、珈琲と雑談。1時に囲碁の会場となっている21階の部屋に入る。 本日の出席者は、福○氏、村○氏、青○氏、荒○氏、竹○氏と小生の6名。1局目は青○氏と、2局目は荒○氏、3局目は村○氏と打ち、3戦3勝。久し振りの連勝でした(笑)。(今年の通算成績4勝1敗)もっとも年末12月は負けが込んだので12~1月の通算では5勝5敗。やっと五分です。
2011.01.12
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<承前> (その1) 前回は高取川を渡る処で終りました。手を取る妹もなき銀輪散歩にてあれば先を急ごう。高取川は畝傍山に添うようにその西側を流れている。甘橿の丘が飛鳥川を帯にしているなら、畝傍山は高取川(檜隈川)を帯にしているのだ。川沿いに走って近鉄線を渡り、右手に見える森が第3代安寧天皇陵である。(安寧天皇陵) 人麻呂の「近江荒都歌」(巻1-29)は「玉だすき 畝火の山の 橿原の 日知りの御代ゆ 生れましし 神のことごと・・」と重厚に詠い出されるが、「橿原の日知り」とは勿論初代神武天皇のことである。 日本書紀・神武天皇即位前紀庚申年の条に「辛酉年( かのとのとりのとし)の春(はる)正月(むつき)の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたちのひ)に、天皇、橿原宮(かしはらのみや)に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。」とあるによる。 畝傍山の裾には橿原神宮と神武、綏靖、安寧、懿徳と初代から4代の天皇の陵がある。その実在性は別としてである。今回はこれを廻ってみることとします。 安寧天皇陵から南東に行くと第4代懿徳天皇陵であるが、その陵の背後の道を行くと畝傍山に登る道がある。いくつかある登り口の一つであり、先にちょっとした広場がある。そこで、おやつに買って来たパンを食べる。卯年正月ということで洒落のつもりでウサギのパンを買って来た(笑)。(懿徳天皇陵裏の畝傍山登山口)(うさぎのパン) 懿徳天皇陵正面に回り、懿徳陵にご挨拶したる後、橿原神宮の西脇入口の鳥居から神宮境内へと入る。(懿徳天皇陵)(橿原神宮西側入口) ここを入って行くと神饌田(しんせんでん)があり、その先が深田池。神宮の拝殿とは池を挟んで対岸に出る。(神饌田) 祭典に当たって神前にお供えする物を「神饌」と呼ぶが、この田の米を神饌としてお供えしているのである。(深田池) 池を廻って正面に回ると、おばあちゃんに連れられた3才位の子供が鴨にパンの欠片を投げ与えていて、鴨が沢山集って来ていた。 では、先ず橿原神宮にご挨拶してまいりましょう。<参考>橿原神宮Wikipedia 橿原神宮(「玄松子の記憶」の「神社記憶」所収)(拝殿、背後に見えるのは畝傍山)(拝殿前には巨大絵馬。)(奥の拝殿) 橿原神宮正面の鳥居を出て左(北)へ1kmほど行った処に神武天皇陵がある。(橿原神宮東入口、正面の鳥居) 神武天皇陵は道路から砂利道を踏んでかなり奥まで歩かなくてはならない。(神武天皇陵参道)(神武天皇陵)(初代と言うだけあって威風堂々、ご陵も立派である。) 神武陵から更に北へ500m行くと第2代綏靖天皇陵がある。(綏靖天皇陵) 以上で、本日の銀輪散歩は終了。橿原神宮前駅に戻ると午後3時20分。所要時間2時間余の短い散歩でした。 駅でかなり待たされて3時58分発の京都行き急行に乗車。発車を待っていると、自転車と思しき荷物を提げたカップルが乗って来られた。同好の士のようであるが、ちょっと言葉と挨拶を交わしただけ。荷物が大きいので置き場所に便利な前の車両に移動されました。小生は知らぬ間にウトウト。目が覚めたら丁度乗り換え駅の西大寺でありました。(近鉄橿原神宮前駅) 今回も最後までお付き合い下さり有難うございました。<参考>銀輪万葉・奈良県篇はコチラからどうぞ。
2011.01.11
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パソコンを立ち上げ、昨日の「大和新庄・畝傍山周辺銀輪散歩」の続編を書こうとしてブログを開くと、アクセス件数が10万の大台を超えていました。管理ページで確認すると、次のようでした。 1000012011-01-11 09:11:26***.yahoo.net 1000002011-01-11 09:09:43*.e-mobile.ne.jp 999992011-01-11 09:09:19木の花桜さん 999982011-01-11 09:08:52ビッグジョン7777さん 10万アクセスは楽天ブログの方ではありませんが、99999のぞろ目は本ブログをご愛読いただいている木の花桜さんでありました。一番違いでビッグジョンさんのお名前もありました(笑)。 皆さま有難うございます。 これからもせいぜい精進相努め、愚にもつかぬ偐万葉銀輪世界を展開してまいりますので、引き続きお引き回しのほど、おん願い申し上げたてまつります。
2011.01.11
