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昨日(30日)、銀輪散歩の帰途、枚岡梅林に久しぶりに立ち寄ってみると、梅の木の植樹が始まっていました。(梅の木の植樹が始まった枚岡梅林) 添木のあるのがそれであるが、樹高1mから2m余程度の、若木と言うか幼木と言うか、小さな梅の木である。(同上) 2016年3月5日のブログ記事で紹介しましたが、枚岡梅林にあった梅の木が、プラムポックス・ウイルス(ウメ輪紋ウイルス)に感染していることが判明し、全ての木を伐採除去することとなり、翌年の2017年1月には全て根こそぎ除去されました。 以来、梅の木が1本も無い「梅林」となっていましたが、ようやくその復活事業が開始されたようであります。 これらの若木が成長し、かつてのような梅林になるのは何年先、何十年先のことになるのか。 ヤカモチはそれを見届けることができるのか、多分それは叶わぬことだろうが、枚岡梅林の復活、何やら嬉しい気分であります。梅の木よ 帰りきたるか 枚岡に 少女のごとく のびよ咲けかし (梅家持)(本歌)少女たち 開口あぐちの神の 樟の木の 若枝さすごと のびて行けかし (与謝野晶子)<参考>〇ウイルスに感染したことを記述している記事 墓参・花散歩・枚岡梅林 2016.3.5.〇梅の木が伐採された直後の写真が掲載されている記事 祝・除雪支援サービスプロジェクト立ち上げ成功 2017.1.16.〇伐採翌年の春の枚岡梅林の写真が掲載されている記事 梅の木は無くて桜の花盛り 2019.4.12.〇フォト蔵アルバム「010枚岡神社・枚岡梅林・枚岡公園」010枚岡神社・枚岡梅林・枚岡公園 - 写真共有サイト「フォト蔵」 (photozou.jp)
2021.01.31
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風の強い、寒い朝。 天気予報では、北陸から東北にかけて日本海側では、今日から明日へ暴風と大雪の荒れた天気になるとか。 そんな今日、養老2年(718年)生まれのヤカモチは、1303歳となりました。 何しろ大昔のことなので、お前の生まれた年は養老元年(717年)だと言う人も世間には居られるのでありますが、本人は718年生まれだと考えて居ります。尤も、本人もこの年に生まれたということを記憶している訳ではなく、父親である旅人様と母親である丹比郎女様からそのように教えられたに過ぎないのであってみれば、確証がある訳ではないのであります。 なお、ヤカモチが生まれた頃からつい最近までは年齢は「数え年」にて計算して居り、満年齢という考え方はなかったのであります。それによれば、生まれた瞬間に1歳となり、翌年の正月朔日、即ち元日(正確には旧暦の元日)に1歳を加算し2歳となるのでありましたから、その計算では本年の元日(正確には旧暦によりますから、まだ元日を迎えてはいませんが)を以って既に1304歳になっているということになりますが、今は誕生日を迎えるごとに、つまり各人ごとにそれぞれの誕生日に於いて1歳年をとるということでありますので、1303歳という訳であります。 因みに、わが誕生日の1月29日についても、ヤカモチに確証がある訳ではなく、両親からそのように言われているというに過ぎないものであります。 昔は、誕生日がいつであるかはどうでもよかったようで、大伴家持さんも何月何日に生まれたかはよく分からない。 みんな一斉に年越しに一つ年をとるのであれば、誕生日を意識することもなく、勿論、ハッピーバースデーなどという祝い事もないのでありました。 然るところ、明治35年(1902年)12月2日に「年齢計算ニ関スル法律」が公布され(施行:同年12月22日)たことによって、年齢は生まれた日を0歳とし、その翌年以降、誕生日の前日が満了するたびに、即ち誕生日の前日午後12時(誕生日の午前0時)に、1歳ずつ加算する、ということになりました。(注)余談になるが、4年に1回しか誕生日が来ない2月29日生まれの人もその直前日即ち28日午後12時に年齢が加算されるという法律の規定なので、毎年1歳ずつ年をとることになる(笑)。 まあ、そんなこんなで、ヤカモチは1303歳という訳であります。 「ジャン・クリストフ」のロマン・ロラン(仏)や「桜の園」のアントン・チェーホフ(露)が1月29日生まれであることは以前から承知していたが、ネット検索して、日本の作家では「楢山節考」の深沢七郎もそうであることや、北里柴三郎や宇宙飛行士の毛利衛さんなども同様であることなどを今回初めて知りました。 話のついでに、1月29日について、もう少し雑談を続けると、こんな記念日でもあることが分かりました。 〇人口調査記念日 1872(明治5)年、この日に日本初の全国戸籍調査が行われた。 〇昭和基地開設記念日 1957(昭和32)年、この日に日本南極観測隊が南極・オングル島への上陸に成功し、昭和基地を開設した。 〇タウン情報の日 1973(昭和48)年、この日に日本初の地域情報誌「ながの」が発行されたことに因み、タウン情報全国ネットワークが制定。 毎月29日は「肉の日」らしいが、29日生まれのヤカモチが魚よりも肉が好みであるのは、道理にかなっていると言うべきか。 さて、〇〇歳になりました、というパターンの記事は2014年からであるが、毎回何らかの歌を詠むのが恒例(但し、2015年と2016年は歌を詠んでいない。)となっているようでありますので、今年もそれに倣ってみますかな。コロナ禍の 中にしあれば めでたくも なかりバースデイ 居(ゐ)つつあるわれ (籠家持)冬木立 いまだ去らざる コロナ禍に 春待つらしも 芽吹き始(そ)めたり (林家持)(冬木立) このところ、梅の花の写真を掲載し、これにかこつけて歌を詠んでいるようだが、今年はコロナ禍の中ということで、冬木立の写真にすることとしました。<参考>関連過去記事〇1302歳になりました。 2020.1.29.〇1301歳になりました。 2019.1.29.〇1300歳になりました 2018.1.29.〇1299歳になりました・若草読書会新年会 2017.1.29.〇1298歳です 2016.1.29.〇1297歳になりました。 2015.1.30.〇1296歳になりました。 2014.1.29.〇ヤカモチ1295歳・健人会の新年会 2013.1.29.〇偐万葉・ひろろ篇(その3) 2010.1.29.
