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2018年08月30日
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2018年08月29日
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2018年08月28日
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「霊魂論」神秘学157 釈迦は「もし私にそうした疑問について説いてもらえない限り、私の下で修行しないと言う人がいたとすれば、その人は私にそれについて説いてもらう前に、死期を迎えてしまうことになるだろう」「例えば、毒矢に射抜かれた人がいて、その友人同僚・血縁者たちが内科医・外科医にその手当てをさせようとしているところで、その当人が原因の原因をを考え理解した上で実践するとしたら、その答えを得る前に死んでしまうだろう。その人はその答えを得る前に死んでしまうのと同じように」「それらの答えが与えられてはじめて、人は修行生活に留まるということはない」「それらがどうであろうと、生・老・死・悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧することを私は教えるのである」「故に、私は説かないことは説かないし、説くことは説く」「先の疑問の内容は目的に適わず、修行のための基礎にもならず、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立たないので説かない」「逆に四聖諦は、目的に適い、修行のための基礎にもなり、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立つので説く」「この説かないものと、説くものとの違いを了解せよ」と諭します。マールキヤプッタ尊者は歓喜し、釈迦の教説を信受したとされます。然し乍ら、仮に問うものが「菩薩(Bodhisattva)であれば釈尊はおそらくは「無記」を示さず疑問に答えたであろうことは、釈迦の「方便」からして当然である筈です。哲学・思想ランキング
2018年08月26日
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「霊魂論」神秘学156 其の項目数から「十無記」と呼ばれる「世界は永遠であるのか・永遠であるのか・世界は有限であるのか・世界は無限であるのか・生命と身体は同一か・生命と身体は別個か・修行完成者(如来)は死後存在するのか・修行完成者(如来)は死後存在しないのか・行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか・修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか」の以上を問うマールキヤプッタ比丘である尊者に、仏教では、倫理的価値を (1) 善(2) 悪(3) 無記の3つに分けていますが、このうち「無記」は、「善とも悪とも記別することができないものであり、尊者の求願する人間の善悪の修養道には無為だとして問いに対して、回答・言及を避けています。「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対しての釈迦の回答です。敢くまで此れは衆生の救済を鑑みた釈迦の説法であり、自力本願を成したシッダールタが「十無記」を沈思黙考しなかったかと云えば其の逆でしょう。釈迦は衆生の人生の救済のためには形而上学はシッダールタの形而上学上の理が、衆生の苦悩には何の解決もないことを知り、自らは世界の形而上学上の世界の理を沈思黙考した結果出した筈の「覚り」を衆生には求めないように導きます。形而上学上の世界の理を最も理解したのは釈迦其のものだからです。此の釈迦の「無記」を解明して解き明かしたのが釈尊の教えを信教的には捉えず釈尊を教祖としてではなく正覚者として其の教えの奥底の思考を哲学として紐解き再構築したのが、仏教哲学の祖、上座仏教を小乗と云わしめた大乗哲学の祖「龍樹」です。哲学・思想ランキング
2018年08月25日
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「霊魂論」神秘学155 釈迦が人間個々の人生問題の解決には直接役立たないない形而上学的問題、たとえば世界の有限・無限とか、創造因とかについては質問されても解答せず、回答・言及を避けた無記(アヴィヤークリタ)とは、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言いますが、其のこと故に仏説経典には回答内容を記せないので漢語で「無記」と表現されています。其の項目数から、「十無記」(じゅうむき)、「十四無記」(じゅうしむき)、「十六無記」(じゅうろくむき)等々とも表顕されます。仏教では、倫理的価値を 善・ 悪・無記の3つに分けていますが、「無記」は「善とも悪とも記別することができないもの」を意味します。釈迦が舎衛城の祇園精舎に滞在している際に、知識・徳行の備わった、尊敬すべき人である比丘であるマールキヤプッタ尊者に、世界は永遠であるのか・世界は永遠ではないのか・世界は有限であるのか・世界は無限であるのか、生命と身体は同一なのか・生命と身体は同一なのか、修行完成者(如来)は死後も存在するのか・修行完成者(如来)は死後は存在しないのか、修行完成者(如来)は死後に存在しながらもしかも存在しないのか・修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか10の疑問を釈迦にマールキヤプッタ尊者は問います。これらの疑問に釈迦が答えてくれるなら修行を続けるが、答えてくれなければ修行を放棄しようと考えつつ、釈迦にこれらについて問うたのです。哲学・思想ランキング
