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硯 料紙を取り寄せて 書置の文をぞあそばせける 先づ一番の筆立てに 母の胎内に七月半の嬰子が生まれ 男子の子ならばよ 石童丸と名を付けて 出家になひて給われの まだ生まれてもいない赤ん坊を無残に振り捨てて、その上無理矢理僧にするよう言い置いて行くなんて、それでも人の親だろうか。 新発意は説経の中の父親がひどく憎らしくなった。 自分が勝手に出家するだけならまだしも、罪のない子供にまでこんな苦しい暮らしをさせようなんて、あんまり身勝手だ。とても許せない。 新発意は水の温む春だというのにまだひどく痛む指先をさすりながら、目に涙を浮かべて唇を噛み締めた。 自分の父ならきっと、我が子がこんな辛い生活をしているのを知ったら、すぐに助けに来てくれるだろう。いや、それとも説経の父親のように、出家をすることは尊いことだからと、そのまま寺に残して行くだろうか。 父を知らない新発意にはわからなかった。
2006年12月28日
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斯様に申重氏は 煩悩の綱を切り 菩提の綱に取りつきて 六万町を振り捨てて 御生を大事に願ふてこそ 仏に成るべきなり 何とお止めあるともよ 止まるまひよの 御台所 父の失踪後、主を失った新発意の家はすぐに取り潰された。やがて藩命で屋敷も出て行かなくてはならなくなり、新発意たちには住む家さえもなくなってしまった。 母には頼る実家も既になく、病気も次第に悪くなるばかりで何も出来なかった。父の身内の者も、父の不名誉な失踪を恥じて、誰も関わり合いを持とうとしない。ただ唯一、姉の母方の祖母が路頭に迷うことになった孫娘を憐れんで、自分の化粧料のうちからいくばくかの捨扶持を恵んでくれた。 姉はその金を一生懸命遣り繰りし、祖母の伝手で地行(注)の外れに小さな家を借り、日々の生活の糧を整え、病気の母の世話をし、幼い弟の自分を育ててくれたのだった。*注「地行」…福岡市内の地名。福岡ヤフードームに割りに近いところにあります。江戸時代、この辺りは禄高の低い足軽などが住んでいたのだそうです。当時は、このすぐ北側はもう海岸だったのだとか。今の様子を知っている人には、きっと信じられないでしょうね。ちなみに、現代の海岸線は埋め立てによって何キロも先にあります。
2006年12月27日
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ああ、こうやって母のことを思い出すと、いつも涙が溢れてくる。 いつの間にか自分の頬にも落ちていた涙に気付いて、新発意は慌てて目蓋を拭った。 新発意は母のことを、ほとんど胸が痛くなるほどに恋い慕っていた。 母は心根の優しい人だった。そして、その姿の何と美しかったことか……。 母の面影は、今もはっきりと目蓋に焼き付いている。細面の優しい顔立ちに、ほんのり血の色の透ける白い頬。長い睫に縁取られた黒目がちの瞳は、熱のせいでいつも潤んで輝いていた。 病気で寝ているため、髪は結わずに後ろでゆるく束ねているだけだったが、それがかえって儚げで美しい。まるでお伽噺に出てくるかぐや姫のようだと、新発意は母の姿を見るたびに思ったものだ。 そして、少しでも母の側にいたいと駄々をこねた。 母はそんな新発意にいつも困った顔をしたが、それでもごくたまには側に呼び寄せてくれた。気分の良い時にはお手玉を教えてくれたり、新発意がわざと眠り込んだふりをするとそのまま優しく抱いて一緒に寝てくれたこともある。 新発意はそんな僅かな思い出を、宝物のように胸の内にしまい、つらくなるとそっと取り出しては自分を慰めていた。 あの頃には確かに、自分をいとおしいと思ってくれる人がいたのだ。だが、今は……。 母は昨年の秋、病で死んだ。
2006年12月25日
