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(承前) 昨日の記事の続編です。 JR相生駅に帰って来てトレンクル(折りたたみ自転車)をたたんでいると、電車が入って来て、出て行く気配。午後2時19分発の電車が出てしまったようです。ホームで待つこと25分余。午後2時47分発に乗車、姫路着3時6分。 再びトレンクルを組立て出発。実はここ姫路には22日にも来ていたのでありました。小生の手許にある全国の万葉歌碑の所在地を記載した2005年発行の冊子に今在家南第二公園に赤人歌碑があるとあったことと、津田天満神社境内に山部赤人神社なるものがあるということを知ったことから、これを訪ねるべしでやって来たのでした。しかし、今在家南第二公園にはそれらしきものがない。黒御影石貼り付け・台座とあるから、公園中央にある忠魂碑だったか、大きな碑の台座にでも貼り付けてあったのが、剥がれ落ちてしまって、そのままになっているということかも知れない。そんな次第で、山部赤人神社だけを撮影して帰宅したのだが、帰宅後、津田天満神社御旅所にも赤人歌碑があるという情報を入手。今回28日に相生を銀輪散歩するついでにと再挑戦したのでありました。 姫路駅南口から駅前の大通りを南へ、東延末交差点を右折、西へ。延末1丁目交差点を左折、南へ。山陽電鉄網干線の下を潜って、飾磨工業高校の先の交差点を右折、西へ。船場川に出る。船場川に沿って南へ。(船場川・加茂橋) 加茂橋の一つ下流の橋が国道250号の通る橋で、思案橋という名前である。これを渡って対岸(右岸)の道へ。直ぐ下流に朱塗りの橋があり、これも思案橋という名前。この朱塗りの思案橋の西詰にあるのが、津田天満神社御旅所。ここに赤人歌碑があるというのである。(船場川・思案橋)(津田天満神社御旅所) 菅原道真が太宰府へ配流される際に、この地に上陸し、暫し休息。この先を陸路にするか海路にするか思案されたので、思案橋という名が生まれたという伝説があるそうな。 (同上・道真歌碑) (同上・由来) ご覧のように道真公の銅像と「東風吹かば・・」の彼の有名な歌の歌碑が目だって、わが求める赤人歌碑が見当たらない。しかし、少し回り込むと片隅にもう一つの碑がありました。これぞ赤人歌碑かと、近付いて見ると、果たしてそうでありました。(同上)(赤人歌碑) 歌碑の歌は、昨日の記事で紹介した辛荷の島長歌の反歌の一つでした。風ふけば 波かたゝむと さもらひに 都多(つだ)のほそ江に 浦かくりをり (山部赤人 万葉集巻6-945)<風が吹くので波が立つのではないかと待機して、都多の入江に浦隠れしています。>(津田の細江) 都多(津田)の細江というのは、万葉集巻15-3605の作者不詳の歌「わたつみの海に出でたる飾磨川絶えむ日にこそ我が恋止まめ」に出て来る飾磨川の河口付近とされる。飾磨川という川は現存しない。飾磨川は船場川のこととするのが有力説であるが、野田川だという説もある。 ほのぼのと 津田の細江の 水尾つくし まだ夜は深き 月の入り汐という道真の歌がこの地にのこされているとのことだから、ここの道真歌碑は上の「こち吹かば~」などと言う月並みな歌にせず、この歌にすればよかったのにと小生も思案橋でありました(笑)。 この御旅所の前の道を西へ500mほど行くと、22日にも訪れた津田天満神社である。折角なので、もう一度写真を撮ってみた。(津田天満神社)(同上・由緒) 津田天満神社そのものには用はない。境内にある山部赤人神社と山部赤人讃歌の碑に用があるだけ。特に山部赤人讃歌の碑の写真が22日撮影のものは少し不鮮明で一部文字に判読し兼ねるものがあったので、その確認をしたかったのでもありました。(同上) 山部赤人神社は正面の拝殿の左側にあります。 何故、此処に赤人神社があるのかは存じ上げませんが、「津田の細江」の赤人の歌に因んで、津田天満神社の境内に地元の方たちによって近年になって創建されたものであるのでしょう。(山部赤人神社) 山部赤人讃歌の碑はこれです。今回は鮮明に撮影できました。(山部赤人讃歌の碑) 山部赤人讃歌 (作詞:荒木良雄 作曲:徳久 孝) 神さびて 高く貴き 富士のねを ふりさけみれば 渡る日の 影も隠ろひ 白雲も い行きはばかると 詠みあげし 歌のすがたの けだかさよ 山部赤人 ほめたたへむ 春の野に 菫摘みつつ 一夜ねし 夢美しく 和歌の浦 たづ鳴き渡り 象山の こぬれの小鳥 さやぎゐる 歌のしらべの すがしさよ 山部赤人 ほめたたへむ 唐荷島 めぐる浪間の 鵜の鳥に 吾家を思ひ 風吹けば 波か立たむと 浦隠る 津田の細江に のこしたる 歌のひびきの なつかしや 山部赤人 ほめたたへむ (津田天満神社鳥居脇の山部赤人神社碑) 津田天満神社から更に西へ1km足らずで今在家南第二公園であるが、念のためもう一度行ってみた。やはり赤人歌碑はなかった(笑)。 帰りなむ、いざ。 日も暮れかかる。 船場川に戻り、朱塗りの思案橋を渡った処で、川沿いに下流へと走り、浜手緑地をかすめて野田川に出ることとする。飾磨川が船場川ではなく野田川だという説もある以上は、野田川にもご挨拶という次第。両川の河口部は600m位しか離れていないから、津田の細江はどちらの川の河口部でもいいと言うものではある。(野田川河口付近) 地図で確認すると、野田川に沿った道を北へと行くと県道62号になる。県道62号は往路の道である。これを北に向かって延末1丁目交差点まで走れば、姫路駅はもう近いのである。(野田川畔の民家)(魚屋堀跡・志士上陸地の碑) 県道62号に入る手前でこんな石碑がありました。 幕末の生野の変で平野国臣ら勤皇の志士が此処から上陸したということのよう。 <参考>生野の変・Wikipedia(姫路城) はい、最後は、やはり姫路城です。 もっとも、これは22日撮影のものであります。 <参考>「山部赤人歌碑を訪ねて」シリーズ記事一覧ほか 山部赤人歌碑を訪ねて 2016.1.12. 山部赤人歌碑を訪ねて(続) 2016.1.19. 山部神社と赤人寺 2016.1.21. 雪の中の東近江銀輪散歩 2016.1.22. 万葉岬・山部赤人歌碑を訪ねて 2016.1.30. 富士山と山部赤人万葉歌碑 2011.5.13. 銀輪万葉・兵庫県篇
2016.01.31
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この処、山部赤人の歌碑を訪ねての銀輪散歩が続いていますが、本日の記事もその続編になります。今回は兵庫県相生市の万葉岬です。相生湾の東側に突き出た半島の先端は金ヶ崎と呼ぶのが正式な呼び方ですが、最近は「万葉岬」という名でも呼ばれているようです。因みに西側の岬は釜崎、その向こうが黒崎、そして赤穂御崎です。 この万葉岬の高みにホテル万葉岬というのがある。元は国民宿舎相生荘であったが、今は民間に経営が移ってホテル万葉岬になっている。そのホテルの先の斜面に広がる椿園の中に2基の万葉歌碑がある。そのうちの1基が赤人の歌碑である。また、ホテルの手前にも赤人の別の歌碑が1基ある。これを訪ねようと28日にトレンクルを持って出掛けて参りました。1298歳の誕生日の記事が先行して、2日遅れの記事となりましたが、これは、けん家持が未だ1297歳であった28日の、つまり1297歳最後の銀輪散歩の記事であります(笑)。(JR相生駅ホーム) 最寄り駅の近鉄枚岡駅発が午前9時ちょっと前。相生駅到着が11時24分。2時間半程度かかったことになる。 駅前でトレンクルを組み立てて出発。駅のホームには「万葉岬、南9km」という看板がありましたが、これは事前に地図で見当をつけた距離とほぼ近似していました。(JR相生駅)(相生駅の万葉歌の壁パネル)縄の浦に 塩焼く火のけ 夕されば 行き過ぎかねて 山にたなびく (日置少老 万葉集巻3-354) 駅舎の壁面には上のような万葉歌を記載した写真パネルが掲示されていましたが、こういうものは、さすがに歌碑とは言わないのでしょうな。 さて、トレンクルで走り始めての最初の仕事は昼食の店を見付けることでしたが、幸い直ぐに見つかり、先ずは腹ごしらえでありました。 昼食後、どんどん南へ。相生市役所を過ぎた辺りで国道250号に出る。其処に公園がありました。立ち寄ってみると「相生の松」と相生ペーロン祭のオブジェとご対面。 (相生の松) (相生ペーロン祭説明碑)(相生ペーロン祭のオブジェ) 公園の先は海で相生湾の最深部になっている。多分、かなりが埋め立てられたのであろう、海と言うよりも川に近い様相である。 (公園の水際の風景。左:山側、右:海側) 海に沿って国道250号を南下。対岸に大型船の姿が見える。 (相生港・相生湾) 鵜の群れも発見。 今回見に行こうとしている歌碑の歌には鵜も登場しているから丁度良いと、早速に写真に収めました。 赤人さんの歌では、和歌の浦では鶴、吉野では千鳥であるが、ここ相生の金ヶ崎、唐荷島では鵜なのである。(鵜と鴨) (牡蠣の養殖棚に鵜の群れ)(相生道路地図・野瀬公園) 野瀬公園では、相生で造られた船なんでしょうか。船の写真とその構造の詳細を記した石版を嵌めた碑が並んでいました。そして中央には大きなスクリューが展示されていました。