2021.01.29
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今日は、銀輪散歩で見かけた鳥をとりあげることとします。 花や草木と違って、鳥に出くわすことはそう多くなく、撮影がうまく行くということも余りなく、鳥の写真はなかなか増えない。それでも、気が付けば、6種類の鳥の写真がたまっていました。 先ずは、カワウです。(カワウ<川鵜>) 鵜はカツオドリ目ウ科ウ属の鳥で川鵜と海鵜がいる。 写真の鵜はカワウの方だろう。 カワウとウミウの違いは、嘴の基部の黄色い部分の形にある。 黄色の部分が丸みのある形なのがカワウ、三角形に尖った形に嘴後方に突き出しているのがウミウである。 鵜と言えば、鵜飼であるが、鵜飼に使う鵜は今は性格がおとなしいウミウがもっぱらのようだが、万葉の頃など昔はカワウも使っていたらしい。 鵜飼という漁法は万葉時代からある古い漁法で、「鵜飼いする」ことを万葉では「鵜川立つ」という。婦負川(めひがは)の 早き瀬ごとに かがりさし 八十伴男(やそとものを)は 鵜川(うかは)立ちけり (大伴家持 万葉集巻17-4023) 鵜川(うかは)立ち 取らさむ鮎の しが鰭(はた)は 吾(われ)に掻き向け 思(おも)ひし思(も)はば (大伴池主 同巻10-4191) 上の2首の鵜飼いの鵜はカワウのような気がするが、次の山部赤人の鵜はウミウでしょうな。万葉人にはカワウとウミウの区別などはなかったと思うけれど、ウカツなことは言えない(笑)。玉藻刈る 唐荷(からに)の島に 島廻(しまみ)する 鵜にしもあれや 家思(も)はずあらむ (山部赤人 同巻6-943) 次はコゲラ。 キツツキ目キツツキ科アカゲラ属の鳥である。(コゲラ) ちょこまかと動くので、何とか撮れたのがこの1枚だけ。 啄木鳥。 石川啄木を思い出したが、彼の本名は「石川 一(はじめ)」である。 彼の故郷、岩手県渋民村はキツツキが多く見られ、この鳥を好んでいたので、「啄木」という雅号を使ったらしい。何となく 今年はよい事 あるごとし 元日の朝 晴れて風無し (啄木)何となく 啄木のこと 思ひ出す コゲラが一羽 現れ消えた (鳥家持) 次はメジロ。 メジロはスズメ目メジロ科メジロ属の鳥。 中国では「繍眼児」と書くそうな。 学名はZosterops japonicus。 ジャポニクスとあるように日本古来からの鳥である。 目白という呼び名は室町時代から既にあったそうだが、万葉時代は何と呼んでいたのやら。 この鳥も片時もじっとしていなくて、盛んに動くので、ズームでの手持ち撮影では、なかなかうまく撮れない。(メジロ) 大きなクスノキの木の高い枝の上で、メジロが2羽、チーチーと何やら楽し気に騒いでいたのだが・・。(同上) 見上げるとこんな状態。この鳥はお互いくっつきあってとまる習性があるそうで、目白押し、という言葉は、この習性に由来するものであるとか。 メジロが沢山集まって木の枝や電線などにとまる姿を「目白の押し合い」と呼び、これから転じて「目白押し」となったとのこと。 また、江戸時代には子供の遊びで、縁台に横一列に並んで座り、互いに左右から押し合って、端っこの者を押し出して落とすというのがあったそうだが、これを「目白押し」と呼んでもいたそうな。 集中して、密に物事があることを「目白押し」と言うようになったのは、いつの頃からなのかは存じ上げぬ。(同上) カメラを向けていると、目が合った。 警戒心の強い鳥なら、すぐにも飛び去ってしまうのだが、この鳥はそうでもないようで、相変わらず鳴き交わしつつ楽し気に振舞っているのでありました。(同上) 次はシラサギとカモ。 サギはペリカン目サギ科の鳥。 カモはカモ目カモ科の鳥。(シラサギとカモ) 写真では見えづらいですが、シラサギの足元にカモがいます。 サギとカモの取り合わせは面白い。 サギと詐欺とはお互い無関係であるが、音が同じであるのがこの鳥にはいささか不運。 サギ師が騙すターゲットにする人のことをカモと呼ぶが、これには騙しやすい人、うまく利用できる人という意味が込められている。 鴨鍋に葱を入れると肉の臭みが消えて美味しくなることから、いいことが重なってやって来ることを「鴨が葱をを背負ってやって来る」と言うが、この言葉から派生して、ターゲットをカモと呼ぶようになったのだろう。 警察の隠語では、赤詐欺は結婚詐欺。 青詐欺は、融資詐欺や保険金詐欺や取り込み詐欺など、企業・会社をカモとする詐欺のこと。 黒詐欺は、サギ師をカモとする詐欺のこと。 白詐欺は、個人をカモとする詐欺。 オレオレ詐欺などの振り込め詐欺を始めとする特殊詐欺は、従って白詐欺の一種ということになるか。 ちょっと話が横道にそれました。 白詐欺ならぬ、白鷺であるが、これにはダイサギ、チュウサギ、コサギの3種類がいる。 ダイサギとチュウサギの違いは嘴の色かと思っていたが、さに非ずで、口角から目の下に伸びる嘴の切れ込みの違いで両者を見分けるらしい。 ダイサギは切れ込みが目の後ろまで長く伸びている。 チュウサギの切れ込みは目の下付近で止まっていて短い。 チュウサギとコサギは身体の大きさのほか、足先の色で見分けるとのことである。 チュウサギは足の先まで黒い。 コサギは足先が黄色。 さて、一方の鴨であるが、以前の記事で「鴨の万葉歌」というタイトルで万葉歌を紹介したことがあるので、それをご参照いただくこととして、ここでは万葉歌には触れないで置きます。<参考>鴨の万葉歌 2017.2.19. で、鴨南蛮の話。 以前、銀輪散歩の昼食で立ち寄った蕎麦屋で鴨南蛮を注文した際に、南蛮とは葱のことだと、店の主人から教わった話をブログ記事のどこかで書いた記憶があるが、これにも色々な説があるらしい。 南蛮人が葱を好んで食べたことから、葱を南蛮渡来のものということで、「南蛮」と言った、というのが蕎麦屋の主人の話。 同じく葱のことを南蛮と言ったという点では同じであるが、それは地名由来だという説である。 大阪では「鴨なんば」と表記し「鴨南蛮」とは言わない地域がある。 葱が中国大陸から先ず大坂に伝えられ、大坂から全国に広まったそうだが、大坂の一部では葱を「なんば」と呼んでいたらしい。それは大阪の難波(なんば)に通じるが、この「なんば」から南蛮に転じたという説である。 もう一つの説は、「目新しいもの」説である。 南蛮渡来のものは目新しいものであったので、目新しいものを南蛮風と表現するようになった。従って、「南蛮風鴨鍋」は「新しい鴨鍋」という程度の意味で、南蛮が葱そのものを指している訳ではないという説である。 因みに、江戸時代の鴨鍋は、葱ではなく芹が用いられているのが普通であったらしく、葱と鴨の組み合わせが広まったのは新しいとのこと。 鴨が背負って来る「葱」の話になってしまって、「芹」まで出て来ては、博多方面の鴨から「なんば言うとっとか」というクレームが入りそうなので、話を鴨に戻します。 カモも、マガモからガンやオオヒシクイなどまで仲間が多い。 そんな中の一種、キンクロハジロの写真が撮れましたので、掲載して置きます。(キンクロハジロ) キンクロハジロは、カモ目カモ科ハジロ属の鳥である。(同上)梶無(かぢなし)の 池はわれ知る 鴨ありと しか言ふ鴨は きんくろはじろ (鴨葱餅)(本歌)勝間田(かつまた)の 池はわれ知る 蓮(はちす)無し しか言ふ君が 髭無き如し (万葉集巻16-3835)<参考>鳥関連の過去記事はコチラ。
2021.01.27
