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「霊魂論」エチカ詳解67 スピノザは誰しもが否定出来得ない数学的演繹法で以って世界の真相を語ろうとします。厭くまでに物理的にスピノザのコナトゥスを捉えるとき、スピノザ批判の先鋒にあるコナトゥスの一元的理解に歯止めをかけるとした批判が出るのも時代背景からは致し方ありません。其の代表ヘーゲルによるスピノザ批判の一翼を担ったのは、スピノザ自身が世界観の立ち位置に置いたコナトゥスの原理を、スピノザ自身が自ら排除していると酷評します。ヘーゲルは、スピノザのコナトゥスには、限りなく肯定する論理しかなく、「もの」と「もの」の闘争を一切無視しているということを掲げます。二者択一で展開されるヘーゲルの弁証法思想の根底にある否定の概念とは、和解することのできないもととものの闘争であり、主人(あるじ)と奴隷の弁証法にみられるような根本的な歪なのです。この歪が事象の根底にあり、統一概念の成立は有り得ないと見ることから来る批判です。哲学・思想ランキング
2018年12月31日
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「霊魂論」エチカ詳解66 スピノザが哲学の根幹に置かねばならなかったコナトゥスという概念は、彼スピノザが世界内存在の有りと有らゆる全てのものを、「唯一なる実体」である神の様態と看做しているからで、あるものを他のものから隔てさせる原理は、物体の運動原理にあるとします。つまり、ある物体の運動または静止の比率(ratio motus et quietis)が、「もの」としての個体性を確立している。同様の運動と静止の比率を持つものは同一の「もの」と看做され、異なる比率をもつものは、異なるものと看做される。アリストテレスの思想の「形相論」の枠内でも、同様のことを云うことが出来得ますが、其処に見られる思想的解釈の大きな違いは、スピノザの思想には、厳密な個体の輪郭が存在しないということを強調して示していることです。スピノザの世界観にある信念は、世界内に存在する統べての「もの」を唯一なる実体の様態と看做すことから、究極的には世界内に存するありとあらゆる様態は、一なるものとして看做すことが出来得ることに尽きます。個体と個体を隔てる運動と静止の比率も、常に不動的に保たれるのではなくて、或る一定の条件下では、今その様態にあるだけであって、ある個体が他の個体と同化して、一(いち)の運動と静止の比率を構築することもあるだろうし、且つ亦、ひとつの個体のうちに異なった運動と静止の比率を包摂することによって、相互に異なった個体を生み出すこともある。個体性という概念は、スピノザにとっては限りなく、すべてのものを唯一なる実体の様態と看做しているゆえ、究極的にはあらゆる様態は、一なるものなのです。個体と個体を隔てる運動と静止の比率も、常に不動的に保たれるのではなく、ある一定の条件下において、そうであるだけであって、ある個体が他の個体と同化して、ひとつの運動と静止の比率を構築することもあるだろうし、また、ひとつの個体のうちに異なった運動と静止の比率を包摂することによって、ふたつの異なった個体を生み出すこともある。ゆえに、個体性という概念は、スピノザにとっては限りなく曖昧な観念ものであると説きます。哲学・思想ランキング
2018年12月30日
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「霊魂論」エチカ詳解65 スピノザが哲学の根幹に置いたのはスピノザが哲学の根幹に置いた、「エチカ」のなかにも此のコナトゥスという概念は根幹にありますが、原義は努力・衝動・傾向・性向・約束・懸命な努力であり心の哲学や形而上学で使われ時事変化する思想のなかで語彙は変化します。事物が生来持っている、存在し自らを高め続けようとする傾向、エントロピーの逆ネゲントロピー (negentropy)、 生命などの系がエントロピーの増大の法則に逆らうように、エントロピーの低い状態が保たれていることを指す用語で哲学的には恒常性を意味しますが、思想史では心的実体、物理的実体、あるいは両者の混合を含めて多くの異なる定義や論じ方が哲学者によって幾千年亘り定式化されてきたものであり原義が持った意味は曖昧となりスピノザに至ります。スピノザは主著「エチカ」に置いては新たに此のコナトゥスという概念を彼流に再構築します。哲学・思想ランキング
2018年12月29日
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「霊魂論」エチカ詳解64 スピノザの主著「エチカ」は目的論を排除しながらも、とある「目的概念」が見え隠れしています。形而上学と倫理学の目的論を排除の間の矛盾性を埋めつつ両者を連結する鍵となるのが、コナトゥスによって規定される目的指向性、すなわち存在する個物が有する自己保存への努力です。「徳の基礎は、自己固有の存在を維持しようとする努力そのものであり、また幸福は人間が自己の存在を維持しうることに存する」従って「エチカ」の構成には、スピノザが哲学の根幹に置く、コナトゥスという概念が、存在が自己を肯定して、自己を確立していく経緯を指し示しています。何(ど)の様な存在にもコナトゥスは備わっており、コナトゥス抜きには、個々の存在を理解することは出来得ないとします。崩壊に向かうエントロピー(entropy)に立ち向かい生命などの系がエントロピーの増大の法則に逆らうようなものを思い浮かべれば妥当でしょう。目的論を排除しながらも、とある「目的概念」が見え隠れするのは此れに起因します。倫理学に置ける基礎は「徳の基礎は、自己固有の存在を維持しようとする努力そのものであり、また幸福は人間が自己の存在を維持しうることに存する」とするのは自然即ち「神」の絶対認識を意識しており、自然法則の根元の「絶対有」を彷彿させてくれます。此の論からすれば、大宇宙はビッグバンに始まり再び「核」となり大爆発を繰り返すのか、将又、大宇宙は日本の祭祀の露店に見られるペンシル バルーン(Pencil balloon)様の構成になっているのか、大宇宙の無限は見かけ上だけであるのか、繰り返しを行うのか。現代のスーパーコンピュータの更なる発展に期待されるのは、哲学の背景に科学を、科学の背景に哲学が合同し共に呈された疑問をを解消することでしょう。哲学・思想ランキング
