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亡骸が舟に積まれると、少年は延寿に優しく言った。「これで良いか」 延寿は瞳を輝かせて頷いた。少年は愛らしい延寿の顔を満足そうに見つめていた。乙前は延寿に言った。「さあ、若様に御礼を申し上げなされ。そして、さきくさの嫗に最後のお別れを」 延寿は少年に礼を言い、舟に近づくとそっとその上の筵をめくった。そして、涙の浮かんだ目でしばらく亡骸の顔を見つめていたが、やがてまた小さな声であの今様を歌い始めた。 暁しづかに寝覚めして 思へば涙ぞおさへあへぬ はかなくこの世を過ぐしても いつかは浄土へ参るべき(夜明け前にひとり、ふと眠りから目覚め、今まで生きて来た過去を振り返ると、たまらなく涙があふれてくる。このように無為に罪深い現世を過ごしていたら、一体いつになれば浄土へ参れるのだろうか。いや……)
2006年11月30日
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仏への冒涜に等しいこの言葉を聞いても、少年は眉もひそめず逆に納得したようだった。「そうか。経文であれ今様であれ、御仏の心を説けばみな同じ。死んだ者への良い供養となるであろう。だが、こんな河原に亡骸を置き去りにせず、鳥辺野にでも運んで行ったらどうだ」「鳥辺野は遠うございますゆえ、我らにその力はありませぬ。それに、下々の者の間では、このような河原に死者を葬るのもよくあること」 乙前は穏やかにそう言ったが、延寿は痛ましそうに呟いた。「でも、こんな河原においていては人目にさらされるし、すぐに犬や烏に食い荒らされてしまう。それでは嫗があまりに可哀想じゃ。せめて、この川にでも流すことが出来ればいいのに」 それを聞いた少年はこともなげに言った。「ならば、舟にでも乗せて流せば良いではないか。ほら、そこに舟もある」 確かに、汀の潅木には一艘の小さな小端舟が舫われていた。「まさか、誰の物とも知れぬ舟を勝手に流すことなど出来ませぬ」 乙前はそう言ったが、少年は早くも牛車の側にいた従者を手招きしながら言った。「構わぬ。良忠、この亡骸を運んであの舟に乗せよ」 良忠と呼ばれた従者は露骨に嫌そうな顔をして後ずさったが、平然と命じる主の少年には逆らえないのか、しぶしぶさきくさの亡骸を筵で包んで引きずって行った。
2006年11月29日
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その時、どこからか延寿の声に合わせる笛の音が聞こえて来た。 乙前が驚いて辺りを見まわすと、鴨川の堤の上にいつの間にか網代車が一台止まっている。女車のようにやつしてはいるが、笛の音が聞こえて来るところを見ると、乗っているのはどうやら男らしい。 延寿が歌い終わると、笛の音はふっと止んだ。牛車の御簾が動いて、誰かが出て来るようだ。 豪華な車の様子からしてどんな立派な殿上人が乗っているのだろうと乙前が見ていると、案に反して車を飛び降りて来たのは延寿と同じ年頃の少年だった。艶やかな髪を後ろで束ね、品の良い香染めの童水干を着ている。良家の子弟なのは一目瞭然だが、下がり気味の眉に愛嬌があり、鼻が少しつんと上を向いている辺りなどなかなか利かん気そうだ。 少年は牛車に付き従っていた従者が止めるのも聞かず、さっさと堤を下りて乙前たちに近づいて来ると言った。「綺麗な声だな。興が乗って、思わず笛など合わせてしまった。それにしても、なぜこんな河原で今様など歌っているのだ」 乙前は傍らのさきくさの棺を指差して言った。「縁者の者をここで葬っていたのでございます。我らのような下々の者は、尊い経文など知りませぬ。その代わりに、いつも今様を歌って死者を送るのです。我らは傀儡子でございますれば」
2006年11月27日