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だが、その夢が叶うことは最早ない。せめて武士の身分のままであったなら僅かな望みも持ち続けられたかもしれないが、出家してしまった今では夢のまた夢だ。 新発意は寂しい溜め息をついた。 それに、父がいなくなってから後の生活の困窮を思い出すと、新発意ですら父の身勝手さを恨まずにはおれない。特に、病身だった母に、満足な薬さえ買うことが出来なかった辛さを思うと……。その頃 重氏殿は廿一 御台所は十九なり この事 御台所ゑ漏れ聞こゑ 薄衣取りて上にかけ 重氏殿の一間所へ御座ありて 重氏殿の御姿 上から下 下から上ゑと 二三度四五度 見上げ見下ろし御覧じて 先づさめざめとぞお泣きある 母も、よく一人で泣いていた。 母は新発意が物心ついた時から胸が悪く、奥の小部屋で寝たり起きたりの生活を送っていた。母は新発意に自分の病気がうつるのを恐れて、滅多にその部屋の中に入れてはくれない。それでも、怖い夢を見た夜などは母が恋しくて、新発意はこっそり母の寝間へ忍んで行った。そんな時、母は薄い夜具の中で声を押し殺すようにすすり泣いていた。 母は一体誰のために泣いていたのだろう。 まだ幼かった新発意には、泣いている母を慰めるすべも見つからず、いつもそっと自分の寝床へ戻って行った。
2006年12月23日
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父は黒田藩に仕える武士だったという。禄高は五百石ほどだが、小姓頭を勤めていたそうだ。 文武両道に優れ、人柄も明るく闊達であったと聞いている。その上、背が高くがっしりした体格の美男で、城下を歩くと娘たちが密かに溜め息をついて見送ったという。 だが、新発意はそんな父の顔を覚えていない。父は新発意が三つになるかならないかというくらいの時に、ある日突然誰にも何も告げずに姿を消してしまったのだ。 なぜ父がそんなことをしてしまったのか、誰にもわからなかった。だが、父はそれきり戻っては来ず、行方すら全く知れない。生きているのか死んでいるのかさえわからなかった。 だが、姉とは違って、新発意は決して父を疎んでいたわけではない。むしろ、何も知らないが故に、新発意はまだ見ぬ父の姿を想像しては心をときめかせていた。 立派な武士であったという父。ずっと幼い頃の新発意は、城下で中間を従えた麻裃姿の武士を見かけるたびに、しばし立ち止まって彼らに見とれることがよくあった。 自分の父も、あんな颯爽とした様子をして、この城下の道を毎朝通っていたのだろうか。新発意はいつも憧れをこめた眼差しで、舞鶴城へ登城する黒田藩の武士たちを見送ったものだ。そして、こう思った。 いつか自分もあんな立派な武士になりたいと。↓舞鶴城(福岡城)の大手門辺り。日本のお城といえば、何といっても天守閣ですが、福岡城には天守閣がありません。諸説ありますが、「黒田家に目を光らせていた徳川幕府に遠慮して、最初から天守閣を作らなかった」という説が有力とか。(天守閣があるということは、反逆して立て篭もる意思あり…ってことですからね)今は、石垣やいくつかの櫓だけが、往時のお城の面影を伝えています。
2006年12月21日
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新発意のことを、少しでも気に掛けてくれる者がいるとするならば、それは姉だけだろう。新発意の身内と呼べる者は、もう姉しかいなかった。 だが、その姉も今は三奈木黒田の御家老様のお屋敷で、腰元奉公をしている。新発意が寺へ入る時に別れたきり、会いにも来てくれない。 いや、先日珍しく新発意の寺を訪ねてくれたのだが、しばらく弟の顔を見て、誰か訪ねて来なかったかと聞いただけだった。たった一人の姉でさえ訪ねて来ないのに、他人が訪ねてくるはずもない。新発意が誰も来ないと答えると、姉は手縫いの下着を何枚か残して帰って行った。 でも、新発意は別に大して寂しいとは思っていなかった。姉といっても、異母姉だ。年だって十あまりも離れている。病身の母の代わりに新発意を育ててくれたのはこの姉だったが、ことさらに恋しくも思わない。 姉はいつも無口で無愛想だった。時には優しくしてくれることもあったが、何かの拍子で急に邪険にされたりすることもあって怖かった。 特に、父のことに触れた時には……。
