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ひさしぶりの「ブラタモリ」でしたが、なぜか草彅剛と井上陽水がはずされてる。あいみょんとタモリが、春画つながりなのは分かるけど、だからといって、そのためにタモリ自身が、ツヨポンと陽水に引導を渡したとは思えない。結局、これってジャニーズ問題の影響なのでは?? ◇つまり、それは、旧ジャニの起用を再開すると同時に、辞めジャニを主要番組から締め出す…ってこと。じつは「ブラタモリ」のレギュラー終了も、そのための準備だったのでは?と思えてくる。実際のところ、刷新感を出したつもりかもしれないけど、わざわざオザケンの古い曲を使う理由も見当たらない。◇ツヨポンの排除は、すなわち「飯島三智の排除」を意味しますが、そういう力が、はやくも旧ジャニ側から出ているのでは?あるいは、小杉理宇造あたりが、そういう策動を再開したのでは??言い換えるなら、すでに連中は「ほとぼりが冷めた」と踏んでいて、NHKも、それに応じてる可能性があるってこと。かりにNHKが、そういう取引に応じてるなら、あらためて糾弾していく必要があると思います。▶ Nスペ「ジャニー喜多川」と竹内まりやのプロモーション攻勢はこちら。ブラタモリ 18 秩父 長瀞 大宮 室蘭 洞爺湖 宮崎 [ NHK「ブラタモリ」制作班 ] 楽天で購入
2024.11.02
10月3日のNHK「The Covers」は中森明菜特集。ゲストが郷ひろみ。ナレーションが本木雅弘。どちらも辞めジャニです。そして、その翌週の「The Covers」は、よりによって竹内まりや特集。しかも2週連続で。山下達郎が中森明菜の「駅」をこき下ろしたのは有名な話。◇このNHKの態度は、バランスが取れてる…と言うべきなのか、どっちつかずの両義的な方針…と言うべきなのか。中森明菜の回を総合で放送し、竹内まりやの回をBSのみで放送したところが、せめてもの「配慮」かもしれません…。◇10月16日には、旧ジャニーズ事務所(SMILE-UP)から分離した、スタートエンターテイメントのタレント起用解禁を発表。そして、10月20日にはNHKスペシャルが「ジャニー喜多川」特集。これまた、バランスが取れてると言うべき…?両義的と言うべき…?その前の10月14日には、NHK-FMが例によって大々的な「竹内まりや三昧」を放送。NHKだけじゃなく、テレ朝の「EIGHT-JAM」はもちろん、TOKYO-FMも、ニッポン放送も、読売新聞も、竹内まりやの特集を組んでます。ここ数ヶ月は、竹内まりやのアルバム発売に合わせて、ドラマやCMのタイアップにも余念がなく、メディアを利用したプロモーションがおこなわれており、ミュージックマガジンは、またしてもスマイルカンパニーの宣伝媒体と化してます。ミュージックマガジン[本/雑誌] 2024年11月号 【特集】 竹内まりや / ミュージック・マガジン 楽天で購入 ◇ジャニタレの多くは被害者でしょうが、ジャニーズ事務所の権力を利用し、そのスキャンダルを隠蔽するために、中森明菜や飯島三智を排除しつつ、ジャニー喜多川の性犯罪を助長させた点で、スマイルアップやスマイルカンパニーの首脳陣は、むしろ加害者だというべきです。そこには、小杉理宇造だけでなく、山下達郎と竹内まりやも含まれる。彼らはたんなる所属タレントではないからです。【芸能】NHKスペシャル「ジャニー喜多川」特集も“字幕”は抵抗か言い訳か。真意を巡って視聴者モヤモヤ https://t.co/iHlFYW0CCJ #日刊ゲンダイDIGITAL #ジャニーズ— 日刊ゲンダイDIGITAL (@nikkan_gendai) October 21, 2024 ◇ジャニーズの権力の巨大化は、80年代のたのきんトリオや光GENJIもさることながら、何より90年代のSMAPというグループのなせる業でした。それは彼らのタレント性だけでなく、彼らを支えた団塊ジュニアの市場の巨大さによるものです。同時に、SMAPというグループには、みずからの《ジャニーズ性》を笑い飛ばす批評性があった。彼らはバク転の出来ないジャニーズであることを、ことあるごとに自嘲しました。こうした自虐的な批評性は、とりもなおさず団塊ジュニアの文化でもありました。それを育成したのは、ジャニーでもなければメリーでもなく、飯島三智だったのですが、メリー喜多川は、その"成果"だけを横取りし、自らの権力のために利用して貪り尽くし、挙句の果てには飯島三智を排除して、グループそのものを破壊してしまった。それは団塊ジュニアの文化に対する破壊行為でもありました。結果的に、SMAPの巨大な影響力は、ジャニーズのスキャンダルを隠蔽するための、メディア支配の道具にされてしまった。◇山下達郎と竹内まりやも、こうした団塊ジュニアのマーケットに依存し、それを利用しながら、その内心では団塊ジュニアの"批評性"を嫌ってる。その批評性が彼ら自身に向くことは不都合だから。メリー喜多川と同様に、達郎&まりやの場合も、批評性の強いファン層より、コントロールしやすい盲目的なファン層のほうが都合がいい。鈴木おさむは廃業する前に、「1970年代生まれの団ジュニたちへ」という連載を書き残しましたが、まだまだ本当のことを書いてないと思います。◇今回のNHKスペシャルによれば、熊野の高野山での疎開体験が、ジャニー喜多川のセクシャリティを決定づけたようです。彼の父親は真言宗の僧侶だった。ジャニー喜多川へのグルーミングをおこなった人物が、宿坊や檀家の関係者なのか分かりませんが、カトリック教会と同じように、高野山にも男色の文化があるのかしら??そういえば、南方熊楠も、男色文化にはただならぬ関心をもってました。もちろん男色はひとつのセクシャリティであって、それ自体が犯罪というわけではありません。ジャニー喜多川の犯罪性は、あくまでも権力を利用したグルーミングにある。◇グルーミングを被害ととらえるのか、それとも愛情ととらえるのかは、個人によって異なる。ジャニー喜多川自身も、高野山でのグルーミング体験を愛情ととらえたのだろうし、ジャニタレのなかにも、ジャニー喜多川によるグルーミングを、愛情ととらえた人たちはいるのでしょう。そういう認識自体を責めるのは難しい。◇ジャニー喜多川の場合、性的なグルーミングとアイドル育成は表裏一体でした。それはアイドル適性を測り、養うための去勢訓練でもあった。…ジャニヲタの非モテ女子のなかには、ジャニタレが恋愛することを許さない人たちがいます。彼女たちは、> アイドル稼業はファンとの契約なのだから> アイドルでいるかぎり恋愛しないのが義務である!みたいな一方的な論理を平然と口にする。AKBヲタクの非モテ男子も、AKBのアイドルが恋愛することを許さない。秋元康はそれを明確にルール化した。これはあきらかな人権侵害です。秋元康さんとの対談が掲載されました!https://t.co/Ox9feOGowd— 竹内まりや45th Anniversary (@mariya45th) October 13, 2024 ◇ジャニタレは非モテ女子の愛玩物。AKBアイドルは非モテ男子の愛玩物。彼ら・彼女らは、アイドル幻想の"奴隷"になることを要求される。そこに人権侵害の核心があります。とくに男性アイドルが女子の愛玩物になる場合、ある種の《去勢》が必要になります。従順なペットにならなければならないから。ジャニー喜多川によるグルーミングは、男性アイドルを去勢するための通過儀礼でした。つまり、おじいさんとのセックスを受け入れることで、はじめて女子の愛玩物になる資格を得るという仕組み。これはきわめて合理的なシステムだった可能性がある。したがって、これは、ジャニー喜多川個人の性癖の問題を超えて、アイドル消費文化に潜む構造的な問題でもあります。この点において、SMAPの批評性は、ジャニー喜多川による去勢とは対極的でした。それは飯島三智がSMAPを去勢しなかったから(もしくは去勢された批評性を回復させたから)。…というのが、わたし個人の見立てです。◇山下達郎が、女性アイドルのことを強く否定していたにも関わらず、男性アイドルのことを肯定したのは奇妙な話です。山下達郎は、小杉理宇造よりも早く、すでに中学生のときに初代ジャニーズを発見し、その魅力にのめり込んでる。おそらく池袋の名和プロダクション時代のこと。そんな山下達郎が、宝塚とジャニーズを合わせて評価したのは不気味でもある。それは、つまり、ヘテロセクシャルな文化は否定するのに、ホモセクシャルな文化は肯定するということ。シスターフッドやブラザーフッドの文化を評価する、ということなのかもしれないけれど、とくにジャニーズ事務所の場合、犯罪に結びつくセレクシャリティが絡んでいたことを、山下達郎が知らなかったはずはない。この謎はまだ解明されていません。竹内まりやが悪目立ちすればするほど、この問題は繰り返しクローズアップされることになる。初代ジャニーズの中谷良による1989年の暴露本。【中古】 ジャニーズの逆襲 楽天で購入
2024.10.23
セクシー田中さん問題。日テレと小学館から報告書が出ました。日テレhttps://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/pdf/20240531-1.pdfhttps://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/pdf/20240531-2.pdf小学館https://doc.shogakukan.co.jp/20240603a.pdf1.事前の合意についてそもそも「原作に忠実に」という意向が、小学館と日テレ双方で合意されていたとはいえない。それを証明する文書はなく、双方の主張も食い違います。「原作に忠実に」という条件は合意されていない。バカな漫画ヲタクどもは、「ドラマは原作に忠実に作るのが当然!」などと主張してますが、ドラマは「原作を改変するのが当然」です。そもそも「漫画原作に忠実なドラマ化」とは何か。・漫画の絵をそのまま映像にすることですか?・コマ割りをそのまま絵コンテに置き換えることですか?・生身の俳優が漫画のキャラになりきることですか?・漫画1話分の物語をドラマ1話分に置き換えることですか?・全話分の物語を10話分のドラマに置き換えることですか?どの観点から考えても、「原作に忠実なドラマ化」など不可能です。むしろ改変こそがデフォルトだと考えねばならない。さすがの芦原妃名子も、そこまでバカじゃなかったので、ドラマ化に「改変」が必要なことは理解してました。日テレの報告書より。◇むしろ、それより問題だったのは、9・10話の「脚本家交代」についてなのですが、これについては、合意らしきものがあったとはいえ、【原作者→小学館 →日テレ】という伝言の過程で、その意思が徐々に薄められて及び腰に伝えられ、契約書にも明記されないまま、脚本家にはまったく伝わってませんでした。その曖昧な伝言ゲームが、のちに双方の不満を募らせて、ネットでの炎上騒動へと発展する結果になった。社員Xには口頭で伝え…社員Yにはメールで伝えたものの…社員Xは十分に認識しておらず…契約書にも記載されなかった。以下は日テレ側の認識。2.SNSの対応についてつぎに、炎上への対応について。まずは一般的な話としてですが、SNSで誰かに何かを言われて死ぬくらいなら、そもそもSNSをやるべきではありません。たとえば星野源の問題でもそうですが、滝沢ガレノが何かを書けば、そこに乗っかる人間が大勢いるし、それに対して星野源や新垣結衣が何かを書けば、そこにまた乗っかる人間が大勢います。そのような炎上騒ぎに対して、どちらが正しいとか間違ってるとか言っても仕方がない。SNSとはそういうものだと考える以外にないし、それに耐えられなければSNSをやるべきではありません。芦原妃名子もSNSはやっていませんでした。もともとSNSの危険性を警戒していたのかもしれません。しかし、脚本交代の件にかんしては、わざわざXのアカウントをあらたに開設して、一時的ながらSNSでの発信をしてしまったのですね。そして、それが結果的には仇になった。◇SNSにかんして、日テレと小学館では対応に違いがあります。日テレは「表現の自由」を尊重するとして、相沢友子のSNSにタッチしなかった。相沢友子の情報発信への対応。日テレの報告書より。小学館も、当初は同様の対応だったようですが、芦原妃名子の強い要望に応えて、ブログとXでの情報発信に協力し、さらに炎上騒動が拡大して以降は、対策委員会を招集するなどして、芦原妃名子の情報発信に対して、何らかの干渉をしようとしたフシがあります。芦原妃名子の情報発信への対応。この小学館の対策委員会の設置は、芦原妃名子の自殺のトリガーになった可能性もある。そこで「攻撃」という言葉が使われたかもしれないからです。◇バカな漫画ヲタクどもは、「日テレは相沢友子のSNSを削除させるべきだった」などと主張してますが、それは間違った考えです。未成年の子供ならともかく、成人した大人で、しかも表現を生業とする人間が、どこでどんな表現活動をしようと、それは個人の「表現の自由」の範疇であって、企業がいちいち干渉すべきことではありません。むしろ問題なのは、小学館の対応のほうです。たんに個人どうしの喧嘩なら、わざわざ企業が口を出す必要はないはずですが、あえて小学館が対策委員会などを設置したのは、それにともなうSNSでの炎上騒動が、小学館と日テレの両企業にとって不都合と考えたからでしょう。しかし、だからといって、企業が個人の表現活動に干渉などをすべきではない。◇もちろん、小学館の対応が、芦原妃名子の「表現」を侵害したとまでは言えないし、かりに何らかの干渉があったにしても、それが自殺の引き金になったとまでは断定できないし、かりに引き金になったとしても、そのことで殺人罪に問えるわけでもありません。そもそもSNSを使ってほしくないのなら、別途、その旨の契約が必要なのだと思いますが、ごく一般的な考え方として、SNSをやるかやらないか、そこでどんな発信をするかは、個々人の「表現の自由」の範疇であって、そこで誰と喧嘩をしようが、その結果、傷ついて自殺をしようが、それも表現者である作家個人の責任の範疇と言うべきです。作家を孤立させないということと、個人における「表現の自由」に干渉するということを、けっして混同すべきではありません。3.キャラ設定についてこれは、わたしの想像だけれど、小説であれ、漫画であれ、原作者がもっともこだわるポイントは、おそらく「キャラ設定」なのだろうと思う。ドラマ化にともなうキャラ設定の変更は、視聴者の嗜好や俳優の特性に合わせたものでしょうが、たしかにキャラの設定を変えれば、おのずから登場人物の行動原理が変わり、それによってストーリーとその意味合いも変わります。したがって、原作者の意向と齟齬が生じやすい部分だと思う。◇今回のように、原作者が脚本監修(プロットの修正)をする場合であっても、キャラの設定にかんしては、ストーリーにも影響する問題なので、契約前の段階で合意に達しておくべきだと思います。テレビ局と出版社は、この点をいかに調整すべきかについて、あらかじめ様々なケーススタディをしておくべきだし、合意のためのフォーマットを作っておくべきでしょうね。
2024.06.06
星野源が不倫したかどうかは、わたしの知ったことじゃないし、その情報を打ち消すために、アミューズが10億円払ったとかいう話も、わたしの知ったことじゃありません。もともとネット情報は虚実が入り乱れてるし、たとえデマが拡散していたとしても、なんら不自然だとも不可解だとも思いません。むしろ、それがデフォルトだと言っていい。それよりも、わたしが不可解なのは、星野源と新垣結衣が、そんなネットの情報を打ち消すために、異様なほど迅速かつ周到な動きによって、世間にむかって「円満な夫婦」を演出し、疑惑を払拭しようとしたことのほうです。これは、その疑惑が、夫婦間の問題である前に、なによりメディア的な問題であったことを意味してます。◇通常、夫の浮気が疑われた場合、なによりも妻に弁明して誤解を解くことのほうが先です。そして妻は、その弁明を聞いて、夫が誠実なのかどうかを確めることのほうが先だと思う。しかし、星野源と新垣結衣のとった行動はそうではありません。夫婦間のコミュニケーションよりも先に、それぞれがそれぞれの事務所との協議の上で、世間の誤解を解くように真っ先に動いたのです。この動き方は、かなり異様に見えます。◇夫婦間の信頼関係を確認しあうよりも先に、まずは世間のイメージダウンを回避せねばならなかった。つまり、これは、星野源と新垣結衣の夫婦間の問題というよりも、アミューズとレプロの事務所の問題だったからだと思う。ほかならぬ双方の事務所にとってこそ、円満な夫婦関係を疑われることは不都合だったのでしょう。星野源は、そんな事務所の意向に沿って、妻の誤解を解くよりも先に、世間の誤解を解くことのほうを優先させました。その意味で、星野源は、ミュージシャンである以上に「芸能人」なのです。おそらく新垣結衣も、夫が浮気してるかどうかには関心がないのでしょうね。それよりも、事務所の意向に沿って、世間の疑念をいち早く取り払うことのほうが大事だった。深夜ラジオでの夫婦のブッキングが、双方の事務所による演出だったのも明瞭だと思います。そもそも、星野源と林田理沙が浮気をしていたのかどうか、その真偽について知ってるのは当事者の2人だけです。たとえ妻といえども、新垣結衣がそれを知ってるはずがありません。夫の行動を24時間監視してるわけじゃないのだから。ましてアミューズやレプロがその真偽を知ってるはずがない。今のところ、公に疑惑を否定してるのは星野源だけであり、林田理沙は公にむけたコメントを発していません。◇アミューズとレプロは、この情報を発信した滝沢ガレソと、それを拡散させたXの一般ユーザーに対し、告訴も辞さないと言って脅しています。もちろん、SNSがデマであふれる状況は社会的な問題だし、それがしばしば拡散することも社会的な問題です。投資詐欺広告のようなデマ情報の規制は、何よりXの運営企業に課せられるべき責任だし、利用者側にも一定の注意と自制は求められます。しかし、Xの一般利用者は、どんな情報に対してであれ、いちいち真偽を確認してリツイートできるわけじゃない。マスコミの情報でさえ本当か嘘か分からないからです。たとえば、イラクに大量破壊兵器はなかったかもしれないけど、その真偽など一般の人間に確認できるはずもないし、たとえ確認できなくてもリツイートぐらいするでしょう。それと同じように、星野源は浮気をしていたかもしれないけど、そんなことの真偽など一般の人間には確認しようもない。たとえ当事者が「浮気してません」と発表したところで、その真偽すら一般の人間には確認しようがありません。本人が嘘を言ってるかもしれないのだから。まして、新垣結衣や事務所から発せられる情報など、まったく当てにもなりません。当事者ではないのだから。◇唯一、わたしに言えることは…事務所のイメージ戦略のために、夫婦間の信頼関係の確認よりも、メディア対応のほうを優先するような夫婦は、その行動が迅速かつ用意周到であればあるほど、かえって異様かつ不自然に見える、ということです。その動き方こそが、何にもまして不可解なのです。
2024.05.30
TBS「不適切にもほどがある!」第8話。> 炎上の原因は、> 見てないアンチによるSNSの批判投稿と、> それを拡散させるコタツ記事だ…という話。◇まさにこれを逆に利用したのが、成田悠輔とキリンの炎上商法なのだろうなと思う。その「氷結無糖」のウェブ広告を実際に見た人って、じつは少ないと思います。わたしも見てないし。大々的なテレビCMでもないし、ネットのなかでさえ、たいしたCM出稿量ではなかったはず。なので、まさしく「見てないアンチ」が炎上させた事例だと思う。そして、実態としては、最小限の広告費用とCM出稿量で、最大限の炎上による広告効果をあげた可能性があります。実際のところ、キリンへの不買運動などが起こったとは考えにくい。アルコール好きの人間が、わざわざ自分の選択肢をせばめて、アサヒやサッポロの商品だけで我慢するとは思えないし、集団でのバッシングをためらわない人々が、自分の生活の質を犠牲にしてまで、消費行動を倫理的に制限するとも思えない。それどころか、炎上して「氷結無糖」の商品名が連呼されたことで、かえって売り上げが伸びてる可能性もあるのよね。キリンも、成田悠輔も、ブランドイメージへの影響もふくめ、そこらへんをしたたかに検証してるに違いない。◇一部では、成田悠輔への攻撃が、「リベラル派からなされてる」という見方もあるけど、これも本当のところは疑わしい。たしかに、「弱者の側に立つ」のはリベラル派の価値観だけど、「年寄りを敬う」のは保守派の価値観というべきです。むしろ実際には、そうした政治的な信条よりも、ただの個人的な好悪と憂さ晴らしで攻撃してる人間が、大多数じゃないかと思います。◇成田が口にした「集団自決」とは、おそらく雇用や社会保障にかんする一つの意見表明であって、ほんとうの集団自決など、するわけもなければ、させられるわけもないのだから、それは本人が弁明するまでもなく、最初から《比喩》としてしか解釈しようがないし、その《比喩》の本意を確かめなければ何の議論も始まらない。本来なら《比喩》そのものを炎上させても意味がありません。しかし、成田がわざわざ過激な比喩を用いたのは、あえて「炎上」を想定してのことだ、ともいえます。実際のところ、炎上を誘発させることでしか社会的な議論が活性化しない、…という面はあるのかもしれません。◇成田の主張でもっとも注目すべき点は、この「炎上」という現象をポジティブに捉えているところ。賛否が割れることによる社会的な激論は、むしろ民主主義にとって必要な手続きなのだから、それ自体はけっして悪いことではありません。たしかに現状を見ると、過度に気に病んだり、自殺したりする人がいるので、どうしても「炎上」はネガティブに捉えられがちだけど、賛否が割れて社会的な議論が起こることは必要だし、それを忌避する発想のほうがむしろ間違っている。炎上にかんして、「気に病むほうが悪い」とか、「自殺するほうが悪い」などと言ったら、これまた炎上するかもしれないけど、一般に、日本人は、炎上に対する耐性がなさすぎるのよね。それは議論に慣れていないからであり、その反面で「数の力」を信じすぎているからです。数の力で他人を叩けると信じる人間ほど、自分自身が数の力で叩かれることにおののきます。◇そもそも、議論のための有効なロジックを構築できない人間ほど、安易に「数の力」に依存しがちになるのよね。ネットの世界には、わざわざ数を偽装して水増しするバカも大勢いる。ロジックではなく「数の力」で勝とうとするからです。そして、TwitterやInstagram は、こうした「数への依存」を逆手に取ったサービスを提供してる。ユーザーたちは、その企業戦略にまんまと乗せられて、フォロワーの数やいいねの数を増やすことに必死になっている。◇日本で炎上がネガティブに捉えられるのは、「和をもって尊しとなす」みたいな古い価値観が支配してるせいでもあります。賛否が割れて激論が沸き起こることは、その「和」が乱れた状態だとして忌避されがちで、公の場で議論すべき問題点を指摘することも、その「和」を乱す行為として忌避されてしまう。賛否の割れるような現実を覆い隠して、表向きの「和」を装いつづけることが美徳になる。誰もがうすうす問題点を認識していながら、それをあえて口にしないことが、日本人としての賢さなのだと信じられている。いちいち問題点を指摘する人間のほうが、かえって空気の読めない邪魔者だと排除されてしまう。そうやって、あらゆる現場で改善すべき問題点が先送りされ、社会はどんどん機能不全に陥っていくのだけど、それでもなお多くの日本人は、「和をもって尊しとなす」という精神性を金科玉条のごとく信じています。◇意見が割れるのは当たり前なのだし、それをぶつけ合わなければ解決策は見えてこないのだから、炎上に耐えられる人間が一定の割合まで増えなければ、日本にまともな民主主義は実現しないというべきです。もちろん、「見ないで批判するSNS投稿」や、「コタツ記事」の無責任さの問題はあるけれど、それは、無責任さというよりも、たんにリテラシーのなさと言ったほうが正しい。つまり、「バカなんだから仕方がない」ってことです。比喩かどうかを判断するのもリテラシーの問題になる。一定の割合でバカが存在することを前提に、社会設計をしていくよりほかに仕方がありません。基本的に「バカは死んでも治らない」のだから。◇炎上に対処する方法は大きく2つです。ひとつは徹底して無視すること。炎上させることに自分の存在意義を見出してる人たちは、無視されることで自分の存在意義が乏しい現実に失望します。◇そして、もうひとつは炎上を逆手に取ることです。自分たちの攻撃には意義がある…と思わせて、あたかも攻撃側が勝利したかのごとく錯覚させながら、実際は攻撃された側にメリットが生まれるように戦略を立てること。もちろん企業による炎上商法もその一例ですが、それだけではなく、民主主義的な議論の活性化など、炎上現象を社会的な意義のある展開へと仕向けること。言い換えるなら、バカどもの炎上エネルギーを社会的に有効活用する発想こそが、今後はいっそう必要とされていくのだと思います。