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乙前はそう言って微笑むと、空を見上げた。気がつくと、いつの間にか空は茜色に染まっている。乙前は延寿に言った。「もうすぐ日が暮れる。我らもそろそろ引き上げるとしよう。さきくさへの別れは惜しいが、いつまでこうしても切りがあるまい。さあ、最後に今様を歌ってさきくさをあの世へ送っておやり。お前はさきくさのたった一人の縁者なのだから」「でも、嫗は……」「確かに、さきくさのしたことは許されることではない。だが、人というものは弱いものじゃ。懸命に生きていても、過ちを犯してしまう。どうか、さきくさを恨まないでやっておくれ」 乙前にそう言われてようやく納得したのか、延寿ははにかんだように言った。「でも何を歌いましょう」「ちょうど良い。さきくさがいつも歌っていたあの歌を」 乙前に促されて、延寿は静かに今様を歌い始めた。暁しづかに……延寿の優しい澄んだ歌声が、夕暮れの迫る河原を抜け、京の町へと広がって行く。
2006年11月25日
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「はい、わたしが最後に嫗を見舞った時も、暁しづかに……の歌を歌っておりました」「さきくさは死ぬまで今様を捨てることが出来なかった。芸は人の生涯の全てを飲み込んでしまうのだよ。わたしはさきくさのようになるのが恐ろしかった。だから、今の夫に妻になってくれぬかと言われた時、今様を捨てる決心をしたのだ。夫は手広く商売をしておったから、わたしも手伝いをせねばならなかったしの。わたしの芸を惜しんでくれる者もあったが、わたしは今様の世界からすっかり足を洗い、生まれた娘にも今様を教えなかった。自分の芸のすべてを託した弟子もない。正直に言えば、私の芸がそうやって何もかも残らずこの世から忘れ去られていくのは、あまりに寂しい気もするの。声の技は儚い。和歌のように紙に書き残すことができぬから、ただ空に消えて行くだけじゃ」「では、わたしに教えてくだされば良いのに」「お前には師匠のおとどがおろう。差し出た真似は出来ぬ。それに、今は誰にも教える気にならなくてな。だが、時々、無性に歌いたくなることがあっての。芸好きの傀儡子の血が騒ぐのか、わたしもさきくさのように既に今様に執りつかれてしまっているのか。因果なことじゃ。だから、いつかまた誰かに今様を教えたくなるかも知れぬよ」
2006年11月22日
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「だが、それも虚しいこと……」「なぜ?」「芸は残るが、美はうつろう。さきくさは遊女じゃ。姿形の美しさこそが遊女の誉れ。我ら傀儡子の芸と違って、遊女の芸は所詮添え物に過ぎぬ。どれほど芸を極めたとしても、年老いて美しさを失った遊女は相手にされない。その上、その頃には既にわたしらのような若い今様歌いがたくさん京へ出ておった。さきくさの歌は古臭いといって、だんだん客に受けなくなって行ったのだよ。恐ろしいことじゃ。すべてを賭け、娘まで捨てて極めたはずの芸が、何の価値もないものになってしまうとは……」 乙前は溜め息をついて天を仰いだ。そして、打ち明けるような低い抑えた声で、延寿に言った。「わたしがまだ若いうちに今様を歌うのを止めてしまったのは、元はと言えばさきくさを見ていたからなのだよ。お前も心しておくがよい。芸は人を魅惑し、がんじがらめにしてしまう。そして、その人から何もかも奪い尽くしても、執着を解くことはない。さきくさは今様をすっぱり止めたと言っておったが、時々一人で今様を歌っていたのをお前も知っておろう」
2006年11月21日
