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北海道の玄関・新千歳空港での待ち時間の過ごし方、3階のフードコートで離発着を眺めることが多い。しかし、空港ターミナルビル内を散歩するのも良い。通路の脇と壁がギャラリーになっている。お土産品は、搭乗待合室で調達する。 国内線ターミナルビル2階から国際線ターミナルビルを結ぶ連絡通路が広い。通路幅30m×長さ約500mの規模。通路の両側に縫いぐるみの動物等が展示されている。「シュタイフ ディスカバリーウォーク」と名付けられている。以前はトリックアートが展示されていた。 国内線ターミナルビル3階フロアは、飲食店が犇めきあっている。「北海道ラーメン道場」があるフロアだ。展望スペースへ向かう通路の脇に、「蒸気ヘリコプター」と大きな壁画がある。絵画の題名は、「めざせ・・食の王国北海道(山野井早紀)」という。若い女性が飛行機を跨いて飛んで、特産物を紹介している。「魔女の宅急便」のキキちゃんを思い出す。写真-1 国際線ターミナルビルへの連絡通路。写真-2 独・シュタイフ社の縫いぐるみ動物たち。写真-3 ドイツの町並みを表現。北部ハンブルク、南部バイエルン。写真-4 「おねだり像」と「夢の蒸気ヘリコプター」。写真-5 大型絵画「めざせ・・食の王国北海道」。写真-6 帰京便の窓から見た機影。
2021年11月20日
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北海道大学キャンパスを散歩した。JR札幌駅北口から徒歩7分で北大の正門に至る。黄葉の時期には少し早いと思いつつ・・。9月に続き今回も札幌市内のホテルに宿泊した。朝メシ前の運動になる。 先ず北大ポフラ並木に立ち寄る。2004年9月の台風で大被害を被ったポプラの老木。70本近くあったポプラ樹の約半数が倒木した。現在、80mほど開放されている。500m離れた平成ポプラ並木が東西に並んで見えた。 北大キャンパスには、秋の風物詩のひとつ、イチョウ並木通りがある。いわゆる北13条通りと云われ、東西に380mに70本のイチョウが並ぶ。一斉に黄色く色付くと、夜ライトアップされる。イチョウ通りの西端、大野池近くのT字路は、東京オリンピックのマラソンコースとなった場所。選手が駆け抜けたことに想いを馳せる。写真-1 北大ポプラ並木。写真-2 平成ポプラ並木。写真-3 北大イチョウ並木通り「13」条通り。写真-4 名所イチョウ通りと西8条メイン通り(五輪マラソンコース)。写真-5 イチョウ並木西端にある大野池と紅葉。写真-6 樹木に絡み付いた紅葉蔦(つた)。
2021年10月28日
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羽田空港から新千歳空港へ飛ぶ。法事と墓参、そして施設に入居している母親(90才代)との面会のために・・。少々気が重い旅である。2週間前に宿泊パックで予約したので、旅費は通常の半額で済む。コロナの感染状況が下火になったおかげだ。 正午過ぎのフライト。天候に恵まれので、羽田第二ターミナル・出発ロビー(北ピア)から都心が良く見えた。都心のシンボル、東京スカイツリーと東京タワーを見ながら、出発時刻を待つ。 9月に飛行機を利用した際は貸し切り状態だったが。宣言会場された今回は、満席状態になった。進行方向右側の席なので、太平洋側の景色になる。飛び立ったってしばらく、眼下に群雲(むらぐも)を近くで観る。下北半島の内海・陸奥湾を過ぎると天候が悪化した。写真-1 眼下の群雲(ひつじ雲さん)。写真-2 羽田第二ターミナル出発ロビーからスカイツリーを見る。写真-3 都心と東京タワーを望む。写真-4 管制塔とゲートブリッジ。写真-5 東京郊外を飛行するルート。写真-6 雲のジュータンと陸奥湾・下北半島。
2021年10月25日
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薄暗くなった滑走路を飛び立つ。間もなくすると、機内からピンク色の飴玉のような夕日、更に灰色の雲海が目にはいる。急ぎカメラを窓に寄せた。東北地方を過ぎると、雲の厚みが増す。関東に入ると雨模様で、機体が大きく揺れた。毎度ながら着陸すると、ほっとする。 札幌からの帰路、発新千歳18時発は、やはり空いていた。コロナ禍前では、18時から19時に出発する便はドル箱だった。お土産や荷物を持った観光客などで満席。キャンセル待ちが出るのは当たり前だった。各航空会社は、減便等で凌いでいる。早くワクチンパスポートを活用するなどして、飲食・旅行が自由になるとよいのだが・・。 ワクチン接種率が全体で55パーセントを超えたが、64歳以下の接種率がポイントになる。まだ34.5パーセント(9月22日現在)。従って、2回接種して1週間過ぎないと効果が出ないとすると、実質30.8パーセント(9/16相当)となる。つまり、64歳以下では6割がワクチンを完了していないことなる・・。感染拡大(6波)の余地がある。写真-1 機内から見る茜雲。写真-2 フライトを待つ間の一コマ。西に見えたのは千歳紋別岳(EL.866m)かな・・。写真-3 ピンク色の飴玉のような天空の夕日。写真-4 灰色の厚い雲海が眼下に広がる。写真-5 天空のマジックアワー。写真-6 飛行機が上下するので、見え隠れする天空の夕日。
2021年09月25日
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コロナ禍、急にサッポロへ行くことになった。羽田空港から飛び立つ。北海道も緊急事態宣言が発出されているので、機内はガラガラ状態。運行すれば航空機会社は、赤字になる状態が続く。窓際の席で、前後に客が不在なのでカメラをバックから出す。津軽海峡を渡る際、眼下の景色を収めた。 不要不急でない県外移動となる。親族の通夜・葬儀へでるためで、火葬・収骨まで行い、1泊2間の行程。ワクチンの接種を完了しているが、感染防止を徹底することは当然のこと。「人ごみ用心、コロナ用心」で行動した。しかし、帰宅後、1週間発症しないか、不安な時を過ごす・・。 新千歳空港で遅いランチを摂る。換気が良くて、かつ飛行機離着の様子を見ることができるフードコートにて、千歳ラーメンを黙食する。天気が良かったので、展望デッキを覗いてから、さっぽろ駅へ向かう・・。写真-1 津軽半島先端を望む。高野埼と竜飛崎。写真-2 平舘海峡と箱館山・飛行場を望む。写真-3 津軽海峡上空の雲と支笏湖方面(風不死岳がチラッと)。写真-4 着陸態勢から見る田園風景。写真-5 新千歳空港の展望デッキ。写真-6 キティちゃんを見てラーメンランチ(3階フードコート)。
2021年09月11日
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太平洋に面する大洗の「神磯の鳥居」を訪れた。県道173号を挟んで山手に、「大洗磯前神社」の二の鳥居、海寄りに大洗美術館ある。二の鳥居から海岸へ降りると、岩礁に立つ鳥居が目前にある。 1160年ほど前に神が降りたと言われている神聖な場所が鳥居の立つ岩場。恐らく平安時代、朝廷ゆかりの人が船を着けた海岸だったのだろう。現在の位置に「神磯の鳥居」が建立されたのは、昭和38年とされる。江戸時代から月見の名所。水戸黄門さんが岩に砕ける波と海から昇る月を愛でたという。 岩礁に立つ鳥居と荒波を観ながら食事できる食堂が幾つかある。時間帯をずれして遅いランチを、「磯料理山水」でとる。沖からフェリー「さんふらわあ」が港に向かっていた。食事後、「めんたいパーク」に寄り、辛口明太子をお土産にした。写真-1 大洗神磯の鳥居に荒波が寄せる。写真-2 1160年前に神が降りたとされる神聖な海岸。写真-3 沖ゆくフェリーと岩礁の鳥居。写真-4 大洗磯前神社二の鳥居と月見の名所。写真-5 岩礁の鳥居を見下ろす食事処でランチする。写真-6 めんたいパークに寄る。
2021年05月14日
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紅葉の名所・栗駒山南斜面と太平洋を望む「いわかがみ平」を訪れた。しかし、山麓で心配した通り、標高1,113mのいわかがみ平駐車場は雲に覆われていた。小雨降る悪天候で、一瞬、南斜面の紅葉が見えた。ナナカマドの赤とカエデの黄のコントラスと栗駒山頂が見えるはずだか・・。 駐車場から10分ほど上るとレストハウスがある。その脇に登山口がある。栗駒山頂(1,626m)まで約2.9km。レストハウス2階の食堂に展示されている山の四季や高山植物の写真を眺める。ホットコーヒーを飲みながら、「神の絨毯」と称せられる紅葉景を連想する。 栗駒山は、宮城県・秋田県・岩手県の三県にまたがる。山頂部が宮城県と岩手県の県境に当る。山名の由来は、初夏の山頂に馬の雪形が現れることから。栗駒山は活火山。火山活動を監視・観測をしている47火山のひとつ。栗駒温泉群もジオパークサイトにもなっている。写真-1 いわかがみ平の標識。下界は白くて視界悪し。写真-2 栗駒山登山口。少しだけ歩く。写真-3 南斜面に広がる紅葉。山頂まで2.9km。写真-4 レストハウスと食堂。写真-5 いわかがみ平案内板と絶景写真。
