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「霊魂論」神秘学131 第六段階の「凝念」に達してはでは、想念としての仮象或いは象徴として掲げた己の精神が形象したイメージの一点に集中していた静謐の心がやがて涼やかに溶解し対象と同化し始めます。其の誘引となった「モノ」なるものを要(かなめ)として、日常の意識を超えての「洞察」や「閃き」が広く且つ深く沈潜して活動し、自由に展開されていく状態になります。その直感的映像や思考が、やがては自我の認識領域を越えて、新たなる「生命の智」をもたらす領域へと導いていくのです。この「ディヤーナ」を中国で音訳されて「禅那」となり、日本に渡っては「禅」となり伝道されています。此の領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の中心的調整作業のひとつとしてとして入り注がれます。ヨーガスートラにおいては「その対象に対する想念が、ひとつの不断の流れになっているのがディヤーナ(静慮)である。」と述べられている通りにです。ディヤーナの流れをくむ「禅」を仏教だと信じて止まない方もおられますが、何も仏教を信じなければ禅は実践出来得ないのかと云えば、さに非ず、ヨーガの行法である限りにおいては宗派・思想は問はず実行出来得、何等の信教を問い、若しくは、思考を強制はしていません。まさに人間の肉体・精神・霊魂に亘る万能の「修養法」なのです。哲学・思想ランキング
2018年07月31日
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「霊魂論」神秘学130 アシュタンガ(八支則)の第六段階では己の精神の中枢にある心を自己が築き上げた修養から嗅ぎ付けた、とある一点に心を集中して留まらせて動かさないというダーラナ「凝念(ぎょうねん)」が祖上します。此の凝念と続く次第の第七段階である静慮、第八段階である三昧(さんまい)は人間の精神上の流れでは実念上では融合しており、一連・一元の心理的観念としてしか捉え切れず、此の心理的作用の一塊のかたまりは統合的な統制(サンヤマ)と呼称される段階に在ります。つまり、この凝念と次の静慮に続く三昧の段階は分割仕切れなくなり、ヨーガでは一連の心理的流れとしての統制(サンヤマ)を呼称する一塊と認識されています。凝念と次の静慮に続く三昧は夫々の精神上の仮象としてのイメージは密教的には「炎」、禅的には時を図る一点の象徴としての白蓮華、自己精神の探索やヨーガ的には自分の眉間の一点に心を集中するとか、自らが象徴とする一つのテーマとして表わされます。西洋では「真紅の薔薇(Crimson rose)」、亜細亜では「蓮華」がよく利用されています。此の領域は、既にヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の調整に溶け入っており、ヨーガスートラにおいては「凝念(ダラーナ)}とは、心素(チッタ)を特定の対象物(場所)に縛り付けておくことである。」と述べられている通り、此の構成する要素を思考法として身につければ霊魂の「真我」の真相である「神我」をも獲得する可能性が浮上するのです。哲学・思想ランキング
2018年07月30日
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「霊魂論」神秘学129 パタンジャリが説いたアシュタンガ(八支則)の第五段階であるプラティヤハーラ「向けて集める」という語彙を持つ「制感(せいかん)」がここで登場します。第一から第四段階までは身体生理的な制御方法でしたが、プラティヤハーラの「向けて集める」とは自らの見かけでなく真の精神志向の正確な目的の把握と制御のための座法の試みや呼吸法の自覚を認識して後の意志的な動作を納めてからの瞑想の姿勢に入ります。其の時点に訪れる静謐さの中において、外界に向かう心や、外的感覚を認識対象から離し、意思の働きを内部に向けて深向させ、冷静沈着に自己をみつめる心理作業の準備となります。外界の対象からは、図らずとも掴み・掴まれている自分の思考と五感が自然に自ずからおのずから、対象から離れ内面へと集中していく此の行法は、人間を生活する上で絶えず心を悩ませ、且つ又、不安を与える問題から一旦は心を引き離した状態に立ち入らせ、何ものにも囚われない自在な心、精神の自由を手中にします。ヨーガスートラにおいては「諸感覚器官がそれぞれの対象に結びつかず、サーンキヤ学派の云う物質原理と精神原理の二元論で、物質原理と精神原理の両者の結びつきによって、次々とこの世の諸物が展開していくと思考してますが、思惟機能でも大きいもの、つまり個人的なものではなく、宇宙的な根源的な思惟機能に対する自我意識が生まれてきて、宇宙から個々の人間精神基底としての心素(チッタ)自体に似たものの如くになるのが、制感(プラティヤハーラ)である」と述べています。哲学・思想ランキング
2018年07月29日
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「霊魂論」神秘学128 パタンジャリが説いたアシュタンガ(八支則)の第四段階であるプラーナーヤーマ「調気法(ちょうきほう)」、調気法とは、宇宙のエネルギーに流れるプラーナ(生命力/Vitality)を呼吸法によって、コントロール(アーヤーマ)する行法です。様々に工夫された呼吸法によって、酸素を体内に取り入れ、血液を燃焼させ、生命エネルギーに転換する作用に加え、交感神経と副交感神経のバランスをとったり、感情とリンクして心の状態のコントロールの縁(よ)すがともなるのです。そのことにより心肺機能を高め、病気の因を追放して、静かで落ち着いた心を育(はぐく)み、霊妙なる「宇宙の気」と交流します。この領域はプラーナヤマ・コーシャ(生気鞘)の調整になります。パタンジャリが説き仏教が説いた心身の修養法は軈(やが)て不二一元論(ふにいちげんろん)インド哲学のベーダーンタ学派の主流をなす思想に集約され思想論として投合されていきます。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月28日