2024.03.22
セクシー田中さん問題。いろいろと議論が進展しています。まずはプレジデントオンライン。西山守の記事です。~芦原さんを苦しめたのは「原作改編」と「SNS炎上」のどちらか~これまでの関係者の発信を読み解くと、ドラマは最終的に全て芦原さんの監修が入っていた。「原作が尊重されなかった」と主張しているのは第三者だけではないか。https://news.yahoo.co.jp/articles/00423158fe0253207d329fbb4b63232794eb7741つまり、ドラマ版「セクシー田中さん」は、双方に想定以上の労力を強いたとはいえ、たえず原作者による修正が加えられたことで、結果的には「原作に忠実」な形で放送されてる…って話。たしかに、この事実は重要です。一部の漫画ヲタクは、「改変されまくりのドラマ版はつまらなかった!!」などと言ってるようですが、それは事実上、芦原妃名子の仕事を否定してることになる。◇最終的に、ドラマが「原作に忠実」な形で放送されたなら、プロデューサーは当初の約束を守ったことになります。…もちろん、いくつかの未解明な部分についての説明責任は残ってますが。それは大きく以下の7点です。1.なぜドラマ化は許諾されたのか。そもそもドラマ化に消極的だった芦原妃名子は、なぜ日テレによるドラマ化を許諾したのでしょうか?いちどは矢島弘一の脚本によるドラマ化を断り、まだ連載も途上だったのに、なぜ三上絵里子プロデュースのドラマ化には応じたのか?その時点で相沢友子の脚本起用は決まっていたのか?これについては、日テレよりも、許諾側の代理人たる小学館が説明すべきだと思います。2.なぜ木南晴夏は5月からダンスレッスンを始めたのか。原作者がドラマ化を許諾する1か月前から、木南晴夏はダンスレッスンを始めていたらしい。これについては日テレから説明するほうが早いでしょう。小学館と口裏を合わせていた可能性もありますが、たんに日テレやホリプロの勇み足だった可能性もあるし、これもまた業界の慣例だったかもしれません。3.プロデューサーは脚本家に何を伝えて何を伝えなかったのか。相沢友子は「初めて聞く事ばかり」とコメントしましたが、具体的に何を指してそう言ってるのかはハッキリしません。さすがに「原作に忠実に」という条件すら知らなかった、…とは考えにくいです。もし、そうなら、第1~8話も修正どころでは済まなかったはずだから。逆に「原作に忠実に」という条件が共有されていたなら、第1~8話の修正は想定内の作業だったといえます。実際、相沢友子も、第1~8話については「自分が書いた」と言ってるだけで、原作者による修正についてはとくに言及していません。一方、終盤の脚本を原作者に交代する可能性については、あらかじめ脚本家に伝えられていたのでしょうか?原作者側から、その可能性を通告されていたにもかかわらず、実際にそんな事態になるとは予想せずに、プロデューサーが相沢友子に伝えてなかった、…ってことも考えられる。その場合、相沢友子にとって脚本交代は青天の霹靂で、大きなショックになったろうと想像されます。そのあたりの事情は三上絵里子が説明したほうがいい。4.相沢友子のインスタ発信は妥当だったのか。相沢友子が、脚本交代の顛末をインスタで明かしたことが、騒動の発端になってしまったわけですが、わたしは、昨日の記事にも書いたとおり、暴露したその行為自体が悪いとは思いません。その種の「不満のぶちまけ」は、ほかの作家や脚本家もやってることだし、あくまで個人の表現行為の範疇であって、べつに日テレ側が制止すべきことでもないはずです。まあ、それについても、三上絵里子なりの見解を示せばいいと思いますが。5.なぜ脚本交代の経緯を小学館から説明しなかったのか。終盤の脚本交代に至るまでの経緯をくわしく説明したのは、小学館ではなく原作者自身だったわけですが、それは何故だったのか。日テレとの窓口は小学館だったのに、なぜか世間の矢面に立ったのは原作者自身だった。その理由については、代理人たる小学館が説明すればいい。6.なぜ芦原妃名子はSNSの文章を削除したのか。脚本交代に至る経緯について説明した文章を、芦原妃名子は亡くなる前に削除したのですが、これは本人の独断だったのか。それとも第三者による何らかの関与があったのか。それについて事情を知る人がいるなら説明すべきでしょうね。7.なぜ連載は休止になったのか。小学館によれば、今回の事態が起きる前から休載は決まっていたとのこと。これについても、自殺の動機を知る手掛かりの一つかもしれないし、代理人たる小学館が説明すればよいと思う。◇…ってことで、じつは三上絵里子が説明すべきことは、さほど多くありません。実際のところ、日テレのプロデューサー陣には、これといった契約違反もないし、目立った過失も義務違反もないのかもしれません。◇次に、Yahooの猿渡由紀の記事です。~原作ものの映像化と改変、最近のハリウッドの例を見る~小説やノンフィクション本、コミックが映像化されることは過去にも今にも数えきれないほどあるハリウッドでは、傑作の中にも、駄作の中にも、原作に沿ったものもあれば、大きく改変されたものもある。実際のところ、ある程度改変されることのほうが多い。https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4f16e5b6d5bcb5bd82c97339e4057e5e105b08f9ハリウッドの優れた映画が、かならずしも原作に忠実なわけじゃない…という話です。まあ、常識的に考えて、オスカーにせよ、カンヌにせよ、原作をそのままトレースしただけの映画が高評価を得るわけがない。漫画ヲタクを喜ばせる映画と、映画ファンを唸らせる映画は、かならずしも同じではない、ってこと。◇次に、Yahooの徳力基彦の記事です。~「セクシー田中さん」と芦原先生の悲劇を繰り返さないために~おそらく重要な分岐点は、12月27日に一部メディアが、相沢氏のコメントを引用し「最終回で消化不良を起こした視聴者が続出」という内容の記事を掲載したことです。この記事は残念ながら、ライブドアなどのポータルサイトにも転載されており、それなりの人数に届いてしまったようです。https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/3ed6b751c16a1baee29f72a36e2de6bc79653899じつはSNSでの怒りの連鎖に着火したのは、ひとつのネット記事だったのではないか?…という話です。この問題については、明日以降に言及できれば、と思います。
2024.02.10
セクシー田中さん問題。まるで示し合わせたように、各所からコメントが出ましたね。おおむね全体の「すり合わせ」が終わった感じ?小学館編集部が「伝えた」と言い、脚本家が「聞いてない」と言ってるところを見ると、おそらく日テレがすべての責を負う形になるでしょう。まあ、実際のところは全体の共犯だったとしても、脚本家に仕事を依頼したのは日テレなのだし、小学館にドラマ化をもちかけたのも日テレだろうから、小学館や脚本家になすりつけるのではなく、やはり日テレが全責任を負うのが筋なのだろうし、そういう決着で、とくに異論もありません。1.原作者の軽視相沢友子の「聞いてない」という話が、ホントかウソかはもちろん分かりません。実際には聞いていながら、それを無視するのが業界のルーティンだった可能性もあるし、おおむね原作者の意向は把握していて、それなりに「忠実」に書く努力はしたものの、芦原妃名子の要求する「忠実」が予想以上だったために、最後までその齟齬を埋められなかった可能性もある。小学館のほうだって、日テレと共犯だった可能性は十分にあるけれど、とりあえず原作者に近しかった編集部にコメントさせることで、なんとか漫画ヲタ勢の信頼をつなぎとめた形でしょうか。わたし自身はひねくれ者なので、あの情緒的な文章がやや気持ち悪く思えましたが、あれで漫画ヲタ勢を感動させることが出来たなら、小学館としては御の字じゃないでしょうか。きっと不買運動にもならずに済むでしょう。◇なお、相沢友子が最初にインスタでトラブルを暴露したことは、芦原妃名子の死の《遠因》になったとも言えるのだから、そのことを後悔する気持ちは理解できるけど、わたし自身は、トラブルを暴露したこと自体が悪いとは思いません。それと同じことは、佐藤秀峰なども原作者の立場からやってるわけだし、他の作家たちも同様のことはやっています。一方の「暴露」が賞賛されるのに、他方の「暴露」が断罪されるというのは、たんに結果から見たジャッジに過ぎず、公平性を欠いています。実際のところ、暴露しなければ分からないこともあるのだし、組織の隠蔽体質を助長することにもなりかねない。そう考えれば暴露することが一概に悪いとは言えない。2.自殺の原因重要なことは、ドラマ制作部が原作者の意向を軽視したことにせよ、相沢友子がインスタでトラブルを暴露したことにせよ、それらは原作者の死の《遠因》ではあるけれど、けっして《直接的なトリガー》ではないということ。結果から物事を見ようとする人間は、死の責任までも安易に背負わせようとするけれど、それを事前に予測するのは不可能です。自分が同じ立場だったら、それを予測できるのかどうかを想像すればいい。結果の側から原因を想像することもできない人間が、原因の側から結果を想像することなどできるはずもありませんが。◇原作者を軽視してきた構造上の問題と、原作者が自殺してしまった個別の問題とは、別々に切り離して考えるべき話です。むしろ自殺の《直接的なトリガー》は、原作者を軽視したことでもなければ、、インスタでトラブルを暴露したことでもなく、おそらく、1.SNSで相沢友子へのバッシングが加熱したこと2.芦原妃名子のSNSの文章を削除させる圧力が働いたこと…のどちらかである可能性のほうが高い。もちろん、そのどちらかであるにせよ、芦原妃名子の死までを予測することはできないし、その行為者に責任を負わせることは不可能です。とはいえ、相沢友子が後悔を表明しているように、SNSでバッシングを加熱させた人たちも、その行為について後悔はあってしかるべきでしょう。後悔することもなく、なおもバッシングをやめないとすれば、それはもう人間としてどうかしている。◇たしかに、ドラマ制作部の二枚舌に気づけなかった段階なら、相沢友子の側から芦原妃名子の存在が「悪者」に見えたり、芦原妃名子の側から相沢友子の存在が「悪者」に見えたりしても、ある程度は仕方ないことと言えます。しかし、現在ではもう状況が違っている。さまざまなファクターが介在しただろうことが、一般の人たちにも推測できる状況に変わっています。それにもかかわらず、この期におよんで、相沢友子のことを、まるで「人殺し」であるかのようにバッシングするのは、いまや不法行為としての《名誉毀損》の度合いが強い、…と言わなければなりません。そもそも、書き直しを迫られるような脚本を、わざわざ好きこのんで書く人間などいるはずがないし、その労力をあらかじめ予測しながらも、あえて悪意をもって原作を改変するなどありえない話です。3.SNSのバッシング逆にいえば、「相沢友子は悪意をもって原作を改変したのだ」みたいな解釈を拡散させている人たちのほうに、今となっては強い悪意を指摘せざるをえない。しかも、その中には、相沢友子の書いた文面を意図的に書き換え、曲解に曲解を重ねながら印象操作をおこない、それを拡散させている人間がいるのです。わたしの確認できる範囲では、ヤフコメに以下のようなデマが書かれている。https://news.yahoo.co.jp/articles/029c2791d0b1ff4f91c9c066cae82ba1f4b42f31/commentshttps://news.yahoo.co.jp/articles/dc2d3ddc1815f33d770df8a190ac0d1dc0f12b05/comments相沢友子の実際の文面は以下のとおり。最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。まったく違う文面が、まるで相沢友子の投稿/コメントであるかのように書かれ、そのデマに1万人前後の人々が「共感」する形で拡散し、いまだ訂正も削除もされていません。たとえリテラシーの欠如が背景にあるにせよ、かなり悪質と言わなければなりません。
2024.02.09
わたしは知らなかったのですが、2010年に、いわゆる「やわらかい生活裁判」ってのがあって、そこでは、《原作者の完全勝訴/脚本家の完全敗訴》…との司法判断が下されてるのね。https://ja.wikipedia.org/wiki/絲山秋子#映画脚本を巡る訴訟このときは、原作の二次使用の許諾を取ったのが、映画制作会社や脚本家でなく、出版社(文芸春秋)だった、…というテクニカルな面での失敗もあるのだけど、やはり最大の判決理由は、原作者の「著作権/著作者人格権」を重視したことだと思う。(この裁判での出版社の立ち位置はいまいち分かりません)ちなみに、この裁判は、シナリオの雑誌掲載をめぐる争いだったのだけれど、理屈のうえでいえば、映画公開の中止さえも可能にするような判例だと思う。つまり、原作者の一存さえあれば、あらゆるメディアミックスを中止に追い込める、…ってことではないかしら?◇そこで気になるのが、現在の東宝ミュージカル「ジョジョ」のことです。一部では、あの騒動も、「もしや原作者とのトラブルでは?」なんて噂されてますが、…どうなんでしょうね。実際のところは分からないけど、あくまで理屈のうえでいえば、原作者の一存で公演を中止させることは可能だと思う。◇芦原妃名子だって、法的な観点からいえば、自分の一存でドラマをやめさせることは出来たはず。でも、小学館との信頼関係を優先させたのでしょう。出版社とのあいだで、二次使用や代理人にかんする契約をすることが、一概に悪いとも言いきれませんが、あくまで著作権や著作者人格権は原作者にあるのだから、代理人に縛られる必要はなかったはずなのよね。出版社は、最終的には企業のロジックで動くだろうし、そういう出版社を信頼しすぎると、結果として原作者自身が苦しむことになると思う。◇まあ、セクシー田中さんの問題でいえば、表向きは味方のフリをしながら、実際は二枚舌で原作者の権利を搾取していた、出版社&テレビ局が悪いんだろうし、それを慢性化させた業界全体の責任でもあろうけど、ぶっちゃけていえば、メディアミックスをめぐる対立というのは、すぐれて権利上の争いなのであって、誰が正義で誰が悪か…みたいな話ではないと思います。今回は、原作者の死という結果から見てるがゆえに、どこかに犯人がいるかのごとく考えがちだけど、ほんとうはそうではない。この争いでは、二次使用をする側が負けることもありうるし、そちら側に被害者が出ることだって想定せねばならない。◇もし原作者の一存で、映画やドラマや演劇を中止させることが可能だとすれば、それはメディアミックス産業にとって恐怖です。原作者の多くは、あくまで忠実な二次使用を望むかもしれませんが、それが市場の評価に帰結するとは限らないし、そもそも、映画にしろ、ドラマにしろ、演劇にしろ、「完全に忠実な二次創作」などありえないのだから。いったい何をもって「忠実」と判断するのか。たとえば東宝の「ジョジョ」はミュージカルですが、原作漫画に忠実なミュージカルなんて本質的に不可能!物語やキャラのみならず、衣装や舞台セット、音楽や歌など、原作漫画の世界観を壊しかねない要素は枚挙に暇がない。◇相沢友子の脚本もそうだったかもしれないけど、たとえ制作側が「それなりに忠実」なつもりでも、原作者から見れば「ぜんぜん忠実じゃない」って判断になったり、たとえ制作側が「最大限に忠実」なつもりでも、原作者から見れば「まだ足りない」って判断になるかもしれない。そういう終わりのない「無限忠実地獄」に翻弄されかねない。まして、出版社が二枚舌を使って仲介していたなら、その齟齬は永遠に埋めようがありません。かといって、細かい条件までを事前に確認しようとすれば、それはそれで、とてつもなく膨大な作業になるはずです。◇従来のメディアミックスの世界で、その合意がうやむやにされてきたのは、ある意味で必然的なのだと思う。うやむやにして進めるしかなかったのでしょう。結論をいえば、「改変OK」の原作でなければメディアミックスは不可能。さもなくば、「最低限ここだけは譲れない」みたいな限定的な項目だけを列挙してもらって、それ以外は「改変OK」と容認してもらうしかありません。これは、二次使用の際に、「リスペクトする気持ちがあるかどうか」なんぞという生易しい抽象論ではありません。そんな精神主義などクソほどの意味もありません。◇何をもって「忠実」とみなすかは、おそらく原作者の主観によってそれぞれであり、それを客観的に判断したり規定したりはできないのです。世間の漫画ヲタは、「原作ファンが納得することがいちばん大事!」などと都合よく考えてるらしいけど、そんな話は二の次三の次のどうでもいいことであって、法的な意味の最重要事項は、やっぱり「原作者自身が納得するかどうか」になる。そして、それは、原作者によって重視するポイントが違っていて、内容面での納得かもしれないし、権限面での納得かもしれないし、待遇面での納得かもしれません。まあ、原作者といえども、映像や演劇のプロじゃないのだし、二次創作へ介入するにしても能力的な限界があるから、最後はやっぱり、「金銭的な待遇」で決着するしかないんじゃないかしら?その意味でいうと、もしかしたら今回の東宝ミュージカルは、原作者による事実上の《ストライキ》の可能性もあります。◇たとえば映画会社は、Youtubeの「ファスト映画」を権利侵害だと糾弾してきたけど、原作者から見れば、待遇面で折り合わない映画会社の二次創作は、ファスト映画と大差のない権利侵害ってことになるはずです。なお、「ジョジョ」は集英社の作品ですが、先の「やわらかい生活裁判」の場合と同じように、二次使用の許諾を取ったのが集英社なのか東宝なのか、そこらへんも重要なポイントになるのかもしれません。つまり、仲介をする出版社が許諾をとるのではなく、制作会社が直接原作者から許諾を取らなければ、つねに中止に追い込まれる危険性を避けられないのでは?◇もともと「ジョジョ」の荒木飛呂彦は、メディアミックスに寛容なイメージがあるのだけど、本当のところはどうなんでしょうね。NHKドラマの「岸辺露伴」などは、原作ファンも納得の出来だと言われてるけど、あのドラマだって、かならずしも原作に忠実なわけではありません。とくに飯豊まりえの演じた泉京香のキャラは、かなりドラマオリジナルの要素が強い。あのドラマの人気は、泉京香のキャラによるところも大きいけれど、案外、原作者にしてみれば、そこが「最大の不満ポイント」だった…なんてことだって、ありえなくはないのです。◇わたしは、ドラマ版の「岸辺露伴」も、ドラマ版の「セクシー田中さん」も、十分に楽しんでいたわけですが、三次元の住人(ドラマファン)と二次元の住人(漫画ヲタ)とでは、まったく見え方が違ってる可能性があり、原作ファンと原作者自身のあいだでさえ、ぜんぜん見え方が違ってる可能性があるのです。原作者が納得しても、原作ファンには大不評ってこともありえるし、その逆も十分にあり得るってこと。◇そういえば、漫画ヲタクどもは、TBSによる「砂時計」のドラマ化を評価してたらしいけど、文春の記事によると、じつは芦原妃名子は、あの映像化にさえ苦慮してたらしいじゃないですか。原作者と原作ファンの見解が一致するなんてのは幻想です。それは原作者と出版社の利害が一致しないのと同じ。求めるところはそれぞれに違っている。漫画ヲタクの人たちは、「原作に忠実に作るのが正義!」みたいに簡単に言うけど、《二次創作の忠実性》という概念は、きわめて主観的、かつ曖昧、かつ多様だと考えるべきです。◇メディアミックス産業の未来に暗雲が立ち込めている。二次元世界と三次元世界は、いよいよ全面戦争に入るかも。池田理代子の「ベルばら」などは、漫画と宝塚歌劇がどちらも大ヒットして、メディアミックスの先駆的な成功例になった。萩尾望都は、宝塚ファンだったにもかかわらず、自作の舞台化にはずっと消極的でしたが、30年余りの交渉を経て「ポーの一族」が宝塚歌劇になった際は、「感動で言葉になりません」と話してたから、これも最終的には成功裏に終わってる。漫画協会理事長の里中満智子も、「二次創作は原作とはまた別の世界」と話してて、わりとメディアミックスには寛容なようです。今回の「ジョジョ」は、宝塚と同系列の東宝ミュージカル。東宝は舞台「千と千尋」も成功させましたが…もしかしたら今回の「ジョジョ」ミュージカルは、過去に例がないほどの大きな躓きになってしまうかもしれない。ジョジョの奇妙な冒険 31 (ジャンプコミックス) [ 荒木 飛呂彦 ] 楽天で購入