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本日は人麻呂関連で大和新庄駅前にある柿本神社を訪ね、その足で畝傍山周辺、橿原神宮などを銀輪散歩して来ました。 朝10時半と遅くに家を出たので、橿原神宮前駅に着いた時には正午近く。駅構内の食堂で昼食を済ませ、近鉄南大阪線に乗り換え尺土まで。尺土から御所線に乗り換え、ひと駅先の新庄駅に着いたのは午後1時過ぎ。 柿本神社は駅のすぐ西側にある。(尺土駅ホームから二上山を撮る。)(近鉄御所線・大和新庄駅)(柿本神社) 柿本神社は柿本人麻呂を祀っている。社伝によると、石見国(島根県益田市)で706年頃亡くなった人麻呂の遺骸を770年(宝亀元年)この地に改葬し、社殿を建てたのがこの神社の始まりとのこと。 人麻呂の死をめぐっては色んな説がありますが、それを記述していると字数制限に直ぐに達してしまいそうなので触れないで置きます(笑)。(拝殿) 拝殿には褪色して殆ど判読できなくなっているが、36歌仙の歌を記した絵馬が掲げられている。このような額にすると36歌仙の36という数字に納得がゆく。縦軸、横軸、対角線どれをとっても6名となる。6歌仙の次は36歌仙でなくてはならないのだ。ということは、その次は36の2乗で1296歌仙となるのだが、これでは粗製乱造になり過ぎるし、巨大な絵馬になってしまうので、さすがに誰も言い出さなかったようである(笑)。(三十六歌仙の歌の絵馬)(春日造りの本殿) 本殿の左(南)側に「柿本大夫人麻呂之墓」と刻まれた墓碑がある。 これは、天和元年(1681年)に大和郡山藩主松平信之が建立したものとのこと。島根県の益田市までお墓参りに行くのは大変だから、ここに墓があるのはヤカモチとしては大いに助かります。(人麻呂の墓) 墓の隣に「歌塚」なる石碑がありましたが・・。その隣にあった万葉歌碑の方の写真がない。どうやら撮ったつもりで撮っていなかったようである。それでと言っては何ですが知人のN氏のホームページにその写真がありましたので、借用転載させて戴きます。(歌塚)(人麻呂歌碑<敷島随想・人麻呂の歌枕世界>より転載)春柳 葛城山に たつ雲の 立ちてもゐても 妹をしぞ思ふ (巻11-2453 柿本人麻呂歌集) 境内の続きに真言宗のお寺「柿本山影現寺(ようげんじ)」という寺がある。こちらの寺では、紀僧正真済が彫った木造秘仏「人摩呂像」を祀っているそうな。この像は首が嵌め込み式になっているのだが、夜になると月の出る方向に向くと言い伝えられている。万葉歌では「かへりみすれば月かたぶきぬ」で明け方に月の沈む方向を彼は見ているのだが。 もともとは神仏習合で両者は一つのものであったのでしょうな。明治の神仏分離令で神社と寺とに分れたのでしょうが、境内を共有して居り、入口こそ別にしているものの、神仏習合いまだ健在といった風情である。 人麻呂の命日とされる4月18日には神社と寺共催のチンポンカンという五穀豊穣を祈願するお祭りが行われているそうな。 人麻呂は石見国へ赴任する前、奈良ではここ新庄と櫟本(いちのもと、JR桜井線・櫟本駅がある。)にも住んでいたそうだが、確かあちらにも人麻呂神社と柿本寺址というのがあったように記憶します。近いうちに行ってみます。何年か前に行ったことがあり、携帯で撮った写真もあるのだが、正確な場所を忘れてしまっています。また、晩年に同棲していた恋人(妻)の墓が大和高田市根成柿という地の天満神社にあるらしいのだが、今回は見つかりませんでした。また、その内に、です(笑)。(影現寺) (影現寺石標)(本堂) 柿本寺を後にして東へ。畝傍山を目印に気の向くまま走る。バイパスなどは面白くないので、なるべく住宅の立ち並ぶ旧道など村中の道を行く。(葛城山を遠望する。) 村中に入る手前で振り返ると葛城山に雲が立ち渡っている。上掲の人麻呂歌碑の歌「春楊 葛城山に たつ雲の・・」を彷彿とさせる眺めである。 因みにこの歌、原文では「春楊 葛山 發雲 立坐 妹念」と10文字で、万葉集中、最も短い歌であるらしい。 最も長い歌は、巻2-199の高市皇子挽歌で人麻呂作である。最短も最長も人麻呂であるのは、さすが「歌聖」と言われるだけのことはある(笑)。(當専寺) ちょっと立ち寄った村中のお寺。いい雰囲気でありました。 畝傍山に至るまでに3本の川を渡る。葛城川、曽我川、高取川である。(葛城川)(曽我川) 曽我川を渡って少し行った処で、家並みが切れ、畑中から眺める畝傍山はなかなか美しい。 香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくなるらし いにしへも しかなれこそ うつせみも つまを 争ふらしき (巻1-13)という天智天皇の歌も思い浮かぶのである。(畝傍山)(高取川) 高取川は万葉では檜隈川で登場する。さ檜隈(ひのくま) 檜隈川(ひのくまがは)の 瀬を速み 君が手取らば 言寄せむかも (巻7-1109)佐檜乃熊 檜隈川之 瀬乎早 君之手取者 將縁言毳(歌意)檜隈川の瀬が速いので、あなたの手を取ったなら噂されるでしょうか。 では、本日はこれまで。続きは明日の(その2)をご覧くださいませ。<追記・注>写真2枚(「人麻呂の墓」「影現寺石標」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月12日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.01.10
