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播磨は兵衛尉を促して、少し離れた琵琶湖の辺まで連れて行った。 笠を取った播磨は、頭を剃り以前より少し痩せていたが、相変わらず目つきは鋭かった。だが、兵衛尉を恐れさせたあの瞳の冥さは、幾分失せていた。播磨は、少し柔和になった微笑を見せて言った。「お前たちが京に帰ると聞いたのでな。お前に会いたいと思って、山を降りてきた」「どうしてわかった」「派手好きの親父殿のこと。黙っていても下々の耳にも入る」「そうか。今はどこにいるのだ」「比叡の山のさる塔頭だ。もちろん、下働きの下郎だがな。一昨年、思うところあって出家もした」「そなたが僧侶になるとは意外だな」「これの導きかもしれんな」 播磨は懐を探り、何かを取り出した。 それは、千手が持っていた観音像の袋だった。 播磨はそれを兵衛尉の手に握らせて言った。「これをお前に渡そうと思ってな。それで昨日山を降り、この湊で待っていた」「なぜ、これを私に? それに、そなたは国府が焼き打ちされそうになっていたあの時、どこで何をしていたのだ。あの後だって、いくら探しても見つからなかった。一体どこへ行っていたのだ」
2006年06月14日
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父の帰京の行列は、にぎにぎしいものだった。 父はいつも国司としての権威を振りかざすのが好きだった。それはおそらく、京での鬱屈した心持の裏返しだったのだろう。父は財宝を積みこんだ車を何台も連ね、自分は派手な牛車に乗って越前を発った。 兵衛尉は父とは同乗せず、一人で馬に乗って従った。この馬はいつも敦賀に行く時に乗っていたお気に入りの馬だ。今ではこの葦毛の牡馬だけが敦賀を思い出すよすがだった。 峠をいくつも越え、琵琶湖に着くと、父はたくさんの船を雇い、一切を積みこんで、船で琵琶湖を南下した。越前へ着た時には、兵衛尉は初めて乗る大きな船に興奮したものだった。だが、今回はだんだん遠くなっていく越前の方角を眺めたまま、ぼんやりと船べりに立っているだけだった。 大津の打出が浜に着くと、京から大勢家人を連れた兄が迎えに来ていた。久しぶりに会う兄はでっぷりと太り、ただ抜け目のない濁った眼差しだけが父と似ていた。 父は兄と連れ立って、今夜の宿にする予定の寺に向かった。兵衛尉も騎馬で後を追おうとしたが、ふと船着場の傍らの大きな柳の木の下に、一人の笠を被った僧が立って、こちらを見ているのが目に付いた。 兵衛尉がじっと見つめ返すと、僧はふいに笠を指で持ち上げ、顔を見せた。 播磨だった。 兵衛尉が驚いて思わず小さな声を上げかけると、播磨はしっと制し少し笑った。 兵衛尉はしばらくこの辺りを見て行くからと従者を先に帰らせ、播磨の方へ馬を進めた。
2006年06月13日
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兵衛尉は小さな声で歌い出した。 道の口 武生の国府に われはありと 親に申したべ 心あひの風や さきむだちや 思えば、自分は千手のことなど何一つ知らなかったのではないか。 兵衛尉はふいにそう思った。 千手は思ったことを口に出さない女だった。愚痴も言わず、哀しみを訴えることもなく、ただいつも優しく笑っていた。異国へ売り飛ばされ、遊女にまで身を落とした千手に、地獄のような辛さや哀しみがなかったはずはない。だが、千手は兵衛尉がそれを問うても、いつも寂しそうに笑うだけで、何も言わなかった。 ただ一つ、千手の心を語っていたものが、あの物悲しい胡弓の音色だったのではないだろうか。千手の胡弓を聞くと、兵衛尉はいつも胸が締め付けられるような思いがした。 あれが、千手だったのだ。 兵衛尉はまだ若く、それに気づかなかった。そして、ただ千手の優しさに甘えていただけだった。 自分は千手にとって何だったのだろう。 彼女の哀しみを抱き取ってやることも出来ず、あの遊女屋から救い出してやることも出来ず、とうとう命を助けてやることも出来なかった。 兵衛尉は両の手を握り締め、いつまでも敦賀の海を見つめていた。 冷たく強い海風が目に染みる。 そのせいなのか、兵衛尉の頬にはいつまでも涙が伝っていた。
