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今日はナナ万葉の会の第10回例会の日。昨年4月から始めた月1回のナナ万葉の会も10回目となりました。 今回取り上げた万葉歌人は大伴旅人。山上憶良などと並ぶ万葉第3期を代表する歌人にて、大伴家持の父である。旅人の大宰府赴任の事情や当時の政治状況、長屋王の変などを交えながら、大宰府で妻を亡くした旅人の心にも寄り添いつつ、彼の歌を鑑賞。そして、天平2年(730年)1月13日、太宰帥大伴旅人邸で開かれた観梅の宴での歌32首の中のいくつかを解説、鑑賞致しました。 喫茶ナナ(cafe de nana)に行く前に近くの和菓子屋さんに立ち寄りました。会のお茶休憩の折に参加者の皆さんに召し上って戴こうと考えてのものでした。「我が園に梅の花散る」が講義のサブタイトルであり、観梅の宴の歌を取り上げるので、「梅」をモチーフにした和菓子があれば「落ちがつく」のだが、という小生の目論見でした。 しかし、世間はそうは都合よくはできていないもの。梅関連の菓子はなし。仕方がないので桜餅と苺大福を買い求める。桜と苺で「埋め合わせ」で「ウメ」になるだろうと苦しい駄洒落。 今日の参加者は男性3名、女性5名。小生を含めて全9名でした。会終了後はママさんから「おでん」の振舞もあって、ちょっとした新年会の風情。風雅の点では、旅人らの「観梅の宴」には及ぶべくもないが、小生も含めて皆さん「おでん」をペロリ完食。こちらも「完食の宴」にて、語呂的にはヒケを取らないのでありました。(ナナの店先には本日の案内チラシも) 本日の例会のタイトルの「わが園に梅の花散る」は、観梅の宴で主人役たる大伴旅人が詠んだ歌「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」という歌の一節を取ったものである。 白梅の咲き散る様を降る雪に喩えるというのは常套的なことで目新しくもない、陳腐なこととも言えるが、「天より雪の流れ来るかも」とゆったり歌い上げている処は、なかなかなもので、小生の好きな歌の一つでもある。 となれば、梅の写真を添えなくてはブログ的には点睛を欠くというものと、ナナへと向かう途中の道すがら、梅は咲いているかと探しつつ銀輪を走らせたのですが、ありました。八尾市垣内5丁目にある小さな公園(善光寺の北東裏手)の入口に白梅が咲き始めていました。(梅の花) 梅を雪になぞらえたように、万葉に登場する梅は白梅であるから、これでよし、である(笑)。 取り上げた梅の歌のうちのいくつかを記して置きましょう。春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ (山上憶良 万葉集巻5-818)青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし (沙弥満誓 同巻5-821)わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも (大伴旅人 同巻5-822)梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ (大伴百代 同巻5-823)万代に 年は来経とも 梅の花 絶ゆることなく 咲きわたるべし (佐伯小首 同巻5-830)梅の花 今盛りなり 百鳥の 声の恋しき 春来たるらし (田氏肥人 同巻5-834) 次回第11回例会は2月23日午後2時からと決まりました。今回は「梅」であったので、次回は「桃」とします。タイトルは「くれなゐにほふ桃の花」です。今回は大宰府でしたが、次回は越中高岡になりますかな。 但し、今回のように「取材」をしている余裕はなさそうです(笑)。 本音では2月は飛ばして3月にと思っていたのですが、2月もやれとのことでありました。では、どちらさまもご免なさって下さいませ。<参考>ナナ万葉の会関連の記事はコチラ。
2015.01.31
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1297歳になりました。と言っても今日のことではなく、昨日のことであります。 本家大伴家持さんは養老2年(718年)の生まれ。何月何日の生まれかは分からないのであるが、昔は生まれた時が1歳で年が改まると2歳と数えるからそれで不都合はなかったのですね。12月31日に生まれたら翌日には2歳。生後2日にして2歳であった訳ですね。それはさて置き、死亡した日は記録があり延暦4年(785年)8月28日(現在の暦だと10月5日)であることが分っている。 彼の死の1ヶ月後9月23日に起こった藤原種継暗殺事件の首謀者とされて、墓を暴かれ官籍抹消、息子永主ら一族が隠岐に流されるという処分を受けている。これについては延暦25年(806年)になって、病床の桓武天皇が赦免の勅を出し、つまり21年後になって漸く名誉を回復している。 ということで、本家の家持は68歳(満年齢では67~68歳)で死亡しているのであるが、にせ家持の方には「死」というものがあるような無いような曖昧模糊たることにて候へば、その後も偐家持となりて生き続け、昨日遂に1297歳の超々々々後期高齢者いや末期高齢者、いやいや無期高齢者と相成り候て、偐万葉田舎家持歌集なんぞという紛らわしい歌集だか何だか判然とせぬものを世に流布せしめるという狼藉無礼傍若無人の振舞を続けて居りまするが、総じて老いの繰り言、寝言、戯言にて是あれば、笑止千万、無視黙殺、捨て置き賜れば幸甚に存じ上げ候也。 さて、漸く、明日31日の「ナナ万葉の会」と明後日「若草読書会」の講義資料が完成致しました。共にテーマは大伴家持が父親・大伴旅人。 ナナのそれは「わが園に梅の花散る」というサブ・タイトルにて天平2年(730年)正月13日の大宰府での観梅の宴の歌を中心に、若草のそれは「あは雪のほどろほどろに降りしけば」というタイトルにて、同じく天平2年頃の作と言われる讃酒歌を中心に、それぞれの歌を鑑賞するということと致します。 「賢しら」は「酔ひ泣き」にも劣りたることと言へる旅人の歌を取り上げるのであれば、「賢しき」事言ふよりも「酒しき」事言ふべしとは思へど、下戸家持、如何なることと相成ります事やら(笑)。酒呑み偐山頭火さんの手助け、口助けをお願い申し上げますかな。 一昨日だったか cafe de nana のママさん・小〇さんから、「今回のテーマは何ですか」との問い合わせあり、「わが園に梅の花散る」だと申し上げたら、「散ってしまうのですか?」という愉快な反応。梅の花 まだ咲かなくに 散るとてか ナナの郎女 百代のごとし (河内旅人)(本歌)梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ (大伴百代 万葉集巻5-823)(大宰府政庁跡 中門跡から北を望む。 奥の山の左端の峰が大城山)
2015.01.30
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偐万葉・ひろみ篇(その3) 本日は、久々の偐万葉シリーズです。シリーズ第229弾は、ひろみ篇(その3)であります。 <参考>過去の偐万葉・ひろみ篇はコチラ ひろみちゃん8021氏のブログはコチラ 偐家持がひろみの郎女に贈りて詠める歌16首草枕 旅も遍路の 閑人も 閑人ゆゑに また忙しき (閑家持)(注)閑人=ブロ友のふろう閑人氏のこと。偐万葉・閑人篇(その4)の記事への ひろみちゃん氏のコメントに対する返事コメントに付したる歌にてあ れば、ふろう閑人氏のことを詠みたるも、本篇に組み入れることとし たるなり。いにしへに 恋ふにはあらね 面影を 秋の薔薇にし 偲びぞ吾が来し (偐薔薇持) (霊山寺バラ園)たぐひ来て 師の奥津城に 参るどち 秋それぞれに 空の澄むらむ(注)奥津城=墓みほとけの ゑみもさにあれ 我妹子は 薔薇のソフトや ゆかしとぞ来し (バラソフト)可も不可も なきをよしとす 齢(とし)となり 風の音(と)咲く花 みないとしかり吉城園 今日はよしとし 寄らずして 奈良のいづくへ 妹行くらむか(本歌)我妹子に 衣(ころも)春日(かすが)の 宜寸(よしき)川 よしもあらぬか 妹が目を見む (万葉集巻12-3011) (若草山)おほらかに ひとなみしかも よしといも おほきほとけに あはむとゆくか (奈良の八一)<大らかに 人波鹿も 良しと妹 大き仏に 逢はむと行くか>(本歌)おほらかに もろてのゆびを ひらかせて おほきほとけは あまたらしたり (会津八一) (東大寺・南大門)蚯蚓(みみず)とる 猪もやはしきと 見る人は 写真とるらし 大仏の池 (猪家持)(注)はしき=愛しき (ミミズをとる猪)おほてらの いけのみぎはに ときじくや このはすがれに はなせうぶさく (偐津八一)(注)みぎは=水際 ときじくや=ここでの「ときじく」は「季節外れ」の意。 はすがれ=蓮枯れ はなせうぶ=花菖蒲 (唐招提寺境内の蓮池に咲く花菖蒲)かにかくに かに道楽に われありき 高井田の店 枚方の店千歳生く 鶴の齢(よはひ)を 過ぐるとも いやときじくに なほし見が欲し(亀麻呂)(本歌)たちばなは 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見がほし (大伴家持 万葉集巻18-4112)(注)ときじくに・時じくに=ここでの「ときじく」は「永遠に」「いつも」の 意。 この歌は見たいとする対象物たる目的語が欠けていて意味不明なるも、こ のままとして置くものなり。春されば まづ咲く花や 蝋梅の かほりほのかに 朝鳥鳴きつ (蝋梅)時と場所 選びてこそぞ 花も歌 歌も花なり かくしぞ人も(注)かくしぞ人も=初案は「人もかくしぞ」であったが偐万葉掲載に当り修正し た。なにとなく かなしき色と 咲くならし 楝(あふち)の花に 夕風吹けばかもかもは にせ家持の 歌かもと 思ふ児やたれ 家をぞ聞かな (鴨短明)妹が家に 咲きて匂へる 蝋梅の 雪は降るとも 春を告げこそ (冬時々春)<脚注>掲載の写真はひろみちゃん氏のブログからの転載です。
2015.01.29
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本日は昔の職場の仲間有志による健人会。 この会は年に2回の宴会と年に4回ゴルフをするという会であるが、ゴルフをしなくなった小生は年に2回の宴会にだけ顔を出している。前回の宴会は日を勘違いしてドタキャンの欠席という失態を演じ(2014.9.3.「大失敗です」参照)、皆さんにご迷惑をお掛けしたので、何が何でも参加しなければならないのが今回。 会場は大阪市内環状線寺田町駅前の料亭「桜美琴」。時間は5時から。環状線の寺田町駅は母の両親の住まいの最寄り駅でもあったので、子供の頃は母に連れられて、この駅で下車(ここから市電(路面電車)に乗って何駅か行くのであるが)したので、言わば馴染みの駅であるが、その祖父母も亡くなって随分の年月を経ているから、この駅に下車するのは久々のこととなる。(JR寺田町駅 昔はこの通りに市電が走っていた。) 会場の店は駅から徒歩1~2分の距離。4時半頃に店の前に到着。少し早いかと思っていたら、背後から「早いですね。」という声。この会の世話役の草麻呂氏でありました。店内に入るとロビーには、関〇氏、田〇氏、森〇氏、由〇氏、徳〇氏、竹〇氏、今〇氏、岡〇氏らが既に来て居られました。皆でアベノハルカスに行って来られたようでした。(桜美琴) 部屋は2階の桂の間。準備が整ったということで、2階に移動。 閑談するうちに、只麻呂氏、鯨麻呂氏、杉〇氏、木〇氏、平〇氏、近〇氏、正〇氏らが来られ出席予定者総勢17名が揃い。即ち前回の小生のような不届き者もなく、開会・乾杯と相成ったという次第。尤も、小生も、前回の不始末の始末を付けねばなるまいとて、次回4月に予定されているゴルフ会の景品に使って戴くため、心ばかりの物を世話役の草麻呂氏にお渡し申し上げ、ご寛恕願うことといたしましたので、これで「一件落着」かと(笑)。 宴会の詳細のご紹介は色々と差し障る面もあり、世間一般の宴会と変わらぬ脈絡もないものでもあれば、ブログご覧のお方もご関心なきことでしょうから、省略です。まあ、賑やかで楽しいひとときでありました。
2015.01.28
