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今年初めての岬麻呂旅便りです。 今回は、「温泉とビール一杯の会」のご友人との、北海道は網走・阿寒の三人旅とのこと。 今月20日~23日の変則3泊4日の網走・阿寒の旅。 岬麻呂氏からのメールによると、「28日から沖縄・寒緋桜の旅に出掛けるので、急いで書きあげた」旅便りで、「些かやっつけ仕事の感あり」とのことですが、下掲の「旅・岬巡り報告248&同写真説明」を先ずはご覧下さい。(旅・岬巡り報告248・網走、阿寒&同写真説明) ※写真をクリックして大きいサイズの写真でお読み下さい。 上記の写真説明に掲載の写真は別途メールで送信いただいていますので、以下にご紹介させていただきます。1月20日関西空港集合→天候不良で釧路便欠航、21日発の新千歳空港便に変更→空港近くのホテルを確保して宿泊、仕切り直しという訳である。1月21日関西空港→新千歳空港→レンタカーで道東自動車道を東進→足寄IC→「あしょろ銀河ホール21(道の駅)」で松山千春コーナー見学→「オーロラタウン93りくべつ」で旧国鉄のラッセル車など車両見学→ホテル網走湖荘泊(道の駅・オーロラタウン93りくべつ)(網走湖とオジロワシ)1月22日能取湖・能取岬→濤沸湖・白鳥公園→博物館・網走監獄→天都山展望台→美幌経由→阿寒湖→「阿寒の森鶴雅リゾート花ゆう香」泊(網走監獄正門)(監獄食堂の監獄食B「ホッケの塩焼き定食」) ※Aは「サンマの塩焼き定食」だそうです。(網走駅)(能取岬)(濤沸湖の白鳥家族)1月23日阿寒湖畔散策→阿寒国際ツルセンターでタンチョウ見学→釧路空港→関西空港(阿寒湖の日の出)(阿寒国際ツルセンターのタンチョウのつがい) 波乱の幕開けとなった旅も無事終了。 終わりよければ全てよしであります。 今回の旅でも、マンホールカードを1枚ゲットいただいたようで、ひろみの郎女さんにと旅便りに同封されてありました。 次回の若草読書会(2月2日)で彼女にお引渡しする予定です。(釧路市のマンホールカード)<参考>過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。 フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。
2020.01.31
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今日は、偐家持の誕生日。 大伴家持は養老2年生まれである。 養老元年という説もあるが、当ブログは養老2年説を採用している。 よって、偐家持も養老2年生まれということになる。 養老2年は西暦718年である。 今年は令和2年。 元号表示では年齢が計算できない。 令和2年を西暦2020年に置き換える。 2020-718=1302 よって、偐家持の満年齢は本日を以って1302歳ということになる。 今年は子年であるが、718年は午年である。 もっと正確には、今年は庚子(かのえね)、718年は戊午(つちのえうま)である。つまり、大伴家持は午年の生まれということになる。 よって、偐家持も午年の生まれとするの他ないのであるが、これについては「偽志輪人伝」というのがありまして、その記載するところによれば偐家持は子年生まれとされている。この記載が正しいとする見解に立って計算すると1308歳とか1296歳とかということになる。 しかし、1000を超えての6程度の差は誤差の許容範囲とされ、一般的にはこれを無視するのが相当とされているので、1302歳ということで「いいんじゃない」ということのようである。 因みに、偐家持は子年生まれとする「偽志輪人伝」の記載が正しいとし、子年生まれの偐家持と午年生まれの大伴家持との二人を結ぶ線を子午線と呼ぶらしい。「子午線」の本来の意味はこれであったのだが、いつの頃よりか経度を表す線を子午線と呼ぶという誤用が蔓延。それが広く定着してしまったこともあって、大伴家持と偐家持とを結ぶ線などは元々無かったのだという常識が成立してしまった。これはまことに遺憾なことであると異議を述べると、人々は「子(し)の午(ご)の言うな」とその異議を封殺したそうな。今は「四の五の言うな」と表記するので、いよいよ本来の意味が分からないことになっているという次第。 誕生年に因む冗談はこれ位にして、本論へ。 過去の1月29日の当ブログ記事を調べてみると、2013年1月29日の記事で「ヤカモチ1295歳・・」という形でタイトルにこれを使用したのが最初で、以後毎年「〇〇歳になりました」という記事が恒例になっている。 それらの記事を覗いてみると、誕生日を自ら言祝ぐ戯れ歌を作っていることもあるようなので、これをふり返ってみると次の通りである。2014年(1296歳)春立つ日 近づくならし 吾が生(あ)りし 今日(けふ)の日晴れて 梅咲き始(そ)めば 2017年(1299歳)あぢさゐの 八重に咲くとも 生き過ぎて 立ち枯れになせそ 冬のあしたに2018年(1300歳)生き恥を 千歳(ちとせ)あまりて 三百歳(みももとせ) さらし今日まで めでたくも生きよしあしは 更にも問はず 昨日(きのふ)今日(けふ) 明日のこの身は 神がまにまに2019年(1301歳)梅の花 今盛りなり ヤカモチの あれにし日をば 祝ふとならし さて、1302歳の今年も何か作ってみますかな。2020年(1302歳)何とても 今更願ふ こともなし ひと日ひと日を ありがたく生く生まれたる 日も殊更の ことはなし 梅一輪の 咲くをしめでむ(白梅)
2020.01.29
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第216回智麻呂絵画展 今年初めての智麻呂絵画展であります。 今年も、智麻呂絵画展よろしくお願い申し上げます。<参考>過去の智麻呂絵画展は下記をクリックしてご覧下さい。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~第216回展 では、ごゆるりと智麻呂絵画をお楽しみ下さいませ。 先ずは、智麻呂・恒郎女ご夫妻のお嬢様からのお正月のお花。(花 from二嬢) これは二番目のお嬢様(万葉風にはニ嬢<ふたをとめ>)からのお花です。 そして、次が三番目のお嬢様(万葉風には三嬢<みをとめ>)からのお花。(花from三嬢) 少しお正月気分を思い出していただいたところで、次に参ります。 次の2点は、昨年の読書会の折にお持ちいただいた野菜と柚子の絵であります。(大根・白菜・里芋 from凡鬼) これは凡鬼さんが家庭菜園で栽培されて収穫、お持ち下さったもの。