2018年08月24日
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「霊魂論」神秘学154 上座仏教の釈尊の根本思想を釈迦が語った直接の説法の骨子を十一項目に要簡略化して記述しており、第(三)には人間生来に置ける一切の平等、アーリア人の信仰形態を引き継ぐバラモン教と其の発展系であるヒンズー教でも解消され得ていない生前生後の転生に亘る身分の階級教説を否定し、人間が生まれの境遇には作用されず、其の個人の実践のみが尊ばれることを説きます。即ち、当時のバラモンの階級制度を否定しカースト制度そのものまで否定しています。第(四)には人間は修養にあっては、只管(ひたすら)に実践のみを目指し、議論の優劣を問わない態度に努める。とくに形而上(けいじじょう)学的な問いに答えず加わらないこと。詳細に述べれば、釈迦は人間個々の人生問題の解決に直接役立たないない形而上学的問題、たとえば世界の有限・無限とか、創造因とかについては質問されても解答せず、回答・言及を避けたことを言い、仏説経典に回答内容を記せないの理由で、漢語で「無記」と表現され。主として、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来/One who has thus gone)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、こうした態度がとられたとされるようですが、勿論のこと、釈尊自身は「覚り」を得るためには形而上学的思考が頭に渦巻いていた筈であり、此の点で、釈尊を哲学者ではなく結果を信じて実践しろのピタゴラス教団的な宗教化へと踏み込ませており宗教化されます。何故なら、釈尊は真相の探求者ではなく救済者の道を歩むからです。哲学・思想ランキング
2018年08月23日
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「霊魂論」神秘学153 ギリシア最大の哲人ソクラテスや中国の孔子と同様に自らは著作を残さず伝聞記述である釈迦の直接の説諭は確定し難いものがありますが、原始仏教の教説の諸項目の原型乃至核を見極めるには対機説法の記述に一応の真実性は置いても良かろうと思われます。何故ならソクラテスの弁法に自らの思考や解釈を上乗せしたプラトンの記述とは異なり、上座仏教は釈迦の言語に解釈を加えるよりは其の儘に表現することに努めていることは大乗の祖「龍樹」の上座仏教を小乗仏教と呼称せしめることからも明らかでしょう。大乗の祖「龍樹/ナーガールジュナ」其れはプラトンの立ち位置にあります。上座仏教の其れ等は釈迦の直接の説は確定し難いものがありますが、上座仏教は釈尊の根本思想を十一項目に簡略化して記述しています。(一)現実の直視、それによる多様性の其れはの承認、それは寛容につながる。詰まりは、見ざる聞かざる言わざるの猿ではなく、一旦は其れ其れの環境を認容して解釈すればある程度は受け入れられ寛容になれるというのでしょう。(二)心を静安にし、主体的な自己の確立を求める。しかし我執(がしゅう)と自己中心とはすべて捨てる。此れは狭い了見の欲望やなどには囚われず、心を開き寛容から自己の世界を見い出せと問うているように思えます。哲学・思想ランキング
2018年08月22日
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「霊魂論」神秘学152 ヨーガにおいても解脱とは輪廻転生からの解放「真我」は、即ち世界の理法である「神の我」との合弁を意味します。但し、仏法との相違は敢(あく)まで自我の深層に眠る「真我」を追求することにより解脱を得て「神我」と融合することに目的が定まっています。ゴータマ・シッダールタの思考は此れに時間観念を導入したことに特異性が認められます。「過去を追うな。未来を願うな。過去は既に捨てられた。そして未来は未だやっては来ない。其れ故に現在の事共を、其れが在るところにおいて観察し、揺るぐことなく動ずることなく、よく見極めて実践せよ。只々今日成すべきことを熱心に成せ。」と述べたとされるが、ギリシア最大の哲人ソクラテスや中国の孔子と同様に自らは著作を残さず伝聞記述であるため私感が入り込み其の儘に受け入れ難いこともありますが、原始仏教の教説の卑近な喩え等々で、其の都度、臨機応変に其々の場に相応に適した教えを説いた相手の精神的能力である機根や性質などに応じてそれに相応しい手段で説法する対機説法を記述すると云うよりは記録した上座仏教の教説には一応の信頼が置けます。