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本日は友人蝶麻呂君と銀輪散歩。朝9時宝塚駅前の喫茶店「マードレ」で待ち合わせ、宝塚駅前~清荒神~売布神社~中山寺~瑞ヶ池公園~緑ヶ丘公園~猪名野神社~猪名川~新伊丹駅前・喫茶店「青い屋根」~昆陽池公園~武庫川~宝塚駅前と走って来ました。 その道中記は、明日以降にアップすることとし、今日は喫茶店「青い屋根」訪問のことだけ、記事アップして置きます。 喫茶店「青い屋根」はブロ友のテラケンさんが経営されている喫茶店なのである。今回の銀輪散歩のコース設定をしている時に、テラケンさんのお店の近くを走ることとなるので、訪問してみようと思い付いたのでありました。 ブログでの交流しかなく、最近はコメントも間遠になってご無沙汰なのであるが、こういう機会はそうあるものではないので、テラケンさんのご尊顔を拝し、ご挨拶申し上げるにしくはなし、と思った次第。 テラケンさんとブログの交流が始まったのは、瓢箪から駒みたいな偶然の結果でありました。 ある日ネットで「偐家持」で検索していたら、小生の作った歌が掲載されている見知らぬブログを発見、覗いてみたら、テラケンさんのブログであったという次第。それでご挨拶のコメントをしたのが交流の端緒となりました。 碁がお強くて、宮本輝のファン、というようなことも小生の興味を引いたのでありました。 最寄り駅が「新伊丹駅」、住所が梅ノ木5丁目、青い屋根の建物、それだけの情報での店探し。なかなか分からず、結局、出がけに控えて置いた店の電話番号に電話をして、店の場所を教えて戴く羽目に。 幼稚園の前の辻で、電話。 小生「青い屋根さんですか。これからそちらにお伺いしたいので すが、今、◎◎幼稚園の前に居るのですが・・」 相手「振り返って下さい。手を振っていますので。」 何のことはない。店にと通じる道の入口に来ていたのでありました。 テラケンさんは、店から前の道路に出て、こちらへ向けて手を振って下さっていたのでした。この時はまだ、何者とも名乗っていなかったので、一体誰なんだろうと思われたことでしょうが、店の前で蝶麻呂君と二人、駐輪しながら、「けん家持」です、と告げると「ああ~っ」と驚いて居られました。 美味しい珈琲を戴きながら暫しの時間、楽しくお話させて戴きました。初対面であるのだが、テラケンさんは、ブログでご自身の写真も公開されていたので、小生の方は、何やら昔馴染みの友人と再会したみたいな感じでありました。 テラケンさんのイメージでは小生はもっと年配で、自身よりも或いは年長かと思って居られたようだが、見掛けは想像よりもずっと若かったようで、驚いて居られました。 まあ、とりとめもない雑談でしたが、共通のブロ友の英坊さんのこともちょっとだけ話題に上りましたね(笑)。(阪急・新伊丹駅) 余り長居をしていては、日も暮れるとおいとまを告げる。 店の前でブログネタに、と写真を撮らせて戴く。 既に、自身の顔写真をブログに掲載されているので、小生のブログにこれを掲載しても問題ないでしょう。なかなかイケメンでもありますからね(笑)。 テラケンさんも、小生たちの写真を撮らせて欲しいようなことを仰っていましたが、小生達は「世を忍ぶ身」(笑)、人相・風体などは非公開でありますので、丁重にご辞退申し上げる。(喫茶店「青い屋根」とテラケン氏) テラケンさん。突然に押し掛けて驚かせてしまいました。 楽しいひと時、有難うございました。相見ての のちの心も 楽しきは 君がやさしき 笑みにし負へり (偐家持)猪名川も いなとは言はじ またや来む 足にいたみも なきぞこの道 (偐家持) テラケンさんは、とても気さくなお方で、親近感が自ずからに湧く・・という風でもありました。まあ、喫茶店のご主人であるのだから、それは当然と言えば当然なんでしょうが(笑)。 「お気をつけて。どうぞお元気で。」という言葉に送られて、蝶麻呂君と小生は、昆陽池公園経由、武庫川べり、宝塚へと帰途につきました。 ブロ友さんに直にお会いするのは、ビッグジョンさん以来で二人目となるが、小生の方からの訪問というのは初めてのこと。まあ、こういうのも悪くはないですかな。何やらほっこりした気分でありました(笑)。 <参考>テラケンさんのブログはコチラからどうぞ。 テラケンさんが偐万葉に登場しているページはコチラです。 さて、話は全く関係ありませんが、今日またしてもラクウショウの気根を目撃しました。先日、面白い物を見付けたとブログアップしたばかりでしたが、名前を覚えると、植物は向こうの方から会いに来てくれるようでもあります(笑)。(伊丹市の緑道にもラクウショウの気根がありました。)
2014.01.31
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本日は、偐家持の1296回目の誕生日。 養老2年(718年)の生まれであるが、元年(717年)の生まれだという説などもあったりするので、実の処はよくは分からない。まあ、この歳になると1年や2年の違いはどうでもよろしい、という気が致しまするな。 今年の節分。豆1297個食べ切れますかな。この年になると、毎年のこの行事が恐怖でありますな(笑)。 小生が生まれた時、父の大伴旅人殿は53歳。正妻大伴郎女との間には子がなく、父が丹比家の娘との間にもうけたのが小生であった。ようやくにして生まれた男子ということで、大伴家に引き取られ、大伴郎女殿によって養育されたのであるが、その養母は小生が10歳の時に亡くなった。以後は叔母の坂上郎女殿が母代りとなって何かと面倒を見て戴いたのでありますな。 さて、小生が生まれた718年、父、旅人が53歳と申し上げたが、その他の今日までその名を残して居られるお方がその時何歳であったかと調べてみたら、次の通りでありました。(年齢は、718年に誕生日を既に迎えたものとして、満年齢で表示)柿本人麻呂 58歳位山上憶良 58歳位 上ご両名は660年頃の生まれとされているので、それによりました。山部赤人 40代後半から50代前半 この御仁は生没年不明であるが人麻呂よりは少しお若いかと。藤原不比等 59歳(659年生~720)藤原武智麻呂 38歳(680年生~737)藤原房前 37歳(681年生~737)藤原宇合 24歳(694年生~737)藤原麻呂 23歳(695年生~737)長屋王 34歳(684年生~729)橘諸兄 32歳(684年生~757)聖武天皇 17歳(701年生~756)<首皇子>光明皇后 17歳(701年生~760)藤原仲麻呂 12歳(706年生~764)吉備真備 23歳(695年生~775)安倍仲麻呂 20歳(698年生~770)孝謙天皇 0歳(718年生~770)<安倍内親王・称徳天皇>光仁天皇 9歳(709年生~782)<白壁王>道鏡 18歳(700年頃生~772)春立つ日 近づくならし 吾が生(あ)りし 今日(けふ)の日晴れて 梅咲き始(そ)めば (偐家持)(枚岡梅林の梅・2014年1月29日) 枚岡梅林の梅はまだどれも固い蕾であるが、一本の若木だけが花を咲かせ始めていました。 東京オリンピックは2020年でありますが、それよりも早く2018年は家持生誕1300年の年でありますれば、どうぞ皆さまお忘れなく。<参考>梅の花咲き始めにけり枚岡の・・2013.2.21.