(鬼柚子 from小万知) これは、小万知さんがお持ち下さったもの。 鬼柚子または獅子柚子ともいう巨大な柚子です。 次は、冬の花、サザンカの絵・二題です。(山茶花A)(山茶花B) サザンカは、この時期、道の辺でよく見かける花であり、散策で写生するとなると、手頃な題材と言えるのがこの花である。 もう一つ、冬の花としては水仙ですね。(水仙) 水仙は智麻呂氏のお好きな花であるのか、これまでにも沢山描いて居られるが、この絵は、そんな中でもひときわすぐれた出来ばえではないかと思います。 更にもう一つこの時期の花と言えば、蝋梅でしょうか。 蝋梅と言えば、今は亡き寿郎女さんを思い出す、と恒郎女さんが仰る花であるが、彼女が亡くなってもう11年余になる。 若草読書会のメンバーでヤカモチとは同学年、共に高校2年であった時に日本基督教団小阪教会で知り合い、という仲であったが、早くに逝ってしまわれた。そして、その10年後に、同じ経緯で知り合ったもう一人のメンバー・和麻呂氏が逝去。 今は亡き彼らのことが思われることである。<参考>山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど・・2008.10.29. 和麻呂逝く 2018.8.23.(蝋梅 fromひろみの郎女) この蝋梅はひろみの郎女さんがお持ち下さったもの。 菊とこの蝋梅とをお持ち下さったようですが、菊の絵は未だ制作途中で、今回の絵画展には間に合いませんでしたので、次回ということになります。(カーネーション) このカーネーションは恒郎女さんがお花屋さんで買い求められたもの。 そして、最後は菜の花。 司馬遼太郎の命日2月12日を菜の花忌と呼ぶことは周知のことと思いますが、その日が近づいているということで、菜の花を描かれたという次第。(菜の花忌に寄せて) 以上です。 本日も、ご来場・ご覧下さり、ありがとうございました。 さて、今回の10点で、智麻呂絵画展出展の智麻呂絵画総数は1996点となりました。次回の絵画展は2000点達成の記念絵画展となります。 これを記念して、次回の絵画展では、新作絵画と併せ、これまでの作品の中で人気の高い絵画を再出展させていただきたいと存じます。 つきましては、お一人3点を限度にこれまでの作品の中でお気に入りの作品を下記のコメント欄にてお知らせ賜れば幸甚に存じます。 ヤカモチのメールアドレスをご存じのお方はメールでお知らせ下さってもOKです。 「第〇回展の〇〇」という形でご記入下さい。 「〇〇」は当該絵画のタイトルをご記入下さい。 過去の智麻呂絵画は、上記<参考>の「過去の智麻呂絵画展」または下記のフォト蔵アルバム「智麻呂絵画集」から閲覧できますので、どちらかをクリックしてご覧下さい。 フォト蔵アルバム「智麻呂絵画集」
2020.01.26
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昨日は、健人会の新年会でありました。 健人会というのは、昔の職場の仲間の任意の集まりである。所属部署は色々であるが、気の合う者が集まって、年4回のゴルフと1月の新年会・7月の納涼懇親会とで旧交を温めている。小生は、ゴルフは止めたので、新年会と夏の納涼懇親会のみ参加している。 最長老が木〇氏で小生より11歳年長である。今回の出席者17名のうち小生より年長の方が7名であるから、中間よりもやや年長組に近いというのが小生の年齢的位置付けになる。 出席者を記録に残すという意味で以下にそれを記して置くと、 木〇氏、杉〇氏、只麻呂氏、田〇氏、平〇氏、鯨麻呂氏、岡〇氏、徳〇氏、森〇氏、今〇氏、草麻呂氏、正〇氏、平〇J氏、北〇氏、生〇氏、〇庭氏とヤカモチの17名。 会場は、例年通り、淀屋橋の「小ぼけ」という店。 午後6時開宴である。(淀屋橋から北浜方面に向かう) 店の前まで来て、時計を見ると、午後5時を少し回った程度。早過ぎるので、中之島公園を少し散策してからということにする。(小ぼけ) 一つ先の信号から栴檀木橋を渡って中之島公園に入る。 暮れなずむ中之島公園。正面が中央公会堂である。(大阪市中央公会堂) 公会堂の前の広場から、先ほど渡って来た栴檀木橋を眺めると、こんな感じです。(土佐堀川と栴檀木橋) 写真の右、橋の北詰めにセンダンの木がある。 センダンの木があるから栴檀木橋なのか、栴檀木橋なのでセンダンの木を植えたのか、どちらかは存じ上げぬが、鈴生りにセンダンの実をつけていました。 センダンは万葉では「楝(あふち)」である。 大伴旅人が妻を亡くした時に、旅人の気持ちになって山上憶良が詠んだ歌がある。詠われるのは実ではなく花の方である。ホトトギスが鳴き始める初夏に美しい花を咲かせる。妹が見し 楝(あふち)の花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干(ひ)なくに (山上憶良 万葉集巻5-798)(妻の見た栴檀の花は散ってしまうようである。悲しみのわが涙も未だ乾かないのに。) 若くして亡くなった大伴家持の弟、大伴書持にも楝を詠んだ歌がある。 こちらはホトトギスとセットで詠っている。珠(たま)に貫(ぬ)く 楝(あふち)を家に 植ゑたらば 山霍公鳥(やまほととぎす) 離(か)れず来(こ)むかも (大伴書持 万葉集巻10-1973)(ホトトギスが珠として貫く栴檀の花を家に植えたら山ホトトギスはいつも来るかなあ。)(堂島川と桙流橋) 堂島川の方に何やら美しい色のものが見えたので行ってみると。 鉾流橋が虹色にライトアップされているのでした。 天神祭の鉾流神事がこの橋のたもとで行われることからの命名だという。 <参考>鉾流神事・天神祭NAVI 「鉾を納める」というと「戦いをやめる」意味であるが、これは一時休戦といった感じか。「鉾を流す」は、武器である鉾を流して捨てる訳であるから「戦争放棄・武力不保持」で、日本国憲法第9条と同じ理念・理想を体現している橋の名前ではないか、などと思ったりもしたが、天神祭の神事に由来する名前にて戦争放棄とは無関係(笑)。 対岸も美しいイルミネーション。(堂島川) 次の日曜日(26日)は、中之島公園も大阪国際女子マラソンのコースになっているので、車の通行などが制限されるようで、その旨の看板が道路脇に立て掛けてありました。 そろそろ時間の方もいいかと、店の方に戻ることにする。 店の前まで来ると、木〇氏が反対方向からやって来られたので、ご一緒に店に入る。 部屋に案内されると、既に、世話役の草麻呂氏が来て居られて、平〇J氏と二人で会費徴収係を務めて居られました。 部屋の奥には先に到着の只麻呂氏と北〇氏が着席して何やら話をされている。我々もその隣に着席する。 というのは、奥が「喫煙席」なのである。 17名中7名が喫煙者にて、この会の喫煙者率は通常の集まりに比して極めて高率となっている。この点はヤカモチにとってはまことに心強い限りなのである(笑)。 続々と参加者が来られ、定刻前に全員集合と相成りました。 杉〇氏の発声で乾杯、開宴となり、飲んで食って談笑という毎度お決まりの流れである。 隣の徳〇氏が「老人は過去の話ばかりするね。何故?」と言うので「老人には今と過去はあるが未来はないからねえ」と答えたら、妙に納得していたのは愉快であった。そもそもこの会が過去の絆を核として成立しているのであるから、各々に多くの共有し合う過去がある。してみれば、酒の肴の話題が過去のあれこれに及ぶのは極めて自然なことであり、老人ならずともではある。(健人会・2020年新年会) 午後8時半、木〇氏の中締めにて解散となりました。<参考>過去の健人会関係の記事はコチラ。