詰まりは、釈尊は医者が患者の病気に応じて薬を与えるのを,仏が教えを受ける人間の素質・資性・能力・要求に応じて法を説くことにたとえた「応病与薬」の医者の王であり、病を煩悩に喩え、薬を法に喩えとする「大般涅槃経」第25はまさに釈迦の説法の仕様であり工夫でであったのでしょう。「覚り」とは直覚するものであり、結果は表意することは出来ても、アルキメデスが発見した物理学の法則で「流体中の物体は、その物体が押しのけている流体の重さ(重量)と同じ大きさで上向きの浮力を受ける」という結果は表意することは出来ても、何に故を以って覚醒したのかと同様に、言葉にし辛いものがあります。其れ故に釈尊も「覚り」そのものを表現することに以後の後生を費やします。哲学・思想ランキング
2018年08月21日
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「霊魂論」神秘学151 輪廻転生が其のものが無きものだと断定するのであれば、生を受け産まれながらの「悪」や「善」を考慮するのは遺伝子科学や精神科学の範疇に属します。人間の肉体を身に纏う精神の受胎を遺伝子のみに限るとすれば、ナチスの優生学である劣等遺伝子論や日本の其れに見倣った優生保護法が正当性を持ち浮生します。詰まるところは、精神の善非は生物学的遺伝子の不完全さが成さしめる結果であり、人間の精神意識が意志によっては改変出来得ないことになります。日本の刑法においても其の在り処(ありどころ)によっては刑には処さず治療する手段が取られています。然し乍ら、人間理性を理解しつつも欲情や性状から不善に及ぶ人間は不善行為の前後を問わず、信仰・信教の類いではなくヨーガの実践が役立つかも知れません。信教を前提としない自己の在り方を見詰めるヨーガの修養法は理性を身に纏った人間には深淵で通常生活では得られない真相を得さしめるかも知れません。ヨーガから完璧に宗教色を排し信教の自由を鑑み取り組みに教育制度が成功すれば、病的精神疾患を別にすれば、理性を身に纏った人間の増加に寄与する期待が持てます。哲学・思想ランキング
2018年08月20日
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「霊魂論」神秘学150 シッダールタの修養から得た解脱ではあるが、注意が肝要なのは、それはシッダールタ(目的を達成した者の意)の生前成仏を成した釈迦が、自分が到達した解脱の道をそれまでのバラモンを始め、直接師事した二人の師の道よりも認識しつつも「上位に位置」させていることです。解脱の「正道」(しょうどう)とは、人が悟りにいたる方法に関するが、釈迦は自分の師を含むそれ以前の先人たちの方法を否定はしていない寧ろ認容しています。それよりも自己シッダールタの達した道のほうが「上位に在る」ことを確認している。これが釈迦一人のみ「正道を知る」ことになるのであろうが、この釈迦の論法は、西洋の旧教から新教キリスト教、アッラーを奉じるモーセやイエスといった一連の預言者の系列で「最後の預言者」と位置づけられるムハンマド(Mu?ammad)乃至マホメット(Mahomet)とも呼称されるイスラム教に似て、それ以後の仏教に受け継がれて、様々な名僧たちが、自分の到達した解脱の方法こそがそれまでの全ての道に優る、こう主張する根拠となっているのではないのかとも憶えます。更にキリスト教とは違って、仏教には何故に「正典」と呼ぶべきものがないのか。其の要因は、抑々(そもそも)初めから、釈迦の解脱体験とこれを伝える方法論に端を発しているのではないかと想われます。小乗から大乗への移行も、インド仏教から中国仏教へ、さらに日本仏教へと移行する過程において、仏教が、その教団の直接の開祖を始祖と崇める数多くの「始祖仏教」から成り立っている理由は此の成り立ちが要因だと推測されるのです。哲学・思想ランキング
2018年08月19日
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「霊魂論」神秘学149 シッダールタが「覚り」を得て生前成仏して釈迦となり「真理」は「深遠で、見難く、知り難く、寂滅しており、妙勝であり、考察し難く、微妙であり、智者のみが知り得るもの」であるから、貪りに染まり、闇黒の塊に覆われた人々には見ることが出来ない」。解脱した釈迦は、輪廻の生存は価値を見出すことがで出来得ず、「嗚呼、世間、煩悩の世界は滅びる」と叫ぶ。然るに、世界の主(あるじ)である梵天が釈迦の前に現われて、釈迦に向かって合掌して「幸あるお方が真理をお説きくださいますよう。生まれつき汚れの少ない衆生もいます。彼らは真理を聞かなければ退歩しますが、仮に聞くならば真理を了知するものとなるでしょう」と語ったとあります。シッダールタの林野の修行の師であったアーラーラ・カーラーマは、輪廻から解脱するためには欲望を滅すればよいと考え、次いでシッダールタの師となるウッダカ・ラーマプッタは、解脱への想念を持つだけでなく、想念そのものが「あるともないとも言えない境地」に達する時に解脱が可能だと信じシッダールタに説き聞かせます。然し乍ら、シッダールタは、そのどちらの師からも解脱を得られなかった。然し乍ら、悟りを啓いた状態である仏、世界と一体化し悟りとはなにかを知り「もしも今自分が悟った真理を聞けば、二人の師たちも速やかに了知しただろう」と語ります。哲学・思想ランキング