2006年12月20日
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重氏 悟りの人なれば この花つくづく御覧じて 花も次第に散るならば 開ひた花は散りもせで 莟みし花の散る折は さて 人間もあの如く 老た若に定なひとぞ悟らるる 新発意の上にも桜が散る。 桜を見て僧になろうと思う者がいるなんて。それも栄耀栄華を極める暮らしをしていたというのに。きっとそんな者は、僧の生活がどんなものか知らなかったのだろう。 新発意は自分の小さな両の手を眺めた。まだふっくらと愛らしい指先は、無数のひびが切れてひどく荒れていた。冬の間、一日中水仕事ばかりさせられていたせいだ。 食事の仕度や洗濯、堂や廊下の拭き掃除。新発意は一日中こき使われていた。 年嵩の小僧も何人かいたが、何かと言い逃れてすべて新発意に押し付ける。そればかりか、わざとものをこぼして新発意に拭かせたり、干したばかりの洗濯物の掛かった物干しを地面に叩き落したりした。 幼い新発意にはなぜこんな意地悪をされるのかわからない。ただ、そっと涙をふきながら、黙って雑巾を絞り、泥だらけの洗濯物を拾うだけだ。 それに、ぐずぐずしていると、寺の和尚にも叱られてしまう。寺の中には、新発意を庇ってくれる者はいなかった。
2006年12月19日
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子供は新発意(しんぼち)のようだった。新発意とは、出家したての少年僧のことだ。年の頃は六、七歳くらいであろうか。小さな頭を初々しく丸め、身体に合わぬだぶだぶした墨染めの僧衣を着ている。国を申せば大筑紫筑前の国 庄を申せば苅萱の庄加藤左衛門重氏なり 筑前の国……自分の住むこの筑前の地を舞台にした物語だ。 新発意はそれに興味をそそられたのだろうか、欄干を離れるとおずおずと橋を渡って、濡衣塚の方へ近づいて行った。 高野聖は半ば目を閉じて、説教を語り続ける。新発意の方を見ようともしない。こんな子供が銭を持っているはずがないと思っているのだろうか。 新発意は桜の木の傍らにあった五輪塔の台座に腰を下ろして、一心に高野聖の語る苅萱(かるかや)の物語に耳を傾け始めた。
2006年12月16日
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信濃の国 善光寺の奥の御堂に 親子地蔵とあらわいておわします地蔵の御本地を 詳しく説きたて広め申に 橋の上で立ち止まった女は、高野聖の貧しげな姿と古臭い説経の文句がわかると、ふんと鼻を鳴らして歩み去った。 宝暦の当節では、説教節などという時代おくれの芸に耳を傾ける者などいない。 説経節は、室町時代の末頃から流行り始め、元禄の頃まではたいそう盛んだったという。江戸や大坂でも小屋が掛けられ、有名な大夫も大勢いたそうだ。 だが、歌舞伎や浄瑠璃が流行るようになると、抹香くさい仏の本地譚を語る説経節など、誰も見向きもしなくなった。今では、諸国をまわる高野聖や門付けの芸人が、わずかな路銀を稼ぐために辻々で語る姿を稀に見るくらいだ。女がすぐに興味をなくしたのも、無理はあるまい。 だが、女の後ろを歩いていた一人の子供は違ったようだった。 子供はそれまで俯いたままのろのろと歩いていたが、女が足を止めると一緒に立ち止まり、女の袖の影から濡衣塚の方を覗いていた。そして、女が立ち去ってからも、そっと石堂橋の欄干に寄りかかって、桜の下にいる高野聖をじっと見つめていた。
2006年12月14日