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<承前> (その1) (その2) 人麻呂公園を出て宇太水分神社(中社)に向かうこととする。公園を出ようとしていると、先程阿紀神社の鳥居前で出会った人達が公園を素通りして行く。松山地区の古い家並みを見に行くのだろうか。その一角にある森野旧薬園は季節がよければ立ち寄ってもみたい場所であるが、今日は入口を塞ぐように前に車が停められていて門が閉ざされていました。 道の駅「宇陀路大宇陀」は南北の伊勢本街道に東西の榛原街道がぶつかる三叉路の前にある。道の駅の前から榛原街道を東へと向かう。榛原街道に入って直ぐに「酒蔵通り」という標識があり、古い家並みの旧道が南方向に延びていたので、右折してそこに入ってみた。(酒蔵通り) 杉玉がぶら下がっている久保家住宅は今も現役の酒屋さんですな。(久保家住宅) 古い家並みを眺めながら突き当りまで行くと道は伊勢本街道と合流していた。ここで、元の榛原街道まで引き返すべきであったのだが、もう少し先にも東へ入る道があるだろうと、伊勢本街道を更に南へと走る。しかし、東に入る道は細道を除き一向に現れる気配がない。(関戸バス停付近の雪野) 関戸バス停の先で遂に諦め、元へと引き返す。伊勢神宮や熊野大社に行くのではなく宇太水分神社に行くのだから(笑)。雪野見て 我にかへりぬ ヤカモチは 銀輪かへす 関戸のあたり (偐家持) 榛原街道に戻り一路東へ。4km余で宇太水分神社に着く。出発時に走った芳野川を渡ると神社は目の前である。<参考>宇太水分神社(宇太水分神社)(本殿)(同上) 本殿は右奥から第一殿、第ニ殿、第三殿。 祭神は、 第一殿 天水分神 (あめのみくまりのかみ) 第二殿 速秋津彦命 (はやあきつひこのみこと) 第三殿 国水分神 (くにのみくまりのかみ) (夫婦杉) 帰ろうと休憩所の前に停めて置いたトレンクルの前に戻ると、休憩所の戸を開けて、男性が「ちょっと休んでいかれませんか。寒いでしょうから、ストーブで温まって行って下さい。」と声を掛けて下さった。それ程寒くもなかったのであるが、ご好意の笑みをご辞退するのも失礼と、中に入れて戴く。中には地元の方、男性5~6名、女性3~4名が居られました。 大阪からみてこちら方面が今年の恵方となるらしく、今日も大阪からバス3台の団体参拝客がお見えになり、そのお接待で甘酒やジュースやお茶を振る舞うため、ボランティアで村の方達が集まったのだという。ようやくその後片づけが一段落した処とか。 「もう少し早く来られたら甘酒を差し上げることができましたのに」と仰る。「う~む、残念。酒蔵通りに入って回り道して甘酒を逃したか。」とヤカモチは思うのでありました(笑)。 隣の男性と自転車の話になり、この方も若い頃に淡路島を自転車で一周されたとか、楽しそうに話して居られました。 15分程で失礼し帰途に。帰途は芳野川に沿って下流に走ればよかろうと旧道を走る。しかし、川は蛇行し、道は川に付いたり離れたりで道の分岐ではどちらを選ぶか悩ましいこともありました。或る分岐点で川沿いを前方から自転車でやって来た高校生と思しき若者に「榛原はこの道でいいのか」と尋ねると、「そうですが、ややこしいので途中まで案内します」と今来た道を取って返そうとする。こちらは恐縮して慌ててそれを押しとどめ、「この先を行って左に行けばいいのでしょう。」と言うと、「そうです。」と彼も納得して去って行きました。 親切な若者君、ありがとう。(高山右近顕彰碑) 道の辺に石碑があったので近寄ってみると、高山右近顕彰碑とある。何でこんな場所に右近の碑があるのかと思いきや、この背後の山の上にあった沢城は右近の父、高山友照の城であったのですな。右近は少年時代ここで過ごし父が招いたイエズス会員ロレンソ了斎から13歳の時に、この城内で洗礼を受けたとのこと。洗礼名はジュスト(Justo・正義の人)だそうな。 沢城址まで2kmとあるが山道の上りとなると、往復4kmでは時間的に日が暮れてしまう危険性もあり、今回はパス。いづれ近いうちに行ってみようかと。(標識)(さて、沢城址はいづれの山に。) 右近の碑の先で芳野川を渡り、直進すると県道31号線に出て、やがて見覚えのある道に。 日も西空に低くなり、影も長くなっている。大伴影持君の登場する頃合いでありますな(笑)。(影持君参上、木綿橋バス停付近)(榛原駅背後の鳥見山方面を望む。) 榛原駅前到着午後3時41分。思ったより早く帰り着きました。 駅前に墨阪神社という石碑。これは以前からあったものなのか、目にしているのだろうが記憶が曖昧。(墨阪神社碑、近鉄榛原駅前) 墨坂神社には、疲れたのか行く気にならずパス。ミスタードーナツの店の前で自転車を折りたたんで布バッグに収納。上本町行き準急で帰途に。八木、西大寺で乗り換え、生駒でも快速急行から普通電車に乗り換え、枚岡到着の頃はもうすっかり暗くなっていました。 かぎろひ銀輪万葉、これにて完結です。今回も3回に渡ってしまいましたが、最後までお付き合い下さり、有難うございました。<追記・注>写真2枚(「影持君参上」「墨阪神社碑」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月12日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.01.09