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偐万葉・もも篇(その7) 今年最初の偐万葉シリーズ記事は、もも篇(その7)であります。 ももの郎女さんはヤカモチが馴染みにしている「ペリカンの家」という喫茶店の店主(彼女のブログ上の名前は☆もも☆どんぶらこ☆さん)であります。 偐万葉シリーズ記事としては第319弾となります。<参考>過去の偐万葉・もも篇はコチラ。 ☆もも☆どんぶらこ☆さんのブログはコチラ。 ペリカンの家関係記事はコチラ。 偐家持がももの郎女に贈りて詠める歌21首十万(とよろづ)を 越えてアクセス 嬉しみと 妹が示しし スマホの画面ライターを 返し忘れて 今日もかも ペリカン通ひの ヤカモチわれは (持ち逃げ家持)あらたしき 年の始に 母がもと そろひ集へば うれしくもあるか(本歌)新しき 年の始に 思ふどち い群れてをれば 嬉しくもあるか (道祖王 万葉集巻19-4284) (20200102お雑煮)コンドイの 浜は寄す波 吹く風も さやにさやさや 見れど飽かなくエメラルドの 海に向かひて 立つ君の かたへに光る 星の砂かも (20200106コンドイの浜)山茶花と 競(きほ)ひ咲くなる 白梅の 今か待つらむ 春立つその日 (梅家持) (20200129白梅)栂(つが)の木の いやつぎつぎに ブログ書き 三年(みとせ)重ねし 今日のめでたき秋篠の み寺の庭の 苔にふる 木漏れ日けふは 春うたふらし (秋篠寺境内の苔 2020.3.15.偐家持撮影)ルピナスと 羽衣ジャスミン 迎へてか われ見よと咲く ツルニチニチソウ (花家持) (20200317ハゴロモジャスミンとルピナス) (20200318ツルニチニチソウ)野に出でよ みみなぐさなど 名の知れる 花はこれぞと 背子にし示し (自粛家持)(注)第5句は初案「背子に示しつ」を「背子にし示し」に修正。いらつめに われ物申す むすびにも よしといふものぞ おこげとり握れ (大伴焦餅)(本歌)石麻呂(いはまろ)に 吾(われ)物申す 夏痩(なつやせ)に 良しといふ物ぞ 鰻(むなぎ)漁(と)り食(め)せ (大伴家持 万葉集巻16-3853) (20200711おこげ)道の辺に 身じろぎもせず ひたすらに 見つつもあるは 恋といふべしや (偐家持)(本歌)道の辺の 草深百合(くさふかゆり)の 花咲(ゑみ)に 咲(ゑ)まししからに 妻といふべしや (万葉集巻7-1257) 追ひて和せる歌1首花園の 道行くわれに いちしろく にゃんなど鳴きて 人に知らゆな (坂猫郎女)(本歌)青山を 横切る雲の いちしろく 吾(われ)と咲(ゑ)まして 人に知らゆな (大伴坂上郎女 万葉集巻4-688)よき人の よく見つ吉野 よしと見て よしと言ふなる ももの郎女 (偐家持)(本歌)よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ(天武天皇 万葉集巻1-27) (20201014吉野・蔵王堂)あり通(がよ)ひ 見(め)しし活道(いくぢ)の 岡に立ち なげきし君の 古(いにしへ)思ほゆ (偐家持)(本歌)愛(は)しきかも 皇子(みこ)の命(みこと)の あり通(がよ)ひ 見(め)しし活道(いくぢ)の 路(みち)は荒れにけり (大伴家持 万葉集巻3-479)アクセスは 金烏玉兎(きんうぎょくと)の 行くままに おのづからなり 増え行くものそ (偐家持)(注)金烏玉兎=太陽には金の烏が住むということで金烏は太陽即ち「日」のこと。月には玉壁の兎が住むということで玉兎は月のこと。よって金烏玉兎は月日のこと。あらぬさまに あけぬる年も 青空に 日の射す見れば よしとぞ生きむ (新生家持)黒牛の 金(きん)の俵の 米積みて 玉敷く道を 行くは誰(た)が家(いへ) (丑家持)(本歌)黒牛潟(くろうしがた) 潮干(しほひ)の浦を 紅(くれなゐ)の 玉裳裾引き 行くは誰(た)が妻 (万葉集巻9-1672)ここだくも 雪は流れ来(く) わが園に 真白き梅の 花の散るかも (大伴雪人)(本歌)わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも (大伴旅人 万葉集巻5-822) 蒲公英(たんぽぽ)の 咲きたる庭の木 宿とすは よけれ雉鳩(きじばと) 屎(くそ)遠くまれ (ペリカンの刀自)(本歌)枳(からたち)の 棘原(うばら)刈り除(そ)け 倉立てむ 屎(くそ)遠くまれ 櫛造る刀自(とじ) (忌部首 万葉集巻16-3832) (20210121タンポポ)嵯峨野花譜 小万知家持 ペリカンへ つなぎて明日は 誰かよむらむ (偐室麟) (20210123嵯峨野花譜)つぎつぎと 本が咲く家 ペリカンへ いざ見に行かな 花譜の花見に (ペリカン)(追記注:2021.1.25.)ももの郎女さんのブログに上記の追和の歌が記載されていることに気がつきましたので、これを追記しました。(注)掲載の写真は、「偐家持撮影」とあるものを除き、ももの郎女さんのブログからの転載です。
2021.01.23
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(承前) 前頁記事の続きです。 昼食場所としたのは、東古御香町公園という小さな公園。 3本のケヤキの木が印象に残る公園でありました。 古御香町という名前が気になって帰宅後に調べると、豊臣秀吉が伏見城築城に際して、城内鬼門除けの神として、御香宮をこの付近に移転させたことに関係していることが分かりました。 秀吉没後に、徳川家康によって、神社は元の地である現在地に戻されるのであるが、地元の人たちはこちらの神社を古御香宮と呼んだという。その古御香宮は、御香宮神社のお旅所として今も守られているとのこと。(御香宮神社御旅所<古御香宮>とコース略図) その古御香宮の位置を示すと上の地図の通りです。 黒田長政下屋敷跡参考地から八科峠道標、仏国寺前、東古御香町公園という道を進みましたので、その存在に気がつかぬままであったという次第。 上の地図で、実際に我々が歩いたコース(多分)を青線で記入してみました。少し道に迷って、無駄な歩きをしていることが見てとれるかと思いますが、これもご愛敬であります(笑)。 さて、前頁では東古御香町公園での昼食で終わっていますので、昼食後から記事を始めます。 いよいよ、大岩山展望所・大岩神社への坂道に取り掛かります。(大岩山展望所への道) 険しく、細い山道の先行きを予感させる竹林の道へと入って行くが、竹林を抜けると、予想に反して、道幅もしっかりあり、車が通行できる、眺望の開けた普通の道でありました。さすがに、簡易舗装が所々破砕したデコボコの少し荒れた道ではありましたが・・。(同上) 展望所まで600m、墨染通りまで750mという道標があり、先が急な坂道になっている。 ヤカモチにとってはこの展望所と大岩神社が今回のウオークのメイン・ポイントであるから、それなりに期待が高まる。 坂道を上り切って、左にカーブすると緩やかな下りに入る。 すると、視界が一気に開け、そこに大岩山展望所のデッキが現れたのでありました。ちょっと拍子抜けな感じも。(大岩山展望所) なるほど、感動するほどではないが、なかなかの眺望です(笑)。(大岩山展望所からの眺望・パノラマ撮影) 左手には、先ほどお邪魔した伏見桃山城が見える。(展望所からの眺望・南寄り) 左手奥に見えるのは大阪市内のビル街。(同上・正面) 北寄りにはJR京都駅、京都タワーも見えるが、展望デッキからだと右手の林が邪魔をして見えない。(同上・北寄り) 上の写真(北寄り)では、右手の木々の間に、京都タワーとJR京都駅ビルが、左手には愛宕山が写っています。 展望所から少し下ったところにあるのが大岩神社。(大岩神社) 大岩神社については、下掲の説明碑の写真をご覧下さい。(同上・説明碑)※写真をクリックしてフォト蔵の大きいサイズの写真でお読みください。(同上・本殿) 我々は、展望所から下って来た舗装道路から境内に入ったので、本殿よりも少し高い位置から横入りしたことになる。 本殿から麓に続く参道があるが、倒れた鳥居がそのままになっていたり、何やら荒れている雰囲気なので、舗装道路に引き返して、山を下ることにしました。参道を下ると途中には堂本印象寄贈のユニークな鳥居などがあるそうだが、見ないままに山を下りてしまいましたので、それらは、下記<参考>のサイトでご覧下さい。<参考>LINEトラベル・山中に異世界への門!?「大岩神社」の謎の鳥居とは? 舗装道を下った方が楽だろうという考えで、正規の参道を避けて下山したのであるが、これが正解であったかどうかは何とも言えない。 というのは、かなり急な勾配の坂道であったので、足の指先が靴先内側に何度も強く当たることを繰り返しているうちに、爪先が痛くなって、時々、後ろ向きに歩いて、爪先への圧迫を回避するということをしないでは居られないという有様でありましたから。 