2014.01.29
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偐万葉・ふぁみキャンパー篇(その8) 本日は、偐万葉シリーズ第194弾、偐万葉・ふぁみキャンパー篇(その8)とします。 ふぁみり~キャンパー氏は偐万葉では越後湯麻呂(えちごのゆまろ)と呼ばせて頂いて居ります。 <参考> 過去の偐万葉・ふぁみキャンパー篇はコチラからどうぞ。 ふぁみり~キャンパー氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が湯麻呂に贈りて詠める歌17首菊見むと 車走らせ 弥彦まで 今年も君は とひや来らしも (越後湯一) (本歌)菊植うと 土にまみれて さ庭べに われ立ち暮らす ひとなとひそね (会津八一) (弥彦神社の菊まつり) (大阪城)梅田への 往来(ゆきく)に見ゆる 城を今朝 越後の人に 見せらるるもよし露霜と 消(け)ぬる難波(なには)の 夢のまた 夢にしあらむ 五層の天守 (本歌)露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢 (豊臣秀吉)加茂山の もみち葉照れる 下道を 光(ひかる)の君は 吾(わ)につき来たる (本歌)鴨山の 岩根し枕(ま)ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ (柿本人麻呂 万葉集巻2-223) (加茂山公園) (光君)馬ならで 駝鳥置きたる 豊栄の 駅はとりやと 呼ぶべくあるらし (鳥屋野潟厩麻呂) (道の駅・豊栄の駝鳥) (聖籠観音の湯)せいらうと 言へど雨降る 加治川の 入江に砂の 風に吹かれき (注)せいらう=聖籠(新潟県聖籠町)と晴朗を掛けている。初雪は 嬉しと見れど 降り積めば うたてきことも 多々にぞあれる (雪麻呂)徘徊も 徘快なれど 過ぎたれば 徘怪ならむ そぞろ歩きは (漫遊集 偐家持)高照らす わご大君の 生(あ)れませし この日こそ祝(ほ)げ 国つみ民も (偐人麻呂)花園の トライは華よ 決まりたる ときはどよめき 響(とよ)みし咲ける (本歌)わが園の 李(すもも)の花か 庭に降る はだれのいまだ 残りたるかも (大伴家持 万葉集巻19-4140)湯めぐりの 君にしあれば 毒舌も 湯のことなりて 饒舌とならむ (山部湯人)良寛の 里とし聞けば なにしかも 和島の道の 駅もゆかしき蕎麦の日の 蕎麦とし聞けば 舌つづみ 流るるよだれ とどめかねつる (偐湯麻呂) (本歌)人の子の 遊ぶを見れば にはたづみ 流るる涙 とどめかねつる (良寛) 御立たしし 島を見るとき にはたづみ 流るる涙 とめぞかねつる (草壁皇子の舎人らの歌 万葉集巻2-178) (注)にはたづみ=潦。急な雨またはその雨で地面を流れる雨水のこと。 (蕎麦の日) (道の駅・良寛の里わしま)洋梨は 我(わ)に用無しと 思へども きみがレクチャー レクチェは別と (注)レクチェ=「ル・レクチェ」洋梨の一種。新潟県の名産。 (ル・レクチエ)泥縄も 編まぬ碁泥(ごどろ)の わが一手 手違ひ四丁(してふ)に 首くくるとは (偐因坊)蟹かくに 蟹もかくにも 犬のなき 猫のありては 弱りもぞする (蟹丸大夫)みほとけの 顔も三度と 言ふなるに 二度漬け禁止の だるまなりけり (三度笠家持)<注>掲載の写真はふぁみり~キャンパー氏のブログからの転載です。
2014.01.25
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庭も柱も乾いている 今日は好い天気だ 縁の下では、蜘蛛の巣が こころ細さうに揺れている・・・ 中原中也の詩に、上のようなフレーズがあったかと、 あれは、何という詩であったやら。 そうそう、「帰郷」とかいう詩でもあったような。 銀輪を駆けていて、ふと口をついて出たのは、 万葉歌ではなくて、中也の詩でもありました。 今日は眩しいほどの好い天気。きっとその所為だ。 小春日和とはこんな天気のことでなくてはならない。 銀輪を駆けていると、少し汗ばみさえもする。 乾いた風は冷たくて、それが却って心地良いのでもありました。 北の方の公園では海驢が欠伸をし、猿が身を寄せ合っている。 しかし、すぐにも気がつくのです。 それはケモノなんかではなく、 木の根っこが作り上げたオブジェに過ぎないことに。 「年増の低い声」はせず、カラカラと風が吹き抜けて行くだけ。 誰とてもなき冬の公園。 見上げれば、欅のほつ枝には青い空と白い雲。 誰が結び付けたのか、枝に一本の銀色の針金が掛かっていて、 何やら場違いな己を持て余してもいるような。 誰とてもなき冬の公園。 正午までにはまだ時間がありました。 さて、もう少し走ってみることとしよう。(海驢が欠伸をする。)(コチラは猿でしょうか。)(コチラも猿?それともプレーりードッグ?)(欅と空と雲)
2014.01.24
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先日、友人の岬麻呂氏から旅便りと写真が届きました。今月14日から17日にかけて、北海道一人旅を楽しんで来られたようです。(ニングルテラス) これは新富良野プリンスホテルに設置されているニングルテラス。 岬麻呂氏による説明は次の通り。 ニングルとは倉本聡著「ニングル」に登場する昔から北海道に住む身長15cm位の「森の知恵者」のこと。アイヌ語で「ニン」は「縮む」の意。「グル」は「人」の意。 詳しくは以下の<参考>をご参照下さい。 <参考>ニングル・Wikipedia(同上)(ニングルテラス隣接のソーズバー)(白金温泉・白髭の滝) 雪、雪、雪の一人旅。されど、何度も訪れられているので、土地の方ともお知り合いになって居られるようで、現地では一緒に酒を酌み交わしたりされているようであるから、それなりに「友ありて」の旅でもあったよう。 それはそれとして、以下、写真にて、北海道ならではの雪景色を堪能して戴きましょう。(美瑛富士と美瑛岳)(ファーム宮田から富良野盆地)(鳥沼公園) 此の沼は湧水池にて冬も不凍。鴨などの野鳥が多く集まるとのこと。(麓郷・東大演習林資料館) 富良野の麓郷と来るとドラマ「北の国から」らしいが、小生にとっては、ブロ友のfurano-craft氏を先ず思い浮かべます(笑)。 このご近所にお住まいで、麓郷の森に工房をお持ちで、木工雑貨・各種オブジェを創作して居られる。工房の名も「富良野麓郷庵」、略して「富麓庵」と称して居られます。 <参考>furano‐craft氏のブログはコチラ。 同氏経営の木力工房「富麓庵」のホームページはコチラ。 偐万葉・ふらの篇(十勝岳と除雪車)(カラマツ林と霧氷)いつ来むと 春まつ林 白雪の つもりていまだ い寝てぞあらし (偐家持)(芦別岳) 一面の銀世界。同じ「銀」でもヤカモチのそれは「銀輪」でありますので、雪とは、橇と違って「ソリ」が合わないのでありますな。 写真だけにして置きましょう(笑)
2014.01.23
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一昨日20日と本日22日は新年会でありました。このあと2月1日に若草読書会の新年会があります。 20日のそれは年来の友人野◎氏との二人新年会。野◎氏がどうしても紹介したいママが居るというので、北新地まで。小生が新入社員の頃の社長で、以来長きに渡ってお仕え(こういう表現が適切とは思えないが<笑>)し、可愛がっても戴いた今は亡きT氏が、昔贔屓にされていたホステスさんで、今は独立して店を構えていらっしゃるのだが、彼女はT氏のことをとても尊敬していて、同氏のこともよく話題に上るので、小生とは話が合うのではないか、というのが野◎氏の弁。そんなことならと、二人だけの新年会も兼ねてそのママさんに会いに行ったという次第。 全日空ホテルのロビーで待ち合わせ、寿司屋で腹ごしらえをしてから、件の店へ。一番乗りでした。T社長の思い出話など懐かしい話で、愉快なひと時を過ごさせて戴きました。(北新地)(同上) そして、本日22日は、健人会の新年会。こちらは、杉◎、只麻呂、木◎、平◎、由◎、鯨麻呂、草麻呂、竹◎、岡◎、徳◎、今◎、小◎、正◎、古◎、森◎、川◎、近◎、田◎の各氏と小生、総勢19名の賑やかな新年会でありました。 店は友人オガクニマン氏の事務所と目と鼻の先の西梅田の「とんや」。囲碁例会で梅田スカイビルへ行く折に自転車で走る国道2号線の一つ南側の路地を西に入った処にある。例によって、正◎氏が手配した店のよう。 この会は喫煙者率が高く、小生を含め19名中9名が喫煙者であるのがいい(笑)。この会は新年と夏に食事会、他に年4回、ゴルフコンペをしているのだが、小生はもうゴルフはしなくなったので、年2回の宴会だけ参加させて戴いている。出席者の年齢では小生より若いのが7名。年上が9名、同年代が2名で、小生などはほぼ中間層になる。梅の花も 心同じに 咲くならむ あれこれともに なしつと思へば (偐家持) <関連記事>幻住庵へ(上) 2013.9.6. ヤカモチ1295歳・健人会の新年会 2013.1.29. 行く夏も近江の人と惜しむべき 2012.8.29. 健人会・比叡山坂本へ 2011.8.26.(「とんや」)(国道2号線・梅新交差点) 上の写真は、国道2号線から東側の梅新交差点を見たもの。梅新交差点から向こうが国道1号線である。左右の通りが御堂筋。これを左に行くと大阪駅。右に行くと北新地の入口、中之島を経て淀屋橋である。 囲碁例会の銀輪行は、国道1号線の方(東)から梅新交差点を渡り国道2号線に入り、桜橋交差点を渡って・・というのが小生の通常の走行コースである。