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<承前> 道の駅のレストラン「甘羅(かむら)」で昼食とする。 日本書紀・天武天皇元年6月24日(甲申)の条に「即日に吾城に到る。<略>甘羅村を過ぎ、猟者二十余人有り。大伴朴本連大国、猟者の首たり。」と出ている「甘羅」である。壬申の乱前夜、東国に逃れた大海人皇子はこの大宇陀を通って美濃を目指したのであります。「甘羅村」はここ大宇陀の神楽岡の地と言われている。 因みに「吾城(あき)」は、ここ「安騎野、阿騎の大野」の「あき」ですな。壬申の乱は家持から見れば曾祖父大伴長徳の時代のこと。その兄弟の大伴馬来田、大伴吹負らの活躍した時代である。(道の駅「宇陀路大宇陀」) (足湯) 昼食後建物の隣に足湯のコーナーがあったので、一息ならぬひと足、いや両足を入れてみました。むさい足をお見せして申し訳ありませぬ。これはヤカモチではなく足持の足ということにして置いて下され(笑)。 さて、いよいよ、かぎろひの丘です。 今は、万葉公園になって整備されているが、小生が犬養先生の「万葉の旅(上)」という文庫本を片手に、初めて訪れた頃は畑中の丘に歌碑がポツンとあるきりで、丘への登り口も定かでないような具合であったと記憶する。(かぎろひの丘万葉歌碑)(少しカメラをひいてみると。)東(ひむかし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(かたぶ)きぬ (柿本人麻呂 巻1-48) 上の歌碑は佐々木信綱博士揮毫。下の長歌の反歌4首の内の1首。万葉集を代表する歌の一つである。題詞には「輕皇子の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」とある。 草壁皇子(日並皇子)亡き後、その遺児軽皇子<当時10歳>(後の文武天皇)が、安騎野に狩をしたのは、万葉集の歌の配列から、持統6年(692年)春以後、その年の冬と推定されている。 通常、宮廷行事としての狩は5月5日に行われるもの。真冬に10歳の少年に狩をさせるのは変だとして、目的は他にあったとする説もあるのだが、軽皇子の立太子は持統11年(697年)2月で文武即位同8月の直前であるから、少年軽皇子を皇太子にするための一種の通過儀礼であるとともに、皇太子でありながら早世し天皇位につけなかった草壁の子であることを強調し、その魂を引き継ぐための儀式であったのかも知れない。それでも立太子まで4年余を要しているから、持統天皇の目論見通りには行かぬ事情が色々とあったということであろう。(人麻呂の長歌・阿騎野遊猟歌の歌碑) 輕皇子の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌 やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子(みこ))()()()()() 神( かむ)ながら 神(かむ)さびせすと 太敷(ふとし)かす 京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 眞(ま)木(き)立つ 荒(あら)山(やま)道を 石(いは)が根(ね)の 楚樹(しもと)おしなべ 坂鳥(さかどり)の 朝越えまして 玉かきる 夕さりくれば み雪ふる 阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) しのおしなべ 草枕 旅宿(たびやど)りせす いにしへ思ひて (巻1-45) 「いにしへ思ひて」とあるように、単なる狩ではなく、父である「日の皇子」(草壁皇子)を偲ぶ狩であり、従駕する舎人達にとっては亡き皇太子草壁を偲び彼と輕皇子を重ね合わせる狩でもあった。(はだれのいまだ消え残りたる)かぎろひの 岡のすももの 散る花か はだれのいまだ 消えのこりたる (偐家持) 本家の歌の比喩を真似てみました(笑)。 かぎろひの丘を下ると直ぐに阿紀神社である。境内で写真を撮って鳥居前に引き返して来ると、停めてあった自転車の回りに人だかり。グループで歴史ウォーキングか万葉ウォーキングをされている人達のよう。神社の前の小川沿いの小道を続々と来られる。早々に自転車で退散。(阿紀神社)(阿紀神社拝殿) 阿紀神社を後にし、人麻呂公園に向かう。 中庄遺跡が人麻呂公園になっているのである。この遺跡発掘で弥生時代のそれとともに、飛鳥時代の建物遺構が発見され、話題になり、小生もはるばる現地説明会に参加したが、あれはいつの頃であったやら。今は建物が復原され人麻呂の乗馬像もある公園になっている。(人麻呂像)(復元掘立小屋<明日香時代>)(復元建物と塀) 万葉で詠われた軽皇子の狩も、野宿ではなく、このような建物で夜を明かしたのでしょうな。いつであったか、大晦日の夜に家を発ち、阿倍文殊院に初詣をして、その足で榛原まで電車で出て、かぎろひの丘で初日の出を見ようと、娘のブーイングを誤魔化しつつ、暗い道を歩いて、家族でやって来たことがあったが、日の出前の寒さは結構なものであった。この寒さでは野宿は応えるなあ、「いも寝らめやも」だなあ、と思ったりしたものだが、かかる建物なら少年軽皇子もゆっくり眠れたことでしょう(笑)。(人麻呂公園・中庄遺跡)(雪の山々、かぎろひは立たねど青みたるもまたよし。) 多分この山の向こうは明日香でしょう。人麻呂達はどのコースを通って安騎野にやって来たかについては諸説あるようだが、犬養先生の賛同される狛峠越えのルートに賛同して置きましょう。しかし、雪の山路を踏みなづみつつやって来るのは大変なこと。やはり単なる狩である筈もありませんな。<ここで、写真搭載一日当りの限度を超えました。続きは(その3)をご覧下さい。この後、菟田野古市場地区にある宇太水分神社(中社)に行きます。><追記・注>写真2枚(「足湯」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月12日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.01.08
