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「本の道しるべ NHK趣味どきっ!2020年10-11月号」 気になる人の本棚を拝見できると聞いて取り寄せた。本棚には、その人の精神世界が写し込まれていると思う。よって特に平松洋子さんの本棚を見たかった。 残念ながら、写真家の方に思い入れがないのか、殆どの本の書影が鮮明ではない。ものすごい量の本に囲まれて過ごしているというのはよくわかった。私はもっと本は少なくて、もっぱら料理ばかり作ったり食べたりしているのかと思いきや「今は、1日のほとんどが読む時間と書く時間」とのこと。雑然とした本の並べ方に親近感を持つ。「小学校に上がる前、夕飯の買い物に行くときにはいつも片方の手をお母さんと手をつなぎ、もう一方の手に読みかけの絵本を持っていた」そう。同じ倉敷市出身。あの西阿知の町にそんな少女がいたのか。薄い綺麗な缶を付箋紙入れ、手作りのペーパーウエイトを使ってるそう。同じもんじゃないけど真似してみよう。 もう一人ビックリしたのは、岩波「図書」で美術史の連載をしていた橋本麻里さんの本棚。なんと夫と合わせて五万冊収蔵の、もはや図書館と言っていい「家」を建てている。全部読む必要はない、背表紙を見るだけで意味がある、という主張(←同意する)のもと、まさしく本に囲まれて過ごしている。そんな芸当のできない庶民の我々には、行きつけの大型書店や図書館を決めて「棚の景色」を覚えて、「知識のマップをつくり、世界への入り口にする」ことをお勧めしてくれています。やってみよ。 渡辺麻里奈さんの本棚が最もうちの本棚に近かったかな。その他の本棚は、矢部太郎、祖父江慎、穂村弘、飛田和緒、坂本美雨でした。その他、テーマのある本屋さんの楽しみ方、読者会の楽しみ方などが特集されています。
2021年08月31日
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「野生伝説 羆風」矢口高雄 ヤマケイ文庫 prime readingで無料で読ませて貰ったが、総計1000頁近くある読み応えのある実録漫画である。大正4年(1915)の12月、北海道苫前に人喰いグマが現れる。袈裟掛けと称される巨大羆は12月9日に主人の留守を守っていた妻と男子を、翌10日に熊狩りを避けて避難していた二家族の女子どもを襲い胎児を含む4名を殺害、3人に重症を負わせ、結局最終的に8人を惨殺した(この事件以前に3人を殺していた可能性もある)。 村人たちはマタギを招集、自警団を組織して迎え撃つが、3回も取り逃す。やがて県組織の到着、熊撃ち名人の仕留めにより翌々日に死体となるのではあるが、その一部始終をリアリズムの極地の漫画によって再現している。戸川幸夫の「羆風」を原作としているが、実際はその小説の基になった木村盛武「獣害事件最大の惨劇 苫前羆事件」の奇跡的な調査記録が原作と言っていいだろう(事件から46年後、昭和36年に生き残りの方々に聞き取りして完成させた)。北海道開拓民と、森の主である袈裟掛けを同等に描き、一人ひとりの殺害場面は、幼児や妊婦といえども一切手加減なしに描いている。羆は羆のルールで、獲物(人間)を殺害し、美味いところを食し、保存し再び襲う。猟師たちは後手後手に回る。事実の持つ重みが、読者を撃つ。 まるで一人で30人を殺した「津山事件」のような悲惨な場面が続くのではあるが、読後感は全く違った。ここで描かれるのは、惨劇の悲惨さというよりも、自然の厳しさである。 半世紀以上に渡り、日本の自然を描いてきた矢口高雄の大人の漫画である。矢口高雄は同じ頃、海津波の恐ろしさを約一年かけて連載したこともある。それはリアルタイムで私は読んでいて、海岸ではあまり揺れは感じなくても、小さな津波でも釣り人にとっては命取りになることをまるでドキュメンタリーを見るように知ることが出来た。自然を甘く見てはいけない。それは海津波で友人を失った矢口高雄の切実な警告だった。 大正時代の開拓民の暮らしや、村人総出の橋作りや、囲炉裏の構造、ムシロのひとつひとつの機模様に至るまで妥協することなく描いていて凄かった。primereadingが読める環境にある人ならば、読んでおいて損はない。 (初出1996-97年「月刊ビッグゴールド」連載)
2021年08月30日
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「閉ざれた夏」若竹七海 講談社 若竹七海の極めて初期の長編。1992年「夏の果て」という題名で発表して第38回江戸川乱歩賞候補になった。文庫ではなく、単行本の感想を述べる。 冒頭モノローグの後には、完全架空の「新国市高岩清十記念館 高岩公園 パンフレット」の資料が出てきて、次に高岩公園地図と清十記念館間取図、清十旧邸間取図が現れる。‥‥こ、これは新本格推理小説の冒頭の体裁ではないか。それにしてもよく作り込まれた世界だ。清十は有島武郎ぐらいの位置付けの、教科書に載っている完全架空の有名作家として出てくる。こういう作り込みが本格の魅力です。これでそのまま乱歩賞を獲っていたら、若竹七海先生は本格推理の大御所になっていたのだろうか。 本書は、乱歩賞最終候補作品を加筆・訂正し「閉ざされた夏」と改題して1993年1月に出版された。表紙裏には30歳そこそこの女性が、かなり緊張した趣の著者近影として「将来が期待される大型新人である」と載っている。既に全ての頁が色焼けしていて、最後の頁には図書カードを入れる袋まで付いている。県立図書館はカードで管理していたのだろう。28年前と言うと、もはやそんなにも「閉ざされた」時代なのかと感慨に耽る。 資料は他にも「特別展企画書」、「企画展パンフレットもくじ」、そして事件にいろいろと影響を与える清十の遺品の数々や遺族の日記などが、さも実在しているかの様に出てくる。図らずも、私の好きな考古学ではないけれども、文学館の学芸員の仕事と生活が、冒頭から1/3ほど使って丁寧に描写される。珍しい学芸員主体の「殺人事件」なのである。 いや、私は殺人事件など起きずとも博物館や文学館、美術館は、本格推理モノには良い舞台と思うのですよ。学芸員の仕事は日々遺物を巡って果てしない推理合戦をしているようなものでしょう。 閑話休題。 新人学芸員の才蔵くんと同居している妹がミステリ作家という設定から、さてはこの妹が探偵役か!とミスリードさせるというなかなか一筋縄ではいかないつくり。犯人の正体も二転三転する。渾身の本格推理である。 おゝ「期待の大型新人だ」読んで行こう、じゃない‥‥。若竹七海作品を年間10冊は読もうシリーズの4冊目。一応季節を考えて選んでみました。
2021年08月29日
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「毒出しごはん」青江誠一郎 河出書房新社 今年の目標は「腸活を頑張る」だった。長期的な目的は、「出来るだけ健康寿命を伸ばす」ことにある。その根本的な理由は我が家系の若死に資質にあったのだが、つい最近不幸な形で証明されてしまった。なんとか、あと10年(できたら20年)は健康寿命でいたい。(←そのように先日かかりつけの医者に言ったら「このままならば大丈夫ですよ」と言ってくれた^_^/ ) 半年の総括としては、数値の悪化は認められず。取り敢えず達成している。具体的には(毎日体重計に乗っているが)平均体重は1キロ落とした。 昨年4月発行なので、最新医学に基づいた提案があるかと思いきや、基本的には大きな発見はなかった。基本的には、私の学習成果がここでも証明されたことで良しとしよう。本書は字も大きく、図も多く、かなり入門的な腸活本。 趣旨は「3つの食物繊維が毒を排出、免疫力を高める」ということ。 3つと言い切っているところが新鮮。 不溶性食物繊維(大腸の出口で便を早く出す)、水溶性食物繊維(大腸入口で善玉菌のエサ)のほかに、レジスタントスターチ(善玉菌のエサ)を入れているところが1番の特徴かもしれない。さまざまな食物繊維を摂ることが大切。 毒素の増加は、糖質・脂質の取りすぎにより悪玉菌の餌になって更に増えてゆく悪循環が原因。食物繊維を十分に取ると同時に糖質・脂質を取りすぎないことを意識すること。 最近は、食物繊維ではないけど、同じ働きをするレジスタントスターチやオリゴ糖が注目されている。よって食物繊維の名前自体を「ルミナコイド」にかえようとしているらしい。 白いごはん一膳(160グラム)をもち麦(10割)ごはんに変えると、水溶性0→6.8、不溶性1→2.9も増える。3割混ぜにしていたけど、全炊きも考えてみようかな。 茹でた豆は、いんげん豆(乾)よりも食物繊維は1.5倍へ。大豆は納豆にすると2割減。 たくさんのカラーレシピがあるので、写真で保存しておきたい。