2014.01.22
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先日(12日)の恩智城跡への銀輪散歩で途中立ち寄った寺社などの写真が未掲載となっています。ということで、過去に掲載した写真なども加えてその道中の紹介記事にまとめてみることと致します。 北から順に、心合寺山( しおんじやま)古墳、大竹観音堂、都夫久美神社、玉祖神社御旅所、教興寺、善光寺となります。(心合寺山古墳 2008年5月11日の記事に掲載の写真の再掲載) 心合寺山古墳は5世紀前半築造の前方後円墳。古代のこの地域の有力豪族の首長の墓と見られる。 (同上前方部<左> 同上復元模型<右>)2009年8月22日の記事に掲載の写真の再掲載 かたち 前方後円墳 大きさ 全長約160メートル 時 代 5世紀前半 史蹟面積 約3万平方メートル 埋葬施設 後円部-粘土槨3基 前方部-木棺1基 出土品 き鳳鏡、甲冑、太刀、鉄剣、玉類、円筒埴輪、朝顔型埴輪、 水の祭祀場を表した埴輪、形象埴輪(家・蓋・盾・鶏など) 心合寺山古墳の南東の辻を東に入り、坂を上り切った突き当りを右(南)に行くと大竹観音堂があるが、由来などは知らない。(大竹観音堂 2010年4月2日の記事に掲載の写真の再掲載) 大竹観音堂から200m余南。大きな池の前の辻を左(東)に行くと、都夫久美神社がある。「つぶくみ」というのは物部氏の支族「積組連」に由来するとか。祭神はウマシマジ(宇摩志麻遅)であるから、石切神社のそれと同じ、物部氏の祖である。 ウマシマジはニギハヤヒの息子。母はナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメ。神武東征の際に、これに抵抗するナガスネヒコを殺して神武に帰順したのがウマシマジである。 当神社は、明治になって(1907年)玉祖(たまおや)神社に合併され、廃されたようだが、大正15年(1926年)11月に下掲の「式内都夫久美神社址」の石碑が建てられ、昭和49年(1974年)10月に現社殿が新築されたとのこと。(都夫久美神社) 木にもたれかかっているのは偐家持の愛車MTBです(笑)。(同上) 坂を下って、元の道に戻り、南へと行く。やがて突き当りとなる。そこで右折、西へと坂を下る。千塚郵便局の先で南北の通りに出る。左折(南へ)すると直ぐに八尾市立歴史民俗資料館である。資料館を過ぎて500m位で近鉄信貴線に突き当る。これを右折(西へ)、一つ目のガードでこれを潜って南へ。500m位行くと左手、郡川会館のウラの池の畔にあるのが玉祖神社御旅所である。(玉祖神社御旅所)(注)玉祖神社の写真は2010年11月27日の記事に掲載されている。 玉祖神社は、この御旅所から北東2kmほどの位置、八尾市神立地区の山裾にある。前掲の都夫久美神社から600mほど更に坂道を上った処にある。 玉祖神社は、和同3年(710年)に周防国佐波郡の玉祖神社の分霊を勧請して、玉祖宿禰が創建したと伝えられる式内社。祭神は櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)。櫛明玉命(別名、天明玉命)はタカミムスビの子とされ、アマテラスの岩戸隠れの折に八尺瓊曲玉を作った神、玉造連の祖。玉祖宿禰はタカミムスビの13世の孫と伝えられる。 玉祖神社の神様は、恩智神社の神様が住吉大社などへお出掛けになって御留守にされる時は、その留守番を務めることになっているとかで、恩智神社とは関係の深い神社だそうな。 御旅所から更に500mほど南に行くと右手にクスノキの大木が見えて来る。其処が教興寺である。(教興寺・山門) 教興寺は、聖徳太子が、物部守屋討伐を祈願するため、秦河勝に命じて588年(崇峻天皇元年)に建立したと伝えられる古寺である。 中世には荒れ果てていたらしいが、地元では藪寺とも呼ばれるというのも、そういうことと関連があるのかも(周囲に藪が多くあったからとの説明がなされているが)。鎌倉時代になって、これを復興したのが奈良・西大寺の叡尊。そんなことで、現在も当寺は西大寺の末寺であるが、別格本山と称しているのは叡尊の威力というべきか。 戦国時代、河内国守護の座をめぐっての戦、「教興寺の戦い」がこの地一帯で繰り広げられた。この境内には、この戦で討ち死にした湯川直光の碑が建てられている。碑の奥にある供養塔は彼に因むものなのか、無関係なのかは、知らない。この戦で教興寺の伽藍も焼失した。 江戸時代(貞享年間・1684~7)に浄厳和尚によって再興される。浄厳と親交のあった近松門左衛門も一時当寺に寄宿していたという。(同上・説明碑)(同上・本堂)(同上・クスノキ)(湯川直光公勇戦の地碑)(同上) 教興寺から400m南に行くと善光寺がある。(善光寺・本堂 2010年2月28日の記事に掲載の写真の再掲載) 本田善光が大阪の堀江から仏像を信濃へと運ぶ途中に此処で一泊し、翌日に此処に庵を作ったのがこの寺の始まりという。 以前、TVの「サラめし」とかいう番組で「昼食(ひるげ)」という地名の町が登場していたが、それも本田善光がその地で昼ごはんを食べたからだという。似たような伝説です。 善光寺から南へ1.5kmほどで恩智城趾である。
2014.01.21
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本日は午後から奈良公園に出掛けて来ました。銀輪家持にしては珍しく自転車持参せずで、近鉄奈良駅から徒歩で春日大社北参道に向かいました。「かち(徒)家持」という訳です。 何故、北参道かと言うと、そこに山上憶良の歌碑があり、それを撮影するためでありました。(春日大社北参道) 春日大社北参道は、東大寺南大門への交差点から斜めに、つまり南東に入って行く道である。 この交差点の手前、南西角に「鴎外の門」というのがありました。(鴎外の門)(同上・碑) 碑には鴎外の歌も刻まれている。猿の来し 官舎の裏の 大杉は 折れて迹なし 常なき世なり (森鴎外) 大杉は台風で倒れでもしたのだろうか。下の説明板にある通り、森鴎外は1917年12月から1922年7月に亡くなるまでの間、帝室博物館総長の職にあり、毎年秋には正倉院宝庫開封に立ち会うため奈良に滞在したという。滞在中の宿舎である奈良博物館の官舎がこの地にあったとのこと。現在は建物はなく、この門だけが残されている。 鴎外の頃には猿もやって来たのですな。観光客や車の往来が絶えないこの一角の風景からは想像のできないことであります。鹿はあれ 猿は来ざるよ 鴎外の 門にし言へる 常なき世なり (森偐外)(同上・説明板)参道の 奥に憶良の 歌碑あると 来れば手前に 鴎外の歌碑 (偐家持)でありましたが、これも徒家持なるが故の行きがけの駄賃という奴ですかな。 北参道を歩くのは初めて。此処に憶良の歌碑があると知ったのもつい最近のこと。 参道に入って200m位行くと、目指す歌碑がひっそりと二つ並んでありました。(山上憶良歌碑)秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 (山上憶良 万葉集巻8-1537) 秋の七草は、春の七草と違って食用ではなく、花である。憶良のこの歌と次の歌があることで、「秋の七種」と呼ばれるようになったのであろう。なお、「および折り」は、原文が「指折」で、「ゆび折りて」という訓もある。(同上)萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花 (山上憶良 万葉集巻8-1538) 萩、尾花(ススキ)、葛、撫子、女郎花、藤袴、朝顔(キキョウ)が秋の七種の花。まあ、これは憶良さんが自身の裁量で選ばれたものに過ぎませんから、人それぞれに自分の「七種の花」があってもいいでしょう。 