2019年11月22日
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栗駒山の世界谷地湿原は、白い雲の中だった。雨合羽を着込んで、整備された木道をゆっくり歩く。当該湿原は、栗駒山ジオパークを構成するひとつ。ビジター10人程度に1名の割合で、現地案内ガイドが付き添ってくれた。雨の中でのガイドは慣れているようだった。ご苦労様でした。 栗駒山のなだらかな南斜面に、細長く広がる谷地(やち)。丘陵地形が侵食された谷に厚さ1.5mほどの泥炭層があるので、地中に水が浸透しづらい。第一湿原と第2湿原を併せた面積は14ヘクタール、東京ドーム3個分相当。千葉県では谷津(やつ)と呼び、水田に利用された地形。 2008年6月岩手県内陸部で発生した大地震により、栗駒山付近も地すべり・崖崩れが多発した。長らく閉鎖されていた第2湿原への立ち入りが昨年から解禁。標高700mの湿原は、毎年6月下旬、ニッコウキスゲで有名な場所。小生らは、豊潤な草もみじを眺め、濡れた木道をゆっくりと歩いた・・。写真-1 栗駒山世界谷地へ続く木道。写真-2 小雨降る草もみじ草原を歩く。写真-3 草もみじとブナ林のコントラス。写真-4 天気が良ければ、栗駒山を望めたのだが・・。写真-5 第1湿原と第2湿原分岐点および駐車場のトイレ。写真-6 世界谷地の案内看板。
2019年11月19日
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宮城県東端の鳴子峡を車窓から眺めて、バスは国道47号を東へ向かう。JR陸羽東線と平行に走っていた。鳴子温泉街の手前1km、成澤付近のこけし工房に立ち寄る。松田工房さんで、職人がろくろ使う様子を見学する。ツアー一行の昼食弁当を受け取るポイントでもあった。 成澤の山側は、スキー場やゴルフ場がある。そしてその沢からの土砂流出と治山のために、数多くの砂防堰堤が造られている。過去には土砂崩れが起き、幹線道路を寸断したことであろう。大正から昭和20年頃に随時建設されたという。古い砂防の上空に、陸羽東線の鉄橋が架かっていた。 鳴子こけしの特徴として、華やかさの中に可憐な風情がある。また、首を回すとキュッキュッと音が鳴ることも特徴。胴の模様は、「重ね菊」または「菱菊」の絵付けが一般的。前髪を赤い飾りで結んで表情が何とも可愛・・。外国観光客に人気上昇中だという・・。写真-1 大崎市成澤砂防施設と陸羽東線鉄橋。写真-2 橋を渡ると成澤不動尊がある。写真-3 国道47号線の鳴子こけし工房。写真-4 こけし作りの実演とジャンボこけし。写真-5 売店に並ぶ鳴子こけしたち。
2019年11月16日
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瀬見温泉では、小国川の畔に佇む「ゆめみの宿」に泊まる。良質な温泉のおかげで江戸時代から続く旅館「観松館」。源泉は、温度66度、PH7.4(弱アルカリ)、ナトリウム・カルシウムの塩化物と硫酸塩を含んだミネラル温泉。 温泉街は、いわゆる温泉娯楽施設が皆無。大正時代に建てられた旅館を含む7軒が、川沿いに並んでいる。静かな山里の雰囲気もある。部屋の窓を開けると、小国川のせせらぎが聞こえて来る。都会の喧騒を忘れて、快適な睡眠を摂ることができる。 観松館は、過去に皇室が何回も宿泊されている御宿。ロビーに続く廊下には、そのお姿の写真を飾っている。売店を覗くと、山形の酒が並んでいた。「出羽桜」と「好日」をお土産にした。小生は焼酎党ではあるが、温泉宿では日本酒が美味しそう見える。 夕食は地元産品を使用した里山会席。美味しく頂いた。食後、インターンの若いベトナム女性らが「花笠踊り」を披露してくれた。写真-1 小国川の畔に建つ旅館・観松館。写真-2 ゆめみの宿の玄関と館内の様子。写真-3 皇室が何回も宿泊されている御宿。写真-4 館内を飾る美術品の一例。写真-5 食事内容とおもてなし花笠踊り。
2019年11月13日
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最上川の支川・小国川左岸に、歴史を感じさせる温泉郷に宿泊する。瀬見温泉は、源義経・弁慶伝説が語り継がれ、古くから新庄市の奥座敷として賑わった。小国川に平行する国道47号沿いに、陸羽東線・「瀬見温泉駅」がある。新庄駅から4つ目の駅(約10km)、無人駅。 1187年頃、兄頼朝の追っ手を逃れて平泉を目指した義経一行。その道中、亀若丸誕生した折りに、弁慶が産湯を探し見つけた場所が当地とされる。「弁慶の投げ松」や「弁慶の硯石」などがある。 弁慶が川辺に湯煙を見つけ、愛用の長刀(なぎなた)で岩を砕いたところ、温泉が湧き出したという。その弁慶愛用の長刀が「せみ王丸」と言われ、温泉名の謂れか・・。現在も露天風呂「薬研湯」として整備維持されている。入浴するというより、湯に足を浸けてノンビリする人が多いという。 清流小国川は、アユが特産物。温泉から上流1.6kmに川の駅・ヤナ茶屋がある。ここでは、ヤナ場で獲ったアユを炭火焼きが名物。小生らは、宿泊ホテルの夕食がせまっているので、遠慮した。写真-1 亀若大橋から温泉街を望む。写真-2 宿泊ホテルとその川辺にある「薬研湯」。写真-3 老舗旅館の脇に産湯モニュメント。写真-4 義経大橋とその下を流れる小国川。写真-5 瀬見温泉駅と陸羽東線の電車。写真-6 瀬見温泉散策マップ。
2019年11月10日
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長い石段参道(1.7km)を登り、赤い鳥居をくぐると大社殿がある。月山・羽黒山・湯殿山の神々を祀る「三神合祭殿(さんじんごうさいでん)」だ。茅葺木造建造物として、最大規模を誇り、総漆塗りの社殿。ここに参拝すると、三山をめぐると同じ御利益があるとされる。 出羽三山詣は、厳しい修行を繰り返す羽黒修験道で、「三関三渡」とも言う。羽黒山で現世の幸せを祈り、月山で死後の浄土を願う。そして湯殿山で功徳を積み再び生まれ変わるのだとの信仰。西のお伊勢参りに対して、「東の奥参り」と称された。 三神合祭殿の御手洗池は、羽黒神の影向する池として鏡池と呼ばれる。平安から鎌倉時代にかけて、人々の奉納した銅鏡が埋納されていた。参集殿前の鐘楼は、古さと大きさから国の重文となっている古鐘。参集殿と連絡する千佛殿は、2年にオープンしたばかりで自由に拝観できる。 羽黒山の別当を祀る天宥社と道を挟んで、芭蕉翁像と三山三句碑が立っている。芭蕉は、奥の細道で人生を顧みている。奥参り・三関三渡を成し遂げ、再び羽黒山に戻り2日間の断食をして生まれ変わった・・。写真-1 出羽の三神を祀る「三神合祭殿」。写真-2 羽黒山見取り図と石段参道(1.7km)の終点部。写真-3 昇龍降龍の石柱と拝殿(右から羽黒山・月山・湯殿山)。写真-4 巨杉と出羽(いでは)神社境内。写真-5 鐘楼・参集殿と東照社および7末社。写真-6 芭蕉翁像・三山三句碑と境内案内図。
2019年11月08日
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鶴岡市内を車窓から眺めて、庄内観光物産館・ふるさと本舗へ向かう。庄内浜食堂にて海鮮丼セットを昼食する。駐車スペースが450台と大きい。高速バスの停車場もある。物産館の隣には、金華豚の料理を提供する平田牧場店鋪がある。こちらの食堂も気になる。 物産館は、山形自動車道ICの直ぐ横、国道7号沿いに位置する。火の見櫓が目印。加茂水族館・クラゲドームと大阪直行バスを運行している事から、「たこ焼き」と「クラゲ」をモチーフにしたキャラクターが櫓を上下する。以前は「鼠小僧」だったという。 火の見櫓に垂れ幕が下がっていた。プロが選ぶお土産施設で、全国第3位とPR。ここでのお土産の名物は、「民田茄子からし漬」、「ずんだ豆饅頭」。因みに全国第1位は、浅間酒造観光センター[群馬県長野原]だ。小生の千葉県のザ・フィッシュ浜金谷は第6位、名物として「バウムクーヘン」がある。 鶴岡市は、出羽国・庄内藩15万石の城下町。桜まつり・最上川花火大会で知られていが、レトロな建造物が保存されている。「致道博物館」や「旧鶴岡警察庁舎」など。ゆっくり散策したい町である。写真-1 国道7号線沿いの火の見櫓。全国第3位のお土産施設をPRする垂れ幕。写真-2 庄内観光物産館・ふるさと館。写真-3 火の見櫓で挨拶するのは、タコ丼さんとクラ田クン。写真-4 物産館の位置と昼食の海鮮丼セット。写真-5 近隣に加茂水族館・クラゲドームがある。写真-6 鶴岡市内の致道博物館や旧鶴岡警察庁舎。
2019年11月02日