そんなこんなで府道35号に出て、ようやく急坂の「爪先責め」から解放されたのでありました。 府道35号に出て左折、西へ。 程なく正規の参道入口の鳥居が左手に見えて来ました。 参道を下るコースだとこちらに出て来るのでした。(同上・参道入口) ※上掲の説明碑はこの入口の鳥居脇にあったものです。 どこかで珈琲休憩をと、喫茶店はないかときょろきょろしながら、緩やかな坂道を下って行く。 ローソンが道路左手にあり、その前方右手、道路の向かい側に菓子舗があり、喫茶コーナーもあるよう。店内に入ってみたが、「只今、3組のお客様がお待ちです。」という表示が店の奥の喫茶コーナー入口に表示されていて、名前を記入するノートが置いてある。 待合空間のソファーなどに数名の入店待ちの男女の姿。随分と盛況のようだが、コロナ対策で入店者数を制限している関係があっての「待ち」客の群れであるとも考えられるので、正確には「盛況」と言うのは当たっていないのかもしれない。 いずれにせよ、待ってまで珈琲は飲むべからず、のヤカモチ。早々に退散であります。まあ、蝶麻呂氏にとっては丁度良いトイレ休憩にはなったようですから、無駄足ではなかったということにはなる。 更に、坂道を下って行くと、見覚えのある辻に出る。 仁明天皇陵への道である。 ここから先は、2018年7月に友人の偐山頭火氏と銀輪散歩したコースと概ね同じ道となる筈である。<参考>深草北陵銀輪散歩 2018.7.23.(仁明天皇陵) 仁明天皇は深草天皇とも呼ばれるが、第54代天皇である。 嵯峨天皇(第52代)の第1皇子であり、母は橘嘉智子。 即位した時には、先帝の淳和天皇(第53代)の皇子、恒貞親王が皇太子に立てられたが、嵯峨、淳和両上皇が没すると、恒貞親王を奉じた伴健岑、橘逸勢らが謀反の罪で処分され、恒貞親王が廃太子となり、代って、仁明天皇の皇子、道康親王(後の第55代文徳天皇)が皇太子となる。 いわゆる「承和の変」である。 道康親王は、藤原良房の娘・順子が産んだ子である。これによって良房は天皇の外祖父として大きな権力を手にすることとなり、藤原氏による摂関政治へと道を開くこととなることから、承和の変は良房の謀略であったと考えられる。まあ、このような政治的転換点の時期の天皇が仁明天皇でありました。 また、宮廷文化が唐風から和風に変わるターニングポイントとなったのもこの天皇の時代だと言われる。 小野小町や在原業平など、この時期の歌人の名を挙げれば、この時代の雰囲気が分るというものではある。 小野小町は仁明天皇の更衣であったという説や百日通いの深草少将は仁明天皇がモデルだという説などがあったりもするが、彼は、深草少将よろしく41歳の若さで急死している。 そして、後を継いだ文徳天皇、清和天皇の時代に摂関政治の定着を見ることになる。因みに、文徳は32歳で病死、清和は31歳で没している。 文徳については、良房による暗殺説もあったりするが、真相や如何にである。 仁明天皇深草陵は、名神高速道路の南側の住宅街の中に目立たずひっそりとある。 御陵を出て、名神高速道路の北側の道に。次の目的地である、嘉祥寺、深草北陵へと向かう。(コース地図・その2) ※ー線:予定コース ー線:実際に歩いたコース はい、嘉祥寺に到着。 2018年7月以来の再訪であるが、記憶では無人の荒れ寺という印象であったが、今回はそんな風ではなかったのは、記憶違いであるか。(嘉祥寺<深草聖天>)(嘉祥寺説明碑) 嘉祥寺というのは、嘉祥3年(850年)に宮中で突然に倒れ急死した仁明天皇の菩提を弔うため、息子の文徳天皇が「嘉祥4年(851年)2月に・・その陵の傍らに清涼殿の建物を移して寺とし」とあるから、元々は、先ほど訪ねた仁明天皇陵の傍らにあった大きな寺であったのでしょうが、室町時代に戦乱で焼亡。 江戸時代・寛文年間(1661~1673年)に深草十二帝陵を管理する安楽行院を再興する際に、その境内に聖天(歓喜天)を祀り、嘉祥寺の名も再興されたとのことだが、それは名前を承継したに過ぎず、仁明天皇の菩提を弔う寺という実体を伴った嘉祥寺ではなかったということであるか。 一般には深草聖天と呼ばれているようだが、道路側入り口の石碑には「日本最初歓喜天」と刻まれているから、わが国最古の聖天寺院ということなんだろう。 聖天さんは全国各地にあるが、江戸時代寛文年間に初めて聖天を祀ったということが事実なら、そんなに古いものではないから、わが国最古というのは大変疑わしい。それとも、聖天信仰は江戸時代になってから流行り出した新しい信仰なんだろうか。 日本三大聖天については、諸説あるとのことだが、 東京都台東区の待乳山聖天(本龍院)と、 奈良県生駒市の生駒聖天(宝山寺)の、二つについては、諸説一致して異論がなく、三つ目については次の四つの聖天が張り合っているらしい。 埼玉県熊谷市の妻沼聖天(歓喜院) 静岡県小山町の足柄聖天(足柄山聖天堂) 三重県桑名市の桑名聖天(大福田寺) 兵庫県豊岡市の豊岡聖天(東楽寺)(深草聖天縁起) 嘉祥寺の西隣が深草北陵である。北朝系の天皇12帝の遺骨が納められていることから深草十二帝陵とも呼ばれるらしい。(深草北陵<深草十二帝陵>) 制札に記載された天皇の名は次の12帝である。 第89代 後深草天皇 第92代 伏見天皇 第93代 後伏見天皇 北朝4代 後光厳天皇 北朝5代 後円融天皇 第100代 後小松天皇 第101代 称光天皇 第103代 後土御門天皇 第104代 後柏原天皇 第105代 後奈良天皇 第106代 正親町天皇 第107代 後陽成天皇 これに、北朝3代の崇光天皇の皇子・栄仁親王の名も末尾に併記されている。 大河ドラマ「麒麟が来る」で登場している正親町天皇の名も見える。 ところで、北朝の天皇というのは、後深草天皇の血筋(持明院統)の天皇のことであり、南朝の天皇というのは、亀山天皇の血筋(大覚寺統)の天皇のことである。 南北朝合一は、第99代後亀山天皇が、北朝6代目の天皇であった後小松天皇に譲位し、後小松が第100代天皇となったことによって、成立するのであるが、以後、北朝・持明院統の血筋が、皇位を継承して行くことになる。 しかし、明治政府が皇位継承の正当性は南朝側にあるとしたことから、北朝初代の光厳天皇から北朝5代の後円融天皇までの5人は歴代天皇を数える際には除外される。 持明院統の血筋が今上天皇まで続いているのであるから、北朝の皇位継承で歴代を数えるなら、今上天皇は第128代天皇ということになるが、歴代の数え方は南朝の皇位継承を正当とするので、第126代天皇ということになる。 ここで、気になるのは、第89代後深草天皇から第107代後陽成天皇までの間の持明院統の天皇で、この深草北陵に名を連ねていない天皇4名の御陵はどうなっているのかということだが、次のようになっています。 北朝初代の光厳天皇と第102代の後花園天皇 京都市右京区京北井戸町丸山の常照皇寺境内の山國陵 北朝2代目の光明天皇と北朝3代目の崇光天皇 京都市伏見区の大光明寺陵 深草北陵から伏見稲荷大社へ。 いよいよウオークも終盤である。(寶塔寺) 寶塔寺の門前を通り過ぎ、JR稲荷駅の前、伏見稲荷大社の大鳥居前に到着しました。 結局、珈琲休憩をする喫茶店に出会うこともなく終着点に来てしまったという次第。(伏見稲荷大社) 蝶麻呂氏は伏見稲荷大社にもお参りをするというので、ヤカモチは駅前の喫茶店で、珈琲休憩をしながら待つこととする。多分、社務所でお札を貰うというのがその目的なんだろう。 ヤカモチはこれまで何度も伏見稲荷大社には来ているので、ブログ記事に取り上げるまでもないと判断してパスしたのであるが、過去記事を調べてみると、意外や意外、伏見稲荷大社の記事はないのでありました。 そういうことなら、少し境内を歩き回ってもよかったかと後悔しましたが、これも亦後の祭りであります。 待つこと20分位であったろうか、蝶麻呂氏が喫茶店に帰って来ました。ヤカモチは2杯目の珈琲を注文し、彼の珈琲にお付き合いしつつ、とりとめもないお喋り。 珈琲を飲み干したところで、店を出て、JR稲荷駅からJR京都駅へ。 京都駅で蝶麻呂氏と別れ、ヤカモチは近鉄線で帰途に。帰宅すると5時半位になっていました。 スマホの歩数計は25985歩。かくて、「蝶に誘われ26000歩」という記事タイトルになったという次第。 つまらぬ男二人の「徘徊」ウオークにお付き合い下さり、どちら様も、有難うございました。これにて完結です。(完)