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「きっと、その娘のために泣く泣く手放したのでしょうな。誰でも、自分の娘の幸せを考えるもの。さきくさの嫗はとても優しかったから、高貴な血を引く娘がいずれは遊女になるのを憐れんだのでしょう。父親の手元へ行くなら安心だと……」 自分ももう少し大人になったら、傀儡子の女として客を取らねばならなくなることを知っている延寿は、哀しそうに呟いた。だが、乙前は静かに言った。「相手が信用の置ける人であったのならな。だが、さきくさは公卿のことを愛してはいたが、内心では男が当てにはならぬことを知っておったのだよ。だが、それを知っていながら、娘を手放した」「どうして……」「さきくさはな、娘が邪魔だったのだよ」 延寿は目を見開いて黙り込んでしまった。乙前は延寿の顔を見ずに続けた。「さきくさはわたしに言ったよ。娘を手放したのは、娘の幸せを願ったのも事実ではあるが、それよりも自由になりたかったからだと。さきくさは今様に執りつかれておった。いつもたった一人で生きて来たさきくさには、芸だけが全てだった。お前もよく知っておるように、芸を極めそれを維持して行くことは並大抵のことではない。だが、始終泣き喚いたりまとわりついたりする幼子が側におっては、芸の稽古にまるで身が入らなかったそうじゃ。それに、子を産んだことは周りには臥せておったし、密かに預けておくような身内もいなかった。誰にも頼らぬと決めておったさきくさは、思い余って父親からの話に乗ってしまったのだそうだよ。そして、それからは、娘はいなかったものと思い定めて、芸に打ち込んだのだそうじゃ」
2006年11月20日
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「わたしは……さきくさの嫗のひ孫……。でも、本当にその居候の女の人は嫗の娘だったのですか?」「わたしもずっとその女のことが気にかかっておったのじゃが、さきくさは長い間江口へ引っ込んでおったので確かめようがなかった。だが、お前を引き取ってしばらくした頃、さきくさがあの禅師と一緒に京へ戻って来たのだよ。わたしはすぐにさきくさを訪ねて、その女のことを聞いてみた。わたしがその女がいつも歌っておった胡蝶の今様の話をすると、間違いなかろうと言ったよ。その歌はさきくさが自分の母親から教わった歌で、いつも子守唄がわりに娘に歌ってやっていたそうだ。だが、その女がどんな有様で我らに見つけられたか話すと、さきくさは胸がつぶれてしまったようじゃった」「どんな様子だったの」「それは、お前は聞かぬが良い。とにかくそれまで哀れな生涯をたどって来たことは確かじゃ。さきくさは私に言ったよ。美しい屋敷で姫君として過ごしていると信じていたのにと」「姫君?」「さきくさは名を明かさなかったが、娘の父親はさる公卿だったそうじゃ。お前は我らと違って雅な装束が良く似合う。大方その男の血筋じゃろう。父親が娘を屋敷へ引き取っていったので、以後さきくさは縁を切ったつもりでいたのだそうだよ」
2006年11月19日
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「だが、もう少しさきくさが我らに甘えてくれておったなら、あんなことにはならなかったろうに」「本当に。あんな寂しい死に方を……」「それだけではないのだよ」「なんのこと?」 不審そうに見つめる延寿に、乙前は自分を励ますように深い溜め息をついた後に言った。「さきくさはの、自分の子を捨ててしまったのだよ。そして、その子の孫に当たるのが、延寿、お前さ」 延寿は驚いて目を見開いた。しばらくは声も出ない。「お前には今まで、お前は親が誰かもわからぬ拾い子だといっておいたが、本当は違う。私が育った目井様の家には、女が一人居候しておってな。我らはその女がさきくさの娘だと思っておった。そして、その女が連れていた赤子の面倒も我らで看て来たのだが、その子は母親を捨てたさきくさをひどく恨んで、終いにはぐれて行方をくらましてしまっての。それ以来どこへいったか皆目わからなかったのだが、十年ほど前にひょっこりわたしの五条の家に訪ねて来た。そして、赤子を一人置いて行ったのだよ。今何をしているかは言わなんだが、手元で育てるのはあまりに不憫じゃと言ってな……。それがお前じゃ。おとどが是非自分の弟子にと望んだので、お前はおとどの家に預けた。それにしても、あれほど恨んださきくさと同じように、自分も子を捨てることになるとは、どういう因縁かのう」