2018年08月18日
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「霊魂論」神秘学148 仏教用語に知識を目、修行を足に例えた「知目行足(ちもくぎょうそく)若しくは智目行足とも書く」が見られるように、 悟りを得るためには知識と修行のどちらも必須であ、仏の智慧を得るためには譬え悟りを得た後においても、日々暮らしの中で、心身の調和の取れた「八正道」に基づく正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という「中道」を心懸けなければ、悟性が覚ったものは夢幻と化します。シッダールタは覚りを得た後も、言語では言い表し難い「正覚」を言語表現出来得るために「中道」を心懸け修養にはげみます。法句経(ダンマ・パダ)においては、「まさに智はヨーガより生じ、ヨーガなくして智は滅ぶ。その道理を知りて、ヨーガを行じ、智を増大せしめよ。」ヨーガの行を必須のものと捉えているのです。ヨーガと仏教、その後のヒンズー教は、古代のヴェーダ教典や、ウパニシャッドの思想を背景としながら、相互に影響し合い発展してきたのが経緯です。やがて8世紀に「不二一元論」を説くシャンカラによってそれらの流れが理論的にも統一されインドの宗教及び哲学思想の中軸を担います。哲学・思想ランキング
2018年08月17日
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「霊魂論」神秘学147 仏陀の説法解釈に依れば「生老病死」、充たされない欲求の結果から齎される「憂悲苦」を「一切皆苦」と捉え、其の修養法を八正道として薦めます。即ち、正しい見解・正しい思い・正しい言葉・正しい行い・正しい業い・正しい努力・正しい願い・正しい瞑想の実践です。「正しい」とは調和のとれたということであり、それを仏教では「中道」といい「八正道」とも称します。正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という日常の暮らしの教えが八正道のそれです。ヨーガの見地からすれば、仏教は「三毒」と呼ばれる「貪り(タマス・グナ)」と、「怒り(ラジャス・グナ)」と、「無知(サットバ・グナ)」から生まれる人生の苦しみから解放されるために、「この世の全てのものは変化する諸行無常」「世界規範に例外はない諸法無我、それ故、自分自身も例外ではない理法」「この欲界への執着を落とせば自在無碍・空となる涅槃寂静」の「三法印(dharmamudr? trilaksan?)」を悟る「智慧のヨーガ(ジュニャーナ・ヨーガ)」の傾向を多く持っていることを指し示しています。「正見」とは「三法印」そのもので世界を理解することが基底になければ成り立たないと説く論法です。哲学・思想ランキング
2018年08月16日
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「霊魂論」神秘学146 仏陀の人間世界を見つめる心眼は、人生とは生きる苦しみであり(生)、老いる苦しみであり(老)、病による苦しみでもあり(病)、死による苦しみたる状況の(死)に常に脅かされ。心はいつも々、会いたくない人に会わねばならない憂い(憂)や、其の逆に、会いたい人に会えない悲しみ(悲)や、欲しいと思うものが得られなく充たされない欲求の不足から来る苦しみ(苦)や、常に人間の肉体が身に纏う生理的な欲求が次々に生まれ苦しめられ平安がない悩と精神の統合的な苦悩を紐解き明かせて見せます。「一切皆苦」の苦しみには原因があり、一人一人の生命の中には、個体の受精以前の32億年を越える生命の歴史の記憶である業(カルマ)があり、又、生まれてからも環境や日常生活の過ごし方の積み重ねの結果が現在の私達の姿であることを「十二因縁の法」を以って説きます。其の故を以って、これらの苦しみを減じるには、其の因である日常の暮らしや習慣を改め世界規範に則(のっと)って正しいものにする事が良い結果を生み解脱を得る「四諦」を説きます。哲学・思想ランキング
2018年08月15日
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「霊魂論」神秘学145 カピラ城を出たシッタルダが29歳の折に宮廷を出たあと、林野を遊行した行の旅路でシッダールタは、「煩悩を捨て、ものに執着せず生きること」を薦めるアーラーラ・カーラーマ仙人と「すべての思いを否定し、無念無想の境地を目指すこと」を説くウッダカ・ラーマプッタ仙人という二人の師と出会い学ぶも、修行において「無所有にして無色界そして寂静の境地」、事実に基づいた記憶であれ、夢であれ、それらを生む地水火風空の五大であれ、万物は転変する自我の幻影(マ-ヤ)と説く「非想非々想の境地」瞬くのまに両師の境地に達したシッダールタはこれには飽き足らず、なおも生きる意味を問いつづけ、かつて誰も体験しなかったと云われるほどの様々な苦行や断食行を実践し、激烈な瞑想したと云われています。まさしくそれは当時のヨーガの行そのものでした。但し、全てのものは連続しながら相互依存していて、変化して循環するという「空」の思想と、それ故、修行によって、業(カルマ)による輪廻転生から解脱できるのとする無我」の思想は当時のウパニシャドでは、永遠不滅なる霊魂「真我(アートマン)」の存在が宗教思想の中心になっていたので、仏教は無神論の一種と考えらましたが、ヨーガに思想の影響を与えたことは歪みえません。哲学・思想ランキング