相生ペーロン祭のオブジェもそうであるが、造船の町として発展して来た相生市ならではの展示である。(野瀬公園)(同上) (松崎清泉跡) 野瀬公園から2km余で鰯浜漁港である。野瀬公園を過ぎた辺りで自転車の小生を追い抜いて行った乗用車の後を白バイが追いかけ、停車を命じていました。どうやらスピード違反の取り締まりのようです。「ここは(制限時速)40キロですよ。」という警官の声が、そこを通り過ぎる時に耳に入りました。運転者は年配の男性、助手席にはその奥様と思しき年配の女性。まあ、ヤカモチには関わりのねえことにござんす。 (鰯浜漁港) 鰯浜に到着。漁港を右に見て道は左へとカーブ。ここから道は登りとなる。上の写真は国道から漁港へと行く道に少し入ったところで撮ったものです。 上の左の写真の正面奥に見えている山が万葉岬の高みである。写真からも山肌に貼り付いている上りの坂道が見て取れる。 坂道の上りかけの処に牡蠣の直売所がありましたが、もう本日の分は売り切れたようです。まあ、これもヤカモチには関係ありませぬ。 坂の途中に小さな神社がありましたので、立ち寄り、祠のある高みまで上ってみましたが、木立の枝が邪魔をして、鰯浜地区の写真撮影には不向き。(荒神社・鰯浜地区) 荒神社から空しく下りて来て、その付近から万葉岬の方を眺めたのが下の写真です。この道を上るのかと思うと少し気が重くなるのでありました。(万葉岬の高み) (万葉岬への入口) (万葉岬への急坂道) かなり坂を上った処で万葉岬への道の入口(写真左)がありました。入口にある喫茶店も鮮魚店も営業はしていないようでシャッターが下りたまま。写真右のような坂道。途中でギブアップして自転車を押して歩きました。最近は早めに諦めて歩くようにしています。やり過ぎると後の息苦しさが長引くからですが、これも加齢変化ですかな。(万葉岬への道から鰯浜漁港を望む。) 高みから鰯浜地区を望見。写真右の森の向こうから回り込むようにしてやって来たのでした。右端っこに見えている高い建物が牡蠣の直売所ではなかったかと思います。(万葉の岬の碑) 坂をほぼ上り切ると小さな空地があって、其処に「万葉の岬」と刻まれた石碑が立っていました。案内板には右に行くと「縄の浦赤人万葉歌碑」とあり、左に行くと「鳴島万葉歌碑」と辛荷島の赤人歌碑があると記されている。 先ず右に行く。 眼下には小舟が一艘。まさに赤人の歌碑の歌の「こぎ廻る舟は釣しすらしも」そのままの光景である。 (万葉岬から、眼下には棚無し小舟。遠くには蔓島と赤穂御崎。) 赤穂御崎と相生湾(縄の浦)を背に歌碑はありました。(万葉岬の山部赤人歌碑)縄の浦ゆ 背向に見ゆる 沖つ島 こぎ廻る舟は 釣しすらしも (山部赤人 万葉集巻3-357)(同上・副碑) 歌碑の隣には東屋があり、そこから海岸へと下って行く細道もあるようだが、それは辿らない。元の万葉の岬の碑のある空地に戻り、少し坂道を上った後は、ホテル万葉岬の前まで下り坂である。(ホテル万葉岬<旧国民宿舎相生荘>) ホテルには用がない。今日は日帰りである。ホテルの先には椿園があり、沢山の椿が植えられていて、花が咲いている木もある。その入口の碑がこれ。(つばき園入口にある万葉の岬説明碑) 椿園の一番高い位置にある歌碑の撮影が、今回の銀輪散歩の主目的。この歌碑の歌は神亀3年(726年)9月15日に、播磨国行幸に随行した山部赤人が作った歌である。 続日本紀によると、神亀3年の播磨国行幸は、9月27日造頓宮司を設置、10月7日に出発、19日に難波宮に至り、29日に帰京している。万葉集の題詞では9月15日になっているが、これは誤りで、10月20日以後28日以前の日でなければならないだろう。 もっとも、万葉ウオークの下見のように、赤人さんも下見にやって来たのであれば、話は別であるが、もしそうなら、笠金村も歌を同日に作っているから、金村さんも一緒に下見にやって来たことになるので愉快なのだが(笑)。(山部赤人万葉歌碑) 辛荷島(からにのしま)に過(よぎ)りし時に、山部赤人の作りし歌1首併せ短歌あぢさはふ 妹が目離(か)れて 敷栲(しきたへ)の 枕もまかず 桜皮(かには)巻き 作れる船に 真楫(まかぢ)貫(ぬ)き 我が漕ぎ来れば 淡路の 野島も過ぎ 印南嬬(いなみつま) 辛荷(からに)の島の 島の際(ま)ゆ 我家(わぎへ)を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり来(き)ぬ 漕ぎ廻(た)むる 浦のことごと 行き隠(かく)る 島の崎々 隈も置かず 思ひぞ我が来る 旅の日(け)長み (山部赤人 万葉集巻6-942) 反歌3首玉藻刈る 辛荷の島に 島廻(しまみ)する 鵜にしもあれや 家思はずあらむ (同943)島隠(しまがく)り 我が漕ぎ来れば 羨(とも)しかも 大和へ上る ま熊野の船 (同944)風吹けば 波か立たむと さもらひに 都太(つだ)の細江に 浦隠(うらがく)り居り (同945)<(あじさはふ)妻に別れて(しきたへの)その手枕もしないで、桜皮を巻いて造った船に左右の櫂を通して、私が漕いで来ると、淡路の野島も過ぎて、印南つまや辛荷の島の、島の間から我が家の方を見ると、青い山の何処とも知れず、白雲も千重に重なって来て、漕ぎまわる浦ごとに、行き隠れる島の岬ごとに、何処にあっても欠かすことなく、私は思い続けて来た。旅の日数が長いので。> 反歌3首<玉藻を刈る辛荷の島で、島を回って魚をとる鵜であったならよかった。そうなら家を思わずにいられるだろう。><島陰を私が漕いで来ると、羨ましいことだ、大和へと上る熊野の船は。><風が吹くので波が立つのではないかと待機して、都太の入江に浦隠れしています。>(注)あじさはふ=語義不明。目の枕詞。 かには=船を造る時に防水のために木材接合部分に巻いた樹皮。 印南嬬=加古川河口付近 辛荷の島=兵庫県たつの市御津町の播磨灘沖合にある3島。 さもらふ=じっと待機すること。 都太=姫路市飾磨区今在家付近。船場川、野田川などの河口付近。 (藻振鼻<左端>と唐荷島) (唐荷島と背後の小豆島) 歌碑の前から辛荷島(唐荷島)が一望である。左手にはたつの市御津町室津の岬・藻振鼻が見え、右奥には小豆島がぼんやりと見えている。この日は少し霞がかかったような風景にて「うち霧らし」とか「春日の霧れる」などという万葉風の言葉が似合いの眺めでありました。(左:地ノ唐荷島 中央:中ノ唐荷島 右:沖ノ唐荷島)(鳴島万葉歌碑) 赤人歌碑から少し下った処にもう一つの万葉歌碑がある。 (同上)室の浦の 瀬戸の崎なる 鳴島の 磯越す波に 濡れにけるかも (万葉集巻12-3164)<室の浦の瀬戸の崎にある鳴島の、磯を越す波に濡れてしまったことだ。> この碑の先の海、眼下に君島という小さな島があり、それがこの歌に言う「鳴島」だそうだが、写真は撮り忘れていたようでカメラにはありませんでした。 本日はここまで。来た道を相生駅まで引き返し、JRで姫路駅まで行き、再びトレンクルを組み立てて、山部赤人歌碑を訪ねる銀輪散歩は続くのでありますが、それは明日の記事とします。
2016.01.30
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養老2年(718年)1月29日の生まれ。本日は、小生の誕生日。1298歳と相成りました。 偐家持。大伴氏とは縁もゆかりもこれなくあるが、大伴氏の祖先として思い浮かぶ名はこの二人。アメノオシヒ(天忍日)とミチノオミ(道臣)のご両人である。〇天忍日・・天上からの天孫降臨に際して先導役を務める。「天津日子番能迩々藝命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔(の)らして、天之石位(あまのいはくら)離(はな)ち、天之八重多那雲(あめのやへたなくも)を押し分けて、伊都能知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天ノ浮橋に、宇岐士摩理(うきじまり)、蘇理多々斯弖(そりたたして)、竺紫(つくし)ノ日向(ひむか)之高千穂之久士布流多気(くしふるたけ)に天降(あも)り坐(ま)さしメたまひき。故(かれ)しかして、天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)ノ二人、天之石靭(いはゆき)を取り負ひ、頭椎之大刀(くぶつちのたち)を取り佩き、天之波士弓(あめのはじゆみ)を取り持ち、天之真鹿児矢(あめのまかこや)を手挟み、御前(みさき)に立ちて仕へ奉りき。」 (古事記上巻)〇道臣命・・神武東征の際に先導者となる。「是の時に、大伴氏の遠祖(とほつおや)日臣命、大来目(おほくめ)を帥(ひき)ゐて、元戎(おほつはもの)に督将(いくさのきみ)として、山を蹈(ふ)み啓(みちをわ)け行きて、乃(すなは)ち烏の向(むか)ひの尋(まま)に、仰(あふ)ぎ視(み)て追ふ。遂に菟田下県(うだのしもつこほり)に達(とほりいた)る。因りて其の至りましし処を号(なづ)けて、菟田の穿邑(うかちのむら)と曰(い)ふ。時に、勅(みことのり)して日臣命を誉めて曰(のたま)はく、『汝(いまし)忠(いさをしさ)あり且(また)勇(いさみ)あり。加(また)能(よ)く導(みちびき)の功(いさをしさ)有り。