2021年08月27日
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「自分で天気を予報できる本」武田康男 中経文庫 私は1時間だけ、人よりも未来を予測できる。 全ての未来ではない。空の未来である。 我ながら自分のこの能力を誇っている。 周りは誰一人としてその能力を持てるのに持とうとしない。仕事上絶対必要なのに! 「何か雨が降りそうな雲行きよね」 というのはまだ良い方。 「今日は雨が降らないかしら」 と、ただ心配するだけ。 「なんだか明るくなったから雨は降らないわよ」 残念でした。反対方向から急速に雨曇がやってきていて、30分過ぎには雨が降り出すのだ。 私は彼らを、心の中だけで、「無学の人」、「義務教育卒業者」として位置付けている。そして私は「高校生」である。私の上には「研究者」、そして一年後もほぼ正確に未来予測できる「知識人」が存在するだろう。 そうです、私は単に、必要な時に「雨雲レーダー」を見るようにしているだけなのである。私たちのように、比較的広い市の海沿いに住んでいる者にとって、テレビの天気予報ほど当たらないものはない。それなのに一般庶民は、未だに雨が降るかどうかは運任せと思っている。私は天気を唯一未来透視ができる分野だと思っている。市の北の辺りで雨は降るかもしれないが、海沿いでは海風のお陰で大抵は雨雲は逸れるのである。それが雨雲レーダーを見ているとよくわかる。しかし、雨雲レーダーが98%当たるのは1時間以内のみ。コンピュータは天気予報官のようなプライドはないから、30分ごとに見事にコロコロと予測を変えてくる。よって私の予測は1時間しか適用できない。しかし、この未来予測のおかげで、私は滅多に雨具の用意で失敗したことがない。 遠い昔、稲作が一千年も続いた弥生時代晩期の頃、一つのクニには、必ず「ソラミ」という専門職がいたと、私は(かってに)想像している。 ソラミに、低気圧や高気圧等の科学的知識はないけど、一千年蓄積された経験があるだろう。山に囲まれたクニだけの予測ならばかなり正確になるだろう。彼はどの山にどの雲が出て、どの風が吹いても即座に予測を立てることができるだろう。おそらく、その知識は「研究者」ぐらいの水準になっていたのではないか。 当然 「澄んだ朝焼けは晴れ」 「朝の虹は雨、夕方の虹は晴れ」 ぐらいは簡単に予測できる。 10分ぐらいでムクムク上がる入道雲は、龍神の登場と思っていたかもしれないが、立髪が流れるように雲が飛んでいけば 「今回は龍神さまは顔をお見せになっただけ」 などと言ったかもしれない。直ぐに流れる入道雲は雨を降らさない。 本書では予測という言い方はされていない。予報なのだ。 あらゆる空の現象は、風の向き、湿度、温度、季節、時、色、等々の総合の中で判断される予報なのである。 おそらく、ここに書かれていたり、写真で説明されているあらゆる「現象」はソラミの常識のようなものだっただろう。 この本は天気予報の入門書みたいなものである。大きな特徴は、具体的な写真が豊富で、見比べて今直ぐの予測が立てやすいことだろう。けれども、「ソラミ」ぐらいになれば、半年後の予測もしなければならない。むしろそちらが重要だ。この本にはそういう情報は一切なかった。
2021年08月25日
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「図書2021年8月号」 16篇の文章の中で、以下2点が(おそらくかなりマニアックな読み方だと思いますが)私的にツボでした。 (1)「新しい日本、万歳!」(三谷博) (2)王子さまのいない星(吉田篤弘) (1)について 三谷さんは歴史学者です。 「廃藩置県」という、武士階級を廃絶させて7割近くの武士を解雇した大変革に対して、何故武士の側から大きな抵抗が生まれなかったのか、を分析しています。いや、抵抗はあった(佐賀の乱、西南戦争)が、外国と比べるとあまりにも死者が少ない。何故、全国の旧武士が彼らと同じ行動に出なかったか。 ひとつは、武士の生活基盤が全て藩に依存していて、百姓になれない武士は自分の知識が活かせる職業は首都東京にしか求めることが出来なかった。それにしても、何故こんなにも従順だったのか?それは個別に研究してゆくしかないという。 もう一つの問題意識は「グローバルな比較」である。江戸時代の日本は連邦国家だった。しかし、260もの構成国(藩)がある国は世界になかった。それがゼロになった。極端から極端へ。日本は対外危機を意識していたものの、本格的な戦争をしなかった。薩長は、プロイセンよりも武力的に劣っていた。西洋は対外戦争を経て中央集権国家に移っていった。薩長は、武力よりも、小国家群との間での交渉、説得による多数派工作(人材引き抜き、課題共有)による日本統一を目指したのである。他の藩の幹部も立憲政治の導入は、「新規まき直しの機会」と映った。 また、政府は徴兵軍や旧武士の募兵を通じて辛うじて反乱を鎮圧した。 実は維新直後の十数年はかなり不安定で「綱渡り」だった。 これらのことは、実は、「弥生時代の倭国大乱が話し合いで収束した」とみる私の問題意識と合致している。俄然三谷博さんの本を読みたくなった。 (2)について まだ前編なのでなんとも言えないが、これはもしかして「星の王子さま」に対する「アンチ小説」なのかもしれない。シリーズ「「物語」の「舞台袖」」の第5篇。今回は何故か小説形式。 友人との待ち合わせ場所を聴くために古本屋に入った私は、店主から「道順と引き換えに、何か一冊、本を買っていただけませんか」と言われる。例えばと出されたのが「星の王子さま」。 「お読みになったことはありますか?」 「読んだことはありません」 店主は「読んだことはない」けど、「この本のことは知っている」と喝破する。 「知っていることを教えてください。たとえば主人公はだれでしょう?」 私はいろいろ考える。また、質問される。 「あなたは有名な言葉は知っている。『かんじんなことは目に見えない』それは誰が言った言葉ですか」 だんだんいろんなことが不安になる。 俄然その本を読んでみたくなる。「その本を売ってください。ですからどうぞ道順を教えてください」 そこで「後編」に「つづく」。 そう言えば、改めて聞かれると、私も答えられなかった。 そう言えば、王子さまの星が舞台だったと勘違いしていた。これはなんと地球が舞台だったはずだ。(←それでいいよね!)ほんとに王子さまは主人公なのか?違う気がする。あゝ全てがわかんなくなる。 でも、後編はもっと大きなどんでん返しがある気がする。決して「星の王子さま」を読み返してはいけない。あやふやな記憶をもとに、私は「謎解き」を始める。果たして、何故主人公は違う気がするのか?何故「かんじんなことは目に見えない」が王子さまが言った言葉でないと思えるのか?店主の質問の裏に何か隠されているのか?ドキドキする。店主は「その本」を売って道順を教えるのか? そういえば、 王子さまは何故地球に来たんだっけ? 全然覚えていない。 なんか悲しいことがあった気がする。でもどうやって地球まで来たの? いや、皆さん教えないでくださいね。来月まで考えます。