2020.01.23
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本日早朝にアクセス数250万を超えました。 2007年4月29日。中原中也生誕100年の日(中也は1907年4月29日生まれ)にブログを始めて、間もなく12年9ヶ月になろうかという今日ですが、アクセス総数250万に達したという次第。 自転車で万葉の故地などを訪ねて戯れ歌などを作ってみようと始めた当ブログですが、偐万葉という名が示すように万葉とは関係のないあれやこれやの記事も紛れ込むなど、正体不明となり果てている当ブログ。(銀輪散歩の相棒のMTB) ※馴染みの喫茶店・ペリカンの家のアプローチに駐輪中のMTBです。 このようなブログでもご覧いただけるお方が居られるというのは有難いことであります。 ご訪問下さった方々には、あらためまして心より感謝申し上げる次第であります。 元々、歌作りなどの素養もなく、万葉歌の見様見真似で「歌もどき」などを作っているに過ぎない偐家持でありますから、歌作りのモチベーションを維持するのはかなり困難。最近は作歌数も激減して居ります。 そんな中で愉快な思い出というのは、次のようなエピソード。 シラン(紫蘭)について次のような歌を詠んだことがあります。<参考>紫蘭(シラン)、定家蔓(テイカカズラ) 2008.5.2.岩陰に 咲きて揺れける けいの花 妹し恋ふらし 春の夕暮れ (偐家持) 歌意は「岩陰に紫蘭の花が咲いて風に揺れている。妻(或は彼女)が私のことを恋しく思っているのかも、そんな気がする春の夕暮である。」というもの。「けい」というのは、異説もあるようだが「シラン」のこと。漢字では、草かんむりに惠と書くが、当ブログでは使えない機種依存文字にて、仮名表記している。 ネットで「シラン」を検索していたら、或るお方がこの歌を引用されているのが目にとまり、覗いてみました。 どうやら、偐家持という昔の歌人が詠んだ「古歌」と誤解されて引用されている風でありました。 偐万葉の「歌」は、「万葉集の作者不詳の歌群の中にそっとそれを置いてみても違和感がない」というものであるべし、というのがモットーであったので、このような誤解は「得たり」というもので、大いに愉快というものでありました。 中也風に言えば、「ああ、そのやうな日もありき、遠い遠い日なりき」であります(笑)。<参考>総アクセス数の推移 2007年 4月29日 ブログ開設 2015年10月11日 50万 2016年11月16日 100万 2018年 2月 9日 150万 2019年 3月21日 200万 2020年 1月21日 250万ネタの無き 日にも節目の アクセスの ありてブログの 記事とはなりぬ(銀輪散歩のもう一つの相棒、トレンクル)※退院・墓参・燈花会 2017.8.15.掲載写真の再掲
2020.01.21
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友人から電話があって、話をしている中で、このところブログの更新が無いが、どうしたのかという話になった。 別に、どうもしていない、ネタが無いだけと答えたが、ネタが無いからと何日も更新しないでいると、「何かあったのか」というご心配をお掛けするというか、不審を招くようであります(笑)。 さりとて、ネタが無ければ記事の更新も出来ない相談、ということで、無理矢理に記事を書いてみることに。 年賀状に万葉集などから新年に相応しいと思われる歌を記すというのが、ここ何年かのわが年賀状のお決まりのパターンである。 で、過去の年賀状に取り上げた歌を羅列してみようと思い立ったものの、気が付けば、もう分からぬこととなっている年度も多くあることに気が付きました。 わかる範囲で書き留めれば以下の通りである。1994年新(あらた)しき 年の始の 初春の 今日ふる雪の いや重(し)け吉事(よごと (大伴家持 万葉集巻20-4516)(因幡国庁跡の4516番歌碑)※鳥取銀輪散歩・因幡万葉の里へ(2011.10.28.)からの再掲。 この歌の歌碑の写真は、次の記事にも掲載されています。 氷見銀輪散歩(1)・家持歌碑めぐり(2012.11.7.)1995年新(あらた)しき 年のはじめに 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは (葛井諸会 万葉集巻17-3925)1996年あたらしき 年の始に かくしつつ 千年(ちとせ)をかねて たのしきを積め (古今和歌集巻20-1069)1997年不明1998年新(あら)たしき 年の初めは 弥(いや)年に 雪踏み平(なら)し 常にかくにもが (大伴家持 万葉集巻19-4229)1999年不明2000年不明2001年霞立つ 春のはじめを 今日のごと 見むと思へば 楽しとぞ思(も)ふ (大伴池主 万葉集巻20-4300)2002年山の際(ま)に 雪は降りつつ しかすがに この河楊(かはやぎ)は 萌えにけるかも (万葉集巻10-1848)2003年時は今 春になりぬと み雪ふる 遠山のべに 霞たなびく (中臣武良自 万葉集巻8-1439)2004年睦月立つ 春の始めに かくしつつ あひし笑みてば ときじけめやも (大伴家持 万葉集巻18-4137)2005年うちなびき 春来たるらし 山のまの 遠き木末(こぬれ)の 咲き行く見れば (尾張連 万葉集巻8-1422)2006年父の喪中2007年不明2008年不明2009年風まじり 雪は降りつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり (万葉集巻10-1836)2010年不明※下記の歌かもしれない。昨日(きそ)こそは 年は極(は)てしか 春霞 春日(かすが)の山に はや立ちにけり (万葉集巻10-1843)2011年不明※下記の歌かもしれない。