2021.01.20
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しばらくブログを休んでいましたが、再開です。 先週の木曜日、14日に友人の蝶麻呂氏から電話があり、京都一周トレイルの深草コースを歩いてみようと思うが、一緒にどうかというお誘い。 緊急事態宣言下ということで外出を控え気味にしていたヤカモチでありましたが、このようなお誘いには無抵抗、二つ返事のOKを即座に出しているのでありました(笑)。 その場で実施日を18日(月曜日)と決めたものの、待ち合わせ場所・時刻については追って連絡の筈が、連絡ないままに17日(日)を迎えたので、こちらから催促して、18日・桃山御陵前駅9時41分集合と決まった次第。ということで、昨日テクテク歩きをしてまいりましたので、そのご報告であります。 コースは、桃山御陵前駅→御香宮神社→乃木神社→明治天皇・昭憲皇后陵→伏見桃山城・伏見北堀公園→大岩山展望所→大岩神社→仁明天皇陵→嘉祥寺・深草北陵(十二帝陵)→伏見稲荷大社・JR稲荷駅、というもの。(近鉄・桃山御陵前駅) 路線検索で調べると、桃山御陵前駅9時37分着の電車を利用するには、枚岡駅8時37分発に乗車する必要があることが分かったので、そのつもりでいたが、実際に乗車したのは8時26分発の一つ早い電車。 従って、桃山御陵前駅到着は予定よりも14分早い9時23分。 蝶麻呂氏の到着予定は9時41分なので、18分の待ち時間となる。 駅前の開店準備中の店が並ぶ路地などをぶらぶら。(桃山御陵前駅の駅前の路地 奥正面が駅です。) 蝶麻呂氏の到着を待つ間に、コース地図を紹介して置きましょう。(コース地図・その1 仁明天皇陵まで)※ー線 当初ヤカモチが想定していたコース ー線 実際に歩いたコース 今回のコースで、ヤカモチが未訪問なのは、大岩山展望所と大岩神社のみで、その他は何度か訪れている場所ばかりであるが、蝶麻呂氏は何れも初訪問であるらしい。 その蝶麻呂氏の案内での道行きという心許ない歩きであったが、途中で少し道に迷ってまごつくこともあったものの、概ね順調にコースを辿ることができたのは幸いでした。 定刻に蝶麻呂氏到着。 大手通りを東へ。先ず、御香宮神社。 神社の表門の手前にこんな碑がありました。(「黒田節」誕生の地碑)呑み取りの 槍は惜しめど 返らざる 後の祭りの 酔ひし勢ひ (偐正則) この後、伏見北堀公園を抜けて住宅地に突き当たった処で、黒田長政下屋敷跡らしき場所に出くわすので、ここでこの碑に目が向いたのは、その予兆であったと言うべきか。(御香宮神社・表門) 神社の門らしからぬ姿。 伏見城の大手門が移築されたものだそうだが、いかにも城門の雰囲気である。<参考>御香宮神社 御香宮神社は当ブログでも何度かとり上げていますので、それらもご参照下さい。<参考>伏見散策(乃木神社、大光明寺陵、御香宮神社) 2012.9.21.伏見散策(御香宮神社、伏見奉行所、宇治川) 2012.9.22.夕々の会・伏見散策 2015.11.27.(同上・本殿) 次は乃木神社。 これも、下記<参考>の過去記事を併せご参照下さい。<参考>伏見散策(明治天皇・皇后陵、乃木神社) 2012.9.20.伏見散策(乃木神社、大光明寺陵、御香宮神社) 2012.9.21.(乃木神社・本殿) 乃木神社は、乃木希典を神として祀っているのであるが、そういう側面よりも、学習院の院長時代の胸像や子どもの頃の長州でのわび住まいを再現した旧乃木邸や、乃木希典の生涯を絵解きした何とかという展示館などが境内にあって、人間としての乃木希典を偲ぶという色彩が強く、言わば乃木希典記念館という感じの神社である。(同上・乃木希典胸像)(長府乃木邸)(同上)(同上・説明碑) わが蝶麻呂氏は、神社のお札を収集し始めたのか、先の御香宮神社でもこちらの乃木神社でも、お札を頂戴して居られました。 そういう信仰も趣味もないヤカモチには「御札御朱印吾事ニ非ズ」で何の関心もないのであるが、お札の値段は300円だとか。 京都一周トレイル深草コースでは、乃木神社の後、桓武天皇陵・伏見桃山城方向へと道を北上するのであるが、乃木神社の次は明治天皇陵だろうと、桃山御陵へと向かう。 まあ、ヤカモチとしては、桃山御陵初訪問の蝶麻呂氏なれば、是非にもあの長大な階段を上って戴きたいという親切心であります(笑)。(明治天皇桃山陵の正面階段) これがその階段。 まあ、見ただけでもう上る気が失せるというものであるが、今回は上らなければ、先へとつながらないのである。 息を切らせながら上ると、目の前に明治天皇陵である。(明治天皇陵) 東側の少し低い地に昭憲皇后陵があるので、そちらにもご挨拶申し上げてから、先へと進むことにする。(昭憲皇后陵)<参考>昭憲皇太后・Wikipedia 皇后陵から天皇陵へと戻り、次の伏見桃山城のある公園へと向かう。だらだらの下り坂になっている参道を下って行くと、桓武天皇参道という石標のある道に出る。乃木神社から真っ直ぐに北上する京都一周トレイル深草コースに戻ったことになる。 この道に入る。先を歩いて居られた一人歩きの女性がクスノキの巨木に近づくと、これに抱きつくようにして顔を幹に寄せられました。「大きな木ですね。」と声をお掛けすると、散歩でよく出会うお方がよくされるので、それを真似てみました、というお答え。 伏見桃山城への道に出る。京都一周トレイル深草コースはここで右折し、お城のある公園を通り抜けるようである。 右折せず、直進すると桓武天皇陵であるが、公園へと向かう。 後で聞くと、蝶麻呂氏は桓武天皇陵も未踏であったらしく、立ち寄ってみたかったと仰っていましたが、後の祭り。桓武天皇陵は下記<参考>の過去記事でご覧戴くこととしましょう。<参考>深草北陵銀輪散歩 2018.7.23.京都南部銀輪散歩・白河・桓武天皇陵から大枝神社まで 2012.3.24.伏見散策(桓武天皇陵・伏見桃山城) 2012.9.19. 公園に入り、伏見桃山城を眺めつつ行く。 伏見桃山城も眺めるだけでパス。(伏見桃山城) このお城は、秀吉が建てた伏見城とは無関係。歴史的建造物とは関係のない「城型建物」に過ぎないということの所為か、カメラを向ける意欲がイマイチ湧かないこともあって、もっといいアングルがあったのにこれを撮らずにやり過ごし、いよいよ見えなくなるという段階になって、ブログ記事の構成上のこともあるかと、カメラを向けましたので、手前に無粋なコードが垂れ下がり、立ち木が邪魔をしている景色になってしまったという次第。上の<参考>の2012年9月19日記事には、もう少しましな写真が掲載されています(笑)。 公園を抜けて、一般道に出て、東へと進んだところで、出くわしたのが、黒田長政下屋敷跡参考地という碑。(伏見城武家地・黒田長政下屋敷跡参考地碑) ここで、冒頭の「黒田節」誕生地の碑とつながるのであるが、秀吉が伏見城を営んでいた時期には、この辺りは武家屋敷が立ち並び、黒田長政の屋敷がこの地にあったと考えられているのだろう。参考地とあるから、まだ確定した説にはなっていないということか。 日の本一の槍を手に入れた母里太兵衛の屋敷はどの辺りにあったのだろうか。 ここで右折して南に進むと、すぐに道が二股に分岐する地点に出る。 分岐点の道脇にあるのが八科峠の道標。(八科峠の道標) 八科峠道標を右手に見て左の道を行くと下り坂。下りきって、仏国寺の前で左折、今度は坂道を上ることになる。 坂を上り切った処に小さな公園。東古御香町公園という名の公園であったかと記憶する。 正午を過ぎていたので、この公園で昼食タイム。 ということで、お昼休みとします。 昼食後、大岩山展望所への坂道を上りますが、続きは明日以降の記事とさせて戴きます。(つづく)
2021.01.19