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鳥海山鉾立は、風もなく良く晴れた。稲倉山荘裏の展望台から、雲が切れて一瞬新山が見えた。中央火口丘の新山は、鳥海山頂点で標高2236m。「夫婦で見ろ」との語呂合で覚える。一方、駐車場からは、日本海沿岸を一望できる。新潟から秋田まで、対岸に飛島、眼下に象潟を見ることができる。 東北地方には日本の百名山14峰がある。鳥海山はそのひとつ。日本海に裾野を浸しした秀麗な山容が特徴。海岸線まで16kmと近いので、奇景「影鳥海」が生じると観光パンフレットに載っている。鳥取の大山でも見られる。 有史以来、火山活動があり近寄り難い山と恐れられ、山岳信仰の対象となった山。沖合に浮かぶ「飛島」は、鳥海山の山頂が吹き飛んで出来たとの言い伝え。また、西の松島と云われた象潟(きさかた)を俳人・松尾芭蕉が訪れている。その115年の1804年に「象潟地震」があり、陸続きとなった。 春先鳥海山では、雪形が色々な形に見える。毎年田植えの時期、南斜面に雪形「種まき爺さん」が出現すると、地元新聞に掲載される。その年の農産物の出来を占うという・・。写真-1 鉾立展望台から鳥海山山頂の新山を見上げる。写真-2 稲倉山と御浜との谷を深く削った奈曽渓谷。写真-3 駐車から見た稲倉山と登山口。写真-4 飛島を眺めるも、雲の下すれすれに見えた。写真-5 象潟や仁賀保市を望む。写真-6 日本海に映る影鳥海と春先に見られる雪形[観光冊子より]。
2019年10月29日
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あつみ温泉を8時30分に出発して、鳥海山5合目に向かう。日本海を望む国道7号線を経て、「鳥海ブルーライン」をバスは走る。途中、温海海岸の「立岩」や東北の江ノ島と呼ばれる「白山島」を見る。鳥海山を眺めて、「青色街道」をゆく。 鳥海ブルーラインは、山形県遊佐町と秋田県にかほ市を結ぶ観光バイパス。国道7号の迂回路で、全長34.9km。2001年に無料化なる。海抜ゼロメートルから標高1100mへと駆け上がる山岳道路。日本海の雄大な眺めが素晴らしい。日本の名道50選の道である。 国道7号線沿の遊佐町に、道の駅鳥海「ふらっと」がある。鳥海山の恵みを受けて育った、海の幸「天然岩ガキ」が有名。夏季(6月から8月)、道の駅・ふらっと「元気な店」は、車の渋滞と人の行列ができるという。 高原の駅・鳥海山鉾立(ほこだて)は五合目にあたり、標高が1150m。広い駐車場を囲むように、鉾立山荘、稲倉山荘およびビジターセンターが建っている。この鳥海青色街道は、10月下旬には冬期閉鎖となる。今頃は冠雪の鳥海山になっているだろう・・。写真-1 鳥海ブルーラインより日本海を望む。写真-2 温海海岸の名勝・立岩、および東北の江ノ島と呼ばれる由良海岸の白山島。写真-3 天然岩ガキで知られる国道7号道の駅鳥海「ふらっと」。写真-4 四合目の平場に大平山荘がある。展望が開けている。写真-5 紅葉に包まれた鳥海山五合目付近。写真-6 標高1150mの高原の駅「鳥海鉾立」に到着。
2019年10月23日
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出羽の湯熱海(ゆあつみ)に靴を脱ぐ。日本海から2kmほどの山あいの「あつみ温泉」は、山形県鶴岡市の南部にあたる。海岸沿いに10km南下すると、そこは越後の国になる。温泉街の規模は、大型ホテルや保養所など9軒が温海川沿いに並ぶ。1600名以上が宿泊できるという。 湯名の由来は、温海川の川底から湧出した温泉が河口に流れ、日本海を温かくしていたことから・・。中性に近い弱アルカリ性の泉質。塩化ナトリウムを含むので、海水に近い。漁業には影響がないと思う。 鎌倉時代には湯治場があったという。1300年の歴史を持つ古湯である。江戸時代に入ると庄内藩主・酒井忠勝が入国して、藩公の湯役所を設置。以来、湯治場として栄えて来た。幹線道路沿いには、和風木造三階建ての老舗宿があり、歴史を感じる。 旅の疲れ(湯殿山と月山弥陀ヶ原)を癒してくれるのは、温かい湯と食。山形名物和食会席を頂く。朝5時から朝湯を楽しみにする。久しぶりに熟睡することができた。写真-1 日本海沿いの山あいに温泉地「湯温海」。写真-2 温海川右岸に並ぶ大型ホテル・萬国谷と「たちばなや」。あわせて収容人数1100名。写真-3 老舗旅館の温海荘・かしわや旅館、および瀧の屋。写真-4 朝市広場と熊野神社。写真-5 和食会席料理と散歩図。
2019年10月20日
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秋になると月山(標高1984m)に、雲が懸かることが多い。別名、「ガス山」と呼ばれる。シーズンの終盤、運試しに月山八合目(標高1400m)に広がる弥陀ヶ原湿原を訪れた。下界は好天でも、ここ弥陀ヶ原は雲の中、いや雲の上だ。夏は「天空の楽園」と称される。 この時期、弥陀ヶ原湿原は、草紅葉に水を湛える池塘がみどころ。中の宮御田原(みたはら)参籠所と「なで兎」との間の鳥居を潜ると、整備された木道と粗石道がある。小生らは、1周2kmのショートコースを歩く。 この湿原には多くの池塘が散在しており、「いろは沼」とも呼ばれる。池塘(ちとう)とは、堆積した泥炭層のすき間が水で涵養されたもの。池塘どうしは地下で繋がっている。池塘群で有名な尾瀬とほぼ同じ標高だ。月山の北斜面に位置するため、積雪量が多く10月中旬には道路が閉鎖になる。 天気が良ければ、鳥居越しに、月山の頂上が見えるという。阿弥陀如来が祀られていた弥陀ヶ原は、別名が御田原。神さまが田植えした場所とか・・。米の品種は「阿弥陀米」だろうか・・。写真-1 雲上の弥陀ヶ原湿原。写真-2 中の宮御田原参籠所となで兎。写真-3 木歩道のショートコースを歩く。写真-4 雲の中の草紅葉と池塘。写真-5 月山八合目駐車場の石碑写真-6 弥陀ヶ原湿原の登山道案内看板。
2019年10月15日
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秋の行楽に出羽三山詣でと温泉へ出かけた。バスで行ける山の湿原を巡る旅もセットで。東北の山の紅葉時期は、道路が渋滞するので、その前に出発するツアー・コースだ。大宮から福島まで新幹線を利用し、東北中央自動車道および日本海東北道を北上した。 先ず、日本三大霊場のひとつ湯殿山に向かう。湯殿山は、月山に連なる山地の北側に位置する。梵字川(ぼんじがわ)が削った谷合に湯殿山神社本宮がある。しかし本宮には社殿がない。御湯が御神体だという。 標高1504の湯殿山の標高1100付近に仙人沢駐車場がある。ここから山道約1Kmを登り、本宮を目指すことになる。本宮参拝バスが往復300円で運行している。往路をバスで、復路を徒歩にした。梵字川には御沢橋が架かっている。この橋のおかげで一般者の参拝が容易になったという。 人形の紙で身体の汚れとり、息を吹きかけて梵字川に流す、お祓いをした後裸足で岩場を登り降りする。湯が湧き出る茶褐色の岩体が御神体でもある。従って、人の手を加えることが許されない神域なのだ。また、この体験した悟りなどは、「語るなかれ、聞くなかれ」との戒めがある。写真撮影は禁止である。写真-1 湯殿山仙人沢駐車場の大鳥居。この付近から本宮参拝バスが発着する。写真-2 仙人沢の玉垣供養碑。写真-3 湯殿山神社本宮の入口。バスの発着場。写真-4 参道途中の山姥像と朱色の御沢橋。写真-5 湯殿山神社案内図。
2019年10月12日
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応天門をくぐり、平安神宮の広い境内に入る。一面に敷き詰められた白い砂利と朱色の社殿とのコントラが目を見張る。平安遷都1100年を記念して、明治28年に創建された。京都復興を象徴して復元された「平安の都」だ。 高さ24mの大鳥居は、昭和天皇の即位を記念して昭和4年に営造。そして応天門は、当時の5/8のサイズで作られた2層の楼閣(高さ19.3m)。平安神宮の全体は、平安京の政庁の中心であった朝堂院を縮小したとされる。 平安神宮の中心に建つ高さ16.7m×長さ33m×奥行12mの大極殿(だいごくでん)。平安時代では即位式など重要な式典を執り行った拝殿。大極殿に向かって、東西に配されているが、蒼龍楼(東)と白虎楼(西)。そして手水台にも、蒼龍と白虎の石像が置かれている。 京都三大祭のひとつ「武者祭」は、ここ平安神宮の大祭(10月中旬)。また11月に入ると京都シティマラソンのスタート・ゴール地点が応天門前となる。暑い中、大鳥居から応天門へ駆けて行く外国人がいた。写真-1 2層の楼門、高さ19.3m天応門。写真-2 平安京の政庁を模した長さ30mにも及ぶ大極殿。写真-3 天応門の柱と大極殿。写真-4 蒼龍楼と白虎楼。写真-5 手水体に置かれた蒼龍像と白虎像。写真-6 高さ24m×柱径3.6mの大鳥居。
2019年09月05日