是(ここ)を以て汝が名を改めて道臣(みちのおみ)とす』とのたまふ。」(日本書紀巻三 神武紀 戊午年六月の条) 天忍日に始まり、道臣を経て、道臣の六世の孫の武日の息子の武持の時に大伴の姓を賜っているから大伴氏は武持に始まるのである。家持は、武持から数えて9代目となる。 武持ー室屋ー談(かたり)ー金村ー咋子(くひこ)ー長徳(ながとこ)ー安麻呂ー旅人ー家持ー永主 上の記事から、天孫降臨では同格であった大伴氏の祖「天忍日」と久米氏の祖「天津久米」であるが、神武東征では久米氏は大伴氏の配下になっているのが分かって興味深い。 久米小楯が山部の姓を賜り、久米氏から山部氏が派生したこと、その子孫が山部赤人であることなどは、この処の山部赤人歌碑を訪ねての銀輪散歩に関連して知ったことであるが、同様に、大伴金村の弟の大伴歌(うた)は佐伯の姓を賜り、軍事氏族の佐伯氏が大伴氏から派生している。その大伴改め佐伯歌の子孫・佐伯真魚(まお)が空海である。 参考までに大伴家持関連の年表を下記して置きます。718年(養老2) 大伴家持誕生(1歳)父旅人54歳719年(養老3) 首皇子朝政に参画(家持2歳)720年(養老4) 日本書紀成る。藤原不比等死去(家持3歳)724年(神亀元) 首皇子即位(聖武天皇)(家持7歳)727年(神亀4) 10月旅人大宰府長官拝命・赴任(家持10歳)728年(神亀5) 旅人の妻・大伴郎女死去(家持11歳)729年(天平元) 長屋王事件(家持12歳) 旅人、藤原房前に手紙、歌と琴を贈る。 (巻5-810~2)730年(天平2) 1月梅花の宴(巻5-815~846)(家持13歳) 6月旅人重病 10月旅人大納言に昇進・帰京731年(天平3) 旅人死去・享年67歳(家持14歳)732年(天平4) 家持(15歳)処女作の歌(巻8ー1441)733年(天平5) 家持(16歳)初月の歌(巻6-994) 家持はこの頃より仕官したと見られる。 坂上大嬢との歌の贈答始まる。 山上憶良死去734年(天平6) 笠女郎ほかの女性との歌の贈答始まる。737年(天平9) 天然痘大流行。藤原4兄弟相次ぎ死去。(家持20歳) 橘諸兄右大臣に就任738年(天平10) 家持(21歳)内舎人任官 家持、内舎人として橘奈良麻呂邸での宴で歌を詠む。 (巻8ー1591)739年(天平11) 家持(22歳)亡妾悲傷の歌(巻3-462、464~74)740年(天平12) 9月藤原広嗣の乱、10月広嗣捕縛、斬首。 12月恭仁京造営開始・遷都743年(天平15) 家持(26歳)恭仁京讃歌(巻6-1037) 橘諸兄左大臣就任。大仏造立の詔。744年(天平16) 安積皇子死去。難波京遷都745年(天平17) 平城京遷都。746年(天平18) 家持(29歳)3月宮内少輔就任。 6月越中守転任。9月弟・書持死去。748年(天平20) 家持(31歳)2月越中諸郡を巡行(巻17-4021~9) 3月田辺福麻呂が来越し宴席(巻18ー4032~55)749年(天平勝宝元) 2月陸奥国より黄金貢上 7月孝謙天皇即位 藤原仲麻呂大納言就任。751年(天平勝宝3) 家持(34歳)7月少納言就任 8月帰京の旅に立つ。 11月懐風藻成る。752年(天平勝宝4) 4月大仏開眼会(家持35歳)753年(天平勝宝5) 2月春愁絶唱3首(巻19-4920~2)754年(天平勝宝6) 家持(37歳)4月兵部少輔就任 11月山陰道巡察使就任755年(天平勝宝7) 家持(38歳)2月防人閲兵のため難波に赴く。756年(天平勝宝8) 2月橘諸兄辞職 5月聖武上皇崩御。遺詔により道祖王立太子。757年(天平宝字元) 1月橘諸兄死去。 4月道祖王廃太子、大炊王立太子。 6月家持(40歳)兵部大輔に昇任。 7月橘奈良麻呂の変。大伴古麻呂、大伴池主獄死。758年(天平宝字2) 6月家持(41歳)因幡守に転任。 8月大炊王即位(淳仁天皇)759年(天平宝字3) 1月家持(42歳)因幡国庁で新年の歌を詠む。 (巻20-4516)762年(天平宝字6) 1月家持(45歳)信部(中務)大輔就任。763年(天平宝字7) 藤原良継の乱。家持(46歳)も連座したとして解 任、京外追放に処せられるが、間もなく放免となる。764年(天平宝字8) 1月家持(47歳)薩摩守に転任。 9月藤原仲麻呂の乱。 10月淳仁廃帝、称徳天皇重祚。767年(神護景雲元) 8月家持(50歳)大宰少弐就任。770年(宝亀元) 6月家持(53歳)民部少輔就任。 8月称徳天皇崩御 9月家持、左中辨兼中務大輔就任。 10月白壁王即位(光仁天皇)772年(宝亀3) 2月家持(55歳)左中辨兼式部員外大輔就任。774年(宝亀5) 3月家持(57歳)相模守に転任。 9月左京大夫兼上総守転任。775年(宝亀6) 11月家持(58歳)衛門督に転任。776年(宝亀7) 3月家持(59歳)伊勢守に転任。780年(宝亀11)2月家持(63歳)参議に昇任、議政官の一員となる。 右大辨兼任。781年(天応元)4月山部王即位(桓武天皇)、早良親王立太子。 家持(64歳)右京大夫兼春宮大夫就任。 12月光仁上皇崩御。 家持、山作司(山陵を造る役所)に就任。782年(延暦元) 閏1月家持(65歳)氷上川継の乱に連座して解任、 京外追放。 5月家持、参議従三位兼春宮大夫に復任。 6月家持、春宮大夫兼陸奥按察使鎮守将軍に転任、多賀 城に向かう。783年(延暦2) 7月家持(66歳)陸奥駐在のまま中納言に就任(春宮大 夫兼任)。784年(延暦3) 1月家持(67歳)持節征東将軍兼任。 11月長岡京遷都785年(延暦4) 8月家持(68歳)死去。 9月藤原種継暗殺事件。家持が関与したとして生前の官 位官籍剥奪、息子・永主ら一族が隠岐へ配流となる。 早良親王、廃太子となり、淡路へ流される途上で死去。794年(延暦13) 10月平安京遷都800年(延暦19) 7月早良親王に崇道天皇号を贈り、井上内親王の皇后 位を復し、その墓を山陵とする。806年(延暦25) 3月桓武天皇崩御。病床にて、天皇から種継暗殺事件 関係者を本位に復する旨の詔が発され、家持も従三位に 復する。 万葉とも大伴家持とも直接の関係はありませんが、写真が無い記事というのも寂しいので、先日、銀輪散歩で姫路に出掛けた折に撮った姫路城の写真を掲載して置きます。 その心は、1298歳ともなれば姫路城と同様に修復工事が必要であるという点で、些かの関連が無いこともない、というものでありますが、もう手遅れという声もあるようにて、姫路城のような甦りは期待できそうにもない妖怪、静かに溶解して行くの他ありませぬかな。(姫路城)
2016.01.29
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本日は健人会の新年会。 年4回のゴルフと1月の新年会と8月又は9月の納涼懇親会の年6回の会合を催す有志の集まりであるが、ゴルフをしなくなった小生は新年会(大阪で開催)と納涼懇親会(滋賀県大津市で開催)だけ参加している。 本日の新年会は、淀屋橋の「小ぼけ(京阪淀屋橋店)」という店で、午後6時半集合・開催。(土佐堀通り) 午後5時半頃に地下鉄御堂筋線淀屋橋駅に到着。早過ぎるので、周辺を徘徊して何か写真でも撮ろうと地上に出て歩き出したのだが、「小ぼけ」のある京阪淀屋橋ビルの近くに行くと、既に只麻呂氏、鯨麻呂氏、草麻呂氏の三氏がビルの前の道路脇で立ち話をして居られるのが、道の反対側から目に入る。徘徊は中止し、そちらに向かう。同氏らと暫く立ち話をした後、6時頃に店に入る。 本日の出席者は、上記3氏と小生、木〇、杉〇、田〇、近〇、由〇、岡〇、森〇、徳〇、正〇、関〇、竹〇、〇庭、生〇の17名。18名だったような気もするがあと1人の名が思い浮かばないから17名であったのだろう(笑)。 世話役の草麻呂氏が口火を切って開会。常連の平〇氏が検査入院で欠席など欠席者の報告が草麻呂氏からあった後、最年長者の木〇氏より開会の挨拶、乾杯。後は、適当に食って、飲んで、喋って、また飲んで、食って、喋ってといつもの通りの宴会でした。(小ぼけ京阪淀屋橋店)(宴会風景) 顔が鮮明に写っていては問題もあるかとぼかしを入れて編集したのが上の写真ですが、まあ、こんんな感じの宴会でした。 会が始まる前に杉〇氏より、最近出されたという句集を頂戴いたしました(下掲写真)。 同氏は、小生の現役時代、一時期直属の上司と言うか担当役員でもありましたので、現役の頃から俳句をやって居られたことは夙に存じ上げていましたが、俳句の先生が最近お亡くなりになったとかで、それを契機に今日までの自作俳句を整理されて、句集として出版されたとのこと。 上記句集から1句、この時期に似合いのものを選んで下にご紹介して置きます。紅梅のほころび初めし色となる 宝春
2016.01.27