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本日はトレンクルを持って近鉄電車で榛原まで行き、駅前でトレンクルを組み立て、大宇陀の阿騎野、かぎろひの丘を目指して銀輪散歩して参りました。次回の若草読書会で人麻呂を取り上げることになっているので、少しでも人麻呂に関連する処に出掛けるのがよかろうと、今年の銀輪万葉始めは「かぎろひの丘」にいたしました(笑)。<参考>かぎろひの丘万葉公園地図 桜井を出ると小生の乗っている近鉄電車名張行き準急はガラガラ。三輪山の雄姿が見えて来たので車窓からパチリ1枚。(三輪山)(小生の車両には、われのほか誰とても客はなかりき。) 午前10時40分榛原駅を出発。宇陀川と芳野川の合流地点付近に架かる榛原大橋を渡って、先ず宇太水分神社(下社)に向かう。300m程行くと左手に参道の坂道がある。正面の入口はもう少し先であるが、ヤカモチは横入りすることとしました。この脇参道は坂を上り切ると、いきなり拝殿前の境内に出るので少し味わいに欠けるキライがある(笑)。(宇太水分神社・脇参道) 緩やかな階段状の坂道なのと境内地になるので、自転車は降りて、肩に担いで上って行くこととする。(宇太水分神社・拝殿と愛車トレンクル) 気温は低く、風が冷たい。大阪と違ってかなり寒い。雪も消え残っている。池には氷が張っている。(本殿) 脇から入ったので正面参道から、鳥居の方へ抜けることとする。 入る時は裏からでも出る時は堂々と正面から出るというのが、ヤカモチ流(笑)?(正面の鳥居と参道)(正面入口の一の鳥居) やはり正面は堂々として風情がある。 しかし、何か変だと思ったら、鳥居の脚が生垣の内外に跨っている。足元は見なかったことにして下さい(笑)。 宇太水分神社下社の前の道を進むと宇陀川の支流、芳野川に出る。かぎろひの丘には高校時代からもう何回となく来ているが、いつも宇陀川沿いの国道370号を行っているので、今回は芳野川沿いの道(県道31号線)を行くこととする。こちらの方が車の通行量が少ないようなので。(親鸞上人生母に所縁の塚との伝承があるとか) 三十八神社遥拝所の近くで、親鸞上人の生母の「なんとやらの塚」伝承地という看板を目にしたので、その矢印に従って行ってみたが、道がよく分らない。真っ直ぐ行くと他人様の敷地内に入ってゆくようで、頻りに犬が吠えたてる。ただ畑越しに遠く、それらしき石碑のようなものが見えたので、写真に撮ってはみたが、看板の文言の内容も忘れてしまったので、要領を得ない。 県道31号線に戻り、再び芳野川沿いを行く。高塚バス停の先で芳野川を渡り、道は右岸から左岸に移る。(芳野川・高塚付近、上流を望む。) やがて、右手に石の鳥居が見えて来る。八咫烏神社である。(八咫烏神社鳥居)(八咫烏神社)(拝殿)(本殿) 「続日本紀」文武天皇慶雲2年9月の条に「丙戌(九日)、八咫烏社を大倭国宇太郡に置きて祭らしむ」とあり、これがこの神社の創祠とされる。 八咫烏はご存じ、神武天皇が熊野から大和に入る際に道案内をしたのであるが、その際に八咫烏の導きに従い、先陣を切って道を切り開き、宇陀の地を最初に踏んだのが大伴氏の祖先、日臣命であり、この功で「道臣」という名を天皇から貰っている。 まあ、そういう訳で八咫烏には偐家持も敬意を払う義理があるというものにてござる(笑)。 この神社の祭神は武角身命(建角身命・たけつのみのみこと)であり、八咫烏は武角身命の化身とされているが、これは8世紀以降、山城の加茂県主(かものあがたぬし)が有力となって、その祖先である武角身命が八咫烏となったもののよう。 八咫烏は、日本サッカー協会のシンボルマークでもお馴染の通り、三本足の烏である。シンボルマークの方は、日本サッカー生みの親とされる中村覚之助氏が那智勝浦出身ということで図案化されたのではという説もあるのだが、それはさて置き、三本足の烏は中国では陽鳥とされている。まあ、奇数が陽で偶数が陰ですから、足は3~9本のどれかでなくてはならない。翼が3枚では飛べないから足を3本にしたのですかな。 太陽には3本足の烏が住んでいると言われ、太陽のことを「金烏」とも言う。大津皇子の辞世の詩「金烏臨西舎 鼓声催短命 泉路無賓主 此夕向離家」(「懐風藻」)にも金烏として太陽が登場している。 拝殿横に八咫烏の「ヤタちゃん」が居ました。撮影の角度が悪くて三本足なのに、うまく写っていません。よく見ていただくと右足の先が中足の向こうに少しだけ写っています(笑)。(ヤタちゃん) 神社もゆるキャラの時代なのである。写真には写っていませんが、足元手前にペットボトルに入れた千羽鶴が供えてありました。どこかの中学か高校のサッカーチームが必勝祈願に来たのだろうか。