2021年08月21日
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「三体 死神永生(下)」劉慈欣 早川書房 kuma0504「三体が終わっちゃいましたね」 SFファン「終わっちゃいましたね」 kuma0504「どうでした?」 SFファン「素晴らしかったです!ヒューゴー賞、星雲賞ダブル受賞は伊達じゃなかった」 kuma0504「うん、素晴らしかった。重大なネタバレを避けながらあらすじ紹介するのは難しくて自信ないけどやってみます。 文化大革命で人類に絶望した葉文潔が発信した信号のために、地球文明を遥かに凌駕した文明を持つ三体星人の艦隊が400年後に地球征服のためにやってくることが明らかになる。というのが第一部。 相対する人類は地球連邦政府を作ってざまざまに対応するけど、ことごとく失敗する。羅輯が起死回生の手段で一旦成功するのが第二部。 第三部では、成功して抑止紀元が(西暦に換算すると)2208年に始まるけど2270年に破綻、2年の混乱を経て人類の生き残りをかけた計画が始まる。ハン体紀元が2333年より。そして2400年に思いもかけない展開に。実はそこで終わらずに、暗黒領域紀元が1800万年という途方もない時間が続き、それでさえも終わらずに‥‥」 SFファン「おゝなかなかストーリー紹介の匙加減が難しいですね。1800万年ですか‥‥」 kuma0504「言いすぎたかな。でも、言っとくけど、400年後以降まで描いているからと言って、ハッピーエンドじゃないからですね」 SFファン「いや、あれは悪いエンドじゃない気がする。むしろハッピーエンドでしょ」 kuma0504「それは人によって違うでしょうけど、私はむしろバッドエンドだと思います‥‥」 SFファン「訳者の大森望さんは小松左京「果てしなき流れの果てに」や光瀬龍「百億の昼と千億の夜」を引き合いに出していたけど、私も読んでいる間中、アレをもう一回読みたいと思いましたよ」 kuma0504「三体というメインテーマがあるのにも関わらず、途中で三体星人はフェイドアウトしちゃうし、でも最後で少し出てくるんですけどね。それでも三体という星人は智子という魅力的な助演女優賞もののキャラを生んだのだからよしとすべき。彼女はほとんど映画「キルビル」キャラですよ。劉慈欣の凄いのはそういうオタク心をくすぐるキャラを所々配置していること。第三部では「風ともに去りぬ」も重要な台詞とともに出てきた」 SFファン「主演女優賞はなんといっても程心です。彼女の咄嗟の2度に渡る選択が、人類をとんでもない運命に引き入れていくかのような物語になっている。とんでもない美女のようですし、映画化が楽しみです」 kuma0504「映画化と言えば、コレは一体どういう映像になるんだろうかという場面が十数ページに一回はありますよね。(上)では、なんといっても水滴対地球連邦艦隊との無慈悲なまでの戦闘を、それでも映像で見てみたいし、(下)ではサッパリ分からなかった色々な物理現象を、「あゝそうだったのか!」と納得させて欲しい」 SFファン「ふふ、君はホントに理系関係に疎いからね」 kuma0504「ほとんどがそうだと思いますよ。でも理系関係なくて、おそらく哲学的問題で、しかも作品の根本部分で、私は納得いっていない点があるんです」 SFファン「ああ、君が第二部から言っていたあの問題だね」 kuma0504「いやいや、第二部で言ったのは、三体シリーズ全体が中国共産党(三体)と中国知識人たち(主人公)の歴史のメタファーなんじゃないか、という仮説なんですが、全体が共産党批判になっていないからこそ劉慈欣は現在中国のあらゆる公開の場所で自由に動けているようだし、第三部では共産党批判の片鱗さえ見れず、かえって中華思想が所々見えたし(博愛思想も見えたけど)あの主張はとりあえず取り下げます。 ‥‥そうではなくて、問題にしたいのは暗黒森林理論です。それこそ詳しく話すとネタバレに抵触するので難しいんですが、宇宙は実は手探りの暗黒森林みたいなもので、文明を持つ星は他の文明星を見つけ次第、自らが殺されないために相手を抹殺しないわけにはいかない。よって、自分の星の座標を相手に知られることは、自殺行為である、ということです。話し合いは話し合いが可能な距離にあるから可能なのであって宇宙はそうではない。という理論です。つまり宇宙弱肉強食本能論ですね」 SFファン「ホモサピエンスは弱肉強食本能は持っていない、と主張している君には肯定し難い理論だろうね」 kuma0504「いや、本能を持っていないゴリラだって、相手のゴリラを殺す場合があるんです。本能というのは違うかも知れない。暗闇で相手が武器を持っていて、交渉出来ない場合は、殺し合わざるを得ない、特に相手の武器が進歩しない間に先制攻撃しないと自分が必ず殺されるという理論なんです。そこまで未来予測ができるのならば、私は先制攻撃よりももっと他の手段があるように思うんです。ここに出ている暗黒領域防衛もそうなんですが、もっと効果的な防衛手段もあるはずなんです。「銀河英雄伝説」に出てくるイゼルローン回廊は、そこだけがある星域に行くための関所になっているのですが、あれは自然にできた回廊だったのですが、それを人工的に作るとか‥‥」 SFファン「おっと、ここで銀英伝が出てくるのか。確かに、今までの理論をどんどん覆してゆくのが、この本の魅力だったのだから、その理論を覆すことも可能かもしれないね。いやあ、もっといろんな人とネタバレありで語り合いたくなる作品だったね」 kuma0504「作品に刺激されたトリビュート版も近々刊行されるようだけど、完結した以上、全てを図入りで解説して、完全年表も作成したムックを先に出して欲しい。それを叩き台に私のような無知なもんでも十分語り合えるようにしてもらいたいと思います。お願いします、早川書房さん!」
2021年08月19日
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「親切なおばけ」若竹七海・作 杉田比呂美・絵 若竹七海を年間10冊は読もうシリーズ。一応季節を考えて選んで‥‥おや、季節は冬でした(^^;)。 ほんの少しだけ昔、ほんの少しだけ田舎町の、ノノコの家は、かなり古くて傾(かし)いでいる。丸いじゃがいもがいつの間にか転がるほど。 おじいさんは「ねんだいもの」と言うけど、お父さんは「危ないしろもの」という。近所の人は「おばけやしき」という。お陰でノノコは「おばけ」にされて仲間外れ。 ノノコはそんなに悲しくないけど、おじいさんは「優しいおばけになれば、いいことがあるかもね」と最後の言葉を言ってなくなってしまう。 さあ、ノノコにはどんないいことがあったのかな? 光文社文庫本でずっと若竹七海作品の表紙を描いている杉田比呂美さんの絵が優しい。おそらく最初で最後の若竹七海絵本。客観的には辛い現実が、ノノコ目線で優しくなる。それは紛うことなき若竹七海の世界である。
2021年08月19日