2018年08月14日
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「霊魂論」神秘学144 ヨーガの修養法を身に付け、当時のインドでの最高の学識を授けられたゴータマ・シッタルダとヨーガの関係は単略的には説明し得ません。ヨーガがシッタルダの覚りへと導いた影響の大小。シッタルダが生前成仏した説法のヨーガへの影響の大小たるものは尋常に片付けられるものではありません。其の仏教、現代から大凡2500年前頃に神話化された記述では 、奇なるか、インドにおいて、夜明けの明星がひときわ輝いた、。暁の時、菩提樹の下にて「奇なるかな将又奇なるかな、天地一切のもの、はじめより仏の妙相を具す」と深い瞑想より目覚めたゴータマ・シッタルダの悟りによって始まった仏教を讃えていますが、シッタルダが29歳の折に宮廷を出てから後の6年間の厳しいヨーガの修養法を積み重ねた修行を経て達成されたものであることは、釈尊の「悟覚」した目覚めのときの言動では自己を苛む修行は覚りでは到達し得ないことを述べますが、其れも6年間の厳しいヨーガの修養法を終えた上での言動であることには注意が肝要です。カピラ城を出たシッタルダが、29歳の折に宮廷を出るまでに天地開闢についてのインドの神話や、祭祀の方法や、祈りの言葉について書かれたアーリヤ民族系の古典である「ベーダ聖典」を学び、さらに当時の奥義書と言われる、不滅霊魂の業による生死輪廻転生を説く「ウパニシャド」思想をすでに学んでいたことは当時のインドの最高の教育環境をにあったことから類推すれば疑いは挟めません。哲学・思想ランキング
2018年08月13日
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「霊魂論」神秘学143 クンダリーニが気道の中輪を上昇する或る特定の状況とは、ヨーガに限らず多種多様です。通常一般に知られているのはヨ-ガは勿論のこと、瞑想や断食(ファスティング)、環境によって心や体に負担がかかっている状態である「ストレス」や大きな精神的ショックや恐怖が原因で起きる心の傷である精神的外傷である「トラウマ」、宗教儀礼で屡々使用された御香の類いの幻覚剤、もしくはよく耳にする臨死体験(Near-Death Experience)などがトリガーとなることが多いのは認識されています。クンダリーニとは、凝縮された原初の生命の基の女性の力を想わせます。クンダリーニが解き放たれると、ナディと呼ばれるサブチャネルが開き、チャクラとチャクラをつなぐ縦のパイプが形成される。仮に細いホースに一気に水を流したとすれば、高圧の水によって、ホースはまるで蛇のようにうねり波打つ、同様に、非常に強いクンダリーニの 物事をなしとげる気力・活力・精力のエナジーが、チャクラを通って上昇させ肉体を波打たせる。クンダリーニはチャクラとチャクラが繋がる結果であるともいえ、チャクラが拡大するにしたがって、1つのチャクラの回転が、その上位または下位のチャクラを活性化させることはヨーガに限らず、異なった宗教や各種思想団体がそれぞれに異なる名称であれ、此の「目に見えない力」を認容しています。哲学・思想ランキング
2018年08月12日
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「霊魂論」神秘学142 人体に置ける気道である中輪のなかでもスシュムナー管は頭頂から脊髄の基底部へと通り、人体の中軸となり、天と地を貫くプラーナの通り道となります。宇宙の生命エネルギーであるプラーナは人体の中ではクンダリーニ・シャクティと呼ばれ、このスシュムナーの基底部で三巻き半のとぐろを巻いている蛇として隠喩され、また、此のスシュムナー管を通る生命エネルギーであるクンダリーニ・シャクティ(kundalini shakti)、ヒンドゥー教の伝説では、クンダリーニは蛇の女神として表現され、脊柱の最低部に眠り、第一チャクラの周りを3回半とぐろを巻くように眠っているとされ、人間の体に眠る熱源(エネルギー)であり、神聖なシャクティエナジーの現れを象徴、生命の無限の可能性、生きとし生けるものすべてに命を与える象徴です。クンダリーニが気道の中輪を上昇すると、人間の肉体が左右に自らの意思ではなく妙にぐねぐね動く自動操縦されているかの状態に入ります。特にヨーガが或る特定の状況を得たときにはクンダリーニエナジーが目覚め、脊柱にそって上昇し始め、チャクラを突き刺し、まるで、蛇のように波打ちながら気道を蛇のように波打ちながら開いて、細胞に蓄積し滞っているエネルギーを解放してい来ます。此のときの動きは時に激しく、痛みを伴うやもしれません。哲学・思想ランキング