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第154回智麻呂絵画展 今年2回目の智麻呂絵画展です。 皆さま多数のご来場お待ち申し上げます。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 今回は全9点の出展でありますが、先ずジャガイモです。 このジャガイモは「さやあかね」という品種で、北海道富良野市の麓郷で栽培されているものです。富良野のブロ友のfurano-craftさんが偐家持館長宛てに送って来て下さったジャガイモ。元旦に届きました。この辺のことは1月2日の日記に記載致して居りますので、詳しいことは省略します。 お裾分けにとその一部を智麻呂邸にお持ちしましたら、下のような絵になって戻って参りました。原画は先日furano-craftさんにお送り申し上げましたので、或は今頃は同氏の工房の一画に飾られているやも知れません。 <参考>降る雪と共に来たれる北の芋 2015.1.2.土の香も 北の大地の それなりて ごろごろ馬鈴薯 出で来も楽し (芋家持) (ジャガイモ 富良野麓郷の「さやあかね」)<追記>furano-craftさんのブログでも紹介されました。(2015.1.26.追記) ブロ友さんの「けん家持さん」から頂いた「智麻呂画伯の絵画」 次は蝋梅と椿の絵。ブロ友であると共に偐家持館長の中学時代の同級生でもあったひろみちゃん氏が、智麻呂さんが蝋梅の花がお好きであると知って画材にと下さったもの。その時一緒について来たのが椿。何れもひろみちゃん氏のお家の庭に咲いていたものであります。(ロウバイ) 蝋梅は、先日の大宰府銀輪散歩でも水城跡に馥郁と咲き匂っていました。蝋梅の かほりほのかに 朝鳥の 来鳴きとよもす 春待つならし (偐家持)(椿・太神楽) こちらの椿は「太神楽」という品種とのこと。太神楽と言うと獅子舞(神楽舞)と傘回しなどの曲芸(放下)とを組み合わせた伝統芸能のことであるが、伊勢神宮に繋がる伊勢派と熱田神宮に繋がる熱田派との二派があると言われる。こちらの椿は伊勢派、熱田派どちらなんでしょう(笑)。 獅子と来れば牡丹。「背中で泣いてる唐獅子牡丹」は高倉健。されど獅子舞になると牡丹ではなく椿となりますか。「背中で笑ってる獅子舞椿」は「なまくら健」とでもして置くか。 上の二つの絵も原画はひろみちゃん氏の手許に届いています。この絵画展に先だってひろみちゃん氏のブログにてご紹介されています。 <参考>「智麻呂さんの画を頂きました♪」2015.1.24.(白菜) この白菜は若草読書会の凡鬼さんが家庭菜園で栽培されたもの。冬瓜、カボチャ、里芋その他色々の野菜をお持ち下さいますが、その都度楽しい智麻呂絵画になっています。(梅の実ひじき) これは、偐家持が太宰府銀輪散歩に出掛けた際に、恒郎女さんのご要望で買い求めたお土産です。出掛ける前には「梅ひじき」とお聞きしていたのだが、現地に行ってみると、てんじんさま通りなど至る処に立っている旗は皆「梅の実ひじき」。まあ、これのことだろうと買い求めたら、果たしてその通りでありました(笑)。実の抜けて ききしも花は まだなれば 梅の実ひじき ばかりありける (菅原実知真) 以下の三獣は、智麻呂邸にあるクリスマスの飾り物で、イエスが厩で誕生する風景を表現したセットの置き物。イエスの誕生を見守るようにして、その周囲に跪いている動物たちの一部です。 恒郎女さんは「もう(これは牛の鳴き声ではありません。)、何を描くやら」と仰っていました。こういう作品も、絵画展の雰囲気に「変化」を付けるものと言うべく、偐家持館長としては歓迎なのであるが、恒郎女さんは懐疑的にて「変か?」と危惧された次第(笑)。(牛) 牛「憂しと見し世も今は恋しき」(驢馬) ロバ「老婆心ながらロバです。老婆ではありません。」 当日記の何処かにも記したかと思うが、ガスター著「ルーマニア鳥獣譚」にはこのような記述があるらしい。 この地上世界を造り賜うた神が地上の動物たちの寿命を決めるに当って、ロバを呼びつけ「汝は労苦せにゃならぬ。すなわち、常に重荷を負い運び、不断に笞うたれ叱られ、休息はちょっとの間で薊や荊の粗食に安んずべく、寿命は50歳」と宣した。これに対してロバは「そんな辛い目をして50年も長らえるのはいかにも情けない。どうか特別のお情けで20年差し引いていただきたい。」と申し出た。で、この20年を人間が貰い受けた。30歳から50歳までの命はロバから貰ったものだから、人間はこの時期はロバのように働き将来のための備えに苦労する、のだそうです。(以上、南方熊楠「十二支考3」より)(駱駝) ラクダ「楽だから座ってます。」 落語するラクダ。「駱駝伊勢に行った(落第生に言った)。」(チューリップ) さて、最後を飾るのは春の花チューリップです。 本来はここに飾られるは水仙の花であったかも知れません。 智麻呂さんは水仙が描きたくなったらしく、恒郎女さんに花屋さんで水仙を買って来るよう頼まれましたが、花屋さんには水仙が無くて「入荷まで暫しお待ちを」と言われてしまう始末。仕方なくチューリップを買って帰られました。それがこのチューリップ。 水仙の代役とは露知らずのチューリップ、随分気取ってご機嫌な様子。「お前こそ主役」とでも智麻呂さんは仰ったのでしょうか。こういうのを「リップ・サービス」と言うのですがね。
2015.01.25
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銀輪散歩などで撮り溜めたマンホールの写真もそこそこの数になりましたので、本日はマンホール・シリーズ第4弾とします。1.東大阪市 左は、(その1)で紹介しているもののカラー版です。 右は、(その1)でカラー版を紹介していますが、そのモノクロ版。2.大阪市 大阪市のマンホールは(その1)・(その3)でも紹介していますが、これは新しく見つけたデザインのものです。3.太子町 大阪府南河内郡太子町の叡福寺には聖徳太子の墓とされる古墳がある。4.橿原市(今井町) 橿原市のマンホールは(その3)にも掲載しています。5.木津川市 (旧加茂町) (旧山城町) 加茂町のは、紫陽花・松・椎茸は分かるがもう一つの花は何の花だろう。山城町のそれも、紅葉・筍・菊は分かるがもう一つの花が不明。6.井手町 井手町のは多分山吹をデザインしているのでしょう。7.京田辺市これはツツジでしょうか。8.和束町 和束町は「茶源郷」と名乗るだけあって、茶畑と茶摘みの乙女。周囲の花も茶の花ですかね。9.名張市 10.津市(旧白山町)11.中部電力 他の電力会社のはどんなのであるか気になりますが、(その3)の宇治市の項で掲載している、天ヶ瀬ダムで目にしたのが関西電力のものですかね。ただ、会社名の表記がありませんから、既製品とも考えられます。12.阿賀町(旧三川村) 上の三川村のそれはスキーと将軍杉をデザインしています。13.新潟市 (横越地区) 上右と下左のデザインのものは(その2)でモノクロ版を紹介していますが、このようなカラー版もありました。 14.太宰府市 太宰府市はやはり梅ですね。わが東大阪市の梅のそれよりも花がリアルで数も多い(笑)。15.筑紫野市 筑紫野市のは藤と椿がデザインされていますが、これは武蔵寺の「長者の藤」と天拝山公園の椿を表しているのでしょうか。 久しぶりのマンホールシリーズでした。 <参考>銀輪散歩・マンホールの過去記事一覧はコチラから。
2015.01.24
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昨日、天王寺七坂の記事をアップしましたが、その中の清水坂の説明板に「新清水寺境内からの眺望は格別で」とあったので、早速に本日の銀輪散歩で立ち寄ってみました。銀輪(MTB)で自宅から1時間程度である。 勝山通りと上町筋との交差点付近で自転車のご婦人から天王寺警察署の所在を尋ねられたが咄嗟には思い出せず、お役に立てませんでした。上町筋を北に行った処にあったのでしたが、日頃警察には余りお世話にはならないので、直ぐには何処と思い出せなかったという次第。(清水坂) 清水坂の上に到着。坂道は、やはり見上げる方が景色になる。下からの写真は昨日の記事でご覧下さい。 清水寺と言うだけあって「舞台」もありました。京都の清水寺を模して建立されたので、新清水寺とも言われるそうだが、有栖山清光院清水寺というのが正式な名称。 舞台からの眺めは・・と先ず舞台に立ってみる。「格別の眺望」とはこれなるか。まあ、格別であって、特別ではない。益して「素晴らしい」とも書いていなかったのであるから、これでよしと致しましょう。高層ビルなどの無かった昔なら、海に沈む夕日なども見えたのでしょうな。 <参考>清水寺(大阪市)・Wikipedia(清水寺の舞台からの眺望)(同上) ついでなので、玉出の滝、なるものも見て行くこととする。 「清水の舞台」から仮本堂の方に石段を下りて行くと、その裏にありました。(玉出の滝)<参考>「玉出の滝」 滝への入口です。 奥に三筋の細い滝の白糸。大阪市内唯一の天然の滝らしい。(同上) 逢坂に出て、坂を下り松屋町筋を北へ。下寺町を走り、千日前通りに出て右(東)へ。帰途につきました。 逢坂を下った処に額縁の店があったので、そこで額を3点買い求めました。智麻呂さんが描かれた絵3点を入れるためのものです。ジャガイモの絵はfurano-craft氏へのもの。椿とロウバイの絵はひろみちゃん氏へのものです。1週間程前に絵は受け取っていましたが、額の準備を失念していたことを思い出し、購入しました。 本日の銀輪散歩で撮影した写真はここまでであるのだが、最近、この付近を何度か走っていて、撮ったもののブログ未掲載の写真が何点かありますので、この際それらを掲載して置くこととします。 先ず、猫がいた齢延寺です(14日記事参照)。源聖寺坂の上にある寺です。(齢延寺) 齢延寺の南隣が銀山寺。 この寺の境内に、近松門左衛門の「心中宵庚申」のモデルとなったお千代・半兵衛の比翼の塚があると、源聖寺坂の案内説明板に記載されていたので、やって来たのだが、比翼の塚なるものは見当たらない。二人の墓がありましたが、この墓のことを言っているのであるか。 比翼の鳥・連理の枝は長恨歌に出て来ることはご承知の通りであるが、比翼連理は男女の深い契りを表す言葉として古来から使用されている。 <参考>お千代と半兵衛の話はコチラご参照。(銀山寺)(お千代・半兵衛の墓)(同上説明板)(お千代・半兵衛の墓) 次は、家隆塚を訪ねた際(7日記事参照)に撮影したもの。家隆塚への入口の処に建っている碑である。(伊達家・陸奥家墓所跡の碑)(同上・説明板) 下寺町、口縄坂と源聖寺坂との中間、松屋町筋に面してある萬福寺という寺の門前に新撰組大坂旅宿の碑が建てられている。(萬福寺)(同上・本堂) 将軍慶喜が大阪城に滞在の際には、その警備のため、新撰組も大坂に出張して来たそうで、その際の宿所の一つが、この萬福寺であったとのこと。(新撰組大坂旅宿跡の碑)(同上・説明碑)
2015.01.23
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囲碁例会の都度の寄り道で天王寺七坂の写真が揃いましたので、今日はそのご紹介です。北から順に写真を掲載します。 (天王寺七坂案内図) <参考>天王寺七坂・Wikipedia 先ずは、一番北側の坂、真言坂(しんごんざか)。 他の坂が全て東西の道であるのに対して、この坂だけが南北の道になっている。坂の上、奥に見えているのが生國魂神社の北側の鳥居である。(真言坂) 次は源聖寺坂(げんしょうじざか)。 七坂の内ではこの坂が小生の一番のお気に入りかも知れない。織田作之助は口縄坂を一等愛したらしいが、彼は彼、我は我である。(源聖寺坂) 下のようにカーブしている部分の石段の坂の風情がなかなかに宜しい。 上・右の写真の右側が銀山寺、左側が齢延寺である。(同上) 次は口縄坂(くちなわざか)。(口縄坂) 石段の登り口に夕陽丘高等女学校跡地の碑が建てられている。 (夕陽丘高等女学校跡地碑)(織田作之助文学碑) 坂の上には織田作之助文学碑が建てられている。彼がこの口縄坂がお気に入りであったことから、文学碑の設置場所は此処と決まったのであろう。碑文は彼の小説「木の都」の一節とのことだが、読んでいないので、ノーコメント。(口縄坂・上からの眺め) 上の写真右の建物が梅旧院ですかな。芭蕉の供養塔があるとのことだが未訪問であります。 次は愛染坂(あいぜんざか)。 大江神社の境内の南側に沿うようにして下っている(上っているということでもあるが)坂が愛染坂。大江神社の東側に愛染堂があるからの命名でしょう。(愛染坂) 坂を下った北側に大江神社の鳥居があって参道の石段がある。愛染坂を上らなくても、この参道を行けば愛染坂の上に行ける。コチラは「大江坂」とでも呼んであげようか。 (大江神社) 続いて清水坂(きよみずざか)。といっても京都の清水坂ではない。(清水坂) 坂の上にある新清水寺からの眺望が格別とのことだが、これもまた未訪問であります。 次は天神坂(てんじんざか)。 この坂の南(右)側が安居神社。先日(14日)訪問したばかりである。(天神坂) 最後は、逢坂(おうさか)。この坂は国道になっていて、風情のない現況となっている。(逢坂) オマケの坂が、学園坂。これを加えて「天王寺八坂」と呼んだりもするらしい。 この坂は口縄坂の一つ北側にある。 学園坂という名は大阪夕陽丘学園があることからの命名なんでしょうが、いかにも歴史の浅いことを感じさせる名前にて、その名前からして七坂からは外されざるを得ないと言うものである。しかし、坂の現況風情からすれば、最後の逢坂よりもこちらの方が七坂に相応しい。(学園坂)