2006年06月12日
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老僧の庵からの帰り道、兵衛尉はふいに敦賀の海が見たくなった。 千手が死んでから、敦賀には一度も行っていない。千手のいない敦賀を見るのが辛かったからだ。 だが、越前を去れば、もう二度と敦賀へ行くこともないだろう。 そう思うと、兵衛尉の胸に敦賀での千手との日々が甦ってきた。何も知らず、千手に甘え、日々を優しさに包まれて過ごしていたあの頃。賑やかな敦賀の町並み、人々のざわめき、陽光に輝くどこまでも蒼い海。全てが兵衛尉には懐かしかった。 気がつくと、兵衛尉は馬に鞭を宛て、敦賀へ向かう街道へ馬を走らせていた。 峠を越え最後の丘を上ると、敦賀の海が見えた。 冬枯れたような暗い海だった。灰色の空を映した濃い鈍色の海に、寒々しい荒い白波が立っている。湊に舫う船影もない。海から吹く強い風は細かい氷の粒を含み、兵衛尉の額を打った。 もうあの頃の輝かしさはどこにもない。 冬の荒涼として空虚な海は、そのまま兵衛尉の心を映したかのようだった。 ただ微かな潮の香りだけが、あの頃のことを思い出させてくれた。 兵衛尉は千手のいたあの遊女屋の高楼を思い出す。そして、初めて会った時千手が歌ってくれたあの催馬楽も。 道の口 武生の国府に われはありと……千手、あの催馬楽の文句が、本当になってしまったな。 敦賀の湊にいた千手は、今は武生に眠っている。この湊に吹くあいの風は、千手の故郷の宋の国まで渡って行くのだろう。どうか、千手の想いを届けてやってくれ。そして、いつかお前に乗せて故郷へ連れて帰ってやっておくれ。
2006年06月10日
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京に帰らずに、このままずっと千手の墓守をしてやりたい。そう思った兵衛尉だったが、そのようなことをあの父が許すはずもない。越前を引き上げる日も父に勝手に決められてしまった。 明日は出発という日の前日、兵衛尉は厩を訪れて爺に別れを告げた。爺は涙を流して別れを惜しんでくれた。兵衛尉は少々過分な金子を爺に渡した。これだけあれば、もし働けなくなっても、当分は何とか暮らして行けるだろう。 それから兵衛尉は、千手の墓がある老僧の庵にも行った。そして、老僧にも多額の布施を渡し、これからずっと墓を守ってくれるよう頼んだ。 兵衛尉は自分が寄進した千手観音に手を合わせて祈り、千手の墓に最後の別れを告げるために庭に出た。 雪国越前の春はまだ遠い。 兵衛尉は去年の春を思い出した。千手の墓の上の桃の木が初めて花を付けていた。まだ若木で花の数は少なかったが、墓の上に散り敷いた薄桃色の小さな花びらが、千手の唇を思わせて、兵衛尉には切なかった。 もう二度とこの桃の花が咲くのを見ることもないのか。そう思うと、兵衛尉は胸が張り裂けるような気がした。
2006年06月09日