拝殿前でも本殿前でもなくヤタちゃんの前なのが面白い。これも本末転倒ですかな。 加茂(鴨)も烏になったのだから、これでいいのカモ。 神社の先の交差点で右折。国道370号線(伊勢本街道)の方へ移ることにする。坂を上り、下ったら国道に突き当る。これを左に取ると大宇陀の町に入る。昔の城下町の名残の古い街並みが目を和ませてくれる。(光明寺)(本殿と石塔)(松山地区・西口関門)(城下町松山の説明碑) 橿原市今井町や富田林寺内町などには及ばないが、古い家並みが多く残っていてなかなかいい。そんな中で一軒の古民家が売物件と貼り紙されていましたが、さて価格はいかほどなんでしょう。(松山地区・山邊家住宅) 町並を見て歩いているうちに、かぎろひの丘よりも南に来てしまっていた。国道に出たら、宇陀中学校の前であった。大願寺と案内板表示があったので立ち寄って行く。(大願寺)(大願寺境内) 屋根が白いのは雪である。時計を見ると12時29分。 途端に空腹を覚えたので、先ず昼食とする。ここで、上巻は終り、続きは明日8日の(その2)をご覧下さい。なかなか、かぎろひの丘に行き着かず、引っ張るのがミソなのである(笑)。<追記・注>写真2枚(「本殿と石塔」「城下町松山の説明碑」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月12日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.01.07
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一昨日(3日)友人のN氏を送って、彼と散歩がてら自宅から近鉄東花園駅まで歩いた。途中、喫茶店でコーヒー休憩などもしたりのダラダラ散歩ではありましたが。途中、花園ラグビー場の前庭を通ったら、この日は準々決勝で、賑わっていました。その一角にゆるキャラ君が3名、通行する人に愛嬌をふりまいて居りました。 本ブログの主旨(そんなもんあったんかいな、の声もあるが)とは少し逸脱するが、お正月ということで、ご紹介します。(トライ君) 先ず地元、東大阪市のマスコットであるトライ君。ラグビーの町、東大阪市を象徴するマスコットであるが、どうみてもトライできそうな身体ではありませぬ。(いしきりん) 次は「いしきりん」。石切とキリンをくっつけた命名で、石切神社のある参道商店街の皆さんが応援しているゆるキャラです。首のないキリンはノンアルコールのキリンビールと言う勿れ。このマスコット人形、小型のものでも900円するのである(笑)。(せんとくん) 最後は、今や全国区となった、ご存じ「せんとくん」。 平城遷都1300年祭の昨年は大忙しでありましたが、年明けと共に派遣切りにあったのか、ラグビー場前でアルバイトです。と思ったら、昨日(4日)のTVニュースでは、せんとくん、奈良県の職員に採用され、観光課に配属になったそうな。そして本日(5日)は早くも出張を命ぜられ、宮崎県へ出掛けているそうな。奈良県のPRしっかり「せんと」あきまへんで。 さて、本日は、梅田スカイビルでの碁会開き。例によって自転車で出掛けました。途中、大阪天満宮の前を通るので、少しだけ新年のご挨拶を。(大阪天満宮門前)(拝殿前) いつになく多くの人出。背広にネクタイという人が多いのは昨日・今日あたりが仕事始め、ということで、お得意様など取引先への年始の挨拶回りの人達なんでしょう。まあ、皆さんしっかり頑張って日本経済を活気あるものにして下され。 昼食はスカイビル北側のいつもの喫茶店・アポロカフェで。ここで携帯電話を取り出し食後のコーヒーの合間に和歌2首作成。う・さ・ぎを折り込んだ短歌を作るのが若草読書会の新年会の宿題というか、課題となっているのであります。既に本ブログの1月3日の記事「初詣」の末尾にても1首作っているのであるが、30日の当日までに何首できますやら(笑)。 「う・さ」はいくらでも思い付くのだが、「ぎ」が難しい。「ぎ」で始まる言葉というのは和歌的な言葉にはなく、どうしても音読み漢字になってしまうので、うまく和歌にはならないのである。 さてさて、碁の方ですが、出席者は青○氏、福○氏、竹○氏と小生の4名。未だ松の内とあって、出席者は少なかった。昨年暮れからの不調、年明けで脱出することが出来るか。竹○氏と2局して1勝1敗。まあまあですかな。 ところで、碁のことを烏鷺の戦いと言います。黒いカラスと白いサギの戦いという訳ですが、これも「うろのたたかひ」ですから「う」で始まりますな。う・さ・ぎの歌に使えそう(笑)。 因みに実際の烏鷺の戦いはカラスが一方的にサギを攻め、サギはひたすら逃げるのみです。 碁を終えて、梅田スカイビルの1階まで降りて来ると外は雨。もう5時を過ぎていて暗くなっている。今日は雨具をザックに入れて来なかったが、幸いフード付きの上衣なので、それで雨をしのぎつつ、雨中の銀輪となりました。幸い、梅新交差点を過ぎた辺りから小止みとなり、自宅近くになってまた降り始めましたが、ずぶ濡れとはならず無事帰宅出来ました。暗くなり路面も濡れているとあって速度も落とし気味、自宅まで1時間50分。いつもより20~30分多くかかりました。
2011.01.05