2015.01.22
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(承前)<1月11日(7)・同12日> 県道31号を走っていて榎木社に立ち寄っていないことに思い到り、天満宮方向に向かう。と言っても当初の予定にない行動、ネットから打ち出した地図の範囲外となるので、方向だけが頼りとなる。そこで、大野山(四王寺山)はと探し、その方向へと向かうこととする。 御笠川と鷺田川とが合流する少し下流に赤い擬宝珠のある欄干の橋、落合橋があるが、その橋を渡った処にある落合公園に山上憶良の歌碑がありました。有名な「秋の七種」の歌である。この歌の歌碑は奈良の春日大社の参道にもあり、昨年の1月16日に記事アップしていますので、それをご参照下さい。 <参考>「参道の奥に憶良の歌碑ありて」2014.1.16.(落合公園の山上憶良歌碑)秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種の花 (巻8-1537)萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花 (同1538) 落合公園から御笠川沿い右岸の道を上流へ。途中で道が無くなり左岸に移り更に上流へと行くと西鉄・都府楼前駅に出ました。駅前に菅原道真の詩碑がありました。(都府楼前駅・菅原道真詩碑)都府楼は わずかに瓦の 色を看 観世音寺はただ 鐘声を聴く (菅原道真 和漢朗詠集) 上の詩の原文は「都府楼纔看瓦色 観音寺只聴鐘声」である。道真が太宰府の配所にあって詠んだ七言律詩の一節である。配所にあって外出もままならぬ身の上。大宰府政庁の建物は遠く屋根が垣間見えるだけ。観世音寺の鐘はその音が聞こえるだけ。道真の無念さ・悲哀が言外に漂う。参考までに下に読み下し文でその詩の全文を掲載して置きます。 <参考> 不出門 菅原道真 一從(ひとたび)謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きしより、 萬死兢兢たり跼蹐(きょくせき)の情。 都府樓は纔(わづか)に瓦の色を看(み)、 観音寺は只鐘の聲を聴く。 中懐好し孤雲を逐うて去るに、 外物相逢うて満月迎ふ。 此の地身に検繋なしと雖も、 何爲(す)れぞ寸歩も門を出でて行かん。 上の詩の通りなら、道真さんは「寸歩も門を不出」でありますから、天拝山に登って祈りを捧げたという伝説と矛盾しますが、実の処や如何に。(都府楼前駅 道真詩碑は向かい側の博多方面行きの駅前にある。) 都府楼前駅の踏切を渡り北へ。政庁跡の前の通りに出て、天満宮へ。朝とはうって変って、「てんじんさま通り」は人の波。土産物を買い求めて早々に退散。再び政庁跡近くまで戻り、一つ手前の道を南へ。西鉄の踏切に出る手前にあるのが榎木社。菅原道真の配所跡である。(榎木社)(菅公館址碑)(榎木社説明碑)(榎木社・社殿) 榎社・Wikipedia 天満宮は人、人、人でごった返し、こちらは人影もない。人は天神となりたる道真を崇めはすれど、人間・道真にはさしたる興味もないということでもあるか(笑)。 尤も、こちらは道真の身の回りのお世話をしたという浄妙尼を祀っているそうであるが、年に一度、天満宮の神幸祭(通称「どんかん祭り」)の時には、菅公の神輿が此処で一夜(9月22日夜)を過ごす慣わしにて、この時ばかりは此処も賑わうとのこと。 以上で、1月11日の銀輪散歩終了。ホテルへと戻りました。 翌12日は、天拝山歴史自然公園に再度訪問。武蔵寺をゆっくり見て回り、再び天満宮まで銀輪散歩して、昼食後ホテルに戻り、トレンクルを宅配便で送り、預けて置いたザックを受け取り、午後1時過ぎ二日市駅発の電車で博多駅へ。新幹線で帰阪致しました。 最後に武蔵寺などの写真を掲載可能文字数の範囲内で掲載して、今回の銀輪紀行完結とさせて戴きます。最後は少々手抜きです(笑)。 長らくのお付き合い有難うございました。 <完>(芭蕉句碑) うぐひすの笠おとしたる椿哉 (芭蕉「猿蓑」) 芭蕉、元禄3年2月6日の句。何故この句碑が武蔵寺にあるのかは不知。(武蔵寺)(武蔵寺跡説明板)(武蔵寺境内)(同上境内・長者の藤) (同上・説明碑) (武蔵寺境内・般若心経古塔) (同上・般若心経一字一石塔と観音経写経塔)(太宰府天満宮・浮見堂)(光明禅寺) (同上)(同上)
2015.01.20
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(承前)<1月11日(6)> 水城跡を後にして県道31号沿いにある歴史スポーツ公園へと辿った道は説明するのがややこしいので省略。さして迷うことも無く着きました。 此処にはグラウンドの他に大きな池があって、それを巡るようにジョギングのコースがある。そのジョギングコースや「万葉の散歩道」と名付けられた遊歩道の随所に万葉歌碑が建てられている。順番はもう記憶の外なので、順不同でそれらを紹介します。既出の歌については、歌のみ記し、説明は省略。副碑の写真も添えましたので、歌の意味などをご参照下さい。(山上憶良歌碑・既出1月13日記事参照)妹が見し あふちの花は 散りぬべし 吾が泣く涙 いまだ乾なくに (巻5-798)(山上憶良歌碑・既出1月16日及び17日記事参照)銀も 金も玉も なにせむに まされる宝 子にしかめやも (巻5-803)(作者未詳万葉歌碑)玉くしげ 葦城の川を 今日みては 萬代までに 忘らえめやも (巻8-1531) 葦城の川というのは吉木小学校の東側を流れている宝満川である。下流で筑後川に合流し有明海へと注ぐ。吉木小学校にあった歌碑(1月15日記事参照)の歌と同様に、大宰府の東南にあった蘆城(あしき)の駅家(うまや)での、新任官人の歓迎会で、詠われた歌か。両歌ともに作者が同じなのか、別人作なのかも不明。別人作であれば、前歌が新任官人の着任の挨拶の歌であるから、それを受けて「そりゃ、今日のことは忘れることなどできようか。(忘れてはいかんよ。)」と迎える側の先輩官人の歌とも考えられますかな。或は副碑の解説のように、別の送別会の時の歌とも考えられる。 (同上・副碑) (万葉の散歩道の道標)(作者未詳万葉歌碑)いちしろく しぐれの雨は 降らなくに 大城山は 色づきにけり (巻10-2197) 大城山(おほきのやま)は既に記したように大野山の別名。大宰府政庁背後の四王寺山(その主峰)のことである。水城の築造と同じく唐・新羅の侵攻に備えて山頂に山城(大城)を築いたのである。そんなことから大城山とも呼ばれるようになった。 「いちしろく」は「いちじるしい」「はっきり目立って」というような意味であるから、「はっきりと時雨が降ったというのでもないのに大城の山は色づいたことだなあ。」という歌である。万葉人は時雨が木の葉を色づかせると考えていた。まあ、今でも一雨ごとに紅葉が深くなるなんぞと言いますが。(同上・副碑)(大伴旅人歌碑・既出1月11日記事参照)橘の 花散る里の ほととぎす 片恋しつつ 鳴く日しぞ多き (巻8-1473)(同上・副碑)(大伴旅人歌碑・既出1月10日記事参照)湯原に 鳴く芦鶴は 吾がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く (巻6-961)(大伴旅人歌碑)古(いにしへ)の 七の賢しき 人たちも 欲りせしものは 酒にあるらし (巻3-340) 大伴旅人の讃酒歌13首の内の1首である。いつ作られた歌かは万葉集に記載はないが、歌の配列から天平2年(730年)頃の作か。であれば、妻を亡くした寂しさや無聊の慰みとして酒に逃避した旅人の姿がここにあることとなる。 神への呪的な言葉として出発した歌も、儀式の儀礼歌から宴会での挨拶歌・座興歌・遊戯歌へと変化して行く。万葉も後期になると興により求められた「お題」や「言葉」を折り込んだ歌を作り、その出来ばえや滑稽さを楽しむようになるが、旅人のこの一連の讃酒歌なども、その「はしり」であろうか。諧謔、俳諧ここに始まる、である。 まあ、「酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(巻3-344)」と下戸を猿扱いする歌は、ヤカモチとしては些か承服致しかねる処ではある。で、反撃の1首。あな醜(みにく) 酔(ゑ)ひ泣きすなる 繰り言の 人をよく見ば 猿にかも似む (下戸家持) まあ、呑んでも、呑まなくても、人は猿に似てはいますがね。(同上・副碑)(田氏真上歌碑)春の野に 霧立ちわたり 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る (巻5-839) 例の観梅の宴での歌である。作者名の「田氏真上」は「田辺史真上(たなべのふひとまかみ)」だと見られる。今日、花吹雪と言えば「桜」であるが、万葉の花吹雪は「梅」になる。まあ、これは吹雪のような激しいものでなく、ハラハラそこはかとなく散る梅の花、雪といった風情でしょうか。(同上・副碑)(大伴百代歌碑・既出1月12日記事参照)梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ (巻5-823)(作者未詳万葉歌碑)筑紫なる にほふ子ゆゑに 奥陸(みちのく)の 香取娘子(かとりをとめ)の 結(ゆ)ひし紐とく (巻14-3427) 作者は陸奥国から筑紫へとやって来た防人かも知れない。国の妻(恋人)が結んでくれた衣の紐だけれど筑紫の美人とあってはその紐も解く、と詠っている。「筑紫なる」を他の地名に置き換えれば何処に行っても使えるから、この御仁は行く先々で「〇〇なる」と詠っているのかも知れない(笑)。(同上・副碑) 今日は万葉歌碑オンパレードになりました。この後、ホテルに帰るというのが予定の行程。しかし、帰るには少し早い時刻。県道31号の途中で左折、大宰府天満宮の方向に戻ることとしましたが、それは明日に。(つづく)
2015.01.19