2018年08月11日
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「霊魂論」神秘学141 チャクラの修養法としての一例をあげればクンダリーニ・ヨーガがあります。クンダリーニ、クンダリニと表記されることもあるクンダリーニ・ヨーガとは、瞑想を行う時などの手に意識してとる姿勢。姿態としてのポーズ、代表的なポーズとしては胡座(あぐら)で、親指と人差し指をつけるポーズであるムードラやハンタ「ロック」「締める」「縛る」といった意味かあり、フラーナの流れを外に漏れないように内側に締めつけ閉し込め等々を用いた特殊な体位法や呼吸法、瞑想法等の修行によって、より効果的にその眠っている生命力の源、クンダリ-ニ・シャクティ(女神)を目覚めさせ、それぞれのチャクラを活性化させ、眉間の部位(アジナ・チャクラ)で待っているといわれるシヴァ神(男神)と合体し、体内の歓喜のエネルギー(プラーナ)を宇宙全体に解放し、梵我一如(ブラフマン・アートマン・アイキャ)の体験を実現しようと発達したヨーガの体系です。このクンダリーニ・ヨーガといわれる中には、タントラ・ヨーガやハタ・ヨーガ等も入ります。このスシュムナー管を中軸にして、イダーとピンガラーという二つの拮抗したエネルギーの流れる代表的なナーディ管がチャクラをはさんで左右交叉しながら通っていると考えられています。恰も、現代医科学の交感神経と副交換神経の働きを指しているようでもあり、また、中空になった茎などをイメージするチャクラ「中輪」という微細体の管制塔でしょう。医科学的には、各種のホルモン体の位置が対応しているとも考えられていますが如何なものでしょう。哲学・思想ランキング
2018年08月10日
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「霊魂論」神秘学140 スシュムナー管とは、プラーナが通るナディーの一つの特性であり、ナディーの3幹線の中でも最も重要とされる中輪となるものですが、ナディーが気道という意味合いから思考すれば、プラーナは宇宙からの生命エネルギーです。プラーナはナディーを通ることで人間身体の隅々に及んで全体に行き渡ります。このスシュムナー管が頭頂から脊髄の基底部へと通り、人体の中輪となり、天と地を貫くプラーナの通り道となります。宇宙の生命エネルギーであるプラーナは人体の中ではクンダリーニ・シャクティと呼ばれ、このスシュムナーの基底部で三巻き半のとぐろを巻いている蛇と隠喩されています。またこのスシュムナー管を通る生命エネルギーであるクンダリーニ・シャクティは、スシュムナー管を通る生命エネルギーの中に7つあるといわれ、屡々蓮華の花に喩えられるチャクラである輪を経過し、次第にそれらを活発化させて開花させて行きます。蓮華の花に喩えられる「輪」チャクラは、修養法として身に付けた生活が行えれば、自然と徐々に活性化されて行くものです。哲学・思想ランキング
2018年08月09日
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「霊魂論」神秘学139 ヨーガにあっては生命の源は宇宙の気は等しくプラーナであると断言します。此の宇宙の気であるプラーナが人体を満たし、我々人間を宇宙の雛型である私を生かし、宇宙もまた私の雛型であると考えているのです。其の宇宙の気が人体を通る道をヨーガは「ナーディー」と呼称しています。サンスクリット語でいうナーディは、一般的には植物などの管状で、中空になった茎などをいうのですが、ヒンドゥー教のシバ派やヨーガに通じる密教では、人体内に存する神秘的な機能をもった脈管をいい、ヨーガでは微細体(プラーナヤマ・コー シャ)の次元の経路と考えられてます。其のナーデ ー、なかでも大切なルートは14本とされ、特に重要な幹線がスシュムナー管とイダー(月の気道)とピンガラー(太陽の気道)の3幹線となります。 ヨーガは此等に連関した特殊な瞑想法を生み出したのです。哲学・思想ランキング
2018年08月08日
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「霊魂論」神秘学138 ウパニシャッド哲学によればプラーナは、生活と意識の基本である。プラーナは魂であり且つ亦「神」である。此処で注目したいのは、西洋の亜細亜思想に博識であるスピノザの神の人間への様態延長論でしょう。あくまで人間精神は神の一部を共有するのであって人間霊魂は神に従属するのですが、プラーナは「魂」であり且つ亦「神」と共通するのであり、プラーナは宇宙のすべてのモノの生活の呼吸である。宇宙のすべての存在はプラーナによって生まれそして生き、死ぬときは宇宙の呼吸に吸収されるのではなく溶解するとしています。プラーナは宇宙のすべてのモノの生活の呼吸であり、プラーナは人生という車輪を中心として、プラーナは生気を放出している太陽・雲・風・地・およびすべての物質に充満しているものに溶解します。プラーナは宇宙の全てのモノの活動の呼吸であり、宇宙のすべての存在はプラーナによって生まれ、生き、死ぬときは宇宙の呼吸に溶解するとして人間霊魂を神と同根化しています。哲学・思想ランキング