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(承前) 昨日の記事の続きです。 記事カテゴリは「銀輪万葉」となっていますが、この日は「銀輪」は自宅に置いたまま、電車と徒歩による移動なので、正確には「徒歩万葉」とでも言うべきでありますが、そういうカテゴリは設けていないので、徒歩による「銀輪万葉」という訳のわからぬことになります(笑)。 邂逅展のアト、やすらぎの道を渡って、向かいの率川神社へ。 この神社にはこれまで何回も立ち寄っている。 過去記事を調べてみても、少なくとも5回は訪問しているようだ。<参考>率川神社の写真が掲載されている過去記事は次の通り。 奈良銀輪散歩(その1) 2009.5.19. 万葉ウオーク下見・咲きか散るらむ 2011.8.22. 率川神社三枝祭 2012.6.17. 高円山から率川神社へ 2015.6.30. この日撮った写真を以下に掲載しますが、上記の過去記事のどれかに既に掲載されているものと内容は重複しますので、二番煎じ、三番煎じとなりますことはご容赦賜りたく。 何度も来ているとはいえ、昨年の邂逅展の帰りに立ち寄っていないとすれば、2015年6月以来の訪問となり、5年半ぶりの久々の訪問ということになる。(率川神社拝殿と本殿)<参考>率川神社・Wikipedia(同上本殿 東側から撮影) 本殿は、手前(東側)から、 右殿(玉櫛姫命)、 中殿(媛蹈鞴五十鈴姫命)、 左殿(狭井大神)。 率川神社の主祭神は媛蹈鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメ)、古事記では比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)。 父(狭井大神=大三輪の神、大物主神)と母(玉櫛姫命=勢夜陀多良比売)と共に祀られている。 彼女は、神武天皇の皇后となった女性。第2代綏靖天皇の母である。(同上由緒) 上の由緒に記載の通り、境内にある率川阿波神社の祭神が事代主命であるのは、日本書紀に事代主神が父親だという説も記されていることが関係しているのでもあるか。 境内には万葉歌碑がある。 この万葉歌碑も既に紹介済みであるが、再掲載です。はねかづら 今する妹を うら若み いざ率川 いざかはの 音の清 さやけさ (巻7-1112)<はねかづらを今つけているおとめがうら若く初々しいので、いざいざと誘う、その率川の瀬音のすがすがしいことよ。>(同上・境内の万葉歌碑) 上の万葉歌とは関係ないが、神武天皇が即位し皇后としてヒメタタライスズヒメが宮中に参内した時、神武はこんな歌を詠んでいる。葦原(あしはら)ノ 穢(しけ)しき小屋(をや)に 菅畳(すがたたみ) 弥清(いやさや)敷きて 我が二人寝し (古事記・神武記)<葦原のきたない小屋に菅畳をとても清らかに敷いて、私たち二人は寝た> 神武と彼女が結ばれたのは、三輪山の北側の小川、狭井川(佐韋河)のほとり。彼女の家がその辺りにあったのである。 サイ川の畔に生まれ育ち、そこで神武と結ばれた彼女がイサ川の畔の率川神社に祀られているというのも、何やら語呂的には面白い。 古事記によると、佐韋河の「佐韋」は「山百合」の古名で、川辺にはヤマユリの花が沢山あったので佐韋河と呼ばれたとのこと。 さて、率川神社を出て奈良駅方面へ。 三条交差点を越えて、高天交差点方向へ「やすらぎの道」を少し進むと、漢國神社がある。ここも2015年6月29日に訪れていて、同月30日の記事にて紹介しているので、写真だけ掲載して置きます。 率川神社も漢國神社も人影はなく閑静。 われは一人境内にありぬ、であります。(漢國神社) <参考>漢國神社※漢國神社は、推古天皇元年(593年)に勅命により、大神白堤(おおみわのしらつつみ)という人(率川神社創祀の人物と同じ)が、大物主命を祀ったことに始まり、養老元年(717年)に藤原不比等が大己貴命と少彦名命を合祀した神社とのこと。(同上・本殿)(同上・本殿 少し角度を変えて撮影)(同上・説明碑)<参考>漢國神社についての過去記事は次の通り。 高円山から率川神社へ 2015.6.30. 近鉄・奈良駅に戻り、電車で帰途に。 乗車したのは急行。石切駅の次の停車駅は布施駅となるので、2駅先になるわが最寄り駅の枚岡駅には停まらない。従って、この駅で各駅停車の普通電車に乗り換えとなるのだが、これを待たず下車して家までぶらぶら歩いて帰ることとする。 石切神社への参道となる坂を少し下ったところにあるのが千手寺。 この寺も過去記事で取り上げたことがあるので、再掲載である。(千手寺) 千手寺は立ち寄ったと言うよりも、境内には立ち入らずであったから、正確には、門前を通り過ぎたと言うべきかもしれない。 門前には業平さんの腰掛け石がある。境内にも彼の遺品を収めたという業平廟がある。千手寺の再興には業平さんが深くかかわっているのであれば、彼に所縁のあるものがあっても不思議ではない。 しかし、腰掛石の由来などは存じ上げない。 文徳天皇の後継争いで、第1皇子の惟喬親王(母・紀静子<紀名虎の娘>)は、第4皇子の惟仁親王(のちの清和天皇、母・藤原明子<藤原良房の娘>)に敗れて、天皇になることはできなかった。 まあ、藤原良房をバックにした惟仁に、紀氏がバックの惟喬では、戦う前から勝負あったというものだろう。 惟喬親王は木地師の祖とも伝えられるが、在原業平は惟喬親王に仕えた身であるから、彼も亦政治的には不遇をかこつことになる。 してみれば、「身を用なきもの」と「東下り」をする前に、この腰掛石に座って、愚痴をこぼしたのであったかも知れない(笑)。 それとも、河内の女のもとへと通う時の、お決まりの休憩用腰掛石というのでもあったか(笑)。腰掛けて うらみつらみの なりひらの よしなしごとを ききし石これ (無原泣平)腰かけて こよひはいづく 宿らむと まよふなりひら ためらひの石 (好原色平)(同上・在原業平公腰掛石)<参考>千手寺についての過去記事は次の通り。 石切・額田・瓢箪山近隣散歩(上) 2010.5.3. 寺の門前から坂を西に下って、南北の広い通りに出る。 東石切公園、額田駅前を過ぎ、枚岡神社前に。やかもちも 腰掛石は 枚岡の 御神の脇の 石とやせむか (枚岡真平) ということで、神社参道脇の石に腰掛けて、暫し休憩したるのち、自宅に到着。これにて一件落着であります。 前半は、「銀輪万葉・奈良県篇」にて、後半は「近隣散歩」にて分類すべき「複合記事」と相成りました。<参考>銀輪万葉・奈良県篇(その1)の記事一覧はコチラ。銀輪万葉・奈良県篇(その2)の記事一覧はコチラ。近隣散歩(その1)の記事一覧はコチラ。近隣散歩(その2)の記事一覧はコチラ。
2021.01.11
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一昨日(1月8日)、2021邂逅展に立ち寄って来ました。 今日(10日)が最終日ですから、もう終わっていることになります。 昨年は近鉄・大和西大寺駅まで電車で行き、そこから持参のトレンクル(小型軽量折りたたみ自転車)で、会場の奈良市上三条4のアートスペース上三条GALLERY&CAFEまで走ったのであるが、今年は近鉄・奈良駅まで電車でそこから歩いて会場へと向かいました。<参考>2021邂逅展と煤逃げ墓参 2020.12.28.2020邂逅展 2020.1.9.(アートスペース上三条) 入り口を入って、1階右手が喫茶ルームになっていて、2階が展示スペースになっている。 家近氏は1階の喫茶ルームで先客のご夫婦と思しきお二人連れと何やらお話されていたので、お声掛けだけして2階へ。(「雪原の中の女」) 2階に上がって先ず目に飛び込んで来たのは、案内状はがきに印刷されていたこの作品。向かい側の壁には、家近氏の作品によく登場する気球が描かれた作品が展示されていました。(タイトル不詳) 両絵画の間を行くと受付になっていて、そこで手のアルコール消毒を求められる(これは、階段下に備え置かれていたもので消毒したばかりであることを告げて免除)。次に、額に体温測定器を向けられて36.2度で合格。記帳を済ませてようやくに入場でありました。 何人かのお仲間との合同展であったが、そのうちのお一人、受付前に居られた男性は、お名前は聞き漏らしましたが、東大阪市は石切にご在住ということで、枚岡在住のヤカモチにとっては近隣のお方ということでありました。(展示風景1) 以下は、他のお方の作品コーナーであります。(展示風景2)(展示風景3) ※追記注(2021.1.22.)