2006年11月17日
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「それで青墓を……。でも、その後なぜ遊女に?」「大方その京の男に捨てられて、仕方なく元いた江口の親類を頼ったのだろうよ。目井様がそれから三年ほどして都へ上った時には、さきくさはもう今様上手の遊女として評判を取っておったそうじゃ。時には名高い歌詠みの源俊頼様のお屋敷などに招かれて、四三様と一緒に今様を披露したりしたこともあったとか」「四三様はお許しになったのですか」「四三様は気の優しいお方じゃからの。それに、我ら傀儡子は一度でも仲間に加わった者は決して疎かにはせぬ。けじめがあるで青墓には立ち入らせぬが、京で互いに行き来するのにうるさいことは言わぬから、さきくさは今までずっと我らと関わりおうて来た訳じゃ」「それなら、こちらでさきくさの嫗の面倒を見てやれば良かったのに。そうしたら、嫗はあんな汚い小屋に押し込められて、お坊様の祈祷一つして貰えぬまま死んでしまうこともなかったのに」 延寿は悔しそうに唇を噛み締めて乙前に詰め寄った。延寿はいつも暗い冷たい筵の上にほおって置かれていた哀れなさきくさの姿を思い出したのだろう。乙前はなだめるように延寿の頭を撫でて言った。「わたしもさきくさにそう言うたことがある。だが、さきくさは決してうんとは言わなんだ。わたしは青墓の傀儡子とは縁を切った者じゃ、甘えては示しがつかぬと言ってな。どうしても我らの世話になろうとはしなかった。あれでなかなか情の強(こわ)い女子であったの」
2006年11月15日
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「では、なびき様の養女に?」「いや、さきくさは所詮家の下女であったからな。なびき様が亡くなった後も、四三様が可愛がってずっと今様を教えておられたが、さきくさは結局十五歳で青墓を飛び出してしまうまで、なびき様の末娘である万歳様の召使扱いじゃったよ」「さきくさの嫗は万歳様が嫌で青墓を逃げ出したのでしょうな。万歳様は四三様と違って意地の悪いわがままな人だったと、おとど様がよく言われておりました。自分より歌が上手な者をいつも妬んでいて、おとど様もずいぶんいじめられたとか」「それもあったかも知れぬがな。さきくさが青墓を出て行った訳はの、男が出来たからよ」「男?」 延寿は眉をひそめた。乙前はまだ子供じみた延寿の表情を苦笑して眺めながら続けた。「わたしの師匠の目井様はさきくさと同じ年頃で、二人とも四三様から今様を習っていたこともあって、大層仲が良かったそうでな。さきくさは、目井様にだけ訳を打ち明けて出て行ったそうじゃ。さきくさは時々青墓に京の反物やら小間物やらを商いに来ていた若い男にすっかり惚れてしまってな。どうしてもその男と共に暮らしたいと、泣いて目井様に許しを乞うて去って行ったそうじゃ。だが、大層世話になった四三様をはじめ、他の青墓の者には挨拶一つなかったし、男に唆されたのか家の銭まで持ち逃げしたらしい。それで青墓の者はみな怒ってな。以後二度とさきくさには青墓の地は踏ませぬと決めたそうだ」
2006年11月14日