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千手が死んでから、三回目の冬が来た。 父の越前守の任期はもうじき終わる。父は冬中京に使いを送って、次の任官運動に奔走した。 ところが、正月の県召で、父は大国の国守になり損ねた。父の怒るまいことか。あれほど権門の屋敷に高価な産物を贈ったり、荘園を寄進したりしたのに。 父は激怒して、すぐに京へ帰って諸方へ訴えると言い出した。周囲の者は、もう少し暖かくなってから帰った方がいいと散々すすめたが、他人の言うことを聞くような父ではない。早速、越前の国中に手配して余すところなく富を狩り集め、京には持って行けないようなものは処分して、帰り支度を始めた。次の国司との大事な政務の引継ぎも、国府の目代に押し付ける始末。 兵衛尉はそんな父を冷ややかに見ていた。 あれほど心を尽くして権門に取り入り、財産の限りをつぎ込んで任官を願っても、大貴族の気まぐれ一つで運命を左右される。そんな父が哀れでさえあった。 京に帰ると聞いても、大して興味は湧いてこない。兵衛尉はもはや権力や富に興味を失っていた。 ただ、越前を離れるのは嫌だった。 越前には千手の墓がある。兵衛尉はあれからも時々千手の墓を詣でていた。そして、千手の名の元になった千手観音を仏師に彫らせ、庵に寄進した。 本当は千手が故郷から持ってきたあの小さな金銅の千手観音を供養してやりたかったのだが、いつも身に付けていたはずの千手の遺体には、あの錦の袋は下がっていなかった。敦賀の遊女屋にも遣いを出して探させたが、そんな物はないという。もっとも、あの遊女屋の女将は千手が大切にしていたあの胡弓さえとっくに売り飛ばしていたそうだから、大方それと一緒に勝手に処分してしまったのだろう。
2006年06月08日
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その後、山中で見つかった二人の死体は、焼き討ちを画策するために豪族が野へ放っていた者たちと判明した。だが、口を割った賊の残党の話によると、命を受けて動き回っていたのは三人だったという。もう一人の探索も行われたが、まるで雲を払うように掻き消えていて、結局何の手がかりもなかった。 兵衛尉の頭に、ふと千手から聞いた話が浮かんできた。播磨が連れてきた二人の男。千手が焼き討ちについて知らせに来たのも、その男たちに何か関係があるのではないか。兵衛尉の胸に、播磨の冥い鋭い眼差しが浮かんできた。あの男なら。 だが、兵衛尉は父には何も言わなかった。国府はもう救われたし、父は用心を堅くして国府の警護に大勢の武者たちを駐屯させることにしたので、これから先襲われることもないだろう。 それに、何を言おうと、何をしようと、もう千手は帰っては来ない。おそらく、あの二人の男は、どうにかして焼き討ちの一件を知った千手の口を封じるために彼女を斬ったのだろう。そして、仲間割れでもして、互いに斬り合ったのかもしれない。だが、今更それを詮議してどうなるだろう。兵衛尉は、焼き討ちの一件には既に興味を失っていた。播磨のことも、もうどうでも良かった。それに、千手は播磨が捕らわれることを望むまい。 兵衛尉は、父が何と言おうと焼き討ちの一件には関わりあおうとせず、密かに袖の下に数珠を隠して、千手のために経文を誦していた。
2006年06月06日
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兵衛尉の目に新たな涙が溢れた。 このままずっと千手の側にいたい。 いつまでも涙を流し、亡骸に土をかけることも出来ないでいる兵衛尉を見かねて、老僧が一人で墓をうずめてくれた。 兵衛尉は庭の隅に植えられていた桃の若木を僧に請い、墓標のかわりに千手の墓の上に植えた。 桃は千手の故郷の宋の国で、ことのほか好まれる花だという。千手はいつも故郷を恋うていた。この花の咲くのを見れば、きっと故郷に帰ったような気持ちになれるだろう。「安らかに、お眠り」 兵衛尉は千手の墓の土の上に顔を寄せ、かすれた声でそっと囁いた。 そして、老僧がもう一度回向を傾ける中、兵衛尉は立ち去り難い思いを振り切って、武生の国府へ帰っていった。
2006年06月04日
