まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2022.08.31
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カテゴリ: 東宝シンデレラ
今日で8月も終わりってことで、
adieuの新曲「夏の限り」についての考察です。

作詞・作曲は「灯台より」と同じ柴田聡子。
歌詞には「あなた」や「わたし」や「海」が出てくるので、
やはり前作との関連をうかがわせますね。

ただし、ミュージックビデオのほうは、
岩田紗羅のイラストによるアニメーションではなく、
鳥畑恵美莉による実写映像になっている。

アレンジはいつものとおりYaffleですが、

ジョン・レノンの「Oh My Love」や「Love」でした。


歌詞の内容は、
夏の終わりを描いているように思えます。

夏の終わりといえば…

adieuは、
直近に出演したNHKの『The Covers』で、
ユーミンの「Hello, my friend」を歌っていたので、
おのずとその印象にも重なります。


しかしっ!


こちらのツイートを見たら、
むしろ「やさしさに包まれたなら」との関連が指摘されている。


桐山もげるさんのツイート。この前後のやりとりもあります。


子供のころには見えていたはずの神様が、
いまはもう見えなくなった、…ということですよね。

ミュージックビデオでは、
額ぶちに飾られた真っ白な絵画を見つめています。
子供のころは、そこに描かれていた何かが見えていたのでしょうか?




…そういう夏は
はなしかけても わたしのそばにはもういない

…聞いてみたいけど
あの日のように こたえる夏はもういない

…呼び止める声に
あの日のように ひびく夏はもういない




見えなくなったのは「男の子」「あの子」のようでもあり、
あるいは「夏」そのもののようでもある。

「あなた」というのが何を意味するのかも分かりません。



上掲の桐山もげるさんのツイートによれば、
「夏」が子供時代の暗喩であり、
「あたらしい季節 (=秋) 」が恋の時代の暗喩かもしれない、
とのことですよね。

だとすれば、これはちょっと独特の観念です。
なぜなら、通常は恋の季節をようやく「春」と捉えるのだから。

しかし、実際、
柴田聡子は「若さとはとても大人びた状態」だと述べています。

つまり、
子供時代こそがすでに人生の「夏」であり、
それ以降は、もう「秋」なのかもしれません。



ちなみに、
ユーミンの最初期の作品である「ひこうき雲」は、
まるで亡くなった友人と交信しているような曲です。

同じくユーミンの初期の曲には、
ポカリスエットのCMでも使われている「瞳を閉じて」があります。
♪遠いところへ行った友達  …と歌われているのは、
ふるさとの離島から旅立った友人のことですが、
これも亡くなった友人のことだと解釈できないことはありません。

最初に挙げたジョン・レノンの「Oh My Love」も、
亡くなった子供のことを歌った曲です。(作詞はオノ・ヨーコです)



なお、
Google で「adieu 夏の限り」を検索すると、
YouTube のページが 「The Edge of Summer」 と表記されます


柴田聡子のオフィシャルサイト (英語版) にも同じ表記があります。



注目すべきは、
「限り」の英訳が《end》ではなく《edge》だということ。

というよりも、
《edge》を日本語に訳したのが「限り」なのかもしれません。

おそらく《end》と《edge》とでは少しニュアンスが違う。
たとえば「宇宙には限りがあるかないか」というときの「限り」。
最果ての限界点。「夏の終わり」ではなく「夏の限り」。

わたしは英語が苦手なので自信ありませんが、
「The Edge of Summer」をグーグル翻訳にかけてみると、
意外なことに「夏のはじまり」と訳されます。

つまり、「Edge of ~」というのは、
~の端 はし であり、~の縁 ふち/へり であり、~の際 きわ のことだから、

場合によって、
「はじまり」「入口」と訳す場合もあれば、
「おわり」「出口」と訳す場合もあるのかもしれません。
いずれにしても《季節の変わり目》ということなのでしょう。


夏の《end》ではなく《edge》。

つまり、
ギリギリの所に立っていて、なかなか先に進めない、
という状態でしょうか?
あるいは、ずっと夏にとどまっていたい、…という気持ち。



柴田聡子が作詞・作曲した「ナイスポーズ」という曲にも、
同じように「やさしさに包まれたなら」との類比が指摘されているそうです。

♪ぎりぎりで青だった横断歩道を渡らなかった私
…という歌詞も気になりますが、

こちらの考察は桐山もげるさんにお任せします。



さて、
今回の歌詞にも「海」が出てきます。

前作の「灯台より」においては、
この「海」もまた暗喩だったと思います。

そもそも、
札幌出身の柴田聡子にとって、
海は、かなずしも美しくて楽しい場所ではなく、
むしろ《畏れるべき場所》であるように見える。

たとえば、こんな歌詞があります。

いつも曇りで断崖絶壁 (佐野岬)
銃、向けられた もうここで終わりか (海へ行こうか)

柴田聡子にとって、
海とは命がけの場所なのです。

灯台もまた、
陸と海との「edge」にあって、ギリギリの所に立っていますよね。
そこには、海への《畏れ》があるように思う。

同じように、
夏と秋との「edge」にも、なんらかの《畏れ》があるかもしれません。

夏休みが終わると、命を絶ってしまう子供も少なくない。
そういう繊細で傷つきやすい感覚に寄り添った歌かもしれません。


前作「灯台より」の考察はこちらです
adieu×柴田聡子「灯台より」歌詞を分析・考察。その1
adieu×柴田聡子「灯台より」歌詞を分析・考察。その2
adieu×柴田聡子「灯台より」歌詞を分析・考察。その3

同じく桐山もげるさんの考察はこちら
大好きな柴田聡子さんについて語りたい(9)『灯台より』の歌詞考察








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最終更新日  2024.06.17 13:15:00


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