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京都市営地下鉄・東西線蹴上駅を下車すると、地下鉄に平行して複線路が残っている。明治から昭和にかけて、京都の舟運に貢献した「蹴上インクライン(傾斜鉄道)」である。船を載せた台車を、ウィンチで上下させた施設。近代産業を支えた土木遺産であり、国の史跡として保存されている。 インクラインの規模は、全長640m×幅22m×複線軌条。下流の南禅寺船溜りと蹴上船溜りの高低差32mにさいては、船は陸上を進んだ。このことより琵琶湖第1疎水を水運に利用可能ならしめた。明治初期には、京都に優秀な人材が多く、昔からの夢(琵琶湖の水利用)を実現させた・・。 蹴上駅付近にインクラインを抜けるレンガ造りトンネルがある。「ねじりまんぽ」と呼ばれている。土被りの薄いトンネルで、レンガを斜め・捩じるように積み、構造物の強度を高めたという。今風ならば、覆工コンクリートまたはボックスカルバートで対応するのだろ・・。 蹴上船溜り付近には、複数のトンネル出入口や堰・水利施設がある。琵琶湖疎水が京都丘陵地に出て来る場所故か。第3トンネル出口には旧御所ポンプ所がある。大日山貯水池へ圧送した後、御所へ配水したという。また疎水分水口もあり、南禅寺水路閣や発電所に配水している。疎水のターミナル地点だ。写真-1 蹴上船溜り上流。疎水第3トンネル出口と旧御所ポンプ所のレンガ壁建物。写真-2 蹴上船溜りのインクライン台車と軌条跡。写真-3 インクライン下通り抜け「ねじりまんぽ」と斜めレンガ積工法。写真-4 南禅寺橋からインクライン上下流を望む。写真-5 南禅寺船溜から鴨川へ続く琵琶湖疎水と昔の写真。写真-6 琵琶湖疎水概要図。
2019年09月01日
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「天下竜門」との別名を持つ南禅寺三門。三門の構造は、五間三戸の二貝二重門、高さが22m。京都三大門の一つされ、国の重文である。現在の門は、寛永5年(1628)に、藤堂高虎が大阪の陣の際に徳川方として参戦し、死んだ家臣を弔うために再建したもの。 三門を支える欅材の列柱が古武士を連想させ、歴史を感じる。6本×3列の空間と彫刻がある。西洋でよく見られる大理石や御影石の壮麗さはないが、風雪を刻んだ木面に親しみが増す。三門から法堂に伸びる参道を横目にみて、三門の五鳳楼に上る。 「絶景かな 絶景かな」と見え切った石川五右衛門を想い起す。歌舞伎「楼門五三桐」の名場面だ。大泥棒の五右衛門は、京都人にとって人気あるキャラクター。当世の展望は、立ち木や建物などが近隣にあるので、絶景とは言い難い・・。 重厚な三門の上、五鳳楼内陣には宝冠釈迦像を本尊として、両脇に十六羅漢が配置されている。天井には彩色の鳳凰が描かれている。写真-1 南禅寺三門。別名「天下竜門」と呼ばれ京都三大門のひとつ。写真-2 重厚な列柱で五鳳楼を支える。写真-3 三門上の回廊と五鳳楼内陣の様子。写真-4 歌舞伎「楼門五三桐」の五右衛門姿絵図。写真-5 三門の回廊から見た南禅寺法堂。
2019年08月27日
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京都堀川通りを境にお西さんとお東さんが建っている。西側は西本願寺、東側が東本願寺。東西の本願寺は、豊臣家と徳川家に起因する。東・西を比較称して、「文化財の西、大きさの東」。東寺から歩いて20分の西本願寺を訪れた。2大御堂の「御影堂」と「阿弥陀堂」は、国宝に指定されている。 西本願寺は、龍谷山本願寺とも称し、11代宗主顕如の時、秀吉の進めもあって現在の位置に本願寺を開基した。それまでは、各種抗争を繰り返した歴史がある。その最たるものが、石山本願寺が織田信長と約11年戦ったこと。現在の大阪城にあった石山城郭は、難航不落の名城だったという。 御影堂(ごえいどう)の建物規模は、東西48m×南北62m×高さ29m。1636年に再建。浄土真宗を開いた親鸞上人のお木像(御真影という)が安置されている。靴を脱いで、広い堂内で瞑想すると悩みが消えるという。南・北の三の間には、丸山派が描いた襖絵2×6面が人を惹き付ける。 阿弥陀堂は、本願寺の本堂に当る。現在、内陣の修復工事中。2022年3月まで・・。従って、御本尊の阿弥陀如来像は、御影堂に引越ししている。建物規模は、東西42m×南北45m×高さ25m。1760年に再建。二つの大堂内は、渡り廊下が繋がっている。そして、堂内は涼しい・・。写真-1 広い敷地を有する龍谷山本願寺。愛称:お西さん。写真-2 国宝・御影堂と国宝・阿弥陀堂。写真-3 御影堂門と唐門。写真-4 御影堂・北三之間の襖絵6面「雪松図」。写真-5 渡り廊下と太鼓楼。 写真-6 信徒の生命保険株式会社の社屋、明治時代のレンガ造建造物。
2019年08月24日
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国宝・東寺五重塔は、外部足場で囲われていた。古い木造の建築物ほど、維持管理に手間とコストかかる。朝メシ前に、九条通りに面する東寺(教王護国寺)の境内を散歩する。近くの小学生だろうか。南大門から金堂前の広場を清掃していた。日常的な風景なのだろう・・。 京都のランドマークとされる東寺五重塔は、木造塔として日本一の高さ(H=54.8m)を誇る。創建が9世紀とされるが、幾度となく焼失している。しかし、その後再建された不滅の聖塔である。現在の五重塔は、1644年に再建された5代目だという。塔の心柱を大日如来に見立てている。 創建が823年と推定される金堂(こんどう)は、慶長8年(1603年)に再建された(国宝)。豊臣秀頼が寄進して、片桐且元が奉行。本堂には、桃山時代の彫刻、薬師如来坐像(高さ3m)が安置してある。 創建が835年の講堂は、室町時代1491年に再建された(国の重文)。講堂内には、大日如来を中心に不動明王や帝釈天など21体の仏像群が並ぶ。立体曼荼羅と呼ばれ、密教絵画を3D化したもの。真言密教の根本道場にふさわしい空間があった。写真-1 天に伸びる東寺五重塔の相輪。写真-2 東寺南大門と小学生による境内清掃活動。写真-3 国宝・東寺金堂と本尊の薬師如来座像。写真-4 国重文・東寺講堂と立体曼荼羅。写真-5 境内の池に咲くハスと手水舎の蓮蕾石。
2019年08月23日
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京都駅ビルを正面から、そしてビル内を徘徊した。ここ数十年、仕事では通過する駅、観光でも観光バスで素通りの駅だった。修学旅行で体験した懐かしい駅イメージとは、かけ離れた近代的な商業施設が建っていた。 初代京都駅舎は、明治10年に開業した、レンガ造りのハイカラ建物。その47年後、大正13年にルネッサンス風総檜造りの2代目駅舎が建築される。更に戦後の昭和27年に、鉄筋コンクリート造りの機能本位な駅ビルに改築。そして平成6年に、先近代的な4代目駅ビルが完成した。 海外を問わず、歴史ある都市や町の玄関たる鉄道駅は、その町の風土・文化などを連想させる何かがある。しかし、京都駅ビルは、古都に来た感じがあまりしない。一般的な都会のビル風景と同じだ。斬新さ・煌びやかさあるが・・。 大きなアトリウムの西側中断から屋上にかけて、駅ビル自慢のイルミ大階段がある。171段中125段に1万5千球のLEDライトが散りばめられている。グラフィクカルな画像が映し出される。17時から22時まで点灯されるという。「おこしやす」文字が浮ぶ夜の斜面である。写真-1 ホテルと隣り合わせの京都駅舎ビル。写真-2 JR京都駅中央口とアトリウム。写真-3 駅ビル・大空広場と大階段を見下ろす。写真-4 大階段グラフィカルイルミーション。写真-5 夜の大階段と京都タワー。写真-6 京都駅舎の2代目と3代目。
2019年08月20日
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京都駅ビル(伊勢丹側)の屋上は、「大空広場」と呼ばれる。この場所からは、ガラス越になるが、南から西の方角の展望が良い。日が沈む頃、涼を求めて人が集まって来る。 南西方向に、東寺の五重塔のシルエットが・・。そして遠くに山並みは釈迦岳であろうか。西の方角には、嵐山、牛松山、愛宕山などが紺色に浮かび上がっていた。時間の経過とともに雲が茜色に染まる。明日の炎暑天気を約束するように・・。 空気が澄んでいると、大阪のアベノハルカスも見えるという。こんな展望を見る事ができる駅ビルは全国には珍しい。京都タワーまで上らなくてよい・・。 牛松山に陽が沈んでしばらくすると、茜雲が更に赤味を増す。ビルのガラス壁がデスプレイのように茜雲を映し出す。京都タワーが寄り添う光景が印象的だった・・。写真-1 京都駅ビル屋上から、炎暑の空。写真-2 南西側の展望と新幹線の姿。写真-3 牛松山に沈む夕日。写真-4 京都駅「大空広場」から見る茜雲。写真-5 ガラス壁に映し出される茜雲と京都タワー。
2019年08月17日
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札幌市内・円山の丘に、天に伸びる千木(ちぎ)を持つ神明造りの社(やしろ)がある。創建が明治2年とされる北海道神宮だ。鳥居や本殿は、北東を向いている。明治初期、北海道の脅威となったロシア帝国に対する守護を表しているという。 北海道神宮は、市内の中心・大通り駅から、その通りの延長方向(西側)に約4kmに位置する。三方が小山に囲まれ、一方が開けた丘になっている。この地を選んだのは、函館から「三神鏡」を携えた運んだ島義勇(しまよしたけ)。開拓の父とも称されるが、佐賀藩の人でその後、数奇な運命を辿る。 拝殿の神社建築様式は、伊勢神宮に代表される神明造り。屋根を支える側面の破風の先端が飛び出ているのが特徴。両国国技館の土俵頭上の吊り屋根も、この様式のようだ。 神門の大注連縄(おおしめなわ)が一風変わっている。しめ縄中央に米俵2俵が載っている。「フラヌイ大注連縄」と呼ばれ、重さ400kgmもある。4年に一度、富良野から奉納されるという。開拓民から慕われた神社。写真-1 神明造りの北海道神宮拝殿。写真-2 北1条通りに面する鳥居と第三鳥居。写真-3 北海道神宮神門に続く表参道。写真-4 神門とフラヌイ大しめ縄。写真-5 拝殿内と島義勇銅像。