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「霊魂論」神秘学127 パタンジャリが説いたアシュタンガ(八支則)の第三段階であるアーサナにおいてヨーガの真骨頂である体位法(たいいほう)が古代バラモンのシバ神(Shiva)は8400万のアーサナ程ではなくとも多種多様な体位が見受けられますが、一般的にはヨーガ教典においては32種類のアーサナを説きます。立位・座位・寝位の体位、変化するいうニュアンスの如くヴァリエーション(Variations)に富みますが、其れ等の何(いず)れの体位法も、基本は安寧、穏やかな呼吸を基本とすると共に、身体のとるその一定の姿型を通して、變化する静止のない動く瞑想を肉体を使った精神集中の祈りと云った状態を先ずは目指し、身体としての肉体の健常を実現します。この領域はアンナマヤ・コーシャ(食物鞘)の調整分野となります。アーサナを日常生活の中で定常規則的に、一定の時間継続して行じると、肉体は血行を促され、筋肉、骨格、内臓器官、神経、現代的にはホルモン体などに優れた影響が生じるとされています。従(したが)いて精神存在の深層の心は持ち主の霊性の大いさに従い心の状態を安定させます。各人個々の性格や生き方に影響を与えることとなります。ヨーガスートラにおいてはこのアシュタンガ(八支則)の第三段階であるアーサナを以下のように定義しています。「座法(アーサナ)」は安定していて、快適なものでなくてはならない」、「緊張をゆるめ、心を無辺なものへ合一させなくてはならない。」 、其の時限では行者はもはや寒熱、苦楽、毀誉、褒貶等々の対立状況には害されない。此のことを具体的に喩えれば、武田勝頼滅亡の際に六角承禎を匿ったために織田信長に寺を焼かれれた、その際に「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と唱えて中に没したという快川紹喜(かいせんじょうき)が 思い起こされます。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月27日
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「霊魂論」神秘学126 パタンジャリが説いたアシュタンガ(八支則)の第三段階であるアーサナにおいてヨーガの真骨頂である体位法(たいいほう)が壇上に登ります。所謂、ポーズ(pose)を意識してとる姿勢・姿態の段階にとはなりますが、アーサナはの基本語は「座る」という動詞のアースから転化したもので、元来の「瞑想」を主な行法とするヨーガは、座ることが基本です。此の座法を基本とした体位法アーサナ(座法)は大凡(おおよそ)には、一に瞑想の体位、二にリラックス(relax)精神や肉体の緊張ほぐして、をほぐしてゆったりとする、三には肉体としての健全浄化された身体を造る為のものとに別けられますが、ヨーガ本来の目的である「真我」を得るためのは此の三体の姿勢・姿態の合法こそが要請されます。古代バラモンのシバ神(Shiva)は8400万のアーサナを説いたとは云われていますが、他のヨーガ教典では32種類のアーサナ、立位、座位、寝位の姿態は釈迦の体位を見れば歴然です。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月26日
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「霊魂論」神秘学125 パタンジャリが説いたアシュタンガ(八支則)の第二段階であるニヤマ、第一段階の階梯では「禁戒(きんかい)であるヤマの成してはいけない否定的見地から成すべきとする推進肯定的見地へと第二階梯の「勧戒」セットで説かれています。「勧戒」は自己の日々の生活態度を改善し、心身ともに霊性を高めるための五つの生活則である「黄金律」を課(はた)します。第一には心身ともの清浄(シャウチャ)、第二にはひとまずは環境・現状の率直に受け止め、肯定の立場からの物事への対処、不平不満は何ら生産的な何事をも生じないこと。第三には日常において自らに課した「行」や「業」を実現力を高め心身を強いものにすることに役立てる精進(タパス)。第四には常に聖典を読み、真言を唱え、「生命の智慧」の理解と学習を怠らない読誦(スヴァーディヤーヤ)。第五には各々の自自己を守っている 霊的であるハイヤーセルフ(Higher Self)、謂わば高次元の自分自身、輪廻転生しても変わらないともいうべきものに人生における気高い目的の達成を願うことが挙げられ、其れが「真我」を異味することとなります。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月25日
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「霊魂論」神秘学124 パタンジャリが説いたアシュタンガ(八支則)のニヤマ第二段階、第二階梯の「勧戒」の自己の日々の生活態度を改善し、心身ともに霊性を高めるための五つの生活則である「黄金律」が要請されますが、ヨーガにおいては、先ず第一には「清浄(シャウチャ)」心身ともに霊性を高めるには肉体的な浄化と心的な浄化(慈悲喜捨)、外面と内面双方にお ける清潔さが要請されます。具体的には「禊ぎ」が其れに當たります。第二には「知足(サントーシャ)」自己に与えられた環境よ現状を、先ずは如何様であれ受け入れ、不足から始めるのではなく、肯定して物事に対処する姿勢です。社会的には非常に恵まれた環境に育った人間が環境に感謝し満足しているとは限りません。逆のカースト制度で人間扱いされない身分にある人間は其の身の不公平に嘆くのは当り前です。此処では、我慢せよとは言わず、先ず受け入れよと諭していそうです。嘆きばかりでは何の解決もないことを意味し境遇を一旦は受け入れて解決策を見い出せと語り掛けています。始めから自らの生誕を恨んでは解決が展望できないということでしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月24日