2018年12月28日
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「霊魂論」エチカ詳解63 自己の思考の基礎に演繹法、其れもベーコンの帰納法対比されるデカルトの演繹法とも異なり、まるでユークリッド(Euclidean Algorithm)数学を想わせるスピノザの主著「エチカ」の方法論である演繹的な説明原理は1部の「神について」に始まり、第2部「精神の本性と起源について」、第4部「人間の屈従あるいは感情の力について」、最終第5部の「知性の力あるいは人間の自由について」の何(いず)れもが、一には先ず定義に始まり、公理、定理、証明の連鎖から組み立てられ、其の構成はユークリッド数学論理其のものです。スピノザは何に故に此の方法論理を取ったのであろうか、彼自身にとっては唯一必然的な方法であったことを理解することが非常に「エチカ」を読解する上では重要なキーポイントとなります。根本的なエチカの論理は我々を覆う世界の実体は「神」存在其のものであり、其の属性が世界内の全てに十全に満たされ事物は「神」の実体であり、決して他者は存在しません。大宇宙に人間だけが神の属性である意識を持つとスピノザが思考するから、我々の意識は神の意識様態の延長としたものであり、且つ、神の絶対意識が特異化したものが、我々人間の理知及び精神に齎されたものなのだから、「神の意識の延長」としての全たき精神を掴み獲得すれば、おそらくは人間にも「神存在」が見えることはなくとも共鳴する「何もの」かを得ることが出来得るでしょう。スピノザは其れを人間の理知だけではなく倫理から実践することを求めます。「神存在」を知ることは神からは手は延べられなくとも「人間」は至極の喜びを得ます。哲学・思想ランキング
2018年12月27日
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「霊魂論」エチカ詳解62 スピノザの主著「エチカ」における目的論とコナトゥスですが、概略して二つの意図を目論んでいます。一には決定論的世界観の提示であり、更なる一つは「エチカ」その名が示す通り倫理学の確立です。然し乍ら、「エチカ」前半と後半に区切るこの二つの論理は一見相反するとも思えるほど異なっています。前半部では全ての自然的事物の存在及び作用を、「神とその様態」が形づくる作出原因の必然的な因果系列を追々説明しながら、同時に目的原因といった作出原因以外のあらゆる原因性を名目上は全てを排除しています。「自然は何の目的も立てず持たず、且つ又、全ての目的原因は人間の想像物以外の何ものでもない」と断言します。片やその一方では、「エチカ」全体の到達点ともいえるエチカ第五部「知性の力あるいは人間の自由について」においては、受動的感情によって左右されない平静を賢者の生活として示しながら、「エチカ」の示すアリストテレスに始まる倫理学がこうした状態に到達するための方法あるいは道程として理解されるべきであることが述べられています。つまりスピノザは此の項で、受動感情への隷属からの解放という、目的原因といった作出原因以外のあらゆる原因性を名目上は全てを排除しながらも我々が到達すべき一定の目的の存在を率直に認めて、其れを前提とした自らの倫理学を構築するのです。哲学・思想ランキング
2018年12月26日
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「霊魂論」エチカ詳解61 今日現代ではコナトゥスでWEBで画像検索してみても思想家はスピノザのみがヒットします。初期のコナトゥス(Conatus)の語彙は、用法が古代ギリシア哲学の概念に基づいていたこともあり専門用語でしたが、形而上哲学に関連しない思考家と呼称される者が盛んに「コナトゥス」を拡大解釈し、独自の解釈をこの概念に乗せ、それぞれが別々にコナトゥスに意味を乗せ上書き発展させたので、専門用語として使うだけでなく日常的な言葉として一般的な意味が付され専門的な意味ではめったに使われないものとなっています。今日では、「コナトゥス」は専門的な意味ではめったに使われない、というのは近代物理学ではコナトゥスに取って代わった慣性や運動量保存則といった概念が使われるからです。然し乍ら、この「コナトゥス」という術語は、「誰もが自分の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。」名言アルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer/和名ではショーペンハウエル、ショウペンハウエルとも呼称/1788年-1860年)、虚無主義とも取れる実存主義「過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える。」フリードリヒ・ニーチェといった19世紀から20世紀の顕著な思想家に影響を与えている事実は霊魂の有る無しを語るにも一つのキーポイントとして重要です。哲学・思想ランキング
2018年12月25日
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「霊魂論」エチカ詳解60 コナトゥス(Conatus)は、音韻をより正確に音写すればコーナートゥスとなります。当初生まれた原義の語彙は努力・衝動・傾向・性向・約束・懸命等の努力を意味するものであり、古史西洋の哲学の心の哲学や形而上学で使われた術語で、事物が生来持って存在し、自らを高めんとする傾向、近代では、心的実体や物理的実体、或いは両者の混合を指し示しますが、数千年に亘ったって幾説もの異なる定義や論理が変遷し編集され定式化されたものです。17世紀の哲学者のルネ・デルト、バールーフ・デ・スピノザ、ゴットフリート・ライプニッツ、トマス・ホッブズや彼と同時代の経験論者たちが言う語彙を持つ言葉です。「コナトゥス」は生物の本能的な「生きる意志」を指し示したり、運動と慣性に関する様々な形而上学的理論を指したり、また屡々、此の概念は汎神論者の自然観では神の意志と結びつけて考えられること多々あります。此の概念の定義が精神と肉体に分割されたり、遠心力と慣性について分割されたりする議論する際に論上で使われることからの由縁でしょう。此の「コナトゥス」という術語の語彙は2500年間以上もの歴史を通じて発展発達させてきた意味と分類におけ範疇を拡げた概念の積み重ねです。範囲の意味と分類におけるわずかな一つまみの連なりのようなものであるにしても。古代思想史を見ても過去から近代・現代と此の術語を採用してきた哲学者たちは其れ其れが自らの独自の解釈をこの概念に上乗せ、それぞれが思想を伴ってこの術語「コナトゥス」を発展・展開させたので、現在では明確で普遍的に受け入れられた定義を持たない術語と成り至っています。哲学・思想ランキング