2019年08月10日
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札幌市内を一望できる場所のひとつに、大倉山展望台がある。夏季限定であるが・・。スキージャンプ競技のワールドカップが開催されるジャンプ台だ。夏季(4/29から11/3)の期間、選手を運ぶリフトは、一般人にも利用できるの。 少し前まで、助走路スタート地点から見る景色は、ジャンパーの特権であった。それが誰でもが眺めることができるようになった。1972年冬季オリンピックでは、90m級ジャンプ競技が行われた。今はラージヒルと呼ばれる。大倉山の基準点K点は123m(2016年以降)とされる。 大倉山ジャンプ台は、ホテルオークラの創業者・大倉喜七郎が、札幌市に寄贈したことに由来する。当時の名称は、「大倉シャンツェ」と言っていたが、オリンピックを控え改修した際、「大倉山ジャンプ競技場」とした。シャンツェとは、ドイツ語の跳躍台を意味したそうだ。 2016年改造後の大倉のバッケンレコードは、以下のようだ。男子は、148.5mを飛んだポーランドのストッフ選手(2019年)。 女史は、145.0mを飛んだ伊藤有希選手(2016年)。来年、この記録を超える選手が出現するか・・。写真-1 円山公園の山手にある大倉山ジャンプ競技場。写真-2 ジャンプ台のアプローチとランディングパーンとK点位置。写真-3 標高307m展望台からジャンプ台を見下ろす。写真-4 大倉山展望台からの眺め。写真-5 1972年冬季オリンピックのレガシー。
2019年08月06日
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地方の駅には、ご当地の自慢やゆかりの絵画などが置かれている。盛岡駅と駅前広場には、石川啄木の歌碑、南部鉄器のオブシェ、そしてわんこ蕎麦をイメージしたモノがある。駅周辺をぶらり散歩した。 新しい西口広場には、ヒトの片足のような、動物のようなモニュメントがある。「清流が流れる町・・」を表現しているらしい。北上川とその支川を具象したもの。立体駐車場の外壁が「からくり時計」となっている。1時間おきに壁が開いて、からくり人形が演奏する仕掛だ。 駅構内と改札内に、大きな南部鉄器を展示している。大鉄瓶は、重さ330kg×容量210リットルもある。盛岡には砂鉄や岩鉄など良質な鉄資源が豊富にあった。また川砂や粘土・漆などの原材料が揃っていたので、鋳鉄産業が発展したという。 岩手県のイメージキャラクターは、「わんこきょうだい」。その立て看板や絵画を通路などでよく見かける。「そばっち」は県全体を担当。「うにっち」は沿岸南部を担当。5人の兄弟には、それぞれ持ち場があるようだ。姉妹も居そうだが見つからなかった。写真-1 盛岡駅と東口駅前広場。写真-2 東口広場には、滝の広場と石川啄木歌碑「ふるさとの山に向ひて・・」がある。写真-3 西口広場のイメージモニュメントとからくり時計を眺める。写真-4 北上川のモニュメントと「さんさ踊り」のからくり時計。写真-5 南部鉄器のオブジェ。「フクロウの樹」と「大鉄瓶」。写真-6 岩手県のイメージマスコットは、めんこい「わんこきょうだい」。
2019年08月02日
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盛岡城址公園(岩手公園)の北側に、桜山神社がある。巨岩を守り石にしている社だ。かつて盛岡城は、戦国大名南部氏の居城。南部光行など4藩主を祀る桜山神社。盛岡南部家の家紋「向い鶴」が随所に見られる。 関ケ原の合戦で東軍・徳川軍についた南部家は、江戸時代を通じて盛岡城を居城とした。盛岡城は東北で珍しく、花崗岩の丘陵地に築城している。岩手山、北上川や中津川などの位置を考えると、風水に叶っているという。いわゆる龍脈が合流(水龍環抱)し、風水パワーが留まる場所とされる。 桜山神社の本殿近くに、烏帽子の形をした巨岩が鎮座している。高さ6.6m×周囲30mの烏帽子岩は、花崗岩の大塊だ。盛岡城築城する際に掘り起こされたものを、歴代の藩主が「宝大石」として大切に祀ってきた。 かつての盛岡城は、石垣を残すのみ。盛岡産の花崗岩が多く使用されており、日本百名城のひとつ。「不来方城(こずかたじょう)」とも呼ばれ、国の史跡の指定。桜の頃、または紅葉時期に訪れたい公園。写真-1 城址公園内の桜山神社。茅の輪をくぐって厄除け。写真-2 盛岡南部藩主を祀る神社。家紋は「向い鶴」。写真-3 桜山神社と守り石。写真-4 本殿と並んでいる「烏帽子岩」または兜岩と呼ぶ。写真-5 花崗岩を積み上げた石垣(盛岡城址公園内)。
2019年07月30日
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JR盛岡駅から南へ1kmほど歩くと、三川が合流する場所がある。中央を流れるのが北上川。右寄り(西側)から雫石川、左寄り(東側)から中津川が流れ込んでくる。合流部は。川幅が広くなると共に、多くの橋梁が出会う場所でもある。 盛岡駅の東側を南流する北上川に開運橋、不来方橋。盛岡駅の西側を流下する雫石川に杜の大橋、盛南大橋。これらの橋を通過して川は合流する。更に、2本の鉄橋、東北本線と新幹線の橋梁が交差する。 三川合流点から下流800mに明治橋が架かる。その橋のたもとには、下町史料館となっている「御蔵」や橋舟跡がある。この辺りは、新山河岸(しんさんがかし)と呼ばれ、御番所や蔵が立ち並び、舟運の要衝として栄えた町。白漆喰塗の外壁の大きな蔵が保存されていた。 北上川は、東北本線が開通するまで、荷物と人を運搬する主要交通路だった。とりわけ江戸時代、参勤交代制度のために、廻米輸送が必然的に発展した。北東北地域と江戸を結ぶ大動脈であった。行き交う帆船と掛け声を夢想して、北上川の舟運(しゅううん)時代に想いを馳せる・・。写真-1 明治橋から北上川上流(盛岡駅)を望む。写真-2 明治橋と新山河岸新の御蔵。写真-3 杜の大橋から雫石川と岩手山を望む。写真-4 北上川左岸に注ぐ中津川と御厩橋や新幹線橋梁。写真-5 鉄橋交差部と啄木親子歌碑。写真-6 三川合流部の橋梁たち。
2019年07月27日
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岩手銀行赤レンガ館から南に100mほど歩けば、「もりおか啄木・賢治青春館」に到る。この建物は、赤レンガ館よりも5ヶ月早く竣功(明治43年)した「第九十銀行」。ドイツ風ロマネスク様式が随所に取り入れたレンガ造りのレトロな建物だ。 盛岡で多感な青春時代を過ごした、年齢差10歳の二人を紹介する施設に生まれ変わっていた。平成14年に「文化歴史自然体験施設」として、国の補助を受けて整備された。国の重要文化財である。1階に初版本や資料が並ぶ常設展示室。2階が企画展やコンサートを行う展示ホール。 1階入口、銀行の「営業室」の一部が喫茶コーナーとなっている。レトロな建物のなかで、若い文学者に想いを馳せて飲む珈琲も良い。喫茶名称は「あこがれ」、啄木の処女詩集名から付けたものだという。北海道生まれ小生は、「一握の砂」を多少知っている。小樽市水天宮に石川啄木「歌碑」が佇んでいるので・・。写真-1 もりおか啄木・賢治青春館(旧第九十銀行)。写真-2 青春館と喫茶あこがれの玄関。写真-3 ドイツ風ロマネスク様式のレトロな建物。写真-4 館内の常設展示室。写真-5 青春館の模型と二人の系譜。
2019年07月25日
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盛岡市内を流れる中津川に架かる中ノ橋の袂に、どこかで見かけたレトロな建物がある。岩手銀行赤レンガ館である。2012年に営業を終えて、保存修理を経て2016年から一般公開されている。国の重要文財の指定を受けている。 この建物は、明治44年(1911)盛岡銀行として開業。その後変遷があって、岩手銀行中ノ橋支店として幕を閉じた。建築設計は、東京丸の内駅舎で知られている辰野金吾氏。横浜市開港記念館も赤レンガの建物で、同じ様な「風貌」が漂う。いわゆる「辰野式フリークラシック様式」と呼ばれる建築物だ。 見所として、旧事務室の吹き抜けだろうか。営業大の両脇に、コリント式のカップルドコラム(2本どり柱)が立っている。銀行を支え続けた柱。上げ下げ形式のスクリーンが蘇っている。今どき、このような窓口カウンターはない・・。内装材に青森ヒバが多く使用している。 旧事務室は、天井が高く音響効果も良いので多目的ホールとして利用。主に室内楽コンサートであろうか。コンサートの度に、椅子を並べるようだ。外周部の立見席は無料・・。レトロな建物で、ピアノやバイオリンを聞くと、セピア音に聞こえるらしい・・。写真-1 岩手銀行赤レンガ館の正面姿。写真-2 中ノ橋の袂に佇む赤レンガ館。写真-3 赤レンガ館側面姿。辰野式フリークラシック様式。写真-4 旧事務室(営業室)と上下スライド式窓口カウンター。写真-5 室内の様子。カップルドコラムや装飾手摺。写真-6 入場チケット(300円)とコンサートポスター。