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10年ほど前に韓国映像資料院を探して韓国版の本書を手に入れていたんだけど、どう探しても出てこない。また、その時の日記も見つからない。あれは幻だったのか?というわけで、日本語版を図書館から借りた時とは思惑の違った書評となりました。 「韓国映画100選」韓国映像資料院編 桑畑優香訳 韓国映画人が、2013年までの作品で後世に残しておくべき韓国映画100を選んだ。その邦訳版である(邦訳版はその後つくられた5作品を加えている)。ラインナップと写真を見るだけでも楽しい。 この日本語訳を読むと、100選の多くが韓国映像資料院ホームページで公開されていると書いているが、韓国語オンリーのホームページに登録しないと見れない。よって諦めた。90年代後半、2000年代以降の作品は(日本公開されてヒットしたので)7割ほど観ているが、それ以前は観たくても手に入らない。今回初めて、もしバッタモノDVDでも手に入れたら内容を確認できる可能性を得た。 バッタモノで今までなんとか観れた作品は二つ。 「下女」1960年、「ホワイトバッヂ」1992年である。 「下女」では、貧困階層を前提にしながらも、妊娠させてしまった下女の狂気に次第と一般家庭が翻弄されて堕ちていくという非常に怖い作品になっていた。 「ホワイトバッヂ」では、1970ベトナム戦争の加害責任を重層的に描き、それを1980光州事件の直前の情勢中で回想させることでさらに物語が重層的になった。 「下女」でアン・ソンギが端役で出ていて、「バッヂ」では主役。80-90年代の重要作品にはことごとくアン・ソンギが主役級で出ていた。彼は韓国映画の俳優でいえば神様みたいな存在かもしれない。 「貧困」、「アメリカ」が韓国名作映画でポイントになっている。戦前映画になれば「日本」がそうなるのかもしれないが、名画100選の中には日本はあまりない。その意味でも、日本は自意識過剰なのではないか? 因みに、私の映画館鑑賞済みの98年以降作品は「シュリ」「ペパーミントキャンディー」「JSA」「復讐者に憐れみを」「地球を守れ!」「殺人の追憶」「浮気な家族」「オールドボーイ」「うつせみ」「グムエム 漢江の怪物」「シークレット・サンシャイン」「母なる証明」「ポエトリー アグネスの詩」「嘆きのピエタ」「怪しい彼女」「国際市場で逢いましょう」「新感染ファイナル・エクスプレス」「タクシー運転手 約束は海を越えて」「パラサイト 半地下の家族」である。全て傑作か傑作に近い作品であり、選出者の眼の確かさを証明しているだろう。
2021年08月16日
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「都鄙問答」石田梅岩 加藤周一訳・解説 中公文庫 この春、突然「日本の名著」シリーズに入っていた加藤周一訳・解説の「富永仲基・石田梅岩」(1984)の半分が文庫本になった。何故今なのか?何故本来加藤が好きだった富永仲基ではなく、こちらの方を復刊したのか。 帯を読めば、編集者は本気で現代に石田梅岩を再評価させたいと思っているようだ。もしかしたら、渋沢栄一ブームを見越してのことかもしれない。 曰く 「ウェーバー、ドラッカーよりも200年早い経営哲学」 「起業家必読」 「生産と流通の社会的役割を評価、利益追求の正当性を説いた商人道の名著」 とのことである。 石田梅岩1744年没。中百姓次男として生まれる。11歳で丁稚奉公、商家としては成功しなかったが、「心学」を唱え(1738「都鄙問答」)、死んでその教えは隆盛し、商家のみならず大名家老が修行するに至り、19世紀から幕末にかけてあらゆる階層に浸透した。 確かに、「心学」の全面的な現代語訳は他にないだろうし、親切丁寧な加藤周一の解説も現代に貴重だろう。確かに、私も加藤周一の隠れていた名論考がリーズナブルにポケットに入るようになったのは貴重だと思う。しかし、編集者は気がついていただろうか?本書は、かなり厳しい「石田梅岩批判」なのである。心学の特徴を全面的に紹介することは、同時に心学の持つ理論的な矛盾を突くことになるのだ。 加藤周一の論理展開は、少し専門的でかなり緻密なので出来うるならば手に取って読んで欲しい。申し訳ないけど、私は関心部分のみ感想を述べたい。因みに、加藤解説→翻訳本文の順番に読むことをお薦めする。 ⚫︎梅岩は儒教の古典の章句を引いて、商家の日常の具体的な例に即して語った。それが今までの儒家とは違った。 ⚫︎梅岩は問答を行った。本書で学者が(私流の解釈です→)「真理は不可知なのだから、孟子が性善説を言うのは、善でもあり悪でもあるということと同じことじゃないですか?つまり孟子のいう天(真理)は何とでも解釈できるのではないか」と質問すると、梅岩は「キチンと古典を読め」「天はある。それは修業しなくては得られない」と答えて一蹴している(106p)。なかなか突っ込んだ質問が多くて面白い。←もっとも、加藤は「だから大事な部分は全て悟りに集約されて、論理の飛躍、矛盾は無視されている」と根本的な批判をしている。つまりトンデモ宗教(学問)なのだが、問題はこれが幕末の保守層に多大な影響を与えていることだろう。 ⚫︎「神儒仏トモニ、悟ル心ハ一ナリ」は、梅岩においては三教一致の主張ではなく、「悟ル心」から見れば、神・儒・仏の一致、不一致などは、二次的な問題に過ぎないという意味の感慨ではなかったか。この典型的な日本人は、天地自然と自己との一致という経験を支えとしながら、現世において、与えられた集団の中で、いかに生くべきかという問題に専念したのであり、その経験から出発して概念的な建築をつくり、そうすることで現世を、または自己の所属する集団を、超越しようとはしなかった。 ⚫︎現実の中で義理と人情が対立するときは、義理の方が優先させれることが多かった。(略)日本人が自己の内部と外部の世界との緊張関係に究極的な解決を望むときには、梅岩流の解決に近づくことが多いようである。(←義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい渡世の掟) ←それでも解決しない時には、加藤周一はマルクス主義の教条主義、あるいは本居宣長の「神ながらの道」を選択するだろうという。どちらも、結局大きな失敗をした。とくに、超国家主義は本居宣長流を継承したが、説明つかなくて破綻した。現代、「日本会議」や靖国派などの超国家主義がこれと同じ概念構造を持っているように思えるのは、私の穿ちすぎだろうか?政府閣僚の圧倒的多数が「日本会議」の信者になっているのは偶然だろうか?
2021年08月15日
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「ごはんを残したら、一生懸命に作ったお百姓さんに申し訳ないのよ」 こう言われて育った私は、今まで好き嫌いや食欲無くて、食事を途中まで食べて残したことは数えるぐらいにしかない(もしかして病気を除くと一度も無い)。 食事を残さないことを信条にしていたので、当然好き嫌いは無くさないと実現できない。よって、私には好き嫌いはない。そもそも「ヌタ」等の苦手な食べ物は最初から近づかないようにしていた(今は好物です)。 母親は身体が弱く、子供たちには健康に育ってほしいと強く願っていたので、何はともあれたくさん食べさせるという教育方針を貫いたようだ。お陰で、子供は悉く肥満気味になった。一長一短ではある。 これが「せっかくあなたのために買ったのに、勿体ないから食べなさい」と言われていたならば、「親のいないところでは残して良いんだ」「お金を自分で使うことができたなら残して良いんだ」とか逃げ道を発見したかもしれない。 「お百姓さんに申し訳ない」という言葉は逃げようがない。しかも、うちは兼業農家だったのでイメージも明確で説得力があった。しかも、高校生の時に観た「七人の侍」で、左卜全が用心棒獲得のためになけなしの米を侍のために用意していて、それが溢れた時に一粒一粒拾っていた場面を観て、最初の鑑賞後はこの場面が1番心に残ったほどに頭の中に刷り込まれてしまった。大人になっても、これは私の信条になり、悪いことにバイキングでも、職場の賄いでも、「残してはいけない」信条が発動してしまい、生活習慣病は私を困らせている。 こういう「教え」は、現代で一般的にはしていないようだ。(喩えが悪いが)不登校が当たり前のように、「残す」ことも認められているようだ。 果してそれは正しいのだろうか。 私は「無理してでも食べる習慣」は、つけるべきだと思うのである。