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第69回智麻呂絵画展 皆さま、新年明けましておめでとうございます。 旧年中は智麻呂絵画展をご愛顧賜り、有難く感謝申し上げます。 新年が皆さまにとって素晴らしい年でありますことをお祈りしつつ、本日は第69回絵画展の開催であります。 今年も頑張って絵画展の開催に相努めます。相変りませずよろしくお願い申し上げます。 2011年正月4日 絵師 智麻呂 館長 偐家持(赤富士) 天地( あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺を 天(あま)の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行き はばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継(つ)ぎ 言ひ 継(つ)ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は (山部赤人 巻3-317) 年頭はやはり富士山の絵が似合う。そこで、歌も万葉集から山部赤人の長歌を掲げてみました。この長歌の反歌はかの有名な「田兒の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける」でありますが、偐万葉にてもあれば、 初夢は 富士にあるらし 智麻呂は 鷹はかかねど 茄子はかきける (偐家持) と致しましょう(笑)。(松葉蟹) これは年末のお嬢様ご夫婦とご一緒の城崎旅行での蟹づくしの蟹であります。お嬢様の旦那さんのお薦めで蟹を題材に描かれたようであります。智麻呂版「城崎にて」でありますな(笑)。 きのさきへ いくののみちは とほけれど またかにくひに まろとたびだち (小恒部内侍(こつねぶのないし))(シンビジウム) このシンビジウムは偐山頭火氏からの贈り物。年末は智麻呂氏はこの絵と格闘されて居りましたが、素晴らしい出来となりました。(下仁田葱) 下仁田葱は既に何度か登場していますが、智麻呂氏の無二の親友、K牧師が生前には群馬から年の暮には送って下さっていたもの。悲しくもお亡くなりになられましたが、先の年の暮にはK牧師の奥方様がお送り下さったとか。 智麻呂に代りて偐家持が詠める歌3首 下仁田の 葱ながむれば やあやあの 今亡き背子の 声はするらし 下仁田の 葱の甘さよ 我背子の くれし笑まひの 面影立ちぬ たふれたる われきづかひて とひ来(こ)しに などてやきみが さきにぞゆける(柿) 上の柿の絵は、けん家持の手土産の「長寿柿」という和菓子の包装紙の挿絵を写生されたもの。恒郎女様がお気に入りの絵となったようであります。(金柑) 智麻呂さんが通って居られるデイサービスの施設の送迎車の運転手さんが自宅の金柑の枝をお持ち下さったものを描かれました。第67回展掲出の柘榴の絵と同じでありますな。(蜜柑) 上の絵は、槇麻呂の「熊野の蜜柑」と偐家持の「香川の蜜柑」との共演であります。槇麻呂と偐家持は同期の蜜柑、いや同期の桜でありますので、智麻呂氏も絵の中で並べて下さったということでありますな。 家持と 槇麻呂蜜柑 同期なれば 色は違(たが)へど ともにぞありぬ (若草里麻呂(わかくさのさとまろ))<参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~<追記・注>写真4枚(「赤富士」「シンビジウム」「下仁田葱」「蜜柑」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月12日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.01.03
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昨日2日午後から初詣。と言っても昨年と同様、自宅近辺の3社(枚岡神社、石切神社、瓢箪山稲荷神社)を廻る散歩のようなものでありましたが。 <参考>2010.1.2.初詣(枚岡神社参道) 背後に見える山が神津嶽。元はこの頂上に祀られていたとのことで、今も小さな祠があり、枚岡神社創祠之地という碑が立っている。(拝殿前の階段) <参考>枚岡神社関連記事 2008.7.12. 枚岡神社 2008.10.14. 枚岡神社秋郷祭 2009.3.7. 墓参のついでに 2009.8.16. 贈呈図書(一の鳥居) 2009.10.16. 枚岡神社秋郷祭2009 2010.7.4. 銀輪散歩・JR忍ヶ丘駅の先まで 枚岡神社の裏から枚岡公園を経て暗峠・生駒山上への道がある。その道を取って枚岡公園を回って行くこととする。 公園の中の歌壇に「卯」の花文字があったので、撮影する。(枚岡公園の花文字「卯」) 公園を抜けた処に浄土宗の寺、重願寺がある。西日に照らされて境内の多宝塔が美しく輝いていました。(重願寺) <参考>重願寺関連記事2010.7.27.我が待つ秋の近づくらしも 枚岡公園の高みから重願寺前の坂道を下って行くと近鉄額田駅の前に出る。線路に沿って北に進むと石切駅である。駅の手前の坂道から石切神社の参道となる。坂道を下ること数分で石切神社に着くのだが、今日の参道は大勢の人でノロノロと歩くしかない。自然渋滞という奴ですな(笑)。(石切神社)(本殿前) <参考>石切神社関連記事2008.6.30. 石切神社 参拝者で混み合う石切神社本殿前。昨年よりも随分人出が多いように感じられる。 石切神社から東高野街道に出て、南へ。最後の1社、瓢箪山稲荷神社へ向かう。既に日は落ち西空は茜に染まっている。 瓢箪山稲荷神社に着いた頃にはもう暗くなっていました。(瓢箪山稲荷神社本殿) <参考>瓢箪山稲荷神社関連記事2010.5.4.石切・額田・瓢箪山近隣散歩(下) 本日3日は例年通り年来の友人N氏が訪ねて来るので、午後は彼としばし時を過ごす予定である。卯(う)の年は さやにぞ明けて 銀(ぎん)輪を またも駆けてな 懲りぬヤカモチ (偐家持) 卯年の幕開けということで、う・さ・ぎを第1,2,3句に詠み込んで歌にしてみました。皆さまも懲りずに今年もお付き合い下さいませ。