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乙前はさきくさの亡骸の前で項垂れている延寿の小さな肩を抱き、抑えた低い声で語り始めた。「さきくさが、ずっと昔、美濃青墓の傀儡子の群れで暮らしていたのを、知っておるかえ?」「はい。嫗は江口で生まれたけれど、子供の頃青墓に住んでいたことがあって、今様もそこで習ったとか。だから、今でも我らと行き来しておると、おとど様が申されておりました」「そうじゃ。さきくさはほんの幼い頃に母親に売られて、青墓の長者であったなびき様の家に買われて来たのだよ。なびき様は、お前も知っての通り、今の今様歌いの全てがその芸を受け継いでおるといわれるほどの今様の名手であった。さきくさはなびき様の家で下働きをしておったそうだが、ある時小川で水仕事をしながら歌を歌っているその声を、なびき様が聞きとめられての。もっと歌ってみよと言ったのだが、まだ幼い子供だったさきくさははにかんで口をつぐんでしまった。それでも強いて歌うように言うと、あの泥障(あおり)の今様を歌い始めたそうじゃよ」「胡蝶胡蝶と人は言えど、古泥障をかつぎてぞ舞う……」 延寿は小さな声で口ずさんだ。「そう、あの歌だ。その時さきくさが川で洗っていたのが泥障だったそうでな。その場の成り行きにぴったりと合った歌を選んだ才といい、澄んだ歌声のめでたさといい、なびき様はすっかり惚れ込んでしまって、ご自分の娘である四三様らと一緒に今様を教えるようになったそうじゃ」
2006年11月13日
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延寿は頷くと、夜具の衾でも掛けるように優しく、さきくさの死骸を筵で覆ってやった。乙前は延寿を促して、共に棺の前で手を合わせた。延寿はしばらく祈った後、棺に向って小さな声で囁いた。「嫗、いつも可愛がってくれてありがとう。嫗のことはきっと忘れませぬ」 そして、また新たな涙をこぼしながら、やがて誰に言うともなく呟いた。「どうして、さきくさの嫗はずっとわたしに優しくしてくれたのだろう。時々わざわざ顔を見に来てくれた。それに、会いに来る時には、必ず菓子や人形まで持ってきてくれて。嫗はあの禅師殿の家で厄介になっていたのだから、きっと無理をしてお土産を買ってくれたのであろうに。何の縁もないわたしに、どうして……」 延寿は言葉に詰まり、とうとうわっと泣き伏してしまった。乙前はそんな延寿の姿を見ながら思い出していた。忙しい禅師の家の仕事の合間を縫うようにして時々おとどの家へやって来ては、延寿を膝に抱いてあやしたり小さい声で今様の子守歌を歌ったりしていたさきくさの姿を。 どれほどこの幼い者をさきくさが愛していたか、乙前には痛い程良くわかっている。だが、さきくさは決して延寿に自分が誰か明かそうとはせず、乙前にも固く口止めしていた。 乙前はさきくさの亡骸に向って、心の中で呟く。 もういいだろう? 少しだけ、延寿に本当のことを明かしても。そうでなければ、あまりにそなたが哀れじゃ。それに、何も知らずに、自分は身よりのない孤児(みなしご)だとずっと思っている延寿もな。
2006年11月11日
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ぼろぼろに壊れた棺の前にしゃがみ込んで涙ぐんでいる延寿の後ろ姿を眺めながら、乙前は今去って行った女のことを考えていた。 あれは袈裟に違いない。ひどく面変わりしてしまったようだけれど、確かにまだ昔の面影が残っている。一体どうしてここにいたのだろう。どうやってさきくさが死んでここへ運ばれたことを知ったのか。それにしても、死骸を打ち据えようとするとは。とても人間の仕業とは思えぬ。今何をして暮らしているのか知らぬが、どうせまともな生業ではあるまい。哀れな女じゃ。 乙前はふっと深い溜め息をついた。「乙前様、さっきの女を知っているのですか」 延寿は涙を拭いながら乙前を振り返った。乙前は曖昧に首を振りながら答えた。「いや、どうやら人違いであったらしい」「そうですか。大方、嫗の着物でも盗みに来たのでしょうな。それにしても、棺までこんなに壊してしまうとは、何とひどいことを」 延寿は腹立たしげに女の去った方を睨んだ。どうやら、延寿は袈裟のことを、死体の身ぐるみを剥ぎに来る河原の女だと思ったらしい。乙前は心密かに安堵して、なだめるように延寿に言った。「どちらにしろ、ここで朽ち果てて行くのじゃ。棺が壊れたくらい大したことはなかろう。哀れに思うのなら、その筵だけでもきちんと掛けておやり」↓平安時代の女の子の図。写真は二度目の登場ですが、延寿はこんな服装の色違いのイメージかな。