2021年08月14日
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今月の映画評「風の電話」 夏は亡き人を思い出す季節です。人はどうやって「喪失感」と付き合っていくのだろうか。 東日本大震災のため9歳の時に岩手県大槌町で両親と弟を亡くし、広島に移り住んでいた高校生のハル(モトーラ世理奈)が、叔母の入院をきっかけに東北に向けて旅します。 旅の終わりに、ハルは「風の電話」の存在を知ります。線はどこにも繋がってないけど、亡くなった人と話ができる電話があるそうなのです。これは大槌町にある実在の電話で、これまで三万人もの人が訪れているそうです。全然不思議なことじゃないと私は思います。古来より、我が国には挽歌の伝統があります。鳥や風に託して亡くなった人に言葉を送ってきました。ハルは両親に向けて長い電話をしました。実際はモトーラ世利理奈のアドリブ、一発撮りの長回しだったそうです。 女子高校生のヒッチハイクなんて荒唐無稽だとか、偶然が重なりすぎるとか、そういう批判はおそらく重々承知の話だったと思います。不思議な話の中に真実がある。厄災を背負って旅に出て、偶然の出会いの中で少女は大事なことに気がつきます。 生きていりゃハラが減る。生きていなけれゃ思い出す人がいなくなる。生きているから、支え合う。そういうことを、少女は徐々に納得するのです。 三浦友和、西島秀俊など、達者な役者が喪失を抱えたままの男として出てきました。特に、福島の年寄の怨念・情念をそのまま演ったかのような西田敏行の場面は圧巻でした。 (2020年諏訪敦彦監督作品、レンタル可能)
2021年08月13日
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「世界のしゃがみ方 和式/洋式トイレの謎を探る」ヨコタ村上孝之 平凡社新書 これは掘り出しモンの論考だった。 視点が素晴らしい。 誰もが知っているけど、誰も知らないことを掘り起こして、何処を広げても発見に満ちた新書になった。 私は韓国を旅した時に、ディープな旅をしたいんだけど、知り合いも居ない通りすがりの身なので、旅の「視点」を絞っていた。宮本常一を真似て高いところに登ったり、路地裏に回ったり、衣類の干し場を見たりする他に、もう一つ気をつけていた事があった。トイレはどうだったか?を目に焼き付けるのである。これは日本の旅でも同様である。何処までヨソヨソしく綺麗か?如何に汚れているか?どんな「落書き」があるか?其処に其所の民俗のディープな姿があるだろう。(韓国のトイレ事情を話すと長くなるので省略する) ところが、私は現代しか知らなかった。 ところが、私は一部のアジア諸国しか知らなかった。 私はトイレ事情に関して「無知蒙昧」であったたことを痛感した。 もう付箋紙だらけなのだけど、簡略に「新知識」をメモしておきたい。 ⚫︎ロシアの大便トイレは座らない。和式のようにしゃがむ。ただし、反対方向にしゃがむ。しかもつい最近まで扉はない。 ⚫︎関西空港の洋式便器の使い方の図に、座るが◯でしゃがむのは×の図がある。←私も見た事がある。(どうやるのかずっと疑問だったが)西洋(ロシア等)では本当にしゃがむ腰掛け式のようなトイレがある。足場がなくてもスクワット式にしゃがむようだ。基本的に壁を背にしてスクワットする。 ⚫︎最近の男性は女性から以下のように強制されているらしい。腰掛け式便器で小便をする時には、羽根飛び散って汚れたりするので、腰掛けて小用をするように言われるらしい(05「週刊プレイボーイ」)。世界的に男性は、この「危機」に陥っているらしい。それに対して「立って小便をすることに『男らしさ』を感じている層」はかなりあり、一定の抵抗がある。←私もそうだ。←そもそも立ちションという言葉はトイレでは使ってはいけない。これは外用の言葉であり、小用を足すというべきである。 ⚫︎近代日本では、女性の立ち小便は広く行われていた。京都は「犬矢来」や「立ちション禁止の鳥居マーク」があるが、これは立ち小便を「小便タン桶」に誘導する目的もあったと考察している。家主の尿代金収入があったらしい。その点で京都の立ちションは有名だった。江戸が珍しくないだけだった可能性もある。女性の立ち小便の場合、尻を向けて場合によれば足元に飛び散らないように中腰になって用を足していたようだ。昭和20年代山形で普通に見られたという記録もある。 ⚫︎1964年東京オリンピック国立競技場に女性用立ち小便陶器(TOTO作製)が据えられた。すぐに廃れた。 ⚫︎金隠しがなぜ生まれたか、此処には諸説を書いていて、結局ハッキリしていない。 ⚫︎世界的に見て、壁に向かってしゃがむのは日本だけであり、あとはトルコ式にしろユーラシア式をしろ、基本は壁を背にしてしゃがむ。何故そうなったかはハッキリしなかった。日本も、武家の屋敷では一時期扉に向かってしゃがんでいた。敵に背中を取られないためである。←この本では、壁に背をするようになった理由について解明されていない。是非とも解明して欲しい。 ⚫︎日本はもともと水洗トイレだった。厠(かわや)は川屋だった。「古事記」でも、大物主神は自らの姿を矢と化し、大便が流れる「溝」を通って美女のほとを貫く。この方式のトイレはアジアに広く分布する。 ⚫︎現代の水洗トイレは、明治20年横浜五番館クラブ・ホテルが最初。そのあと21年東京帝国ホテルにも水洗便所が設備された。しかし、1963年の統計では都市部では普及率13%、1973年で都市部で39%となっている。←ちなみに「私の家」が水洗トイレになったのは「2012年」である。我が村の下水道工事が完成したのは確か1990年代だったと思う。つまり2000年代までは半分水洗が普通だった。それを回収する(名前忘れた)◯◯車は、確かに周りを回っていたのである。今も何処か回っているかな。 ⚫︎日本トイレ協会の統計によると、腰掛け式便器とユーラシア式便器の出荷率が逆転したのが1970年代後半だったらしい。 ⚫︎トイレがプライバシーをまもる場所になっている。のは世界的である。しかし現代、学校ではトイレが個人の退避所になっていて、「ひとりランチ」などが話題に(09.7.6朝日新聞「友達いなくて便所飯?」)。←これを読んで、私が奇異に思っているのは、マクドで非常に多くの若者が、お店でマクドを食べなくて駐車場で食べている現象である。これはコロナ前からあった。たいてい1人か2人。そんなにも引きこもりたいのか!!お店でのひとりマクドはそんなに嫌か? ⚫︎トイレットペーパーを便器に流さず、箱に入れるのは韓国や中国やロシアだけではない。ギリシャやロンドンでもそういう但し書きがある。←これは水の吸引力の問題で、技術的な問題だと思っていたのだが、未だに世界的にあるのは、他に文化的な問題があるのだろうか?この本では解明されていない。 ⚫︎日本の大阪のコンビニには、反対に「おむつ流すな、注射器流すな」があるらしい(!)←覚醒剤か? ⚫︎トイレットペーパーによって尻を拭いている人口は、現在世界の三分の一に過ぎないらしい。この他うち、多くは水で肛門を洗い清めている。イランやイスタンブールでは、洗浄用ホースがとりつけられている。左手が不浄の手なので、右手にホースがある。←それでも紙で拭かないと水でパンツがびしょびしょになるでしょ?どうしているんだろ? あゝ早く外国に行きたい。早くトイレに行きたい!