2024.02.08
相沢友子のインスタの文章は、昨日の記事にまるまる引用したとおりですが、あの文章が、芦原妃名子を攻撃したものだったかどうかは、文面そのものからは読み取れないし、内心どう思っていたかも知りようがない。すくなくとも、あからさまに原作者を攻撃した文面ではありません。◇しかし、この相沢友子の文章を受けて、彼女の仲間やフォロワーの一部が、芦原妃名子をあからさまに「悪者」と見なした、…そういうフシはあるっぽい。たしかに、日テレや小学館の二枚舌に気づかなければ、芦原妃名子が悪者に見えてしまっても仕方ない面はある。とはいえ、もし相沢友子本人に攻撃の意図がなかったとすれば、こうした「援軍」の存在はかえって迷惑なのよね。意図せずして対立図式が出きあがり、そのうえ自分が矢面に立たされるのだから。でも、その「援軍」の人たちは、おそらく相沢友子のファンや仲間なのだろうし、当人たちはよかれと思って、つまりは「相沢友子のために」やってるわけなので、それをむげに諌めたり非難したりもできない。そういう板挟みに陥ってしまう。◇それと同じことは芦原妃名子の側でも起こります。本人は相沢友子を攻撃するつもりがなくても、取り巻きの「援軍」の人たちは、ここぞとばかりに芦原妃名子を守れ!といって、相沢友子の陣営へ一斉攻撃をはじめてしまう。その結果、他人を傷つけることをいちばん嫌った漫画家が、なぜか、その攻撃の最前線に立たされてしまう。これはかなり絶望的だったかもしれません。◇太平洋戦争のときの天皇が、それとほぼ同じ。本人はアメリカと戦うつもりなどなかったのに、愛国的な天皇主義者たちが「天皇万歳!」と叫び、勇ましくも鬼畜米英に立ち向かってしまう。そして天皇が、その矢面に立たされてしまう。勇ましい愛国主義者たちは、さぞかし天皇を崇拝していたのでしょうが、崇拝された側にとっては、はなはだしい迷惑。さいわい昭和天皇は戦犯にはなりませんでしたが、ひとつ間違えれば処刑されていました。◇これにそっくりなことはジャニヲタにも言える。ジャニヲタ軍団は、大好きなジャニタレを守ろうとするあまり、ジャニー喜多川の性犯罪まで擁護していたわけですが、それがかえって世間の反感を買って、ジャニーズもジャニタレも窮地に追いこまれてしまった。しかしながら、ジャニヲタの人たちはあくまで善意のつもりだから、ジャニタレたちは、それに対して怒りを向けるわけにもいかず、ひたすら出口の見えない板挟みに苛まれていく。◇わたしの知っている範囲でいえば、上白石萌音にも同じようなことがありましたね。一部のファンが、「なんで紅白司会は萌音ちゃんじゃなくて橋本環奈なの?!」と言って橋本環奈のことをディスりはじめた。しかし、それで迷惑するのは萌音本人なのです。なぜ友人の橋本環奈と対立しなければならないのか?萌音の場合はさすがに我慢がならなかったらしく、すかさず自分のファンに本気で怒っていましたが、実際、そうでもしなければ収まらないのです。本人たちは善意のつもりでやっている。競合相手を蹴落とすことが、大好きな「萌音ちゃんのため」だと信じてる。◇こういうことは何度も何度も繰り返される。そして、くりかえし死者を出すことになる。当人たちには悪気がないどころか、むしろ正義だと思ってるから、なおさら質が悪い。まよわず敵陣を攻撃することが、仲間や崇拝者に尽くすことだと信じて疑わないし、その過ちに気づく理性と想像力は決定的に足りていない。バカにつける薬が是非とも必要なのだけれど、それはなかなか見つからないのです。◇◇◇絶賛暴走中の漫画ヲタク軍団が、ネトウヨやジャニヲタとよく似てるのは、組織の隠蔽体質に加担してしまうところにもいえます。漫画ヲタクは、好きな漫画や漫画家を守ろうとするあまり、その媒体である小学館をも擁護しようとするのです。編集担当者は漫画家の味方にちがいない!…と信じて疑おうとしないし、小学館の企業風土に多少の疑念があっても、そこには蓋をして見ないようにする。とりわけ、ふだんから小学館の漫画や雑誌を愛読してる人たちは、できれば小学館が「悪」だとは思いたくないし、可能なら日テレと脚本家だけが悪いという図式に持ち込みたい。◇これはジャニヲタが、大好きなジャニタレを守ろうとするあまり、ジャニー喜多川の性犯罪に蓋をして、それを見ないようにしてたのとまったく同じだし、ネトウヨが、政権与党や自衛隊の不祥事や失態を擁護したり、その隠蔽に加担したりして、問題をうやむやにしようとする心理にも似ています。つまり、都合のよい面ばかりに目を向けて、不都合な真実からは目を背けようとする。◇ジャニーズの問題が改善されなかったのは、シャニヲタがその暗部に蓋をし続けてきたからでもある。日本が戦争に負けたのは、当時の自称愛国主義者の連中が、日本軍の失態や敗退に蓋をして目を向けず、勇ましい活躍や成果ばかりを称えつづけ、真実の隠蔽に手を貸してしまったからでもある。現在の漫画ヲタク軍団が、不都合な真実から目をそむけて小学館を擁護するかぎり、小学館の側もまた、みずからの暗部と隠蔽体質を変えようとはしないでしょう。
2024.02.05
漫画ヲタクの暴走がいっこうに止まらない。原作至上主義こそ「絶対正義」と思い込み、テレビ局と脚本家が「絶対悪」と思い込み、にもかかわらず、なぜか小学館のことは「漫画家の味方」と信じて疑わない。そのうえ今度は、木南晴夏やめるるや毎熊克哉にまで、そのルサンチマンの矛先を向けている。おそらく3次元世界のすべてが憎いんでしょうねw芦原妃名子が亡くなった直接の原因は、相沢友子のインスタなんぞではなく、ほかならぬ漫画ヲタクどもの暴走にあるのかもしれないのだけど、その可能性からはあくまで目を背けつづけ、あろうことか、ますます個人攻撃をエスカレートさせてます。◇このような漫画ヲタクの暴走は、かえって自分自身の首を絞めてもいる。漫画ヲタクの掲げる原作史上主義は、メディアミックスの選択肢を狭めるあまり、かえって漫画出版社を窮地に追い込み、漫画文化そのものの経済基盤をも揺るがしてるのだけど、その現実からも目を背けてる。べつに「大人になれ」とかいう話じゃなく、子供であろうと、大人であろうと、現実から目を背けることはできないだろって話なのですが、おそらく漫画ヲタクの人たちは、彼らの愛する2次元世界が、現実の3次元世界を凌駕するように望んでるのでしょう。しかし、シンギュラリティでも訪れないかぎり、そんな世界は実現しません。◇もちろん日テレと小学館は、原因究明と事情説明をする必要がありますが、その説明を聞くまでもなく、もはや野木亜紀子や佐藤秀峰の文章を読んだら、おおよその背景と事情は察しがついてしまった、…ってのが正直なところ。そして、原作者と脚本家にすり合わせをさせない手法は、三上絵里子や相沢友子にかぎった話ではなく、テレビ業界全体の悪習だったこともバレてしまった。もちろん再発防止策も改善策も必要なのですが、おそらく改善に向かうというよりは、たんに《漫画原作が忌避される方向》へ流れるだけでしょう。漫画原作はめんどくさい、との認識が共有されて終わる。◇テレビドラマが漫画原作を避けることで、いちばん損をするのは出版社ですが、メディアミックスの可能性が大幅に狭まる事態に対し、どんな方策を講じればいいかについては、昨日の記事に書いたとおりなので割愛します。いずれにしても、漫画ヲタクの暴走から得られるものなど何もなく、漫画を中心とするメディアミックスの経済を縮小させることで、かえって彼ら自身の首を絞めているにすぎません。◇あらためて相沢友子のインスタの文章は次のとおり。〔12月24日〕最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。〔12月28日〕私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように。この文章をどう読むかは人それぞれでしょう。脚本の書き直しをさせられたり、終盤の脚本がまるまるボツになったことについて、ショックを吐露してるのはたしかです。最初からボツになる可能性を知っていれば、わざわざ苦労して書くわけがないのだから、まともな意思疎通が出来てなかったのは想像に難くないし、原作をねじ曲げられた芦原妃名子がショックだったように、せっかく書いた脚本を反故にされた相沢友子が、同様にショックを受けたのも当然のことでしょう。◇そして最後の、「今後同じことが二度と繰り返されませんように」という一言は、十分な意思疎通を怠った自分への戒めとも取れるし、それを遮ったプロデューサーや出版社への苦言とも取れるし、構造的な問題が改善されることへの願いとも取れるのだから、それをあえて「原作者への嫌味」だと解釈するのは、ひとつのバイアスのかかった見方にすぎません。たしかに相沢友子の支持者のなかには、あからさまに原作者を "悪者" と見なす人もいたのだけど、それはちょうど、現在の芦原妃名子の自称支持者どもが、相沢友子を ”人殺し” 呼ばわりすることの裏返しであって、はたから見たら「どっちもどっち」でしかない。要は、双方の外野どうしが、> 自分たちが絶対正義で、> 相手がたは絶対悪である!と主張して互いに暴走してるだけ。さながら馬鹿なネトウヨが、> 日本人の愛国心は絶対正義だが、> 中国人の愛国心は絶対悪である!と主張してるのと同じで、はたから見たら「同じ穴のムジナ」なのです。◇ちなみに、ヤフコメには、この相沢友子の文章について、脚本家が「原作者のわがままのために酷い思いをしたけど、俳優さんたちやスタッフの皆様は素晴らしかった」という内容のコメントを誰の目にも触れる場所に発信…https://news.yahoo.co.jp/articles/dc2d3ddc1815f33d770df8a190ac0d1dc0f12b05などと、まったく違う文面に書き換えた人物が存在し、このデマ情報が、いまなおいちばん上位に表示されていて、1万人もの閲覧者が「共感」のボタンを押すなど、かなり悪質な拡散ぶりを見せています。◇芦原妃名子が亡くなったのは、相沢友子のインスタの文章のあとではなく、それから1ヶ月後のことです。つまり、芦原妃名子が、小学館に確認のうえでトラブルの経緯説明をし、それがSNSにおける騒動へと発展し、それを受けて当該文章を削除した直後なのだから、そこにこそ直接的なトリガーがあったと考えるのが普通。漫画ヲタクどもは絶対に認めたくないでしょうが、芦原妃名子の自称支持者の連中が、相沢友子への攻撃を激化させたことこそが、直接的な引き金だったのではないか?…と疑ってる人はかなり多いはずです。そうでなければ、「攻撃したかったわけじゃなくて」という最期の言葉にはなりようがない。◇もちろん、遺書の内容が公表されないかぎり、そのトリガーを特定することはできないし、わたし自身も、彼女が亡くなる前日に記事を書いてますから、それが本人の目に触れた可能性というのも、ずっと気になってるのは否めません。当時のアクセス数は300程度だったけれど、自分の記事がトリガーになった可能性が、絶対にないとまでは言い切れない。極論をいえば、この問題についてのネットの言葉のすべてが、何らかのトリガーになった可能性はあるわけで、その意味で、現在の状況というのは、たがいに責任のなすり合いをしてるとも言える。◇けれど、たとえ何がトリガーだったとしても、それが罪だとまではいえません。犯人探しをしたくなる気持ちは理解できますが、自殺の背景において、かならず犯人が存在するわけではない。にもかかわらず犯人を捕まえて断罪しようと暴走すれば、実質的な冤罪まがいのものを生み出すだけです。◇しかし、それでもなお、漫画ヲタクどもの暴走が止まることはないでしょう。わたしは今回の件で、日本で漫画ヲタクと呼ばれる人たちが、ネトウヨやジャニヲタと同じ種類の連中なのだ、…ということを完全に理解しました。
2024.02.04
芦原妃名子の自殺が今後どのような結果を生むか。大きく2つの方向性があります。1.原作に忠実なドラマが増える2.原作アリのドラマ自体が減るそして、おそらく正解は「2」のほうだと思います。◇野木亜紀子や佐藤秀峰がアップした文章を読むと、原作者と脚本家の意思疎通がいかに困難なのか分かるし、クリアすべき問題は脚本だけじゃないのだから、原作に忠実なドラマを作るのは途方もなく難しいと思える。脚本家と原作者が意志疎通をはかろうにも、時間的・距離的な制約があって難しい場合もあり、たとえ会ったところで、すり合わせの作業が円滑に進むともかぎらず、折り合いがつかなければ決裂する場合もありうる。なので、出版社側の担当者も、TV局側のプロデューサーも、なるべく両者を対面させずに乗り切ろうとしてきたわけです。それがなかば慣例化していた。その事情を知ると、出版社の担当者を責める気にもならないし、TV局のプロデューサーを責める気にもならないし、まして脚本家を責める気にもならない。原作者と本気で向き合おうとすれば、それはかなり手間のかかる作業になる、ということ。そこまでして原作に忠実なテレビドラマを作るというのは、まったくもって理想論としか思えない。◇以下は野木亜紀子のツイート。脚本家が好むと好まざるとに関わらず「会えない」が現実で、慣例だと言われています。私も脚本家になってからそれを知って驚きました。良くいえば「脚本家(あるいは原作者)を守っている」のであり、悪くいえば「コントロール下に置かれている」ことになります。慣例といっても、原作サイドから「事前に脚本家と会いたい」という要望があれば、プロデューサーも断れるはずがなく、そんな希望すら聞いてくれないのであれば作品を任せないほうがいいし、それを断る脚本家もいない……というか、会いたくないなんて断った時点で脚本家チェンジでしょう。原作がある作品において、脚本家の立場なんてその程度です。脚本家からしたら、プロデューサーが話す「原作サイドがこう言ってた」が全てになります。私自身も過去に、話がどうにも通じなくて「原作の先生は、正確にはどう言ってたんですか?」と詰め寄ったり、しまいには「私が直接会いに行って話していいですか!?」と言って、止められたことがあります。(後に解決に至りましたが)また、プロデューサーも、先生の意見を直接聞いているかというとそうでもない。半年以上に及ぶやり取りの中で、地方在住の方もいらっしゃいますし、ご自身の仕事が多忙でそんな暇ないということもある。そのため大抵は、出版社の担当者やライツを通した、伝言の伝言になります。https://twitter.com/nog_ak/status/1753260514329887140そして佐藤秀峰のnote。「映画は水ものだから企画段階では真剣に考えなくて良い」という編集者の言葉を真に受けていたら、ある日決まっていました。決まったと思ったら僕が口を挟める余地はありませんでした。漫画家は通常、出版社との間に著作権管理委託契約というものを締結しています。出版社は作品の運用を独占的に委託されているという論理で動いていました。契約書には都度都度、漫画家に報告し許諾を取ることが書かれていました。が、それは守られませんでした。すでに企画が進んでいることを理由に、映像化の契約書に判を押すことを要求されました。嫌だったけど、「映像化は名誉なこと」という固定観念がありました。映像化決定のプロセスが嫌なだけで、出版社もいろいろ動いてくれたんだろうなと。原作使用料は確か200万円弱でした。出版社への不信は募ります。何も言わないことと、何も不満がないことは違います。言えることは、出版社、テレビ局とも漫画家に何も言わせないほうが都合が良いということです。出版社とテレビ局は「映像化で一儲けしたい」という点で利害が一致していました。出版社はすみやかに映像化の契約を結んで本を売りたいのです。映像化は本の良い宣伝になります。だから、漫画家のために著作権使用料の引き上げ交渉などしません。漫画家の懐にいくら入ったところで彼らの懐は暖まらないのです。それより製作委員会に名を連ね、映画の利益を享受したい。とにかくすみやかに契約することが重要。著作権使用料で揉めて契約不成立などもっての外。テレビ局はできるだけ安く作品の権利を手にいれることができれば御の字。漫画家と直接会って映像化の条件を細かく出されると動きにくいので、積極的には会いたがりません。出版社も作家とテレビ局を引き合わせて日頃の言動の辻褄が合わなくなると困るので、テレビ局側の人間に会わせようとはしません。漫画家の中には出版社を通じて映像化に注文を付ける人もいますが、出版社がそれをテレビ局に伝えるかどうかは別問題です。面倒な注文をつけて話がややこしくなったら企画が頓挫する可能性があります。出版社は、テレビ局には「原作者は原作に忠実にやってほしいとは言っていますけど、漫画とテレビじゃ違いますから自由にやってください」と言います。そして、漫画家には「原作に忠実にやってほしいとは伝えているんだけど、漫画通りにやっちゃうと予算が足りないみたい」などと言いくるめます。https://note.com/shuho_sato/n/n37e9d6d4d8d9※佐藤秀峰のように出版社にまで喧嘩を売れるツワモノはかなり貴重だと思う(ちなみに「海猿」も小学館の作品です)。ふつうなら、安タケコのツイートのように「同じ思いの小学館、担当編集者、編集部も誠心誠意作家を守るために尽力してくれています」みたいに書くだろうから。べつに安タケコが嘘を書いてるとは言わないけど、とくに連載をもってる漫画家なら、公然と出版社に喧嘩を売るのはかなり難しいはずです。野木亜紀子がテレビ局を批判するのも、かなり勇気のいることだと思います。わたしは、そういう人たちのほうを圧倒的に信用する。◇今後のテレビドラマは、オリジナルの脚本が増える一方で、「改変OK!」のものでないかぎり、原作アリの作品は忌避されていくことになる。わざわざ原作者と折り合いをつけるために、時間と手間をかけるプロデューサーは少ないはずです。そもそも、原作に忠実なドラマは、漫画ヲタクには評判がいいかもしれませんが、一般層にまで広く遡及するとは限らないし、テレビドラマというのは、原作者以外にも配慮すべきことが多すぎます。話数や放送時間やCMのタイミングなど、様々なフォーマットに収めなければならないし、絶対に守るべき納期があるし、視聴率も取らなきゃいけないし、予算的な制約や撮影技術上の制約もあるし、スポンサーや出演陣のイメージにも合わせねばならないし、コンプラ違反をしてもいけない。おそらくドラマの脚本制作というのは、脚本家の自己表現を全開にできるような仕事ではなく、さまざまな要求や条件や制約に合わせていく作業だし、それを考えたら、原作者の要求に全面的に応じられるテレビドラマなど、ほとんど不可能だと考えたほうが正しい。◇なので、今後のテレビドラマは、「原作なしのオリジナル脚本」と、「改変OKな原作もの」に傾いていくはずだし、さらには「AI脚本」みたいなのが増える可能性もある。その結果、いちばん損をするのは誰かといえば、それは出版社です。これまで漫画出版社が、自社作品をTV局に売りわたすことによって、どのくらい儲けてきたのか知らないけど、今回の問題によって、テレビドラマはおろか、メディアミックス全般の可能性が大幅に狭まっていく。これは出版社側の自業自得ともいえますが、漫画雑誌の廃刊や、出版社の倒産を加速させることにもなりかねません。◇しかし、損をするのは出版社だけではありません。漫画ビジネスが日本の基幹産業になりつつある今、そのメディアミックスの可能性が狭まっていくことは、日本経済全体の巨大な損失になるからです。したがって、これは、ある意味、政治的な案件であり、経済界全体が注視すべき問題だというべき。◇では、漫画のメディアミックス産業を衰退させないために、いったいどうすればよいのか?ひとつの方策として考えられるのは、それを原作者にとっても「旨みのあるビジネス」に変えていくこと。たとえ原作の内容やイメージを変えられるのが苦痛だとしても、たとえ原作ファンの漫画ヲタク連合から袋叩きにされるとしても、「これだけ儲かるのなら仕方ないか…」と思わせるだけの経済的なメリットがあれば、その苦痛を我慢してくれる原作者はきっといると思います。◇そして、もうひとつの方策があるとすれば、漫画原作の売り先を、時間に追われてドラマを量産してる日本のテレビ局ではなく、Netflixのような国際映像メディアに移行させる、ということ。そのほうが、時間とお金をかけて、原作に忠実なドラマを作ってくれるかもしれないし、国内の漫画ヲタクだけでなく、世界中の漫画ヲタクの市場を相手にすれば、時間とお金をかけるだけの採算が合うかもしれません。
2024.02.03