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武生の町の外れに小さな庵がある。庵の主は年老いた僧で、時折父の元へ書物を借りに来ることがあった。若い頃は京の寺にいたというその僧は、温和で学識もあり、兵衛尉も何度か父の遣いで庵を訪れたこともある。 兵衛尉がその庵に向かおうと思ったのは、その僧に千手の弔いをしてもらいたかったのだ。あの者なら、千手のことを憐れんで、心から供養してくれるだろう。 兵衛尉が庵を尋ねると、老僧は驚いたが、兵衛尉から話を聞くと頷いて、心をこめて経を読み回向してくれた。 回向が済むと、兵衛尉は庵の片隅に千手を葬ってもらえるよう僧に頼んだ。この静かな庵でなら、千手も安らかに眠れる。それに、毎日朝夕尊い経文を聞くことができるだろう。 兵衛尉は僧の手を借りて庭に穴を掘り、衣に包まれた千手の亡骸をその穴に下ろした。 その拍子に、衣の隙間から、千手の黒髪が零れ落ちた。生きていた時と同じように艶やかな、長い黒髪。その髪の一房を握り締め、唇に当てると、微かに懐かしい白檀の香りがした。 何度この黒髪にくちづけし、その豊かな流れに顔をうずめたことだろう。 兵衛尉は優しく彼の髪を撫でる千手の指先を感じたような気がした。 でも、もう二度とあんな風に髪を撫でてもらうことはないのだ。あの優しい笑顔を見ることもない。 そして、あの胡弓の音色も。
2006年06月03日
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家人はそんな兵衛尉に同情を見せつつも、呆けたようにすすり泣く兵衛尉に言った。「死体は、これだけではありませぬ。あの角を曲がった辺りにもう二人」 驚いて兵衛尉が顔を上げると、家人は山道の先を指差した。兵衛尉はふらふらと起き上がって、山道を登ってみた。 角を曲がると、凄惨な光景が目に入ってきた。 家人が先に掘り起こしたのだろう。雪の中に二人の男が倒れていた。掘り起こした雪が、夥しい血で染まっている。二人の男は喉を切り裂かれ、首はようやく胴に繋がっているだけだった。胸や腹も何度も刺されたのか、大きな傷口から血まみれの臓物がはみ出している。恐ろしい苦悶の表情を浮かべた顔には、見開かれ剥き出しになった眼球が灰色に濁っていて、兵衛尉は思わず吐き気をもよおした。 青ざめて立ち竦んでいる兵衛尉に、家人は言った。「若、いかがいたしましょうか」「この二人は、このまま莚にでも包んで国府へ運べ。焼き討ちに関わりのあるものかもしれぬ。捕まえた賊の残党に見せて、詮議せよ」「女の方は」「私が始末をつける」 兵衛尉は身に付けていた単を一枚脱いで、千手の身体を包んだ。そして馬に乗ると、家人の力を借りて千手の亡骸を馬上に抱き上げ、一人で武生の方へ戻っていった。
2006年06月02日
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千手の亡骸は、大きな杉の根元に、横たわっていた。雪に埋もれていたせいで、なかなか見つからなかったらしい。 兵衛尉がそこにたどり着いた時、半ば掘り出された千手の顔だけが、雪の中から覗いていた。 白い、小さな顔。いつもほのかに薔薇色に輝いていた頬は、今は冷たく冴え渡り、どこか高麗の白磁を思わせた。美しい顔には傷一つ無く、微かに微笑みを浮かべているようにさえ見える。 千手の死顔からは、千手が今までの人生で受けてきた汚辱も哀しみも、すべてが拭い去られているようだった。まるで、小さな雪の精か何かのように、清らかな……それが、逆に兵衛尉の胸を締め付けた。 兵衛尉は辺りも構わず慟哭した。いつまでも、いつまでも。 後で家人が雪から掘り起こしてくれた千手の亡骸は、惨たらしく血に染まっていた。山中へ向かって逃げて行くところを後から斬りつけられ、倒れた後何度も背中から刺されたようだ。 さぞかし恐ろしく辛い思いをしただろうと、兵衛尉は胸が詰り、千手の亡骸に取りすがってまた泣いた。
2006年06月01日
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