2021年08月12日
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「宮部みゆきの江戸怪談散歩」新人物文庫 中経出版 前半はオールカラーで三島屋シリーズ(「泣き童子」まで)の舞台解説と「幻色江戸ごよみ」などの宮部怪談短編の九編の「場所」を、地図と現代写真で「特定」、また「本所深川ふしき草紙」の七不思議の「場所」を「特定」する。一応季節感を考慮して選んでみました(^^;)。 北村薫とのロング・スペシャル対談を経て、宮部の怪談短編(「三島屋シリーズ」の最初と「だるま猫」)と宮部みゆき推薦話2つ(「指輪一つ」岡本綺堂、「怪の再生」福澤徹三)を載せる。 本書は新人物往来社『やっぱり宮部みゆきの怪談が大好き!』(2011)に、大幅修正を加えて再編集したものらしい。宮部みゆき責任編集とあるからには、三島屋の場所とかの「特定」は信頼できると思う。 1番の価値はやはり前半であり、これを手許に東京散歩を是非ともやってみたい。よって電子書籍版(大幅割引の時)で購入。いつでも持ち歩ける。 もう一つの価値は、岡本綺堂「指輪一つ」だろう。江戸時代の半七も出てこない、岡本綺堂のいわば「現代もの」なのではあるが、なんと1912年の関東大震災直後の状況をつぶさに描いている。というか、ふとした瞬間にこれは2011年を描いた小説かと思うくらい、関東から少し離れたところの「庶民」の反応が似通っている。もちろん、少し怪談めいたこともあるのだけど、こういうこともあったんじゃないか、岡本綺堂は誰からかこの話聴いたんじゃないか、ホントにあったんだとしたら怖いけど良かったねとさえ思うのである。
2021年08月10日
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「八月の降霊会」若竹七海 角川文庫 若竹七海を年間10冊は読んでみようシリーズ。一応季節を考えて選んでみました。他に事前情報はなし。読み終わって98年の書き下ろし本だと判明。どう考えてもクローズドサークルのミステリでしょ。 私は最後の最後まで、そう疑わなかった。いや、今も信じている。私は頭が悪いので、理解しきれていないだけなのだ。種明かしのないミステリなんて、東野圭吾さえ2冊も書いているし、探偵役のいないミステリなんか山ほどある。 もちろん、ホラーなんかじゃない。幽霊なんてホラ1人も出ていないし、不思議なことはあったけど、人が呪い死になんて、多分していない。いや、もちろんしていない。誓ってもいい。でも人はキチンと死んでいる。 絶対◯◯◯◯◯じゃない。絶対ホラーじゃない‥‥。
2021年08月09日
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すみません、6作品じゃなく5作品でした。残りの2作品の感想を置く。 「ゴジラVSコング」 アダム・ウィンガード監督世界観の大怪獣シリーズは、これで終わり。次回作につながる映像はなかった。良く頑張ったと思う。ゴジラはあくまでも人間になんとかなる存在ではないことは、貫き通した。 コングは守護神でもない。彼を心配している小さな人間の娘を信頼しているだけだ。 「人間の味方じゃなくなった」というメディアに対し、「あそこを襲ったのはゴジラの理由がるはず」というオタクの娘も登場して、人間世界はほぼふた通りで進行する。 芹沢蓮(息子?)くんが、ほとんど意味のない存在だったのは残念でしかない。 これまでの人者の人間関係が切れているのは、仕方ないけど残念。 結局ああいう落とし所しかなかったのかな。 ⚫︎⚫︎ゴジラの登場を隠し通したのは素晴らしい。 ほとんど、無敵だったじゃない。しかもエヴァだったし。 ゴジラの尾鰭の斧がもう少し活躍して欲しかった。もしかして残った? ⚫︎⚫︎ゴジラを無条件でに悪者にした脚本には?がつく。 STORY モンスターたちの戦いの後、特務機関モナークが巨大怪獣(タイタン)の故郷(ルーツ)の手掛かりを探る中、深海からゴジラが再び現れる。世界の危機を前にゴジラが暴れまわる原因を見いだせない人類は、キングコングを髑髏島(スカルアイランド)から連れ出し、ゴジラと対決させようとする。 キャスト アレキサンダー・スカルスガルド、ミリー・ボビー・ブラウン、レベッカ・ホール、ブライアン・タイリー・ヘンリー、小栗旬、エイサ・ゴンサレス、ジュリアン・デニソン、カイル・チャンドラー、デミアン・ビチル スタッフ 監督:アダム・ウィンガード 脚本:エリック・ピアソン、マックス・ボレンスタイン 2021年7月13日 MOVIX倉敷 ★★★★ 「竜とそばかすの姫」 普通の上映なのだけど、終わった後に拍手が起きた。1人だけだけど。 ずっと細田守の子育てと連動しながら、作品を作ってきた細田守作品の今回は、高校生が主人公。けれども、すらすらと難しい連立方程式を解ける友人がいたり、インターハイに個人で出場できる男の子、スーパー高校生だけど思いやりあふれる男の子、そしてすずはうた作りにポテンシャルのある、みんな隠れた才能ある高校生が登場。 ネットの悪いところも少しは出ているけど、基本的には世界を信頼している。 世界はなくならない。 自分はホントは孤立していない。 誰かが見守っている。 ネットは少しは役に立つ。 そういうメッセージをストレートに出した佳作。 STORY 高知の田舎町で父と暮らす17歳の女子高生・すずは周囲に心を閉ざし、一人で曲を作ることだけが心のよりどころとなっていた。ある日、彼女は全世界で50億人以上が集うインターネット空間の仮想世界「U」と出会い、ベルというアバターで参加する。幼いころに母を亡くして以来、すずは歌うことができなくなっていたが、Uでは自然に歌うことができた。Uで自作の歌を披露し注目を浴びるベルの前に、ある時竜の姿をした謎の存在が現れる。 キャスト (声の出演)、中村佳穂、佐藤健、成田凌、染谷将太、玉城ティナ、幾田りら、森川智之、津田健次郎、小山茉美、宮野真守、森山良子、清水ミチコ、坂本冬美、岩崎良美、中尾幸世 スタッフ 監督・脚本・原作:細田守 作画監督:青山浩行 CG作画監督:山下高明 CGキャラクターデザイン:Jin Kim、秋屋蜻一 CGディレクター:堀部亮、下澤洋平 美術監督:池信孝 プロダクションデザイン:上條安里、Eric Wong 音楽監督・音楽:岩崎太整 音楽:Ludvig Forssell、坂東祐大 2021年7月22日 MOVIX倉敷 ★★★★
2021年08月08日
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7月に観た作品は少し少なくて6作品。2回に分けて紹介します。 「アメイジング・グレイシス/アレサ・フランクリン」 技術的な問題だけでなくて、現代の情勢がこの作品の完成を後押ししたのだろう。観客の9割は黒人である。正に、ゴスベルは、黒人による黒人のための「キリスト布教歌」である。 最後の方に教義の歌は少し出てくるが、あとはひたすら「信じよ」「主は共にいる」「信じて良かった」という単純な絞り出すような祈りの歌である。 元々に、アフリカの単純なリズムがあり、その上にオルガンやギターのコードが流れ、その上に山の上まで届くような声量のアレサの歌が乗る。 そうやって、黒人はこの200年間の差別と少しの平穏と来世での平和を思い起こすのであろう。みんな悉く泣いているのが、特徴的で、信仰の持たない私などは蚊帳の外から眺めるばかりというタイプの映画である。 (解説) 2018年8月16日、惜しくもこの世をさってしまった「ソウルの女王」 アレサ・フランクリン(1942-2018)。 1972年1月13日、14日、ロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で 行われたライブを収録したライブ・アルバム「AMAZING GRACE」は、 300万枚以上の販売を記録し大ヒット。史上最高のゴスペル・アルバムとして今も尚輝き続けている。 その感動的な夜が遂に映像で蘇る。コーネル・デュプリー(ギター)、チャック・レイニー(ベース)、 バーナード・パーディー(ドラム)らに加えサザン・カリフォルニア・コミュニティ聖歌隊をバックに、 アレサが自らのルーツであるゴスペルを感動的に歌い上げた今や伝説となっているこのライブは、 実はドキュメンタリー映画としても撮影されていた。撮影したのは、 映画『愛と哀しみの果て』で知られアカデミー賞を受賞しているシドニー・ポラック。 アルバム発売の翌年に公開される予定だったが、カットの始めと終わりのカチンコがなかったために 音と映像をシンクロさせることができないというトラブルに見舞われ、未完のまま頓挫することに。 しかしいま、長年の月日が経てテクノロジーの発展も後押しし、遂に映画が完成。 音楽史を塗り替えたといわれる幻のライブが、日本で初めてスクリーンに登場する! 