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只今語り申候物語 風に乗って、低い歌声が聞こえて来る。 朗々と響く、それでいてどこか錆びた声。 その声に惹かれたのか、着飾った身なりの若い女が、石堂橋の上でふと立ち止まった。 博多の街の東側を流れる石堂川に掛かるこの橋を渡ると、箱崎の松原を背後にした小さな塚が見える。その昔、無実の罪を着せられて死んだ哀れな姫君をまつっているという、濡衣塚だ。 その塚の傍らには、青々とした松に混じって、一本の桜の古木が立っていた。幹は半ば朽ちてはいたが、残った枝には今は盛りと満開の花をつけている。 昨夜から吹いていた強い風が、惜しげもなくその花びらを散らしていた。そして、はらはらと舞い落ちる桜花は、辺りを薄紅色に染め、桜の下に座っている男の肩や頭の上にも降り積もっていた。 男は高野聖のようだった。 粗末な墨染めの衣に、ずいぶん伸びた坊主頭。桜の下に筵を敷き、大きな笈を傍らに置いている。手に持っているササラを擦りもせず、高野聖は低い声で『かるかや』の説教を語っていた。↓福岡の桜。(思いっきり季節はずれの写真ですが、春の雰囲気を思い出すために……)
2006年12月13日
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次回からの連載作のご紹介タイトルは「かるかや」私が今までに書いた小説中、唯一江戸時代を舞台とした作品です。というか、江戸時代を描きたかったからではなく、この作品のモチーフとなっている説教節という芸能の歴史上しかたなくそうなってしまった……からなんですが。説教節とは、中世に起こった芸能の一つ。元々は、仏典の教えや神社仏閣の縁起などを、普通の庶民でもわかりやすいように、物語として語ったものです。高野聖などの下層宗教家たちが諸国を周りながら広め、江戸時代の初期には大変な人気を博したのだとか。しかし、江戸も宝暦年間辺りになると、浄瑠璃などの新しい芸能に人気を奪われて、すっかり廃れてしまいました。(このように説教節が廃れた時期に時代を設定したかったので、しかたなく江戸時代が舞台になってしまったんですね。江戸時代はあまり詳しくないので、本当はせめて室町時代くらいにしたかったんですが)この作品では説教節「かるかや」を通して、親子・夫婦などの愛憎を描きます。今回も80枚程度の短編です。(ただし、作品の都合上少し細切れに更新していくので、連載回数はちょっとだけ増えます)どうぞお楽しみに!
2006年12月12日
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このブログ三本目の小説も、無事連載終了しました! 長らくのおつきあい、どうもありがとうございますm(__)m この作品は、文藝春秋の「オール読物」という文芸雑誌の新人賞に応募するために書いたものです。結果は……第一次選考(のみ)通過! でも、立派な商業雑誌にたった一行でも自分の作品名と名前が載ったのがとても嬉しくて、思わず発表のあった号の雑誌を買ってしまいました。これ以後、どんなに小さくとも自分の作品の名前が出た本や雑誌は、記念として全部買って残しています。 この作品を書いたのはもう四年ほども前のことですが、今読み返してみるとやはり未熟な点が多いですね。。。 まず、登場人物の多さによる失敗。この賞は上限が80枚なのですが、一旦書き終えた時は90枚を超えていました。10枚増やすのは簡単ですが、10枚減らすのは至難の技……。短編である程度言いたいことを言おうとすれば、登場人物を減らして構造をシンプルにするしかないと悟った作品です。これ以降、短編の主要人物は出来るだけ少なく(出来れば4人以下)にすることにしました。 また、「たくさんの人に語らせることで、そこにいない人物を浮き上がらせる」というやり方は、長編向きだということもわかりました。無理に短編にまとめようとしたせいで、この作品ではストーリーを語るだけで精一杯。一人一人の心の内面を丁寧に描くだけの字数の余裕がないせいで、結局さきくさの人物像も立っていない気がします。いつか、この作品を長編で書き直してみたいものですね。
2006年12月09日