昨日(1月21日)下掲の葉書が届きましたので、上掲写真の絵画の作者は北籔和氏であることが分かりました。 1階の喫茶ルームに戻って、珈琲休憩。 入り口の消毒用アルコール、テーブルには何枚もの透明アクリル板。 席は一つ置きに×印。コロナ対策を万全にされています。 喫茶ルームの女性の「家近先生の作品は後ろにも展示されていますよ。」という言葉に促されて振り向くと、小品作品が4点並んでいました。(展示風景4) 珈琲を済ませて、再び2階に向かいましたが、家近氏がどなたかとお話して居られる声。お邪魔をしてもいけないと、ご挨拶せずに辞去。 今回は、家近氏とは階段下の喫茶ルーム前と2階の受付前で少し言葉を交わしたのみでしたので、小万知さんの「家近先生によろしくお伝え下さい。」という「よろしく」も伝えられぬままのオイトマ(笑)と相成りました。 会場の「アートスペース上三条」は「やすらぎの道」(奈良市道六条奈良阪線)を挟んで率川神社の向かいの小さな路地を入ったところにある。 率川神社は何度も訪れているが、道路を渡って、同神社にご挨拶をして行くこととしました。これについては、ページを改め、明日の記事とさせていただきます。<参考>家近健二展関連記事はコチラ。(追記注 2021.1.31.)上掲「展示風景3」の写真のフォト蔵写真へのリンクが間違った絵にリンクされていたことに気づきましたので、これを修正しました。
2021.01.10
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(承前) 2020年12月12日記事の続編、後日談であります。 昨年12月1日から4日にかけて生じた「脳梗塞では?」という右半身の麻痺・痺れについての後日談であります。 12月18日脳波検査を受けました。 先に救急搬送された病院でのMRI画像について、今年1月4日に当該病院へ電話し、その貸出しを依頼。同日これを受領。 こういうことは初めての経験なので、どのような手続きが必要なのかと当該病院に午前11時頃に電話したのであるが、何のことは無い電話一本でOK。すぐにも用意できるとのことであったので、午後2時半頃にこれを受領したという次第。 ディスクにMRI画像をコピーしたものであるが、返却不要、手数料なども不要とのこと。(MRI画像のコピーディスク) 本日(1月9日)、このディスク持参の上、診察を受けて参りました。 先の脳波検査も異常は無し。 持参のMRI画像からも異常は認められない、とのこと。 よって、昨年の「発作」が何を原因として、何処の異常により生じたものであるかは不明、ということになりました。 現状では、脳梗塞や癲癇に関連したものというエビデンスはないという訳でありますから、これらである可能性は極めて低いということであるのでしょう。これをしも「安心」と言うべきや(笑)。 まあ、この1ヶ月、類似の症状は生じていないので、様子を見るしかないということについては、当方も納得である。 このまま、あのような発作が再発しないことを祈ることとしましょう。<参考関連過去記事>〇墓参&病院へ 2020.12.4.〇囲碁例会・梅田の里山花譜 2020.12.2. 話は変わりますが、昨日(8日)は、友人の家近氏からご案内状を頂戴した「邂逅展」を覗くため、奈良まで出かけて参りました。これについては、明日の記事でご紹介させていただきます。
2021.01.09
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和郎女作品展は、若草読書会の折にお持ちくださる彼女制作の作品を撮影させていただくことによって成り立っていますが、昨年の2月を最後に同読書会は休会となっているので、作品が集まらず2月25日開催の第25回展を最後に休止したままとなっています。 新型コロナ感染の状況、昨年よりも更に深刻になっている現状にて、読書会の再開も見通せない状況で、同作品展の次なる開催もいつになるのかわかりません。 そんな中、昨年暮れに和郎女さんから、2点の作品の贈呈を郵送にてお受けいたしました。 ということで、ミニ版の「和郎女作品展」を番外にて開催させていただきます。出展作品が2点では、ミニ版とは言え、作品点数が少なすぎるというものですが、現下の状況に鑑み、ご容赦賜りたく。 先ずは、毎年恒例でお作り頂いているその年の干支に因む作品です。(2021年丑) 遡ってみると、和郎女作品展は、2009年の丑年の1月から始まっていますので、今年で干支(正確には「支」)がひと回りしたことになります。 次は。お正月らしい、三連の壁掛けです。 (三連タペストリー) 鏡餅、羽子板、松竹梅の図柄になっています。 早くコロナが終息し、若草読書会の開催、和郎女作品展や智麻呂絵画展の再開がなりますように願って居ります。う(倦)まずもや したたかにあれ われらみな なんぞころなに まけはすまじき (やかもち)とまあ、このように勇ましきは、ヤカモチらしくもなければ、うらうらに てれるはる日に しらうめの こぼれさくごと その日またなむ (やかもち)とでもして置きますか(笑)。<参考>和郎女作品展の記事一覧はコチラ。
2021.01.06
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ブログ管理ページを開いたら「ブログ開設日数:5000日」という文字が目に入りました。 今日でブログ開設丸5000日に達したのでありました。 開設4000日に達したのが2018年4月10日であったから、その日から早くも1000日が経過したということになる。 この間にブログに関してあったあれこれを年表風にまとめると次の通りであります。2018年 5月10日 160万アクセス到達2018年 7月12日 170万アクセス到達2018年 7月30日 Facebookへの自動・同時投稿機能廃止。(注)その都度投稿のための操作が必要となる。2018年 9月21日 180万アクセス到達2018年10月15日 ブログ記事件数2400件到達(注)2400件目の記事は「蝶の展示と生態写真」2018年11月16日 2007年11月14日以来の作歌数累計8000首に到達※8000首目の歌はビッグジョン氏に答へて詠める次の歌。 花よりも葉よりも実なりこむらさき枝垂れて秋のわが庭飾れ(偐紫田舎源氏)2018年12月23日 190万アクセス到達2019年 3月 1日 ヤフーブログのサービスを2019年12月15日終了の旨の通知。2019年 3月21日 200万アクセス到達2019年 4月15日 ヤフーブログ終了対策としてアメーバブログを開設登録。2019年 4月21日 ブログ記事件数2500件到達(注)2500件目の記事は「ついでの東京銀輪散歩(その1)」2019年 5月28日 210万アクセス到達2019年 6月10日 ヤフー版偐万葉田舎家持歌集の全記事をアメブロ版偐万葉田舎家持歌集に移転完了(これに伴うリンク不備修正作業開始)※リンク不備:ヤフー版の記事のリンクがこれに対応するアメブロ版の記事ページにリンクされず、全てアメブロ版のトップ記事にリンクしてしまうという不備2019年 6月15日 智麻呂絵画展シリーズ記事のリンク不備修正完了2019年 7月28日 偐万葉シリーズ記事のリンク不備修正完了2019年 8月 4日 220万アクセス到達2019年 8月 8日 岬麻呂旅便りシリーズ記事のリンク不備修正完了2019年 8月11日 和郎女作品展シリーズ記事のリンク不備修正完了2019年 8月21日 2222222アクセス到達(アルヒのアヒル)2019年10月 5日 230万アクセス到達2019年11月 2日 ブログ記事件数2600件到達(注)2600件目の記事は「墓参・虫散歩」2019年11月29日 240万アクセス到達2020年 1月22日 250万アクセス到達2020年 5月 3日 ブログ記事件数2700件到達(注)2700件目の記事は「墓参・ヤエムグラの実のなるも見む」2020年 3月 23日 260万アクセス到達2020年 5月 19日 270万アクセス到達2020年 7月 10日 280万アクセス到達2020年 9月 19日 290万アクセス到達2020年10月 9日 過去記事の掲載写真で90度右に回転してしまっているもののあることを発見。