2018年12月24日
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「霊魂論」エチカ詳解59 現代の我々が直面する課題「コナトゥス(conatus)」とは、一体全体何を表すのでしょうか。哲学概念では存在者に内在してそのものを動かす原動力、傾向を示します。古代ストア派を中心とする概念でしたが、近世にて概念を発展させて復活します。スピノザでは、意志や衝動等々、存在を保とうとする努力を云いますが、イングランドの哲学者である社会契約論のトマス・ホッブズ(Thomas Hobbes/1588年-1679年)は、スピノザとともに唯物論の先駆的思索を行った哲学者の一人である彼は、中世の推力の概念を受けた物理学的意味「コナトゥス(conatus)」を用いています。更に、稀有の天才肌で12歳のときにはほ独学でラテン語に習熟。1661年ライプチヒ大学に入学,法学と哲学を学ぶ。1666年アルトドルフ大学で法学博士号を取得。1667年からマインツ選帝侯に仕えて政策立案などを行なうドイツの哲学者にして数学者、科学者にしてまた政治家であり、外交官でもあるライプニッツ(Leibniz Gottfried Wilhelm/1646-1716)も神学的目的論的世界観と自然科学的機械的世界観との調停を企図し、モナド(単子)論、乃至は予定調和説を唱え、宇宙の秩序は、神の予定調和のうちにある説を展開します。今日の記号論理学の考えの萌芽です。主著「形而上学序説」「単子論」「弁神論」及び「新人間悟性論」いライプニッツはホッブズより概念を取入れて,一時期その力動的な実体概念の活動原理を目指しています。哲学・思想ランキング
2018年12月23日
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「霊魂論」エチカ詳解58 神の懐に抱かれ永遠の相を見ることは、真摯に生きる人間が誰しも抱く想いであり願望でしょう。知性らしきものを獲得し、次いで史的記録なるものを残し、其の後には、更に社会生活を送る上で理性なるものを獲得した人間は、自らの外界を認識し思考論理の発展と共に自らの思考する精神、即ち、「内界の世界」に身を傾けます。其処から、初めて世界創造への疑問が沸き立ち、古代史の哲学者は真実への論理を進めます。粗方、現代科学からは科学とは呼べない、全く実証のない世界で彼らは論理思考を以って、或いは、古代ギリシアの数学者、哲学者であり「 サモスの賢人」と呼ばれたピタゴラス(Pythagoras)のように自らが物理学を打ち立てて世界の真相に立ち向かいます。現代では科学技術の飛躍はすざまじく、数億年単位の世界変化を瞬時と云っていい程に提示してみせます。但し、科学は時代の発展により其の根拠が覆されること度々の経緯を示しています。仮に世界が永劫とすると、世界の永遠の真相は、世界三大宗教に示される通りなのか、将又、偉大な哲人の深い思考から生まれた論理的思考の通りなのか、スピノザの両方良いところ取りの思考論理を検討するのは現代の我々が直面する課題「コナトゥス」です。哲学・思想ランキング
2018年12月22日
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「霊魂論」エチカ詳解57 無生無死とは、「我々の知性が表象するもの、人間がこの世界で起きている現象を深く見つめて其の奥深き深層に入り「世界の理」の真相に向かうと、私たちは生まれてもいないし死にもしないという事が分かる。」という概念を意味するのです。我々人間の姿形や表層の精神には本当の姿は無く、とはいえ、人間を表彰する全てのものが私たちの「姿形且つ精神」なのだと分かる。其の「姿形且つ精神」に入っているというよりも包んでいるのが人間の生命です。大凡、世界に見る道徳を概観すると、我々人間が元来的に未熟な生き物としてこの世に誕生して姿を現(あらわ)し、自らの生に努めて大夫(たいふ)と成り、何れ来ざるを得ない「死」を迎え、自己が生きた此の世から姿を消すと教えます。ところが、「無生無死」は生まれざるものには滅びはない、滅びがないものには死は無いを示唆します。「無生無死」とは人間の物質を睥睨するものではなく、スピノザの第三の認識が備わっており、永遠の相の下で真理を洞察することは可能なのだとして「直観知」尚私の記述では直覚知と呼称していますが、この種の認識は、神のいくつか或いは粗方全ての属性の形相的本質の十全な観念から、諸々の事物の本質の十全な認識へと進むことを可能とすることから自ら「神」には成れ得ないものの、神の懐に抱かれ永遠の相を見ることも無きにしもあらずです。哲学・思想ランキング
2018年12月21日
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「霊魂論」エチカ詳解56 第一種の認識である視覚的にとらえられたものを意味し、転じて諸感覚によって捉えられたもの、また、写真や版画のように物質化されたもの、想像の産物・夢想・白昼夢のように新しくつくり出されたをものをも指す「表象」乃至「意見」と称される人が特定の状況や対象に対していだく特定の態度の言語的表明と呼ばれる認識とは、所謂、人間の知性の秩序から見れば共に論理が吟味される程でもなく「充全たるもの」を満たすものではなく不完全です。「第二種の認識」の理性は、十全ではあるが共通概念から論証される類いの認識であって、人間が社会生活を送る上では非常に重要ですが、学生生活の科目「道徳」で世界の真相が見えたという声を聞かない以上、充分を満たす十全には至りません。十全な概念とは当然に「第二種の認識」の理性の働きを以って自己の内精神の奥底に心眼を向け、汎ゆる蟠(わだかま)りを捨て、世界の永遠の相に自己の内精神を立ち向かわせ、次第に外界に溶解した境地、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」とは逆の立場から心眼が捉えた世界、其れをスピノザは「神の絶対世界」シッダルタは「空」と捉えています。共に「有」と「無」を超えた超絶世界であり此処に人間精神を見い出せ得れば、当然に「霊魂」は「佛説にしては彼岸は死とは無縁の「無生無死」と成り得ることに帰結するといえます。哲学・思想ランキング