2021年7月1日 シネマ・クレール ★★★★ 「Arc」 原作が純文学なので、ケレン味あふれるSF的な仕掛けは期待してはいなかったが、もう少し色気を出してもよかったのでは? 少なくとも85歳の頃は、今よりも100年後と思えるはず。それにしては、あまりにも風景や小道具が変わらなさすぎる。 それに、こういう仕掛けならば、社会の決定的な変革があっても良かったのではあるが、みんな少しデモがあっただけで受け入れている。メンテナンスは毎日しなくてはいけないのか、それとも一年に一回なのか、映画ではよくわからなかった。メンテナンスが必要ならば、果たして不老を受け入れるのか?我々の感覚ならば、五分五分というところではないか? 彼女が初めて135歳で、老化を止めた人というのはおかしい。もっと前に止める人はたくさんいるはずだ。SF仕掛けがないだけではなく、ストーリー的にも疑問が多く残る作品だった。ただし、人と感想を述べ合うにはピッタリの作品かもしれない。 STORY 近未来、放浪生活を送っていたリナ(芳根京子)は人生の師となるエマ(寺島しのぶ)と出会い、遺体を生前の姿のまま保存できるように施術(プラスティネーション)する「ボディワークス」という仕事に就く。一方、エマの弟で科学者の天音(岡田将生)は、この技術を発展させた不老不死の研究に打ち込んでいた。30歳になったリナは不老不死の処置を受け、人類で初めて永遠の命を得る。やがて、永遠の生が普通となった世界は人類を二分し、混乱と変化をもたらしていく。 キャスト 芳根京子、寺島しのぶ、岡田将生、清水くるみ、井之脇海、中川翼、中村ゆり、倍賞千恵子、風吹ジュン、小林薫 スタッフ 原作・エグゼクティブプロデューサー:ケン・リュウ 監督・脚本・編集:石川慶 脚本:澤井香織 音楽:世武裕子 撮影監督:ピオトル・ニエミイスキ 照明:宗賢次郎 美術:我妻弘之 録音:山本タカアキ 編集:太田義則 キャスティング:吉川威史 装飾:山川邦彦 スタイリスト:高橋さやか ヘアメイク:酒井夢月 振付:三東瑠璃 VFXスーパーバイザー:鈴木信哉 音響効果:柴崎憲治 助監督:近藤有希 製作担当:三村薫 エグゼクティブプロデューサー:川城和実 製作:河野聡、池田宏之 コエグゼクティブプロデューサー:濱田健二 プロデューサー:加倉井誠人、仲吉治人 ラインプロデューサー:古賀奏一郎 VFXプロデューサー:加賀美正和 音楽プロデューサー:杉田寿宏 上映時間 127分 2021年7月6日 MOVIX倉敷 ★★★ 「いとみち」 全国の引っ込み思案女史が観たら、きっと元気出ると思う。 津軽弁ネイティブの駒井蓮ちゃんの、まるでドキュメンタリーのような作品。 見どころ 映画化もされた「陽だまりの彼女」などで知られる作家・越谷オサムの小説を原作にした青春ドラマ。強い津軽なまりと人見知りに悩む青森の女子高生が、メイドカフェでアルバイトを始めたことをきっかけに成長していく。監督・脚本は『俳優 亀岡拓次』などの横浜聡子。津軽三味線が得意な主人公を『名前』などの駒井蓮、彼女の父を『後妻業の女』などの豊川悦司、メイドカフェの先輩を『美人が婚活してみたら』などの黒川芽以が演じるほか、横田真悠、中島歩、お笑いタレントの古坂大魔王らが共演する。 あらすじ 青森県弘前市の高校に通う16歳の相馬いと(駒井蓮)は、強烈な津軽弁と人見知りが悩みの種で、大好きなはずの津軽三味線からも遠ざかっていた。そんな状況をどうにかしたいと考えた彼女は、思い切って青森市のメイドカフェ「津軽メイド珈琲店」でアルバイトを始める。当初はまごつくものの、祖母のハツエ(西川洋子)や父の耕一(豊川悦司)、アルバイト先の仲間たちに支えられ、いとは少しずつ前を向いていく。そんな中、津軽メイド珈琲店が廃業の危機に見舞われる。 2021年7月8日 シネマ・クレール ★★★★
2021年08月07日
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「津山事件の真実」津山事件研究所 さて、三十人が殺された「津山事件」の「現場」を見たい、その一点だけで、この本を頼りに場所を探した。この本には、当時の警察の捜査資料が約200ページ以上に渡ってそのまま載っている。第一級の一次資料である。2ページ略地図が載っていた。 津山市⚫︎⚫︎地区は、津山市に住んでいた35年前とほとんど変わらない景色を持っていた。ここだけ時間が止まっているかのようだ。中国山地の山沿いに少し大きめの川が流れ、それに沿って因美線が通っている。昔から交通の要所だったところなのである。「現場」は、その川沿いから一本山道に逸れてずっと行く。そこから更に一本左に入った山沿いの村のはずなのだが、どの道に入ってゆくか、さらにはそこからどの集落が「現場」なのか、この本の(アメリカにあったという)「津山事件報告書」の略地図を見ないことには決して確信できなかったろうと思う。スマホの検索では、決してわからない。確かに、「現場」は土地勘のある私からしても「県北の辺鄙な奥地」だった。 少し津山市に住んでいたからわかるが、冬には雪深い厳しい土地柄なのである。県南は33度の真夏日で一日中晴れだったのに、此処に来ると一挙に5度ほど温度が下がり、小雨まで降ってきた。 それでも、わりと車が往来する。いまだに住んでいる人が多い。私は「現場」は、廃墟のような野原になっているか、ポツンとしか家が立っていなくて、あとは田畑だけが広がる寂しい土地を想像していた。 ところが行く途中、かなり近くの村に行っても家屋が途切れない。平家物語の熊谷次郎直実の「慰霊の桜」の木まであった。法然の弟子であった直実は、久米南町にある法然の誕生寺を尋ねることはあったとしても、そこから何十里も離れたこんな辺鄙な道を、何故歩いていたのか。それとも、此処はそれほどに交通の要所だったのか。 また、「現場」のはずれの小さな祠は綺麗に管理されていた。歩いて10分ほどのところには、バスさえも来ていた。 それでもちょっと迷いながら「現場」の近くまできた。車を降りて歩いてゆく。「地神」や「大日如来」石碑は、この小さな村の入口を守っていた。83年前の事件ではあるが、入口にあるのは、人々がそういう事件を忘れていない証拠だろうと思われた。村はわりと小高いところにあった。意外にも、家々は当時と同じくらいに建っていた。家族全滅の家もあったので、遺族がそのまま住んでいないのは明らかではある。村は消滅していなかった。それどころか、此処に来る途中ずっと棚田が続いているのだけど、休田はあるにせよ、それを含めて田んぼは一つ一つは整備されてこの地域の生産活動はまだ活発に行われている気配がした。村は10数軒しかない。走れば10分で一回りできるほどの集落だった。それでも、83年前、この共同体は「強かに」村を残したのである。犯人が感じた「閉塞感」は、その凶暴な最強最悪の手段を持ってしても、村そのものを無理心中させることはできなかったのだ。 夏の光と雨と風が、村や山々に降り注いでいた。美しいところだった。犯人がそれを感じることができていたならば、キチンと軽い結核を療養して真面目に働き、地道に村の信頼を勝ち取っていたなら‥‥と思わずにはいられない。
2021年08月05日
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「津山三十人殺し七十六年目の真実」石川清 Gakken 本の書評そのものを書きたいわけではなく、35年来の念願であった「津山三十人殺し」の現場を見に行ったその顛末を書くことが目的である。 数十年前には、新潮文庫「津山三十人殺し」(筑波昭)がこの事件の(小説ではなく)実録書としては定番だった。ところが、紐解いた方にはご存知のように、事件の住所は大まかにしか書いてなくて、詳しい地図はない。また、現在では創作他、多くの間違いが指摘されている。この文庫本を読んだ35年前、私は2年間だけ津山に住んでいた。ところが、場所が全然わからない。当時地図検索なんて便利なものはない。実は職場の仲間に、事件のあった⚫︎⚫︎地区(昔は村としてひとつの自治体だった)から通ってる人がいた。彼の家にも何回か行ったが、一度場所を聞いたことがある。「此処とは相当離れているところだ」とだけしか言いわなかった。(実際車で10数分走らなければ辿り着かないところだった)結局それ以上は聞き難くなり、それ以降長い時間が経った。 1938年(昭和13年)5月21日の未明、津山の奥の小さな村で、青年が一晩で30人を銃や斧や日本刀などで次々と殺害した事件が起きた。1人の殺害者の多さでは、近年の京アニ事件(36人)までずっと1番を譲らなかった。世界的にも、個人の大量殺害事件としてはしばらく5番目の多さだった。何故そういうことが起きたのかは、論者が多くいて私の1番の関心ではない。問題は「八つ墓村」(横溝正史)にしろ、「丑三つの村」(西村望)にしろ、「龍臥亭事件」(島田荘司)「夜啼きの森」(岩井志麻子)にしろ、あまりにも多くの小説や映画に翻訳されてリアルな事件がわからなくなっていることだろう。