2011.01.03
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偐万葉・木の花桜篇(その10) 今年最初の偐万葉は木の花桜篇(その10)であります。 偐万葉シリーズ第89弾です。 <参考>過去の偐万葉・木の花桜篇はコチラからどうぞ。 木の花桜さんのブログはコチラからどうぞ。 (注)掲載の写真は全て木の花桜さんのブログからの転載です。 偐家持が木花桜姫に贈りて詠める歌19首併せ替へ歌1篇 並びに木花桜姫の返しける歌3首朝裳よし 紀道(きぢ)恋ひ来れば 加太の海 寄り添ひあれど 沖つ友が島 木花桜姫の贈り来たりける歌世の中は 逢ふも逢はぬも あればこそ こころ懐かし 逢坂の関 偐家持の追和して詠める歌シナの神 大和の神と ゆきあひし 坂はうな坂 尖閣の先 (先刻承知の筈麻呂)冬立ちぬ 日差しはなほし 秋なれば 継ぎて咲くなり とりどりの花 (桜姫の庭持) 大江山 いくのの道は 遠けれど 君としふゆの 立つをし踏まむ (偐吉備津媛)去る秋は 虫も惜しむや 咲きのこる バジルの花に 黒き象虫 (偐虫麻呂) もみつ葉の 下に咲きたる 石蕗(つはぶき)の 花は見れども 式部は見えず (ヤマサキシキブ)しめやかに ふゆぞちかづく おとのして いてふなみきに あめはふるらむ だれるかも いつまでも咲く 高砂の 百合は師走の 花ならなくに (よしなよ小百合)初冬(はつふゆ)を 知る花にせん 高砂の 百合もまだ咲く 吉備にしあれば (高砂の真備) (元歌)たれをかも 知る人にせん 高砂の 松も昔の われならなくに(藤原興風・百人一首)ヴィオラ咲き 流れ来る音 わぎモコは それが春風で あることを知る (偐武満徹) 赤人は ヴァィオラなりて ヴィオウラは モーツァルトなり モコモコの花 (菫麻呂のムジーク)諸手船(もろたぶね) 告げ来(く)を聞けど すべをなみ 釣にかありけむ 事代(ことしろ)の主(ぬし) (戎麻呂) おほなむち ゐますや美保の 山の上(へ)に 隠岐ゆ吹き来る 風はかなしも (ゲゲゲのヤカモチ) 木花桜姫の追和して作れる歌今一度 君と行き逢ふ こともがな もみぢ散りしき 秋ぞ暮れぬる (偐式部) 偐家持の返しける歌家にありて 濡れ落ち葉なるの よしとせじ けふもやかもち もみぢ踏みつつ葉の上に 五つ置きたる 柿の実の 秋は慈愛の 色にしあれり 花韮は 韮の花には あらざりき 星ぞこぼれて そこしぞ咲ける (ニラレバのヤカモチ) 木花桜姫の返しける歌すみれ咲く 野辺に星花 舞ひおりて ともに咲くらし 春の待たるる ベツレヘムに 降りける星の きよき夜は ひとみな憩へ み神のもとに (メリーX持)また行かな 雪とぞ散れる 春花の 星田の丘の 宮坂の道 (偐定家) 「てっぱんアトムの歌」 粉をこねて ラララキャベツきざみ (空をこえて ラララ星のかなた) 焼くぞアトム お好み焼きを (行くぞアトム ジェットの限り) てっぱん焼けて ラララじゅじゅじゅじゅじゅじゅ~ (心やさし ラララ科学の子) 十万馬力だ てっぱんアトム (十万馬力だ 鉄腕アトム) はじらひは 少しのこして 年の暮 をさぎとともに よき年もがも (ピタラビ兎麻呂(とまろ)) (注)をさぎ=うさぎ(万葉集所出)
2011.01.02
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謹賀新年 あけましておめでとうございます。 浅緑 染(し)めかけたりと 見るまでに 春の楊(やなぎ)は もえにけるかも (万葉集巻10-1847) みなさまにとって新年がよき年でありますように。 旧年中は偐万葉田舎家持歌集をご愛顧賜りまことに有難うございます。 本年もよろしくお願い申し上げます。 偐万葉田舎家持歌集目次 (それぞれの項目をクリックすると その項目の記事をまとめて見ることが出来ます。) 智麻呂絵画展 和郎女作品展 偐万葉シリーズ 松風篇 大和はまほろば篇 ビターc篇 ひろろ篇 カコちゃん08篇 真澄篇 木の花桜篇 るるら篇 nanasugu篇 カマトポチ篇 くまんパパ篇 ビッグジョン篇 童子森の母篇 半兵衛篇 若草篇 その他 銀輪万葉シリーズ 大阪府篇 奈良県篇 兵庫県篇 京都府・滋賀県篇 和歌山県・三重県篇 北陸篇 関東篇 中四国篇 その他 その他 近隣散歩 若草読書会 万葉 花 自転車 絵画 能・狂言 回文 友人ほか カテゴリー未分類
2011.01.01
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