2018年12月20日
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「霊魂論」エチカ詳解55 確かに「第二種の認識」の理性は、十全ではあるが共通概念から論証される類いの認識で個別的ではない認識であり、世界の真相に届くには不充分だとします。第三種の認識はそれは精神の眼であり、我々が自らの永遠性を感じかつ経験する証しは、このものを見かつ観察する精神の眼に他ならない。我々には、永遠性や無限性を知る精神の眼が備わっており、永遠の相の下で真理を洞察することは可能なのだとして「直観知」、なお、「記者は直覚知と呼称」であり、この種の認識は、神のいくつか或いは粗方全ての属性の形相的本質の十全な観念から、諸々の事物の本質の十全な認識へと進むことを可能とします。個物の本性に関する認識は理性のみでは足らず、諸々の事物の本質の十全な認識へと進む唯一の方法だとします。其れには人間の感覚が捉える「表象」や社会的な共通概念から醸し出される「理性」は論理の基とは成り得ても、世界の真相は「直観知」のみにしか捉えきれないものだと断定します。信教に従属せずに絶対存在に近づくには論理の積み重ねだけでは飽き足らないのです。哲学・思想ランキング
2018年12月19日
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「霊魂論」エチカ詳解54 スピノザの思考は、世界の真相に近づくには「認識」を「第一種の認識」である表象、感覚を通して毀損し混乱して知性による秩序づけなく示される諸々の個物から得た漠然とした経験による認識から得られる概念。且つ亦、何らかの言葉を聞くか読むことで事柄を想起し、その事柄を表象することにより、其れに類似するものの観念を形成する諸々の記号から得られる概念である。例えば、何らかの言葉を聞くか読むことで事柄を想起し、その事柄を表象することにより、それに類似するものの観念を形成することから得られる概念。其れ等は表象による観念連合であり、共に非十全的な概念、第一種の認識であり、意見ないし表象と呼ばれる。いずれも知性の秩序から区別されねばならない非十全な概念形成であるとします。其れ故に、我々知性ある人間は非十全的な概念の「第一種の認識」を克服して「第二種の認識」の理性に段階を進める必要性を説きます。哲学・思想ランキング
2018年12月18日
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「霊魂論」エチカ詳解53 スピノザによれば「第三の認識」あるいは「直観知(Intuitive knowledge」と呼ばれる認識は。人間の自由を保証するものとされます。表象を「第一種の認識」、理性を「第二種の認識」、直観を「第三種の認識」と三分類した。彼によれば、人間は自然の一部であるから、外部から様々な影響を受けるが、人間の精神はまず自分の身体の変状についての観念を持たざるを得ないが、これが第一種の認識である。この観念は人間の身体と外部の本性を共に部分的に持つものであるがゆえに「認識の欠如」の観念を含む。したがって、第一種の認識に基づくデカルト流の方法的懐疑は認識の欠如を含むゆえ決して明証性・確実性を有するに至ることはない。しかし、人間の身体と外部の本性を共に部分的に持つということは、本性を共通にする部分についての普遍的な認識をすることはでき、これを第二種の認識と呼ぶ。さらに、個物の本性に関する認識を第三種の認識と呼び、真と偽の区別は第二種ないし第三の認識に基づきなされます。 哲学・思想ランキング
2018年12月17日
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「霊魂論」エチカ詳解52 スピノザの目的論批判については、言葉通りに其の儘受け入れても誤謬は一切ないのでしょうか、甚だ疑問にも想えます。其の疑問に解明を求めるならば、スピノザの認識論は必須となるでしょう。スピノザは「我思う、故に我在り」の自己内精神から世界を見詰め直したデカルトを批判して、世界其のものの自然である神のみが実体であるとして、そこからすべてを理性によって自己内精神に演繹するという方法論理を組み立てます。帰納法に対する演繹法とも言えましょう。スピノザの思考によれば、神が唯一の実体である以上、精神も身体も、その神の二つの異なる属性に他ならないことになります。デカルトもスピノザも共に機械的自然観がとってかわる。デカルトやスピノザは、いずれも自然科学的・数学的思考を身につけながら、目的論的思想を排除していますが、其の出発点から終結に至る道順は真っ向逆です。デカルトの認識が自己内精神から始まるのに対してスピノザは主書「エチカ」において、表象を「第一種の認識」、理性を「第二種の認識」、直観を「第三種の認識」と三分類し。人間は自然の一部であるから、外部から様々な影響を受けるが、人間の精神は先ず自分の身体の変状についての観念を持たざるを得ないが、これが第一種の認識である。この観念は人間の身体と外部の本性を共に部分的に持つものであるがゆえに「認識の欠如」の観念を含む。従いて、第一種の認識に基づくデカルト流の方法的懐疑は認識の欠如を含むゆえ決して明証性・確実性を有するに至ることはない。しかし「人間の身体と外部の本性を共に部分的に持つということは、本性を共通にする部分についての普遍的な認識をすることは出家得、これを第二種の認識と呼ぶ。さらに、個物の本性に関する認識を第三種の認識と呼び、真と偽の区別は第二種ないし第三の認識に基づきなされる。」としています。此の「第三の認識」こそが世界の認識の果であって原点なのです。世界内存在たる人間は古物としての様体は勿論のこと、精神。理性も神の様体の延長であるから「直感知」で以って世界を捉えることを可能と看做しています。釈尊の無我の境地」、禅修行を踏んだ東洋の哲学至宝の「直感知」が此れです。スピノザのアジア思想の博学に驚かされる次第です。哲学・思想ランキング