浅緑 染(し)めかけたりと 見るまでに 春の楊(やなぎ)は もえにけるかも (万葉集巻10-1847)2012年不明※下記の歌かもしれない。 山の際(ま)の 雪は消(け)ざるを みなぎらふ 川の楊(やなぎ)は もえにけるかも (万葉集 巻10-1849)2013年あしひきの 山の木末(こぬれ)の 寄生(ほよ)とりて 插頭(かざ)しつらくは 千歳寿(ほ)ぐとぞ (大伴家持 万葉集巻18-4136)2014年不明2015年不明※下記の歌かも知れない。たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ (大伴家持 万葉集巻6-1043)2016年不明 ※下記の歌かもしれない。門ごとに 立つる小松に かざられて 宿てふ宿に 春は来にけり (西行 山家集上春5)2017年母の喪中2018年ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山 かすみたなびく (後鳥羽院 新古今和歌集巻1-2)2019年袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ (紀貫之 古今和歌集巻1-2)2020年いつしかと 春来にけりと 津の国の 難波(なには)の浦を 霞こめたり (西行 山家集8) 次の歌も過去に使用した記憶があるが、何年のことかは定かではない。 上の不明とある年度のどれかに該当するのだろうと思う。初春の 初子(はつね)の今日(けふ)の 玉箒(たまばはき) 手に執るからに ゆらく玉の緒 (大伴家持 万葉集巻20-4493)<追記> 年賀状と言えば、ブロ友となった後に、ご縁があって、年賀状を交換することになったお方が何人か居られます。そんな中のお一人で、2012年5月7日の記事を最後にブログの記事更新をお休みされている木の花桜さんから年賀状を頂戴しました。賀状によると、別の分野でお元気にご活動されているようで、何よりと嬉しいことでありました。
2020.01.19
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先日(9日)に邂逅展に出掛けたことは同日付の記事「2020邂逅展」にて紹介申し上げた通りですが、その記事でも触れた通り、二つ手前の西大寺駅から会場までの往復をトレンクルで銀輪散歩いたしました。 その折に撮った写真もありますので、これを記事にまとめてみます。 近鉄・大和西大寺駅南口で自転車トレンクルを組み立てて出発。秋篠川を渡って、平城宮趾公園に入り、朱雀門方向へと走る。(★平城宮趾公園) 朱雀門から少し東へ行ったところに、大きなクヌギの木がありました。(★同上) 奥に若草山が見えている。 往路で撮った写真はこれだけ。 今回、ブログに写真をアップするに際して気が付いたことは、この折の写真の何枚かは、フォト蔵に登録していないのでした。 フォト蔵に登録すると、元の写真を500×375程度のサイズに縮小してPCのマイアルバムに一時保存し、ブログに掲載した後はこれをPCのアルバムから削除するというのが、ヤカモチのお決まりのやりかたであるところ、うち何枚かは登録未了であるのに登録済みと勘違いしてブログ掲載用にダウンサイズしてしまったよう。 従って、大きいサイズのフォト蔵写真というのが、これらの写真には存在しない。手元のPCにはサイズ縮小の写真に上書き変更されてしまっているものが残っているだけ。今からフォト蔵に登録してもブログ掲載サイズのものしか登録できないので意味がない。 という訳で、フォト蔵写真とリンクされていない写真が当記事には混在します。それらには★印を付して置きます。 復路は新大宮駅前の喫茶店で昼食をとってから、奈良ロイヤルホテルの前経由で東院庭園の脇から平城宮趾公園に入りました。(阿倍野仲麻呂の歌碑) 奈良ロイヤルホテルの前に、以前はこのような歌碑はなかったように思うが、いつ頃建立されたのだろうか。天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも (安倍仲麿 古今集406 小倉百人一首7) 東院庭園を柵の外から覗き見て、平城宮趾公園内へ。(東院庭園) 公園内を走っていて目についた叢林に近寄ってみたが、ただ林が残されているだけで、何もない。遠目には神社か古墳か何かの遺跡かと見えたのだが、山茶花が咲いているだけ。(★平城宮趾公園) この時期は、山茶花の花が目立つ。 大極殿裏の道脇の垣根も「サザンカ、サザンカ、咲いた道」の風情。(平城宮趾公園・大極殿北側道路脇の山茶花) 大極殿の裏側(北側)の道路はバス通りのようで、「佐紀町大極殿」というバス停がある。(大極殿前のバス停) バス停も平城宮風の建屋になっている。 ここで、ふと思い出したのが隆光大僧正の墓のこと。 奈良時代とは無関係な江戸時代の坊主の墓のことでありました。 数年前、源氏三代墓に立ち寄った際に、彼の墓を見掛け、佐紀にも彼の墓があると知って、そのうちに訪ねてみようと思っていたことを思い出したのでありました。<参考>銀輪散歩・彼方の赤土の小屋に 2014.3.3. 調べてみると、それは2014年3月のこと。その時のブログ記事(上記参照)には「彼の生地である奈良市二条町にある超昇寺跡にある本墓も似たりよったりの墓らしいが、機会があれば訪ねてみましょう。」と書いているが、それを果たさぬままに来た次第。思い立ったが何とやらで、その墓があると記憶する場所に向かう。 場所は佐紀神社の向かいにある幼稚園の裏手で、少しわかりにくいのであるが、進入路の道脇にこんな表示板があるので、それが目印である。(隆光大僧正の墓石の碑) その進入路はこんな風なので、この表示板が無ければ、ちょっと気が付かないだろう。(超昇寺跡・隆光墓進入路) 参考までに地図でその場所を示して置きます。(隆光墓位置図) 隆光というと、生類憐みの令を発令することを将軍綱吉に勧めた坊主というイメージであったが、最近の研究では、この政策が始まったのは貞享2年(1685年)以前と考えられており、隆光が将軍綱吉の帰依を得る契機となった筑波山知足院の住職についたのが貞享3年(1686年)のことであるから、彼がこの政策を将軍に勧めたのではないだろうという訳である。(隆光墓) 墓石は写真奥の花が供されている方の石がそれである。 手前の標石が目立ち過ぎるので、これが墓石かと思ってしまう。 隆光の墓石のほかにも何基かの墓石があるが、由縁のほどは存知せずであります。(隆光墓のある場所の他の墓) 数基ある墓石の中で隆光のそれが一番質素なのが面白い。 そんなこともあってか、標石の方にお参りする人も多いようで、お賽銭が標石の前に沢山置かれている。 墓守をする方がこれらを回収し、供花の購入費の一部に充てているのかもしれない。(標石裏面の碑文)<参考>隆光・Wikipedia 奈良県下の銀輪散歩過去記事は下記です。 銀輪万葉・奈良県篇(その1) 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2020.01.13