いまだに多くの漫画ヲタクの人たちは、「小学館は芦原妃名子の味方だったはず!」と信じて疑わないようですが…何故そこまで出版社を信用できるのか、わたしには不思議でなりません。ネトウヨが自衛隊を批判しないのと同じく、漫画ヲタクは小学館を批判してはならない、…みたいな暗黙のルールでもあるのかしら?◇すくなくとも、わたしから見ると、小学館のふるまいには以下の4つの点で疑念があります。1.なぜ《原作クラッシャー》による企画を承認したか三上絵里子と相沢友子は、《原作クラッシャー》との不名誉な異名を与えられてますが、なぜ小学館は、もともとドラマ化に前向きでなく、さまざまな条件付けも多かった芦原妃名子の作品を、よりにもよって《原作クラッシャー》の2人に委ねたのでしょう?最初の段階では、まだ脚本家が未定だったかもしれませんが、三上絵里子がプロデューサーを務める時点で、原作が改変される恐れはあったわけだし、脚本家として相沢友子の名前が挙がった時点で、その起用を拒否することもできたはずです。かりに芦原妃名子が、2人のことをよく知らなかったとしても、小学館の担当者が知らなかったはずはない。三上絵里子が担当した「二月の勝者」や、相沢友子が担当した「ミステリと言う勿れ」は、いずれも小学館の作品だったのだから。もし小学館側が、2人を《原作クラッシャー》だと認識していたなら、芦原妃名子の作品を彼女たちに任せるはずがありません。にもかかわらず企画が止まらなかったのは、日テレの問題ではなく、むしろ小学館側の勇み足で原作者の意思を飛び越え、ドラマ化の流れを作っていったからだ、と思えます。そもそも、多くの漫画ヲタクの思い込みとは裏腹に、むしろ企業としての小学館は、この2人の仕事を高く評価していたのではないですか?2.なぜ日テレ側のスタッフと対面させなかったかこれについては、昨日の記事に書いたので割愛しますが、目下、小学館と日テレには、「なぜ原作者と脚本家に意思疎通をさせなかったのか」について説明することが求められています。一部の漫画ヲタクの人たちは、「小学館はあくまで原作者の味方であり、 原作者に代わって日テレ側に意向を伝えていたのだ!」と主張していますが、わたしに言わせれば、たんに原作者は小学館を頼るほかになく、小学館をとおして意思を伝える以外に手段がなかった、…というだけのことに見えます。3.なぜトラブルの経緯を説明したのは原作者だったかドラマ終盤の脚本を、原作者が書くことになった経緯について説明したのは、小学館ではなく、原作者自身でした。原作者が "小学館に確認しながら書いた" としているので、これをそのまま「小学館側の説明」と見なす漫画ヲタクもいますが、原作者と出版社の利害が同じではない以上、両者の言い分が同じである保証はどこにもありません。わたしに言わせれば、日テレとのあいだを仲介したのが小学館だったから、たんに小学館に確認するしかなかった、というだけに見える。そして、その説明は本来なら、仲介をしていた小学館が直接おこなうべきだったし、そのほうがはるかに正確だったはずです。…ところで、原作者は、亡くなる前にその文章を削除してしまいましたが、それは何故だったのでしょうか?相沢友子へのバッシングが加熱してしまったため、原作者が自分の意志で削除したとも考えられますが、もしかすると、日テレ側との関係が悪化するのを恐れた小学館が、原作者に削除要請をした可能性もあるのではないですか?もしそうだとすれば、それは原作者を激しく失望させたでしょう。4.なぜ小学館はいまだに経緯を説明しないのか繰り返しますが、脚本制作のトラブルについて説明したのは、原作者自身であって、小学館ではありませんでした。そして、原作者が亡くなった今もなお、小学館はその経緯について公に説明をしていません。それは何故でしょうか?小学館側に非があるからなのか。日テレとの事実上の「共犯」だからなのか。日テレとの関係悪化を恐れているからなのか。◇◇◇昨日の繰り返しになりますが、わたしは「小学館が悪い!」と言いたいのではありません。原作者と出版社の利害は同じではないのだし、たんにその立場の違いが顕在化しただけであって、企業としての小学館のふるまいは、むしろ当然だとさえいえる。企業は企業としての利益を優先するはずだからです。◇芦原妃名子は、残念ながら小学館を頼る以外になかったのだろうし、いまさら言っても遅いことですが、ほんとうは小学館を信用しすぎるべきではなかった。小学館を頼りすぎるべきでもありませんでした。そして、これは、芦原妃名子と小学館だけの話ではなく、あらゆる出版社に依存するあらゆる漫画家にいえることです。
2024.02.01
フジテレビのニュースによると、芦原さんがブログやXで投稿した条件や意向が日本テレビ側に伝わっていなかったという情報がある点について、小学館側に確認したところ「広報室として出したコメントとHPに出したコメント以上のことは答えることができない」との回答でした。https://news.yahoo.co.jp/articles/6ce0ad68b4582daee329fab93d99e911a37c6194…だそうです。なぜ芦原妃名子は、日テレ側のスタッフと対面しなかったのか。それは、小学館が「芦原妃名子を守ったから」ではなく、むしろ小学館と日テレが共謀して、原作者と脚本家を対面させないようにしていたから、…という疑いがもたれます。つまり、小学館は原作者の「代理人」の立場をよそおって、実際には原作者の意向をブロックしていた可能性がある。◇一部の短絡的な漫画ヲタは、「コナンを日テレから撤退させろ!」とか、「小学館は日テレと別れる英断を!」などと叫んでますが、小学館がそんな選択をするわけがありません。どう考えても、日テレと小学館はウィンウィンの関係であり、もっといえば共犯の関係にあるのです。たとえ青山剛昌がアニメをやめたいと言っても、日テレと小学館はアニメ制作をやめるはずがない。金づるなのだから!出版社を信用するのも大概にしろ!!ってこと。◇ドラえもんの同人誌問題のときに、小学館が「著作権の保護」を主張したのはなぜか?それは、藤子・F・不二雄の権利を守るためではなく、あくまでテレ朝と小学館の権利を守るためであり、そのためなら、作家個人の創造性など平気で踏みつぶすのです。あのとき、小学館の横田清や大亀哲郎は、さも藤子・F・不二雄の遺志を代弁するふりをしたけれど、実際は、たんに自社の利益を守ろうとしたにすぎない。故人の遺志を代弁できる根拠などどこにもないのだから。◇わたしは「小学館が悪い!」と言いたいのではなく、これはあくまで「構造的な問題だ」と言いたいのです。たとえば、ジブリの鈴木敏夫と宮崎駿の関係は、世間的にも "目に見える関係" ではあるけれど、あそこにも激しい緊張関係があります。鈴木敏夫は、予算を抑えて納期までに作品を完成させようとするし、メディアミックスにも非常に積極的です。それに対して、高畑勲や宮崎駿は、赤字になることも意に介さないし、納得いくまで制作に時間をかけようとするし、メディアミックスにもほとんど関心がありません。これは、どちらが正しいとか間違ってるとかではありません。経営者とクリエイターでは立場が違うということです。◇おそらく漫画家の人たちは、連載してくれた出版社に恩義があるだろうし、なるべく信頼関係を崩したくないだろうし、表立って批判もしにくいだろうし、敵対するのも憚られるだろうけれど、じつは、その信頼関係は、非常に脆いものだと思います。漫画家は ”身内” に裏切られる可能性がある。そのことを覚悟しなければなりません。ビジネスが大きくなればなるほど、原作者の思いは踏みにじられる可能性が高まるし、漫画やアニメが、日本の基幹産業として成長しているいま、今回のような問題にはいっそうの注意が必要です。漫画家の人たちは、出版社を過度に信頼しすぎることなく、不用意に依存しすぎることなく、自分たちで自分自身を守る術を考えなければなりません。
2024.01.31
日本テレビのコメントによれば、小学館が「原作代理人」だったようです。2023年10月期の日曜ドラマ『セクシー田中さん』につきまして日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております。しかし、一般的に考えれば、原作者がドラマ化に後ろ向きだとしても、出版社のほうはドラマ化に積極的になるはずだし、原作者と出版社の利害というのは、はじめから相反している可能性があります。そうだとすれば、原作者は、出版社から実質的に裏切られる可能性が高い。実際のところ、原作者の意向をないがしろにしていたのは、脚本家でもなければ、テレビ局でもなく、出版社だったかもしれない…ということです。◇欧米では、原作が出版される段階で、原作者と出版社のあいだをエージェントが仲介し、印税や、映像化の際の条件などを、あらかじめ文書で取り決めているようです。https://ja.wikipedia.org/wiki/著作権エージェントそうでもしなければ、原作者の主導で映像化の話を進めるのは本質的に不可能です。原作者の意向を無視して、出版社が勝手にメディアミックスなどを進めることもありうる。そもそも利害が一致していないのなら、出版社に「代理」を委ねる仕組みそのものに無理があります。◇一方、テレビの職業脚本家は、テレビ局側の依頼で書いてるにすぎないのだし、そもそも、原作者の意向などをどれほど知らされるのかも、それに従うべき立場にあるのかどうかも、現時点ではよく分かっていません。むしろ、原作者がいちいち内容に口出ししたり、脚本そのものの差し替えを要求してくることに、脚本家の立場として不愉快を感じたとしても不思議はない。◇そのあたりの事情も不明な段階で、むやみに脚本家の人格叩きなどをしても意味がない。まして、脚本家がインスタの文章を書く際に、原作者に「さん」づけをすべきだったかどうかなど、どうでもいい問題まであげつらっても仕方ありません。スピッツを「さん」づけで呼べ!!…などと騒いでいた短絡的な連中と同様に、まったくもって生産性のない議論であって、かえって問題解決の妨げになっているにすぎない。
2024.01.30
芦原妃名子が亡くなってしまいました。海外の事例も含めて、こういうことって過去にあるんだろうか?遺書の内容も明らかになってないし、そもそも人となりなども知らないので、なんのコメントしようもありませんが、ネット上の議論やらなんやら、いろんなことの板挟みになって、追い詰められてしまったのかもしれないし、わたしの一昨日の記事も、あながち例外とは言いきれない。ちなみにアクセスが急増したのは昨日なので、一昨日のアクセスは300弱でした。◇あくまで一般論としてだけど、わたなべ志穂が一昨日、「ドラマ制作時、作者には味方はあまりに少ない」とツイートしてたのは、その通りなんだろうな、と思った。そして、それは、テレビ局や脚本家だけでなく、出版社も含めての話じゃないかと思います。改めてですが芦原先生はとてもリスクを持ち発言されたと思います。俳優さんを傷つけるのではないか、ドラマを楽しんだ方から非難されるのではないか、自分はこれ以上傷付くのか。ドラマ制作時作者には味方はあまりに少ない。勿論大事にして下さる現場もありますが多くは違うはず→— わたなべ志穂 (@nabeshiho_enjoy) January 27, 2024テレビ局や脚本家を攻撃してる自称原作ファンが、ほんとうに「原作者の味方」だったとは思えないし、出版社が「原作者の味方」だったとも言い切れないのです。百歩ゆずって、担当編集者は味方になっていたとしても、企業としての出版社は、むしろドラマ化や映画化に積極的なはずだし、なんなら原作者をなだめてでも、自社の作品をどんどん売り込んで、ドラマ化や映画化を推し進めるのが普通だと思う。もっといえば、なんらかの炎上騒動を仕掛けてでも、作品の知名度を上げようと考えるかもしれません。…そんな味方のいない孤独な状況の中で、原作者だけが板挟みになる危険があるのかな…と想像します。◇商業芸術の世界において、作者の意思がねじ曲げられるのは普通の話です。むしろ、作者の意思が完全に尊重されるなんてことは、ありえない話だと考えるべきでしょう。これはなにも、ドラマ化や映画化だけの話じゃなく、たとえば、雑誌に掲載する段階でも、編集者からひたすらダメ出しされたり、内容を改変させられたり、容赦なく連載を打ち切られたりすることは、日常茶飯的にあるはずなのだから。…同人誌などに書くなら別ですが、作品を「商品」として市場に出す以上、作者の意思が完全に尊重される世界などというのは、まったくもって理想論でしかありません。商業芸術の現場で仕事をしてるクリエイターなら、そんなことは百も承知だろうけど、あまりの理想と現実とのギャップに直面したり、それに抗おうと奮闘するあまり、かえって過酷な状況に疲弊してしまい、追い詰められるケースはあるんだろうな、と思う。◇ケースバイケースだとは思いますが、たとえば、筒井康隆なんかは、人気作の「時をかける少女」のことを、"金を稼ぐ少女だ" などと言って野放しにしてますよね。それに対して、自分の作品に対する責任感が強く、多くを背負いすぎてしまうクリエイターは、かえってリスクが大きいのかな…という気もする。そんな原作者をサポートするのは、一義的には出版社なのだと思うけど、もちろん何から何までサポートするのは不可能でしょう。とはいえ、商業主義とのバランスには慎重であるべきだし、作家を過度に追い詰めない配慮は必要になるでしょう。
2024.01.30
わたしは去年の10月に、日テレ「セクシー田中さん」の最初の感想で、次のように書きました。日テレ「セクシー田中さん」面白い。もともと相沢友子の脚本って、正直、あまり信用してないのだけど、今作はかなり好感触。原作があるせいか、けっこう深みも感じます。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202310300000/もともと相沢友子が好きなわけでもないので、今回も、べつに彼女に味方する気はないのだけど、ただねえ…今回の件にかんしていえば、正直、どちらが悪いともいえない。なんなら個人的には、「相沢友子の書いた最終回が見たかったな…」って気持ちのほうが強い。ドラマの終盤はあきらかに尻すぼみだったから。◇いずれにせよ、こういう問題は、ドラマ化や映画化においては、つねにありうる話。プロデューサーも出版社もふくめ、あらかじめそれを弁えねばならないのだし、もし原作の改変を望まないのなら、最初から映像化を拒む以外にないでしょう。SNSなどでは、相沢友子への人格叩きのほうが優勢ですが、今回の件にかんしては、それに与する気になれません。一般に、経済的な力関係において、テレビ局のプロデューサーや脚本家のほうが、原作者や出版社よりも優位な立場にあるかもしれないし、その意味で、今回の問題はひとつの戒めにはなるでしょうが、今回の「セクシー田中さん」の場合は、けっしてスター俳優に依存した安易な企画ではなく、むしろ日テレにしちゃ意欲的で果敢な作品と思われただけに、かえってドラマ化の難しさを垣間見せられた感じ。◇ドラマ化・映画化・アニメ化によって、知名度や売り上げが増すことを期待する作家が多いなかで、芦原妃名子みたいに硬派な作家は稀有な存在だと思いますが、逆からいえば、今後、彼女の原作が映像化される見込みは薄くなりましたね。多くのプロデューサーは尻込みしてしまうだろうから。彼女の原作ファンの人たちも、むやみに映像化を望んだりはできなくなったでしょう。◇たぶん世間では、「ドラマや映画は原作に忠実であるべきだっ!」みたいな論調が強まるのでしょうね。しかし、はっきり言って、わたしの記憶するかぎり、原作に忠実に作られた映画やドラマで、名作と呼ばれるものはひとつも思い浮かびません。後世に「名作」として残ってる映像作品は、むしろ原作を大胆に脚色・改変したもののほうが多い。(もちろん駄作も多いだろうけど)なぜなら、自由な脚色が許されなければ、現場のクリエイティビティは十分に発揮されないからです。原作にリスペクトがあることと、たんに原作に忠実であることは、けっして同じではない。◇クリエイターである以上、原作者には原作者の思いがあり、脚本家には脚本家の思いがあろうし、それぞれに理念も信念もプライドもあるだろうから、それを調整すべきなのは、とりあえずプロデューサーや出版社だとしかいえない。◇◇まあ、ひとつの炎上商法として見れば、意外にウィンウィンだったりする気もしますが…。実際、小学館には、炎上商法の疑われる事例が過去に複数あるようだし。
2024.01.28
宝塚で後輩叩きをしていた劇団員も、元ジャニタレの被害者叩きをしていたジャニヲタも、自分たちの行為が「正義」だと信じている点で似ています。これはたとえば、子供を虐待する親や教師が、自分の行為を「躾しつけ」だと信じているのにも似てるし、後輩にシゴキをおこなう運動部員やサラリーマンが、自分の行為を「指導」だと信じているのにも似ています。◇これは一面では、伝統的な縦社会の悪弊にも関係するけれど、それだけではなく、SNSのエコーチェンバーのように、偏狭な「正義」が増幅しやすい現代的な環境も関係している。本を読むこともなくなって、テレビを見ることも少なくなって、公共的な価値や多様な価値に触れる機会は減っているし、一定以上の知性がなければ、価値の相対性に気づくことが出来ず、狭い世界の価値観だけに染まってしまい、自分の信じている「正義」が妥当かどうかを疑うこともできない。◇それどころか、偏狭な「正義」が増幅した集団のなかでは、それに疑いをもつ人間のほうが排除されてしまうし、それを批判をする知性的な人間のほうが叩かれてしまう。これは戦時中の状況に似ています。多くの日本人が、軍国主義教育や大本営発表を信じていた時代では、それを批判する人間のほうが「非国民」だと叩かれた。人々は、天皇の玉音放送を聴くまで、軍国教育や大本営発表を「正義」と信じて疑わなかったし、敗戦してから気づいても後の祭りなのだけど、敗戦しないかぎりは、その「正義」が間違いとは考えない。宝塚の場合も、ジャニーズの場合も、死者が出るまでは、その「正義」を疑おうとはしないし、場合によっては、死者が出てもなお、いちど信じてしまった正義を捨てることができないのでしょう。◇とくに若い世代で、こうした偏った価値観が増幅しやすくなっています。これは危険な傾向だというべきです。国民が公共的な価値や相対的な価値に触れる機会を、従来の国家教育とは別の形で作っていかなければなりませんし、官民が共同して、偏狭な「正義」を疑えるだけの知性を鍛えていかねばならない。◇宝塚で後輩叩きをしていた団員は、いまや「社会悪」として世間から叩かれる立場になっています。それまで自分たちの信じていた正義が、外の世界からは「悪」だと見なされるようになってしまった。それは、ちょうど、"敗戦後の軍国主義者"に近い心境だろうと思います。自分たちの拠り所としてきた基盤が完全に否定された状態ですね。国が違えば正義は変わるし、時代が変われば正義も変わる。外側の正義は内側の正義とは違うし、未来の正義は現在の正義とは違う。小さな集団のなかで視野が狭まると、そうした価値観の多様性や相対性を想像できなくなり、偏った正義感で身を染めてしまうことになりますが、それは結果的に自分自身を滅ぼすことになる。そうならないための最低限の視野と知性は、現代社会に生きる誰にとっても必要なことだと思います。
2023.11.14
宝塚歌劇団に「いじめ」があったかどうかは、わたしの知るところではありませんが、一般的にいえば、企業であれ、学校であれ、劇団であれ、いじめやハラスメントはありうることです。◇何らかの問題が生じたとき、企業や学校や劇団などの運営主体は、社会に対して、あるいは組織内部に対して、あるいは被害者や加害者に対して、コンプライアンスに則った行動をすべきだし、今回は宝塚歌劇団にもそれが求められるはずですが、いじめやハラスメントそのものが、そうした法令遵守によって回避できるわけではありません。◇集団生活の内部で、いじめやハラスメントを回避するためには、何らかの技術的なメソッドやノウハウが必要です。運営主体の法令順守によって防げるわけでもなければ、個々人への啓発や意識改革によって防げるわけでもない。いじめやハラスメントが発生する機序を、科学的に(人間学・心理学・行動学的に)解明したうえで、それが発生しにくいシステムを構築しなければ、それを防ぐことは出来ないと思います。宝塚歌劇団のように、メンバーを選抜した集団でさえ問題を防げないなら、一般の公立学校などでは、なおさらです。◇わたしは、ドラマ「最高の教師」についての記事にも書きましたが、いじめのような問題を防げないなら、いずれ学校のシステムは解体せざるを得なくなると思う。それは教師や生徒に努力を促したところで解決できません。もしも、宝塚歌劇団が今後の存続を期するのであれば、企業として、あるいは劇団として、世界的な知見やノウハウを集め、いじめやハラスメントを生まないシステムを、日本の企業や学校・劇団に率先して開発せねばならない。それは、たんに宝塚歌劇団だけの課題ではないからです。◇また、このような問題に対して、経済産業省や文部科学省は、もっと敏感に反応していく必要があります。有効な処方箋を生み出すことなく、ただ予算を分配するだけの役割に甘んじるなら、行政機関の存在意義そのものが疑われることになる。ジャニーズ問題を見れば分かるとおり、これは「日本というシステムの存続」にかかわる問題です。何の対処もできぬままに放置すれば、日本のあらゆるシステムが瓦解することになりかねない。だからこそ、国も、企業も、学校も、劇団も、もっと科学的な態度で取り組む必要があります。
2023.10.02
ビジネスと人権にかんする専門家が、ジャニーズに対するスポンサー企業の「手のひら返し」について、重要な指摘をおこなっています。ビジネスと人権は、リスクマネジメントやコンプライアンスとは視点が異なる。カウアン・オカモトさんらが告白を始めた時点で、企業は現状を憂慮していると表明することができた。そして疑いを払拭する意味でも「ジャニーズ事務所として実態を調査し、自分たちには報告してください」というべきだった。ジャニーズCM起用中止企業に問う「ビジネスと人権」専門家の疑問人権問題にかんして、経済界の相互チェックを機能させるためには、各企業が人権問題についての基準をもち、それにもとづいて自社内の人権問題に対処し、さらに取引先の人権問題を審査することが必要です。取引先に対しては、必要に応じて通告や要求、さらに警告などを出して改善を促す。イエローカードやレッドカードのような手順も必要だと思います。◇上記のインタビューでは、名指しでアサヒホールディングスの姿勢を疑問視しています。私自身、アサヒビールのCMで、いまだに竹内まりやの楽曲を使用していることには疑問を感じる。アサヒホールディングスは、スマイルカンパニーの人権状況をどう評価しているのでしょうか?◇スマイルカンパニーの小杉理宇造が、ジャニーズのメディア支配の一翼を担っていたのは周知の事実。そして現社長は小杉理宇造の息子です。竹内まりやも、山下達郎とともに会社の創業に関わっており、竹内まりや自身がメリー喜多川と親密だったことも知られています。さらに、現社長の小杉周水や山下達郎は、「ジャニーズとはご縁とご恩と義理人情で結ばれている」と述べている。近年のスマイルカンパニーにも、・不可解な理由で松尾潔の契約を切った。・ELISAの性被害を隠蔽している。などの疑いがもたれています。◇ジャニーズに対してのみこれ見よがしの制裁をおこない、他の企業の人権問題に目をつむっているとすれば、アサヒに「公正な人権基準」があるとは思えない。たんに自社のリスクマネジメントのために、時流や世論に乗っかって「手のひら返し」をしているだけ、…と見られても仕方がありません。
2023.09.18