加えて水平・垂直の長さの比率が逆転して歪んだ画像になっていて、何が写っているのか分からないものもある。調べると、2012年1月22日以前の記事について生じていることが判明。順次、それらの写真の復元修正作業を始める。2020年11月13日 上記復元修正作業完了。(注)修正記事件数は以下の通り。2012年/2件 2011年/111件 2010年/15件 2009年/3件 合計131件※主にタテ長写真であったが、ヨコ長写真にも発生しており、原因不明。2020年11月28日 300万アクセス到達2020年12月 9日 ブログ記事件数2800件到達(注)2800件目の記事は「ときじくに咲くユキヤナギ」2021年1月 4日 開設5000日を迎える (累計記事件数2813件、直近1000日505件) 今日は、記事を書かないつもりでいたが、気づいたので遅々ながら、急遽記事アップであります。 まあ、どうでもいいような記事ではありますが、1000日ごとにまとめているので、継続性の原則ということで。<追記・2021.1.5.>各千日毎の記事件数第1千日 592件 ブログ開設1000日(2010.1.22.)第2千日 557件 ブログ開設2000日(2012.10.18.)第3千日 646件 ブログ開設3000日(2015.7.15.)第4千日 513件 ブログ開設4000日(2018.4.10.)第5千日 505件当ブログの歩み過去記事一覧はコチラ。
2021.01.04
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昨日二日は恒例の三社めぐり散歩。 これがいつの頃なのか、ブログ記事を遡って調べてみると、2010年1月2日の記事に「初詣」というのがあって、枚岡神社と石切神社が出て来るが、瓢箪山稲荷神社はないから、三社ではなく二社である。 三社が登場するのは2011年からであるから、どうやら三社めぐりはこの年から始まっているようだ。 尤も、翌年の2012年はヤカモチは風邪でダウンしたようで、完全なる寝正月であったことが覗え、三社めぐりの記事はない。また、2013年もその記事はないので、三社めぐりをしたかどうか不明である。 2015年は、2日ではなく3日に実施している。 2017年に記事がないのは、母の喪中であったので自粛したのだろう。 ということで、三社めぐりは2011年に始まり、これが年初のルーティンとして定着したのは2014年からということになるようだ。 コースは、ほぼ毎年決まっていて、自宅→枚岡神社→姥ヶ池→枚岡公園→重願寺→石切神社→瓢箪山稲荷神社→自宅である。7~8km程度の行程になる。 先ず、枚岡神社。(枚岡神社) 例年に比べて人出はやや少ないような気もするが、階段を上った本殿前は結構な「密」になっているようにも。 例年だと、階段を上って、本殿前で左に抜けて枚岡公園へのハイキング道へと出るのであるが、今年は「遙拝」とし、参道脇からハイキング道へ。 枚岡公園までは登り坂が続く。 姥ヶ池を過ぎ、椋ヶ根橋を渡り、枚岡公園へと入る。 公園入り口前のお地蔵さんにご挨拶。(枚岡公園南入り口付近のお地蔵さん) 枚岡公園を通り抜け、長尾の滝への道から石切へと抜ける道に入る。 途中、カットすることも多い、楠木正行公首塚にもご挨拶。(楠木正行公首塚) ホテル石切セイリューの前を過ぎて、石切神社参道商店街の道へ。 参道商店街の道は行く人、帰る人で混むことが予想されたので、一つ北側の坂道を下ることとする。石切神社の北側・裏門からの入場となる遠回り道である。 石切神社は、初詣の参拝者が列をなす、いつもの光景であるが、これでも例年よりはかなり少ないように思う。(石切神社) この列が、参道商店街から続く道を横切り神門を越えて南鳥居方向へと続いているのであろうが、上のスナップを撮ったのみで、裏門側の道へと引き返す。 裏門側の細道を西に下って、東高野街道に出る。 この道を、南へ。例年なら、この街道沿いにも、新石切駅側からの初詣客目当てに露店が立ち並ぶのであるが、今年は、石切神社や地元自治会は露店開設を禁止したようで、神社境内、参道は勿論、街道沿いにもその姿は一切ありませんでした。 新石切駅東側から箱殿東交差点を過ぎ、更に南へ。 瓢箪山商店街を通り抜けて瓢箪山稲荷神社へ。(瓢箪山稲荷神社) 上の写真の正面本殿の前、左に回って通り抜けると、この神社の辻占いの場所に出る。そこから、自宅までは15分程度。2時間余の三社めぐり散歩でありました。<参考>〇初詣 2010.1.2.〇初詣2011 2011.1.3.〇枚岡神社と鹿 2012.1.6.〇三社めぐり 2014.1.5.〇三社散策 2015.1.3.〇三社散策2016 2016.1.2.〇2018三社めぐり 2018.1.2.〇こもりのみ居ればいぶせみ 2019.1.5.〇2020年三社めぐり 2020.1.2.
2021.01.03
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謹賀新年おしなべて 木のめもはるの 浅緑 松にぞ千世の 色はこもれる(藤原良経 新古今集巻7-735)新年がみなさまに どうぞよき年でありますようにそしてコロナに負けることなく お互い元気に過ごしましょう(枚岡神社の絵馬)旧年中のご厚誼感謝申し上げますとともに本年もよろしくお願い申し上げます令和3年元旦偐万葉田舎家持歌集けん家持(石切神社の絵馬)(瓢箪山稲荷神社の絵馬)偐万葉田舎家持歌集(にせまんよう いなかやかもち かしゅう)目次それぞれの項目をクリックするとその項目の記事をまとめて見ることができます。下記目次はアメブロ版偐万葉田舎家持歌集により作成しています。銀輪万葉シリーズ大阪府篇(その1)、大阪府篇(その2)奈良県篇(その1)、奈良県篇(その2)京都府・滋賀県篇(その1)、京都府・滋賀県篇(その2)兵庫県篇、和歌山県・三重県篇、北陸篇、関東篇新潟県・長野県篇、中国四国篇、九州篇、その他篇近隣散歩近隣散歩(その1)、近隣散歩(その2)智麻呂絵画展第1回展~第100回展、第101回展~第200回展、第201回展~偐万葉シリーズひろろ篇、若草篇、ビッグジョン篇、英坊篇、オガクニ篇ふぁみキャンパー篇、ふらの篇、閑人篇、LAVIEN篇、幸達篇ひろみ篇、あすかのそら篇、もも篇、龍の森篇その他(どち篇&雑詠篇)松風篇、木の花桜篇、るるら篇、真澄篇、nanasugu篇カコちゃん08篇、大和はまほろば篇、童子森の母篇半兵衛篇、くまんパパ篇、カマトポチ篇ビターc篇、マダムゴージャス篇、アメキヨ篇ウーテイス篇、ローリングウェスト篇和郎女作品展絵画家近健二展関連、近江鯨麻呂絵画展、その他の絵画花花(1)、花(2)、花(3) 花(4)万葉短歌・俳句・詩・戯れ歌言葉遊び若草読書会岬麻呂旅便り囲碁関係囲碁関係(その1)、囲碁関係(その2)マンホール友人関係5人組ウオーク関係、健人会関係中学同期関係、夕々の会関係、ナナ万葉の会関係ペリカンの家関係、木力工房関連、その他虫、鳥、犬、猫など墓参関係その他カテゴリー自転車、能・狂言、ブログの歩み、未分類 当ブログの昨年の年間アクセス件数は586955件と過去最多の年間アクセス件数となりました。 ご訪問下さった皆さまに心よりお礼申し上げます。 今年も引き続きよろしくお願い申し上げます。<参考>過去10年間の年間アクセス数 (括弧内は年末時点のアクセス総数) 2011年 53664件( 151563) 2012年 48490件( 200053) 2013年 39816件( 239669) 2014年 78308件( 318177) 2015年 250713件( 568890) 2016年 501049件(1069939) 2017年 383827件(1453766) 2018年 455523件(1909289) 2019年 553926件(2463215) 2020年 586955件(3050170)<参考>ブログの歩み関連過去記事はコチラ。
2021.01.01
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