2018年12月16日
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「霊魂論」エチカ詳解51 スピノザの目的論批判が認識論に立ち位置があることに起因することは間違いはありません。「コギト・エルゴ・スム(cogito, ergo sum) 「私は考える、ゆえに私は存在する」の意。デカルトが方法的懐疑の末に到達した根本原理。すべてを虚偽だと考えることは出来得ても、そうした考える自己の存在は疑い得ないとし、この自我の明晰、判明な確実性をすべての知識の基とした。哲学的に近代合理主義の出発点をなした命題とされている「我思う、故(ゆえ)に我在り」ですが、現在通常では「合理主義」というと近代合理主義のことだけを考えがちだが,もともと合理主義とは一般に理性(ロゴス,ラティオ)〉に則った思考、生き方、世界の捉え方方を意味します。其れ故に、理性にも其の立ち位置によって種々様々に定義されます。同様に合理主義にも種々様々な思考論理なるものがあることになります。此のことからして、デカルトとは真っ向反対方向の論理思考のスピノザもユークリッド数学を取り入れた演繹を使用して近代合理主義を展開してみせます。デカルトが自己精神から・スピノザは外界の究極である自然世界から論理を組み立てていることを比較すれば、スピノザとデカルトの「絶対存在(Absolute existence)」が朧に顕れて来るのです。哲学・思想ランキング
2018年12月15日
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「霊魂論」エチカ詳解50 スピノザの云う目的論に対する批判、そもそも「目的論」の語彙が定義されなければ理解は不可能です。「目的論」はギリシア語の 完成や目的といった語源に相当する、 肉体の死に向き合った哲学者たちは、善き人生を全うする道を模索し、そのような事柄をテロス(telos)と表現したものと言葉を通じて表される理性的活動。言語・思想・教説など世界万物を支配する理法・宇宙理性を表現するロゴス(logos)由来した合成語で目的論英語ではteleology表記されます。人間の行為ばかりではなく,歴史的現象,自然現象も含めて,万象が目的によって規定され,支配されているとみる哲学説で「機械論」とは対立した概念です。アリストテレスは,事物の原因として質料因,形相因,動力因,目的因をあげ,神が究極的な目的因であるとした。万象は神によって秩序づけられているとした「目的論」を批判するのです。世界のすべての事物の生成変化が、大いなる目的を目ざして運行しているという考え方を批判するのです。とはいえ、スピノザが対立する事象の生成変化についての論理は、時間的に先なるものと後なるものとの区別をたてた場合、先なるものが後なるものを決定し支配するというとらえ方と、逆に後なるものが先なるものを決定し支配するというとらえ方の二つ、生成変化を必然的な因果関係としてみる捉え方「機械論」を支持し、目的概念によるとらえ方「目的論」の後者の立場を批判するのです。哲学・思想ランキング
2018年12月14日
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「霊魂論」エチカ詳解49 スピノザの目的論に対する批判については種々の思考の形態を以って受諾はもとより非諾交々(ひだくこもごも)の論が今日現代に至るも課題としての地位は失なってはいません。スピノザのエチカの論理を紐解けば、「エチカ」後半部の主述でスピノザが道徳と倫理・を明確に区別していることに気付かされる筈です。例えば、強制力を有した人間に強制力を持つ「*をしなければならない」は道徳概念であり、「*でありたい」は第三種の認識に至りたい、人間の精神志向の願望を示しています。一見すると道徳も倫理も共に「神」への依存性が為せる技とも取れますが、其れは神に神格性を付与した結果であり、作物者を予期したものであり、信教や目的論が云う他者の干渉を予想させますが、其の事実はないと断言、「エチカ」の出版も此の事により生前には不可能となります。哲学・思想ランキング
2018年12月13日
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「霊魂論」エチカ詳解48 ヘーゲルが絶対的同一性と解釈したスピノザの実体は、実は、精神が世界を見渡すことを不可能にするような装置かもしれないと示唆したのは、ヘーゲルの云う世界が、精神が創造したもの、つまり、作品だと言うことを考えてみれば、より理解が進むかも知れません。有り体に云うと、へーゲルの精神の真髄とは、キリスト教の「神」の言い替えであると申せましょう。但し前置きとして言っておきたいのは、キリスト教においては、人間は如何なる所存においても到底「神」には成り得ないが、ヘーゲルの場合は最終的に神と或る意味、精神面からのみですが同等な位置にまで達することを可能とした点で信教とは異なります。然し乍ら、ヘーゲルは「世界が作品である」とそれを産み出す「神即主体」という構造には何ら異相ではなく通底しています。其れ故に導かれる結論は、スピノザの実体が他者の主体でないということは、スピノザの自然即世界がその「実体」、言い換えればの他者の作品ではないということです。実相世界を作品、特に建築・設計家の比喩で語ることは、アリストテレス以来の目的論の常道であったのですが。スピノザの目的論批判の眼目の一つは、こうした建築思考即世界観の否定にあったことはスピノザの論理思考の秀でた面であり眼目すべきであり其れに値します。哲学・思想ランキング
2018年12月12日