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「霊魂論」神秘学123 「ニヤマ(勧戒)」では精神存在として心、其の心の土台となる身を共に霊性を高めるには重要だとして心身の修養のための五つの生活法則を掲げアシュタンガ(八支則)の第二から三昧である「神我を知り真我となす」目的に至る最終章の階梯のための超えるべき階梯として、更に「ニヤマ(勧戒)」に生活法則を要請します。五つの生活法則「黄金律」他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよという内容の倫理を規定します。ヨーガにおいては霊性を高める五つの生活法則とは、第一に外面と内面双方に於ける清潔さが要請されます。「慈悲喜捨」肉体的な浄化法と心的な浄化法としての清浄(シャウチャ)です。第二は人間は自己に賦与されている環境を先ずは受け入れて肯定し、其の姿勢から物事に対処する思案を準備すること知足(サントーシャ)を語ります。然し乍ら、インド北部に位置した小国とはいえ釈迦族のシッダルダ王子は与えられた環境を楽しむ日々を続けていましたが、給仕の女の息子が摘み食いしたために火に投げ込まれ、現状の満足と其の環境が他者の犠牲の上に成っていることに気付き沙弥の道を歩みます。故に此の項目は、恵まれた環境によりは虐げられた人間の精神の磊落を憂えて設けられたものと察します。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月23日
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「霊魂論」神秘学122 パタンジャリが説いたアシュタンガ(八支則)は、八段階の積み重ねを階梯として実践することを説きます。先ずは第一段階の階梯では「禁戒(きんかい)/ヤマ」が取り上げられ、次いで第二段階の階梯では、この地上(大地)において、本来の自己、ヨーガの云うところの「本来の自己」とは世界の理に溶解同期する「真我」を意味し、其れを実現するためには、日々の暮らしの中での良い生活習慣の積み重ねを重要視しすることを問います。此の「勧戒」とは、 伝統的なヨーガにおいては、悟りを求める修行者が師について学び始めるとき、師は弟子に対して初めに禁戒(ヤマ)と勧戒(ニヤマ)を基本として教えます。禁戒(ヤマ)はヨーガの目的である「真我」を期待するならば、先ずもって「してはならないこと」と積極的に行うべきことを身をもって知れと教えます。此の第二段階の階梯「ニヤマ」では、自分自身の生活態度を改善し、心身ともに霊性を高める五つの生活法則即ち「黄金律」が説かれています。黄金律(Golden Rule)は、多くの宗教、道徳や哲学で見出される「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」という内容の倫理学的言明でヨーガでも取り上げられています。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月22日
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「霊魂論」神秘学121 ヨーガ・スートラの生活則の第五には所有欲を克服し、「もの」に執着しない。仏教では不貪戒または不飲酒戒がヨーガ・スートラではアパリグラハ(非所有)として諭されています。アパリグラハについては「必要以上に持ってはいけない」且つ「贅沢品を受け取ってはいけない」と諭(さと)しています。つまりは簡素で生活に必要なものだけで暮らせということ。たとえ他人のもの盗まない正当に手に入れたものでも、多くを貪(むさぼ)ってはならない。自らの生活を省(かえ)りみて、必要でないものまで蓄えていないか、節約スべきものはないか、臨機応変に判断する分別を養(やしな)えろというところです。自分にとって必要なものを・必要な時に・必要なだけ贈られたなら、例えば「布施」がそうですが、本来的には蓄えをしてはならないものであり、「下心」という不純物の混じったものを品物であれ、態度であれ、無意識のうちに何らかの見返りを求めている、将又、自らの生活に必須でないものを受け取るなということです。ものに対する執着は心に執着を生む心せよと諭しているのです。結果、心が解放され我執がなくなり「精神の自由」を手にします。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月21日
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「霊魂論」神秘学120 ヨーガ・スートラの生活則の第四には性的エネルギーを適切にコントロールするが顕れます。仏法では不邪淫戒をヨーガ・スートラではブラフマチャリヤ(梵行)として表現していますが、性的エネルギーを適切にコントロールするのは性能力の大小の個人差により多少のニュアンスは異なってきます。もとから性能力の乏しいものは比較的楽に抑制は可能ですが、旺盛な性能力の持ち主は性能力の大いさから自らをコントロールするには、相応の精神力と努力が必要であり、其の見返りにはより大なる霊的精神の向上何ものかがあります。シッダールタは然り、龍樹や空海は並外れた精力の持ち主ですが此のエネルギーを抑制し他に置き換えることにより修行を完成させています。日本の貝原益軒ではないが性的エネルギーをコントロールすることは長生にもつながり健康を齎すということの言さえある程です。無闇矢鱈に淫行に及ぶことは精神のみならず肉体を害することを教えます。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月20日