それは、さて置き、上の歌は、通常の短歌が57577というスタイルであるのに対して、577577というスタイル。このような歌体の歌は旋頭歌と呼ばれます。575777という仏足石歌体の歌も万葉集にはあります。やかもちも 今はまからむ 歌碑も見し それ大仏殿も 吾を待つらむぞ (偐家持) (本歌) 憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それ彼(そ)の母も 吾(わ)を待つらむぞ (山上憶良 万葉集巻3-337) ということで、大仏殿の方をブラブラ散策しながら帰ることとしました。(大仏殿遠望)(会津八一歌碑) 南大門を入った処にある会津八一の歌碑も掲載して置きます。おほらかに もろてのゆびを ひらかせて おほきほとけは あまたらしたり (会津八一)(同上説明板) 大仏殿の中には入らず周辺をぐるり一周。それぞれの方向から、その姿を楽しむことに。(大仏殿・南側の鏡池から)(大仏殿・南西側から)みほとけの おおとののへの しらくもの ながれゆくなる わかくさのやま (偐家持) (大仏殿・北西側の大仏池から)(大仏殿・北側の正倉院の前から) 大仏殿の北側は人影もなく静寂のうちにある。 鹿しか居ない(笑)。いや木立の上には烏の群れ・・も。(東大寺講堂跡) 後のあれこれは省略。帰宅する頃には漸く日もやや西に傾き、雲の間より天使の梯子が降りて来ていました。「さて、ヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、(中略)時に彼は夢を見た。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。」(旧約聖書・創世記第28章10~12節)(天使の梯子・自宅付近から大阪平野を望む。)濁りたる 目には見えねど 天使らは 光の梯子 往き来するらむ (偐家持)(同上)
2014.01.16
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(承前) 恩智神社への坂道を上る。 国道170号(旧道)脇にある一の鳥居から恩智神社までは500mほどであるが、途中200m位の処にある煙草屋さんの前で右に入ると恩智城趾がある。更に200m位上ると二の鳥居である。その先から兎龍門までが急勾配になっている。 恩智川沿いの道や国道170号などのルートを取らず、山沿いを上り下りしながら細道をやって来ると、この坂道の中程、恩智城趾への入口道路の少し上の位置に出る。 今回は恩智城趾から近鉄恩智駅前まで下ってからの上りであるので、約1kmを上ることとなる。(恩智神社)(恩智神社参道) 徒歩であれば、この石段の道を上って行くこととなるが、自転車(MTB)なので、左側の坂道を上る。 この坂道をずっと行くと高安山霊園、信貴山のどか村キャンプ場を経て信貴山(朝護孫子寺)へと行くことができる。(恩智神社・兎龍門) 二の鳥居前から階段を行かず坂道を100mほど行くと神社への北側入口の兎龍門の前に出る。この神社の神の使いが兎と龍であるところから兎龍門と命名されたのでしょう。鯉が龍になることに因んでの立身出世のための狭き門である登龍門を真似た訳ではないでしょう。こちらは狭き門ではない(笑)。石灯籠が左右にあるだけ、出入りご自由に、の広き門である。 当神社の卯辰祭供饌行事が八尾市無形文化財第1号に指定されたことを記念して平成16年に駐車場の門として整備したものだそうな。 兎龍門から入って先ず出会うのが社務所の手前にある「閼伽井戸」である。(閼伽井戸) 空海が、恩智神社参詣の折に、峡谷の岩に錫杖を突き立てたら霊水が湧き出した、それがこの閼伽井戸だというのである。まあ、弘法大師の霊力を宣伝するのは神社としては方向違い、恩智神社のホームページでは「弘法大師に縁ある閼伽井戸(あかいど)(清明水)は古くより天候を予知する清水として知られ、雨の降る前になると赤茶の濁水が流れ出るという不思議な井戸です。」と言うにとどめている。(恩智神社・拝殿) 恩智神社は雄略天皇の時代(470年頃)に創建された古社で河内国二の宮である(一の宮は枚岡神社)。元は物部氏の神社であったとする説もあるようだが、恩智神社の由緒書によると、奈良時代に藤原氏によって再興され、香取神宮から天児屋根命が勧請されたとのこと。天児屋根命はその後枚岡神社に遷座し、春日大社へと繋がることから、枚岡神社と同様に恩智神社も「元春日」と呼ばれるそうな。 天児屋根命の枚岡遷座後はその五世の孫である大御食津彦命と大御食津姫命を主祭神とする。大御食津姫命は伊勢神宮外宮の豊受姫大神と同一神とされる。<参考>恩智神社公式ホームページ(恩智神社・本殿) 本殿の裏に回ると横穴式古墳がありました。 本殿の前と拝殿の両サイドには、撫で兎、撫で龍が置かれていて何やらユーモラスでもある。 (神龍と神兎)(本殿前の神縁兎「撫で兎」)(天児屋根命を祀る摂社・春日神社) 拝殿の横には天児屋根命を祀る摂社・春日神社もある。(説明石碑)(恩智神社由緒書き)<参考>恩智神社・Wikipedia 参道の階段脇には神宮寺感應院がある。(神宮寺感應院) ご覧のように、恩智左近の恩智城築城によって、随分と高い場所に移転させられたので、境内からの見晴らしはよい。 兎龍門の近くに駐輪していたMTBの場所に戻り、坂道を下ろうとしたら、ザックの男性が坂道を上って行かれました。信貴山に行かれるのでしょうか。 以前、竜田越えの道から信貴山までMTBで行ったことがあるが、こちらの道の方が近いのだろうか、などと思いつつ、恩智川まで一気に下る。川辺に出て右に少し行くと馴染みの喫茶店nanaであるが、今日はお休みでシャッターが下りていました。珈琲は諦めて帰途に。(完)<参考>カテゴリー「近隣散歩」の記事はコチラから。
2014.01.15
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(承前) 12日の日記の続きです。と言っても内容的には繋がりはありません。11日、12日の日記で取り上げた八尾第一万葉植物園の続きにあるのが恩智城趾なのであるというだけのことです。いや、恩智城趾公園の一角が万葉植物園になっている、と言う方が適切かも知れない。 ということで、今日は恩智城趾から始めます。 恩智城というのは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて当地を治めた恩智左近満一が築城した城である。(恩智城趾) 下掲の説明板石碑にもある通り、此処は恩智城の二の丸跡らしい。 かつては城趾には南高安小学校が此処にあったようですが、今は桜の木が沢山植えられた城趾公園になっている。赤い煉瓦の門は校門の名残である。 桜の季節に訪ねたこともあるが、恰好の花見スポットでもある。(恩智城趾碑、左は南高安小学校・旧恩智小学校跡地の碑)(恩智城趾碑)(恩智城趾説明副碑) 城趾から少し下った処に、恩智左近満一の墓がある。 恩智の地名は、「阿智(あち)」が訛ったものとされる。(注)「阿知使主(あちのおみ)」の「阿知・阿智」である。日本書紀・応神紀の「二十年秋九月(ながつき)に、倭漢直(やまとのあやのあたひ)の祖(おや)阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並に己が党類(ともがら)十七(とをあまりななつの)県(こほり)を率(ゐ)て来帰(まうけ)り。」とある阿知使主である。 「新撰姓氏録」には「高安忌寸、阿智王之後也」とあり、恩智の地は阿知使主を祖とする氏族が支配していたものと見られる。(注)昨日(2014年8月29日)、氣乃國の音痴さんが下記の通りコメント下さいましたが、「隠 地」、「遠地」説もあるとのことです。 恩智左近満一がその末裔であるのかどうかまでは保証の限りではない。 彼は楠公八臣の一人として、楠木正成に従って南朝方で活躍する。正成が建武3年(1336年)5月の神戸・湊川の戦いで討ち死にした後も息子の正行をよく支えたという。 しかし、正平3年・貞和4年(1348年)1月の四条畷の戦いで敗れ、正行は弟、正時と刺し違えて自決。恩智左近も討ち死にしたという。この時に恩智城も落城する。もっとも、それよりも以前(1337年7月)に熱病で急死したという説などもあるから、真実は定かではない。(恩智左近満一の墓) 墓は石垣の高みにあり大阪平野が一望できる場所である。此処も城の一角であったのだろう。地元の人達が大切に墓を守っているのであろう。掃除も行き届き、真新しい花が供えられている。 墓のお隣の民家の庭の犬が盛んに吠え立てるので、気分は落ち着かない。