ジャニー喜多川やメリー喜多川が、生前に真実を認めて謝罪していれば、この問題は彼らの世代で完結していたのよね。そうすれば、姪/娘の藤島ジュリー景子や、現在のジャニタレがそのツケを払う必要はなかった。しかし、生前のジャニー&メリーは、ジャニタレの高い支持とメディア支配力を盾にして、(疑惑が公然の事実でありながら)あくまでも「厚顔」を貫き、それを隠蔽し続けた。おそらく墓場まで持っていくつもりだったのでしょう。しかし、いまや墓は掘り返されて、その業を、ほとんど罪のない子世代の人々が背負う羽目になった。◇ジャニー&メリーの手法は、安倍政権の手法とよく似ている。つまり、モリ・カケ・サクラなどの公然の疑惑がありながら、選挙での勝利や、高い支持率を盾にして、あくまで「厚顔」を貫き、その追及を逃れつづけた。実際、安倍政権が勝ち組であるかぎりは、メディアも世間も勝ち組になびいたので、疑惑は不問にされ、自公政権も見て見ぬふりができました。しかし、結果的には、安倍晋三の暗殺によって墓が掘り返され、統一教会との蜜月ぶりが暴露されることになりました。◇スマイルカンパニーにも同じことがいえます。メリー喜多川の隠蔽工作に加担すべく、ジャニーズのメディア支配に積極的に協力し、中森明菜を排除。SMAPと飯島三智を排除。さらには松尾潔も排除してきた。ELISAの性被害も隠蔽しています。こうした疑惑がありながら、スマイルカンパニーは「厚顔」を貫いている。なぜなら、達郎&まりやのセールスと高い支持があるからです。達郎&まりやが勝ち組であるかぎりは、メディアも世間も彼らになびくだろうと踏んでいる。事実、FRIDAYデジタルは次のように報じました。山下達郎が「老害」批判を払拭だ――。山下が老害批判を「結果」ではね返した。『TATSURO YAMASHITA RCA/AIR YEARS Vinyl Collection』の第5弾『SPACY』、第6弾『CIRCUS TOWN』が、8月1日付の「オリコンアルバムデイリーランキング」で1位、2位を独占したのだ。「店によっては即完売するほどの売れ行きのようです。ファンはもちろん、昭和のリバイブルブームや世界的なシティポップブームにも乗って、若者も手に取っています。これは山下さんの楽曲が世代を問わず、人気であることの証明。老害批判をした人たちは、謝るべきですね!」(音楽関係者)https://friday.kodansha.co.jp/article/325696まるで、売れてさえいれば疑惑が払拭され、企業の加害性すら不問にされるかのような主張。勝ち組こそが正しい、と言わんばかりです。しかし、売れるものが正義だという発想は、生前のメリー喜多川や安倍晋三と同質のものです。山下達郎や竹内まりやのセールスによって、このままスマイルカンパニーは免罪されるのでしょうか?◇たしかに、達郎&まりやが現役でいられるうちは、その「厚顔」を維持しつづけることも可能でしょう。けれど、この夫婦がいなくなった途端、スマイルカンパニーは勝ち組でなくなり、勝ち組でなくなれば、誰ひとり味方する者もいなくなる。メディアからも、世間からもソッポを向かれ、結局は、小杉周水をはじめとする"子世代"の者たちが、親世代の業をすべて背負って、尻拭いをさせられ、ツケを払わされることになる。◇かりに小杉理宇造が、あるいは達郎&まりやが、彼らの生前に真実を認めて後始末を終えれば、子世代の者たちがそれを背負う必要はないのですが、おそらく小杉理宇造も達郎&まりやも、死ぬまで「厚顔」を貫くつもりだろうし、墓場まで疑惑をもっていくつもりなのでしょう。しかし、墓は掘り返されるのです。ジャニーズ問題で炎上もシングル&アルバム共に絶好調…山下達郎「ツアー中のバッチリ変装姿」驚愕写真 #フライデー #ジャニーズ事務所 #山下達郎 https://t.co/MGOHSVfRYF— FRIDAY (@FRIDAY_twit) August 23, 2023
2023.08.29
今回の韓国人DJがそれに該当するかは分かりませんが、あくまで一般論でいえば、いわゆる「公開型の美人局」は十分にありうる話だし、そして、その場合、女性が共犯のこともあれば、そうでないこともありえます。…たとえばAKBの握手会などの手法にもいえるのですが、運営側は、アーティストと観客を接近させることで、なかば何かの騒動が発生するのを期待しているのです。なぜなら、それが炎上ネタとしてニュースになれば、費用をかけずとも大きな広告効果を得られるから。数百~数千の参加者のうち、たった1人でも騒ぎを起こせば十分なニュースになる。なんなら、サクラを雇って、意図的に騒ぎを起こさせることだってありえる。実際、秋元康は、丸刈り謝罪やナチス風の軍服など、法令違反にならないギリギリの範囲で、あらゆる機会に炎上商法を利用したといってよい。◇ほんとうにアーティストを守りたいのなら、不用意に観客と交わらせたりすべきではありません。しかし、運営側はあえて炎上ネタを望むので、アーティストを守る気もなければ、観客を守る気もない。むしろ何かしらの騒動が発生するのを期待している。それこそが彼らにとっての利益になるからです。したがって、このような類似の騒動は今後も多発する可能性がある。◇もちろん、一義的には、騒動を起こす観客自身が悪いのだから、法的な制裁を受けるべきはその観客なのだけれど、社会的には、それを誘発させる運営側も糾弾されるべきであり、何らかの社会的制裁を受ける必要があります。それでも類似の騒動が繰り返されるなら、いずれ法的な規制も必要になると思いますし、運営側の管理義務違反を問える仕組みが必要でしょう。◇なお、今回の件でSNSなどのネット世論は、DJ SODAを叩くべきではありません。それは「二次的な加害行為」だと言われかねない。したがって、あくまで運営側の管理体制を責めるべきです。▶ トライハードジャパン(TryHard JAPAN)について。
2023.08.22
ジャニーズ問題の落としどころ。◇まずは被害者救済が先決ですが、これはジャニーズだけの問題ではない。メディア全体の共犯関係が指摘されています。なので、ジャニーズ関連のコンテンツを有している企業が、共同で「被害者救済基金」を設立しなければならない。すなわち、放送局、レコード会社、出版社、映画会社、さらに広告代理店や広告クライアントなどが、共同で「被害者救済基金」を設立し、ジャニーズ関連コンテンツの資産を、そのために充てるのが妥当だろうと思います。もちろん、スマイルカンパニーのように、強固なタイアップをおこなってきたプロダクションも、そこに加わらなければならない。※スマイルカンパニーが生き残れればの話ですが。◇なお、タレントの性被害は、ジャニーズ事務所だけに限られているわけでもありません。たとえば、スマイルカンパニーでも、女性タレントの性被害の告発があります。つまり、加害者はジャニー喜多川だけに限らないし、被害者は業界全域のタレントに及んでいる可能性がある。…現在のところ、政府は「個別事業者の案件」などと言ってますが、数十年にわたって性被害が黙殺されてきたことに鑑みれば、これはメディア全体の「構造的な問題」なのです。したがって、政府は、業界全域を網羅的に実態調査し、長年にわたり性加害が野放しにされた背景を解明し、再発防止のためのガイドラインや法整備に取り組み、被害者救済の仕組みを確立していく必要があります。◇◇一方、ジャニーズ事務所については、解体してしまうか、かりに継続するにせよ、「ジャニーズ」の名を掲げ続けるのは不可能だと思うので、なんらかの改組が必要です。個々のタレントやグループがどこを拠点に活動するかは、それぞれに判断すべきことですが、かりにジャニーズ事務所に残るタレントがいるとしても、いったんは企業を改組することが必要です。ジャニーズの中には、タレント育成システムとか、レッスンのシステムとか、舞台運営のシステムとか、マネージメントのシステムとか、いろんなノウハウがあると思いますが、何を残して、何を失くすべきか、ひとつひとつ検討しなければならない。◇一部には、「ジャニー喜多川は死んだのだから、もう性虐待は起こり得ない」との意見もあります。しかし、それは楽観的に過ぎます。ジャニーズ事務所の中にも、あるいは周辺業界の中にも、同じような性癖の人物がいても、まったく不思議ではありません。たとえば新宿二丁目が、ゲイカルチャーのメッカになっているのと同様に、メディア業界もまた、ゲイやペドフィリアの人々を、全国から呼び寄せている側面はあると思うし、ジャニーズ事務所は、そうした界隈への "人材供給源" になっていた疑念もある。たとえば辛坊治郎のメルマガには、銀座にはもうずいぶん前から「売れずにジャニーズを退社した元タレントさんが集団で働くおかまバー」があって、そこでは先代トップの性的虐待の様子が夜な夜な赤裸々に語られたりしています。https://www.mag2.com/p/news/576347…との記述がありますが、みずからのセクシャリティを満足させるために、ジャニーズから直接・間接に恩恵を受けていた人々は、かならずしもジャニー喜多川だけではないと思います。◇もちろん、セクシャリティそのものは罪ではないので、本人が望んでそこに取り込まれるなら問題ありませんが、性的嗜好を共有できない男性や、性的に未発達な子供を巻き込むのは許されません。ジャニーズの改組がありうるとすれば、それを未然に防げるような形に、システムや契約のあり方を作り替えなければならないし、その内容が公にも明示されなければなりません。◇少年や少女を集めてタレントを育てる際に、いかにしてコンプライアンスを遵守させればよいのか。これを機に、人権上の問題が生じないようなモデルケースを作ると同時に、それを監督する仕組みも明確にしなければなりません。
2023.08.08
キャンセルカルチャーを日本語でいえば、さしずめ「自粛要求運動」とでも訳せるでしょうか?検閲でもないし、法的な根拠もないので、キャンセルするかどうかは、あくまでメディア側の自主判断に委ねられます。…先月のピーター・バラカンのNHKの番組でも、今日の山下達郎のTOKYO-FMの番組でも、ティナ・ターナー追悼という名目で、実質的な「アイク・ターナー特集」が組まれました。いうまでもなく、アイク・ターナーはDV野郎だったのだけど、検閲の対象になってるわけではないので、Rケリーの場合と同様に、その音楽を自粛するかどうかは個々に判断すればよい。◇ちなみに、NHKは、市川猿之助の出演作も配信するそうです。つまり、「作者に罪があっても作品に罪はない」のと同じく、「出演者に罪があっても作品に罪はない」との判断でしょう。日本では、とりわけ「不倫芸能人へのキャンセルカルチャー」が強烈で、世界的にも例がないほど異様にヒステリックなのですが、もちろん法的な根拠もなければ、社会的な正当性があるとも思えないので、スポンサーに左右される民放とはちがい、NHKはあまりキャンセルカルチャーに屈しない傾向があります。…しかし、ジャニーズ問題については、それほど単純ではありません。◇もともと日本の言論は「メディアの自粛」に否定的でした。その発端は、昭和天皇が病気になったとき。井上陽水の「お元気ですか~」のCMが自粛されたときです。このときにメディアの横並び的な自粛があり、表現の自由や放送の独立性の問題などが議論されました。…現在の自粛要求運動(キャンセルカルチャー)は、それとは真逆のベクトルですが、実際のところ、メディアの自粛には2つの相反する側面があります。1つめは「公共目的の自粛」。2つめは「経営目的の自粛」。メディアがジャニーズについての報道を自粛するのは、忖度や圧力を背景にした企業側の都合にすぎません。なので、報道が「経営的な自粛」をすべきでない、と批判されている。その一方、メディアがジャニタレの起用を自粛しないことに対しては、(これも忖度や圧力を背景にした経営上の都合でしょうから)むしろ「公共的な自粛」をせよ、と要求されているわけです。小山田圭吾の音楽についても、(放送で自粛すべきかどうかはともかく)すくなくともパラリンピックでの使用については、公共的な観点で疑問符がついて、自粛されたといえます。◇NHKも、民放も、ジャニタレの起用について、「出演している方々には問題がない」と、おしなべて横並びの弁明をしてますが…さすがに、この理屈には無理があります。「社員には罪がないから、不正企業との取引も続ける」と言ってるのに等しい。たしかにジャニー喜多川は死んでいるけれど、ジャニーズ事務所が、彼の性虐待に組織的に加担し、なおかつ隠蔽してきた疑いは晴れていません。…わたしの想像ですが、メリー喜多川とスマイルカンパニーが共謀し、飯島三智とSMAPを排除して同族経営を維持し、強権的な手法でメディアを支配してきたのは、ほかでもなく、ジャニー喜多川の性虐待事件や、中森明菜排除事件を隠蔽するためだったと思えます。今回のスマイルカンパニーによる松尾潔の排除も、それとまったく同じ構造でおこなわれたように見える。今日はNHKホールで、山下達郎さんのコンサートでした🎉演目後半の曲の途中で、竹内まりやさんがコーラスで参加!紹介では「何故か竹内まりや」と紹介されていました🤣そして客席には木村拓哉さんの姿も😳会場がどよめく事の多かった本日の公演でした🎉#山下達郎 #竹内まりや #木村拓哉 pic.twitter.com/K5H8iwHIsG— Shy Boy's Each (@todaysongbook) July 29, 2023ジャニーズの場合も、スマイルカンパニーの場合も、批判的な意見を排除して、盲信的な支持者ばかりを集めていますが、その結果、ジャニヲタも、達郎&まりや信者も、まるで教祖を崇めるような異様な集団になり、国際的な人権感覚からは乖離し、ガラパゴス的な文化を形づくった結果、虐待の告発者に対する二次的な加害さえも辞さなくなっています。多くの盲信的なジャニヲタが、デヴィ夫人の発言を称賛している事実もある。デヴィ夫人めっちゃ叩かれてますがその一方で2万いいねがついてるジャニーズをキャンセルカルチャーする動きに怒りを感じている人は、たくさんいるどんなに叩かれようが自分の意見をツイートできる強さはさすがだなと思います https://t.co/4UOIIORB3Q— みやびmama (@miyabi39mama) July 22, 2023 ◇もちろん、ジャニーズ事務所だけに問題があるのではありません。NHK・民放・大手新聞の報道部門が、上層部の圧力や、ジャニーズへの忖度によって、性虐待事件の話題を自粛してきたとすれば、これは、公共性をないがしろにした「経営的自粛」であり、報道の独立性という点でおおいに問題があります。…すでに国連が調査に入っていますが、本来ならBPOや日本新聞協会が調査すべき案件だし、これらの機関が、まともに機能を果たしているのかどうかも問われている。ちなみに国連は、2016年にも日本政府とメディアの癒着を調査しています。https://www.unic.or.jp/news_press/info/18693/今年の「報道の自由度ランキング」では、日本は180カ国中の68位。主要7カ国で最下位が続いています。◇わたしは、てっきり、松潤大河が終了する12月を目安として、NHKはジャニーズとの取引を自粛するものと思ってました。ジャニーズへの疑惑が晴れないかぎり、この事務所との取引には公共性の観点で問題がありますし、NHKはたんなる国内メディアではなく、そのコンテンツは海外へも発信されているからです。紅白をはじめとして、NHKの音楽番組は世界中で視聴することができる。◇ところが、NHKは、12月以降の「ザ少年倶楽部」の放送を決定したらしい。これは事実上の《ジャニーズアイドル支援番組》で、NHKワールド・プレミアムで海外放送もされています。NHKの番組にジャニーズのアイドルを出演させるのは、日本の異常な文化を世界へアピールするのにも等しい。ある意味で、NHKは、外圧にも屈せず、キャンセルカルチャーにも屈せず、ジャニーズのアイドル文化を、世界に発信しつづける意思を固めたのかもしれません。◇しかし、ジャニーズ事務所に対する疑惑も、NHKをふくめた日本メディア全体への疑惑も、いまなお進行中なのですから、この問題はまだまだ続いていくだろうと思います。
2023.07.30
達郎批判ではなく、やや基礎的な考察です。「なぜ日本人がジャニーズのエンターテイメントを愛したか」という本質的な問題にもかかわる話になります。◇かつて山下達郎は、ジャニーズのエンターテイメントのことを、宝塚歌劇団と並べて語ったことがあるのだけれど、両者に共通するのは「性の消滅した世界」ということ。これは、男性が女形を演じる歌舞伎にもいえることですが、もともと日本人はそういう芸能を好んできた伝統がある。かつては、西洋にもカストラートのような人たちがいたし、中国の宦官の文化とか、日本の戦国時代の男色文化にも、そうした側面があるのかもしれません。現在の日本のBL文化にも同様のことはいえると思う。◇ジャニーズのアイドルというのは、いわば芸能のために「虚勢された男性」じゃないかと思うのですよね。ジャニヲタがジャニタレの恋愛を忌避するのも、たんに「擬似的な恋愛対象にしてるから」というだけでなく、そもそも彼らの「性的な部分」を見たくないから…という面が強いように思う。そして、ジャニー喜多川の性犯罪は、そのような「去勢された男性アイドル」を育てるための、ある意味で合理的なシステムだった可能性があります。もしかすると、ジャニー喜多川とのセックスを受け入れるかどうかで、アイドルの資質があるかどうかを選別していたかもしれない。(あくまで憶測ですが)もし、そうだとすれば、ジャニーズのアイドル文化やエンターテイメントそのものが、ジャニー喜多川の性犯罪と切り離しがたく存在していた、…とさえ思えてきます。◇原則的にいうなら「作者」と「作品」は別です。作者に罪があっても、作品に罪はないし、その反対に、どんなに作品が素晴らしいからと言って、作者の犯行が免罪されるわけでもない。そこは厳密に区別されなければいけません。…そもそも犯罪者の表現行為は禁じられていません。犯罪者にも「表現の自由」が法的に保障されています。永山則夫のように、獄中で表現活動をすることも、それを世間に公表することも認められています。◇ただ、テレビ局などは、犯罪者の表現を忌避する傾向が強く、それは自粛されがちです。とくに民放の場合は、(婚外恋愛は犯罪でないにもかかわらず!)不倫芸能人の出演さえ控えてしまうことがあります。視聴者やスポンサーの意向に左右されるからです。NHKの場合は、スポンサーの意向に左右されないこともあって、すくなくとも民放に比べれば、不倫芸能人の出演などには寛容です。さらに、出版社の場合は、何よりも「表現の自由」が優先されるので、多くの場合は犯罪者の表現行為にさえ寛容です。◇ただし、表現行為そのものが犯罪によって成立している場合は、その限りではありません。たとえばベルトリッチの「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、(わたしがとても好きな映画のひとつなのですが…)撮影中に強制的なセックスが行われ、そのシーンが劇中で使われているとされています。つまり、犯罪行為によって作品が成立している。荒木経惟の写真や、園子音の映画などの場合も、モデル・女優への性的な支配が、作品の内容に反映されているのではないか、と疑われています。ジャニーズのアイドル文化についても、ジャニー喜多川の性的支配がアイドルを育てたとすれば、エンタテインメント作品そのものが、その犯罪によって支えられていた、と言えるかもしれません。まあ、かりにそうだとしても、ジャニタレの表現活動までが禁じられるわけではありませんが。◇ちなみに、昔の歌謡曲に「芸のためなら女房も泣かす」という文句があります。わたしは、最近の歌舞伎界を見ていて、もともと役者ってのは、「芸のためなら家族も殺す」ような人たちではないのか、と感じています。小林麻央も死んでしまったし、竹内結子も死んでしまったし、猿之助の両親も死んでしまった。歌舞伎役者というのは、それら家族の死をも含む「業」を積み重ねることによって、その深い「業」をこそ、自分の芸に生かしているのではないか、と思えてくるのですよね。日本人を含め、人間社会は、そのような芸能を長いあいだ容認してきたのかもしれません。しかし、いよいよ、それが許されない時代がきたのではないか、とも感じています。◇山下達郎は、小杉理宇造やジャニー喜多川との「縁」こそが何より重要であり、リスナーやファンとの「縁」は、それに比べれば二の次でしかない、…という趣旨のことをラジオ番組で公言しました。つまり、達郎にとって何よりも大事なのは、あくまで「音楽を作らせてくれる人間」であって、けっして「それを聴く人間」ではないのだ、ということ。これはある意味、じつに芸術家らしい考え方であって、実際のところ、作品が世に放たれ、それが一人歩きしてしまった後のことは、もう作者が関知できる領域ではないのだし、音楽の場合も、聴きたい人間が勝手に聴いているだけなのだから、彼らがどんな気持ちで音楽を聴いて消費していようと、もはや作者の知ったことではない、…というのは、一定の真実だろうと思います。したがって、芸術家にとって何より大事なのは、「作りたいものを作り続けられる環境」であって、それを支えてくれる人脈さえ保全されていれば、それ以外のものが失われても、さしたる問題ではないのだろうと思います。◇さらに、美空ひばりが田岡一雄との「縁」を切れなかったように、山下達郎がジャニー喜多川との「縁」を切れないように、たとえ彼らが犯罪や犯罪組織に関与しているとしても、やはり創作活動のためには、その「縁」が何より優先されるのだ、ということですね。かりに自分の作品が、その犯罪や犯罪組織を利することになるとしても、それはもう作者の関知できる領域ではないのだから、そこまでの責任を負う必要はないってことかもしれません。しかし、そういう発想が今後も許されるかどうかは微妙です。もちろん法的には何ら問題がないけれど、テレビ局やスポンサーがそれを許すかどうかは難しい。◇◇◇余談ですが、最後にすこしだけ達郎批判をすると、彼は、松尾潔の契約終了にかんして、「自分がその決定を促したわけではない」と言い、ジャニーの性加害行為についても、「1アーティストの自分に分かるわけがない」と言いました。しかし、すくなくともスマイルカンパニーという会社の中で、山下達郎が「1アーティストにすぎない」というのは、たぶん嘘だろうと思います。噂によれば、山下夫妻は会社の半分近い株式を保有しているらしいし、おそらく社内における発言権や決定権は、「前社長 > 山下夫妻 > 現社長」ぐらいの順位じゃないかと、わたしは想像しています。(憶測ですが)そうでもなければ、松尾潔はいちいち山下夫妻の「賛意」などを確認するはずがない。実際のところ、ヤマザキマリや鈴木おさむの「賛意」を確認したという話はないし、あえて山下夫妻の「賛意」だけを確認したのは、そこに大きな決定権があると考えればこそでしょう。(もちろん松尾潔はそうした内実まではバラさないでしょうが)そもそも「スマイル」という社名は、ビーチボーイズの作品名(未完)から取られているわけだし、それを達郎が命名したことは一目瞭然なのです。なので、実質的に、スマイルカンパニーという会社は、小杉家と山下家の共同経営ではないかとわたしは見ています。(憶測ですが)
2023.07.17