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おまけの系図……自分でもわかりづらいな~と思ったので、この作品の登場人物を整理してみました。なびき――四三(実子)――目井(弟子)―乙前(弟子)―後白河院(弟子) | | | ――おとど(弟子)―袈裟(弟子)―延寿(実子) |―万歳(実子) | ――さきくさ(弟子) この系図は『今様の濫觴』という論文(『今様のこころとことば―「梁塵秘抄」の世界』/馬場光子著)からとったもので、系図内の人物は全て実在しているそうです。(胡蝶はさきくさと袈裟の年齢を合わせるための私の創作) でも、人間関係だけを参考にしたので、人物像などは全部私の作り物。本当のこの人たちは、たぶん(絶対?)こんな人じゃないし、こんな人生歩んでないと思います。(←特に袈裟…ごめんなさい) 胡蝶を捨てた人でなしの殿も実在の人物のプロフィールを借りただけなので、本当はすごく醜男で良い人だったかもしれません。。。(そんな無責任な) 残りの登場人物やストーリーは全て私の勝手な創作です。歴史上の人物を登場させているとはいえ、内容は全部嘘っぱち?なので、ホントにしないでくださいね~。。。
2006年12月07日
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「もう日が暮れまする。どうか、お戻りを」 側の草むらに跪いて、薄に引っかかっている髑髏を怖々眺めていた従者が、哀願するように少年に言った。少年はなおも名残惜しそうに延寿の顔を見ている。「四宮様。また私が女院様にひどく叱られまするゆえ」 従者の困りきった顔を見ると、ようやく少年はしぶしぶ頷いた。そして、驚いている乙前と延寿に言った。「それでは、これでさらばだ。延寿、構わぬから私を訪ねて来い。今は三条の待賢門院様の御所にいる。雅仁親王に推参を許されたと言えば、門番の武者も無碍に追い返しはせぬだろう」 そして、立ち去り際に乙前にも呼びかけた。「いつかまた、お前の歌を聴けると良いな。いや、必ずそうなる気がする」 子供らしくもない大層自信に満ちた口調に、乙前は思わず微笑んだが、ただ何も言わずに頭を下げた。 少年は明るく笑って、延寿に手を振りながら去って行く。乙前は延寿と二人で少年の乗った牛車を見送った。 少年の残した袖の香が、まだあたりにほんのり薫っている。 辺りは宵闇に包まれて、もうすでにあの髑髏の姿も定かではなかった。 (終)↓鴨川の川岸の薄。さすがに髑髏はないけど、白い鳥(鷺?)がいました。
2006年12月06日
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今様を歌い終わった後も、乙前はしばらく鴨川の流れの遠くを見つめていた。 いつの間にかあれほど輝かしく辺りを照らしていた夕映えの光は消え去り、誰そ彼の闇が乙前の足元に迫っている。頬を撫でて行く川風も冷たい。 乙前はようやく我に返り、まだ涙ぐんで川下を見つめている延寿を促して、少年に改めて礼を述べた。二人の側に立って共に小端舟を見送っていた少年は、鷹揚に礼を受けて乙前に言った。「まことに見事な歌声であった。お前のような歌を聴いたのは初めてだ。今まで今様など宴の戯言だと思うていたが、なかなかどうして。久しぶりに感服した。また聞きたい。そなた、名は何と言う?」 乙前は少し微笑んで答えた。「わたくしなど、名乗るほどの者ではございませぬ。それに、もうとうの昔に今様歌いは止め、夫が亡くなった今は尼となって家に篭っておりますゆえ」 少年は大層残念そうだった。そんな少年を、延寿は頬を染めて見つめている。乙前は苦笑して延寿の袖を引くと、前に押し出すようにして言った。「この子は美濃青墓の傀儡子おとどの弟子で延寿と申します。わたくしの替わりという訳ではございませんが、お気に召しましたらいつでもお屋敷へお招き下さいませ」「そうか、延寿か。良い名だ。よかろう、いつでも我が屋敷へ推参して参れ」 少年はいたずらっぽく笑って延寿の顔を覗き込んだ。延寿はにっこりと微笑んで小さく頷いた。↓最近関西へ引っ越したので、大好きな京都へも度々足を運べるようになりました。これは先月撮った鴨川の写真。(ただし、物語の舞台の五条ではなく、三条辺りですが…)久しぶりに河原まで降りてみた鴨川は、私の持っていたイメージよりずっと小さな川でした。(有名な川なので、いつの間にか頭の中で巨大化していたみたい)三条大橋から上流には、まだこんな風に草も茂っています。平安時代の面影が、少しは感じられるかな?