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今日は入院しています。と言っても病気入院ではありません。検査入院という奴です。 何の検査かと言うと「心臓カテーテル検査」。手首の血管(動脈)から細い管(カテーテル)を差し込み、心臓の近くまでこれを送り込み造影剤を心臓に注入、心臓の筋肉に張り巡らされている冠動脈の映像を撮り、血管が細くなっているなど、動脈硬化がないかを調べる検査である。 最近、坂道を上ったり、階段を上ったりをすると息切れが生じ、息苦しくなることが多くなり、時に胸に痛みも生じたりしたので、COPD(慢性閉塞性肺疾患)即ち肺気腫・慢性気管支炎ではないかと、念のためにと病院の総合受付で相談したら、心臓内科か呼吸器内科だが、先ずは心臓内科に行きなさいということであったので、心臓内科を受診しました。心電図をとるなど診察の結果、狭心症(労作性狭心症)かも知れないが、これは検査してみないことには分からない、とのことで、心臓カテーテル検査となった次第。(病室)(同上・入口ドア側から)(病室窓からの眺め) この病室から眺める景色は見たことがある、と思われた方は、古くからの読者にて記憶力のよいお方。そうです。一昨年、2014年の2月に白内障の手術で入院した病院と同じ病院なのです。一昨年の入院は6階の病室でしたが、今回は3階の病室。その分、左右の視界の広がりには欠けるが、正面の生駒山の山容は同じである。 <参考>生駒山見つつもをらむ病棟に 2014.2.8. さて、このカテーテル検査。血管に造影剤を注入されると、痒いような、その部分が熱くなるような妙な感じになる。やがて、造影剤が心臓の冠動脈に達すると心臓が重たくなるというか、何やら重苦しい違和感がちょっとの間生じる。初めての感覚なので、何やら不安な気分にもなる。 検査前、手術台に寝かされ、身体が固定された状態になったところで、医者から「緊張してますか?」と問いかけられたが、「いいえ、緊張はしていません。」と答えたものの、きっと無意識のうちに緊張をしていたのでしょう。或は、検査中の違和感などの所為もあってか、検査を終了して、病室に帰って来て測った血圧は150を超えていました。検査に行く前の血圧は120であったのに。 で、検査の結果ですが、心臓の血管は何処にも異常はなく、健康な状態とのこと。狭心症ではありませんでした。勿論、心臓に毛などは生えていませんでしたよ。 心臓でないとすれば、肺の方かも。COPDで呼吸器の機能が低下して来ているのかも、です。これにつき、あらためて呼吸器科を受診するかどうかは、小生次第。まあ、少し様子を見て、その方の検査もそのうちにして貰いますかね。 それはそれとして、心臓の方は問題ないので、明日、朝食後の退院となりました。先ずはめでたし、めでたしでしょうか(笑)。(26日の日の出) 小万知さんのコメントで生駒山の日の出は如何にと撮影しましたが、笑っているのかどうか、眩しくて何ともわかりかねます。この季節は、生駒山よりもかなり南側から日が昇るのですね。(26日追記)
2016.01.25
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昨日(23日)、友人の岬麻呂氏から旅便りが届きました。八重山諸島(宮古・伊良部・下地・池間・来島・多良間)6島めぐり。今年の同氏の初旅は、琉球料理と泡盛を楽しむ、18日~21日の一人旅であったようです。 小生が、山部赤人をテーマに、奈良や京都や滋賀やらの近場をうろちょろ銀輪散歩している頃に、同氏は沖縄の海辺を優雅に一人旅なさっていたということでありました(笑)。 それを知ってか知らずか、同氏からのメールには、「貴兄も、よい季節(5~6月頃)に機会があれば、伊良部大橋、池間大橋、来間大橋をサイクリングされることをお勧めいたします、海の色が綺麗です。」とありました。 まあ、機会は自ら作り出さない限り、やって来そうもない八重山諸島ですが、同氏からかような勧告を受けては、「山部赤人」は放り出し「海部赤人」にでもなって出掛けるほかありませぬかな(笑)。沖縄は「万葉」とは無縁にて小生の旅の射程外になっていますが、「銀輪」という範疇では射程内ということになりますから、それもよしではあります。 では同氏からメールで送られて来た写真で、旅のお裾分けであります。(伊良部大橋 伊良部島から宮古島を望む。) 伊良部大橋は、橋梁部分だけで全長3540mあるとのこと。 たしかに、岬麻呂さんがお薦めになるように、銀輪でこれを走ったらさぞ爽快なことでしょう。(同上・橋の最高地点からの撮影)(伊良部島・渡口の浜)(宮古島・保良漁港)(多良間マガリ浜) 岬麻呂氏の説明によると、多良間島は、宮古島の西方約67kmの島。円形の隆起サンゴ礁の島で周囲20km、サトウキビ畑と牛の牧場のみの島、フェリーで宮古島から片道2時間、琉球エアーコミューター(RAC・39人乗り)だと20分、とのこと。(旅・岬めぐり報告182)※画像をクリックすると大きいサイズでご覧になれます。<参考>過去の岬麻呂旅便りの記事はコチラから。
2016.01.24
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本日は、銀輪散歩で見掛けた各地のマンホールのご紹介です。シリーズ第7弾となります。1.栃木県佐野市 (田沼地区) 左のカラー版は市の鳥・オシドリと市の木・松が中央に配されている。 右の旧田沼町のそれは三滝と紅葉がデザインされている。(防火水槽)2.奈良県生駒市 (汚水用) (雨水用) 生駒市のそれは、学研都市としての市の未来像をイメージした近未来都市を図案化したデザインになっている。3.奈良県宇陀市 (旧榛原町・カラー版) (同左・モノクロ版) 旧榛原町の町の鳥はウグイス。町の花はヤマツツジ。前景にこれらを配し、後景には大和富士とも呼ばれる額井岳を配しているのだと思う。下は、町の花・ヤマツツジだけを図案化したもの。(旧榛原町・ヤマツツジ版)4.奈良県広陵町 広陵町の町の花はヒマワリ。左はヒマワリを図案化したものと思われる。 広陵町三吉(みつよし)には讃岐神社がある。三吉はかつては散吉と表記し「さぬき」と読んでいた。竹取物語の翁の名が讃岐造(さぬきのみやつこ)であるところから、これは大和国広瀬郡散吉郷のことであるとし、讃岐神社は竹取物語ゆかりの神社としている。そんなことから広陵町は「かぐや姫のまち」をキャッチフレーズにしている。5.奈良県田原本町 (親子型タイプの蓋) 田原本町のそれは、唐古・鍵遺跡の桜閣と町の花・水仙を図案化したもの。6.奈良県川西町7.大和郡山市 (モノクロ版) (カラー版) 大和郡山は金魚の養殖が地場産業。金魚鉢に入った金魚が図案化されている。8.奈良市 奈良市のマンホールの図案は鹿と桜のそれですが、古いタイプのものでは、このようなものもありました。(その3)で紹介済みの古いタイプとの違いは中央に八重桜に「奈」の市章が配されているところですから、ミニモデルチェンジ版と言ったところでしょうか。<参考>奈良市のマンホール掲載記事は(その3)(その5)9.近江八幡市 (小型タイプ) 八幡堀を図案化しているタイプ。小型タイプには舟と橋の欄干が配され、背景には八幡山も描かれています。10.東近江市 (旧八日市市) (旧蒲生町) (旧八日市市) (旧八日市市)11.京都府城陽市 市章を囲んで配されているのは市の花・ハナショウブと市の木・ウメ。12.姫路市 (縁のあるタイプ<左>と普通のタイプ<右>)(図案カラータイプ) 市の花・鷺草を図案化している。ブルーの下地に白いサギソウが映えて印象の強い美しいデザインです。<参考>過去のマンホール関連記事はコチラから。
2016.01.23
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(承前) 山部神社・赤人寺を訪ねた銀輪散歩の続編です。 朝日野駅を自転車(トレンクル)で出発して、最初に立ち寄ったのは高木神社でありました。走り始めると雨が降り出し、雨具を羽織ることとしましたが、高木神社に着く頃には止んで青空となり、事なきを得ました。(高木神社)(同上) 境内はご覧のような雪にて、遠くからシャッターを押すだけで早々においとまです。 下の説明にある通り、この地域・麻生の総社で祭神はタカミムスビ。(同上・説明板) 神社の前の道を南西に少し行くと北西方向にカーブして集落へと入って行く。 集落に入って最初に出会うのは旭野神社とこれに隣接する法雲寺。(旭野神社) (同上・石造七重塔) (法雲寺・観音堂) 旭野神社から更に集落の中の道を300mほど行くと、昨日の日記で紹介した山部神社と赤人寺である。 今回の銀輪散歩は、この山部神社・赤人寺の撮影が目的であったので、後は雪の積もる中、近江八幡駅まで走れるだけ走ろうというもの。雪道で難渋するようなら、銀輪は切り上げて電車に乗るべしで、コースは近江鉄道に沿った道を走る計画で出掛けて参りました。ただ、事前に地図を見て、梵釈寺と市辺押磐皇子墓にだけは立ち寄ってみたいと思っていました。 ということで、梵釈寺に向かうべく来た道を引き返す。高木神社まで戻り、来た道を横断し東へと向かう。梵釈寺は近江鉄道の線路を渡った先にある。 (朝日野雪景) 線路へと向かう途中の景色です。 左の写真は北西方向、線路の西側を走る道路です。右は同じ場所から北方向を撮ったもの。遠くに見えている山は太郎坊山かも。 下の写真は踏切から北西方向を撮ったもの。奥に見えているのは三上山かとも思いましたが、何やら方向が少し違うような気もするので、別の山かも知れません。