まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2018.11.04
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カテゴリ: メディア問題。
昔の日本にも、自殺する人は沢山いたけれど、

いちいち、その原因を問うたりはしなかった。
いちいち死ぬ人たちにまで想像力や関心を向ける風潮はありませんでした。

まさしく「死んだら負け」だったのだと思う。



しかし、時代は変わりました。

なぜ変わったのか。
それは、多くの人にとって「自殺」が他人事ではなくなってしまったからです。


新垣結衣が衝動的に線路へ吸い込まれそうになるシーンがありましたが、
ああいった場面が、もはや誰にとっても他人事ではなくなってしまった。

実際、自殺は、
たんに死んでしまう本人自身の問題ではなく、
調べてみれば、
そこには、いじめや、虐待や、パワハラなど外的な要因が存在することを、
社会全体が認識するようになってきた。

それが現在の時代的な状況だといえます。



そうした中で飛び出したのが、今回の松本人志の発言です。

この「死んだら負け」という発言には、



◎第1点

百歩ゆずって、
生きている人に向かって「死んだら負け」とエールを送るのなら、
まあ、理解できなくもないのですが、
現に死んでしまった人に向かって、あえて《負け》のレッテルを張る、
という文脈上の問題。


◎第2点



もちろん、全ての事例に同じ図式を当て嵌めることはできません。

ほんとうにパワハラがあったのかどうか。
ほんとうに加害者は存在したのかどうか。
ほんとうの加害者とは誰だったのか。
それは、個々の事例を調べてみなければわからないことです。

しかしながら、そうであればこそ、
こうした個別の事例を丹念に検証する作業が必要なわけで、
それを、たんに死者の《負け》の問題に還元してしまうことは、
問題の本質から目をそらす結果になりかねない。

たとえ生きている人に対してであれ、
パワハラに耐えたことを《勝ち》と称賛し、
パワハラから逃げることを《負け》と見なすような発想は、
社会に蔓延するパワハラの構造そのものを容認する文脈に転化しかねません。


◎第3点

松本人志の社会的地位という視点から見ると、
現在の彼は、
あきらかに パワハラを受ける側 ではなく、
どちらかといえばパワハラを行なう側に立っている だろうといえます。

そういう人間が、
パワハラに屈することを《負け》と見なすのは、
いわばパワハラを生き抜いてきた人間の「勝者の論理」として機能しかねない。
のみならず、それは、
さらにパワハラを再生産することの正当化の論理にさえ転化しかねない。
そういう文脈上の問題があります。

事実、近年の松本人志には、
かなり「権力側に擦り寄っている」との批判があるからです。



冒頭に書いたとおり、
自殺者を《敗北者》として片付ける発想は、すでに過去の時代のものです。

もちろん、
むやみに自殺者を称揚して、模倣死を促すべきだとは思いません。

しかし、だからといって、
多くの人を死に追いやっている社会的構造を容認するのでは本末転倒。
重要なことは、
自殺者を称揚することではなく、
自殺に追い込んだ外的要因を追及することです。



現代では、
自殺をたんに個人の問題に還元するのではなく、
社会的な問題として考えていくべきだという見方が主流です。

それは、ひとつの進歩なのだと思う。

ところが、
松本人志は、あえて時代に逆行する立場を表明している。
いわば、彼は 旧世代を代表する人間 になってきている。

パワハラやセクハラの主要な加害者層でもあり、
例の「新潮45」のようなネトウヨ雑誌などを愛読しながら、
自分たちの過去の歩みを自己弁護したくてたまらない
そういう オヤジ世代の代弁者 になりつつある、ということかと思います。

まさしく「新潮45」がそうだったように、
そこにこそ、オヤジ向けの大きな市場が存在するということを、
松本人志は、戦略的に狙っているのかもしれませんが、

わたしは、そうした様子を見るにつけ、
芸人としての松本人志が老衰していく現場を見ている気がしてなりません。





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最終更新日  2024.06.18 00:56:40


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