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「霊魂論」神秘学119 ヨーガ・スートラでは、第一段階の階梯としての「ヤマ」に関して基本的な五つの生活則を示します。此れには仏法の影響が顕著に顕れますが、先ず第一には生きとし生けるものに無用な暴力及び殺生をくわえない、仏法の不殺生戒をアヒンサ(非暴力)を掲げます。敷いては自らが害されなくなるのを理(ことわり)とします。第二には言葉と行動を一致させ誠実なものとする言行一致の実践です。仏法の不妄語戒をサティア(正直)としています。あの人の言うこと成すことに偽りがないことから、信頼を得て心に平安を齎す意です。第三には他人のもの・他人の時間・他人の喜び等を不当に盗らない。仏法の不盗戒。「盗むなと言うな」というのも加えて不偸盗戒(ふちゅうとうかい)をアステーヤ(不盗)と顕しています。多く持つな!少なく持て。わが所有をでき得る限り少なくして更に少なくせよ。強欲は強欲を呼んでくる。果てしがなく強欲になるが、それでも動き出した強欲の性(さが)は勢いを増し、我がものとしているモノは全て他から由縁するモノであるにもかかわらず自己のモノと思うこと自体が既に盗戒しているということです。業は他人のものを盗んでいるのであり仏法は大乗を除き仏僧の業を戒めます。大乗の祖の龍樹が天賦の商才の閃きを以って教団の普及に努めながら、御仕置きの仕打ちを受けたのは仏法の不盗戒そのもの故です。此れを実践出来得たのは、暗殺の憂き目にあったモーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー、いわゆる、マハトマ・ガンジー「マハートマー」は偉大なる魂という意味でガンジーの尊称でですが。これとマザー・テレサの例が顕著でしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月19日
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「霊魂論」神秘学118 ヨーガ・スートラは聖者パタンジャリが説いたヨガの聖典であり、ヨ-ガ哲学の基本的な思考法と思想及び実践の教えを説きます。基本的にはアシュタンガ(八支則/はっしそく)という8つの段階・行法があり、第一段階の階梯の「禁戒(きんかい)/ヤマ」から始まります。中でも、第一段階の階梯としての「ヤマ」と第二段階の階梯としての「ニヤマ」は、日々日常の社会的・個人的な行動の規範ともなり、其れ故に日常とかけ離れた環境である修験堂や霊峰での修養法は亦異なる意味で実践するのが難しいとも云えるかもしれません。本場インドの聖地(修行場/アシュラム)では、「ヤマ」、「ニヤマ」を実践でき得なければ、アーサナ(ポーズ)のスタート地点にさえ立ち得ないとされる程です。第一段階の階梯としての「ヤマ」に続く第二段階の階梯としての「ニヤマ」は、禁戒の後に勧戒という順序は、命に良い事をなす前にはまず命を害するものをとり除くという事が先決だということを意味します。「金剛律」の後に「黄金律」ありとするのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月18日
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「霊魂論」神秘学117 「ヨーガ・スートラ」という実践哲学をラージャ・ヨーガ(王のヨーガ)は、瞑想(ディヤーナ)によって心を自我の精神の深淵に沈潜化させ、外界の影響から遮断した後、今度は反対に自我を外界へと解き放ち溶解させる高等技を使います。其の思考の実践が真実在への理解を深めて最終的に解脱を達成することを目指すのがヨーガの体系です。古典ヨーガともアシュターンガ・ヨーガ(八支・ヨーガ)とも云われ、「解脱}という目的に到達するために、日常の生活においての行動の規範である禁戒や勧戒を山の裾野にして、段階的に体を整え、呼吸を整えながら、順次に山の高みに上っていく道のように、其の目的に向かって、段階的に身体を整え、呼吸を整えながら、八段階の積み重ねを階梯として実践することをアシュターンガ・ヨーガは教え説きます。先ずは第一段階の階梯では「禁戒(きんかい)/ヤマ」が取り上げられています。心の平安をを得るためには其の実相、他者とのエネルギーの交流の中に私達の存在が成立しているという事実を真に受け止め自らを目覚ませ、自らが発する他者への行為を良好にする事の重要性を知ることです。此のことは「カルマ」出したエネルギーの質が、何らかの形で、其の同じ質のものが当人に帰ってくるという法則に従っています。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月17日
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「霊魂論」神秘学116 パタンジャリの成立の釈迦に遅れること数百年の、紀元後4-5世紀頃「ヨーガ・スートラ(瑜伽経、ゆがきょう)」は、漢訳で瑜伽経と表意するので、仏教の類(たぐ)いの宗教経典と同類かともを憶(おぼ)えますが、同じく釈迦に遅れること数百年の大乗の祖「龍樹」の「空論」が釈尊の経典を紐解く上座仏教のそれではなく、あくまで仏教の世祖の正覚者の思考経緯を解析し哲学として再構築したのに対応するように、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」はバラモン世界から繋がるヒンズー教の一派であるヨーガを宗教ではなく哲学として著述しています。「ヨーガとは心の働きを抑制することである」の定義から始まり、「三昧」に至るまでの具体的実践方法としての8階梯と、その思考の背後にある思想が述べられます。この教典はパタンジャリという聖人によって紀元前から綿々と受け継がれたきたヨーガを「ヨーガ・スートラ」という実践哲学でもって著しています。シッダールタの説法を教説にまで高めて「仏法」として脈々と受け継がれてきた仏法を、専ら其の思考の基底を顧み「空論」を著した龍樹にさも似たりかなというところでしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月16日