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明日から大相撲初場所が始まる。 大阪での大相撲は3月の春場所。難波の大阪府立体育館で開催されるのであるが、初場所は、東京・両国の国技館で開催である。 今は、国技館と言えば、両国のそれであるが、かつては大阪にも国技館があったということを、近隣銀輪散歩の「徘徊」で知ることとなったので、それをご紹介申し上げます。 全て、昨年の銀輪散歩で撮影した写真であるので、年明けに駆け回った訳ではありません。 先ず、天王寺にあった国技館。(大阪国技館跡の碑) 場所は下掲の地図の通りです。(大阪国技館跡の碑・所在位置)<参考>大阪国技館・Wikipedia スパワールドの北側にひっそりとそれはある。 1919年(大正8年)9月から1925年(大正14年)まで大阪相撲の興業がここで行われたとのこと。 1927年(昭和2年)東西の相撲が合併し大日本相撲協会が設立され、相撲興業の中心は両国国技館となり、ここでの相撲興業が行われなくなる。その後は映画館などとして建物は存続するが、第二次大戦前には解体されたようだ(現地碑文)とある。一方、1945年(昭和20年)の大阪大空襲で焼失したとするもの(Wikipedia)もあって、詳細はイマイチよくは分らない。 これとは別に、1937年(昭和12年)3月から1941年(昭和16年)戦争で中断するまでの間、大相撲の興業が行われた大阪大国技館(別名:大阪関目国技館)というのがあったということなので、その跡地を訪ねてみた。(大阪大国技館跡の碑・位置図) 現在は、リビエール関目というマンションになっていて、城北川沿いの遊歩道脇に跡地の碑がある。(大阪大国技館跡の碑) ご覧のようなマンションが建っていて、国技館跡地であることを思わせるものは、上の碑のほかには何もない。(リビエール関目・5号棟)(同上・5号棟<左>と4号棟<右>との間の中庭) ところが、如何なる用途かは定かではないが、中庭の北西隅にある構築物の鉄扉の中央にあしらわれているデザインが、気のせいか国技館を思わせるものになっているのに気が付きました。 尤も、下記の建物模型と比べるとちょっと違う気もするので、何とも言えないのではある(笑)。(扉のデザインが国技館っぽい) 碑文を読むとこの大阪大国技館の模型が城東区役所のロビーに展示されているという。 ということで、城東区役所にも行ってみる。(城東区役所位置図)(大阪大国技館復元模型)(同上)(同上) 今はなき大阪の国技館でした。 両国の国技館は昨年4月の東京銀輪散歩の折に偶々その前を通過、写真を撮っていますので、これを再掲載して置きましょう。(両国国技館) ついでに、今はない蔵前国技館の写真も。(蔵前国技館・Wikipediaから転載) これは、国技館に関係ありませんが、昨年の囲碁例会の帰途に見掛けた相撲関連の碑です。(勧進相撲興行の地碑)(同上・副碑) この碑のある場所は、南堀江公園。地図で場所を示せば下掲の通り。(南堀江公園位置図)
2020.01.11
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昨年の暮れに高校の同級生の津〇君から電話が入り、現在保有している賃貸建物が老朽化して来ているので、これを賃貸マンションか賃貸アパートに建て替えたいと思っているが、相談に乗ってくれないか、という話。 ともかく話だけは聞いてみようと、今日、近鉄・小阪駅前、午後2時の待ち合わせで、出かけてまいりました。 卒業後に同期会などで1~2度は顔を合せているかと思うが、久々の再会でありました。中学や高校や大学の同期の友人というのは面白いもので、どんなに長くご無沙汰していても、顔を合せると忽ち昔の感じに帰って、俺・お前の関係に戻れるというのがいい。 駅前の喫茶店で話を聞くつもりでいたが、自宅に来いと言い張るので、仕方なく彼の自宅にお邪魔することとなり、奥方様(勿論、小生は初対面である。)のお手を煩わせることになったのは恐縮でした。 用向きの話の傍ら、今〇君、泉〇君、藤〇K君、藤〇W君、梶〇君、横〇君など懐かしい友人のことなども話題に出て、二人だけの同窓会気分でありました(笑)。 聞くところによると、今〇君、泉〇君、藤〇W君、横〇君などは津〇君の自宅に集まったりしたこともよくあったらしい。 自宅から小阪駅前までは自転車で30分程度。 ということで、今日もMTBで銀輪散歩を兼ねて出掛けたのでありましたが、津〇君は小生が自転車族であることを誰かから聞き及んでいたらしく、銀輪散歩で近くに来たら自宅に立ち寄ってくれたらいい、とも。 それはともかく、少し早く着き過ぎたので、駅前の有料駐輪場にMTBを駐輪して、駅前をブラブラ散策。 駅の南側はこんな眺め。(近鉄・小阪駅前南側) この本通り商店街に入ってすぐの処、右側には「湖月」という喫茶店があって、高校時代から通い出した日本基督教団小阪教会がこの駅から徒歩数分の場所にあった関係で、教会の仲間とよく利用したものであったが、今はもう存在しない。湖月堂という菓子舗があるようだが、昔の喫茶店が菓子舗に変わっているということなのか。 この前の道は今も自転車で大阪市内へと走る折にはよく走るのであるが、単に通過するだけで、駅前から眺めるということが余りないこともあって、商店街の入口アーケードに「司馬遼太郎記念館」と表示されていることに、初めて気が付きました。 司馬遼太郎記念館は、この商店街を抜けた辺りを左に折れて、少し東へ行った処にあるから、まあ、これはこれでいいのでしょう。 駅の北側はこんな眺め。(近鉄・小阪駅前南側) 北側の両サイドの店は、入口左側の店を覗き、全部シャッターが降りている。近寄ってみると、建物が老朽化したため、取り壊されることになったようである。 いつであったか、新潟のブロ友・ふぁみり~キャンパーさんが、出張で大阪に立ち寄られた際に、この一画にある「お好み焼き屋」で食事をされて、それを記事にして居られたのを記憶しているが、その店も無くなることになる(笑)。 調べてみると、店の名は「ゆり家」でした。<参考>河内女の手染めの・・ 2014.2.24. 三つ目の橋・・・(何処でしょう?) 2013.4.30.たれをかも しる人にせむ 高砂の 松もむかしの 友ならなくに (藤原興風 古今集909 小倉百人一首34)
2020.01.10