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「霊魂論」エチカ詳解47 ヘーゲルは世界そのものを、精神の発展を基盤とした世界成長の過程であると理解します。それが、最終的には精神が自らの成長の結果として顕になるのが世界の見通しだと述べるのです。其処に至って初めて世界と精神の同一性が現れる。実は、ヘーゲルの「絶対精神」とはこの段階で初めて生じるるものなのです。ヘーゲルの体系では、途中は紆余曲折していて、そこでは全体を見渡すことは出来得ないものが、最終的には精神世界全てを見通す地点に達する。そこで今までの紆余曲折の過程が意味付けられるのである。精神は、実は今までの紆余曲折の過程が全て自分の前世だったことに気付くというわけです。そのことに気付いたのは、ヘーゲルが世界そのものを、精神の発展と成長の過程であると判断したことを意味します。そのことに気付かされるのが、絶対的精神であるとしするのです。ヘーゲルは自らの思考論理から弁証法的に「絶対精神」に行き着いたのでしょう。然し乍ら、スピノザは実はこうした立場を予期して既に反論を準備していました。スピノザは物体と精神とが同一であると私は主張しているのではない。それらは平行だといっているのだ。どういうことかというと、精神だけが世界ではない、精神は寧ろ世界且つ自然の一部だということだと紐解くのです。ヘーゲルは物体と精神とが絶対的同一性だと解釈したスピノザの実体は、実は、精神が世界を見渡すことを不可能にするような装置かもしれないとの欠陥を示唆しています。哲学・思想ランキング
2018年12月11日
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「霊魂論」エチカ詳解46 ヘーゲルは世界そのものを精神の発展を即ち世界の成長の過程であると理解します。青れ故に、暫時に漸次を経て最終的にはその精神が自らの成長の後として、世界を見通すことになるとし、此の時点で初めて世界の同一性が顕になると結論。ヘーゲルの「精神」とはこの段階で初めて生まれるものなのです。絶対精神を通常一般には神の精神即ち完全体たる精神を想定しますが、ヘーゲルの弁証法体系では、途中は紆余曲折して全体を見渡すことなどは出来得ないがが、最終的には全てを見通す地点に達する。即ち人間が完全体と成すのだとします。人間が「神存在」其のものには成り得ないにしても、精神は限りなく「神其のものの精神」を手中にする。人間精神の究極の目標が神の絶対精神だという訳です。精神が今までの過程が意味付けられ、実は今までの弁証法的のです史的経緯が全て自分の前世だったことに気付く立ち位置に自らの精神が根拠を置く基盤を得たことになり「神の絶対精神だとされたものも自らの絶対精神として再生することを可能となると述べます。哲学・思想ランキング
2018年12月10日
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「霊魂論」エチカ詳解45 ヘーゲルの論理は「A乃至B」かの正誤二重論法である弁証法に最大の特徴が見い出せます。言い換えればヘーゲルの論理には始めから敢えて結論を求めず最終結論には行かないで、最終結論其のものに至るまでの論理構成其のもののプロセス「AそれともBか」を弁証法の根拠とし物事の思考論理の根底だとするのです。スピノザのように始めが終わりでもある思想では、まるでキリスト教の神学概念であり、実体即概念に即していないのだと断言します。スピノザの論理思考の実体は主体ではないという正・反・合の{正(テーゼ)}である筈だとはしますが、其れもヘーゲルが「AそれともBか」の弁証法から見れば、スピノザが主張する実体が精神だけでなかったところが不充分であり至らなかったと結論するのです。弄(ひねく)れば、ヘーゲルとしては、気に入らないところがあるというのはもっての幸い、都合上では思う壷かも知れません。何故なら、其の気に入らないところに気付く自分の偉さが確認出来るからです。「此のような愚者がいるから私は賢明なのだ、理由はスピノザの思考の不足に気付くということ、其の事実が私は既にそういう不足を克服しているっていうことだから」。まるで「そくらてすの「無知の知」の語彙其のものです。より正確にいえば、スピノザは実体が同時に精神であり物体即自然だからということを主張するからだと例示します。ヘーゲルのスピノザを物足らないとする理由は数学を好む{エチカ」の演繹法に起因しますす。同一性は始めから出してしまうことは誤謬なのだ。だから、そうした同一性に至るプロセスを産み出すような始まりを思考として取り入れなければ結論は出せない。ヘーゲルにとっての主体としての精神は、まずは不足しているのだが、実は単に不足しているというより、そこから発展していくような出発点、それがヘーゲルにとっては主体としての精神だった。これは物質ないしは自然ではだめである。なぜなら、物質はそれ自体は動かないからだ。それは主体ではない。また、既に述べたように、スピノザのような実体でもだめである。それは動かないからであると。然し乍ら、実体が動かないとすることは大宇宙がエントロピー(Entoropi)によっての崩壊若しくは再生を知らなかったからこそ主張し得るものであり、いかな「論理」の王者も此の件に関しては弁証法論的な再考が必要なのかもしれません。哲学・思想ランキング
2018年12月09日
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「霊魂論」エチカ詳解44 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel/1770年-1831年)はドイツの哲学者であり、ドイツ観念論を代表する思想家。片やスピノザ(Baruch De Spinoza/1632年-1677年)は17世紀のオランダの哲学者ですあり、合理主義的汎神論の代表的な思想家と云われ、思想史上ではスピノザが「神概念」ではヘーゲルに先行しており、後世に生まれたヘーゲルの弁証法的歴史観のスピノザの評価には興味津々たるものがあり、事実スピノザの「神存在」の理解には欠かせない論評を残しています。ヘーゲルはスピノザを「スピノザ哲学か、それとも哲学じゃないかだ」と極めてスピノザを厳しく見つめています。ヘーゲルにとってはスピノザの哲学は、ある意味合いでは哲学中の哲学であるが、しかし足りないところがあると評します。ヘーゲルの弁証法の方法論理は命題を二重に構成し真理を究(き)わめんとすることだからです。彼の哲学の思考論理は「A乃至B」の中から次の証明が暫時(ざんじ)に漸次 (ぜんじ)して、次第次第に生じるものであり、連綿と其れを追求し真理に迫ろうとするものなのです。其の原点からして数学の演繹法でスピノザの自己原因の概念を提示している論理、それが絶対的な始まりを告げているところにヘーゲルは絶対精神を肯んずも批判します。ヘーゲルは言います。「スピノザ哲学の良いところは、それが絶対的な始まりを告げているところだ。即ち、スピノザの自己原因の概念である。スピノザの主著「エチカ」の冒頭に掲げられた自己原因の定義こそ、スピノザ哲学の根本であるとヘーゲルは捉えたのです。然し乍ら、自己原因という概念そのものはスピノザ以前にもあり、思想史を紐解けば幾らもあります。しかし其のことを当然承知のヘーゲルにとってスピノザが重要なのは、自己原因が存在と思惟の同一性を表していることに尽きます。このことは弁証法を掲げるヘーゲルにとっては、思う壷でしょう。何故なら、同一性が始めっから提出されているということは、弁証法の行き着く先の解であるからです。そこからは議論は何も始まらない原因であり結果としてある。詰まる処、ヘーゲルは、スピノザに哲学の始まりを見ると同時に、それは実は終わりだったのだと捉え、スピノ哲学を誤謬を犯してない論理法としては正当と一応は受け入れてます。哲学・思想ランキング