(同上・近江鉄道線路) 線路を渡り、突き当たった道を左に行くと梵釈寺である。周囲は田畑だけなので遠くが見通せ、線路から梵釈寺が見えている。これはいかなヤカモチも迷いようがない。(梵釈寺) 梵釈寺は桓武天皇が天智天皇の菩提を弔うために建てた寺で、湖西の滋賀里の奥、崇福寺跡とほぼ同じ辺りにあったとされる寺。 昨年の5月にナナ万葉の会の皆さんをご案内して崇福寺跡を訪ねた際に、崇福寺との関連で梵釈寺のことを知り、同名の寺が東近江市にもあることを偶々知ったのでしたが、桓武天皇創建の梵釈寺と関係があるのかどうかは調べぬままに今日に至っていたので、気になっていた寺であったのでした。 <参考>第13回ナナ万葉の会・志賀の山寺へ 2015.5.27.(同上) で、下の説明板によると、桓武天皇創建の梵釈寺が、変遷を経て天和年間(1681年~1683年)にこの地に再建されたものとのこと。まあ、余りにも間隔が開き過ぎていますし、変遷の内容も複雑なようですから、桓武天皇の梵釈寺とは直接の関係は無さそうですが、寺サイドとしては、その梵釈寺の流れを汲む寺ということで、その後継を自認しているということであるのでしょう。(梵釈寺及び周辺の遺跡などの説明板)(野之神) 野之神と山之神は梵釈寺の北側にありましたが、神のいつく木として人々が崇め祀って来たというもので、原始的な信仰形態を残すもの、神社の原初形態、今風にはパワースポットであります。 山之神は「この先200m」とありましたが、雪の積もった山道、登って行く気は更にもなく、近江鉄道の線路を目印に北へと走る。 梵釈寺の前の道は近江鉄道の線路と並行してその東側を北へと向かっている。しかし、朝日大塚駅を過ぎた辺りで右にカーブし線路から離れて行く気配なので、適当なところで左折し線路を渡って西側の道を走ろうとしたのは良かったが、住宅街の中の細い道に入ってしまい、積もった雪で自転車は押して行くしかない個所にも遭遇しました。 しかし、何とか桜川駅前に到着。此処からは線路に沿う道があるので安心。後で地図を見ると、途中で左折せず、そのまま東側の道を行き、桜川東交差点で左折すれば、桜川駅前に出ることが可能で、その方が距離的にも少し短いのでした。 京セラ前駅を過ぎ、大学前駅まで来たところで鳥居と歌碑が目に入ったので近寄ってみました。(布施神社) (同上・本殿) (布施の地関連の歌碑)おりからの もみちもふかく 流れける むかふゆう栄 玉のをやまに 歌碑裏面の説明(写真右)によると、この歌は、先賀という人の作で、近江蒲生郡志巻8に布施八景の1首として収録されている歌とのこと。 布施神社の近くで撮った写真が以下の2枚です。 北方向には、見覚えのある太郎坊山と船岡山が見えている。(蒲生野雪景・西方向)(同上・北方向) 長谷野駅前で左折し近江鉄道本線から離れて八日市線の市辺駅前へとつながるショートカットの道を行く。この道沿いにある市辺押磐皇子墓に立ち寄るためである。 太郎坊山が間近くに見える。太郎坊宮が見えているが、まだ此処には行ったことがない。今日も遠望するだけ。(太郎坊山) 市辺押磐皇子墓に到着。 市辺押磐皇子は第17代履中天皇の第1皇子。母は黒媛。 仁徳天皇没後、その息子の履中・反正(第18代)・允恭(第19代)の兄弟が皇位を継承し、允恭没後は、その息子の穴穂皇子が皇位を継承し、第20代安康天皇となる。 456年安康天皇が眉輪王によって暗殺される。安康天皇は従兄弟の市辺押磐皇子を後継者にと考えていたが、それをよしと思っていなかった安康の同母弟・大泊瀬皇子は蒲生野に市辺押磐皇子を狩に誘い出してこれを殺し、第21代天皇に即位する(雄略天皇)。 この時狩に随行していた舎人の佐伯部仲子(さへきべのなかちこ)も殺されてしまい、二人は同じ穴に埋められ放置される。(市辺押磐皇子の墓) 雄略の後を継いだ第22代清寧天皇は生まれながらの白髪で白髪皇子と呼ばれた天皇で、子供が無かったので、後継にと、播磨国に逃れ潜んでいた、市辺押磐皇子の息子の億計王(兄)・弘計王(弟)を探し出して宮中にこれを迎え、弟の弘計を皇太子に、兄の億計を皇子とする。 清寧没後、弘計は第23代顕宗天皇、億計は第24代仁賢天皇となる。 顕宗天皇は即位後、父の遺骸の所在を知り、陵墓を築かせる。市辺押磐皇子と佐伯部仲子の遺骨が区別できなかったことから、相似た円墳を二つ築かせたという。 播磨国風土記では市辺押磐皇子は「市辺天皇命」と表記されているそうだが、息子の白壁王が天皇に即位して、父親の志貴皇子に春日宮天皇という名が贈られたのと同じ発想で、息子たちが天皇になったことから、市辺天皇と呼ばれるようになったのでしょう。 ところで、清寧天皇の命によって播磨に使わされ、億計・弘計兄弟を発見したのは久米小楯(伊予来目部小楯)という久米氏の人物。小楯はこの功績により、山部連の姓を賜った。つまり、山部赤人のご先祖がここに登場しているのであるから、今回の赤人関連の銀輪散歩とも大いに関係する墓なのでもある。(同上・東側古墳)(同上・説明板) 市辺駅前には磐坂市辺押磐皇子御墓参道と刻された石標が建てられていました。 その参道からは船岡山が目前に見える。 この船岡山一帯は万葉公園になっていて、額田王と大海人皇子との間のあの有名な蒲生野の相聞歌、「茜さす~」と「紫の~」の歌碑がある。何度か訪ねているが今日はパス。(船岡山) 後はひたすら近江八幡駅へと走るだけ。(柏木地区・蛭子神社) 近江八幡駅へは午後2時過ぎの到着。実は、昼食の用意をしていなかったので、途中で買ったパンを1個、赤人寺で食べただけ。駅前の中華の店でラーメンの遅い昼食となりました。午後3時9分発の新快速で帰途につきました。
2016.01.22
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(承前) 本日は、山部赤人歌碑を訪ねての第3弾、滋賀県東近江市の山部神社・赤人寺を訪ねての銀輪散歩でありました。 東近江市下麻生町にある山部神社・赤人寺へ行くこととしました。現地のスポット天気予報では曇り。降雪はなさそう。雪がどの程度積もって、消え残っているかが多少気がかりではあったが、幹線道路など舗装された車の往来する道は雪も消えて自転車での走行も可能だろうと読んで、トレンクル持参で出掛けました。 JRで近江八幡駅まで出る。此処からバスで行く方法(麻生口下車)と近江電鉄(八日市経由朝日野下車)で行く方法とがあるが、近江八幡駅南口のバス乗り場に行くとバスは出たばかり、バスの運行は1時間に1本。次のバスの発車時刻まで1時間近くある。近江電鉄の乗り場に行くと発車間際。飛び乗る。(八日市駅を出て行く近江八幡行き電車。) 八日市駅まで19分で到着。ここで本線に乗り換えて朝日野に向かう。待ち時間29分。 近江電鉄本線は米原駅・彦根駅から貴生川駅を結んでいる。八日市駅で西に分岐する八日市線は八日市駅と近江八幡駅を結んでいる。(八日市駅、彦根、米原駅方面) 貴生川行きの電車が入って来ました。かなりの人がこの駅で降りましたが、中に一人のご婦人がママチャリをそのままの状態で乗って居られて、それを手押ししながら下車されてホームを改札の方へと行かれました。 どうやら、この線は自転車をそのまま持ち込めるようです。 (近江鉄道の車内。桜川駅朝日大塚駅間) 電車は2両編成のワンマンカー。八日市駅を出た時には10人余の乗客が居たかと思いますが、いつの間にやら乗客は小生一人になっていました。 朝日大塚駅に着く少し前にそれに気付き、上の写真を撮ったのですが、撮り終わって網棚を見ると何やらビニール袋に入った大きな忘れ物。運転手さんにそのことをお知らせして、朝日野駅で下車。一面の雪景色である。 それでも舗装道路は雪がとけて走れる状態。トレンクルを組み立てて、いざ出発である。高木神社、旭野神社・法雲寺などを経由して約30分で目的の山部神社・赤人寺に到着。 それは雪の消え残る、静かな集落の中にこじんまりとありました。(山部神社 鳥居左側が折りたたみ自転車のトレンクルです。)(同上)(山部神社縁起と山部赤人伝説) 山部神社と赤人寺は隣接してある。山部赤人は若い頃に観音様から「汝は我が生まれ変わり也」との夢のお告げを受けて、田子の浦から一寸八分の如意輪観音を念持仏として迎え、歌道に霊験を得た。壮年におよんで蒲生野を訪れた折に、桜の木に掛けた冠がはずれなくなってこの地で一夜を過ごすということがあった。その夜の夢に「この地こそ仏法興隆の勝地なり。(如意輪観音を)この地に安置すべし。」とのお告げを受けた。そこで、赤人はこの地に寺を創建する。元正天皇より「養老山」の勅額を賜り、「赤人寺」と名づけられ、赤人は観音様を護持してこの地で生涯を閉じたと言い伝えられているとのこと。この地の神社は、松の木を神木とする産土神を祀る神社で「小松宮」と呼ばれていたようだが、江戸時代には「小松大明神」と称され、明治元年に「赤人廟碑」が建立された。その碑文には、赤人寺は山部赤人の創建であり、小松社は赤人の廟にあたり、近くには赤人の墓や赤人桜があった等が記されている。 明治9年に山部赤人を祭神とする山部神社に改称されて今日に至る、という。(山部赤人歌碑) 昭和42年建立とのことだが、随分古びた様にて、文字の判読も容易ではないが、境内の説明板では歌碑の歌は万葉集のそれとあり、境内に備置されたリーフレットでは新古今集、百人一首のそれとある。