2018年08月07日
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「霊魂論」神秘学137 ハタ・ヨーガが生理的な変調が生じるほど保々仮死状態の長時間の止息を要求するのは、プラーナが宇宙のあらゆるところに充満しているエネルギーであり、物理的、頭脳的、精神的、知的エネルギーとしての宇宙エネルギー、従いて活動する熱、光、重力、磁気、電気等々の震動エネルギーもプラーナです。プラーナにはすべてのモノに含有され、潜在しているエネルギーであり、危険なときには最高に放出されることからハタ・ヨーガは生理的な変調が生じるほど長時間の止息を要求するのです。プラーナはすべてのエネルギーの前に先ず動く創造し、保護し、破壊するエネルギー。活力・力・生命力・生活・精神、それらはすべてプラーナです。後期ヴェーダの時代の前500年頃までに編纂された文献の一つである「ウパニシャッド(奥義書)」はウパニシャッド哲学として世に名を成さしめます。ウパニシャッドとは「傍らに座る」という意味であり、バラモンの師から弟子に伝承された奥義を編纂したものですが、バラモン教が形式的になり、バラモンがたんに祭祀を司る役割だけになっていることを批判し、内面的な思索を重視し真理の探究をすすめる必要に迫られ、当時のバラモンの堕落を批判、ヴェーダの本来の姿である宇宙の根元について思惟し、普遍的な真実、不滅なものを追求した成果です。現代日本の仏教の自ら「葬式坊主」の名を恥じない現象批判と対比すれば解り易いと思います。ウパニシャッド哲学によると宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間の本質であるアートマン(我)とを考え、この両者が究極的に同一であることを認識すること「梵我一如」こそが真理の把握であり、その真理を知覚・認識することによって輪廻の業(ごう)、すなわち一切の苦悩を逃れて解脱に達することができると思考します。此のことから世界最古の深い哲学的思索として認識されます。此の内面的な思考・思索が次代のバラモン教に対する二つの宗教である仏教とジャイナ教を誕生させる誘因となります。哲学・思想ランキング
2018年08月06日
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「霊魂論」神秘学136 ヨーガが人体を宇宙にみたてる想念は梵我一如の思想が基底に置かれていると観想されます。ヨーガにあっては生命の源は「宇宙の気」プラーナを根幹とすると捉えています。即ち、詳細に探ればハタヨ-ガ・プラディーピカーが浮上します。ハタヨ-ガ・プラディーピカーは蛇神であるアーディ・セーシャをヨ-ガの支柱にヨーガにおける呼吸法・調気法であるプラーナーヤーマをヨ-ガの心臓部に位置させます。其れ故に、プラーナーヤーマなくしてヨ-ガは存在しないとまで述べられています。「ハタ・ヨーガ」においては、それは一般人が思い描くような生やさしいものではなく、発汗や痙攣など生理的な変調が生じるほど長時間の止息を要求するものであり、門外漢が遊び半分で行なえば極めて危険なものです。通常一般的人間の思考にあっては「神」について説明・説得・証明するのが極めて困難なことからみても、同様に、プラーナも何ものであるかを説明するのは難しいと言わざるを得ません。哲学・思想ランキング
2018年08月05日
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「霊魂論」神秘学135 ヨーガの流れは10世紀を経過する頃からインドの思想界は文書・教本・教典に解釈を顕されたものから、自己啓発的な内的世界の探求を方法論としては表現するものの探求は自己啓発の問題となっていきます。顕教的、心理的な自我と世界に対する探求から、密教的な理屈を超えた其の人間自身の感性である精神深層の霊魂と世界の同根論が生じます。顕教的、精神心理的な世界との繋がりから、密教的、人間感性的な自我構造、人間と世界を同視化する人間構造世界論が浮上します。詰まりは、私個人と宇宙の同一化です。現世で解脱を求める者は、性的儀礼、死体の儀礼という修行を通して自己の絶対的自由を確認するタントリズムは「タントラ・イズム」、もともとの語源は「縦糸」を意味するサンスクリット語であり、糸が紡がれて布になるように、教義が一体化したもの、を意味します。具体的には「タントラ」という宗派があるわけではなく、ヒンドゥー教でいえば「神」即ち「世界}と一体化する方法論です。13世紀頃になると、ヨーガにおいてはその密教的タントリズムの特徴をもった「ハタヨーガ」の教典が聖者ゴーラクシャ・ナータによって説かれ、その後15~16世紀頃には「ハタヨーガ・プラディーピカ」や「ゲーランダ・サンヒター」や「シヴァ・サンヒター」などが成立してきます。我々がよく目にするインド寺院の性合神が像異味するものは、一方は女神であり決して人間どうしの交合を意味するものではなく神との合一を意味する象徴なのです。哲学・思想ランキング
2018年08月04日