2006年12月05日
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乙前の今様に送られて、舟は鴨川をゆっくりと下りはじめる。 西の空はおりしも夕映えの最後の光を投げかけていた。その光に照らされて、河原の薄も、鴨川のさざ波も、延寿の愛らしい頬も、眩いばかりの金色に輝いていた。さきくさを乗せた舟はその黄金にさざめく川浪に乗って去って行く。 たった一艘きりで……。ただ一人きりで……。 乙前は思った。人の一生というものは、河の流れにただよう孤独な小舟のようなものなのだろう。たった一艘でどこからか流れてきて、たった一艘のままどこへとも知れぬ彼方へただ流れ去って行く。 人はこの穢土を離れて一体どこへ行くのか。ただ虚空へ消え行くのみか。それとも、輝かしい光に満ちた浄土へ行くのだろうか。 人には永遠にその謎を解くことは出来ない。だから、人はただ希望を抱くのだろう。たとえその身がどれほど汚濁にまみれていようとも、心の底から御仏の慈悲を信じ切ることが出来なかったとしても……。救いがどこか遠くにあると信じることだけが、人の生きる支えであり、死の宿命の恐れと哀しみを慰めるよすがとなるのだ。 さきくさ、あの西の山の彼方に、お前の望んだ浄土がある。山の端に沈みかけているあの夕日は、お前を迎える弥陀の顔。お前には背負いきれぬこの濁世の罪障も、すべてあの御仏が代わりに背負って行ってくださるであろう。さあ、この満ち溢れる光に乗って行きなされ……。 乙前の祈りの通り、さきくさを乗せた舟は静かに夕映えの鴨川を下っていく。そして、やがて音も立てずに、薄闇に霞む川浪の彼方に消えて行った。
2006年12月04日
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しばらく今様を歌う延寿の横顔を眺めていた乙前は、すうっと大きく一息吸うと、延寿の声に合わせて歌い出した。 胸を揺すぶるような力強い潤いのある歌声が、乙前の喉からほとばしる。その声は延寿のか細い声を圧倒するように、朗々と五条の河原中に響き渡った。延寿はいつの間にか歌うのを止め、久しぶりに聞く乙前の歌声にうっとりと耳を傾けている。 乙前は歌いながら、この今様を死ぬ間際まで歌っていたさきくさの心を思っていた。 いつかは浄土へ参るべき……さきくさにはわかっていたのだろう。自分が決して浄土へは行けぬことを。 遊女という罪深い生業でこの世の時を過ごし、たかが芸のためにたった一人の我が子を捨てた。そんな女がどれほど祈ったとしても、浄土へなど行けるはずがない。 そうわかっていながら、なお浄土を夢見て祈るのが人間と言うものなのだろうか。さきくさがあの歌を歌っていたのは、そんな自分の苦しみを、後悔を、わずかな希望を歌っていたのに違いない。 乙前はさきくさが哀れだった。そして、その憐れみは乙前自身へも向けられたものであった。乙前の歌声に、胸の震えるような響きが高まって行く。 そんな乙前を驚いたように見つめていた少年は、やがて従者を促して小端舟を鴨川の流れへ押し出した。
2006年12月01日
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