ヤカモチを北朝方と見たようだが、ヤカモチは北でも南でもないのである。犬に言っても詮ないが、考えてみれば、まあ、自宅はこの地のずっと北方にあるから、北朝と見られても仕方ないか(笑)。 或いは、ヤカモチの館は南朝方に付いた水走氏の館のあった場所の近くだから、水走氏所縁とも言えるところ、こちらはどうやら「ワンワン」と鳴く「犬走」氏のようだから、やはり「水が合わない」ということであるのかも。(同上) 坂を下り、国道170号(旧道・東高野街道)を渡り、少し行くと、恩智神社頓宮がある。天王の森である。河内二の宮・恩智神社はかつてはここにあったらしい。 更に西に下り、恩智川を渡ると近鉄大阪線恩智駅前に出る。駅前にあるという案内説明板(下掲)を撮影するための寄り道である。(近鉄恩智駅前の案内説明板)(近鉄恩智駅) 駅前から再び「天王の森」へと取って返す。(天王の森) 恩智城が築城された時、ここにあった恩智神社を城からは見下ろすことになるので、よくないとして、城よりも更に高い現在の場所に神社を移設したのだという。(祇園社) 天王の森には、小さな地蔵堂が片隅にあるほか、上のような祇園社が祀られている。 ここは、石器時代の遺物が出土した遺跡でもあるらしく、下のような遺跡碑も建てられていました。(恩智石器時代遺跡碑) 石器時代にまで遡ってしまっては恩智氏も阿知使主も関係のないこととなるので、これは無視することに(笑)。 国道170号(旧道・東高野街道)を渡ると大きな鳥居。恩智神社一の鳥居である。ここからは上り坂。この奥は自転車には厳しい坂道になるが、頑張れば何とか上り切れるのが憎いところで、意を決して、喘ぎ喘ぎ上って行く。(恩智神社・一の鳥居) 文字数制限もあるので、今日は此処までとします。 この後、鳥居を潜り、恩智神社へ向かいますが、中途半端な処で途切れそうなので、続きは明日です。 (つづく)
2014.01.14
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第135回智麻呂絵画展 本日は、銀輪散歩の記事をひと休みして、第135回智麻呂絵画展であります。 11日の銀輪散歩の帰りに智麻呂邸に立ち寄り、新作3点を仕入れて参りましたので、今回の出展作品は合計8点となります。どうぞ、ごゆるりとご覧下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ずは「幸福の木」から。(幸福の木) これは多分「幸福の木」と呼ばれる、ドラセナ属の植物だと思うのですが、どうして「幸福の木」なんでしょう。その由来などは知らないが、「幸福」の駅名に群がる日本人の「言霊」に寄せる思いが生んだ名でもあるか。 また、ドラセナという何語とも知らぬ元の名もどんな意味なんでしょうね。 語呂の似たのにウナ・セラ(Una Sera)というイタリア語があるが、これは「一夜」という意味ですな。昔流行った歌に「ウナ・セラ・ディ・東京」というのがあったかと思いますますが、これは「東京のウナギ屋は背開きで」ということでは勿論なくて「東京の或る夜」という意味。 で、この語呂の似たドラセナとウナセラの二つを結びつけて戯れ歌にすると、ウナセラディ 東京聴きつつ ドラセナの 絵など見る夜も しあはせならむ (猪瀬去ル・デ・東京)となりますかな(笑)。 今更「猪瀬」でもないが、ということで、「イマサラ・デ・東京」の「連想」からの作者名「猪瀬去る・デ・東京」となった訳ですが、これはご愛嬌です。年が明けたのであれば「ダレガナル・デ・東京都知事」とするのが順当でありますかな。(お正月の花) これは、智麻呂ご夫妻のお嬢さん、若草三姉妹、え姫・なか姫・おと姫様のうちの「おと姫」様がお持ちになった花だそうな。千両の赤い実とガーベラの花、それに名の知らぬ白い花。(水仙) 上の「幸福の木」もそうなのですが、この水仙も智麻呂さんが通って居られるデイサービスの施設でお描きになったものです。 前回の智麻呂絵画展の記事でシクラメンが描けないで水仙の絵をお描きになったことを記述いたしましたが、それを読んだデイサービスに通って居られる他の方々から、「シクラメンの絵が見たい」「水仙ばかり描かないでシクラメンを描かなくては」などと冷やかされたりの智麻呂さんであったそうな(笑)。 そのシクラメンの花も一念発起、描き上がりました。一番下に展示いたして居りますので、どうぞご覧下さいませ(笑)。(はなびら餅) お正月のお菓子、はなびら餅です。 けん家持が正月4日に智麻呂邸を初訪問した際の手土産でした。正確には「ひしはなびらもち(菱葩餅)」と呼ぶのだそうですが、詳しいことは、下記の<参考>をご参照下さい。 なお、はなびら餅は第71回展にも登場していますので、久々の再登場となります。 <参考>菱葩餅(梅・鶴亀の和菓子) このお菓子も上の「はなびら餅」と一緒にお持ちしたもの。 「鶴亀」と来れば謡曲「鶴亀」の「亀ハ萬年乃齢を経、鶴も千代をや重ぬらん」を思い出し、「梅」と来れば大伴旅人の次の歌を思い出すのがヤカモチなのであります。わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも (大伴旅人 万葉集巻5-822)(馬-のごみ人形「稲荷駒」) これは、今年の年賀郵便切手のデザインにも採用されている、佐賀県の稲荷駒です。 のごみ人形というのは、1945年に鈴田照次氏の手により生まれた土人形。佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社で土産物として売られるようになって人気を博するようになったそうだが、智麻呂さんが何をモデルにこれを描かれたかは存じ上げませぬ。(三色すみれ) 三色すみれ、などと呼ぶのは古いのかも知れませぬが、これは若草三姉妹の「なか姫」様のお持ちになった鉢植え。 実物には赤い色の花もあるのに、それを省略したのは手抜きであり、彩りにも欠けるとして、恒郎女さんからクレーム。描き直して居られましたが、これはこれでいいのでは、と申し上げると智麻呂さんは「わが意を得たり」とお喜びでありました。 さて、最後はお待ちかねのシクラメンであります。(シクラメン) 実物のシクラメンの鉢植えはこれの何倍もの花が咲いていて圧巻なのでありますが、花も多きに過ぎてはクラクラ目もくらみ、絵を描く妨げにもなるやらん、というものであるらしく、ゲーテの「もっと光を」の逆にて「もっと花の少ないシクラメンを」と智麻呂さんは言われたとか(笑)。 まあ、実際にはそういう無駄はせず、心の内で花を間引くという高度なテクニックを使われて、上のような絵に仕上がった次第。上々の出来栄えかと。 これで、もうデイサービスの皆さんから冷やかされることもありませんですね、智麻呂さん(笑)。シクラメン かきたるのちは すいせんを こころ置きなく かかれよとかも (布市麻呂) なお、念のため申し上げるとシクラメンの絵は今回が初めてではなく、以前にも既に描いて居られます。 第5回展、第21回展、第29回展
2014.01.13
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(承前) 今回の銀輪散歩は、山上憶良の万葉歌碑が近くにあるかと調べていたら、この八尾第一万葉植物公園にある、ということでやって来たもの。 他には、万博公園の「万葉の里」に1基、春日大社の北参道に2基あるようだが、思った以上に歌碑は少ないようだ。大伴家持は和歌のことを「山柿の門」と呼んだが、その「山」とは山上憶良のことだともされる歌人にしては少ないのは「社会派」と称されるその歌風によるのだろうか。 それはさて置き、八尾第一万葉植物公園は、国道170号(旧道)脇の恩智神社一之鳥居を潜って東へ、恩智神社への参道の坂道を上って行く途中、右に少し入った処、恩智城趾公園の東側に隣接して、ひっそりとある。 恩智城趾や恩智神社は別のページで取り上げることとし、歌碑の未掲載分を紹介して置きます。 17.もも<モモ>春の苑 くれなゐにほふ 桃の花 した照る道に 出で立つをとめ (大伴家持 万葉集巻19-4139)18.をばな<ススキ>人皆は 萩を秋といふ よし吾は 尾花が末(うれ)を 秋とはいはむ (万葉集巻10-2110) 19.つつじ<ツツジ>水伝ふ 磯の浦廻の 石(いは)つつじ もく咲く道を また見なむかも (草壁皇子の舎人 万葉集巻2-185)20.やなぎ<ヤナギ>うちなびく 春立ちぬらし わが門の 柳の末(うれ)に 鶯なきつ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-1819) 21.つばき<ツバキ>巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(しの)はな 巨勢の春野を (坂門人足 万葉集巻1-54)22.まゆみ<マユミ>南淵の 細川山に 立つ檀(まゆみ) 弓束(ゆづか)まくまで 人に知らえじ (万葉集巻7-1330)<参考> カテゴリー「万葉」の記事はコチラからどうぞ。