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「霊魂論」神秘学115 ヨーガ学派の思想では、苦の因は無知から来る。我々人間は通常の生活では、ともすれば偏愛に傾いたり、対象に固着・執着してしまいます。対象への「こころ」の固着・執着は善かれ悪しかれ心の平安は失われ不安定となります。業と輪廻に心が掴まれ解脱することが出来得なくなってしまっています。業と輪廻に心が掴まれ「苦」となっている状態から脱するには先ず無知を脱することが必要です。ヨーガ学派の思想は無知を脱するには「思考」に頼っていただけでは足らず、座法や呼吸法等々の具体的・実践がなければならない。ヨーガ派の人間は無知を脱する具体的・実践の先にこそ解脱があると考えた修練法として編み出されたものなのです。ひとことで言えば「ヨーガ」とは解脱するために心の外界からの働きを滅することなのです「Cause of any of the bitterness is born than myself」です。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月15日
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「霊魂論」神秘学114 「ヨーガ」は本来的にはインド古来からの「結座」、シッダルダはもとよりバラモン世界の神々やヒンズー神も大凡は「結座像」が描かれ造物化されています。此の姿型は西欧には見られない解脱の「姿形」特徴とします。度々話題になるヨーガの地中の行や針山の行法は自己の心底に深邃ための人間の感覚即ち外感覚を断ち切り世界に自我を溶解させる手段として取り入れられますが、其れは「ヨーガ」の行法としても特殊な分野とも云えます。ヨーガと聞くと、現代人にはおそらくはホットヨガやマタニティヨガをイメージします。然しながら、何もヨーガ派の人たちは現代人風に健康になりたいと思っただけで修行していたわけではないことに気付かさなければ「ヨーガ」を理解できません。彼らの問題は、どのようにすれば「業・因業」、輪廻転生のなかでも、爾来の教的規範とされた悪循環の宿命的な転生から解脱することができるかに目的因があるのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月14日
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「霊魂論」神秘学113 パタンジャリ(Patajali)は紀元前150年ころのインドの文法学者とする説が最も有力とされていますが、実のところは生没年ともに不詳です。紀元前400年頃に古典サンスクリット語の文法を研究し、その集大成である全8巻の「パーニニ文典」でアシュターディヤーイーがインド文法学の基礎を確立したのに対し、これにパタンジャリが噛みつき「マハーバーシュヤ」という大部に亘った大がかりな批判的な注釈を書いたことがつとに勇名を馳せます。これは古典サンスクリット語の文法の規則を扱った書であるのですが、言語に関する哲学的考察を目論み、言語の本質は永遠であり、発声によって顕現するという思想を初めて説き至ります。旧約の「始めに言葉ありき」を連想させて此処東西をを問わずの観を与えてくれます。其の彼がインド六派哲学ヨーガ学派の開祖にして、その根本経典「ヨーガ・スートてラ」の著者であることは、単に彼を神秘主義者とは呼ばせないことになるのは自明の理です。パタンジャリのヨーガスートラ(瑜伽経、ゆがきょう)はインド哲学の一派であるヨーガ学派の教典のなかでも聖典とされています。其れは神憑り的なものではなく深思深奥の理知の中から導き出されたものであるから。「ヨーガ・スートラ」が単なる経典ではなく「聖典」とされる所以です。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月13日
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「霊魂論」神秘学112 ヨーガの思想の一つウパニシャッドのパンチャ・コーシャ(5つの鞘)の5つ目の鞘は「アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)」です。この歓喜鞘が、ヨーガの到達目標であり宇宙・生命全体の根源へとつながる真我を包んでいるといわれるものです。其のこと故に宇宙・生命全体の根源には「神我」があり、其のものの本質には「神愛」があり、人間がエゴイズム、俗に、得て勝手で他人の人生の迷惑は御構い無しの語彙として使用される「利己主義」自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式を此処ではエゴイズムと称してしています。哲学での、自我だけが確実に存在し、他は一切認識不能であるとする唯我(ゆいが)論や独我論は意味しないし、自我主義をも意味しないと捉えて下さい。何故なら、自我を徹底して深奥に突き詰めていけば、デカルトの「我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」を超え、自己の霊魂と向き合うからです。其の瞬間い人間は自己の意識から解放されて自我は世界に溶解してゆきます。此れがヨーガの云う「真我」、神との接点を見出した「神愛」を体験・受胎する瞬間です。此の時点での人間は、究極の人間本質の原点に触れ、「神愛」の歓喜に溢れ、純粋で幸福感に満たされるのです。ヨーガの行法は心を紐解く「真我への道」なのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月12日
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「霊魂論」神秘学111 世界と呼べる統べからくの宇宙には意識は一(いち)しかなく、ひとつの普遍愛の「意識」を全ての人間が共有しているのが普遍愛なのです。一(いち)の普遍愛から個であり個という集団それぞれがひとつの愛の意識から自我の思いにより自らが分離している意識の状態が「自愛」です。「自愛」はともすれば偏愛に傾く傾向があり、憎しみや悲しみ及び嫉妬や悲嘆の因となり、行動的にはストーカー行為や逆恨みの原因となり「愛」は激変します。此れが欠損を抱えた愛であり一般的な愛であるとも云えます。自己が宗教的体験にしろ真我(神我)意識として生きるようにになると、真我である愛のエネルギーにより心が愛に満ちたりて癒されていきます。例えば、マザー・テレサ(Mother Teresa)の愛の現出です。自己が真我(神我)意識として生きる様になると、真我である愛のエネルギーにより心が愛に満ち癒されていきます。更には、愛への理解力も深まっていきます。凡そ多くの人が真我(神我)を意識として生きるに思考行動を摂れば、人間世界は心豊かな愛に満ちた社会になって行くのは当然の成り行きでしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月11日