2006年11月10日
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「袈裟!」 その時、後ろからそう叫ぶ声がした。驚いて振り返ると、そこにはくすんだ山鳩色の頭巾を被った初老の尼が立っていた。尼の鈍色の袖の影には、華やかな紅の衵を着た十二、三歳に見える美しい女童が隠れるように従っている。尼はびっくりしたように目を見開いて袈裟を見つめ、もう一度小さな声で呟いた。「もしや……袈裟ではないのか」 尼の後ろにいた女童は、恐る恐る袈裟の方を覗いた。袈裟の獣じみた怒りの形相と薄汚れた賤しい身なりを恐れたのか、その澄んだつぶらな瞳に明らかな嫌悪の色が過ぎる。袈裟は手に握っていた担ぎ棒を取り落とすと、一目散に逃げ出した。 一番見ては欲しくない者に、落魄れ果てた姿を見られた。それどころか、死骸を打ち据えようとする浅ましい姿まで。「待ちなされ。わたしじゃ、乙前じゃ」 尼は袈裟を引き止めようと大きな声で叫んだ。だが、袈裟はなおのことその声から逃れるように、あの髑髏が見守る河原の薄の間を駆け抜けていった。 汀の潅木に舫っておいた自分の舟のことなど思い出しもしなかった。
2006年11月08日
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突然湧きあがってきた激しい怒りにかられて、袈裟はふらりと立ちあがった。そして、さきくさの棺に近づくと、渾身の力を込めてやおらその棺を蹴り付けた。 何度も、何度も、袈裟は気でも触れたように棺を蹴り続ける。いまや、さきくさへの憎しみは抑えきれぬほど高まって、袈裟を狂乱させていった。 だが、そうしながら、袈裟の心の中には、袈裟自身も気付かないある虚しさがあった。袈裟は心の奥底では、自分の不幸は全て自分が招いたものだと悟っていたのかもしれない。それでいながら、袈裟はさきくさを責めずにはいられなかった。さきくさへの憎しみだけが、袈裟を支えつづけて来たのだ。それを失えば、袈裟は自らの惨めさに耐えられはしない。 だが、さきくさは死んだ。もう憎まねばならないものはいなくなってしまったのだ。憎しみを失っては、明日から一体何を糧に生きていけば良いのだろう。そう気づいてしまった自分自身をも打ち消そうとするかのように、袈裟はさらに激しく棺を蹴り付けた。 棺はもう既に粉々に壊れて見る影もない。辛うじてまだ筵は掛かっているが、破れた棺の間から、垢じみて灰色になった小袖の裾とひどく皺の寄った骸骨のような手が突き出している。 それを見ても、袈裟の胸の痛みは治まることを知らない。袈裟はとうとう側に転がっていた棺の担ぎ棒を掴み上げると、棺に掛かった筵めがけて突き立てようとした。
2006年11月07日
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その人からさきくさがこの京にいることを聞いた袈裟は、その時から手下に時々禅師の家の様子を探らせて来た。そして、惨めに年老いて病んでいるさきくさの有様を聞いては、おぞましくも胸の溜飲を下げていたのである。 さきくさを見張ると共に、袈裟は我が子のことも遠くからそっと見守り続けて来た。袈裟にもまだ僅かに人らしい心が残っていたのか。 だが、その子の前に姿を露わそうとは微塵も考えたことはない。野盗にまで落魄れて果てた自分。両の手は今まで殺めた人の血でべったりと濡れ、その身は穢れきっていくら洗っても落ちぬ賤しいにおいが染みついている。 その上、その想いはどうあれ、あれほど憎んでいたさきくさと同じように、結局は袈裟も我が子を捨てたのだった。今更どうして母親面が出来ようか。 ついこの間、町屋の陰からそっと垣間見た我が子の愛らしい横顔を思い出した袈裟の胸は、ずきりと激しく痛んだ。