どちらなのか、碑の写真を見てもよくはわからない。当然に万葉集のそれと思い込んでいたので、現地でよく見ていなかったので迂闊ヤカモチの本領発揮でありました(笑)。田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける (山部赤人 万葉集巻3-318)田児の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ (山辺赤人 新古今集675 小倉百人一首4)(赤人廟碑)(赤人歌碑) 赤人廟碑の前にある歌碑は明治12年(1879年)建立であるが、こちらも殆ど判読不能である。前記リーフレットには、以下のようにある。 山部宿禰赤人 春野に 寿すみれ摘 みにとこし我そ野を なつかしみ一夜寝 仁計る 正八位渡忠秋謹書春の野に すみれ摘みにと 来しわれそ 野をなつかしみ 一夜寝にける (山部赤人 万葉集巻8ー1424)(赤人寺)(赤人寺縁起) 隣接の赤人寺。手前に小さな地蔵堂。地蔵堂の扉には紙で作った花が沢山取り付けられていました。本堂の中には勿論入れませんが、ガラス戸越しに内部を撮影してみました。鎮座ましますのは赤人が念持仏とした如意輪観音像でしょうか。(同上・堂内の様子) 本堂の裏に回ると、赤人の供養塔とされる石造七重塔があり、その傍らに墓石とも供養塔とも思しき石塔がある。(同上・お堂裏の石造七重塔、通称:赤人塔) (同上・説明板)(同上・お堂裏の供養塔)朝日野ゆ わが恋ひ来れば 真白にぞ 赤人墓は 雪に埋もれつ (偐家持)
2016.01.21
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(承前) 本日は奈良市と城陽市の山部赤人歌碑を訪ねての銀輪散歩です。 1月12日の日記の続編になります。 先ず最初は、奈良県護国神社の北側の老人ホーム和楽園の門の前にある赤人歌碑を訪ねる。(山部赤人歌碑)春の野に すみれ摘みにと 来しわれそ 野を懐かしみ 一夜(ひとよ)寝にける (山部赤人 万葉集巻8-1424)<春の野にスミレを摘みにやって来た私だが、野に心惹かれて、一夜泊ってしまったよ。> この歌は女性を菫に喩えて詠んでいるとのことだが、まあ、素直に菫の花を摘もうとやって来て春の野に野宿してしまった風流人・赤人さんということにして置きましょう。小雪舞ふ 冬野にあれば 赤人の 真似もかなはじ ヤカモチわれは (偐家持) (正道官衙遺跡) 事前の調査では、城陽市寺田正道にある史蹟正道官衙遺跡公園にも赤人の歌碑があるとのことなので、次にそれを訪ねることとしました。 正道官衙遺跡はJR奈良線城陽駅の北東800m位の処にある。 奈良時代に設置された、久世郡の郡衙(郡役所)跡と見られる。 詳しいことは上の写真をクリックして拡大サイズの写真で説明をお読みいただくこととし、下手な訳知り顔の説明はしないで置きます(笑)。(同上) (同上・南門跡)(同上・南門跡から北側の庁屋跡を望む) (同上・向屋跡) (同上・東屋跡)(同上・庁屋跡) 庁屋の背後(北側)にあるのが副屋。藤棚になっている。 (同上・副屋跡) 副屋の裏(北側)にあるのが正倉。 (同上・正倉跡) 副屋が藤棚になっているということで、赤人の歌碑は此処にありました。 この地と関係しての歌ということではありませんでした。 この公園には植栽に関連してこのような万葉歌碑が沢山設置されていました。石に彫られた本格的なスタイルの歌碑ではありません。 この手の歌碑ならわざわざ訪ねて来ることもなかったのですが・・。 多くの歌碑のある中に家持さんの山橘の歌碑もありましたので、これだけは撮影しました。昨日の日記で取り上げたばかりの歌でもありましたので(笑)。 (山部赤人歌碑) (大伴家持歌碑)恋しければ 形見にせむと わが屋戸に 植ゑし藤波 いま咲きにけり (山部赤人 万葉集巻8-1471)<恋しいので形見にしようと、わが家に植えた藤が、今咲いたなあ。>(城陽市ゆかりの万葉歌の碑) 正道官衙遺跡公園の入口に、この地に関連する万葉歌を列挙した碑がありました。 古代の山城(山背)の道が通るこの地。人麻呂も赤人も、そして越中へと向かった家持も、近江京へと移った天智天皇も付き従った額田王も、皆この地を通ったのであってみれば、万葉に多くの歌があって当然でありますな。 では、ことのついでと、久世の社、鷺坂にも立ち寄って参りましょう。(久世鷺坂旧跡・柿本人麻呂歌碑)山代の 久世の鷺坂 神代より 春は張りつつ 秋は散りけり (柿本人麻呂歌集 万葉集巻9-1707)(同上・副碑) (久世神社)(同上)(同上・本殿)(同上・由緒)(久世廃寺跡の碑) 久世神社から少し北に行くと平川廃寺跡がありました。(平川廃寺跡)(同上・説明碑) 本日はこれまでとします。
2016.01.19
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ブログ更新を3日間サボっていましたが、今日も更新しないでいると「いかにかあらむ」とご心配いただくことになってもよくないので、記事を更新することとします(笑)。 今朝は、首都圏・関東方面で大雪。交通などかなりの混乱もあったようですが、こちら大阪は事もなしでありました。もっとも、明日は雪がチラつくかもしれないとか。ところで、先日、自宅の庭の片隅にヤブコウジ(藪柑子)が赤い実を付けているのを見付け、写真に撮りました。この赤い実と雪で連想する歌と言えば、大伴家持さんのこの歌であります。この雪の 消(け)残(のこ)る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226)<この雪が消え残っているうちに、さあ行こう。この雪に山橘の実が照り輝くのを見よう。>(注)山橘=ヤブコウジ(藪柑子)。(有磯高校の万葉歌碑)2012年11月7日記事掲載写真の再掲載。 上の歌は大伴家持が越中守であった時、天平勝宝2年(750年)の12月、家持33歳の時の歌である。家持が越中守を拝命したのが天平18年(746年)6月、29歳の時であるから、越中で迎える5度目の冬ということで、すっかり越の雪の冬にも慣れて、季節を楽しんで居る風でもあります。 大伴家持は6年後にも「山橘」の歌を作っている。天平勝宝8年(756年)11月5日の夜の作である。雷が鳴り、雪が降って庭が雪に覆われた。それを見て感興を覚えて作った歌という。きっと、越中時代に作った上の歌のことを思い出して即興で作ったのであろう。消(け)残(のこ)りの 雪にあへ照る あしひきの 山橘を つとに摘み来(こ)な (大伴家持 万葉集巻20-4471)<消え残る雪に照り映え合っている(あしひきの)山橘をみやげに摘んで来よう。>(注)あへ照る=「あへ」は「一緒に」の意。照り合って。 つと=つと、づと。土産のこと。(庭のヤブコウジ)ヤブコウジ・Wikipedia<追記>1月19日の銀輪散歩で、京都府城陽市寺田正道にある正道官衙遺跡公園にも山橘の家持歌碑があるのを見付けましたので、掲載して置きます。
2016.01.18
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第170回智麻呂絵画展 本日は、今年初めての智麻呂絵画展であります。智麻呂絵画ファンの皆さま、今年も智麻呂絵画展をよろしくお願い申し上げます。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ お正月ということで、先ずはこの絵から。(連獅子<赤>) これは下の連獅子の押し絵(部分)を模写されました。 原画の押し絵は和郎女さんの作品です。 お正月用にと和郎女さんから智麻呂邸に届けられた力作です。 その全貌は和郎女作品展の方でご紹介申し上げる予定で居りますが、智麻呂さんがひと足早く絵にされました。(原画<部分>) 次もお正月らしい作品です。お孫さんのナナちゃんから届いたお正月らしい寄せ植えのご挨拶です。(HAPPY NEW YEAR) 次の2作品は見覚えがあると思われた方も多いかと存じますが、前回の第169回展でご紹介したシクラメンと教会建物の絵です。 (シクラメン) (崎津カトリック教会) (当初の絵) (当初の絵) (描き直した絵) (描き直した絵) 何故、同じ絵を二度も出すのか? 同じ絵が2枚ずつあるからです。 何故2枚同じ絵があるのか? 最初に描かれたのが上段の絵です。 この絵が行方不明となり、あちらこちら探せど見つからない。 仕方なく再度同じ絵を描かれました。それが下段の絵です。 第169回展にて掲載の作品は、この下段の絵でありました。 第169回展のブログ記事を印刷に打ち出して、「智麻呂美術全集」にファイルしようと家持館長が智麻呂邸に出向きました。ファイルの第28巻を取り出して、開いた処、上段の絵がそこにはさまっていました。昨年の年末の顛末(笑)です。 上下で微妙に違っていますが、皆さんはどちらがお好み? 時々、絵が行方不明になってくれるのも悪くない。このように二つ並べて楽しむことができる(笑)。(銀杏の落ち葉) 智麻呂邸の前の公園の銀杏の木が落とした葉、これを拾って来て描かれました。 