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(承前)<1月11日(5)> 国分小学校の坂を一気に走り下る。広い道に出る。この付近に筑前国分尼寺跡がある筈と探しながら行くと、ありました。何もない跡地。何もないのに「あった」とは変であるが、跡地とはそうしたもの。説明板には「礎石が1個残るのみ」とあるが、それすらも何処にあるのか、見渡せど見当たらない。(筑前国分尼寺跡) 国分尼寺跡の南側の道を下り、県道112号に出る手前の脇道を300m程行くと水城東門跡である。途中に道真が衣を掛けたとかの言い伝えがある衣掛天満宮の森が右手に見えたが、これはパス。小生の持っている本では万葉歌碑が衣掛天満宮の入口から2軒目の民家の玄関脇にある、と記載されていたが、見当たらない。 それは水城跡東門の傍らにありました。どうやら、こちらに移設されたようです。(水城跡)(万葉歌碑)凡(おほ)ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと 振りたき袖を 忍びてあるかも (児島 万葉集巻6-965)ますらをと 思へるわれや 水くきの 水城の上に なみだ拭(のご)はむ (大伴旅人 同6-968) 最初の歌は、天平2年12月、大納言に昇進した旅人が太宰府を去るに当っての送別の宴で、その宴席に侍った児島という名の遊行女婦が詠んだ歌2首の内の1首。 二番目の旅人の歌はこれに和して詠んだ歌である。旅人も2首詠んでいる。下の副碑の方には両2首が記載されているので、そちらを拡大画像でご覧戴くなどしてご確認下さい。 遊女児島と旅人がいい仲であったと見ることも出来る歌であるが、これは送別の宴会の座興だろうから、列席者の受けを狙った二人の「即興漫才」と見るべきだろう。(同上・副碑) 水城の東門のあった場所を県道112号が通過している。東側が一段高くなって展望広場になっているので、上ってみた。(水城・東門跡)(水城の上の展望広場から南西方向を望む。) 途中にトレンクル君は置き去りとしました。 水城は天智3年(664年)に大宰府防衛のために築かれた土塁である。土塁の内・外に濠を作り水を湛えた構造であった。 百済救援・再興のため、援軍を送った日本であったが、663年、白村江で唐・新羅連合軍に惨敗、唐・新羅の侵攻の危険を差し迫ったものと感じていた当時の近江朝廷・天智天皇の危機感が感じ取れる遺物である。 それはさて置き、旅人の送別の宴はひょっとするとこの東門の土塁の高みで催されたのかも知れない。であれば、このような眺めの中で、旅人と児島は歌をやり取りしたのでもあろうか。 上の写真で言えば左側(南)からやって来て、右側(北)へ、即ち博多方面へと旅人は上京の歩を進めたということになる。 (北斜面から北東方向の眺め) (同・西方向の眺め) 展望所から下りて来るとロウバイが咲き匂っていました。今回は季節柄、花のない銀輪散歩となりましたが、ロウバイが何とか色を添えてくれました。(水城の南斜面下に咲いていたロウバイの花) (同上) (水城・東門跡) (同・説明板) さて、「大阪の旅人」なれば、「大伴の旅人」に非ず。水城の外は用なきこととて、内側に沿って西方向へと歩いてみる。トレンクルもおとなしくついて来ます。(水城・東門跡から南西方向) 木々が繁り放題の土塁の中はどうなっているのかと入ってみると、お墓がありました。と言っても一般私人の墓である。国の史蹟の中に私人の墓、つまり私物が構築されているとは奇怪なことである。それも随分最近に新調されたという雰囲気の墓もある。 墓近くの木の枝に「お墓の所有者の方、お話したいことがありますのでお電話下さい。」という大宰府市役所の伝言の貼られた板札が吊り下げられていましたが、きっと無視されているのでしょうな。 権利関係を巡る法律問題。公有地は原則として民法の時効取得は認められないが、事実上公用に供されていないような場合には時効取得を認める判例・学説がある、などと言う大昔に学んだ下世話なことが脳裏をよぎり、万葉人から平成人になりかかっているヤカモチでありました(笑)。まあ、見なかったことにして置こう。(水城の中にナント私人の墓所があるではないか。)(水城・写真奥が北東方向) この後は、万葉歌碑が沢山ある歴史スポーツ公園へと行くのですが、本日はここまでと致します。(つづく)
2015.01.18
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(承前)<1月11日(4)> 一日の銀輪散歩をいつまで引っ張るのだ、とは仰いますな(笑)。楽天ブログの一記事当たりの文字数制限が悪いのであって、小生の所為ではありませぬ。 政庁跡の北西隅にあるのが坂本八幡宮。此処が大伴旅人の邸宅があった処という説もあるようですが定かではない。この付近にあったことは間違いないようです。 してみれば、天平2年(730年)正月13日の観梅の宴はこの付近で開催されたということになります。(坂本八幡宮)(同上・縁起) (がらんさま) (大伴旅人歌碑・副碑)(大伴旅人歌碑・坂本八幡宮境内) しかし、境内にある歌碑は、観梅の宴での旅人の歌ではなく、萩の歌でありました。わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿 (大伴旅人 万葉集巻8-1541) この歌自体は明るく軽やかなものであるが、妻問ひの鹿に妻を亡くした自分を重ねていると見れば、初萩の咲くのを亡き妻と一緒に見ることができたらなあ、という寂しさ・悲哀が隠されていると見るべきだろう。それは、この歌と同時に詠まれた次の歌によって明らかとなる。わが岡の 秋萩の花 風をいたみ 散るべくなりぬ 見む人もがも (同 巻8-1542) 萩の花が咲く頃、鹿は発情期を迎え、牡鹿は雌鹿を求めてヒューと甲高い声で鳴く。また、鹿は萩が好きで(と言っても食べ物としてであるが)よく萩の木にやって来る。そんなことから、萩は鹿の「花妻」とされるのである。 坂本八幡宮から北へ坂道を上った処に鬼子母神堂があり、そこにも万葉歌碑がある。鬼子母神堂だけに歌碑の歌は憶良の例の歌である。(鬼子母神堂万葉歌碑)しろがねも くがねも玉も 何せむに 優れる宝 子にしかめやも (山上憶良 万葉集巻5-803) 鬼子母神堂の南側の道を下って行き、坂本公園の前の細道を北へと坂道を上って行くと、こんなのがありました。この地域を防備していた軍団の印判が出土した場所だという。(御笠団印出土地)(同上・説明碑) 太宰府市文化ふれあい館の前から坂を西へと下った処にあったのが、筑前国分寺跡と国分天満宮。天満宮境内には山上憶良の歌碑がありました。(国分天満宮境内万葉歌碑)大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯(おきそ)の風に 霧立ちわたる (山上憶良 万葉集巻5-799) 大伴旅人が妻を亡くしたことへの哀悼を表すべく、憶良が作った「日本挽歌」の反歌5首のうちの1首である。「大野山に霧が立ち込めている。私の嘆きが霧となって立ち込めているのだ」と旅人の心になって詠んだ歌である。 「おきそ」とは息吹のこと。嘆きつつ長い息を吐くのを「おきその風」と表現したのである。滋賀県にある老蘇の森とか兵庫県高砂市にある奥石神社とかも、その本来形は「おきそ」で伊吹山の「いぶき」と同じ意味の語であろう。 写真の背後に見えている山が大野山である。政庁跡北側に望まれた山が少し角度を変えて見えている。 (同上・副碑) (国分天満宮) 国分天満宮は筑前国分寺跡に立地している。天満宮の北側にその跡が史蹟として保存されている。(筑前国分寺跡)(同上・説明板) この説明板を読んで、先程通り過ぎた太宰府市文化ふれあい館に七重塔が復元展示されていることを知る。知ってしまったからには行かねばなるまい。下って来た坂道を再び上る。館の南庭にそれはありました。実物大の復元ならきっと壮観な眺めであることでしょうな。(筑前国分寺七重塔縮尺復元) (同上) (筑前国分寺碑) 再び坂を下って筑前国分寺跡に戻る。跡地の西隣には現在も国分寺という寺がある。この寺の西側の道を北上、次に目指すは国分小学校。(筑前国分寺) ところがこれがまた急な坂道の上にあるのでした。途中で目に付いた古墳の前で一息入れて何とか上り切る。 (陣ノ尾1号墳)<説明板はクリックして拡大画像でご覧下さい。> 国分小に到着。 地元の方たちの何か催しがあるのか多くの人影。 校庭の何処に歌碑があるのか尋ねるがどなたもご存知ではない。校舎に若い男性の姿が見えたので声を掛けてみました。この小学校の先生。 「万葉歌碑があると聞いて来ましたが何処にあるのでしょうか。」 「さあ、どうでしょうかね。」と首をかしげて居られたが、思い当たられたのか外まで出て来て下さって、 「万葉歌碑かどうか存じませんが、らしきものはあれかと。」と近くまで案内して下さいました。(大伴旅人歌碑)わが苑に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れ来るかも (大伴旅人 万葉集巻5-822) はい、間違いなく万葉歌碑でした。隣の梅の木が咲いていたらもっといい写真になったのでしょうが、是非に及ばず。 ということで、この後、水城に向かいますが、それは明日とし、本日はここまでとさせて戴きます。(つづく)
2015.01.17
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(承前)<1月11日(3)> 先程、立ち寄った観世音寺と僧玄ボウ(前記事記載)については、文字数制限のため記載を省略しましたので、ここで少し補足説明して置きます。詳しくは下記参考のWikipediaをご参照下さい。 観世音寺は、百済救援のためこの地までやって来て朝倉頓宮で亡くなった斉明天皇の菩提を弔うため、息子の天智天皇の発願により建立された寺であると言う。寺の堂塔伽藍全てが完成するのはずっと時代が下って天平18年(746年)のこと。この年に観世音寺の落慶法要が営まれている。僧・玄ボウ(ボウは「日ヘン」に「方」であるがブログには使えない漢字なので「玄ボウ」としています。)は、藤原仲麻呂に権力が集中して行く中で前年の天平17年に中央政界から追放、筑紫に左遷され観世音寺別当になっている。伝説では、別当として落慶法要のお勤めをしていた玄ボウに突然の竜巻が襲いかかり、彼を天空高く舞い上げてしまい、やがてバラバラになった彼の五体が落ちて来た、という。暗殺説もあったりする彼の死であるが、現地看板では藤原広嗣の霊に殺されたという伝説が記載されている。<参考>観世音寺・Wikipedia 玄ボウ・Wikipedia(大宰府政庁学校院跡山上憶良歌碑) 観世音寺と玄ボウ墓の間の道の突き当りを左に行くと学校院跡の広い空地がある。そこにある万葉歌碑は憶良の有名な「子らを思ふ歌」の碑である。 この歌は「惑へる情を反さしむる歌(巻5-800、801)」、「世間のとどまり難きを悲しぶる歌(巻5-804、805)」と並び、所謂「嘉麻三部作」の中の一つである。左注に「神亀5年7月21日、嘉麻郡に於いて選定 筑前国守山上憶良」とあるように、憶良が国守として国内を巡行していた際に、嘉麻郡(現在の嘉麻市東南部)で草稿を完成させたのであろう。瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ いづくより 来りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ 反歌銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも (山上憶良 万葉集巻5-802、803) (同上・副碑) (学校院跡) 漸くに大宰府政庁跡公園に到着。政庁跡バス停前にあったのは大伴旅人の歌碑。(大伴旅人歌碑)やすみしし わが大君の 食(を)す国は 大和もここも 同じとぞ思ふ (大伴旅人 万葉集巻6-956) この歌は大伴旅人が太宰府に赴任したばかりの時の歌。大宰少弐の石川足人(たるひと)が「大宮人が家として住んでいる、佐保の山を懐かしくはありませんか」という趣旨の歌を詠んだことへの返歌で、「大和もここも大君のご領地、何も変りはないよ」というもので、まあ、素っ気ない儀礼的なたてまえの歌である。着任早々であるから部下の気心も知れずとあれば、形式的な歌(挨拶)が無難である、この辺の処は今も同じことであろう。因みに、帥、大弐、小弐であるから、石川足人はナンバー3の地位である。(同上・副碑)(大宰府政庁跡)(同上・南門跡から) (南門跡説明板) (正殿跡説明板)(正殿跡)(同上)(同上) 前後するが大宰府展示館脇にも万葉歌碑がありました。(小野老歌碑)あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり (小野老 万葉集巻3-328) 天平元年(729年)太宰小弐として大宰府に赴任した小野老(をののおゆ)が、その着任の宴席で披露した歌である。 しかし、ヤカモチ老は早く来過ぎたようで、あをによし 奈良の都も 大宰府も まだ梅の花 咲かぬなりけり (家持老)でありました。 そして、政庁跡を北へ突っ切った先にあった歌碑がこれです。にほふが如き梅の花の歌とは真逆の歌です。(大宰府政庁跡裏・大伴旅人歌碑)世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり (大伴旅人 万葉集巻5-793)(同上・副碑) この歌は、神亀5年6月23日に詠まれたもの。この年の初夏に旅人は妻を亡くしたことは既に述べたが、少し前には弟の宿奈麻呂も亡くしている。もう一人の弟の田主はもっと早くに亡くなったようだが、こうした身内の不幸を味わう中で生まれた感懐がこの歌であろう。知識としては知っていたけれど、妻や弟を亡くして、世の中の空しさが心底実感されました、という歌である。 この歌で記事を閉じる日付が1月16日で阪神淡路大震災から20年という1月17日の前日に当たるというのも何かの因縁でしょうか。 万葉歌碑めぐりまだまだ続きますが、今日はこの辺で。(つづく)