今回の山下達郎問題の最大の焦点は、スマイルカンパニーと山下夫妻が、長いあいだジャニーズと昵懇だったことではなく、あくまでも「松尾潔を排除したこと」です。もちろん、長年にわたってジャニーズと昵懇だったからこそ、松尾を排除したのだろうことは想像に難くありませんが、今さらジャニーズとの関係を問題視しても仕方ないし、それ自体が罪だったとも言いがたいし、そのような企業やアーティストは他にも多いはずですから。◇最大の問題は、改革を促そうとした松尾潔を排除したこと です。山下夫妻がそれを追認したことは明らかになっています。一部には、松尾潔がこの問題をメディアへ持ち出したことに対して、「当事者どうしで内々に解決すべきだった」と主張する人もいます。しかし、それこそが、ジャニーズ問題を内部に隠蔽して、うやむやに終わらせてしまいたい勢力の思う壺です。むしろ、今回の松尾潔のように、メディアにはびこる隠蔽体質を外側に向けて告発する人が、各所で声を上げるようでなければいけません。そうでなければ、日本の芸能界の改革が進まないからです。◇たとえば、古関裕而のような音楽家が、戦時中に、国家の要請に応じて、軍歌や戦時歌謡を量産した問題にも関係するのですが、かりに達郎のようなノンポリの音楽家であっても、・音楽家としての存続や利益を選ぶのか・社会正義や倫理を選ぶのかそういう選択を迫られる局面があります。山下達郎にとっては、今回がそれでした。◇じつは若き日の山下達郎は、少女の人間性を搾取するフィル・スペクターに否定的だったそうです。山下達郎「若いアイドルの人生を消耗させて金儲けする芸能界のシステムを僕は容認できない。そういうシステムに加担したくない」#山下達郎 pic.twitter.com/euUrNBE75A— ガリで (@garide2525) July 9, 2023 しかし、それなら何故、少年の人間性を搾取するジャニー喜多川には肯定的であり得たのか?わたしが気になっていたのは、《坂本龍一に弄ばれた女性を山下達郎が懐柔した》とのエピソードです。「遊ばれたー!」と泣き出す女性に山下達郎が'10年代に坂本さんのツアーがあり、リハーサルにスタッフの女性も同行していました。でも、なにがあったのか、その女性は来るなり“遊ばれたー!”とわんわん泣き出したんです。たまたまスタジオが一緒だった山下達郎さんが“この人と付き合ったら遊ばれる可能性があるのはわかっていたはずだから、文句を言っても仕方ないでしょう”と諭したと聞いています。(レコード会社関係者)https://news.yahoo.co.jp/articles/532b5a12f940f278a9a7074f267a7ae3f5b72ab9?page=2これもまた、「権力者による性の搾取を呑み込ませた行為」…に等しいのではないか、とわたしは疑っています。◇ミュージシャンにとって、「ご縁」や「ご恩」や「義理人情」こそが大事だという発想は、さながら美空ひばりと田岡一雄の関係とも同質です。今回の山下達郎は、世間で「シティポップス」とも呼ばれてきた世界が、まるで演歌と同様の泥臭いしがらみで成り立っている実態を、公然と認めてしまいました。…たとえ事務所の社長が田岡一雄のようなヤクザでも、たとえ取引先の社長がジャニー喜多川のような性犯罪者でも、音楽家が優先すべきは「ご縁」「ご恩」「義理人情」という、今回のあからさまなメッセージは、山下達郎の「希望という名の光」や、竹内まりやの「いのちの歌」のような楽曲に、どのような意味を与えることになるでしょうか?だからどうぞ泣かないでこんな古ぼけた言葉でも魂で繰り返せば あなたのため祈りを刻める泣きたい日もある 絶望に嘆く日もそんな時そばにいて 寄り添うあなたの影これらの歌を、性搾取の被害者たちはどのような気持ちで聴けばいいのか?◇松尾潔も引用したように、新曲の「弾圧のナンチャラ」は、もはやギャグにしか聴こえなくなってしまいましたが、たとえノンポリの達郎&まりやであっても、それなりに社会的なテーマを題材にした楽曲はあったのです。わたしが思うに、竹内まりやの「縁えにしの糸」という曲も、今では「ご恩と義理人情の糸」と読み替えねばならなくなった。この世で出逢う人とはすべて 見えぬ糸でつながってる天が描いたシナリオに沿い あなたと私知り合うの時に愛して 時には泣いて やがて固い絆へとそれはもはや、NHK朝ドラの主題歌というよりも、ほとんど東映ヤクザ映画の主題歌みたいに思えます。ちなみに、達郎は、> オレにとっては小杉さんやジャニ―さんとの「縁」が大事で、> 松尾みたいな批判的な連中との「縁」など無かったも同然なのだから、> それで文句があるなら、おまえらもオレの歌は聴かなくていい⇒ 発言の全文はこちら…という趣旨のことを述べて、長年のファンとの「縁」もみずから断ち切りました。
2023.07.11
ネトウヨのなかには、「とにかく左翼を攻撃できれば手段は選ばない」…みたいな人たちがいます。一方、ジャニヲタのなかにも、「ジャニーズさえ守れれば手段は何だっていい」…みたいな人たちがいますよね。そんな見境のないネトウヨとジャニヲタが、なぜか山下達郎擁護のスローガンのもとで共闘しはじめてるw◇さらには、出版不況にあえぐ音楽雑誌も、そこに乗っかるかもしれない。実際、『ミュージックマガジン』あたりは、なおも《山下達郎擁護》の姿勢を変えそうにないし、それどころか、ジャニヲタやネトウヨにも媚びを売って、部数の回復や再起を図っていく可能性があります。その結果として、内容がほとんど『WILL』や『Hanada』みたいになっていくかも。松尾潔が『赤旗』での言語活動続けるんなら、スマイルと関係断ってお互いばんばりましょうというだけの話なのに。なんで山下達郎がここまでバッシングされなきゃならんのか。アベさんがいなくなって、正義厨が暴走し始めた。周りにいる小さな幸せを求める者を、屁理屈言って火あぶりにかけてる。— Yuji TANAKA (@ugtk) July 9, 2023ちなみに、上のようなツイートに対して、漫画家のヤマザキマリが「いいね」しまくっていた…と話題になっています。ヤマザキマリと達郎&まりやが親しくしてるのは、すこし前から知られていましたが、何のことはないスマイルカンパニー所属なのですね。わたしは、ヤマザキマリが、専門家でも何でもないくせに、NHKの教養番組などに専門家ぶって出てくるのが不思議でしたが、組織的な後押しがあったと考えれば納得がいきます。ヤマザキマリのTwitterにおける挙動も、彼女が「組織人」として動いていることを示している。◇ところで、目下、ジャニヲタ&ネトウヨ連合がよりどころにする情報があります↓。【マスコミの闇】ジャニーズ報道の裏側にColabo・フラワーデモ・キボタネの影?https://t.co/LmmZSBMQuZ— Johnny's Navi (@tokyojapan999) June 19, 2023まだボヤッとした話ですが、たぶん「中国人陰謀説」に寄せようという意図なのでしょう。南京事件と似たような構図にも見えますね。まあ、たとえ中国人やBBCやリベラル派の人たちが、日本についてのネガティブ情報を発信・拡散しているとしても、それで「ジャニー喜多川が無罪になる」なんてことはありえません。◇とはいえ、こういったジャニヲタ&ネトウヨの結びつきには、けっこう不気味な面もあります。両者を結びつけているのは、達郎&まりやに象徴されるようなノンポリ層なのですが、ノンポリを公言する音楽家や音楽愛好家は、(ふだんはリベラルな態度を装っていますが)政治的選択を迫られる局面では必然的に保守化します。彼らにとって重要なのは、慣れ親しんだ幻想や、身の回りの小さな幸せを維持することであり、国際問題や人権問題などは二の次だからです。その点でこそ、彼らはジャニヲタにもネトウヨにも通じ合う。 山下達郎のラジオでの発言を一通り読んで思ったのは、デズモンド・ツツのこの言葉:「不正義を前にして中立でいるということは、抑圧者の側につくことを選んだということである」“If you are neutral in situations of injustice, you have chosen the side of the oppressor.”— Yuko Watanabe 渡邊 裕子🇺🇸🇯🇵 (@ywny) July 10, 2023 達郎&まりやの岩盤的な支持層は、日曜の午後に「サンソン」を聴くことが、なかば自分たちの《生活そのもの》になっており、今回の事態には、たぶん実存的な危機を感じているはずです。ジャニタレの恋愛報道だけで狂気に陥るような人たちも、やはり現在のジャニーズの危機に直面して、自分たちの存在基盤が脅かされる恐怖におののいている。彼らが敵視するのは、慣れ親しんだ幻想や小さな幸せを破壊する者なので、性被害の告発者さえ、現在の彼らにとっては敵になりえます。そして、こうしたメンタリティは、やはりネトウヨによく似ている。ネトウヨにとっては、人権主義を標榜する国連も、国際主義を標榜するリベラル派も、たんに国内の権力構造を揺るがす敵でしかありません。彼らもまた、長いものに巻かれ、大きな権力にグルーミングされ、(竹内まりやと同じように)出雲につどう八百万の神々にひれふしながら、日常の幻想と小さな幸せを保守することを選択します。◇余談ですが、生前の中村とうようは、達郎&まりやの音楽を意外なほど高く評価していました。なぜ「大衆音楽」の可能性を信じていた中村とうようが、サザンオールスターズではなく、中産階級気取りの達郎&まりやなんかを評価していたのか、わたしはずっと不思議に感じていたのですが、いまにして思うと、まさに達郎&まりやこそが、日本人の総中流幻想に親和的なのであって、その点でこそ保守的な大衆の無意識に訴求するのです。◇ところで、松尾潔のTwitterによれば、テレビのみならず、音楽雑誌も、今回の問題にまったく無関心を装ってるそうです。やはり、『ミュージックマガジン』も『ロッキングオン』も、岩盤層と同様、変わらぬ《達郎支持》の姿勢を続けるのでしょう。そちらもゼロです。 https://t.co/YVwNPaIpem— 松尾潔 (@kiyoshimatsuo) July 8, 2023 こうした音楽雑誌が、ノンポリを自称しながらも実質的には保守化し、ジャニヲタ&ネトウヨに連携していく可能性は否定できません。…わたしは、7日の坂本龍一についての記事で、「日本のミュージシャンは言語的知性に欠けている」と書きましたが、それと同じことが日本の音楽ジャーナリズムにも言えます。本来なら、映画批評であれ、音楽批評であれ、言葉を扱う職業である以上、言語的知性が不可欠だと思いますが、現在の日本で「音楽ライター」などを自称する人たちは、たんなる "ミュージシャン崩れ" みたいな連中ばかりで、本質的に言語的知性が抜け落ちているのです。そのため、歴史的な批評も、アクチュアルな状況への批評も出来なくなっている。彼らが「なしくずし的な保守化」に傾くのは必然だと思います。◇わたしが、音楽惑星さんと日本語ロック論争について議論したときも、参照したのは『ユリイカ』のような文芸誌であって、けっして音楽雑誌ではありません。日本語ロック論争は、もとはといえば、当時の『ニューミュージックマガジン』などの音楽雑誌で行われました。しかし、現在ではその雑誌こそが、よりによって「はっぴいえんど史観」の担い手みたいになっています。歴史や現状に対する批評的な観点が、まったく無いからです。◇わたしは3日の記事のなかで、日本語ロック論争の議論に反応した栗原や佐藤のツイートを紹介しましたが、じつは、あの議論に対して、一人だけおかしな反応をしていた人物がいました。それが、よりにもよって、現在の『ミュージックマガジン』の編集部の人間だったのです。このページが異様に詳しい"1980年1月号より、「ニューミュージック・マガジン」は「ミュージック・マガジン」へと変更されました。当時、日本ではフォークからよりポップでロック寄りな音楽へと変化した新たなポップスに「ニュー・ミュージック」という名前を付…"https://t.co/cQdp1ChPva— 矢川俊介 yagawa shunsuke (@yasnsk) December 20, 2020中村とうようの考えていた「ニューミュージック」が、ポール・ネルソンの述べた「The New Music」に由来していること、(フォーク雑誌『シング・アウト』に掲載された66年の論文です)それがフォークとロックを統合する概念だったのは、日本のロック史に詳しい人ならば周知の事実です。しかし、何故かこの人物は、ほかならぬ『ミュージックマガジン』の編集部にいながら、その誌名の由来すら知らなかったらしいのです。…上記のツイートでは、ニューミュージックに「異様に詳しい」と書いたうえで、ミュージック・マガジンの歴史 - 中村とうよう(後編) という外部記事にリンクを張っていました。このサイトは現在は消えていて、キャッシュだけ残っています。じつは、このサイトの前半部分にも、ポール・ネルソンの件はちゃんと記述されていたのですが、この矢川という人物は、それすらもまともに読解できず、まったく無関係な後半部分にリンクを張っていたのです。(そこに書いてあるのは1980年の誌名変更の話)歴史について無知なだけでなく、資料の読解力もないってこと。◇歴史に無知なうえに、資料もまともに読めないのでは、音楽史を批評的にとらえることはおろか、アクチュアルな状況を分析するのも不可能でしょう。現在の『ミュージックマガジン』に、なんらの批評性も感じられないのは、そもそも批評の意思のあるかないか以前に、ただたんに無知でバカな人間しかいないからかもしれません。この矢川俊介という男も、(かならずしも編集部の中枢の人間ではないかもしれませんが)やはり今なお「達郎擁護」の立場のようですし、今後の『ミュージックマガジン』も、おそらく「達郎擁護」の姿勢を貫くのではないかと思います。そして、はっぴいえんど神話を保守しながら、日本語ロック派と同じく「リベラルを装ったノンポリ」の道をたどり、やがてはジャニヲタやネトウヨとも連携していくでしょう。ツイッターは今日もツイッターだね何にせよ、片側の1ツイートだけ読んで、山下達郎さん側の表明が何もないうちに何かを決めつけたりすることはしないほうがいい— 矢川俊介 yagawa shunsuke (@yasnsk) July 2, 2023
2023.07.10
TOKYO-FMの「サンデーソングブック」で、達郎からのスピーチがありましたね。◇ジャニーズについて語った後半部分については、これといって、とくに何も言うことはありません。達郎が言うには、「ジャニー喜多川の性加害については噂でしか知らなかった」「99年の裁判のことも知らなかった」…とのこと。本人が言うのだから、きっとそうなのでしょう!(知らんけど)また、達郎が、ジャニー喜多川をずっと尊敬し、ジャニーズのエンターテイメントを愛し、ジャニタレの活動が続くことを願っている、…と述べた部分についても、とくに何も言うことはありません。前回の記事にも書きましたが、わたし自身も(ジャニ―喜多川の人間性については知りませんが)、ジャニーズのエンターテイメントは素晴らしいと思ってます。◇問題になるのは、むしろ前半の部分だと思います。…まずは以下の部分。私の事務所と松尾氏とは、彼から顧問料をいただく形での業務提携でありましたので、雇用関係にあったわけではない。また、彼が所属アーティストだったわけでもなく、したがって解雇には当たりません。弁護士同士の合意文書も存在しております。松尾氏との契約終了については、事務所の社長の判断に委ねる形で行われました。松尾氏と私は直接何も話をしておりませんし、私が社長に対して契約を終了するよう促したわけでもありません。じつは、松尾潔も、山下夫妻が契約終了を「促した」とは言ってません。松尾が言及したのは、山下夫妻が「賛成した」かどうかであり、それを弁護士に確認したら「Yes」と返事がかえってきた、という話なのです。双方の言い分に矛盾はないけれど、ポイントを置く部分にズレがあるのですね。◇…そして以下の部分。そもそも彼とはもう長いあいだ会っておりません。年にメールが数通という関係です。今回、松尾氏がジャニー喜多川氏の性加害問題に対して「憶測にもとづく一方的な批判」をしたことが契約終了の一因であったことは認めますけれど、理由はけっしてそれだけではありません。他にも色々あるんですけれど、今日この場ではそのことについては触れることを差し控えたいと思います。※松尾は「批判」ではなく「提言」と言ってるので、そこにも表現の違いがありますが…まず重要なのは「憶測にもとづく」という部分でしょう。松尾の発言のどの部分が「憶測」だったのか。そして、達郎とスマイルカンパニーは、何故それが「憶測」であると判定できるのか。そのことは契約終了の正当な理由になるのか。…という問題があります。もしかすると、達郎とスマイルカンパニーは、被害者たちの告発そのものをまだ疑問視していて、ジャニー喜多川の性加害問題に言及すること自体を、いまも「憶測にもとづく批判」と捉えてるのかもしれません。最初にも書いたとおり、達郎は「99年の裁判のことも知らなかった」と言うけれど、いったい、いつまでそれを知らずにいたのか??松尾の契約を切る段階でもまだ知らなかった…なんてことは、さすがにありえないと思います。…さらに、達郎は、松尾が「一方的な批判」をしたと言ってるわけですが、日刊ゲンダイの松尾の記事には、Jに対しても提案したいことがあるので、ジュリー社長とつないでくれるよう請った。だが周水社長が首を縦に振ることはなかった。…と書いてあります。それが事実だとすれば、むしろ対話を遮断したのはスマイルカンパニーの側では?って気もします。…くわえて、達郎は、松尾のジャニーズ批判は「契約終了の一因」に過ぎず、理由は「他にも色々ある」と言いました。しかし、それが何なのかは触れられませんでしたし、松尾もまだ書いてないことが何かあるのかもしれないし、それが契約終了の正当な理由になるのかも分かりません。とはいえ、積もりに積もった「色々」があるのだとしても、直接の引き金が「ジャニーズ批判」だったのは間違いない。やはり、それが契約終了の正当な理由かどうかが問われるところです。◇今回の話を聞いて、わたしが思っていた以上に、達郎と松尾の関係は冷え切ってる感じでした。今後、この案件は、ジャニーズ問題の場外乱闘的な感じで、けっこう泥沼化しそうにも思えます。…ちなみに、スマイルカンパニーって、ジャニーズだけでなく、ハロプロ(アップフロント)とも密接なんですね。
2023.07.09
ジャニーズ批判を展開した松尾潔が、山下達郎の会社から契約を切られた件についてです。…結論から先にいうと、この期におよんで達郎を批判するつもりはありません。いまさら言っても仕方のないことだから。ただ、今回の件にかんして、「松尾潔の姿勢を支持する」とだけは言っておきたい。◇◇◇わたしは以前、音楽惑星さんのサイトで、> 1970年代の「日本語ロック論争」は、> ナベプロに反旗を翻した内田裕也と、ナベプロに寝返った松本隆との対立だった。※正確には「寝返った」じゃなくて「やがて寝返ることになる」ですが。…みたいに言ったことがあって、その発言が評論家の栗原裕一郎のTwitterに取り上げられて、ちらっとだけバズったことがあります。先ごろ亡くなった佐藤剛(甲斐バンドの元マネージャー)も、わたしたちの議論に反応を寄せていました。意外とない視点。どなたのブログか存じませんが。「結局さあ、「日本語ロック論争」ってのは、ごく簡単にいうと、「内田裕也はナベプロに反旗をひるがえしたのに、松本隆はまたナベプロに寝返ってるではないか」みたいな話だよね(笑)」内田裕也と日本語ロック論争https://t.co/bBE5cY17mp— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) December 19, 2020 最近もこのことについて、考え直しているところでした。管理人 : 中村とうようが考えた「ニューミュージック」というのは、おおむね米国の「フォークロック」に相当するものですね。のちに、ぜんぜん違う意味に変わってしまいますけど(笑)。まいか:それが最大の問題なんだよなあ!(笑) https://t.co/DPlI3jddWQ— 佐藤 剛(sato go) (@gosan5553) December 20, 2020◇旧はっぴいえんどのメンバーを中心とする「日本語ロック派」の人たちが、反権力の姿勢を弱めて、歌謡界との関係を強めていった動きは、おもに作詞家の松本隆を中心におこなわれたのですが、その中でも、山下達郎とジャニーズとの結びつきは、かなり目立つものでした。べつに「歌謡曲が悪だ!」というつもりはないし、わたしもナベプロの音楽は素晴らしかったと思うし、ジャニー喜多川のつくったエンターテイメントも素晴らしかったし、松本隆のつくった歌謡曲も素晴らしいと思うし、大滝詠一がこよなく歌謡曲を愛したのも理解できます。だから、山下達郎が、ジャニー喜多川のエンターテイメントを、宝塚歌劇団と並べながら高く評価していたことについても、(若干胡散臭いとは感じながら)「まあ、そういう考え方もあるかな」と聞き流していました。とはいえ、達郎がジャニーズに提供した楽曲はちっとも面白くなかったし、山下夫妻とジャニーズとの蜜月ぶりも、うっすら醜悪だと感じてはいた。◇アルファムーン/スマイルカンパニーの小杉理宇造が、ジャニー喜多川に出会ったのは、達郎がソロデビューした75~76年のことだそうですが、達郎がとくにジャニーズと結びつきを強めるようになったのは、80~82年ごろのことであり、それは、竹内まりやと結婚する時期にぴったり符合します。1980年竹内まりや「不思議なピーチパイ」にコーラスで参加。1981年近藤真彦「ブルージーンズメモリー」「ギンギラギンにさりげなく」等にコーラスで参加。竹内まりやのアルバム『PORTRAIT』制作に参加。1982年アルファ・ムーンを設立。竹内まりやと結婚。近藤真彦「ハイティーンブギ」を作編曲。達郎は、先日の『関ジャム』のインタビューで、> 80年代に「売れる音楽」を目指すようになったのは、> 自由度の高い音楽作りの可能な環境を手に入れるため。> 金がなければ自由に音楽を作れないから。▶ https://www.cyzo.com/2022/06/post_314074_entry_2.html…という趣旨のことを話していました。しかし、わたしが思うに、達郎が「売れる音楽」を作るようになった最大の理由は、やはり彼が80年代に「家庭をもったから」だろうと思います。そして、現在の達郎がジャニーズと関係を切れないのも、(ちょうどキムタクだけがジャニーズと関係を切れなかったのと同じように)やはり「家庭をもっている」ことが最大の理由だと思う。◇近年のシティポップブームの影響もあり、山下達郎は、世界中の音楽ファンから尊敬を集めていますし、ほかならぬ松尾潔も、折にふれては山下達郎への敬愛を口にしてきたわけだし、わたし自身も、山下達郎が日本で最高水準のミュージシャンだと思ってます。しかしながら、多くの音楽ファンが愛してきた達郎の音楽というのは、ようやく売れはじめた80年代以降の音楽ではなく、むしろ売れてなかったころの70年代の音楽なのです。まして、ジャニーズに提供した「ハイティーンブギ」だの「硝子の少年」だのは、達郎の音楽キャリアにとって、正直どうでもいい代物だと思っている。◇言い換えるならば、山下達郎の音楽がもっともカッコよかったのは、80年代に竹内まりやと組んで以降のものではなく、70年代に大貫妙子や吉田美奈子と組んでいた時期のものであり、結婚して所帯じみた達郎の音楽はかえってつまらなくなった。