2014.01.12
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本日は銀輪散歩。八尾第一万葉植物公園の万葉歌碑をご紹介することとします。 この季節ですから花もなし。うらぶれた様ですが、歌碑に刻まれた歌でその花の姿などを想像して戴くことと致しましょう。(八尾第一万葉植物公園・大阪府八尾市恩智中町5丁目)この苑も 冬は寂しさ まさりける 人目も花も かれぬと思へば (偐家持)(本歌)山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬとおもへば (源宗于 古今集315 小倉百人一首28) 1.さなかづら<サネカズラ>あしひきの 山さな葛(かづら) もみつまで 妹に逢はずや わが恋ひ居らむ (万葉集巻10-2296)2.はねず<ニワウメ>山吹の ひほへる妹が はねず色の 赤裳のすがた 夢(いめ)に見えつつ (万葉集巻11-2786) 3.さきくさ<ミツマタ>春されば まず三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあらば 後(のち)にも逢はむ な恋ひそ吾妹(わぎも) (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-1895)4.たまばはき<コウヤボウキ>始春(はつはる)の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき) 手に執(と)るからに ゆらく玉の緒 (大伴家持 万葉集巻20-4493) 5.もみち<モミジ>もみちする 時になるらし 月人の 桂の枝の 色づく見れば (万葉集巻10-2202)6.あし<アシ>葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜ふりて 寒き夕は 大和し思ほゆ (志貴皇子 万葉集巻1-64) 7.あじさゐ<アジサイ>あぢさゐの 八重咲くごとく やつ世にを いませ吾背子 見つつしのはむ (橘諸兄 万葉集巻20-4448)8.まつ<マツ>磐白の 浜松が枝を 引き結び まさきくあらば またかへり見む (有間皇子 万葉集巻2-141) 9.うめ<ウメ>春されば 先ず咲く宿の 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ (山上憶良 万葉集巻5-818)10.ゆづるは<ユズルハ>いにしへに 恋ふる鳥かも ゆづる葉の 御井の上より 鳴き渡り行く (弓削皇子 万葉集巻2-111) 11.ふぢ<フジ>藤波の 花は盛りに なりにけり 平城(なら)の京(みやこ)を 思ほすや君 (大伴四綱 万葉集巻3-330)12.ヒサキ<アカメガシワ>ぬばたまの 夜の更けぬれば 久木生(お)ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く (山部赤人 万葉集巻6-925) 13.ねぶ<ネムノキ>昼は咲き 夜は恋ひ宿(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎 万葉集巻8-1461)14.あふち<センダン>珠に貫く あふちを家に 植ゑたらば 山ほととぎす 離(か)れず来むかも (大伴書持 万葉集巻17-3910) 15.しきみ<シキミ>奥山の しきみが花の 名のごとや しくしく君に 恋ひわたりなむ (大原今城 万葉集巻20-4476)16.さかき<サカキ>ひさかたの 天の原より 生(あ)れ来たる 神の命 奥山の 賢木(さかき)の枝に白香(しらか)つけ 木綿(ゆふ)とりつけて 斎瓮(いはひべ)を 斎ひほりすゑ 竹玉(たかだま)を 繁(しじ)に貫(ぬ)き垂れ鹿猪(しし)じもの 膝折り伏し 手弱女の おすひ取り懸け かくだにもわれは祈(こ)ひなむ 君に逢はぬかも (坂上郎女 万葉集巻3-379) 文字数オーバーで1回には入り切りませんでした。 残りは次回とします。 (つづく)
2014.01.11
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偐万葉・ひろろ篇(その15) この処寒い日が続いていて、若草読書会の新年会資料の作成など、部屋籠りの日々。銀輪散歩も近所をウロチョロで、さして遠出もして居りませぬので、こういう時の助太刀は偐万葉シリーズであります。ということで本日は、ひろろさんに助太刀戴いて、偐万葉・ひろろ篇(その15)の記事アップであります。 <参考> 過去の偐万葉・ひろろ篇はコチラからどうぞ。 ひろろさんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持がひろろの郎女に贈りて詠める歌15首ほか高々に 童女放髪(うなゐはなり)の 伸ばす手の 届かぬ先に あれるは何ぞ (気になるヤカモチ) (注) うなゐはなり=結ばずに垂らしている少女の髪。 または、放髪の少女のこと。あと三日 待てば届くぞ 童女(わらはめ)の 背伸びにわれも 一茶なりけり (「もうちょっと」) ひろろの郎女が作れる句に偐家持が付けたる脇句シャッターの 音吞み込んで 夏の山 (ひろろの郎女) 寡黙なるよし 男(をのこ)もしかり (偐家持)会津にも やまとのあると 知りしより また訪(と)はまくの 欲しきその道忠太郎 それとも左膳 沢蟹も 軒下三寸 借り受けまする(瞼の蟹) (玄関先に蟹)小雨降る 道たづたづし 止む待ちて 行かせ蟹さん 貸さまし宿を (偐ひろろ) (本歌)夕やみは 路(みち)たづたづし 月待ちて 行(ゆ)かせ吾背子 その間(ま)にも見む (豊前国娘子大宅女(おほやけめ) 万葉集巻4-709) (「雨の日」)待つ人の 手を振る見えて ゆるむ歩(ほ)は 傘の少女(をとめ)の 恋にやあらむ師宣(もろのぶ)に あらねひろろは 見返りの 猫にし見たる 美しきもの (「見返り猫」)赤き実は 何とも知らね 黄葉(もみぢば)に 添ひてぞなれば 高き青空 (赤い木の実)見知らずは 行きて喰はめと 思ほえど 身知らず柿の 会津は遠し (隣の客)常陸なる 浪逆(なさか)の海と 聞きしかど 妹し至らば 波立つましじ (本歌) 常陸なる 浪逆(なさか)の海の 玉藻こそ 引けば絶えすれ あどか絶えせむ (万葉集巻14-3397) (「初冬の北浦」)大局観 なき碁まま打つ 吾(あ)によきは 太極拳の 呼吸(いき)にしあるや (頭打家持) (太極拳)西会津 往(ゆ)き来(く)の道の 楽しきは ひとり占めなる 照る山もみぢ (偐ひろろ)トウシューズの 紐結ぶ時 憂きもよきも いかほどなるや 鳥になるわれ (北原白鳥) (「トゥシューズ」)会津嶺に 雪は降るらむ 展覧会 見にも行かめど 道遠みかも睦月立つ 春の始めの 晴れたれば 万両の実の 照るをぞ描(か)かな (本歌) この雪の 消(け)遺(のこ)る時に いざ行かな 山たちばなの 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226) (注) 山たちばな=ヤブコウジのこと。 ひろろの郎女が返せる句1句 一がつの ありがたきかな 贈りうた (「赤い実」)(注)掲載の絵画・写真は全てひろろさんのブログからの転載です。
2014.01.10