2019年07月23日
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盛岡駅東口から東へ250m進むと北上川が流れている。そこに架かる橋を開運橋という。この橋から下流1kmほどで雫石川と合流する。新幹線が停まる駅で、これほど一級河川に近い駅は珍しいと思う。市内の中心街は、開運橋から1.5kmほど内陸に入った場所にある。 ムーンホワイト色の開運橋は、アーチとトラス形状を併せ持つ、ランガートラス橋。長さ82mの橋からは、北流する川と雄大な岩手山が見え、盛岡市内の代表的な景観だ。初代開運橋(木橋)は、明治23年当時の岩手県知事が私費で完成させたもの。1回1銭の渡り賃。現在の橋は昭和28年に架け替えた。 「二度泣きの橋」と呼ばれる開運橋。昔、盛岡駅を降りて最初に渡る橋だった。転勤で赴任する際には、仕事面と人間関係で不安で憂い、盛岡を去る時には祭りなどで情が移り、泣いて駅に向かったのだろう。 薔薇と松葉菊が咲き誇る開運橋花壇があった。開運橋は、中心部に向かう表玄関なので、花のおもてなし。誰もが花咲く遊歩道を歩きたくなる。延長220mの花壇は、ボランティア団体で管理している。はじめて盛岡市を訪れて、この橋から岩手山を望むことができれば、ビジネスで運が回って来るとか。・・写真-1 不来方橋から開運橋と岩手山を望む。写真-2 北上川左岸の花咲く遊歩道。写真-3 ランガートラス形式の開運橋を望む。写真-4 マツバギク満開の開運橋花壇。写真-5 橋の奥に盛岡駅が見える。
2019年07月22日
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JR盛岡駅西口にスマートな高層ビル・マリオスが建っている。最上階20Fフロアは、レストランと無料展望室となっている。展望室から盛岡市内および周囲の山々が一望できる。イーハトーヴの眺望とも呼ばれる。新幹線ハヤブサが約1時間間隔なので、その合間に立ち寄ると良いかも知れない。 マリオスとは、商店・芸術・生活・情報・会社・観光という、英語の頭文字 M・A・L・I・O・Sをとった造語。盛岡市民文化ホールからなる複合インテリジェンス施設。 イーハトーヴの眺望をここで少し整理する。先ず北西に、岩手県のシンボル岩手山(2,038m)。反対の南東に、北上川とたたら山(391m)。北の方角にピラミッド型の姫神山(1123m)。西の方角に雫石川と岩手駒ヶ岳(1,130m)。 南側に杜の大橋と赤林山(885m)。天気が良ければ、360度のパノラマが待っている。 4階のアトリウムにレトロなレンガ外壁がある。旧国鉄盛岡工場の鉄工職場として使われていた建物の外壁を復元したもの。1852年に廃止されるまで94年間、鉄道車両を修理した建物。レンガ壁と三つ入口の扉が印象的だ・・。写真-1 展望室の北西に、岩手県のシンボル・岩手山(2038m)。写真-2 南東に、北上川とたたら山(391m)。写真-3 姫神山(1123m)と雫石川と岩手駒ヶ岳(1130m)。写真-4 南側に杜の大橋と赤林山(885m)、20階展望室写真-5 マリオスビルとその4階に復元した鉄道遺産レンガ壁。
2019年07月21日
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高崎市内を南流れする烏川の左岸、和田橋東側エリア(高松町)に、かつて高崎城があった。明治の廃城令により破却され、一部が城址公園として残っている。本丸跡地がNTT東日本、三の丸跡に高崎市役所が建っている。本丸は、4基の櫓で守られていた。そのうちの一つ、乾櫓(北西の櫓)が復元移築されていた。 乾櫓の横に東門も保存されていた。その東門の向いに、「歩兵第十五連隊跡之碑」がひっそり立っている。この連隊は、日清・日露戦争から太平洋戦争に至る、ほぼすべての戦役に参加している。歩兵隊なので犠牲者数が多い。終戦時は、バラオ・ペリリュ島で全滅(2個大隊相当)しているという。 この歩兵連隊を見守る位置、烏川対岸の丘に観音様が立っている。高さ41.8mの白衣大観音像で、建立された昭和11年当時は日本一大きい観音様と呼ばれた。多くの戦没者を慰霊するために、平和を祈り続けている。高崎市のシンボルでもある・・。写真-1 烏川に架かる和田橋と榛名山地。写真-2 復元移築された乾櫓と高崎城地図。写真-3 乾櫓・東門と歩兵第十五連隊跡之碑。写真-4 聖石橋と観音山。写真-5 高崎白衣大観音像と平和塔。
2019年07月19日
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高崎市庁舎の最上階(21階)に、展望ロビーとレストランがある。上毛三山の眺望や夕夜景が美しいスポット。8時30分から22時まで入場できる。ライトアップされた高崎白衣(びゃくえ)大観音像を、レストランで食事しながら眺めることができる。 高崎市の人口は、前橋市より3万人多い37万人規模。高崎市内には市役所より高い建物がないので、地上90mの眺めが素晴らしい。北を望むと、ぽつんと高い群馬県庁舎(地上33階)と赤城山が見える。また西を望むと、関東平野とその奥に筑波山が見えた。 利根川支流・烏川沿いの高崎城(和田城)の跡に建てた高崎市庁舎。JR高崎駅から西へ900mに位置し、旧中山道と交差する場所だ。江戸時代、中山道は、京都へ通じる重要な街道であった。また、高崎城は、三国街道との分岐点でもあったことから、譜代大名の幕政のもと明治維新を迎える。 昼時になったので、地下の食堂「はくもくれん」でランチした。いわゆる社員食堂ではあるが、一般の人も利用できるリーズナブル店・・。写真-1 高崎市庁舎展望コビーからのパノラマ。写真-2 北西の眺望。浅間山と榛名山。写真-3 西側の展望。白衣大観音像と妙義山写真-4 群馬県庁舎・赤城山と筑波山遠望写真-5 青空に映える庁舎ビルと展望ロビー内。写真-6 アートワーク展。「上野の郷遠望」と「裏妙義秋日」
2019年07月18日
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群馬八幡駅の真南1kmの小山に少林山達磨寺がある。碓氷川(うすいがわ)に架かる鼻高橋を渡った山を切開いた場所。鼻高橋を渡る際には、鼻曲山、浅間隠山の連山が見える。本堂の裏手に駐車場があるが、碓氷川に面した総門から参道を上る。 どんなに困難に遇っても七転び八起する、だるま精神にあやかろうとする人が訪れるパワースポットが達磨寺。また、開運吉祥の福の神として、達磨大師が信仰されている。毎年正月に催される「七草だるま市」と1月15日の「お焚き上げ供養」は、関東における正月の風物詩だ。 張り子の縁起だるまの発祥地である達磨寺で開眼(魂入れ)したダルマは、特に御利益があるとされる。この高崎だるまは、眉を鶴に、ひげを亀としているので福だるまと呼ばれる。重心の低い安定した姿を眺めていると、気持ちが落ち着く。まろやかな形状は、見る人の角を取り去る・・。 霊符堂の左隣の達磨堂を覗くと、全国のだるまコレクションが所狭しに展示している。群馬県出身の首相名入り達磨、髭だらけのダルマなど、日本各地にはユニークなダルマがある・・。「赤いドラえもん」が沢山いるお山であった・・。写真-1 達磨寺の霊符堂。写真-2 小林山の総門と参道階段。写真-3 小林山達磨寺の境内。写真-4 達磨堂の大ダルマとだるまコレクション。写真-5 積みあげられた成就達磨と茅葺の観音堂。写真-6 少林寺の案内図。
2019年07月14日
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トンネルを抜けると、新・川原湯温泉がある。JR川原湯温泉駅から下流へ、付け替えトンネル(延長336m)を出ると、共同浴場「王湯」が見えて来る。旧川原湯温泉街は、川原湯温泉駅から下った吾妻川右岸に存在した。ダム建設前には17軒の温泉施設があった。現在、代替地で5軒ほどが営業。 源頼朝が発見したと伝わる川原湯温泉。移転した共同浴場「王湯」の駐車場で、奇祭「湯かけ祭り」が復活しているという。1月中旬、最も寒くなる大寒時期に、湯をかけあって健康長寿を願うもの。粋な漢と痩せ我慢を競う村の伝統行事だ・・。 高台に移転した川原湯温泉の源泉が気になった。温泉宿の関係者によれば、ダム事業者による調査ボーリングにより、掘り当てた新源泉を使用しているという。打越配湯所を経てポンプ送湯される。ダム事業が完了すると、これら温泉維持設備の管理費はどうなるのだろうか。 今回宿泊した旅館は、創業が江戸時代だという「水車の宿 山木館」。2013年に移転して、全8室で温泉宿を営んでいる。ダム湖が満水になると、「湖畔の宿」になる。今は高台の宿であるが・・。温泉と食事については申し分がない。錦秋の紅葉時期は、すでに予約で埋まっているとのこと。写真-1 トンネル坑口から川原湯温泉駅と不動大橋を望む。写真-2 川原湯温泉トンネルと共同浴場「王湯」。写真-3 創業が江戸時代の温泉旅館「水車の宿 山木館」。写真-4 明治・大正時代の山木館の様子を示す絵図。写真-5 老舗旅館の廊下と彩り豊かな朝食。