2018年12月08日
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「霊魂論」エチカ詳解43 ドイツの哲学者・物理学者・心理学者フェヒナー心身平行論(parallelism)から憶測するに汎神論を意味する英語の「pantheism」は、ギリシア語の pan(全て)と theos(神)を語源にする語で、文字どおり「全ては神」或いは「神は全て」を意味しますが、汎・心・論が万物に心的なものが宿っているという考えに比して、汎・神・論の場合は世界全体に亘って統一的な意思の存在を想定している点が大きな違いです。ヘーゲルの「絶対精神」はその典型でしょう。「絶対精神」の語彙は「絶対者または世界の最高原理」とされ主観的精神と客観的精神が統一された自由を本質と説きます。「自己外化」、即ち、精神は自然へと自己を対象化し、一旦は自己とは疎遠なものとなりますが、自由とは他者のもとでも自分自身のもとにある、他者からの承認を求め、他者の評価を気にしていることは、他者の人生を生きていることになることだから自由ではないことから、精神は自然の中に自らの顕現である理性的なものを見い出し、現実が理性的なものであることを自覚して、対立した自然から再び自己へと帰還すると述べ、絶対精神は受け入れた自然を否定して自己に立ち帰るために、まず個人の主観的精神 である心・魂・意識になってあらわれ、次に客観的な社会関係としての客観的精神(法・道徳・人倫になり、最後に主観的精神と客観的精神を統一する絶対精神となって自己へ帰還する。ヘーゲルは絶対精神が歴史上に表れたものを世界精神と呼び、世界史をこの絶対精神の自己展開の過程と見ました。「歴史とは自由の意識の進歩である」。そして、絶対精神は、芸術・宗教・哲学の中にあらわれ、そこで精神は自己自身を対象として純粋に意識する、完全に自由な精神となるとするのです。哲学・思想ランキング
2018年12月07日
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「霊魂論」エチカ詳解42 哲学上にも登場する「汎心論」は哲学の一分科で、心・心的出来事・心の働き・心の性質・意識及びそれらと物理的なものとの関係を研究する学問である。「心の哲学(philosophy of mind)における汎神論」と言い換えることも可能です。「心の哲学」の側面から見ればスピノザは精神と身体、心的事象と物的事象という二つの系列は相互に平行し対応するが、因果的に一方が他方に影響するのではないとする立場の論考です。物的事象はあくまでも他の物的事象とのみ因果連関を成し・心的事象は他の心的事象とのみ因果連関を成すのです。物的事象・心的事象両系列の間には相互作用はないと看做しています。スピノザから時代は下るものの心身平行論(parallelism)という用語自体はドイツの哲学者・物理学者・心理学者フェヒナー(Gustav Theodor Fechner/1801~1887)ライプチヒ大学物理学及び哲学教授で汎神論的傾向が強い面が目立ちますが,同時に心身平行論の立場を取っており,身体と精神との間の量的関係「フェヒナーの法則 」を確立しようとした精神物理学の創始者として史上に名を残し、著作の「実験美学(Zur experimentellen ?sthetik71)」や「死後の世界(Leben nach dem Tode)」、スピノザ、カント、シェリングに影響を受けて汎神(はんしん)論的ないし汎心論的な形而上学的統一的自然哲学を唱え「汎神論」乃至は「汎心論的」な形而上学的統一的自然哲学を唱えた彼の著作はスピノザの思考体系を紐解くには格好の素材です。哲学・思想ランキング
2018年12月05日
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「霊魂論」エチカ詳解41 人間が生物学上に理知を獲得した生物として史上に登場して以来古今東西「神」が人類史から消えることはありませんでした。其の「神」の登場の一つが自己に降臨した神と感応合一の体験の思考表現から生じる神秘論であり、片や、神の解釈を第一義とする宗教的側面及び純粋形而上の哲学の相違はあれども、全ての物体・法則に神性が宿っている、または一切が神そのものであるとするものがあります。其の内容からして「万有神論」とも呼称される汎神論(Pantheism)です。古くはウパニシャッドの梵我一如、ストア学派の哲学、近代ではスピノザ、「何故に何かが存在し、何故に無ではないのか」この問いを生涯追い続けたシェリング(wilhelm_joseph_von_schelling)、ヘーゲルの思想がこれに属します。哲学・宗教ともに共通する「神」の解釈の概要は全ての物体・法則に神性が宿っている、または一切が神そのものであるとするものでしょう。旧約に始まる唯一神教は世界の造物主が神だから当然として、形而上哲学は世界の始まりを事程左様には単純には統一されることは信教・神秘主義とは異なり唯物・唯心論が百家争鳴色取り取りです。然し乍ら、唯一つ共通するのは「原因主義」でしょう。哲学は初めに世界有りきでは宗教とは異なることがなく哲学は語彙としての意味を成しません。汎神論を意味する英語のpantheismは、ギリシア語の pan(全て)と theos(神)を語源にする語で、文字どおり「全ては神」或いは「神は全て」を意味しています。対して屡々、哲学上にも登場する「汎・心・論」は万物に心的なものが宿っているという考えであり、簡単に思考すれば汎神論の「神」を「心」に置き換えただけとも解釈できますが、大きな違いは、汎神論の場合は世界全体に統一的な意思の存在を想定している点であり、ヘーゲルの「絶対精神」はその典型だといえます。哲学・思想ランキング