2015.01.16
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(承前)<1月11日(2)> 九州国立博物館は天満宮の敷地よりもかなり高い位置にある。前記事の「筑紫や何処」の旅人の歌碑付近から撮った写真がこれ。背後の丘がガラス壁面に映って、建物が景色に溶け込んでいるみたいです。(九州国立博物館) 博物館を後にし坂を下る。県道76号に出て左へ。左は上り坂。右は下り坂で西鉄太宰府駅南側の踏切へと至る。政庁跡に向かうには右に行くべしであるが、その前に立ち寄るべきは、吉木小学校。この小学校の校庭隅に万葉歌碑がある筈。(県道76号・筑紫女学園校門付近から大野山を見る) 上の写真は筑紫女学園の校門だか通用門だかの前から、来た道を振り返ったもの。手前の丘の向こうが太宰府天満宮。丘の中央を切り裂くように開かれた道を上った処にあるのが九州国立博物館。小生はこの道を下って来て県道76号に出たのでありました。 筑紫女学園と言えば、確か高校女子駅伝で優勝したかの駅伝の強豪校であったかと記憶する名前である。この高校の前で道は大きく左折し更に急な上り坂となって、上り切ると、太宰府市から筑紫野市に入る。 目指す歌碑は、小学校の校庭南隅にありました。(吉木小学校校庭万葉歌碑)をみなへし 秋萩交じる 蘆城野(あしきの)は 今日を始めて 万代に見む (万葉集巻8-1530) この歌は大宰府の官人たちが蘆城(あしき)の駅家(うまや)で宴を開いた時の歌。新しく着任した官人を歓迎する宴であったのだろう。作者は不詳であるが「オミナエシと秋萩が入り交じって咲いているこの蘆城野は今日初めて拝見したが、いついつまでも見たいものです。」と言っているから、新任の官人が詠ったものであろう。 吉木小学校の東側を流れている宝満川を下った辺りに阿志岐という地名が今も残っていて、阿志岐小学校というのもあるが、昔は吉木も含めて「蘆城」であったのだろう。「あしき」は「悪しき」に通ずると「良しき・吉木」と言い替えたのであろう。そういう事に頓着しなかった地域が「阿志岐」のまま残ったということでもあるか。「よし」と「あし」が隣り合って併存しているのも面白いが、そのよしあしは此処では論ずべきものでは勿論ない。(同上・副碑) 吉木小から県道65号を渡り宝満川を渡って直ぐの処にある万葉歌碑がこれ。(吉木・消防御笠分団車庫前万葉歌碑)唐人の 衣染むとふ 紫の 情(こころ)に染みて 思ほゆるかも (麻田連陽春 万葉集巻4-569) 吉木小の前歌が歓迎会の歌であったのに対して、こちらは送別会の歌である。大伴旅人が大納言に任ぜられて京へと上ることとなったので、その送別会を蘆城の駅家で行ったのである。 「唐人の衣染むとふ紫の」は「染みて」を導くための序詞であるが、紫には大伴旅人の意味が込められている。衣服令で身分により着用すべき衣服の色が決められて居り、紫は三位以上の者の礼服の色である。大伴旅人は正三位であり、当時の大宰府で紫色の衣服を着用できたのは旅人のみであった。 この歌などは転勤や退職の人の送別会などに替え歌にしたりして使える歌である。勿論そのままでも使える(笑)。(同上・副碑) 太宰府市へと引き返す。県道76号を直進すればいいだけであったのに、県道35号との交差点で勘違いして左折し35号に入ってしまう。右側にゴルフ場があるため、ネット張りのトンネルが続く。トンネルを出た処で間違いに気付く。本人は近道を走っている心算であったのだが、トンネルを出た辺りで地図を確認して間違いに気付いた次第。(県道35号・上宝満橋方面へ) 県道76号に戻り、来た道をそのまま辿り、向かった先は大宰府市役所。その前庭に山上憶良の歌碑がある。(太宰府市役所前庭・山上憶良歌碑)春されば まづ咲く宿の 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ (山上憶良 万葉集巻5-818) この歌も天平2年正月13日の観梅の宴での歌である。皆で観梅を楽しんでいる席で「ひとり見つつや」はあるまい、と思われるが、これは反語的表現で、「ひとり見つつ暮らそうか、いやそんなことはとてもできない」と解するのが一般的なようだ。しかし、「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむぞ」と宴席で詠った憶良であるから、歌としては「ひとり見つつ暮らそう」という意味で、皆の盛り上がりに水を差すと見せて、逆説的な面白味を醸した憶良流の諧謔と見るべきではないか、という気がする。この歌をして宴席の楽しさに背を向ける憶良だとか、妻を亡くしたばかりの旅人を気遣った、などという生真面目な解釈は勿論戴けない。(同上・副碑) 市役所から西へ。観世音寺である。ここにも万葉歌碑がある。(観世音寺)(観世音寺境内案内板)(観世音寺境内・沙弥満誓歌碑)しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて いまだは著ねど 暖かに見ゆ (沙弥満誓 万葉集巻3-336) (同上) (同上・副碑) 作者の沙弥満誓は観世音寺の別当であった。彼の俗姓は笠朝臣麻呂。養老5年(721年)に元明太上天皇の病気平癒を祈って出家したと言われている。 歌の意味は明瞭だが、「綿が暖かに見える」では何の面白味もないから、綿は女性を暗喩していると解すべきだろう。すると何やら可笑し味も伴う歌になる。坊主が何言うか、ではあるが。 観世音寺から少し北に行くと、道端に僧ゲンボウの墓がある。もう制限字数に近付いているので、ゲンボウさんのことは省略します。(僧玄ボウの墓) (同上説明碑) 本日はここまでとします。(つづく)
2015.01.15
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本日は囲碁例会の日でありましたので、大宰府銀輪散歩の記事はお休みして、囲碁例会とそのついでの銀輪散歩の件を記事にします。 先ず、その囲碁例会ですが、出席者は福〇氏、竹〇氏、村〇氏と小生の4名のみ。小生はこのお三方いずれにも負けて3戦全敗、絶不調。福〇氏、村〇氏との対局では終盤での大きなミスがあって大石が頓死、中押し負け。竹〇氏とは半目負けの惜敗。今年に入ってこれで1勝5敗と全く奮いません。 さて、囲碁例会ついでの銀輪散歩は、今回も天王寺方面でありました。今回は中央大通りのコースを取らず、近鉄奈良線の南側の道を西へ。ジグザグに走っているうちに勝山通りに出る。これを道なりに西へ、谷町筋に突き当った処にあったのが四天王寺支院光徳山瑞雲寺眞光院。(眞光院) (同上)<クリックすると大きい画像でご覧戴けます。> 眞光院の裏が勝鬘院愛染堂であるが、こちらは既にブログに掲載済みである。 <参考>大阪市南部銀輪散歩(1.上本町から天王寺へ)2011.7.15. 愛染堂から大江神社に沿って愛染坂を下り、坂下の南北の細道を南へ辿ると天王寺七坂の清水坂、天神坂の坂下になる。 天神坂の登り口の処に安居神社の裏口となる石段がある。神社の表は南側の逢坂に面しているのであるが、ヤカモチ流の「裏口からそっと入り」である。 この神社は天満宮でもあるから、太宰府天満宮にも立ち寄った連載中の銀輪散歩記事とも少しは関係する(そんな訳ないか<笑>)ということになる。 <参考>安井神社(安居神社)・Wikipedia(安居神社)(同上) この神社は、天神さんよりも真田幸村戦死の地として売り出していて、幸村の銅像も設置されるなど、真田神社、幸村神社といった感じである。。 銀輪友達にしてブロ友でもある偐山頭火氏が夙にこの幸村像の写真をブログに掲載されているので、今更という気もしましたが、来てしまった以上は、と二番煎じで掲載することとしました。(真田幸村像と幸村戦死跡之碑)(同上) (説明碑)<クリックすると大きい画像でご覧戴けます。> 真田幸村像は三光神社境内にもある。 <参考>真田丸いずこに。2008.12.5. 拝殿の南側、幸村像の背後に「さなだ松」という松の木がある。幸村は当神社の一本松の木の下で亡くなったとのことだが、その松という見立てであるのでしょう。 まあ、当時の松の木とは思えないけれど(写真下左)。 (さなだ松) (上田市から贈られた枝垂れ桜) 大阪城と上田城とは真田幸村を媒介として姉妹提携の関係にあるが、そんな関係で上田市民有志から大阪に枝垂れ桜が贈られて来て、当神社境内に植樹されたらしい。(桜の説明碑) 上田市というと、当ブログを最初に「お気に入り」にご登録下さった上田市ご在住のビターcさんのことを思い出します。同氏は現在ブログ休止中でありますが、お元気にされているのでしょうか。また、千曲川銀輪散歩の折も上田市のホテルに宿泊し、そこを拠点にして走り回ったのでありましたが、そんなことも懐かしく思い出しました。 <参考>千曲川銀輪散歩 岩鼻 岩鼻(2)・上田城公園 信濃国分寺・海野宿 小諸懐古園 上山田万葉公園・千曲川自転車道 さて、本日の写真ではなく、先週(7日)の囲碁例会の時に撮影したものであるのだが、上の桜の木が花も葉もない愛想の無いものであったので、早咲きの桜のそれをオマケで掲載して置きます。 天王寺七坂の一つ、源聖寺坂を上り切った処にある齢延寺の境内にあったものです。(齢延寺の桜) ついでに、その寺に居た猫も。(齢延寺の猫)では、どちら様も「さいにゃら」。明日はまた大宰府ですよ。
2015.01.14
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(承前)<1月11日(1)> さて、今日からは11日の大宰府周辺の銀輪散歩の記事となります。 朝食を済ませてホテルを出たのは朝8時過ぎ。ホテル前の道を北へ。筑紫野市役所の前で道は右に大きくカーブ、JR鹿児島本線のガードを潜ると県道112号に出る。これを左に取って、300m程先を右に入ると西鉄二日市駅である。これを左に見て直進。国道3号を渡り、西鉄五条駅を右に見て更に300m程で県道76号に出る。これを右に進むこと600m位で太宰府駅である。 どうもややこしいのだが、太宰府市、大宰府駅、大宰府天満宮は「太」で、大宰府政庁跡は「大」である。日本書紀などの古文献は「大宰府」なのに対し、平安期以降から「太宰府」と言う表記が登場し、やがてこの方が一般的となることから、市や駅名は「太」を使い、奈良時代の色合いの濃いものについては「大」を使うことのよう。従って、万葉では「大宰」ということとなる。太宰治も天平時代に生まれていたら「大宰治」であった筈(笑)。 (西鉄・二日市駅) (同・太宰府駅) 太宰府駅到着は8時40分頃。30分程度で来れたことになる。 駅前から東へと続く天満宮の参道はご覧のように未だ殆ど人影がない。店も閉まっている。まあ、それはどうでもよろしい。御笠川を渡った処にある大町公園にある山上憶良の歌碑へと向かう。 (てんじんさま通り) (御笠川・大町公園)(山上憶良歌碑・日本挽歌)妹が見し 楝の花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干なくに (山上憶良 万葉集巻5-798) この歌は、妻を亡くした大伴旅人の身になって山上憶良が作った日本挽歌(長歌1首、反歌5首)のうちの1首。左注に「神亀5年7月21日筑前守山上憶良たてまつる。」とある。 なお、楝(あふち)はセンダンのこと。ホトトギスが鳴く初夏にやや藤色がかった白い花を付ける。ホトトギスは現世と常世を行き来する鳥とされているから、楝の花が散ってしまうとホトトギスも来なくなる、そんな意味も込められているのかも知れない。 旅人が大宰帥として赴任して来た時には、憶良は筑前の国守の任にあった。