2019年07月10日
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八ツ場ダムより上流、湛水直前の吾妻渓谷を見つめた。JR吾妻線・川原湯温泉駅は、不動大橋と八ツ場大橋とのほぼ中間点に位置している。駅から八ツ場大橋まで歩く。川原湯温泉トンネル(延長336m)を抜け、「やんば資料館」を経て八ツ場大橋に至る(約1.7km)。 現在、川原湯温泉トンネルを迂回して、ダム湖を見て歩くことができる桟橋工事をしている。この秋には間に合わないかも知れない。ダムサイト右岸の公園から不動大橋までの遊歩道(約4km)を整備している。川原湯温泉駅の川床には、臥竜岩、昇竜岩がある。水が貯まると、この名物は観ることができなくなる。 八ツ場大橋にはバンジージャンプ台があった。この4月オープンした、106m絶叫施設だ。期間限定で、日本一の高さを誇るバンジーだ。採算性がとれるのだろうか・・。 ニホンカモシカらしい動物を八ツ場大橋下の左岸で見かけた。この橋付近を縄張りにしているカモシカのようだ。貯水内の整備工事が完了し、環境が静かになったので出没しているのか・・。落葉広葉樹に生息して、崖地を好む天然記念物とされる。写真-1 八ツ場大橋と湛水直前の貯水地。写真-2 川原湯温泉トンネルを迂回するダム湖畔遊歩道を工事中。写真-3 八ツ場大橋付近を縄張りにするニホンカモシカ。写真-4 期間限定で日本一の落差を誇るバンジー。写真-5 吾妻渓谷の臥竜岩と昇竜岩は、まもなく水竜となる・・。
2019年07月06日
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吾妻川に架かる「不動大橋」は、八ツ場大橋の上流約2kmに位置する。八ッ場大橋の下流に概成した八ツ場ダム堤体がある。不動大橋の由来は、近くの「不動の滝」に由来する。高さ90mを3段で流れ落ちる。しかし、今秋ダムの湛水が始まると、下半分がダム湖のなか。半幻の滝になってしまう・・。 不動大橋は、珍しい形式の橋。「鋼コンクリートトラス・エクストラドーズド橋」と舌を噛みそうたな名だ。橋長590m×高さ86mと大橋にふさわしい規模。下流に架かる八ッ場大橋よりも、100m長く、12m高い。名所の「丸岩」を眺め、風に吹かれて橋を渡る。 不動の滝は、不動大橋の右岸上流の谷筋を流れ落ちる。橋の袂には、不動尊が復元されている。また、極寒期に、滝が凍り付くので、アイスクライミングする愛好家がいるが、今年からどうなるのか・・。駐車スペースが少ないので、左岸広場(道の駅・ふるさと館)から大橋を歩くのが一般的だ。 不動の滝を観る場所付近に、「子守松(アカマツ)」が一本たっている。松の枝にミツバツツジを自生しているので、子守しているように見える。こちららは、ダム湛水して見えると思う。錦秋の頃、訪れたい場所だ。写真-1 長さ590mの不動大橋を渡る。写真-2 落差90m・三段に及ぶ不動の滝。この勇姿は今秋までか・・。写真-3 下段部にあたる不動の滝。写真-4 丸岩と不動尊。写真-5 右岸橋袂の「子守松」。写真-6 不動大橋から下流の八ツ場ダム堤体を望む。
2019年06月28日
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伊豆の地名発祥の地とも言われる伊豆山神社。源頼朝と北条政子とが結ばれた場所でもあり、縁結び・強運守護の神社と知られている。海抜170mの山腹は、新緑のなかにあった。冷たい水を流す手水舎の「紅白二龍」が伊豆山神社のシンボル。絵馬にも描かれている。 伊豆山神社は、熱海駅から北東1.5kmの山の中にある。熱海ビーチラインが通る海岸から登ると、837段の石段を登ることになる。鳥居は国道135号線脇と石段の中腹の2箇所に建っている。石段を登り切り振り返ると、相模灘と空の青色が目に沁みた。 海岸付近に、日本三大古湯の看板がある。「史跡・走り湯温泉跡」が保存されている。走るがごとくお湯が湧き出し、海に注ぐさまから名付けられた。洞窟の中はサウナ状態で、立ち入り禁止。 日本三大古湯と言えば、道後温泉(愛媛)、白浜温泉(和歌山)、有馬温泉(兵庫)だと思っていた。三大・・の三つ目は、複数あることだ・・。紅白二龍は、温泉蒸気と関係がありそうだ・・。写真-1 新緑に包まれた伊豆山神社。写真-2 伊豆山温泉付近の海岸と「史跡・走り湯温泉跡」。写真-3 837段の石段途中に建つ鳥居。写真-4 伊豆山神社本殿と鮮やかな彫刻。写真-5 縁結びの境内と「紅白二龍」。写真-6 境内から相模灘を一望できる。
2019年06月13日
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熱海には、築城が昭和43年という城の天守閣がある。錦ケ浦山頂にそびえる熱海城だ。外観が5層の鉄筋コンクリート造りで、「天守閣風建築物」。観光用に作れたもので、還暦を迎えた。南熱海の風景に溶け込んでいる。 海沿いの高台に建つ熱海城の6階は、天守閣展望台。海抜160m、360度のパノラマは、熱海随一とされる。真鶴半島から初島、伊豆大島、伊豆半島を一望できる。空気が澄んでいれば、房総半島と東京湾の行き交う船舶を望遠鏡で観る事ができる。 2階フロアに日本城郭資料館がある。ここには、マッチ棒数万本で作り上げた城郭模型が展示されている。江戸城をはじめ有名な9つの城が並んでいる。その精巧さに驚く。むかしタバコの空き箱やマッチ棒を使う作り物がブームになった。今マッチ棒を見かけることはない・・。 熱海城の駐車場に奇妙な像が沢山立っている。浅野祥雲氏の「十二神将」の作品。コンクリート彫刻作家として活躍した人物の分身だ。「珍スポット界」に隣り合わせの「アタミジョウ」を探訪した・・。写真-1 南熱海の高台にそびえる五層の天守閣。写真-2 熱海城の十二神将他のコンクリート彫刻像。写真-3 熱海城最上階は展望台。写真-4 天守閣展望からの眺め。写真-5 マッチ棒城郭模型と金鯱。
2019年06月04日
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JR熱海駅から南2kmの高台に「あいじょう岬」がある。この岬がある八幡山へはロープウェイで上る。海と空、そして愛を感じる岬だという。熱海の街を一望する絶景パノラマ・スポットだ。 日本一短いと言われる「アタミロープウェイ」。昭和33年に開業したもので、熱海の隆盛を見続けている。高低差96mを3分で結ぶ。運転間隔約10分間、往復600円。山頂駅の展望台は、最近リニューアルしたらしい。モニュメントの位置が変わったようだ。 あいじょう岬展望台は、モニュメント(愛情と錠前をイメージ)と絵馬を駆ける掲示板がある。願いをしたためた絵馬は、大晦日に来宮神社で焚き納められるという。ロープウェイは、通常17時30分までの営業だが、夏の花火大会時に延長するようだ。 岬展望台の先端に位置する「うみそらテラス」は、三方が絶壁に囲まれているのでスリル感がある。船の舳先に似ているので、映画「タイタニック」の有名なシーンを連想させる。相模灘に浮かぶ初島と熱海港とを行き交う遠くのフェリーを眺める。なるべく崖下を見ないことにする・・。写真-1 ロープウェイ山頂の「あいじょう岬」。写真-2 日本一短い、アタミロープウェイの乗車時間はわずか3分間。往復600円。写真-3 三方が絶壁の「うみそらテラス」。写真-4 うみそらテラスからの展望。写真-5 愛情・錠前モニュメントと新デザイン絵馬。
2019年06月01日
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熱海・魚見崎から曽我浦にかけて続く、断崖の絶景錦ヶ浦。この景観を眺める絶好の場所として、扇崎庭園がある。庭園の下は、「花の妖精」のカフェがあり、波の踊りを見ながら過ごすのも悪くない。 昇る太陽の光が差し込んで輝く様が錦織のようだと名付けられた。押し寄せる波浪で侵食された「海食の崖」下には、崩れ落ちた岩や海窟がある。半円状に波食された磯は波が渦巻く。落ちたらまず助からない。 錦ヶ浦は、昔自殺の名所・・。国道135号の海側には、鉄製の柵が張り巡らされている。さながら収監所の塀のようだ。魚見崎を迂回するように錦ケ浦トンネル(210m)が1961年に開通している。夜中、このトンネルを一人で抜けるには勇気がいたという。心霊スポットの噂があった隧道・・。 扇崎庭園は、初島、伊豆大島、網代方面を望む展望となっている。その脇に「観世音菩薩像」が祀られていた。亡くなられた人魂を慰霊しているのだろうか・・。写真-1 扇崎から魚見崎側を望む。写真-2 扇崎から曽我浦側を望む。写真-3 断崖に建つカフェと扇崎庭園デッキを望む。写真-4 錦ケ浦トンネルと扇崎の観世音菩薩像。写真-5 扇崎展望台より初島および熱海城を望む。