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友人の家近氏から案内状を頂戴していたので、本日邂逅展に行ってまいりました。(邂逅展案内ハガキ) 会場は、奈良・率川神社の向かいの路地を東に入った処にあるアートスペース上三条・GALLERY&CAFE。 場所は下掲の地図の通り。 会期は1月7日から12日(日)まで。 10時~18時(最終日は16時まで) 毎年、正月第一火曜日からその次の日曜日までの6日間開催されるようで、昨年も案内を頂戴したのだが、拝見することがないまま期間が過ぎてしまったので、今回が初めての入場となりました。 今年は、アト3日間会期を残していますので、興味あるお方はどうぞお出掛けください。(会場・アートスペース位置図) ※アートスペース上三条 GALLERY&CAFE 郵便番号630-8228奈良市上三条町4 電話:0742-23-0114 岡三証券すぐ南側路地入る 近鉄・大和西大寺駅まで電車で行き、そこから持参の小型折りたたみ自転車・トレンクルで、平城宮趾公園経由で、会場へと向かいました。 会場建物に入ると、1階右側が喫茶ルームになっていて、2階の二部屋が展示室になっていた。(家近健二氏のコーナー) 家近氏ほか何名かのお方が作品を出展されているのだが、家近氏の作品は別として、他のお方の作品については写真撮影をしてもいいのかどうか、よくわからないので、遠慮がちに少しだけ撮影させていただきました。(展示風景)(同上・手前の作品は、くがいゆたか氏の「時の骨」) 会場、隣の展示室では、男性が龍を描いた大きな作品の前で二人の来客に作品の説明をされていました。もう一人、車椅子の青年が居られました。会釈のみで会話を交わさないままでしたが、階下の喫茶室で家近氏と話をしている時に、その青年が入って来られて、出展者の一人・小林和弘氏であるということを、家近氏のご紹介で知りました。 喫茶室ではお名前はお聞きしませんでしたが、草木染めの先生というご婦人がご友人の女性と珈琲を前にお話されていました。その方の作品が店内の壁面にズラリと展示されていましたが、これも邂逅展の一部のよう。 そんなことで、家近氏と草木染めのご婦人とは親しいお仲間のようで、いつの間にか会話は、その女性お二人と家近氏とヤカモチの4人の会話になっているのでした。 4人が談笑しているところへ、上記の小林氏が入室して来られたのでありましたが、丁度、帰り支度をしているところであったので、またも会釈のみにて同氏とはお別れでした。 会場入口には、「自由にお取りください」とあって、この展覧会に出展されているお方の作成された「案内ハガキ」が置いてあり、その何枚かを頂戴して帰りましたので、これを以下に紹介させていただきます。(邂逅展案内ハガキ・主宰者小倉正宏氏) 同氏がこの邂逅展の主宰者のようですが、同氏とはヤカモチも面識がある。もうかなり前のことになるが、同氏や家近氏や若草読書会の仲間でもある凡鬼さんらがメンバーの或る集まりで、万葉集の話をしてくれとの依頼があって、1時間程度のお話をしたことがあり、その折に面識を得たのでありました。(同上・小林和弘氏) この作品のタイトルは「仲間」。(同上・藤原郁夫氏) 家近氏の展示コーナーの隣に同氏の展示コーナーがありました。(同上・松枝道政氏) この方の絵は見た記憶がある。 昨年の柏原市ビエンナーレ(柏原芸術祭2019)で、問屋場亭に行った折に、家近氏の作品と並んで展示されていた作品が、この作風の絵でありました。<参考>家近健二展関連記事はコチラから。
2020.01.09
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今年初めての囲碁例会。 出席者は、福麻呂氏、平◎氏、村〇氏、ヤカモチの4名のみ。 予定では、例会終了後、地下の滝見小路の店で新年会もどきの会食をということであったので、自転車(MTB)は取り止め、電車で梅田スカイビルへと向かいました。しかし、平◎氏が風邪気味に加えて、親知らずを抜歯したばかりで、顔が少し腫れている状態、村〇氏は当初より新年会は不参加を表明されていたこと、参加予定だった平〇氏が体調不良だったか怪我であったか何やら不都合が生じたようで例会を欠席されたこともあって、会食に参加できるのは、福麻呂氏とヤカモチの2名だけとなり、中止することとなりました。 そんな次第で、立ち寄り先も無く、これと言った写真もありませんので、こんな写真でも掲載して置くこととします。(中央公論「歴史と人物」昭和55年12月号) 39年も前の雑誌であるが、平◎氏が自宅の本の整理をしていて、出て来たのでと、今日小生のためにお持ち下さったものである。特集が「万葉集の天皇と皇子」で、冒頭が犬養孝先生の「古代天皇と万葉歌」という論説で、以下、 三谷栄一「仁徳天皇と皇后磐姫」 岸 俊男「万葉集巻頭歌と雄略天皇」 池田彌三郎「万葉集の魅力」 阿部正路「舒明天皇 国見歌の背景」 田中阿里子「気苦労のたえぬ皇極天皇」 川村 晃「再評価 孝徳天皇の実行力」 岡野弘彦「天智天皇 近江京に彷える魂」 片山貞美「天武皇統の感性」 津田さち子「女人・持統天皇の激情と安らぎ」 渡瀬昌忠「柿本人麻呂と皇子たち」 森 淳司「神話の終焉ー元明・元正両朝」 森 朝男「聖武天皇をめぐる女たち」 山口 博「万葉集成立の謎」 神坂次郎「旅にしあれば 熊野に有間皇子を偲ぶ」 澤田ふじ子「天命遂げず 鎮魂・大友皇子の旅」といった論考が並んでいる。 まあ、ぼちぼちと読んでみましょう。 さて、囲碁の対戦の方ですが、福麻呂氏と2局打って、1勝1敗。 次に平◎氏と打って数目の勝ちで、今年の「打ち初め」は2勝1敗ということになりました。
2020.01.08
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年賀状は今年を限りとさせていただきます、という趣旨の記された年賀状が何年か前から届くようになり、今年も、そのような賀状が3枚ありました。 また、年賀状ではなく年賀メール送信に切り替えている友人もいる。 そんなことで、年賀状を出す数も、僅かずつではあるが毎年減少して来ているのであるが、未だかなりの数になるので、宛名も文面も全てPCからの印刷で済ませている。 頂戴した年賀状の中でも手書きの書き込みのあるものやご自身の絵などが掲載されているものなどは、やはり目をひくこととなる。 そのような年賀状の一部を紹介させていただきます。 一種の絵画展であります。(琵琶湖・比良山)(飛鳥II タイムスリップ母港横浜)(万葉酒・令和の春)(二月堂・裏参道) 以下は絵の部分のみトリミングして掲載します。(ウイーン・分離派会館) 最後は、智麻呂絵画です。(凡鬼さんの蕪)<参考>似たテーマの過去記事 年賀状 2009.1.4.(注)掲載の絵画の著作権は制作者に属しますので、これらの無断転載はお断り申し上げます。