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「霊魂論」神秘学110 真我(神我)とは「普遍的な絶対愛」であるとするのが世界の思考の・宗教の流れでしょう。「普遍的な絶対愛」とは「有」そのものが産み出し創造化するものを愛するという意味で「神我」自ずと愛するのが当然の流れでしょう。自ずと愛する「神我」は他者を愛することは有り得ません。世界そのものが我であり其の「身」だからです。絶対的な愛の認識は、そのもの以外には他の意識などあろう筈もなく、仮に在るとすれば相対的愛となり矛盾が生じます。一であって他に意識がない以上、人間的な「我」は生じません。完全体の「我」とは自己すら認識する必要がない完璧な認識を持ち、人間の単なる意識が認識の欠損から起こるのに対し完全なる認識は他を必要とせず「絶対認識」とは、自己さえ認識しない或いは認識の必要性が有り得ない「常有」です。「常有」には質量や空間の束縛はなく、考えれば当たり前ですが自らが持つ体裁であり、束縛という言語は当て嵌まりません。自我意識とは神の普遍エネルギーを分離し個人の意識として使っている状態です。人間の自我意識とは対照にある神の普遍エネルギーを「分離し個人の意識「エゴ」、自己を対象とする認識作用として使っている状態です。自己の霊魂が人間としての自我で生きているのか、将又、普遍的愛として生きているのかが、其の方の分岐点となるのです。人間は神から与えられ賦与される報償論的愛を期待してはいけません。神の「神我」を我の「自我」に同化することこそが「普遍の真理の愛」に接触し人間は最高の愛の喜びに歡喜するのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月10日
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「霊魂論」神秘学109 「真我」即ち「神我意識」とは大宇宙将又其の背景意識とも言えます。生命どころか「変遷する汎ゆる存在」そのものの背景、生命系全体の背景にも「絶対存在」の力は及んでいます。但し、理知を持つ人間だけが、其れを認識できる可能性を持ちます。誰しもの心の中に当然に実在し、其の形態は自我意識と真我意識が別々にあるのではなく、スピノザ流に喩えれば、存在の神の様体延長の理(ことわり)からして人間意識の心底に眠る其の奥底を探れば、其の基底には変化しない恒常の存在の様体の変状状態がある筈です。「真我」即ち「神我意識」とは澄み渡った一切の濁りのない水面に写し出された月球のようなものであり、其の鏡面には些かの曇りがあっても許されません。其のための修行方法がヨーガなのです。自我意識とは神の普遍エネルギーを分離し個人の意識として使っている状態です。真我(神我)とは普遍的絶対愛の神意識のことであり神は完全なる「愛」を有します。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月09日
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「霊魂論」神秘学108 ヨーガの思想の一つウパニシャッドのパンチャ・コーシャ(5つの鞘)の3つ目の鞘は「マノマヤ・コーシャ(意思鞘)」で感情や心に関わる層のことです。心が動くという通り変化にはエネルギー源が伴います。その心のエネルギーを司り、物心両面に亘るを外からの刺激や出来事に反応して表出する感情の層を「自我」意識即ちアハンカーラで感情を制御しなければ、物心両面に亘るを外からの刺激や出来事に心が振り回され、まさに制御不能の乱心が起こります。4つ目の鞘は起きた出来事や物事を意識と統合して判断する「ヴィジュナーナマヤ・コーシャ(理知鞘)」です。心を総合的にみて観想し判断する統合処理です。大脳を発達させた人間が感情の基準を判断したり選択する知性の層です。この知性の層が乱れていると、正しい思考と行動の選択を行うことなど覚束なくなります。最後の5つ目の鞘は「アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)」ですが、人間の意識に奥底する「我」も単なる他人との区別意識や外界全般に対する自己意識「自我」と表記され「真我」ではありません。「真我」は誰の心の中にも実在するものなのですが平々凡々の生活を送るだけでは気付かれない状態にあります。「真我」をヨーガの探求法で段階を踏むと、我なる「自我」はいつしか世界に溶解し、無我夢中とも言える自我意識の世界への溶解「無我の我の境地」が訪れます。自我意識はスピノザの云う「絶対意思」や「絶対意識」 を人間が観想することは有り得たにしても、実相・実態を見ること能わざるです。「絶対存在」即ちヨーガの「真我」とは大宇宙存在を成らしめてる人間から観相すれば永遠の「有」なのです。「絶対存在」は時間とは無縁、変化を伴うエネルギーとも無縁にして「永遠の瞬間」です。ヨーガは「我れ」と「時相」を離れて「真我」と同化するための方法論であり実践なのです。其れ故に神との接点を求め「瞬間の神我意識」の獲得に努め同化を究めるようと修養に努めます。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月08日