その結果、万葉第3期を代表する歌人、憶良と旅人を中心にこの地の歌が万葉集に多く残されることとなる。筑紫歌壇などとも呼ばれる。 長歌は引用が大変なので、他の反歌4首を参考までに下に記して置きましょう。(参考) 家に行きて いかにか我がせむ 枕づく つま屋さぶしく 思ほゆべしも(5-795) はしきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が心の すべもすべなさ(5-796) 悔しかも かく知らませば あをによし 国内(くぬち)ことごと 見せましものを(5-797) 大野山 霧立ちわたる 我が嘆く おきその風に 霧立ちわたる(5-799) (御笠川) (同・川辺の白鷺) 大町公園を探しあぐねて時間をロス。上はその迷い道で見つけた白鷺。 太宰府天満宮境内にも万葉歌碑があるので、立ち寄る。既に大勢の参拝者で賑わっていました。御笠川沿いをウロチョロしているうちに参拝者がやって来る時間帯になっていたようです。 (太宰府天満宮) (撫で牛の前の人の列) (菅原道真歌碑)(佐伯子首歌碑・天満宮境内菖蒲池畔)よろづよに としはきふとも うめの花 たゆることなく さきわたるへし (佐伯子首 万葉集巻5-830) この歌は天平2年の観梅の宴の折の歌。筑前介の佐伯子首の歌。漢字まじりにて記すと「万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし」である。(同上・副碑)(大伴旅人歌碑・天満宮境内遊園地入口前)わが苑に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れくるかも (大伴旅人 万葉集巻5-822) これも観梅の宴の歌。主人役の旅人が詠んだ歌である。万葉集に登場する梅は全て白梅。雪に見立てるのは漢詩の常套的表現ではある。そう言えば息子の家持の歌には李(すもも)の花を雪に見立てたのがありますな。(参考) わが園の 李の花か 庭に降る はだれのいまだ 残りたるかも(19-4140)(大伴旅人歌碑・九州国立博物館西側入口前)ここにありて 筑紫や何處 白雲の たなびく山の 方にしあるらし (大伴旅人 万葉集巻4-574) この歌は、大伴旅人が大納言となって京に帰って行った後、大宰府の地に残った沙弥満誓から「あなたが行ってしまわれて寂しい朝夕を送っている」という趣旨の歌が贈られて来たのに対して、京から彼に旅人が返した歌である。まあ、今風にはメル友の二人ですかな(笑)。 そろそろ字数制限にも近くなりましたので、ここで区切りとします。 (つづく)
2015.01.13
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(承前) <1月10日(3)> 再び県道137号に戻り川を左に見て更に上流へと走る。坂道が更にきつくなった処で神社が目に入ったので、境内で小休止。大歳神社とある。 (大歳神社) (同上・社殿) 大歳神というのは素戔鳴尊と大市比売(大山津見の娘)との間の子であることを知る。ナナ万葉の会で牛頭天王とスサノオとの習合や祟り神の話をしていた時に、兵庫県三田市の方から来られたご婦人であったかと思うが、ご自宅近くの大歳神社にも似たような話があると仰っていたが、スサノオの息子が大歳神なら納得の行く話である。 ダムへの坂道は蜿蜒と続く。勾配が急な処もあって、漕ぐのを諦めて押して歩くという、自転車族としては情けない場面もありましたが、漸くにしてダムが見えて来ました。(山神ダムへの道)(山神ダム) しかし、ダムへはご覧のような坂道をもう暫くは上らねばならない。(山神ダムへの道) そしてダム湖に到着。思ったほどに広くはないのは水が少なくなっているのだろうか。博多からやって来たというマイカーの若い男性と少し言葉を交わす。子供の頃太宰府に住んでいたとのこと。(山神ダム湖) ダム脇の展望広場には大伴百代の歌碑がありました。(大伴百代歌碑)梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ (大伴百代 万葉集巻5-823)(同上・副碑) この歌は、天平2年(730年)正月13日に大伴旅人の屋敷にて観梅の宴を催して出席者が夫々に詠んだ歌の中の1首である。主人である大伴旅人が「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」と詠ったのを承けて、「梅の花が散っているとは何処のことだろう。この城の山(大野山)には雪が降り続いています。」と詠ったもの。 ここ山神ダムから眺める風景は、梅の花は未だ咲かず、雪も降った様子はない。梅の花 雪はいづくや 山神の 里はうらうら 春日に照れど (偐家持)(山神ダム展望公園からの眺め) (同上) 山神ダムから来た道を引き返す。一気の下り。爽快な下りは往路の苦労へのご褒美であります。次は天拝山の北東麓にある天拝山歴史自然公園。ここに「椿の山万葉自然植物園」なるものがあると地図に出ていたので、立ち寄ってみることにしました。九州自動車道の筑紫野ICを越えて県道31号を行く。(天拝山、県道31号から) 天拝山・Wikipedia 山というのはどれがどれとも定め難く、地理感の無い旅行者には特にそうなのであるが、多分これだろう、これにして置こうと撮影した写真が上である(笑)。 さて、天拝山歴史自然公園の万葉植物園は「名ばかり」にて、見るべきものは何もなし。多くの万葉植物園と同様に、設置後の維持管理がなおざりになっているのである。 公園の中央にあったのは藤原虎麿の像。この人物のことはよくは知らないが、御前湯の説明文で二日市温泉を開いた人物とあったのを読んだばかりなので、「ああ、トラさんか。」と一応のご挨拶を。(同上) このトラさんは、藤原鎌足の子孫とも初代大宰の帥・蘇我日向と同一人物ではないかとも言われているそうだが、蘇我日向なら蘇我倉山田石川麻呂の謀反を讒言した人物として小生も記憶する人物ではある。 天拝山は菅原道真が山頂で天を拝して己の無実を訴え、祈った山、ということで、道真さん所縁の歌碑や詩碑があって、万葉よりも天神さんワールドでありますな。 (天拝山開運の道・歌碑) (同上)(菅原道真詩碑)(同上・副碑)(紫藤の瀧)(同上・説明板)(御自作天満宮)(同上・由来) 字数制限です。本日はここまで。(つづく)
2015.01.12
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(承前) <1月10日(2)> ホテルに送って置いた自転車・トレンクルで出発したのは12時40分頃。ホテルに来る前に通った「御前湯」の前にあった夏目漱石の句碑には「温泉のまちや踊ると見えてさんざめく」とあったが、通りに人影は殆ど無い。 (漱石句碑) (御前湯説明板) ホテル・大丸別荘の前にあったのは三条実美の歌碑でした。先の記事で紹介した大伴旅人の歌も「あしたづ」であったが、三条実美のそれも「あしたづ」なのは、旅人の歌が意識にあってのことか。 (三条実美歌碑)ゆのはらに あそぶあしたづ こととはむ なれこそしらめ ちよのいにしへ (三条実美) しかし、鶴は勿論、人影も殆どない温泉街の道路とあっては、ネットから印刷して持参した地図だけが頼りである。葦田鶴も 道行く人も 影を無み たよるは地図のみ 銀輪われは (偐家持)であります。 温泉街の出口の辻には三条西季知の歌碑もありました。尊王攘夷派の公卿たちもこの温泉で心を癒したようでありますな。 (三条西季知歌碑)けふここに 湯あみをすれば むら肝の 心のあかも 残らざりけり (三条西季知) しかし、目指すは万葉歌碑なのである。けふここに 来たるは万葉 歌碑なれば 幕末明治は 用なかりけり (偐家持)とて、筑紫野市文化会館へと向かう。県道137号沿い、文化会館前に大伴旅人の歌碑があるのだ。(大伴旅人歌碑)(同上・副碑)橘の 花散る里の 霍公鳥 片戀しつつ 鳴く日しぞ多き (大伴旅人 万葉集巻8-1473) この歌も亡き妻のことを偲んだ歌であるが、これは弔問に都から遣わされた石上堅魚が詠んだ「霍公鳥 来鳴き響もす 卯の花の 共にや来しと 問はましものを」に応えた歌である。この堅魚の歌の歌碑もこれから訪ねる天拝湖の畔にある筈。 因みに、喪葬令には「京官三位以上」で祖父母、父母、妻を喪った者には弔問の使いを派遣する、と定められている。大伴旅人はこの時、正三位で、中納言も兼ねていたので「京官の三位以上」に該当したのである。 県道137号をひたすら南へ。九州自動車道の筑紫野ICの下を潜り、川沿いを上流へ。地図では勝手に下り坂と思い込んでいたが実際は上り坂でありました。考えてみればダム湖へ向かうのですから「下り坂」である筈がないのだが、何かの勘違いで思い込んでしまうと、その呪縛からはなかなか解けないもののようです。現地での実際がその間違いをペダルの重みによってしっかりと教えてくれる。 山口小学校、願応寺を過ぎて大きく右にカーブして少しばかり行くとゴルフ場(皐月ゴルフ倶楽部天拝コース)へと右に上る広い坂道に出る。これを上る。かなりきつい。何とか上り切った処にあった歌碑は沙弥満誓のそれ。(沙弥満誓歌碑)しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて いまだは著(き)ねど 暖かに見ゆ (沙弥満誓 万葉集巻3-336)(同上・副碑) 歌碑の前にはこのようなダム湖が広がっていて、頗る眺めがよろしい。 遠く遥かに見えているのが大宰府政庁北側の大城山(大野山)であろうか。(天拝湖)(同上) 湖岸周回道路を奥へと行くと筑紫野市総合公園がある。(筑紫野市総合公園への湖岸道路) その途中にある歌碑がこれ。文化会館前にあった大伴旅人歌碑の処で申し上げた歌碑がこれである。万葉集左注には「右は、神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿の妻大伴郎女、病に遇ひて長逝(みまか)りき。時に勅して式部大輔石上朝臣堅魚をして大宰府に遣はし、喪を弔らひ、あはせて物を賜はしめたまひき。その事既に畢りて、驛使と府の諸卿大夫等と共に記夷城(きのき)に登りて、望遊せし日に、乃(すなは)ちこの歌を作りき。」とある。(注)記夷城=大城山(別名大野山)。 大宰府政庁跡北側の山・四王寺山の最高点のある中心峰。(石上堅魚歌碑)ほととぎす 来鳴きとよもす 卯の花の ともにや来しと 問はましものを (石上堅魚 万葉集巻8-1472) 卯の花が咲くと同時にホトトギスは鳴くものと考えられていた。ホトトギスを旅人に、卯の花を亡妻になぞらえている。(同上・副碑) ホトトギスの鳴き声は聞くべくもないが、歌碑の真近くの湖面には水鳥が居るのか、キュ~イ、キュ~イという高い鳴き声と共にバシャバシャという水音がする。いかなる鳥かと木立の間から下の水面を覗き見るが枝や葉に遮られてよくは見えない。 歌碑の場所から見ると奥の公園が一望。何やら楽しげな遊具もあるようだが、万葉とは無縁なれば、今回はパスして、県道137号へと引き返す。奥に見えている山は菅原道真が山頂で祈りを捧げたという天拝山であろう。(筑紫野市総合公園) 本日はここまでとします。(つづく)
2015.01.11