2020.01.06
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偐万葉・英坊篇(その37) 今年最初の偐万葉は、英坊篇であります。 英坊篇(その37)は偐万葉シリーズ第309弾となります。 また、英坊篇は一昨年の4月14日以来ということになります。 <参考>過去の英坊篇はコチラからどうぞ。 英坊3氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌21首 並びに英麻呂が詠める歌10首ネタやネタ 夢にミタネタ 見ネタネタ 醒めてそのネタ ガセネタのネタ寝てもネタ 起きてもネタの ネタ探し 寝たら特ダネ 起きてガセネタタネ無しの 葡萄西瓜は よかれども ブログのネタ無し 如何にとやせむあらたしき 道の駅なる 雨晴(あまはらし) 行きてぞわが見む 立山(たちやま)の峰 (曇家持)(20180514道の駅・雨晴)今日(けふ)見れば 田(た)居(ゐ)に求食(あさり)す 合鴨の 鳴きつつ行くか 明日(あす)の身知らずも (鴨救命) (注)初案「明日の身知らず」を「明日の身知らずも」に修正した。(20180708田居の合鴨)百種(ももくさ)の 言(こと)持ち過ぎて あぢさゐの 花は遅れて 今しも咲くや (偐娘子) (本歌)この花の 一枝(ひとよ)のうちは 百種(ももくさ)の 言(こと)持ちかねて 折らえけらずや (娘子 万葉集巻8-1457)(20180819紫陽花)高岡の 君が貼り絵も 笠立てて 三つ並びたる 秋の香ぞよし (本歌)高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて 盈(み)ち盛りたる 秋の香のよさ (万葉集巻10-2233)(20181015松茸の貼り絵)君が代の うたへるごとや 細石(さざれし)も 踏みて君あれ 岩となるまで (踏家持) (本歌)信濃なる 千曲の川の 細石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾はむ (万葉集巻10-3400)まだ秋やと 言ふ人あれど 空き家とは 空しく柿の 鈴なりの空 (柿右衛門)あるじ無き 家にしあれば いたづらに なりて空しく 熟柿となるか (柿右衛門)いかがせむ 柿のはなしも 葉が少し 残りてあれば はなしにならぬ (柿坊3)(20181127熟柿)意のあらば 汲まぬ身はなし 春は花 秋は実となり 君や待つらむ (種家持) 英麻呂の句に偐家持が付けたる脇句 鹿煎餅 試食自分で 鹿怒り (英麻呂) しかにしかられ いたしかたなし (偐家持) (注)いたしかたなし=「致し方なし」と「痛し、形無し」とを掛けている。三十万(みそよろづ) 数へて鰤と 来たる背子 見るは嬉しも つつがなくあれ (鰤家持) 英麻呂が贈り来れる歌1首に偐家持が返せる歌1首なにげなく 見過ごしさうな 鳥どりの 様をつばらに 観るは楽しも (偽僧正)わが背子に 鳩と雀は 今日見せつ 鷹と燕も いつか示さむ (河内黒人) (本歌)吾妹子(わぎもこ)に 猪名野(ゐなの)は見せつ 名次山(なすきやま) 角(つの)の松原 いつか示さむ (高市黒人 万葉集巻3-279) 英麻呂が贈り来れる歌3首道中の 訪ね処の 楽しさと 懐かし時に こころ癒さる健友と 語り和みて 勇を得し 偽の家持 脚と輪軽し学び舎の 名は晴嵐の 名の付けの 由縁知りたし 凡人ゆえに 偐家持が返せる歌1首名の由来 思ふにきっと これなるか 近江八景 粟津の晴嵐 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が和せる歌1首体調の 落ちのカバーを 酒に依り 復を願うが そのカネも無し (英麻呂)シロガネも クガネも玉も 何せむに まされる宝 カラダに及(し)かず (酒上憶良)(本歌)銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも (山上憶良 万葉集巻5-803) 英麻呂が贈り来れる句に偐家持がつけたる脇句 あわてもの 書いて失敗 頭かく (英麻呂) こともなきなり われにもありき (偐家持) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が和せる歌1首出不精を 楯に居座る ひま爺 足腰痛に 責を負せる (英麻呂)出不精に 筆蕪蕉なる ヤカモチも 今日ばかりはと 出掛けつるかな (偐家持) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が追和せる歌1首煤はらう ハタキ雑巾 すがた消し あるはモップに 空気清浄機 (英麻呂)煤払ひ 言(こと)にのみあり 払ふべき 煤もなけれど 煤逃げわれは (煤逃家持) 英麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 囲炉裏なし 炎煙も絶えて 風情消え 炉端にあらぬ 炉端焼きあり 英麻呂が贈り来れる歌2首並びに偐家持が追和せる歌2首あこがれて こころに震るう 絵ごころも 基は未熟で もろに筆折り (英麻呂)老兵は 事の無き内 身を保身 半世紀余で 免許返上 (英麻呂)筆折るも 心のうちに 絵は描(か)かな 筆とる時の またもあるらん (偐家持)銀輪の 老兵なるわれ 返すべき 免許もなかり 懲りずまに乗る (銀輪家持) (注)初案「懲りずや乗れる」を「懲りずまに乗る」に修正した。 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が追和せる歌1首源にある 元気やる気が 身に力を 苦も楽に換え 笑みの我が顔 (英麻呂)身のほどは かねて知るなり わが輪行 国内(くぬち)にとどむ カナダは難(かた)し (老輪家持)(注)掲載の写真は英坊3氏のブログからの転載です。 偐万葉シリーズ記事一覧はコチラとコチラから。
2020.01.03