…ってのが、世界の音楽ファンの、ほぼ共通の認識だろうと思う。達郎自身が、「売れるようになってはじめて本当に作りたいものが作れるようになった」と、本心で思ってるのかは知りませんが、多くの音楽ファンはむしろ、売れてなかったころの達郎のほうが、よほどカッコよかったのに …と思っているわけです。◇皮肉なことに、今回の件で山下達郎のことを擁護しているのは、じつは達郎のことなどよく知らないジャニヲタみたいな人たちばかり。昔ながらのファンは、むしろ今回のような達郎の立場にうんざりしている。それは今に始まったことではないからです。すでにSMAP解散のときにも、竹内まりやと工藤静香とメリー喜多川の蜜月ぶりが報道されていた。先日のNHK-FMの「山下達郎三昧」でも、(ジャニー喜多川の性虐待問題が取り沙汰されている真っ最中だというのに!)露骨なまでに「ジャニーズ推し」の態度を示し、いかにジャニタレの面々と私的に交流しているかを吹聴していました。また、達郎は、かねてからNHKのことを、皮肉を込めて「某国営放送」などと言ってきたわけですが、最近では、その「某国営放送」が、なぜか山下夫妻の作品プロモーションのために、大々的なキャンペーンをおこなうようにもなっていました。その露骨さも、かなり醜悪だったのです。◇◇◇ついに山下達郎は晩節を汚しましたが、それは今に始まったことではなく、80年代に竹内まりやと家庭をもったときから、すでに始まっていたことなのだ、といえます。なので、いまさら達郎がジャニーズ批判をするとは思えないし、まして関係を断ち切るとも思えない。はっきりいえば、山下家は、ジャニーズで飯を食ってきたのであり、一蓮托生なのです。むしろ、現在の達郎の立場は、「ジャニーズとその周辺の仲間たちを守らねばならない」ということなのだろうと思います。◇実際のところ、性犯罪の加害者は死んでいるわけだし、ジャニーズのタレントたちは被害者でもあるわけなので、「ジャニーズ叩き」をすることが絶対的正義とは言えない面もあるし、すべての業界人がジャニーズとの関係を断つべきとも思わないし、今後も山下夫妻がジャニーズと仕事をしたって構わないとは思う。それによって夫妻の晩節が汚れるのだとしても、もはや彼らはジャニーズと一蓮托生なのだから、ある意味では身から出たサビであって当然の帰結なのです。ジャニー喜多川も大いに晩節を汚しましたが、山下達郎が晩節を汚すのも必然的であって避けようがない。◇今回の件は、小山田圭吾が国家に擦り寄って墓穴を掘ったのにも似ているし、キムタクがジャニーズに擦り寄って墓穴を掘ったのにも似ています。しかし、山下達郎の場合は、(いまもなお十分に演奏ができるとはいえ)音楽家としてのピークはとっくの昔の70年代に過ぎているのだし、もう晩節ぐらいは汚したって屁でもないでしょう。それに対して、松尾潔の場合は、まだまだこれから先の音楽人生がありますから、ジャニーズとの関係を断ち切るのが賢明な判断だと思います。実際のところ、松尾潔がスマイルカンパニーを離れるといっても、達郎への尊敬の念というのは変わらないのだろうし、両者の個人的な関係が切れるわけでもない気はします。達郎がジャニーズとの関係を切れない立場にあり、松尾がジャニーズから離れねばならない立場にあることを、お互いに承知した上での、それぞれの身の振り方とも見える。◇わたし自身、作品そのものには罪がないと考える主義なので、今後も達郎の昔の演奏を聴き続けるつもりだし、性犯罪者がプロデュースしたジャニーズの音楽も聴くだろうし、もちろんNHKの松潤大河も見続けるつもりだし、さらには、好みと気分に応じて、ウンコを食わせた小山田圭吾の音楽を聴くこともあろうし、人を殺したフィル・スペクターの音楽だって聴くと思う。◇それに対して、正直、松尾潔の音楽はさほど趣味に合わないので、あまり聴くことがないだろうとは思っています。しかし、だからといって、ジャニーズの性犯罪の問題にメスを入れなくていいという話にはならない。最初にも述べたように、今回の件にかんしていえば、わたしは松尾潔の姿勢を支持します。繰り返しますが、山下夫妻の晩節が汚れたのは当然の報いです。◇◇◇そして、最終的な批判の矛先になるべきは、ジャニーズとその関係企業のガバナンスの問題ですよね。義理人情的な結びつきばかりを重視して、「都合の悪いものは排除する」という内向きの発想が、SMAP解散とジャニーズ帝国崩壊の発端になったわけですが、今回もやはり、「都合の悪いものは排除する」という姿勢を繰り返すことで、またしても企業イメージを悪化させてしまっています。表向きは、社外取締役を迎えるだの、経営体制を見直すだのと言いながら、ちっとも体質が変わっていない。過去の反省から何も学んでいないことが露呈しています。山下達郎&竹内まりやまでが「老害」と見なされはじめた今、いよいよジャニーズ帝国は崩壊するしかないかもしれません。
2023.07.03
例の「ゴッホの名画にトマトスープ事件」について、経済思想家の斎藤幸平が、なかなかに挑戦的な主張をしています!▼わたしもこういう主張は嫌いじゃない。東洋経済:抗議活動を理解しない日本の欠点しかし、案の定、ヤフーニュースのコメント欄は、反対意見に溢れかえって炎上しています。◇斎藤幸平は、あくまでデモ行為の《非暴力性》を前提に話しているのですが、にもかかわらず、「じゃあデモのためなら暴力を振るってもいいんですか?」みたいな頭の悪そうな意味不明なコメントもかなり多い。やはり、ここには、日本のマジョリティの「民度の低さ」が現れていると思います。◇今回のトマトスープかけが、はたして暴力なのか否かといえば、ゴッホの絵画そのものが無傷であるという意味で、わたしは《非暴力》の範疇にとらえられると思います。もちろん、美術館の備品を汚した点では軽微な暴力ですが、それをいうなら、バンクシーの絵画などはもっと暴力です。無断の落書きなのだから。しかし、いまや日本の馬鹿なマジョリティは、バンクシーに対しては何の文句も言いません。なぜなら「芸術的権威」になってしまったから。馬鹿なマジョリティというのは、弱者を叩くことはあっても権威を叩くことはしません。結局のところ、ただ勝ち馬に乗りたいだけなのです。もし、かりに、バンクシーの絵画と同じように、トマトスープのかかった額縁にも高値がつくようになれば、こういう連中も文句を言わなくなるのでしょう(笑)。◇正義ぶった馬鹿なマジョリティのみなさんは、「ゴッホの芸術になんてことをするんだっっ!」などと怒ったふりをしていますが、じつはゴッホの価値などまったく理解もしてないだろうし、それどころか、ふだんは美術になど何の関心もない人間ほど、ここぞとばかりに叩くことにだけは加わるのですよねえ。それはちょうど、沖縄の基地問題に何の関心もない連中が、「辺野古のデモを嘲笑しようぜ」という目的のためになら、わらわらと集まってくるのによく似ている。環境問題になど何の興味もない人間が、「環境問題を訴えたいのなら、もっと別に方法があるでしょう」などと正論ぶってほざいているに過ぎない。◇そんな卑怯な連中にむかって、「学びなさい」とか「想像しなさい」と言っても無理なのですね。そもそも彼らの本音は、「学びたくもないし、想像したくもない」ということなのだから。「弱者を叩こうぜ」といえば、わらわら集まってくるけれど、「弱者を救いましょう」と呼びかけても、潮が引くように去っていくだけです。弱者のことなど考えたくもない、あわよくば「勝ち組」の側に回れる機会を伺っているにすぎません。いまだ日本の馬鹿なマジョリティの中には「勝ち組/負け組」という発想が根深く残っています。負け組なんぞに加勢するよりも、長いものに巻かれて勝ち組に加わるほうが得策だと思っている。弱者を叩くことで勝ち組気分を味わうためにこそ、「環境問題よりも美術館の備品を守ることのほうが大事!」「美術館という権威的なサロンを尊重するほうが大事!」と徒党を組んでわめいているのです。◇デモというのは、衆目に触れるところでやらなきゃ意味がないわけだけど、こういう連中は、「デモは俺たちの目に入らないところで勝手にやってくれ」というのが本音で、デモが視界に入ると「目障りだ!」と言って叩き始めます。デモの方法論の是非を問う議論や、なんらかの助言などが出てくるならまだしも、こういう連中は、たんにデモ行為を叩いて勝ち誇ることにしか興味がない。◇近・現代の芸術では、社会的なメッセージ性をもった、センセーショナルなパフォーマンスそのものが、それ自体として《芸術的価値》をもつ、ということがあります。バンクシーの場合も、そうです。ゴッホにすら何の興味もなく、たんに尻馬に乗って炎上に加担しているだけの馬鹿なマジョリティに、そんなことは分かりようもないでしょうが、今回の「トマトスープかけ」でさえ、一種の《芸術行為》と見なすことができなくはない。あくまでも《非暴力》が前提ではあるけれど、そうでなければバンクシーの行為を芸術として評価することはできない。◇9.11のテロが起こったとき、音楽家のシュトックハウゼンが、それを「ルシファーの芸術だ」と言って世間の物議を醸しました。実際、ウサマ・ビンラーディンの真の目的が、ツインタワーの破壊や殺人それ自体よりもむしろ、その攻撃と崩壊の映像をメディアによって世界中に発信し、見る者に衝撃を与えることの「効果」のほうにあったのだとすれば、それはセンセーショナルなパフォーマンスだったに違いないし、そこに、ある種の《芸術》としての側面があったことは事実です。しかし、その暴力性を容認することはできない。したがって、デモ行為や芸術パフォーマンスを容認できるか否かは、あくまでも《非暴力性》という枠内に線引きされるのです。そうでなければ「堕天使=悪魔の芸術」になってしまう。◇斎藤幸平は、ダ・ヴィンチの「モナリザ」にスプレーをかけるという、1974年の日本の障害者によるデモ行為に対して、当時の神奈川県立美術館長が出したコメントを紹介しています。礼節のない人たちですねえ。主張があるなら訴える方法はいくらでもあるのに、すぐ直接行動に出る。精神の「浅さ」を感じさせます。精神が浅いのか深いのかはともかく、これはかなり田舎くさいコメントであって、さすがに、今回の英国ナショナルギャラリーは、このような野暮くさい声明は出していません。というのも、今回のような社会的なメッセージ性をもった、センセーショナルなパフォーマンスそのものが、見方を変えれば、ひとつの《芸術表現》であり得るという、近現代美術における批評的な考え方が、美術館の側にも最低限には共有されているからです。美術館というのは、たんに「お宝を飾る場」ではなく、むしろ批評的な表現のぶつかりあうような、社会的でスリリングな場でなくてはならない。そういう認識を、ヨーロッパの美術関係者はもっている。その認識ももたずに芸術を語るなら、かえって「田舎者だ」と嘲笑されてしまうことを、ヨーロッパの美術関係者は分かっています。◇しかしながら、日本の馬鹿なマジョリティはもちろん、日本で美術愛好家なんぞを自称している人間の多くも、いまだ美術館のことを、たんに「お宝を陳列する建物」ぐらいにしか思っていません。だからこそ「お宝を汚してけしからんっっ!!」というような、野暮で田舎くさい議論しか出てこないのです。
2022.11.10
出たよ。テレ朝の「徹子の部屋」で、小雪が脚を組んでいる!!とかいう話。「失礼だっ!」とか、「育ちが悪いっ!」とか、「骨盤が歪むっ!」とかなんとかwバカか。昔もいたのよね。「笑っていいとも」に出演したドリカムの吉田美和が、体を横揺れさせながら話すのはケシカラン!とか言い出す田舎のジジイ。あと、最近だと、上白石萌歌がスピッツに「さん」づけをしなかった!とか言って、ギャーギャー騒ぎ出したツイッターの馬鹿ども。「失礼だっ!」とか、「育ちが悪いっ!」とかなんとか。それをまた、いちいち記事にして、ネットニュースに垂れ流して炎上を煽るアホな記者。そういう連中のことを、わたしは総じて「田舎のバカ」と呼んでいます。要するに、視野が狭いのです。すべての日本人が同じ流儀でなければならない、と信じ込んでいる。◇欧米では女性タレントが脚を組んで話すのは普通のことだし、年上が相手だからへりくだる、という日本的な発想もないし、小雪の場合も、海外での仕事が多かったこともあるし、黒柳徹子のほうも、ニューヨークで暮らした経験があり、海外のセレブと対話する機会も多かった人だから、そんなことは一切気にしていない。昔は、日本の芸能人でも、脚を組んで話す人や、タバコを吸いながら話す人は普通にいました。まだ芸能人が雲の上の存在だった時代には、視聴者のほうも「そういうもんか」と思って見てたんだろうけど、最近は、なまじっかタレントが身近になってしまったので、細かい所作や価値観まで自分たちと同じ水準でなければ気が済まなくなって、ちょっとでも相容れないところが目につくや、例の「共感できない!」というロジックが発動してしまうのですね。これって、今年の「#ちむどんどん反省会」の場合も同じです。ドラマのなかの登場人物たちが、自分たちと同じような価値観や流儀で行動しないと、やれ「共感できない!」と言ってギャーギャー騒ぎ出すのです。◇そして、じつは、これってパワハラのロジックも同じこと。暴力を受けて育ったまま、その狭い視野から抜け出せない人間は、子供や後輩に対しても、暴力を振るうことこそが「しつけ」であり「教育」だ、と信じ込んでしまう。本人にとっては、それが正義なのです。たとえば、「脚を組んで座ってはいけません!」「骨盤が歪みますよ!」などと叱られてきた人たちも、どこの誰でもが自分と同じように叱責されるべきだ、と思い込む。きわめて視野が狭いまま、小姑みたいに目くじらを立てずには気が済まなくなる。その意味で、いまの日本人は、物事の捉え方がいっそう内向きになったと思います。◇欧米の流儀が正しいわけではないけれど、日本の流儀が正しいわけでもない。要するに、世の中には、いろんな流儀の人がいるってことであり、それは日本国内であっても同じで、色んな流儀の人がいるし、色んな価値観の人がいるのです。すべての日本人が同じ流儀で振る舞うべきだというのは、何度も言うように「田舎のバカ」の考え方です。※なお、「スピッツさんのほう聴かせていただきました」とかいうのは、完全にヤンキーの言葉遣いであって、すこしも正しい敬語ではありません。「スピッツの曲を聴きました」が正解。あえて「拝聴いたしました」なんていうのも、場合によっては慇懃無礼です。曲を聴くのは本人の自由なのだし、いちいち相手にへりくだるようなことではない。ちなみに脚が短いとうまく組めないようですね。骨盤以前の問題でした。
2022.11.06
作詞家の秋元康が、名曲「セーラー服を脱がさないで」で紫綬褒章を受章しました。授章理由は、「若年女性の搾取と商品化、あるいは炎上商法によって、 バブル期以降のエンターテイメントビジネスの手法を確立した」ということだと思う。◇国が褒章を与える基準はどこにあるかといえば、これはもう「本人が欲しがるかどうか」に尽きるのですよね。ただ「貰ってくれそうな人にあげる」ということでしかない。たとえば音楽業界でみると、歴代の受章者のなかには、中村八大・永六輔、加藤和彦・北山修、坂本龍一などの名前が見当たりません。彼らは拒否した可能性が高いのですね。おなじく映画業界でみても、溝口健二、黒澤明、今村昌平、新藤兼人、相米慎二、北野武、是枝裕和など、主要なビッグネームがことごとく欠けています。それから漫画業界でみても、手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子不二雄、宮崎駿、押井守の名前がありません。彼らの多くも拒否していると思われます。…さらに、文学界ともなると、もはやショボイ名前しか出てこないわけでwほとんど拒否されているのが分かります。アホヅラさげて褒章なんぞ貰おうものなら、「国に媚びた文学者」だとレッテルを貼られてしまうので、貰うほうが恥ずかしい、という価値観が強いのですよね。◇秋元康の場合は、安倍晋三と昵懇だったこともあるし、自衛隊のプロモーションのためにアイドルを供出した実績もあるので、国としては、あげない理由などありませんでした。また、すでに松本隆が受章している以上、対抗心を燃やしている秋元康が欲しがらないわけもありません。◇そもそも、保守というのは、まったくもって融通無碍なので、国や政権に都合が良ければ、エロでも何でも構わないのですよね。現状をみても、「どんなに貧しくても子作りをやめるな」というのが保守政権の方針ですし、もともと天皇家のルーツとされる日本神話なんかも、ほとんどがポルノの話で出来上がっています。国というのは、べつにエロを否定しないのです。◇もちろんエロはエロでも、「肯定しうるエロ」と「肯定しがたいエロ」はあるはずなのですが、現在の政権や保守論壇には、基準となるべきろくな思想が見当たりません。今回の授章で、「国は意外にリベラルなんだな」という印象がさらに強まったかもしれませんが、融通無碍な国家権力は "悪いリベラル" に堕しがち…という実例でもある。
2022.04.28
日本人ってバカなの?もしかして2年おき?!まいどまいど選ぶ意味あります?金金金金このペラッペラな漢字文化。これじゃキラキラネームも蔓延しますよね。
2021.12.14
スカパラはないわー。恥ずかしい内輪ノリにもほどがある。スカパラで7曲はやめてほしかった…。恥ずかしいを通りこして、惨めで悲しい。37°Cの猛暑だというのに、悲しすぎて寒かったです。見終わったときは、気力を奪われて立ち上がれなかった。ほとんど国民的なトラウマといっていい。こんなことなら、小山田圭吾を呼び戻して、フリッパーズを再結成させたほうが、どんなにかマシだった。人間的な品性はともかく、音楽的な水準において、海外にお見せ出来るレベルのものと、そうでないものがある。◇そもそもスカパラって、ギャグでしょ。せいぜい20秒ぐらい演奏させて、「アハハ!なんちゃって!」で終わらせるべきものだし、あとは他の音楽と適当なパッチワークにして、笑って誤魔化せば事足りるような代物です。ジャズでもなければ、スカでもない。あんなに下手糞なジャズバンドは国内にもそうそうないし、本場のジャマイカの音楽とは似ても似つかないし、要するに、まがいものです。「東京のポップカルチャーなんて所詮はまがいもの」といえば、たしかにそうなのだけれど、まがいものなら、まがいものなりに扱わなければならない。そうでないと、本気で世界からバカだと思われる。◇たとえば、1964年のオリンピックのときに、東京ビートルズに7曲も演奏させようと考える人がいましたか?いませんよ!だって、あれはギャグだもの。まがいものだもの。まがいものなら、まがいものとして相対化しなくてはいけない。たんに「東京」を冠しているというシャレで終わらせるべきです。そもそもスカパラは、新しい音楽でもないし、国民的な音楽でもありません。日本人だって、ほとんど聴いていない。ただ渋谷系をファッションとして消費した一部の音楽オンチが、へんな勘違いで聴いていただけの音楽にすぎません。◇伝統芸能やハイカルチャーに織り交ぜて、通俗的なポップカルチャーも紹介しようという考えは、けっして間違いだとは思わないし、それもアリだと思うけど、 かりにそうだとしても、スカパラだけで7曲はないわー…。あまりに情けなくて、終わった後にグッタリした。「あの安っぽいジャズバンドみたいのは何?」 「あれが日本じゃ人気なわけ?」「あれをスカだと思ってるのかしら?笑」「日本人ってギャグと本物の区別がつかないのね」もしくは、「( ゚д゚)ポカーン。何の時間?何やってんの?」としかならないでしょう。◇たしかに現在の東京には、いかにも「東京」らしいポップカルチャーがないから、 30年前の渋谷系をもってくるという発想は、仕方のないものだったかもしれないけど、だからといって「渋谷系」なら何でもいいというわけじゃない。ピチカートファイヴやフリッパーズを再結成させるならともかく、スカパラはないわー。スカパラだけで7曲はないわー。あんなチープな渋谷文化をさらすくらいなら、いっそ大野雄二に「ルパン三世」でもやってもらって、 アルセーヌ・ルパンにフランス国旗を返すほうが100万倍もマシだったよ。大野雄二のバンドで「上を向いて歩こう」なら何とかなったと思うけど、スカパラで坂本九はないわー。ほとんど日本文化に対する自虐。悲しくてやりきれない。◇今回の閉会式は、全体的に、演出の意図がよく分からなかったのです。宮沢賢治や、小津安二郎や、古関裕而や、武満徹や、ピチカートファイヴをもってくるのが、けっして悪いわけではない。しかし、その文脈が分からない。武満徹の「波の盆」を追悼のために使ったのは理解できるけど、小津安二郎を日の丸に結びつける意図は分からない。 古関裕而の古臭い音楽は、あくまでも「古臭い音楽」として相対化すべきであって、まともに現在の行進曲として使ったらズッコケるでしょ。ピチカートファイヴをラウンジ音楽みたいに流すのも、なんだかセンスがずれていて、うすら寒いだけ。 復興五輪の「ふ」の字もないのに、唐突に宮沢賢治の歌を歌っても、海外の人には伝わらないし、東北から見ても、いまさら「何のこっちゃ」でしかない。そして、極めつけは、本来なら「ギャグ」として扱うべきスカパラの音楽を、まるで「本物」のポップカルチャーのように扱ったことです。◇国際的な感覚をもっていなければ、自分の国を誇ることはできません。国際感覚のない内向きのナショナリストが、むやみやたらと自分の国を誇ってみても. かえって自虐になるのが関の山。そもそも今回の五輪は、あまりにも国家主義的な傾向が強すぎました。石原慎太郎や、森喜朗や、安倍晋三や、竹田恒和なんかが前に出てきて、お山の大将みたいなナショナリズムだけを振りかざした。本人たちは誇らしいつもりでも、外から見ればじつに恥ずかしい。国民的なトラウマを積み足すことにしかならない。そのうえ、世界的に知られた芸術家はリベラルな立場の人が多いから、国家主義的な色合いが強まれば強まるほど、すぐれたアーティストたちの協力は得られなくなる。坂本龍一も、細野晴臣も、是枝裕和も、濱口竜介も、新海誠も、宮崎駿も、あまりに国家主義むきだしのイベントからは距離をとる。そういう人たちが参加しない時点で、海外向けにアピールできる要素は少ないし、制約が大きい。結果的には、馬鹿なナショナリストたちの自画自賛大会になって、とんでもなくこっ恥ずかしい自虐イベントになってしまう。文化の低さと、民度の低さと、政治レベルの低さをひたすら世界にさらす。◇今後はおそらく、スポーツ選手だって、国家の思い通りには使えなくなります。いままでは、各協会をとおした体育会的な上下関係をふりかざして、スポーツ選手を国家のために利用することが出来ただろうけど、今後はそう簡単ではなくなる。自立した考えをもった選手が増えれば増えるほど、国家の道具として利用することは難しくなるはずです。だからこそ、国家のほうが変わらなければならない。そのためにも、旧世代の年寄りは早く死ななければなりません。そうでなければ、この国はいつまでたっても変わらない。