2018年12月04日
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「霊魂論」エチカ詳解40 人生の意味が開示され、世界が生命力に満ちて感得出来得た。此の様な体験をすれば誰しもに人格変化が起こるのは当然であり、とりわけ体験者本人に極めて衝撃的なのは神との接触、精神の内奥の単純な感応ではなく交流・合一体験は生を賦与され其の内奥精神を勝ち得た人間、獲得し得たとは云わないのは其れ相応の因は神秘主義者の精神生活の経緯を観れば自ずから納得させられる場合があるからです。アメリカの心理学・宗教哲学者ウィリアム・ジェイムズ(William James/1842年1月11日-1910年8月26日)は語られるものが宗教的神秘体験。宗教により相異するにしても特徴を四つに分類しています。第一には言表不可能性・言詮不及のもの、言葉によっては他者にその内容を伝達する事が不可能事であるもの。第二には知的性質・直感的洞察、体験者にとっては宗教的経験は知識的・真理的状態であるように理解されるものです。言表不可能性とは相反するが、この両者が並存する事が宗教的体験の特徴といています。然し乍ら、其の暫時性・一過性の特性があり体験が長時間は続かない。受動性 故意に努力して得られるものではなく、神秘的な意識状態になった時に体験者の意志が失われ、自己世界の向こう側から与えられる。当人にとっては受け身であることです。大預言者として扱われた場合のイエス・キリストや悟人として扱われた場合のシッダールタは其の扱いを受けます。神秘体験は自ら自己の境涯を見つめ確信したものではなく、あくまで受動的であり、宗教に鳴り得るにしても教祖的な扱いを受けています。哲学・思想ランキング
2018年12月03日
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「霊魂論」エチカ詳解39 霊魂の発祥の素因と存在のあり方には大凡(おおよそ)の選別された型があるにせよ、「霊魂論」は自己の徹底的な肉体的な滅びである死と世界自然がある限りにおいての霊魂の継続性と復活を思考に持つ脱我的合一をを否定するものではなく、自身に神秘体験が人間との会話を交わすことも儘あります。真否的には世間の常識からすれば現状にては疑わしいとされることを否定はしませんが、自身の肉体と精神が体験をしたことは精神が尋常でなかったにしろ事実は事実とされるでしょう。このような自己の徹底的な死と復活である脱我的合一が神秘体験の宗教的核心をなす神秘主義は,絶対者を世界のうちにみる世界観としての汎神論からは区別されます。宗教体験の著述や告白は概して神秘体験とは言えようが、殊更「神秘体験」を強調し内精神のみならず外界に対しても場合は働き掛けがある場合は、其の神秘性は強烈であり、人間の社会生活一般の日常性を超え、一般的な合理性とは相容れません。譬えば、キリスト教神秘主義の体験には所謂、唯一神であるたぶんに神格性が賦与された「神」との合一、其のための前提となるイエス・キリストとの霊的結びつきとイエスの見神があり、宗教体験と呼ばれるものは概して神秘体験と云えますが、特に「神秘体験」という場合は、その神秘性・非合理性・非日常性の一段と強烈なものを指す。この狭義の神秘体験を主に取り上げる。例を挙げると、キリスト教神秘主義には神との合一・キリストとの霊的結婚・見神と呼ばれる体験があり、アジアとりわけインド大陸の東に位置する東洋の神秘主義には神との合一の他に禅における悟り体験である豁然大悟、インド伝統哲学における本来の面目現前、身心脱落、見性が見い出されます。此等の「神秘」は何か神変不可思議で荒唐無稽な出来事という意味ではなく、非日常性の深い体験により強烈な感銘を受け、神の愛の喜びや真理の目覚め、心身内外が神秘の魂を満たされ、心の内奥に新しい境地を開くような出来事を意味します。哲学・思想ランキング
2018年12月02日
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「霊魂論」エチカ詳解38 神の定義の分析・分類は単に神学上の問題に留まらず、形而上及び自然哲学や世界や其れを取り巻く大自然での大宇宙世界を扱う物理科学のみならず、大宇宙世界の隠匿された外的意思としての存在をも究しようとする精神科学も「神」の語彙其のものの「意」や「理」と「存在」、神は人間存在なしにでも有るのか無いのか、将又、「神」は人間が観想をすることなしには存在しないで人間が神の造物主なのか、一言単語で「神」と言っても其の捉え方は千差万別止まるところを知リません。然し乍ら、人間なしに「神」を考慮すべきなのは人間としては当然の反応に思えます。古今東西のホモ・サピエンスの「神」思考を漠然と捉えていては「神」は観相どころか「観想」並びに「夢幻」だに出来得なかったでしょう。「神」を捉えようとするならば其々の思考が描き出す「神」の仏教用語で云う「虚妄である自他の区別を前提として思考する分別」は神分析には欠かせません。人間の思考に浮上する神は千差万別であり其れ故に「神論争」が史上に度々どころか世界の動静を左右し歴史を練り上げてきたのです。先ず其の第一は世界の諸宗教を多神か一神かによって分別整理しようとするものです。其の第二は神を人格的乃至形態的な存在と非人格的で非形態的な存在との二種に分ける考え方ですが、注意すべきは旧約・新約・イスラム何れの神も「神格」の形態を人間には表象させ得ないことは共通しますで。モーセの著作と目(もく)される旧約聖書で「神を見るものは死ぬ」の文言は意味深です。旧約聖書のアダムとエバが見た神、預言者エゼキエル(Ezekiel)の炎の神、ヤコブと戦った神は其の何れもは神が表象として見せた幻相であり「実相」とは程遠いものであり、でなければ「唯一神」はあり得ません。神が「唯一神」ならば亜流は幾つも造物しても造物主は一だからです。哲学・思想ランキング
2018年12月01日
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