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<1月10日(1)> 本日は福岡県筑紫野市の二日市温泉の宿からです。 新大阪9時29分発のぞみ7号で博多経由鹿児島本線二日市駅到着が12時18分。ホテルに荷物を預け、宅配便で送って置いた自転車・トレンクルを受け取り、銀輪散歩に出掛けました。今日の予定は、筑紫野市の主な万葉歌碑を訪ねるというもの。偐山頭火氏やブロ友のふぁみり~キャンパー氏のように温泉目当てではありません。 今月末と2月1日に、ナナ万葉の会と若草読書会で、それぞれ大伴旅人の歌を取り上げてお話することとなっているので、太宰府も訪ねて置かねばなるまいと、やって参りました。大昔に来たきりなので、殆ど初めてのようなもの。特に、二日市温泉は初めてであります。(JR二日市駅) 駅に降り立って出迎えてくれたのは、万葉歌碑ではなく、野口雨情の歌碑でありました。(野口雨情「筑紫小唄」の歌碑) 山ぢゃ天拝月見の名所 梅ぢゃ太宰府天満宮 梅と桜は一時にゃ咲かぬ うすらおぼろの夜がつづく 今日は武蔵の温泉泊り 旅の労れを湯で治す 月見とも観梅とも無縁の冬の旅とあっては、共通するのは「武蔵の温泉泊り」という部分だけですな。 駅からぶらぶらと二日市の温泉街に入って行くと、偐山頭火氏のブログで見た「御前湯」というのがあった。(御前湯) 建物の前の説明板(注:1月10日(2)の記事に写真掲載)によると、二日市温泉は、白雉4年(653年)武蔵寺の創建者・藤原登羅麿が薬師如来のお告げにより開いたとされ、万葉集にも詠われた歴史ある温泉です、とある。「薬師の湯」とか「武蔵の湯」とも呼ばれたのはこれに由来するのですな。万葉集では大伴旅人の歌(巻6-961)の題詞に「帥大伴卿、次田の温泉に宿りて」とあるが、それが二日市温泉のことだと言われている。そう言えば、先程渡って来たJRの踏切が「次田踏切」と表示されていました。 小生が宿泊のホテルの前にはその大伴旅人の歌碑がありました。漸くに万葉歌碑がお出迎え下さいました。(大伴旅人歌碑・万葉集巻6-961)湯の原に 鳴く芦田鶴(たづ)は わがごとく 妹に戀ふれや 時わかず鳴く 大伴旅人は神亀3年(726年)または同4年(727年)に大宰帥に任命され赴任している。ところが、神亀5年(728年)妻・大伴郎女を病で亡くす不幸に見舞われる。そして、翌・天平元年(729年)長屋王の変で、長屋王が自殺に追い込まれる。皇親派の大伴氏であるから、旅人にとってもこれは青天の霹靂であったことだろう。そんなこともあって体調を崩したかどうかは分からぬが、天平2年(730年)6月、足に腫物が出来て悪化、重病となる。この時に、弟の稲公や甥の古麻呂を九州に呼び寄せているから、旅人は死をも覚悟したと考えられる。 この時、長男の家持は11歳か12歳。次男の書持は10歳未満であったかも知れない。息子達のことをよろしく頼む、というようなことであったのではないだろうか。異母妹の坂上郎女も、この時か大伴郎女が亡くなって直ぐであったかは不明であるが、九州にやって来て、旅人の身の回りの世話をしている。 この病を治すために、旅人はこの二日市温泉に通ったのでありました。その折に詠んだ歌が上の歌である。亡くした妻のことを思いつつ、悲しみに暮れている彼の心根が思われる歌である。 夜が更けました。旅先ゆゑ、この辺で一応のキリとします。未だ、銀輪散歩に出る前の段階でありますな。この後、万葉歌碑を尋ねて、天拝湖、山神ダムへと銀輪を走らせるという言わば「本編」に入る前に「ダウン」で申し訳ありませぬ。続きは明日に。(つづく)
2015.01.10
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第153回智麻呂絵画展 本日は今年最初の智麻呂絵画展であります。今年も智麻呂絵画展への多数ご来場をお待ち申し上げます。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ お正月ということで、先ずはめでたき紅白のお餅の絵から始めましょう。(紅白餠 from 偐山頭火氏) これは偐山頭火氏からのもの。ヤカモチも一応「モチ」であるが、こちらは煮ても焼いても食えない。尤も、富山まで出掛けると「家餅」という美味しい餅が土産物店で販売されてはいます(笑)。(正月花) こちらの花は智麻呂ご夫妻の一番下のお嬢さんが年始にお持ちになった花とのこと。これもお正月らしくていいですね。(山茶花 from 寺〇氏) 花続きで2点。上は智麻呂さんのご友人・寺〇氏が画材にと下さったもの。下は同じくデイサービス施設に通われている坂〇さんからのプレゼントの薔薇です。 やはり、智麻呂絵画の本領は花の絵ですね。(薔薇 from 坂〇氏) 今回は、お正月特集ということで、恒郎女さんの絵も特別出展であります。 この「栗のぷりん」なるものは、昨年暮れ近くにヤカモチが手土産にお持ちしたものですが、その後に来られたお孫さんのナナちゃんが「可愛い」と気に入って下さって持って帰られたそうな。そこで、慌てて恒郎女さんがスケッチして「絵」として残して下さったのが下の絵という次第。 智麻呂さんは、宿題のあれやこれやの絵でお忙しく、プリンまでは手が回らない、ということで「内助の功」という奴で恒郎女さんの助太刀であります(笑)。(栗ぷりん by 恒郎女) 以上までがお正月関連ということにして置きます。正確には、昨年に描かれた絵も入っているのですが、まあ、題材的には「お正月」という括りをしても、さしたる違和感はないでしょう。 以下は、昨年の絵ということになります。智麻呂絵画展、昨年は、クリスマスを待たず12月上旬に店仕舞してしまいましたので、クリスマス関連の絵が遅まきの登場となりました。(ポインセチア) クリスマスの定番のポインセチア。 上のポインセチアはご夫妻で買い物を兼ねて散歩に出られた際に、花屋さんの前で、智麻呂さんが所望されたものだそうです。まあ、そういうことですから、恒郎女さんからの智麻呂さんへのクリスマ・スプレゼントと言ってもいいのかも知れませんですな。 シクラメンでなくて良かった。この冗談が分かる人は、智麻呂絵画展の「通」と言えるでしょうな(笑)。 下のポインセチアは、幼い子供であった頃から智麻呂さんとは懇意の、ご近所のケンちゃん(今は、もう中学生になっているのだろうか。)からのクリスマス・プレゼントです。(ポインセチア from ケンちゃん) その可愛いポインセチアと一緒にプレゼントしてくれたのが、この苺。ケンちゃんはやさしい少年ですね。名前がいいのかな。けん家持も一応「ケンちゃん」なので(笑)。(イチゴ from ケンちゃん) もう一つのプレゼントは、東京の五〇さんからの、毎度のケーキです。ヤカモチが智麻呂邸にお邪魔していた時に、ピンポンと宅配便で届いたのがこれでした。そんなことで、ヤカモチもこれのお裾分けに与りました。恐悦至極に存じ上げ候。(ケーキ from 五〇氏) これも恒例の下仁田葱。智麻呂さんの今は亡きご友人の奥様がその後も毎年のように送って来て下さる葱である。「やあ、やあの君」と言えば、智麻呂絵画展常連様にはお分かり戴けるかと思うが、まあ、絵は絵をして語らしめよ、でありますから、詳しいことは省略です。(下仁田葱) 次は蜜柑。熊野のそれは、槇麻呂氏から。香川のそれは偐家持から。これも毎年恒例になっていますな。(熊野の蜜柑 from 槇麻呂)(香川の蜜柑 from 偐家持) そして、最後は紅葉の風景画。 偐山頭火氏の奥方が撮影された紅葉風景の写真を持参して、「これを描け」という偐山頭火氏の「無理難題」(笑)。花の画伯に、新境地を開かせようという偐山頭火流の「愛のしごき」でありますな。山頭火流だけに「火砕流」のようなもの、出くわしたら避けようもありませぬ。描くしかありませぬ。かくて仕上がったのが下の絵であります。(長岡京の紅葉) 今回は、恒郎女さんの1点を含み13点もの作品が出展されましたので、ヤカモチ編集長も歌を作るいとまがありませぬ。よって、以上をもって「ご案内」終了とさせて戴きます。夜も更けたれば(余も老けたれば)。 今回もご覧いただき、有難うございました。
2015.01.08
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本日は今年最初の囲碁例会の日。梅田まで銀輪で往復。 出席者は平〇氏、福〇氏、竹〇氏と小生の4名。最初の対局は平〇氏と。随所でミスがあって大敗。昨年からの連敗が6となる。次の竹〇氏に勝って漸く連敗を止めたものの、続く福〇氏には一目半負けの惜敗で、1勝2敗と振るわない幕開けとなりました。 そんなことで、囲碁の話はここまでとし、囲碁会場に向かう前に立ち寄った家隆塚の紹介でもして置きましょう。藤原家隆の墓との伝承のある塚が天王寺区夕陽丘地区にある。天王寺七坂の口縄坂と愛染坂との間の一画にそれはある。(家隆塚・伝藤原家隆墓所) 藤原家隆と言えば、藤原定家と並ぶ鎌倉時代の歌人。定家の父、藤原俊成に和歌を学んだというから、定家とは兄弟弟子ということになる。後鳥羽上皇(後鳥羽院)も俊成に師事しているから、後鳥羽院とも兄弟弟子である。 後鳥羽院の勅命により編纂された新古今集の撰者の一人であることはよく知られたこと。(新古今集の撰者は源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経の5名。当初は寂蓮も加わっていたが彼は命を受けた翌年7月に亡くなっている。) 藤原定家は後鳥羽院とは色々と確執があったようにて、晩年は没交渉となるが、家隆の方は、承久の変で後鳥羽院が隠岐に流罪となった後も何くれとなく心遣いをするなど忠誠を尽しているのが好対照である。(同上) その家隆が嘉禎2年(1236年)、病により出家し、「夕陽庵」という庵を結んだのが、この地であるという。翌嘉禎3年4月9日、夕日に向かって端坐合掌して逝ったということらしい。享年80歳。(同上・五輪塔と顕彰碑) 上の顕彰碑は享保6年(1721年)家隆を慕う秋野坊盛順が建立したもの。風化が著しく現在は判読不能。石碑前にその全文を刻した金属パネルが設置されている。 顕彰碑の左奥の五輪塔は後の首相原敬が大阪毎日新聞の記者であった時に、昵懇にしていた陸奥宗光に頼まれて設置したとかいうもので、家隆の墓石というのではないらしい。(夕陽の碑)契りあれば 難波の里に 宿り来て 波の入日を 拝みつるかな 上は、家隆がこの地から難波の海に落ちる夕日を見て詠んだという歌。この地を「夕陽丘」と呼ぶようになったのはこの歌によると伝えられている。(同上・顕彰碑全文) さて、顕彰碑全文は上の通りであるが、閑な人はクリックして拡大画面で丹念にお読み戴くとして、塚の前の説明板にその要旨が記載されていますので、面倒な方はこちらでお済ませ下さい(笑)。(同上・顕彰碑文の要旨)(同上・家隆塚由来) では、お正月ということで、後鳥羽院、定家、家隆の百人一首の歌を下に記載して記事の締めと致しましょう。百人一首でもこの3人の歌は並んでいるのであります。97 こぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに やくやもしほの 身もこがれつつ (藤原定家)98 風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける (藤原家隆)99 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世をおもふゆゑに ものおもふ身は (後鳥羽院) 後鳥羽さんは、上の歌で、家隆は情のあるいい奴だが、定家は薄情な奴や、とでも言っているのでしょうか。まあ、そんな意味なら、定家がこの歌を採用する筈もありませぬが、そんな風に読めなくもないのが和歌の和歌たる由縁でもあります。
2015.01.07