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「霊魂論」神秘学107 「プラーナマヤ・コーシャ(生気鞘)」はハタ・ヨーガの経典に出てくる「主要な五気気」ですが、此れに対応するのは中国の五気では、人が生きていることを「時間的・全体的」に捉え、自己が職上、人々の生命の営みを緻密に診ていた知見を活かし示したが陰陽五行説に則(のっと)り記述されているのが医学書「黄帝内経(こうていだいけい/Huang-ti-nei-ching」です。人と自然の関係、臓器同士の結びつき、心と身体との関連といったことの陰陽五行説に当て嵌めて記述されています。所謂、木・火・土・金・水の陽中の振り分けです。此れ等それぞれにハタ・ヨーガの主要な5種の「気」を対応させれば左程には辻褄がかけ離れることはないといえます。対照して保々対応する部位といえば、心臓のプラーナ気が「暑」にあたり、会陰のアパーナ気が「寒」で、ヴィアーナ気が「湿」、上昇のシンボルであるウダーナ気は、陽属性だろうから「風」、サマーナ気は、「燥」というとこでしょうか。但し,ハタ・ヨーガの五気が肉体機能で説明しているのに対して、「黄帝内経}の五気は生長化における時間的な推移を基底に組み込んでいるので、ハタ・ヨーガの「五気」と中国の「五気」は厳密に対称的に其々を対応させれば矛盾が生じます。プラーナマヤ・コーシャ(生気鞘)は、新鮮なプラーナを取り入れ、「気」流れを整えることで、オージャス(生命力)が高めます。この層は、アンナマヤ・コーシャ(食物鞘)とマノマヤ・コーシャ(意思鞘)の間にあり、それぞれの影響を受けたり且つ与えたりする層で、心と肉体の架け橋の役割を担います。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月07日
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「霊魂論」神秘学106 2つ目の鞘は「プラーナマヤ・コーシャ(生気鞘)」で、生命のエネルギーであるプラーナによる構成されるエネルギー体です。プラーナも五気あるといわれ、其々に生命エネルギーを動かしたり排出の働きを行ったりしています。プラーナ、言い換えれば「気」ですが、其れをハタ・ヨーガの経典に出ている「五気」と中国の五気を対照すれば解かり易いかもしれません。ハタ・ヨーガの経典に出てくる「気」は10種ですが、其のうちの五種を主要な五気とします。此れを中国の五気に照応してみると、先ずはハタ・ヨーガの五気は、①心臓に位置し鼻頭から心臓までの間に留(とど)まり息を運ぶ「プラーナ気」②男性では陰嚢と肛門の間、女性では陰裂下端と肛門の間の部分の会陰(えいん)に位置し臍から足の裏までの間に留まり体の汚れを取り去る「アパーナ気」③臍(へそ)に位置し心臓から臍までの間に留まり食物を消化吸収する「サマーナ気」④喉(のど)に位置し鼻頭から頭までの間に留まり上昇する「ウダーナ気」⑤全身に行き渡っている「ヴィアーナ気」が、ハタ・ヨーガの経典に出てくる10種「の気」うちのインドの主要な5種の「気」であり、現代的必要性から見れば付け加えるならば、主要5種以外に「ナーガ気」でしょう。これは和訳「おくびの気」と呼ばれ、簡略に言えば「おくび」とは西洋の食事マナーで嫌われる「ゲップ」の事で、腹の中にある考えを出さないといった意味になります。但し其の「ナーガ気」は、意識を生ずるともされています。近代西欧文明は、意識偏重型のアポロン型文明。だから現代社会で、きちんと適応して生きれば生きるほど、意識を鮮明に持たねばならない。そのことは結局胃にストレスをかけることになり、おくびのナーガ気を酷使する生活形態になっています。意識的に生きるのは、胃に負担がかかるのだから「ナーガ気」をコントロールすることは現代的には「五気」に付け加えても良いかもしれません。総じて、インド・東アジア圏では「五」を特別な意味を持たせる傾向があります。日本における「五山の送り火」や「五大力尊」等々、数え上げたらきりが無い程です。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月06日
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「霊魂論」神秘学105 我々人間が身体としての肉体と精神性を「カラダ」と呼称する本質的な人間存在を構成するのが「5つの鞘」です。ヨーガの思想の一つであるウパニシャッド(六派哲学)における人間の階層構造論です。人間という存在の構造は5層あり、其々に5つの鞘(パンチャ・コーシャ)を構(かま)えている。携え構えていると云うからには生来(せいらい)から欠損した人間がいることは残念ながら真実です。人間は常に完成された生命体としての生態を伴わないのが現実です。恵まれた精神性を活かし肉体の欠損にも拘わらず人並み以上の優れた強靭さで立ち向かうのは謂わば試練です。菩提達磨(bodhidharma、ボーディダルマ)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧ですが、八年のもの壁に向かい合って禅で血流の関係から足が萎えた程の達磨大師を持ち出すまでもなく、強靭な精神を肉体の基底に置くことが重要視されます。「5つの鞘」という意味を持つパンチャ・コーシャは、自分の本質を知り、本当の意味での健康を考える上でも重要なことなのです。1つ目の鞘は「アンナマヤ・コーシャ(食物鞘)」。私たちが見て触ることのできる肉体は、受胎の以前も以後も将又出産以後も食べるものによってかたち造られています。アーユルヴェーダもそうですが、何を食べたかによって、血となり骨となり肉となり、食物によって維持されている人間の基礎となる部分が異なります。私たちの肉体は食べているものによっても左右されているのです。ちなみに、釈尊の袈裟を伝え携え及んだのはヨーガの伝統を引き継ぐ中国禅宗の開祖とされているインド人仏法僧の彼です。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月05日