下のクッキーは和郎女さんの手土産。 よろしければ、皆さまもおひとつどうぞ。(クッキー from 和郎女) 次は五〇さんからのケーキです。(NAVONA from五〇氏) 次の蕪とキャベツは凡鬼さんからのもの。 生き生きとした、いい雰囲気の絵になりました。(蕪 from 凡鬼)(キャベツ from 凡鬼) 次は、燻製。智麻呂絵画展で「燻製」と言えば、偐山頭火氏の他には居られません。同氏が年末にお持ちになったものだそうです。 鮭、玉子、チーズ、半円形のピンクのものは何ですかね。これもチーズでしょうか。家持館長には判定不能です。(燻製 from 偐山頭火) 次はパンジー。 当日記の12月16日の記事に掲載されているパンジーの写真から絵にされました。 <参考>銀輪散歩・パンジーの人相と山茶花、辛夷、車輪梅 2015.12.16.(パンジー) 次の「ぜんざい」は、上のシクラメンほかの絵の行方不明事件が一件落着となった年末の家持館長の智麻呂邸訪問の折にお持ちした手土産でした。 絵が行方不明になっても出て来て「よきかな」という訳で「善哉」をお持ちしたのではありませんでしたが、結果的にはそういう語呂合わせも成立する経緯となり「よきかな」でありました。(善哉 from 偐家持) 以上であります。 本日も、ご覧下さり、有難うございました。<追記>上記写真のうち、「崎津カトリック教会」の(当初の絵)の写真は、これについてのフォト蔵登録写真が2018年8月に消失し、その復旧もできなかったようで、この部分の写真がブログ上は非表示となっていました。元画像も原画も手許に存在しなかったのですが、画像消失以前に本記事を印刷に打ち出したものが存在したので、それを再度撮影し、その画像をブログ記事に貼り付けることとしました。そんな次第で、画像が不鮮明になっていますが、ご容赦願います。(2018年8月2日)
2016.01.14
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本日は囲碁例会の日。日が照っていたかと思うと雨が降り、雨が降ったかと思うと青空が覗くという、安定しない天気の一日。この日の碁もそんな感じにて、負け(対竹〇氏)、勝ち(対福〇氏1局目)、負け(対福〇氏2局目)で1勝2敗。出席者は4名でしたが、竹〇氏と村〇氏の対局が長くなり、村〇氏とは対局せぬままに散会の時間となりました。これで、今年に入っての成績は3勝3敗。一進一退であります。 今日もMTBで出掛けたのですが、自宅を出て走り出したら後輪の空気が抜けている。空気を入れて出直し。帰宅直前、自宅まで1km程度の処で後輪タイヤに異変。再び空気が抜けてしまいました。止む無くMTBを押しながら歩いて家へ。パンクなのかどうかは明日調べてみます。 さて、会場の梅田スカイビルへの道中ですが、中央大通りの横枕西交差点で麒麟を見掛けました。(何故かビルの前に麒麟が居た。) 先週6日にはサンタの衣装の雪ダルマとトナカイが此処に居たのですが、いつの間にか麒麟さんに交代していました。 また、先月、12月2日には工事中であった、大阪城の駐車場拡張工事が終わっていてご覧のようにすっきりした眺めになっていました。 写真奥に観光バスが見えますが、中国人団体客の増加などで観光バスが溢れて駐車場に入り切れず、前の道路の路肩に列をなして駐車という見苦しい光景が続いています。このスペースがそれらのバスの駐車に供されるのなら、路上駐車は解消されることになるのでしょう。(駐車場拡張工事が完成) 去年12月9日と今年1月6日の二回、大阪城公園を通過したものの、北側の京橋口の方を走ったようで、12月2日以来この前を通るのは今回が初めて。工事は昨年末には完了していたのかも知れません。 12月2日の日記に掲載している写真に工事中のものが写っていましたので、再掲載して置きます。(工事中の写真) で、この駐車場の西側が桜広場なのですが、ご覧のように桜の花が早くも咲いていました。今日は、結構寒くなってこの時期らしい気温となりましたが、先日までのポカポカ陽気で、桜さんも調子が狂ってしまったようです。咲いているのは寒桜なんでしょうが、それにしても早過ぎる開花ではないでしょうか。 日本書紀履中天皇3年11月の条の磐余稚桜宮の記事のことを思い出させる。 (参考)磐余銀輪散歩(3)・ときじくの花 2012.10.12.(桜が咲いた。) 咲いて居るのは全て若木で古くからある大きな木は未だ睡眠中。早咲きの品種のものをこの一列に意図的に植えたということなんでしょう。 桜の品種のことなどは小生の手に余ること。皆さまの方でとくとご覧じてご判断下さいませ。接近して撮影して置きましたので(笑)。(同上)(同上)(同上)
2016.01.13
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本日は、宇陀市榛原の額井岳山麓と広陵町の百済寺と飛鳥川自転車道などを銀輪散歩して参りました。 若草読書会の新年会が来月7日にありますが、毎年新年会は偐家持が万葉関連のお話をすることになっていて、今年は山部赤人の歌を取り上げようと思っています。 ここ数年のテーマは以下の通りで、そろそろ山部赤人かな、と思った次第。 2009年 大伴家持 2010年 菟原處女 2011年 柿本人麻呂 2012年 但馬皇女と穂積皇子 2013年 大友皇子 2014年 山上憶良 2015年 大伴旅人 大伴家持は、万葉集の中で、和歌の道のことを「山柿の門」と呼んでいるが、「柿」は、人麻呂のことでほぼ異論ないよう。問題は「山」。山上憶良説と山部赤人説とがある。古今和歌集の仮名序では紀貫之は人麻呂と赤人を挙げて論じているので、少なくとも紀貫之さんは、赤人説であったようですな。 ということで、人麻呂、憶良は既に取り上げているとなれば、赤人も取り上げないと平仄を欠くということになります。 山部赤人は万葉第三期の歌人で、山上憶良や大伴旅人や高橋虫麻呂などと同時代人と思われるが、続日本紀などの正史には記述がなく生没年などは不明である。万葉集に掲載の彼の歌やその題詞から推測するしかないという次第。 その赤人の墓が宇陀市榛原にある。正確には、「伝赤人墓」である。千葉県東金市にも赤人塚なるものがあるそうだが、これはちょっと取材に出掛けている暇がないかもです。東近江市にも山部神社、赤人寺があるので、これは近いうちに取材に行く予定でいます。 さて、榛原の赤人墓であるが、これは何度もこれまで訪ねているので、写真があるものと思っていたら、PCやフォト蔵などのマイアルバムを探しても見付からない。そんなことで、本日トレンクル君をお伴に出掛けることとしたのでありました。 その墓なるものは、近鉄榛原駅北東の額井岳の麓にある。榛原駅からは、どのコースを辿っても辛き坂道となる(額井岳) 赤人墓に立ち寄る時はいつもその前に十八神社に立ち寄っている気がする。で、今回も立ち寄って行くことに。というよりも、境内で暫し休息なのである。(十八神社)(同上・拝殿と本殿) (同上・由緒<左>と本殿<右>) 十八神社はかなりの高みにあるので、境内からの眺望もなかなかに宜しい。 (同上・境内からの眺め)(山部赤人墓付近) もう随分昔のことになるが、休日に此処にやって来て、赤人墓の前の東屋で休憩しているということがありました。誰かがやって来る声がしたので、その方に視線をやると、何と、それは入社同期で親しくしていた友人・S君であった。彼は当時この近くの「ひのき台」という団地に居を構えていて、奥さんと息子さんを伴っての散歩の途中であったのでした。それにしても、人の気配も絶えたこのような場所で、会社の友人に出逢うとは思いもよらぬこと。互いにその偶然を面白がったものであった。 しかし、S君も今は故人。その何年か後に病を得て、帰らぬ人となってしまった。此処に立つと決まって彼の事があれやこれやと思い出されるのでもある。(山部赤人歌碑)あしひきの 山谷越えて 野づかさに 今は鳴くらむ うぐひすのこゑ (山部赤人 万葉集巻17-3915) (注)野づかさ=野の小高い場所、高み。(山部赤人墓) 赤人は官位の低い(六位以下の)下級貴族であったと思われる。従って、墓の場所などは知るよしもないこと。されば、此処を墓としてもよい。 そもそも、墓と埋葬場所とは一致している必要もないのだから。 (同上) 榛原駅まで戻り、大和八木経由笠縫駅下車。 もう一つの赤人歌碑を訪ねての銀輪散歩です。(近鉄・笠縫駅) 笠縫駅から西へ。飛鳥川、曽我川を渡り、田原本町から広陵町に入る。 (曽我川・上流側<左>、下流側<右>) 百済寺という古寺がある。 重要文化財の三重塔のある、いい雰囲気の古寺である。(百済寺) (百済寺三重塔) (百済寺説明板) 三重塔の傍らにある万葉歌碑がその赤人歌碑である。 犬養先生揮毫の碑、犬養万葉歌碑でもある。(山部赤人歌碑)百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鴬 鳴きにけむかも (山部赤人 万葉集巻8ー1431)(百済寺周辺地図) 百済寺は春日若宮神社と同居です。 (春日若宮神社) 飛鳥川自転車道に戻り、北へと走る。(飛鳥川自転車道)(同上)(同上・船つき橋)(「但馬のはま」) 大和川を渡り、大和郡山市に入り、近鉄・大和郡山駅で、銀輪散歩打ち切り。トレンクルを収納バッグに。電車にて帰途へ。 赤人関連の地、二ヶ所の取材完了です(笑)。