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偐万葉・英坊篇(その31) 今年最初の偐万葉は英坊篇であります。 <参考>過去の英坊篇はコチラからどうぞ。 英坊3氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌16首並びに英麻呂が贈り来れる歌4首もみぢばを みなもにうつす かげきよみ ほりへめぐらむ たかをかのあき秋の葉の にほへる時に いざ行かな 濠の水面(みなも)に 映す影見に (本歌)この雪の 消残(けのこ)る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226) (高岡古城公園の紅葉)家持も 多賀より先は ふみも見ず 蝦夷が渡島の 頃にしあれば家持の あととひ行くは 能登の道 今か山越ゆ 背子乗るバスは (志乎神社)布勢の海 粟原ゆ来れば 志乎の道 羽咋の海の 早やぞ見が欲し (本歌)志雄道(しをぢ)から 直(ただ)越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 舟梶もがも (大伴家持 万葉集巻17-4025)靺鞨の 荒ぶる風に 千里(ちり)の浜 真春(まはる)の歌碑は 立ちて向かへる (能登真冬) (本歌)靺鞨の 凍風去りし 海原に 漲りわたる 大和の真春 (中西 進) (千里浜の中西進氏歌碑)ブログ始(そ)む のちのさまにし くらぶれば 昔は走る のみにありけり (藤原ブロ忠) (本歌)あひみての のちの心に くらぶれば むかしはものを おもはざりけり (藤原敦忠) 英麻呂が贈り来れる上3句に偐家持が付けたる下2句 潤滑油 ぬって差しやる 元気な子 (英麻呂) 同行二輪 わがトレンクル (偐家持)神さびて 幾代か経ぬる 都万麻の木 鎌受けとめつ 民守り来ぬ (鎌八幡のつままの木<タブノキのこと>) 英麻呂が贈り来れる歌2首に偐家持が追和せる歌2首もみぢ葉の 紅を競ひし 爛漫も やがて凍て風 吹き散らし去る (英麻呂)落日も 山のもみぢも 赤く燃ゆ かくしか冬も 燃えしめよとか (偐家持)鎌の宮 ブログのネタに 載せ申し 畏れ多しと ビビる英麻呂 (英麻呂)鎌の宮 神の木つまま 何せむや 神ひとなかり ブログのネタは(偐家持) 英麻呂が贈り来れる上3句に偐家持が下2句を付けたる歌1首 疲れなど なにこれほどは 易きもの (英麻呂) ブログにアップ すること思(も)へば (偐家持)三重ならぬ 八重の青雲 ナナ万葉 雨にも負けず 歩くなりけり (青雲のナナ麻呂)花園の 野にかげもちの 立つ見えて カメラ向ければ かくとやなりぬ (銀輪影持・写真提供けん家持) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首寿ぎの 年を迎える 期待感 背を凛として 望み居る我 (英麻呂)洋々と 年は明けたり わが背子は 行くや凛とし 立山を背に (偐家持)たかをかの おほきみほとけ かまくらに まされる美男 はつはるのそら (本歌)鎌倉や み仏なれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな (与謝野晶子) (高岡大仏) 英麻呂の上3句に偐家持が下2句を付けたる歌2首 雪の無い 三社詣りは 羨まし (英麻呂) 言ひ来や背子は 高岡の人 (偐家持) パンジーの 園のトトロの ギョロ目線 (英麻呂) 人の愚かさ しかと見むとや (偐家持)涼しとは まだ言ひかねつ 高岡の 君は雪にぞ 隠(こも)りてあるや (偐雪元) 英麻呂が贈り来れる歌1首に偐家持が追和せる歌1首味も好し 宿酔ひ無し にせお酒 安価に買へて 身のために良し (英麻呂)酔ひ泣きを するにしかずと 人言へど 賢しら顔に 茶をぞ飲む我 (大下戸田人) (本歌)賢(さか)しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔(ゑ)ひ泣きするし まさりたるらし (大伴旅人 万葉集巻3-341) 黙然(もだ)居りて 賢(さか)しらするは 酒飲みて 酔(ゑ)ひ泣きするに なほ及(し)かずけり (大伴旅人 万葉集巻3-350)<脚注>掲載の写真は「けん家持提供」とあるものを除き、英坊3氏のブログから の転載です。
2015.01.06
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今年初めての銀輪散歩。 世間は今日から仕事始めでありますな。サンデー毎日のヤカモチも、それに合わせてと言う訳でもありませぬが、銀輪始めということに致しました。ヤカモチ26歳の頃からの古い友人、と言うことはヤカモチ暦で言えば、1270年来の古い友人ということになるが、その友人N氏と難波で新年のご挨拶も兼ねて昼食を一緒にしようということになったので、それを兼ねての銀輪散歩であるから、通常の何の目的もないそれとは少し趣が違う銀輪始めと言うことになる。 そんな訳で自宅から難波までの往復という、まあ始動としては手頃な距離の銀輪散歩と相成りました。立ち寄り先は、その途上の生國魂神社などにて、さしてご紹介する程のものは何とてもありませぬ。(生國魂神社) 生國魂神社の鳥居脇、道を挟んで向かい合う位置にこんな石碑がありました。 何度となくこの付近は走っているのですが、今まで気が付かなかったようです。(川崎孫四郎自刃の所碑と島男也旧居碑) 碑には、「川崎孫四郎自刃の所」「島男也旧居」とある。 幕末の歴史については左程の知識もないので、両名のことは存じ上げぬがWikipediaによると以下の通りである。〇川崎孫四郎 かわさきまごしろう<文政9年1月1日(1826年2月7日)~万延元年3月24日 (1860年4月14日)>は、幕末の志士。水戸藩士。家系は川崎氏。川崎長貴の 四男に生まれる。水戸藩家老・安島帯刀の従者であり、郡吏を務める。変名篠崎 源太郎。諱は健幹。位階は贈正五位。万延元年3月3日の桜田門外の変では大坂で 連絡係を務めた。しかし、幕府に探知され、同年3月23日、自刃を企てて重症、 翌日亡くなった。享年35。墓は茨城県ひたちなか市にある仙蔵院。死後、正五位 を贈位され、靖国神社に合祀される。1969年(昭和44年)に大阪市天王寺区生 玉町の孫四郎自刃の地に川崎孫四郎顕彰碑が建てられている。〇島男也 しまおなり<文化6年(1809年)~文久元年11月5日(1861年12月6日)> は、江戸時代後期の武士、武術家。本名は石井龍雄。通称は八郎。<略>笠間藩 士・石井盛郷の長男として生まれる。<略>佐久良東雄と協力して、桜田門外の 変の首謀者の一人の高橋多一郎を自宅に匿っていたが、万延元年3月23日 (1860年4月14日)、大坂町奉行の役人に捕らえられ(高橋は逃走後、自刃) 江戸へ送られた。文久元年11月5日(1861年12月6日)、伝馬町の牢で獄死。 享年53。墓は茨城県笠間市の月崇寺にある。 生國魂神社前の道を南に走り、寺々の立ち並ぶ門前をひと巡りした後、天王寺七坂の一つ、源聖寺坂を下り、源聖寺をちょっと覗いて、千日前通りに出て西へ。(源聖寺)(同上・本堂)<参考>源聖寺ホームページ N氏と会食後、喫茶店で暫し雑談後、同氏の馴染みのスナックへ。ここで2時間弱閑談。千日前通りの駐輪場で同氏と別れて帰途についたのは暮れなずむ午後5時少し前。ということで帰宅の時にはすっかり暗くなってしまっていました。なお、念を押すまでもないと思いますが、スナックに立ち寄ってもヤカモチはノンアルコールですから、銀輪の運転は問題なしであります。 繁華街に出掛けたと言うに、写真は神社と寺だけ。賑やかな写真がないのが、これまたヤカモチ流であります。 源聖寺坂の写真も撮りましたが、これは天王寺七坂の写真が全部揃った処で一括掲載した方がよかろうと、今回は出し惜しみであります(笑)。 内容のない記事となりましたが、お正月気分醒めやらずと言うことでお赦しを。
2015.01.05
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元日、二日は外出せず。三日目の午後になって漸く始動。小生の場合は初詣というようなものではないのであるが、地元の神社三つを巡る散策。 自宅~枚岡神社~姥ヶ池~枚岡公園~重願寺~大石大明神~石切神社~瓢箪山稲荷神社~自宅というコースで万歩計で13800余歩の散歩と相成りました。昨年の正月も同じ行動をしていますが、ここ数年このパターンが続いていますから、毎年似たような記事になってしまいます(笑)。 <参考>三社めぐり 2014.1.5.(枚岡神社)(同上) 正月も3日の午後となると、初詣の人もさすがに少ない。 拝殿脇をすり抜けて北側の枚岡公園へのハイキング道に出て坂道を上る。姥ヶ池を横に見て数百メートルで枚岡公園入口である。姥ヶ池や枚岡公園の写真は下記参考の記事をご参照下さい。 <参考>姥ヶ池=墓参と桜散歩 2011.4.2. 枚岡公園=わが待つ秋の近づくらしも 2010.7.27.(枚岡公園の花壇) 枚岡公園の花壇にはトトロが居ましたが、もうかなり以前から此処に居るようですな。公園の北側が重願寺。門前を通り過ぎただけ。 <参考>重願寺= わが待つ秋の近づくらしも 2010.7.27. (大石大明神) 重願寺の北側の坂道を少し上った処、長尾滝へと行く道の入口に大石大明神という小さな祠がありました。由緒などは存じ上げぬが「神道大石教本部」という表示の建物が近くにありましたから、この宗派の祠なんでしょう。生駒山の山中にはこのような祠が無数にある。 近鉄線沿いの道まで坂道を下り北へ、石切神社の参道に入る。石切神社の参道は人が溢れていました。参拝者も長蛇の列。拝殿と向き合う絵馬殿を越えて列は蜿蜒と。最後尾はどの辺りなのか見えない。(石切神社) 石切神社から東高野街道に出て南へ。 瓢箪山の商店街を抜けて三つ目の神社、瓢箪山稲荷神社へ。(瓢箪山稲荷神社)(同上) 三社巡りの記事もここ数年毎年のことでありますから、そろそろこのような記事は今年で打ち止めにしますかな。
2015.01.03
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元日は午後から雪となり、大阪ではめったにない雪の中のお正月となりました。そんな雪の中、宅配便が届きました。配達のお兄ちゃんが雪ダルマ状態になって届けて下さったものは、ジャガイモ。送り主は北海道富良野市麓郷のfurano-craftさんでした。 先日、同氏のブログの66666番目のアクセスを踏んだ記念にと可愛い茸のピンバッジを戴いたことは既に当ブログでご紹介申し上げた処であるが、今度はジャガイモを送って下さいました。 ピンバッジのお礼も兼ねて66666(6が5つでロクゴー、即ち「麓郷」になるという目出度い数字)のお祝いにと、クリスマスに合わせて、銀輪散歩のついでに立ち寄った先から河内ワインを送らせて戴いたのであるが、そのお礼ということのよう。 お礼のお礼となっては際限もないこととなるが、同氏に却ってお気を遣わせてしまったようにて、申し訳なき仕儀と相成りました。 それにしても、元日のホッコリとする嬉しい贈り物。いいお年玉を戴きました。ということで、今日は、北の大地の恵み、麓郷のジャガイモのご紹介と致します。 <参考>66666記念品 from 富良野 2014.12.11.(麓郷のジャガイモ from furano-craft氏)麓郷の 土は踏まねど 六五つ 踏みて来たれる 10キロの芋 (偐家持)麓郷の 土の香ぞする 馬鈴薯の ずしりと来たる わが年の明け (偐家持)降る雪と 北の大地の ジャガイモと 共に明くらし 乙未(きのとひつじ)の (偐家持) <関連記事ほか>偐万葉・ふらの篇 furano-craft氏のブログ ショップ森の工房・木力工房のホームページ
2015.01.02
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謹賀新年たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ (大伴家持 万葉集巻6-1043)新年がみなさまにとって どうぞよき年でありますように旧年中のご厚誼有難く感謝申し上げますと共に本年もよろしくお願い申し上げます平成27年元旦偐万葉田舎家持歌集けん家持^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^偐万葉田舎家持歌集(にせまんよう いなかやかもち かしゅう)目次それぞれの項目をクリックするとその項目の記事をまとめて見ることが出来ます。絵画展ほか智麻呂絵画展和郎女作品展近江鯨麻呂絵画展偐万葉シリーズ松風篇 大和はまほろば篇 ビターc篇 ひろろ篇 カコちゃん08篇 真澄篇木の花桜篇 るるら篇 nanasugu篇 カマトポチ篇 くまんパパ篇ビッグジョン篇 童子森の母篇 半兵衛篇 マダム・ゴージャス篇 英坊篇アメキヨ篇 オガクニ篇 ふぁみキャンパー篇 ウーテイス篇 ふらの篇 閑人篇 LAVIEN篇 幸達篇 ひろみ篇 あすかのそら篇 若草篇 その他銀輪万葉シリーズ大阪府篇 奈良県篇 兵庫県篇京都府・滋賀県篇 和歌山県・三重県篇 北陸篇関東篇 中四国篇 その他その他近隣散歩花(1)2007~2011 花(2)2012~ 虫 マンホール若草読書会 囲碁関係 岬麻呂旅便り万葉 ナナ万葉の会関係 短歌・俳句・詩・戯れ歌 言葉遊び・駄洒落集その他のカテゴリー自転車 絵画 能・狂言 友人ほか ブログの歩み カテゴリー未分類(枚岡神社の絵馬)当ブログ、昨年1年間で78308件という多数のアクセスを賜りました。これまでの年間最多は2011年の53664件でありましたのでそれを大きく上回ることとなり、有難きことと存じ上げ候。今年も引き続きご愛読賜れば幸甚に存じます。(石切神社の絵馬)
2015.01.01
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