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「霊魂論」神秘学104 五つの鞘からなる総合的な私達の存在である五蘊の各層の鞘に入る前に、世界のすべての偉大なる神の言葉を人間の言葉に翻訳する預言者言い換えれば神の言葉の通辞や聖者と呼称される者達、いわゆる見神者と云われる彼らは何をし将又行動に駆られたのでしょう。物理的世界の存在からみればあまりにも短いスパンである人間の一生の間に、通常、普通に世界の理を究道する人間ならば完成にいたるに要する全時間を跨いで、人類の全生命を生きたのが彼等なのでしょう。只一個の生涯の間に、彼らは自分を完成させたともいえます。彼らは「存在」以外他のことは何ひとつにも囚われることなく思いを馳(は)せません。一の瞬間が「永遠の瞬間」になるのを待つのです。此の方法論によって世界の理を知る道程は短縮されます。此れが「無我夢中」或いは禅宗が云うところの「無我」の境地です。思考をしないのではなく「只一点」に世界との同化を求めます。自分を忘れるのではなく「集中」することにより自己に囚われない「同化の力」即ち「直覚」が時間を短縮させるのです。ヨーガが理想とする科学全体は、思考する人間に、一の段階からつぎの段階へと徐々にすすんで全人類が完全になるのを待つようなことはせず、同化の力を強化することによって完成に達するため時間を短縮する方法「直覚」を教えることを目的とします。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月04日
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「霊魂論」神秘学103 パタンジャリ(Patanjali)という聖人によって纏め上げられた三昧から解脱への到達方法は、先ず、其の前提である「三昧」に到達するために、日常生活においての行動の規範である禁戒や勧戒を山の裾野にして、段階的に身体を整え、呼吸を整えながら、順次に山の高みに上っていく道のように行動の規範である禁戒や勧戒を山の裾野にして準備することを肝要とします。此の実践の過程において、五つの鞘からなる総合的な私達の存在の各層に働きかけ、人間が本来備えている肉体と精神とそして霊性の資質や能力が高められ、バランスあるもの中庸となり、心身の健康度が飛躍的に高まります。その人自身の我の生き方(自己実現)に多大な実りをもたらす総合的な私達の存在の各層、即ち、五蘊に働きかけ五つの鞘からなる総合的な私達の存在の各層、私たちが「身体(からだ)」と呼称するものの本質について思考させるのです。ヨーガの思想の一つウパニシャッドはパンチャ・コーシャ(5つの鞘)を基底に自分の本質を知り、本当の意味での健康を考える上でも重要なことを述べ伝えます。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月03日
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「霊魂論」神秘学102 パタンジャリのヨーガスートラ(瑜伽経/ゆがきょう)の概略は、「ヨーガとは心の働きを抑制することである」の定義から始まり、三昧に至るまでの具体的方法としてのヨーガの八支則(Eight Limbs/アシュタンガ・ヨーガ)、階梯として8段階の積み重ねによって構成され、其の背景の基底にある思想を述べた文書と云うことになります。此の瑜伽経と言うよりは瑜伽論は、パタンジャリという聖人によって紀元前から綿々と受け継がれたヨーガを、紀元後4~6世紀頃に記述され完成されたといわれている教典です。此の書の統括的なヨーガの行法は、サンスクリット語のサマーディ(samdhi)の音写で、三摩提(さんまだい、三摩地(さんまじ)とも音写し、定(じょう)、正受(しょうじゅ)などと漢訳されますが、原意は「心を一か所にまとめて置くこと云々(うんぬん)」をいい、これが心を一つの対象に集中し散乱させないという、高度の精神状態に達する方法を意味するものとなったものです。古代インドでは解脱(げだつ)する手段として種々の方法が考え試みられたのですが、此のヨーガの修行法は古来から行われ、ヨーガ学派はその極地を三昧とします。シッダルタも此のならいに沿って修行しています。高度の精神状態に達する方法として古代インドでは解脱(げだつ)を目的として種々の方法が考えられますが、なかでも最も多くはヨーガの修行法が古来から行われ、ヨーガ学派はその極地を三昧としたのです。其の三昧の極致にあるのが解脱です。インド思想一般および仏教用語にある解脱と語彙としては保々意味するところは同義ですが、其の内容は天と地の違いがあります。現世は迷いの世界であり、輪廻(りんね)などの苦しみから解き放された理想的な心の境地を理想と考察し、この解脱を得ることが人生最大の目的とされたのはインド哲学共通の基盤ですが、解脱の詳細な内容や、そこへの至る方法は、各学派によってさまざまでもあり、極東では神道立国日本では、この解脱の語は仏教と固く結び付いて用いられてきた経緯があり仏教伝来無くしては解脱論は成り得ません。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月02日
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「霊魂論」神秘学101 ヨーガ・スートラ(瑜伽経/ゆがきょう)はインド哲学の一派であるヨーガ学派の教典ですが、印度大陸での宗教や哲学を心掛ける者の思考の経緯の基底となった方法論として印度思想を俯瞰するのに役立つ筈です。ヨーガ、なかでも紀元後4~5世紀頃にパタンジャリ生年紀元前200年~紀元前150年によって説かれたものを編纂されたとされるヨーガ・スートラ、「スートラ」は「糸」の意味であり、糸を結び結びに絆(つな)ぐようにパタンジャリが説いた短い言葉を連ねたものですが、ヨーガに限らず「三昧(ざんまい)」に至る具体的思考方法論としての体裁をとっており、釈尊のみならず、インドの多くの思考家はヨーガ・スートラに代表される方法をもって思想を究めたと考察されています。デカルトの懐疑法を除けば西洋史には見られない解脱への階梯です。哲学・思想 ブログランキングへ
2018年07月01日
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