2016.01.12
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今日は2016年最初の囲碁例会。 午前10時、MTBで自宅を出発。 囲碁も打ち初めなら、銀輪も走り初めでありました。 銀輪コースはいつもと同じ、大阪城公園を横切り、れんげ亭で昼食、というものでしたが、正月ということでもあるので、大阪天満宮にもご挨拶して行くこととしました。(大阪城)(同上) 大阪城の堀にはカモメとカモ。 「そこにはかもめが点々として白い花弁のように浮かんでいた。」この文言を正確に思い出した訳ではないが、水面に浮かぶカモメを花弁に喩えた文章を最近目にしたが、それは萩原朔太郎の詩の一節であっただろうか・・などと思いながらお堀のカモメさんたちを見ていました。 それと言うのも、昨夜、或る友人から「萩原朔太郎の詩で知っているものがあるか。彼はどんな詩を書いているのか。」というような電話があり、思い浮かぶ詩も全く無かったので、書斎の書棚の片隅で埃を被っていた、中央公論社の「日本の詩歌」第14巻「萩原朔太郎」を引っ張り出して、パラパラとページをめくり、何篇かの詩に目を通したからでありました。しかし、調べてみると、そうではなく、上の文章は、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて第4篇」に出ているのでした。萩原朔太郎についての電話のある前に、ちょっとした調べものがあって、プルーストのそれをパラパラと飛ばし読みしていたので、両者を混同したようでした。 (お堀のカモメ)(お堀の鴨) れんげ亭で昼食することとしましたが、11時半にもなっていないので、先に大阪天満宮にご挨拶に伺いました。(大阪天満宮)(同上・拝殿と絵馬) 天満宮の拝殿と絵馬を撮影してから、れんげ亭へと引き返す。 それでも未だ正午になっておらず、客はわれのほかたれとてもなかりき、でありました。「あけましておめでとうございます。」ママさんと年始のご挨拶の交換です。(れんげ亭) 梅田スカイビルの会場へは小生が一番乗り。 美術クラブの方達が数人居られて、帰り支度をされている処でした。暫くその方達とだべっていると、福〇氏が来られました。 で、同氏と今年最初のお手合わせ。対局中に竹〇氏が来られる。 福〇氏には勝ち、新年は白星スタート。 続いて竹〇氏と対局。 この対局中に平〇氏が来られ、本日は4名の出席でした。 竹〇氏にも中押しで勝ち、最後に平〇氏と対局。 これは負けて、囲碁打ち初めは2勝1敗の成績。まずまずですかな。 帰途は、久々に露天神(お初天神)に立ち寄ってみました。 往路では、大阪天満宮のアト、堀川戎神社にも立ち寄っていますので、一応、本日も「三社めぐり」ということになったという次第(笑)。 (お初天神<露天神>)(同上・絵馬)
2016.01.06
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本日は、全国高校ラグビーの準々決勝4ゲームがあるので、朝から観戦に出向きました。対戦カードは、以下の4試合。 第1試合 京都成章ー東海大仰星、 第2試合 天理ー桐蔭学園、 第3試合 関西学院ー石見智翠館、 第4試合 大阪桐蔭ー東福岡(花園ラグビー場メインスタンド)(同上・右側がバックスタンド)(第1試合 京都成章ー東海大仰星) 第1試合は接戦の好ゲーム。17対10で東海大仰星が逃げ切りました。(第2試合 天理ー桐蔭学園) 第2試合は桐蔭が、天理を圧倒、31対12で勝利しました。 (同上) (同上) (ラグビー場前庭風景)(第3試合 関西学院ー石見智翠館) 第3試合も33対8の大差で石見智翠館が関西学院を降しました。 (同上) バックスタンド(東側)の背後は生駒山。今日は正月とも思えぬ暖かさの好天気。試合観戦には持って来いのお天気でありました。 ラグビー人気が高まったこととも相俟って、スタンドは超満員。そんな中でも、写真に変化を持たせようと、試合ごとに、メインスタンド(西側)、バックスタンド(東側)、南側スタンドと、場所を変えて観戦するなど、ヤカモチさんはブログを意識してウロウロでありました(笑)。 (同上) 第4試合は実力校、東福岡に対し大阪桐蔭が善戦しましたが一歩及ばず、15対8で東福岡が準決勝に駒を進めました。(第4試合 大阪桐蔭ー東福岡)(同上)(同上) ベスト8のうち5校が近畿勢でしたが、ベスト4に勝ち残ったのはただ1校、大阪の東海大仰星のみとなりました。
2016.01.03
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毎年恒例の三社巡りと言うか、三社散策をして参りました。 三社とは、枚岡神社、石切神社、瓢箪山稲荷神社の3社。例年正月2日に行くというのがこの処のヤカモチの習慣。枚岡神社も今年はロープが張られ、参拝者を整理していて列に並ばなければ拝殿に行けないシステムになっていましたのでパスしました。昨年まではそういうことではなかったのですが、調べてみると昨年は2日ではなくて3日に参っているので、昨年も1日、2日は列に並ぶということであったのかも知れません。一昨年までは毎年2日でしたが、そうではありませんでした。 昨年の元旦は雪が積もるということでもあったので、参拝者の安全を期すため、このようなことになったのかも知れません。石切神社は以前からロープを張り巡らして交通整理していましたが、参拝者の数がそれほどでもなかった枚岡神社では、そういうことはなかったのです。枚岡神社も参拝者が増えて、交通整理の必要が生じたということであるのでしょう。 散策コースは毎年同じ。一昨年のブログ記事で順路を紹介していますのでコースの詳細は、それをご参照願います。<参考>三社散策 2015.1.3. 三社めぐり 2014.1.5. ということで、枚岡神社は参道の人の列を横切るのみで、拝殿前には行かず、枚岡公園へのハイキング道に入る。(枚岡公園) 枚岡公園は生駒山系の山の西麓の高みにあり、大阪平野が一望できる。今日は春霞がかかったような具合で淡路島も六甲山も見えない。 枚岡公園から急坂を下り、石切神社へと向かう。 石切神社への参道は参拝に向かう人と帰る人との往来で渋滞状態。(石切神社拝殿前) 石切神社から東高野街道に出て、南へ。瓢箪山稲荷神社に着く頃は日没。黄昏。(瓢箪山稲荷神社) 昨日の記事では、枚岡神社と石切神社の絵馬の写真を掲載しましたが、瓢箪山稲荷神社の絵馬の写真は未掲載。本日、これを撮影しましたので、掲載して置きます。(瓢箪山稲荷神社の絵馬) 帰宅すると万歩計は14318歩。今年の三社散策の歩数は昨年のそれよりも少し多くなりました。
2016.01.02
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謹賀新年門ごとに 立つる小松に かざられて 宿てふ宿に 春は来にけり (西行 山家集上春5)新年がみなさまにとって どうぞよき年でありますように旧年中のご厚誼有難く感謝申し上げますと共に本年もよろしくお願い申し上げます平成28年元旦偐万葉田舎家持歌集けん家持^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^偐万葉田舎家持歌集(にせまんよう いなかやかもち かしゅう)目次それぞれの項目をクリックすると その項目の記事をまとめて見ることが出来ます。下記目次はヤフー版の偐万葉田舎家持歌集によって作成しています。絵画展ほか智麻呂絵画展和郎女作品展近江鯨麻呂絵画展偐万葉シリーズ松風篇 大和はまほろば篇 ビターc篇 ひろろ篇 カコちゃん08篇 真澄篇木の花桜篇 るるら篇 nanasugu篇 カマトポチ篇 くまんパパ篇ビッグジョン篇 童子森の母篇 半兵衛篇 マダム・ゴージャス篇 英坊篇アメキヨ篇 オガクニ篇 ふぁみキャンパー篇 ウーテイス篇 ふらの篇 閑人篇 LAVIEN篇 幸達篇 ひろみ篇 あすかのそら篇ローリングウェスト篇 若草篇 その他銀輪万葉シリーズ大阪府篇 奈良県篇 兵庫県篇京都府・滋賀県篇 和歌山県・三重県篇 北陸篇新潟県・長野県篇 関東篇 中四国篇 九州篇 その他その他近隣散歩花(1)2007~2011 花(2)2012~2015 虫 マンホール若草読書会 囲碁関係 岬麻呂旅便り 万葉 ナナ万葉の会関係 短歌・俳句・詩・戯れ歌 言葉遊び・駄洒落集その他のカテゴリー自転車 絵画 能・狂言 友人ほか ブログの歩み カテゴリー未分類 (枚岡神社の絵馬)(同上)当ブログ、昨年1年間で250713件のアクセスを賜りました。年間最多であった昨年(78308件)の3倍を上回る多数となりました。まことに有難きこと、心より感謝申し上げます。 今年も引き続きご愛読賜りますれば幸甚に存じます。 (石切神社の絵馬)新年最初の記事が1900件目の節目の記事と重なりました。
2016.01.01
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