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本日は、今年最初の囲碁例会の日。 生憎と朝から雨。マウンテンバイク(MTB)の出番はなし。 電車で梅田に向かいました。 出席者は、竹◎氏、青◎氏、福◎氏と小生の4名だけ。 昨年は大きく負け越したが、今年はどうか。 今年の打ち初めは竹◎氏と。この方は小生が入社した時の上司で小生が配属された課の当時の課長であったお方。同じ大学の先輩でもあったことで、可愛がって戴いたのであるが、小生が碁を始めたのは、同氏に勧められてのもの。言わば小生にとっては碁の師匠とも言えるお方であります。 対局は、終盤に入った処で、取り込んでいた相手の白石4子が小生の勘違いの一手で生還してしまい、その煽りで右上隅の黒石の一団が死んでしまうという一大事に。これで一気に形勢が悪くなり惨敗となりました。 勘違いというのは種石の黒2石に絡んで来た相手の石に対してうっかり打った手が自身の駄目詰まりを招き、シチョウ(四丁)で取られてしまうことになる、というのを見落としていたことでした。シチョウ知らずに碁を打つな、と言われますが、極めて初歩的なミス。このようなミスをしていては勝てる筈もありませぬ。 続いては福◎氏と2局打ち、1勝1敗。ということで、今年最初の例会は1勝2敗と、早くも黒星先行となった次第。 帰りも雨。そんなことで、何処にも道草せずに帰宅。掲載すべき写真がありません。手持ちの写真で何か適当なものがないかと探したら、富士山の写真がありました。お正月なので、富士山なら場違いではないでしょう(笑)。(富士山) 山部赤人の富士山の歌は有名であり、既に当ブログでも掲載済みであるが、今回は、高橋虫麻呂の歌の方を掲載して置くこととしましょう。 <参考>富士山と山部赤人万葉歌碑 2011.5.13.なまよみの 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と こちごちの 国のみ中ゆ出で立てる 不盡(ふじ)の高嶺は 天雲(あまぐも)も い行きはばかり 飛ぶ鳥も とびも上(のぼ)らずもゆる火を 雪もち消(け)ち ふる雪を 火もち消(け)ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 靈(くす)しくも います神かも 石花(せ)の海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ不盡(ふじ)河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の鎮(しづめ)とも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺(たかね)は見れど飽かぬかも (高橋虫麻呂歌集 万葉集巻3-319) 反歌不盡(ふじ)の嶺(ね)に ふりおける雪は 六月(みなづき)の 十五(もち)に消(け)ぬれば その夜(よ)降りけり (同巻3-320)不盡の嶺を 高みかしこみ 天雲も い行きはばかり たなびくものを (同巻3-321)(注)なまよみの=甲斐にかかる枕詞。「ほの暗い」という意。 うち寄する=駿河にかかる枕詞。 こちごちの=あちらこちらの意。 み中ゆ=中間から。「ゆ」は「~から」という意で、動作の起点を示す。 石花の海=富士山の北側にあった湖。西湖と精進湖は、貞観6年の噴火 でこの湖が二つに分断されたものである。 日の本の=やまと(大和)にかかる枕詞。
2014.01.08
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偐万葉・ふらの篇(その1) 偐万葉シリーズ第192弾は、ふらの篇(その1)であります。「ふらののくらふと」ことfurano-craft氏は北海道・富良野の森の保全に資するため、京都から富良野に移住、森の自然素材による木工雑貨の創作・販売の活動をされています。咋年3月からブログの交流が始まり、今回、偐万葉初登場であります。 <参考>furano-craft氏のブログはコチラからどうぞ。 同氏経営の木力工房「富麓庵」のホームページはコチラです。 偐家持がふらののくらふとに贈りて詠める歌19首富良野まだ 雪にしあれど 大粒の 雪にしあれば 春は近しも富良野には 雪は降りつつ しかすがに 野辺の光に 春はきざすも槐(えんじゅ)咲く 夏の丘べの 夕焼を 時計にとどむ 桑の葉ぞこれ (桑の葉の時計) (オリオン座をあしらったランプシェード)ラベンダーの 香りほのかに オリオンの 三ツ星冴えて 夜ぞ更けにける北の地に 春や告げけむ 今箒(いまばはき) 背子がかたへに 芽吹くこの頃 (本歌) はつ春の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき) 手にとるからに ゆらぐ玉の緒 (大伴家持 万葉集巻20-4493)木の根明け 今かと待ちぬ コキアにて 背子が作りし 箒の並ぶ (コキアの箒)蝦夷(えぞ)鹿(しか)も 春の野にいでて 草を食(は)む わがカメラでも 行き来(く)に撮りつ (偐ふらののくらふと) (本歌) 君がため 春の野にいでて 若菜つむ わがころもでに 雪はふりつつ (光孝天皇 古今集21 小倉百人一首15) (エゾ鹿) (キタキツネ)わすれじの キタキツネの子 かはいければ けふにかぎらず つぎてや見がも (北の狐麻呂) (本歌) わすれじの ゆくすゑまでは かたければ けふをかぎりの 命ともがな (高階貴子 新古今集1149 小倉百人一首54)わが背子が 富良野の森の 木で作る 思ひのかたち 楽しきろかも 富良野麻呂 朝は草刈り 雨降れば 午後はひねもす 木を削るらむ手にやさし 木の肌ざはり ごつごつと 森のスプーンの 武骨なるよしみ雪ふる 富良野の森の 奥深く 君切り出せる スプーンの形ふーふーと 熱きスープを この匙で 凍てつく寒き 夕(よひ)にすすらむ (木のスプーン)楡の臼 杵は榛(はん)の木 柄はいたや 楊枝入れにも 入ればや遊び (臼と杵)来る年は うまにしあれど 倦(う)まずもや われは作らな わが思(も)ふ形 (森のくらふと)わがうまを 下手とな言ひそ なべてみな 味あるものは うますぎもせず (森のくらふと) (干支の馬)夜をこめて 雪踏み行ける 蝦夷鹿の もとなかなしき 足跡つづく (鹿角大夫) (注)もとな=わけもなく、しきりに。 鹿角大夫=猿丸大夫のパロディ夜もすがら 降りたる雪も 止みたれば 木間(こま)ゆ朝日は 今しも昇る赤々と わが初春を ことほぐは 富良野の森の 朝日なりけり (鹿の足跡) (富良野の森の日の出)(注)掲載の写真は全てfurano-craft氏のブログからの転載です。
2014.01.06
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かつては大晦日から元旦にかけては生駒山に登って初日の出を見る、ということをよくしました。もっとも、初日の出が見られたのは数える程で、大抵は雲が遮って空振りになったのですが・・。また、「真夜中の散歩者」よろしく徹夜で榛原駅から大宇陀のかぎろひの丘まで歩き、人麻呂歌碑の傍で夜明けを迎えるなどのこともありましたが、これは家族全員の不評を買いました。父が存命中は京都の八坂神社や奈良の春日大社への初詣に付き合ったりもしました。伏見稲荷への初詣も一度したことがありますかな。 最近は、不精になって、寝正月が多い。初詣も元旦ではなく、2日か3日に散歩を兼ねて自宅近くの枚岡神社(河内一之宮)、石切神社、瓢箪山稲荷神社の三神社を回るというのが恒例になっている。もっとも、小生のそれは、参拝はせず、参拝者の群れを見つつ社殿前を横切るというに過ぎないのであるから、正確には「初詣」とは言えない。 今年も2日はその「三社めぐり」でありました。 コースは、自宅~枚岡梅林~枚岡神社~姥ヶ池~枚岡公園~楠木正行公首塚~石切神社~瓢箪山稲荷神社~自宅。ぶらぶら歩きであるが、これでも3時間位の歩きにはなるので、いい運動にはなる。 では、三神社の写真等で記事アップとします。 ●枚岡梅林 最初の枚岡梅林の写真は撮らなかったので、過去記事をご参照下さい。 (枚岡梅林の記事) 枚岡梅林・花園中央公園 2009.2.21. 枚岡梅林 2010.2.22. ●枚岡神社(枚岡神社) (枚岡神社の記事) 枚岡神社 2008.7.12. ●姥ヶ池 姥ヶ池の写真も撮らなかったので過去記事をご参照下さい。 (姥ヶ池の記事) 墓参と桜散歩 2011.4.2. ●枚岡公園 枚岡公園の写真もありませんので、過去記事をご覧下さい。 (枚岡公園の記事) わが待つ秋の近づくらしも 2010.7.27. ●楠木正行公首塚(楠木正行公首塚) <参考>楠木正行首塚 楠木正行の墓は東大阪市上六万寺町の往生院にあるが、それは胴体のみが葬られていると伝えられている。首はこちらに祀られているという訳である。もっとも、正行の首塚と伝えられるものは、他に宇治市六地蔵の正行寺、京都市右京区嵯峨の宝筐院にもあり、真偽のほどは知らずである。 (楠木正行公首塚の記事) わが待つ秋の近づくらしも 2010.7.27. ●石切神社 石切神社は大勢の参拝者で、拝殿前から神門の外まで長蛇の列で、最後尾からだと拝殿前に行き着くのに1時間近くかかりそうである。(石切神社・神門前)(石切神社・拝殿前) ●瓢箪山稲荷神社 瓢箪山稲荷神社に着いた頃は午後5時を過ぎていて暗くなっていました。その所為でか写真もピンボケ。 ということで、下の写真は本日(5日)の銀輪散歩の帰りに立ち寄って撮り直したものであります。(瓢箪山稲荷神社)<参考>初詣 2010.1.2. 初詣2011 2011.1.3. 枚岡神社と鹿 2012.1.6.