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「霊魂論」神秘学134 インダス文明は只々滅んだのではなく、浸入してきたアーリア人種との混血化も進み、其の思考法はインド独自の発達が進んだものと見られ、思想だけではなく血脈的なものがヨーガやバラモン・ヒンズー・仏教哲学の修養法に発展したものでしょう。古代から伝承され、発達してきたヨーガの思想と行法は、紀元前にはヨーガの行法から解脱を得た釈尊を生み、亜細亜の極東日本では禅として根ざしています。8世紀にはヴェーダンタの学匠である聖人シャンカラ(700~750頃)によって仏教やヒンズー教を統一する教えであるこの世はブラフマンという絶対の現われであるという「不二一元論」が説かれ、此れが後世のインド宗教哲学の中心思想となります。ヨーガの史的流れは其の後も止まず10世紀を経る頃には、完全に自由な行為する主体の復権、自己と”人格的”絶対者の同一性を求め、自らの本質を認識し,適当な修行を行うならば,神としての自己のあり方に戻るとする死ぬまで毎日マントラ(呪(じゅ)/Mantra)を唱えて神を供養すれば自分自身と神との一体性を修得するとされるインド思想の重要な概念の一つ。サンスクリットの語〈タントラ〉(枠組み,教義などの意)に英語のismを付けたもの。仏教を含め,インド世界の多くの宗派で見られる。明確な定義はできないが思想の流れとして、完全に自由な行為する主体の復権と理解されています。教義としては,自己と人格的絶対者の同一性を求めることであり、自らの本質を認識し、適応の修行を行うならば、神としての自己のあり方に戻るとされる。即ち神との合一です。教義の実践のためには師への入門式が重要で,これにより死後の解脱が保証されるとします。そうであっても死ぬまで毎日マントラ(呪(じゅ))を唱えて神を供養ことが義務となり、これにより自分自身と神との一体性を修得するとされ、現世でも解脱を求める者は、性的儀礼・死体の儀礼という修行を通して自己の絶対的自由を確認するタントリズムが浮上します。哲学・思想ランキング
2018年08月03日
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「霊魂論」神秘学133 インダス文明(Indus Valley civilization)、アーリア人の戦いの神インドラが先住民の「城壁に囲まれた都市」もしくは「砦」を攻撃したとの記述が古史に記載されていることから、襲撃者の正体はその頃にインダス地方に侵入してきたアーリア人ではなかったかと推定されています。インダス文明の担い手は南インドへと追いやられます。古代から伝承され発達してきたヨーガの思想と行法は、此のインダス文明に遡るとする説も根深いものがあります。然し乍ら、実際的には紀元前後にヴェーダンタ哲学を基盤にし、「人生の苦しみからの解脱」を説く「空」なるものの悟りの教えである仏教の流れを汲んだ影響を取り込みながらも、次第に観照者たる純粋精神(プルシャ)を純粋現象とする根本原質(プラクリティ)の二元論を説くサ-ンキャ哲学が理論的支柱として「ラージャ・ヨーガ」の体系であるヨーガスートラを6世紀頃にヨーガの完成へと導き現代に至ります。哲学・思想ランキング
2018年08月02日
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「霊魂論」神秘学132 パタンジャリが説いたアシュタンガ(八支則)の最終段階である第八段階、もはや人間個々の自我の認識領域を越えたサマーディ「三昧(さんまい)」、「生命の智」を齎す領域、覚りの領域に限りなく近付き浸入していきます。「梵我一如」の心境「神我」と「真我」を区別し得ない心境に到達するのです。仏教で云う我執を放棄したことによる無我の境地を手中にし「自己」や「他者」、将又「内界」や「外界」は意味をなしません。仏教、なかでも大乗の祖、仏教哲学の第一人者ナーガールジュナが「空論」で解き明かそうとした「空」が俎上します。「空」とは無でもなく永劫不変の有でないのは勿論のこと、西洋哲学の何がしろの「在る」でもなく、直感的洞察や啓示の働きの場として、因果や空間を超えた神的で人間の想念や意識を超えた見えざる絶対意識の領域です。謂わば「有と無」超えた想定外の世界です。但し、ヨーガのサマーディは宇宙的意識が働く空間であり直感的洞察や啓示の場として捉えています。人間精神が唯一絶対の理(ことわり)、宇宙的世界意識との接点、「神我と真我」を合一の場として認識し、自己の場としての再認識と精神生命の連鎖を合点し感涙の瞬感が訪れます。アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)の開示される領域に踏み込んだ証(あかし)なのです。ヨーガ・スートラは、この体験を「真我がその周囲を取り巻いている自然的存在と自分とを混同していた過失に気づいて、その束縛から脱出することである」と説明していますが意味は深奥伸長です。ヨーガ・スートラの八支則についての構造と行法は形而上哲学を追求するのにも一考の価値がある筈です。哲学・思想ランキング
2018年08月01日
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