あのふっくらした桃色の頬に自分の頬を押し当て、小柄なか細い身体をぎゅっと抱きしめてみたい。あの艶やかに伸びた綺麗な髪を、自分のこの手で梳いてやりたい。この頃少し大人びて来たから、桜の細長など着せたらどんなにか……そんな母親らしい喜びを袈裟が味わうことは決して許されはしないのだ。 袈裟の胸に再び激しい怒りが込み上げて来た。あの可愛い子を失う羽目になったのは、元はと言えば全てあのさきくさのせいだ。あの女が自分の手元で育てていたのなら、少なくともしっかりとした人間に預けていたとしたら、母はあんな悲惨な目に合わずに済んだ。 そしてわたしも。
2006年11月06日
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だが、京へ戻ったものの、二人はすぐに奪った金を使い果たしてしまい、食い詰めるようになった。 常陸はいつしか京の町辻に立って追いはぎをはじめた。常陸は腕っ節だけは大層強い野蛮な男だったから、追い剥ぎは面白いようにうまく行った。そうしているうちに、常陸の周りにはだんだんその手の男たちが手下に集まり始め、一年も経たぬうちに一乗寺辺りの山裾に根城を持つ野盗の群れが出来上がったのである。袈裟もいつの頃からか黒い装束に身を包んでは野盗の真似事をはじめ、今では仲間の誰よりも度胸が据わっているといわれるほどだ。 だが、最近常陸は年を取ってきて、身体が思うように動かなくなってきた。それに近頃は検非違使の取り締まりもずいぶん厳しい。常陸も袈裟も仲間に慕われているわけではないし、もし掴まりそうになれば当然見捨てられて置いて行かれるだろう。それどころか、いつ仲間の誰かに売られて検非違使の役人に引き渡されるかもしれなかった。 やはり、あの子を手放しておいて良かったのだ。野盗の子などつかまってしまえばどんな目に会うかわからない。いや、その前に人並みのまともな暮らしなど出来ないのだから。 袈裟はもう十年以上も前に、一人だけ子を産んだ。だが、長い間考えた挙句、常陸には死産だったと偽って、生まれた女の子を密かに人に預けたのだった。
2006年11月02日
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つらい潮汲みに耐えるために、袈裟はいつしか知らず知らずのうちに今様を口ずさむようになっていた。それをたまたま塩田を見まわりに来た主が耳にし、その歌声の美しさを愛でて、袈裟を館勤めに格上げしてくれたのである。 塩田の下人小屋に較べれば、館の下仕えなど極楽のようなものだ。それに主は気の良い老人で、時々庭先に呼び寄せては袈裟の歌う今様を楽しむだけで、夜伽に召すこともなかった。本来なら、袈裟は地面に額を擦り付けて主を拝んでもいいくらいだ。だが、その頃には、袈裟は暗い眼をした、したたかで残忍な女に成り果てていた。 袈裟は京へ戻りたかった。こんなところで朽ち果てるなんて真っ平御免だ。 そう思っていた袈裟は、館に仕えていた一人の武者に目をつけた。常陸という渾名で呼ばれていたこの男は東国生まれで気が荒く、武芸や馬術に巧みなだけの無骨者だった。だが、猪首で不器量なくせに女好きで、博打に負けてはいつも金に困っていた。袈裟は巧みにこの常陸に近づき、自分の身体の魅力で虜にした上で、主を襲って金を奪い自分を連れて逃げるように垂らし込んだのである。 袈裟にすっかり溺れていた常陸は、袈裟の言うがままに頷いた。袈裟はこっそり館の中を嗅ぎまわって、金が主の寝間の厨子の中にあることをつきとめると、ある夜常陸を館の中へ誘い入れ、主の寝込みを襲った。 人影に気付いた主が騒ぎ立てたので、袈裟はためらわずに短刀を抜くと、主の喉を切り裂いた。袈裟にはもはや主への恩義を感じる心など微塵もない。そして、怖気づく常陸を叱咤して金を掴むと、一緒に若狭から逃げ出したのである。
2006年11月01日
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