2014.01.05
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第134回智麻呂絵画展 智麻呂絵画ファンの皆さま、あけましておめでとうございます。 この1年も皆さまによきことが豊かにありますように。 さて、本日は、今年最初の智麻呂絵画展の開催であります。 旧年中は智麻呂絵画展に対し、ひとかたならぬご厚誼を忝くし、有難く心よりお礼申し上げます。本年も変りませずご愛顧賜りますよう宜しくお願い申し上げます。 では、智麻呂絵画散歩、ごゆるりとお楽しみ下されませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ずは、お正月らしく、世界遺産・富士山の絵です。(富士山) この絵は、恒郎女さんの、静岡ご在住のご友人から送られて来た、富士山の四季折々の写真で構成されたカレンダーに掲載の或る写真の一部から絵にされたものです。智麻呂風にアレンジされていますので、元の写真とは随分違ったイメージに仕上がっています。 山部宿禰(やまべのすくね)赤人、不盡山を望める歌一首并に短歌 天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺(ね)を 天(あま)の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡の高嶺は (万葉集巻3-317) 反歌田兒(たご)の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡(ふじ)の高嶺に 雪はふりける (万葉集巻3-318) 次は今年の干支、馬の絵であります。(馬) これは、和郎女さんが制作された馬の押し絵(下記写真)を絵にされたものであります。 和郎女作品展は長らく開催致して居りませんが、この馬の押し絵は、追って和郎女作品展で取り上げたいと思っています。(押し絵の馬by和郎女) 次は、花屋さんで買い求められた水仙です。 シクラメンの絵に悪戦苦闘されていた智麻呂さんが気分転換に描くべく恒郎女さんに買って来て欲しいと要望されたものだそうな。 恒郎女さんとしては、豪華なシクラメンの花の鉢植えを画材にと智麻呂さんのために買い求めて来られたのでありましたが、余りにも沢山の花を咲き誇らせている様に圧倒されたか、智麻呂さんの筆がなかなか進まない。 それで、水仙に浮気の智麻呂画伯となった次第でありますが、これは、恒郎女さんには不本意なことで、当然にブーイングでありました(笑)。水仙の ほどがよかりき シクラメン さはにぞ咲くは 疲れもぞする (偐智麻呂)(水仙) しかし、水仙を描き上げたことで、気分が乗ったか、智麻呂さんはシクラメンに再び挑戦。描き始められました。 今回は間に合いませんでしたが、次回にはその絵がご紹介できるものと存じます(笑)。「出会いの時のきみのようです。」というメッセージが添えられているかどうかは存じ上げませんが(笑)。(山◎さんのクリスマスツリーのケーキ) これは、智麻呂ご夫妻の年来のご友人である山◎さんがクリスマスに合せて贈って下さった、手作りのケーキです。 そして、下はご近所の可愛いお友達の幼い姉妹、さきちゃんとみずきちゃんが作ってくれたクリスマスクッキーです。(さきちゃんとみずきちゃんのクリスマスクッキー) 下のクッキーも同様のものなのか、別のそれなのかは、ヤカモチ館長の取材不足にて情報がありません。(クッキー&ケーキ) 次の、ガマと稲穂は小万知さんから戴いた画材です。(蒲と稲のコラージュ) 次は、東大阪市にある和菓子舗「寿々屋」のオリジナルのお菓子、「おかげ芋」です。以前(第89回展)にも絵になって居りますが、画材も兼ねてヤカモチがまたまた手土産にお持ちしたものです。(おかげ芋) 本日もご来館、最後までご覧下さり、有難うございました。
2014.01.03
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偐万葉・ビッグジョン篇(その21) 今年最初の偐万葉はビッグジョン篇であります。 <参考>過去の偐万葉・ビッグジョン篇はコチラからどうぞ。 ビッグジョン氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が交野歩麻呂に贈りて詠める歌23首 並びに歩麻呂が返せる歌3首敷島の 大和心も 秋なれば 夕日に匂ふ もみぢ葉の色 (横槍家持) (本歌)敷島の 大和ごころを 人とはば 朝日ににほふ 山桜花 (本居宣長) 我妹子(わぎもこ)と 逢ひし日の笑み 思はゆる ネリネの花の 咲くをし見れば山崎の もみちふみわけ のむ酒の よしと聞くとき 下戸は悲しき (下戸家持) (本歌)おく山に もみぢふみわけ なく鹿の 声きくときぞ 秋はかなしき (猿丸大夫 古今集215 小倉百人一首5) 竜胆(りんだう)の 花咲くごとに 飽かずもや 撮りてブログに 今年も載せつ (偐歩麻呂)赤みよし 穂谷の川の ななみの実 今日九実(ここのみ)に みのりぬるかな (伊勢老(いせのおゆ)) (本歌)いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重(ここのへ)に にほひぬるかな (伊勢大輔 小倉百人一首61) あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今さかりなり (小野老(おののおゆ) 万葉集巻3-328)七実の木 実を見し日より むらさきの 夏に咲くとふ 花も見が欲し (穂谷老(ほだにのおゆ)) 歩麻呂が返せる歌1首コメントに 歌次々と 湧き出して 汲めども尽きぬ 泉のごとく (汲み人知らず) 白髪の 山ゆめぐれば まつ尾道(ぢ)は 杉うち並(な)みて 行き過ぎがたき玉くしげ 白髪岳に 出で立ちて 見ばや遠山 八重垣なすを 素通りも また来む時の 楽しみを あとにぞのこす 通のわざなれ (素通法師)道の隈 熊に注意と ある見つつ 懲りずや君は 山路行くらむ いと高き 塔にしあれば 足元は 見えぬものとぞ 知るべきものをいまはもや のぶるいひわけ せんなきに なほゐすわると きみいふらむか (万葉都民) (今はもや 述ぶる言い訳 詮なきに なほ居座ると 君言ふらむか) (注)猪瀬直樹(東京都知事)の名を折り込んだ歌。正確には「猪」は 旧仮名遣いでは「ゐ」で「い」ではないので、修正した歌は次の通り。 ゐなほりて のぶるあれこれ せんなくば なほひゃくじやうで きみをたたさむ (万葉都議会) (居直りて 述ぶるあれこれ 詮なくば なほ百条で 君を糾さむ) 歩麻呂が追和せる歌1首いろあせた のらりくらりの 説明に なおややこしき 疑問が残る散るときは 是非に及ばず かく言ひて 見事散るこそ をのこなりけれ (偐信長)ゐなほりも のがれもならじ せっちんづめ なほうらめしき きみにあらずや (都知事番記者)(居直りも 逃れもならじ 雪隠詰め なほ恨めしき 君にあらずや)今みれば 知事の姿も かなしけれ その身ひとつが 悪しくもなきに (大江戸万里) (本歌)月みれば ちぢにものこそ かなしけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど (大江千里 古今集193 小倉百人一首23)是非もなし 獲(と)るには獲れど 芯喰ひの 虫に食はれて 大根おろし (畑麻呂)虫喰ひに 負けず生(な)りたる 大根は すっておろして しかとや食はむ (畑麻呂) 歩麻呂が追和せる歌1首ネキリムシ シンクイアオムシ イモムシも わが菜園は 生命豊かに (虫愛ずるオッチャン) なつきにし なにはのたこやき ふるまひつ ともにしくへば うれしきまさる (偐歩人)なつきにし なつき来ぬれば うれしみと いそいそわれも 出で立ちにける (偐歩人) (本歌)なつきにし 奈良の都の 荒れゆけば 出で立つごとに 嘆きしまさる (万葉集巻6-1049) やることの 忙しければ 見るひまも なけれ息つぐ ひまもなからむ (長の息麻呂)門松も 飾りも済めば 正月を 迎へか行かむ 待ちにか待たむ (歩人皇后)(本歌)君が行(ゆき) 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ (磐媛皇后 万葉集巻2-85) のんびりと 年も明くらし 元旦の 老いたる母と 二人居る午後(注)掲載の写真は全てビッグジョン氏のブログから転載しました。
2014.01.02
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謹賀新年霞立つ 春のはじめを 今日のごと 見むと思へば 楽しとぞ思ふ (大伴池主 万葉集巻20-4300)新年がみなさまにとって どうぞよき年でありますように旧年中のご厚誼有難く感謝申し上げますと共に本年もよろしくお願い申し上げます平成26年元旦偐万葉田舎家持歌集けん家持(新潟県粟島の野馬公園の野馬像) ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^偐万葉田舎家持歌集(にせまんよう いなかやかもち かしゅう)目次それぞれの項目をクリックするとその項目の記事をまとめて見ることが出来ます。絵画展ほか智麻呂絵画展和郎女作品展近江鯨麻呂絵画展(大阪府石切神社の神馬像)偐万葉シリーズ松風篇 大和はまほろば篇 ビターc篇ひろろ篇 カコちゃん08篇 真澄篇木の花桜篇 るるら篇 nanasugu篇カマトポチ篇 くまんパパ篇 ビッグジョン篇童子森の母篇 半兵衛篇 マダム・ゴージャス篇英坊篇 アメキヨ篇 オガクニ篇ふぁみキャンパー篇 ウーテイス篇 若草篇 その他(大阪府土佐稲荷神社の神馬像)銀輪万葉シリーズ大阪府篇 奈良県篇 兵庫県篇京都府・滋賀県篇 和歌山県・三重県篇 北陸篇関東篇 中四国篇 その他(富山県鵜坂神社の神馬像)その他近隣散歩花(1)2007~2011 花(2)2012~和歌草読書会 囲碁関係 万葉短歌・俳句・詩・戯れ歌言葉遊び(奈良県かぎろひの丘公園の人麻呂像)その他のカテゴリー自転車 絵画 能・狂言 友人ほか ブログの歩み 虫 カテゴリー未分類 (左:高知城の山内一豊像 右:富山県高岡古城公園の前田利長像)(滋賀県彦根駅前の井伊直政像)(注)上から2枚目の石切神社の神馬像の写真を除き、写真は全て当ブログの過去の記事に掲載したものの再掲載であります。
2014.01.01
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