せっかく岡山県に住んでいるのだから、実際の「現場」を見たかった。もちろんこれは単なる興味本位ではあるが、新たな憶測を広めることが目的ではない。よって、ウィキで調べたら簡単に住所はわかるけれども詳しい住所や行き方は示さない。むしろ、興味持った方は、それなりの「努力」をして「現場」にたどり着くべきだと思う。同時に遺族の心情を思うと、どんな理由をつけようとも迷惑でしかないことは承知している(もし「関係者」からの苦情があれば即刻削除します)。 おどろおどろしい「物語」から一旦自由になって、率直に「現場」に「立ちた」かったのである。私は、弥生遺跡巡りが大好きなのであるが、弥生遺跡はたいていは単なる広場である。しかし、私は博物館のジオラマよりも遺跡現場が好きだ。現場に立てば「発見」は意外に多い。その周りの景色、空気から「当時」を様々に「想像」できる。それは「現場」に行った者だけが味わえる「特権」なのである。 石川清さんはアメリカに存在した事件報告書を手に入れて3冊の「決定版」を書いた。そこには、犯人の実像がかなり追求されていると思う。石川清さんは〈結局は絶望した犯人の壮大なる「無理心中」である〉と、分析している(「京アニ事件」とその意味でも酷似している)。そこを深めるのが私の目的ではなかった。ただ「現場」を見たいのである。 というわけで、最近になって急速に進んだ研究書と普及書を二つ図書館から借りて、私はスマホでまずは近くの大字の辺りまで車で行き、そこから小字の「現場」まで、本を頼りに歩いて行った。 その感想は、次回に。
2021年08月04日
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「感染症文学論序説」石井正己 河出書房新社 近代日本文学揺籃の時期は、同時にさまざまな「感染症」が日本を襲った時期であった。感染症の歴史を学術的に書いた本は多く出たが、「史料としての感染症文学」という立場で研究した本は、おそらくこれが嚆矢だろう。感染症の実態が、公的な統計や記録からしか見えないとしたら、それは片手落ちである。人の営みの中でどのように感染症が描かれたかを知って初めてその「真の実態」がわかるだろう。文学はその最良のテキストのはずだ。 近代において出てきた(正体の分かった)感染症は「コレラ」「結核」「腸チフス」「疱瘡」「ペスト」「赤痢」「百日咳」「スペイン風邪」「梅毒」などがある。 「スペイン風邪」文学として志賀直哉の「流行感冒」があることは、私は一度取り上げたことがある。今回、小説ではなくエッセイとして与謝野晶子「感冒の床から」「死の恐怖」があったことを初めて知った。明治の世の中に向けて、母親の立場から筆先鋭く書いている。曰く「日本人に共通した目前主義や便宜主義の性癖の致すところだと思います」。盗人を見てから縄をなうというのは、正に現代のコロナ禍においてもあらゆる政治家がその性癖をあらわにしているだろう。東京と横浜だけでも一日に400人の死者を出していた時に「人事を尽くせ」と晶子は糾弾する。これは「社会連帯の責任」なのだと。忘れてはいけない。これは明治憲法下の大正時代のエッセイなのである。 正岡子規の結核は有名であるが、ずっとあれだけ人との接触が多い中で結核の伝染は無かったのか疑問に思っていた。子規は病気を理解して、食事を一緒に取らない、弟子が来てもソーシャルデスダンスをとって接する、栄養あるものをたらふく食って抵抗力をつけるなどの対策をしていたことが分かった。子規の周りでは、結核の伝染は起きなかったらしい。 一級の医者である森鴎外と娘の百日咳との戦いと経緯は、かなり詳しく、親としての心労とそれでも起きる判断間違いなどを分析して読み応えがあった。 総じて面白い視点の文学論だった。
2021年08月03日
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「時をつむぐ旅人 萩尾望都」NHK出版 番組を見損なった。萩尾望都大ファンの番組プロデューサー(秋満吉彦)が満を持して放つ100分de名著。番組よりも論者は更に加筆したようだし、論者たちをア然とさせたらしい萩尾望都ロングインタビューも完全版で載っている。番組観なくても、こういうムックで読む方がよっぽど役に立つ。 【内容】 『トーマの心臓』をよむ――小谷真理 『半神』『イグアナの娘』をよむ――ヤマザキマリ 『バルバラ異界』をよむ――中条省平 『ポーの一族』をよむ――夢枕獏 萩尾望都インタビュー ここで新たに提示されている萩尾望都論は、それなりに新しい視点ではあるけれども、驚くようなことは書かれてはいない。かつて80年代の初めに漫画評論誌「ぱふ」に於いて橋本治が「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」で指摘した時から、萩尾望都は文学評論の水準で語られてきた。まだまだ汲めども尽きぬ視点が出てくるだろう。 ここの論者たちが繰り返し指摘している視点がある。 「異端者」としての主人公=作者が、どうやって世間と折り合いをつけてゆくか。 「ここではないどこかへ」というのは、21世紀から出てきた萩尾望都短篇のテーマではあるが、それはそのまま萩尾望都の生涯のテーマであるというのである。 それはその通りだと思う。 じゃ、それは単なる「世間」なのか? というのが私の問題意識である。 それはもっと手強い「世界」ではないのか? 言葉にできない「世界」に対する不安。 それは同時に私たちの問題意識でもある。 萩尾望都が何度も読み返されるのには、理由がある。 小説では描けないものを描いているから、萩尾望都はマンガを描いているのである。と、インタビューで萩尾望都は明確にしていた。ネームの作り方は、最初は登場人物の心理状態も全て書くらしい。そのあと絵で還元できるものは全て削って、最後にうまく絵にならない部分が、あの夢のように流れる「モノローグ」として残るらしい。曲のない歌詞が歌ではないように、絵のない言葉はマンガではない。「悲しみの天使」という映画とヘルマン・ヘッセの小説に刺激されて「トーマの心臓」が出来たようだが、一度その両方を見て、私にも「トーマ」がつくれるか試してみたい(笑)。 論者たちの討論では、「イグアナの娘」のラストシーンに出てくる小さなトカゲの正体について、議論があったそうだが、インタビューではあっさり「それはお母さんです」と明かしている。ヤマザキマリは放送された番組を観てズッコケたらしい。この場合、娘とお母さんの和解は成立していたようだ。 その他、新「ポーの一族」で「アランは復活させます」とあっさり語っていたり、とっても重要なことをさらっと言っている。 萩尾望都を読んでいくために、新たに重要な本がまた誕生した。
2021年08月02日
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柔道週間が終わった。 日本柔道に5個の金メダルをもたらし、混合団体では銀メダルを獲得した。絶対視されていた団体で金を取れなかったのは、柔道の神さまが慢心を諌めたからかもしれない。技での決着を重視する今回のルール改正は、いずれにしてもこれからのしばらくは日本に柔道黄金時代をもたらすだろうと、私は思う。 私は、この前夢を見た。 マンガ原作になりそうな内容だった。 誰か描いてくれないかな。 大野がゆきずりに不良に絡まれている少年を助けようとする。助けたつもりが刺されて仕舞い、そのまま死亡。大野は金メダリスト大野だった。少年は、公に私に、「コイツのせいで日本の宝がなくなった」と言われる。 少年は柔道部に入る。目標は初めから、大野が目指すはずだったオリンピック三連覇である。しかし、体格も、才能もない少年が選んだのは、やればやるだけ強くなる寝技オンリーの柔道だった。監督は、少年の覚悟を見抜き、寝技に特化したメニューを組む。 やがて一年後、少年は寝技だけで中学生日本一になるが、どんなに勝っても決して笑わないのが評判になる。マスコミは手のひら返しで特集するが、少年は無視するし、知人は少年の人生がなくなるのではないか?と心配するが、大野のライバルだった笹野だけは目にかける。この試練が、いつか少年を武の道に導く。それは10年後になるかもしれないが、きっとなる、と。 やがてインターハイを優勝して、全日本で勝ち進む高校生になった少年は研究されて、寝技を避ける方法、寝技に持ち込む立ち技を返される方法を作られて失速する。しかし、それをもう克服して、やがてオリンピックに出る。 驚異的なパワーとスピードの前に、少年は何度も限界に陥る。その度に生前大野の言ったことが蘇り、少年は金を取る。少年の前に人生が広がっていた。 2021年7月27日妄想
2021年08月01日
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