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最近恒例の地元神社三社(枚岡神社、石切神社、瓢箪山稲荷神社)めぐりであります。 いつの頃からこのような形になっているのかと、ブログを遡って調べてみると、2010年からかも知れないことが判明。もっとも、2010年のそれは、枚岡神社と石切神社のみで瓢箪山稲荷神社は割愛したようなので、三社ではなくニ社という形になっているが・・。ということで、この形はどうやら10年位前からの習慣のようです。 若い頃、子ども達がまだ小さかった頃は、紅白歌合戦が終わった頃から、暗い中を懐中電灯を携えて、生駒山に登り、山上で初日の出を拝してから下山して・・というようなことが大晦日・元旦にかけての我が家の習慣であったが、今はそのような元気もなく、家でゴロゴロの年越しとなっている。 さて、今年の三社めぐりも、先ずは枚岡神社から。(枚岡神社) 枚岡神社は河内国一之宮。天児屋根命と比売大神並びに春日大社から勧請したタケミカヅチとフツヌシを祀る神社である。藤原氏系の神社。(同上)<参考>枚岡神社由緒 神社の裏から枚岡公園へのハイキング道を行く。 途中に、姥ヶ池という小さな池がある。(姥ヶ池) 姥ヶ池の伝説については下記の記事に記載されていますので、これをご参照下さい。<参考>墓参と桜散歩 2011.4.2. 更に坂道を上り、椋ヶ根橋を渡って枚岡公園へと入る。(枚岡公園南入口) この辺りまで来ると、かなりの高みとなるので、眺望はいい。 日差しは暖かく、小春日和。 吹き来る風も心地よい。 公園を南から北へと通り抜けたところにあるのが重願寺。(重願寺) 重願寺の門前を通り過ぎて、突き当りを右折、少し坂道を上って、左折して一つ北側の坂道を、今度は下る。 閑静な住宅街を抜けて近鉄線に沿った道まで下り、これを北へと行く。 撮り鉄、と言うのだろうか、3人の男性が線路脇の道端に三脚を据えてカメラを構えて居られる。ゆるやかにカーブしている線路であるのでカメラアングルとしては恰好の位置取りなのが素人目にもわかる。 当方には、そういう趣味はないので横目に通り過ぎるだけ。 やがて、「ようこそ石切さんへ」というアーチ看板に迎えられて石切神社への参道に入る。かなりの急坂を、他の参拝客ののろのろ歩きに合わせながら下って行く。 先ず、石切大仏。(石切大仏) 地元では「日本三大仏」などと言っているが、本気でそう思っている人は余り居ないかと思う。大阪人のギャグみたいなものとして「三大仏」をとらえているというのが実際のところではないかと。 更に、坂を下る。いよいよ人で混みあって来る。 そして、ようやく本殿の正面に出る。 本殿前は、参拝客が列をなして並んでいる。南側にある絵馬殿からずっと列が続いていて、この参道がその列を東西に横切ることとなるため、整理員が何人か立ち、本殿への列の最後尾と絵馬殿からの人の最前列をこの道の両側でストップさせて、東西の人の通行を確保するとともに、この参道から直接、本殿に向かう人がないように監視している。これでは、最後列から本殿に到達するのに1時間以上はかかりそうである。 当方は、本殿を横目に境内を通り抜けるだけである。(石切神社)<参考>石切劔箭神社 石切神社の正式名称は石切劔箭神社。 物部氏の祖、ニギハヤヒとウマシマデを祀っている。 ニギハヤヒ、ウマシマデと神武天皇東征との関連神話は下記の「神話」をご参照下さい。<参考>石切神社・ご由緒・ご祭神・神話 絵馬殿の左右には2体の像があるが、多分、ニギハヤヒとウマシマデの神像ではないかと思う。 向かって、左にあるのがこの像。 ニギハヤヒではないかと思う。(饒速日<ニギハヤヒ>の像か) 向かって右にあるのがこの像。 ウマシマデかと思う。 根拠はヒゲのある方が父親のニギハヤヒ、無い方が息子のウマシマデと考えたという何とも単純な発想であります(笑)。(可美真手<ウマシマデ>か) 石切神社から東高野街道に出て、これを南へ。 瓢箪山の商店街を通り抜けて、最後の瓢箪山稲荷神社へ。(瓢箪山稲荷神社)(同上・説明碑) 以上で三社めぐりは終了です。 毎度、変り映えのせぬ年明けでありました。 これを地図上で示せば以下の通り。(三社位置図と歩きコース)
2020.01.02
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謹賀新年山里は 霞みわたれる けしきにて 空にや春の 立をしるらんいつしかと 春来にけりと 津の国の 難波の浦を 霞こめたり(西行 山家集7、8)新年がみなさまに どうぞよき年でありますように(枚岡神社の絵馬)旧年中のご厚誼感謝申し上げますとともに本年もよろしくお願い申し上げます令和2年元旦偐万葉田舎家持歌集けん家持(石切神社の絵馬)(瓢箪山稲荷神社の絵馬)偐万葉田舎家持歌集(にせまんよう いなかやかもち かしゅう)目次それぞれの項目をクリックするとその項目の記事をまとめて見ることができます。下記目次はアメブロ版偐万葉田舎家持歌集により作成しています。銀輪万葉シリーズ大阪府篇(その1)、大阪府篇(その2)奈良県篇(その1)、奈良県篇(その2)京都府・滋賀県篇(その1)、京都府・滋賀県篇(その2)兵庫県篇、和歌山県・三重県篇、北陸篇、関東篇新潟県・長野県篇、中国四国篇、九州篇、その他篇近隣散歩近隣散歩(その1)、近隣散歩(その2)智麻呂絵画展第1回展~第100回展、第101回展~第200回展、第201回展~偐万葉シリーズひろろ篇、若草篇、ビッグジョン篇、英坊篇、オガクニ篇ふぁみキャンパー篇、ふらの篇、閑人篇、LAVIEN篇、幸達篇ひろみ篇、あすかのそら篇、もも篇、その他(どち篇&雑詠篇)松風篇、木の花桜篇、るるら篇、真澄篇、nanasugu篇カコちゃん08篇、大和はまほろば篇、童子森の母篇半兵衛篇、くまんパパ篇、カマトポチ篇ビターc篇、マダムゴージャス篇、アメキヨ篇ウーテイス篇、ローリングウェスト篇和郎女作品展絵画近江鯨麻呂絵画展、その他の絵画花花(1)、花(2)、花(3)万葉短歌・俳句・詩・戯れ歌言葉遊び若草読書会岬麻呂旅便り囲碁関係囲碁関係(その1)、囲碁関係(その2)マンホール友人関係5人組ウオーク関係、健人会関係中学同期関係、夕々の会関係、ナナ万葉の会関係、その他虫鳥墓参関係その他カテゴリー自転車、能・狂言、ブログの歩み、未分類 当ブログの昨年の年間アクセス件数は553926件と過去最多の年間アクセス件数となりました。 ご訪問下さった皆さまに心よりお礼申し上げます。 今年も引き続きよろしくお願い申し上げます。<参考>過去の年間アクセス数 (括弧内は年末時点のアクセス総数) 2011年 53664件( 151563) 2012年 48490件( 200053) 2013年 39816件( 239669) 2014年 78308件( 318177) 2015年 250713件( 568890) 2016年 501049件(1069939) 2017年 383827件(1453766) 2018年 455523件(1909289) 2019年 553926件(2463215)
2020.01.01
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