2019年05月26日
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熱海の景勝地のひとつに錦ケ浦海岸がある。熱海温泉街から魚見崎へ向かう途中、明治時代の小さなトンネルが残っている。アタミロープウェイ山頂駅の下を貫く「観魚洞隧道(かんぎょどうずいどう)」である。このトンネルを抜けると、ホテル・ニューアカオ屋上部と相模湾が見える。 観魚洞隧道は、1909年に完成した石造りのトンネル(延長113×幅員4m)。国道135号線の旧道にあたる。大型車両の通り抜けはできないが、錦ケ浦へのアクセス路になっている。2002年に登録有形文化遺産となっていた。 断崖地形で海に突き出ている魚見崎付近には、大型リゾートホテルが並ぶ。魚見崎の奇岩と青い海を望むデッキが整備されており、相模湾に浮かぶ初島や伊豆大島を望むことができる。東京駅から新幹線に乗ると50分足らずで熱海に着く。35年ぶりであろうか・・。駅舎と駅前広場は、様変わりしている。今回、アルバイト関係の出張ではあるが、前後に空き時間を作って、宿泊施設から近い熱海港、錦ケ浦、熱海城などを観て廻った。数回に分けて投稿します。写真-1 魚見崎-錦ケ浦を望む。写真-2 魚見崎先端に建つホテル。台風日に泊まると大変だ・・。写真-3 百十年の潮風雨に耐えている「観魚洞隧道」。写真-4 展望デッキから魚見崎を見る。写真-5 熱海港から見た魚見崎方面と後楽園ホテル。
2019年05月23日
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JR中央線大月駅の一つ手前猿橋駅で下車すると、北西約2Kmに岩殿(いわどの)山が見える。大月駅からハイキングコースになっている。ふれあい館広場は、富士見の名所。 桂川に架かる宮下橋からは、中央自動車道越に大月市北部の山並みを見渡すことができる。東側から扇山(EL.1138m)、百蔵山(EL.1003m)、雁ケ腹摺山(がんげはらすりやま)(EL.1003m)などが人気登山の山々だ。 岩殿山に小山田氏が築いた山城跡がある。岩殿城は、真田昌幸の岩櫃城と並び、堅城とされた。岩殿山の標高が東京スカイツリーと同じ高さの634mなので、一時人気を呼ぶ。戦国武将・小山田信茂は、武田二十四将の一人。しかし最後に勝頼から離反して、武田氏滅亡を早めた人物。 雁ケ腹摺山の大峠から見る富士は美しいので、旧五百円札の絵柄に採用されたほど。このC号券は1994年に廃止されている。小生は1枚保存している。また、2007年まで使われていた5千円札には、本栖湖の逆さ富士が採用された。新紙幣千円札に北斎の富岳が印刷されるという。写真-1 宮下橋から岩殿山や雁ケ腹摺山方面を望む。写真-2 桂川と百蔵山。写真-3 JR猿橋駅の駅前広場。写真-4 猿橋駅から見る岩殿山とふれあい館の富士。写真-5 岩殿城の想像図。写真-6 旧五百円札の雁ケ腹摺山大峠の富士。
2019年04月28日
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大月市を流れる桂川の峡谷部に奇妙な橋が架かっている。甲斐の猿橋である。この橋は昔、甲州街道の要所であった。現在は人道橋で、上流と下流にそれぞれ県道505号と国道20号を通す新猿橋あり、3つの猿橋が並んでいる。 猿橋は構造的に刎橋(はねばし)と呼ばれる。鋭く聳え立つ両岸から張り出した4層の羽根木によって支えるもの。600年頃(推古天皇時代)、この場所で架橋に難航していたところ、対岸にサルが渡ってゆく姿からヒントを得て完成させたという。 この刎橋は、その形から日本三奇橋のひとつとされる。他の橋は岩国の錦帯橋と木曾の桟橋。猿橋の規模は、長さ30.9m×幅3.3m、水面から31mに架かる。ひと昔は、このような場所ではダムが築かれて来た。猿橋の直下流に水力発電の水路橋が見えた・・。 歌川広重は、「六十余州名所図会」で「甲斐 さるはし(14)」を描いている。季節は秋、下から見上げる構図。紅葉に映える猿橋の珍しい肘木の骨格を記録している。写真-1 桂川の峡部に架かる猿橋。上流の新猿橋から観る。写真-2 猿橋上流の急流・桂川の河原。写真-3 容易にダムを造れそうな超Ⅴ字谷。写真-4 刎橋の概観と四層の羽根木。写真-5 下流新猿橋から眺める。手前に架かるのが八ツ沢発電の水路橋。写真-6 歌川広重の「六十余州名所図会 甲斐 さるはし」。
2019年04月26日
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桜時期、日本的な「絵葉書」の景色が見られるという新倉山浅間(あらくらやませんげん)公園に出かけた。第4回桜まつりで、若い桜の木が多い新倉山中腹斜面。富士急線・下吉田駅から山側へ10分ほど歩くと、新倉富士浅間神社に至る。 流山自宅から約3時間半、鉄道を乗り継いで下吉田駅へ行く。大月駅から普通電車で約40分。ラッピング電車・トーマスランド号を見かけた。最近、新宿と河口湖を最短1時間50分で結ぶ特急「富士回遊」が運行している。随分と便利になっていた。 創建が705年とされる新倉富士浅間神社。807年の富士山大噴火を見届けた神社。時の天皇より「三国第一山」との称号を受けた。戦国時代、武田-北条の戦いの際に、新倉山に陣が置かれた山だ。 「三国第一山」の扁額掛かる大鳥居からは、富士山が良く見える。撮影ポイントとなっており、大勢の人が立ち留まる踊場だ。この鳥居を潜ると、398段の階段が始まる。そして、忠霊塔の五重塔へ上る。写真-1 新倉地区から見る富士山。山頂の残雪が眩しい・・。写真-2 富士急線・大月駅ホーム。トーマスランド号の始発駅。写真-3 下吉田駅舎と引退した2000系特急フジサン号。写真-4 如来寺付近のサクラと富士山。写真-5 新倉富士浅間神社の大鳥居と拝殿・境内。写真-6 第4回新倉山浅間公園桜まつりのパンフレット。
2019年04月17日
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弘道館裏手に広がる緑地には、弘道館ゆかりのものが多く点在している。八卦堂、孔子廟、鹿島神社、学生警鐘、要石歌碑など。そのなかでも八角堂が特別である。訪れた日、内部が公開されていた。弘道館教育の精神的な礎石が納められている。 この八角堂は、八面の上蘭に八卦(易)の算木が取り付けられているので八卦堂(はっけどう)と呼ぶ。八卦とは、古代中国から伝われ8つの基本図像(コウと呼ばれる)。万物変化の相を示すとされる。自然や家族との結びつきを現わすとも言われている。 弘道とは何ぞ・・から始まる「弘道館記の碑」。高さ3.2m×幅1.8mの寒水石に515文字が彫られている。5つの方針、五一致が記されている。「神儒一致」、「忠孝一致」、「文武一致」、「学問事業一致」、「治教一致」。藤田東湖の「学校御碑文」が草案とされる。 「弘」は、弓とムからなる漢字。弓をいっぱいに張り広げている様を表している。人としての道を広める「弘」だ。空海すなわち弘法大師に通じる弘道なのかも知れない・・。写真-1 特別公開中の八卦堂。写真-2 八面の上蘭に八卦算木が取り付けられている。乾は、南面にあたる。写真-3 八卦堂の「弘道館の記」。高さ3.8m寒水石に515文字が刻まれている。写真-4 弘道館公園の観梅。学生警鐘と白梅。写真-5 孔子廟と要石歌碑。写真-6 弘道館公園の案内図。
2019年03月27日
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水戸駅の北500m、那珂川の右岸高台に弘道館がある。水戸梅まつりは、弘道館を含む。但し、偕楽園ほどの賑わいはない。その分、ゆっくりと観梅そして弘道館の建物内を見学できる。弘道館の3つ建造物(正庁、至前堂、正門)は、国指定の重要文化財。文化庁認定、「日本遺産」でもある。 弘道館は、旧水戸藩主・徳川斉昭が推進した藩政改革の施策のひとつ。国を発展推進させる優秀な人材を育成するため、多に類をみないコンセプトで創設したもの。当時、国内最大規模の藩校だった。江戸時代の総合大学的役割を担った。 建物北側に位置する至善堂(しぜんどう)・御座間は、最後の将軍・徳川慶喜が幼少期に学んだ処。更に、江戸城開場の1868年、静岡に移るまでの4ケ月謹慎生活をした居間。大きな掛け軸は、斉昭の自詠自筆の「要石歌碑」。 玄関前の大きな桜「左近の桜」は、蕾が春の陽光を貯めこんでいた。この桜は、弘道館開設に合わせて植えられたもの。しかし現在の桜は三代目だという。桜の頃、再度花見で賑わうのだろう・・。写真-1 弘道館玄関前の「左近の桜」。写真-2 弘道館正門と弘道館記碑の拓本。写真-3 対試場と戦火を免れた正庁建物。写真-4 弘道館での観梅。写真-5 二大文字「尊攘」掛軸(控えの間)。写真-6 至善堂御座間の「要石歌碑」掛軸。
2019年03月26日
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