2021.08.10
小山田圭吾が、25年も前の発言や、35年も前の行為について、世界中から非難を浴びているのは、いわば#MeToo運動と同様の現象であり、わたしは、それは当然の報いだと思う。◇ただ、私自身は、彼の「いじめ自慢」の件をけっこう昔から知っていて、ろくでもない奴だなア…と思っていたし、本人が反省しているかどうかも知るよしはなかったけど、だからといって、とくにコーネリアスの作品を忌避することはなく、ことさらファンというほどではないけれど、わりと面白く聴いていた、という面もある。それは、たぶん、今後も変わらないし、それはべつに小山田圭吾の人間性を支持するということではない。たとえ作者が鬼畜のような人間だとしても、その音楽を聴くこと自体は罪ではない。◇たとえば、フィル・スペクターは人殺しでしたが、わたしも、たまには、彼の音楽が聴きたくなることがあって、その音楽を聴いているときには、フィル・スペクターが人殺しだったことは意識しません。若い世代の人ならば、それを「呪われた音楽」とも思うかもしれませんが、もはや昭和世代の人間にとっては、耳馴染みの音楽であって、さほどの気にもなりません。おそらくロック好きのなかには、毎年クリスマスに人殺しの音楽を聴いてる人もいるでしょう(笑)。※わたしの場合はそれはない。かりに、わたしが、フィル・スペクターの音楽を楽しむことがあるからといって、その人間性を支持するつもりはまったくないし、むしろ人殺しが断罪されるのは、ごく当然の話であって、そのことについては、何らの矛盾も疑問も感じません。◇世間には、「鬼畜のような人間の音楽など聴くべきでない」と考える人もいるようだし、逆に、「優れた才能なのだから過去の罪も許すべきだ」と考える人もいるようですが、わたしはそのどちらにも与しない。なぜ、才能への評価と、人間性への評価を、わざわざ連動させる必要があるのか。むしろ、そのことのほうが、わたしには分からない。◇たとえ人間的に鬼畜同然だとしても、作品が素晴らしいということはあり得るし、その作品を鑑賞することが罪なわけでもない。逆に、いくら作品が素晴らしくても、外道のような人間ならば、断罪されるのもまた当然の話で、それは、まったく別次元のことです。作品への評価と、人間性への評価を、あくまで両立させなければ気が済まないという考えは、幼稚でナイーヴで短絡的というだけでなく、ほとんど滑稽であり、あるいは異様だとさえ思います。◇コーネリアスについては、公的なイベントや、公共放送であるNHKなどでの活動は、制限されて仕方のないことだろうと感じますし、過去の非道な行為とその自慢についても、この先ずっと非難が絶えることはなかろうし、その非難を甘んじて受けるのが当然だと思うけれど、かといって、作品の制作や発表の場が失われるわけでもなく、それを聴く人も、わたしを含めて、いくらでもいるでしょう。彼の音楽を聴くことは、その過去の鬼畜行為を容認することとは全く別次元の話です。かりに実刑を受けるほどの犯罪人であったとしても、作品を発表することは十分に可能なのだし、一般の人がそれを鑑賞することもできます。そのことに何ら倫理的な問題はありません。◇わたしは、ベルトルッチの映画が大好きだけれど、彼がどんな人間だったかということはとくに考えないし、もしかすると、ろくでもない奴だったのかもしれない、という見方を排除しようとも思わない。かりにそうだったとしても、好きな映画についての評価まで変えようとは思わないし、それは今後も変わりませんし、そのことについて疑問をもつ必要すらも感じません。ロマン・ポランスキーの映画や、ウディ・アレンの映画だって、今後も見たいと思うけれど、そのことで彼らの人間性までをも容認しようとは思いません。まあ、荒木経惟の写真にかんしては、もともと好きでもないので、とくに見たいとは思いませんが(笑)。
2021.07.22
小山田圭吾が、オリンピックの音楽担当を辞任しました。彼のいわゆる「いじめ自慢」の外道っぷりについては、わたしも昔から知っていましたが、すでに彼は、このことで何度も炎上していたわけだし、この問題の及ぼす影響については十分に自覚していたはずです。そもそも、こんな国家的なイベントに何の躊躇もなく協力して、みすみす墓穴を掘ったのだとしたら、ただのバカですよね(笑)。今回の開会式への彼の起用は、グラミー賞ノミネートなどの国際的評価のみならず、これまでのNHKへの功績が反映された結果でもあるでしょうが、FMやEテレでの細々とした仕事から、国家の威信をかけた大イベントまでには、かなりの飛躍があるわけだし、その飛躍に対して何の慎重さもなかったとしたらバカすぎます。そして、まさかとは思うけど、椎名林檎にせよ、小山田圭吾にせよ、国家に協力することがアーティストとしての美徳とは思ってなかろうし、国家的イベントへの参加で自分の業績に箔がつくとは思ってなかろうし、国家寄りになることで自分の立場が有利になるとも思ってないでしょう。表現者にとって、国家との関係は、たいていは面倒な足枷になるはずです。好きこのんで自分に足枷をはめる馬鹿なアーティストがいるでしょうか?もしかすると小山田圭吾の場合は、パラリンピックへの協力こそが、過去の障害者いじめに対する罪滅ぼしと思っていた可能性もなくはないけど、個人の贖罪のために国家イベントを利用するという発想は、安易にすぎます。◇では、なぜ、小山田圭吾は、わざわざ国家的なイベントなんぞに参加して、これほどまでの大炎上をみずから招く必要があったのか。わたしは、これはおそらく確信犯なのだろうと思います。つまり、彼は、このような大炎上をあらかじめ予測したうえで、オリンピックへの文化的なテロリズムを仕掛けたのでしょう。それは障害者いじめと同様の、利己的かつ愉快犯的な行為です。それ自体が、彼にとっては最高に芸術的な表現だったと言ってもいい。さすがに未遂で終わりましたが、東京五輪に深刻なダメージを与える国際スキャンダルに発展しました。◇今回の騒動で、音楽家としての彼自身にダメージがあるのかといえば、かならずしもそうとは言えません。もともとコーネリアスの音楽は、国内の大衆的な支持によって成り立っていたのではなく、むしろ海外のイカれた好事家の支持で成り立ってきたからです。今回の報道によって、「最高に最低なゲス野郎」としてのイメージが世界に広まれば、それがかえって好事家たちを喜ばせ、箔がつく可能性さえあります。コーネリアス自身も、そのことをしたたかに計算しているはずです。そうでもなければ、ただの「頭の悪いアート野郎」でしかない。彼は、このたび、反省文だか謝罪文だかを記して世間に公表しましたが、到底、あんなものを真面目に書いているとは信じられません。きっと適当な人間に適当なことを書かせて、裏でケタケタ笑っていると考えるほうが妥当でしょう。さすがに今後はNHKでの仕事がなくなるはずですが、それは彼にオリンピックの仕事を回したNHK側の愚しさの結果であり、おそらく小山田圭吾自身は、NHKでもオリンピックでも真面目に仕事をする気などないのでしょう。そうでなければ、バカすぎます。◇もともとオリンピックは、国際主義と世界平和を理念に掲げており、その根底には《人間主義》そして《反国家主義》があります。いわば「左寄り」のイベントとして始まったといえます。しかし、20世紀のオリンピックが、しだいに国威発揚のためのイベントに変貌し、どんどん右寄りになり、全体主義に陥れば陥るほど、アンチヒューマニズムの要素が強まってきました。スポーツ選手のみならず、あらゆる文化人までもが、国家のための道具になっていった。その極めつけが、1936年のナチス政権下におけるベルリンオリンピックでした。三島由紀夫も、寺山修司も、アドルフ・ヒットラーを熱狂的に信奉していました。石原慎太郎も、その系譜に属しています。けれど、さすがに彼らが1964年の東京オリンピックに参加することはなかった。国家の側も、それを許さなかったでしょう。戦後の日本が、ファシズム色を前面に出すことはできなかったからです。そもそも、文学であれ、音楽であれ、スポーツであれ、自分自身の表現を志す者であるならば、国家だのヒューマニズムだのに義理立てする必要などありません。その思想の左右にかかわらず、たんに都合よく利用できるかぎりにおいて、国家やヒューマニズムを利用すればいいだけのことです。◇やがて冷戦が終わり、椎名林檎や小山田圭吾のような世代になると、表現の立脚点はますます混沌として曖昧になり、もはや右も左もなく、傍目からは何を考えているのかも分からなくなります。ときに人を喰ったような作品を発表したかと思えば、しかつめらしく社会的な作品にも参加したりするからです。日本のサブカルチャーの起源のひとつが、60年代のアングラ文化と反ヒューマニズムにあるのは自明ですが、90年代のサブカルチャーの場合は、冷戦後の高度資本主義における《勝ち組》の表現に結びつきました。イデオロギーの左右よりも、勝ち負けが重視される時代になった。いわゆる渋谷系も、露骨なまでの勝ち組文化だったのですが、彼らを支え続けていたのは「勝ち組は勝ち続ける」という信念です。悪びれることもなく「いじめ自慢」が可能だったのはそのためであり、その信念は、いまもなお生きているのです。たとえロマン・ポランスキーやウディ・アレンが、#MeToo運動で映画界から追放される様子を見ても、あるいはアラーキーが日本の写真業界で弾劾されるのを見ても、まだまだ「勝ち組こそが勝ち続ける」という彼らの信念は変わらない。◇小山田圭吾がオリ・パラで披露するはずだった音楽とは、いったいどんなものだったのでしょうか?おそらく彼の表現の根底にあるのは、 右も左もぶっとばせ! ヒューマニズムなんか糞くらえ! 身障者なんか死んじまえ!のような思想だったといえるでしょう。もしかすると、多くの人はそのことに気づかぬまま、その開会式の音楽は、同時生中継で全世界に発信されていたかもしれないし、今のところは同和問題で及び腰の「皆さまのNHK」でさえ、総力を挙げてそれを日本の全国民にむけて伝えつづけたかもしれません。しかし、じつのところ、それはオリンピックの孕む本質的な矛盾を剥き出しにし、日本という国家をも壮大に脱臼させる過激なテロ表現だったはずであり、裏を返せば、世界のイカれた好事家たちに、「最高だぜええええ!!!」との雄叫びをあげさせるようなものだったはずです。これが実現していれば、大友克洋が40年前に予言していた未来よりも、さらにクレイジーな状況になっていたかもしれません。かろうじて未遂に終わったとはいえ、すでに TOKYO2020 のみならず、オリンピックそのものを終焉させるに十分な醜聞になりました。◇もともと小山田圭吾による「障害者いじめ」は、TOKYO2020 の本質に触れる要素をもっていたと言うべきです。じつはオリ・パラを東京に誘致した石原慎太郎も、相模原の障害者殺傷事件が起こったあと、犯人である植松聖の差別的な「思想」に共感を示していたからです。石原慎太郎は、次のように述べています。 この間の、障害者を19人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味で分かるんですよ。昔、僕がドイツに行った時、友人がある中年の医者を紹介してくれた。彼の父親が、ヒトラーのもとで何十万という精神病患者や同性愛者を殺す指揮をとった。それを非常にその男は自負して、「父親はいいことをしたと思います。石原さん、これから向こう二百年の間、ドイツ民族に変質者は出ません」と言った。殺す人間よりも殺される人間を「変質者」とみなす思想の持ち主が、よりによってオリンピック・パラリンピックを日本へ誘致したところに、そもそもの尋常ならざる矛盾があったというべきですが、さらに輪をかけるように、その開会式で音楽を担当するのが、かねてより「鬼畜イジメ人間」として知られた小山田圭吾とは、あまりにも話が出来すぎていました。つまり、これはもともと TOKYO2020 の本質なのです。すでに「復興五輪」だの「アスリートファースト」だのの大義名分が、まったくの嘘・デタラメだったことは周知の事実になっています。むしろ TOKYO2020 は、《勝ち組の勝ち組による勝ち組のためのイベント》として計画されたのです。おそらく小山田圭吾が企んだのは、そのことをみずから暴きたてるような、とことん愉快犯的な文化テロリズムだったのでしょう。◇小山田圭吾の企みが未遂に終わったのを受けて、ネット上には「無音で開会式をやる」という案も出ているようです。わたしは、このアイディアが意外に悪くないと感じます。ここまできたら、開会式での「沈黙」こそが、唯一の倫理的な演出に思えるからです。差別主義の本家
2021.07.20
しばしば話題になりますが、シンプルに「~いたします」と言えばいいものを、わざわざ「~させていただきます」と言いたがる人たち。おそらく、まどろっこしい言い回しをすればするほど、いかにも敬語を使ったような気分になれるのでしょう。◇この「させていただきます」という用法の起源は、「仁義切らせてもらいます」「ケジメつけさせてもらいます」などのヤクザ言葉です。無理やり相手から許可を取りつける言いがかりであり、もともと圧があって強制感もあります。このような言い回しを、「歌わせていただきます」などの形でメディアに広めたのは、バブル期にヤクザと癒着した演歌歌手でした。◇インテリの場合は、こうした過剰な敬語に対して、「慇懃無礼」という判断もはたらくのですが、ヤンキー層にはそのような概念がないので、いわば"無限慇懃地獄"へと陥るのです。「相手より低く頭下げたほうが勝ち」みたいな土下座文化と同じで、「相手よりもまどろっこしい言い方をしたほうが勝ち」という馬鹿げた美学へと陥ります。もともとヤンキーや右翼の文化においては、「あらせられる」「なさっておられる」「させていただく」のようなゴテゴテとした印象の敬語が好まれ、「いらっしゃる」のような柔らかい敬語は好まれません。これは、たとえば「よろしく」を「夜露死苦」と書いて、ある種の凄みを持たせたいという発想と同じで、実際の意味よりも「なんか凄そう」という語感こそが、優先されてしまう結果として出てくるものです。◇◇余談ですが、わたしは、「お亡くなりになりました」とか、「お聴きいただきます」とかいう言い方も大嫌い。おナくナりにナりました…おキキいただキます…この言い方、じつはNHKでもよく聞きます。前者は「ナ」が3回、後者は「キ」が3回も入ります。なんでわざわざそんな言い方をするんでしょう?!やはり、面倒な言い回しをすればするほど、さも「敬語を使った」という気分になれるからだと思います。前者は「亡くなりました」で十分だし、百歩譲って「亡くなられました」が限界。後者は「聴いてください」「○○です。どうぞ」と言えばいいのだし、たとえば「お送りします」や「おかけします」でも十分すぎるくらいです。◇そもそも現代の日本は、目上も目下もない平等社会という建前なのだから、「尊敬」だの「謙譲」だのという差別的な語法は廃止して、すべて丁寧語だけに統一すればいいのですよね。どうせ、国民の大半は、その違いすら正しく理解できていないのだし。
2021.04.14
京都の清水寺で「今年の漢字」が選ばれました。正直いって、毎年つまらないですよね。オリンピックがあるたびに「金」だとか、戦争が起こるたびに「戦」だとか。なんの芸もないし、なんの驚きもないわけで。漢字の奥深さに対する発見もないし、時代の変化に対する洞察も感じられません。ただデカく書いてみただけ。◇というのも、これは一般の公募で選ばれているためですね。そもそも一般の人たちは、漢字についての知識が乏しいし、はなからたいした漢字を選べるわけがない。メディアで多く見かけた漢字を選んでいるだけです。わざわざ公募するまでもなく、新聞や雑誌の記事のなかから、今年を特徴づけるような漢字を、コンピュータで割り出せば済む話なのですよね。◇どうせ漢字を選ぶというのなら、やはり学者とか、僧職の方々とか、漢字検定協会の人とか、それなりの専門家が知見を結集して決めてほしい。ありきたりの漢字じゃなく、もっと時代の深部をえぐるような、思わず唸ってしまうような一字を選んでほしいものです。中国や韓国が漢字を放棄した現代となっては、日本だけが唯一「漢字」の国なのだから。◇ちなみに、今年の漢字に選ばれた「密」という字は、それなりに時代を反映してはいるけれど、やはり「メディアで多く見かけた」というだけの話。しかも、今年は「密を避けるべき年」だったのだから、けっして「密の年」だったわけではありません(笑)。そこらへんにも誤解の余地があって、違和感を覚えます。むしろ「禍の年」「疫の年」だったというほうが正しいし、疫神という意味でなら「鬼の年」だったというべきですね。
2020.12.15
松本人志とつるんでいるらしい高須クリニックは、自殺した少女に対して「死んだら負け」と言った松本に同調し、「強くなれということだ」などと言って、社会的強者の立場を代弁しました。彼らから見れば、弱者の訴えはたんなる「甘え」に見えるのでしょう。しかしながら、むしろ「甘え」があるのは、彼らのほうなのです。◇そもそも社会的強者とは、かならずしも能力の高い人間のことではありません。むしろ、その多くは、たんに威圧的な人間だったり、たんに世渡りに長けただけの姑息な人間であったりします。とりわけバブル時代には、たやすく大金を稼いだことによって、金の力だけで社会的強者たりえた人間が大量に発生しました。なかには、ほとんどヤンキーまがいの人間も少なくありませんでした。そして、バブル以降の日本社会は、そうした連中が横暴に振舞うことを許してしまいました。◇彼らは弱者に対して横暴に振舞いながら、「甘えるな。悔しかった強くなれ」などと言います。しかし、それこそが彼らにとって都合のいい論理なのです。松本人志に代表される吉本興業の芸風は、こうしたバブルの風潮に順じた「イジメ芸」でした。いわば、不器用な弱者を嘲けることの笑いです。そのようにイジメを正当化するようなパフォーマンスが、さらに「社会的強者」たちの横暴を勢いづかせました。◇こうした「社会的強者」たちの横暴は、平成期に多くの弱者をはじき出し、大量の引きこもりや、鬱病患者や、自殺者を生みました。本当に能力のある人々までもはじき出されました。そんな社会が、いったい、どうやって発展できるでしょうか?「失われた10年」は、気づいたら「失われた30年」になっていました。横暴な社会的強者たちの「甘え」をこれ以上放置してはいけません。◇社会的強者になったら、弱者に対するいかなる横暴も許されるだろうという身勝手な「甘え」。パワハラは、そうした発想から生まれています。彼らの「甘え」を、これ以上許してはいけません。
2019.07.25
昔の日本にも、自殺する人は沢山いたけれど、「まあ死んでしまう人もいるんだな」というだけで済ませていたし、いちいち、その原因を問うたりはしなかった。いちいち死ぬ人たちにまで想像力や関心を向ける風潮はありませんでした。まさしく「死んだら負け」だったのだと思う。◇しかし、時代は変わりました。なぜ変わったのか。それは、多くの人にとって「自殺」が他人事ではなくなってしまったからです。現在、日テレで放送中のドラマ「獣になれない私たち」には、新垣結衣が衝動的に線路へ吸い込まれそうになるシーンがありましたが、ああいった場面が、もはや誰にとっても他人事ではなくなってしまった。実際、自殺は、たんに死んでしまう本人自身の問題ではなく、調べてみれば、そこには、いじめや、虐待や、パワハラなど外的な要因が存在することを、社会全体が認識するようになってきた。それが現在の時代的な状況だといえます。◇そうした中で飛び出したのが、今回の松本人志の発言です。この「死んだら負け」という発言には、大きく3つの文脈的な問題があると思います。◎第1点百歩ゆずって、生きている人に向かって「死んだら負け」とエールを送るのなら、まあ、理解できなくもないのですが、現に死んでしまった人に向かって、あえて《負け》のレッテルを張る、という文脈上の問題。◎第2点今回の件では、パワハラの背景が疑われています。もちろん、全ての事例に同じ図式を当て嵌めることはできません。ほんとうにパワハラがあったのかどうか。ほんとうに加害者は存在したのかどうか。ほんとうの加害者とは誰だったのか。それは、個々の事例を調べてみなければわからないことです。しかしながら、そうであればこそ、こうした個別の事例を丹念に検証する作業が必要なわけで、それを、たんに死者の《負け》の問題に還元してしまうことは、問題の本質から目をそらす結果になりかねない。たとえ生きている人に対してであれ、パワハラに耐えたことを《勝ち》と称賛し、パワハラから逃げることを《負け》と見なすような発想は、社会に蔓延するパワハラの構造そのものを容認する文脈に転化しかねません。◎第3点松本人志の社会的地位という視点から見ると、現在の彼は、あきらかにパワハラを受ける側ではなく、どちらかといえばパワハラを行なう側に立っているだろうといえます。そういう人間が、パワハラに屈することを《負け》と見なすのは、いわばパワハラを生き抜いてきた人間の「勝者の論理」として機能しかねない。のみならず、それは、さらにパワハラを再生産することの正当化の論理にさえ転化しかねない。そういう文脈上の問題があります。事実、近年の松本人志には、かなり「権力側に擦り寄っている」との批判があるからです。◇冒頭に書いたとおり、自殺者を《敗北者》として片付ける発想は、すでに過去の時代のものです。もちろん、むやみに自殺者を称揚して、模倣死を促すべきだとは思いません。しかし、だからといって、多くの人を死に追いやっている社会的構造を容認するのでは本末転倒。重要なことは、自殺者を称揚することではなく、自殺に追い込んだ外的要因を追及することです。◇現代では、自殺をたんに個人の問題に還元するのではなく、社会的な問題として考えていくべきだという見方が主流です。それは、ひとつの進歩なのだと思う。ところが、松本人志は、あえて時代に逆行する立場を表明している。いわば、彼は旧世代を代表する人間になってきている。パワハラやセクハラの主要な加害者層でもあり、例の「新潮45」のようなネトウヨ雑誌などを愛読しながら、自分たちの過去の歩みを自己弁護したくてたまらないそういうオヤジ世代の代弁者になりつつある、ということかと思います。まさしく「新潮45」がそうだったように、そこにこそ、オヤジ向けの大きな市場が存在するということを、松本人志は、戦略的に狙っているのかもしれませんが、わたしは、そうした様子を見るにつけ、芸人としての松本人志が老衰していく現場を見ている気がしてなりません。
2018.11.04
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