まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2023.09.22
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朝ドラ「らんまん」第24~25週。

日露戦争あたりから、関東大震災まで、
いっきに20年近くも時代が飛んでしまいました!
※虎鉄と千歳の結婚は明治の終わり(1912年)ごろだったようですが。

沼津の綾の酒造りはどうなったの??



大人になった次女の千鶴は、
デパガとして上野の百貨店で働いてました。
たぶん松坂屋上野店ですね。 ※デパガって死語?

万太郎は、

ついに念願の図鑑発刊か?!という折でしたが…

そこに大地震が。

今年は震災100年の節目でもあるので、
地震の被害を描くことは必須でしたね。
そのために、ドラマでは、
根津の十徳長屋で被災した設定になっている。

印刷屋の親父が「江戸の火消し」だったという設定も、
気性の荒いキャラにするためだけでなく、
このエピソードのための伏線だったのでしょうか?



4年前の大河「いだてん」では、
浅草十二階の倒壊する様子が描かれましたが、


当時の写真や映像を使って、
隅田川の沿岸や上野公園の周囲が、
大規模な火災に襲われる様子も再現していました。

東大の敷地内でも火災があったらしいし、
根津のある文京区は被害が大きかったはずです。



天災だけではなく、
朝鮮人や社会運動家の虐殺に至る人災も描かれました。

万太郎が「根津の十徳 ねずのじっとく 長屋へ」と言って、
自警団の検問を通過する場面もありましたが、
当時は「十円五十銭 じゅうえんごじっせん 」などと発音させて、
日本人を識別していたという話があります。

千葉の福田村では四国(香川)の人も殺害された。


こうした大震災の混乱が、
陸軍憲兵隊や特高警察の台頭をうながして、
まもなく治安維持法制定と軍国主義化につながります。

これまでにも、
早川逸馬、ジョン万次郎、
クララローレンス、広瀬裕一郎をとおして、
人間の「自由」と「融和」を求めてきた作品ですから、
震災を批判的に描くことには集大成としての意味がある。



とはいえ、
この震災がらみのエピソードは、
牧野富太郎の史実とはだいぶ違っています。

たしかに牧野が植物図鑑を刊行するのは、
関東大震災から20年ほど後のことですが、
「震災で原稿も標本も焼けてしまったから」
ということが原因ではないはず。

…というのも、牧野家は、
妻の経営する貸座敷のみならず、
一家の住まいも渋谷へ移転していたので、
地震の被害をほとんど受けませんでした。

新宿・渋谷・池袋は、
地盤が固くて揺れが小さかったのですね。

また、膨大な植物標本も、
すでに池長孟 (永守徹のモデル) に買い取られて、
神戸で保管されていたために無傷でした。
※自宅にも標本があったようです。くわしくは下の「追記と訂正」を参照。



牧野富太郎って運がいいのですね。

あとから考えてみると、
マキシモヴィッチが死んで、
ロシアへ行かなかったのも幸運だったのです。

そうでなければ、
日露戦争の混乱に巻き込まれてたかもしれない。



牧野富太郎は、
自叙伝にこんなことを書いてます。
物騒な話であるが、私はもう一度彼の大正十二年九月一日にあったようなこの前の大地震に出逢って見たいと祈っている。
この地震の時は私は東京渋谷のわが家にいて、その揺っている間は八畳座敷の中央でどんな具合に揺れるか知らんとそれを味わいつつ坐っていて、ただその仕舞際にチョット庭に出たら地震がすんだのでどうも呆気ない気がした。その震い方を味わいつつあった時、家のギシギシ動く騒がしさに気を取られそれを見ていたので、体に感じた肝腎要めの揺れ方がどうも今はっきり記憶していない。何をいえ地が四五寸もの間左右に急激に揺れたからその揺れ方をしっかと覚えていなければならん筈だのに、それを左程覚えていないのがとても残念でたまらない。
それ故もう一度アンナ地震に逢ってその揺れ加減を体験して見たいと思っているが、これは事によるとわが一生のうちにまた出逢わないとも限らないから、そう失望したもんでもあるまい。今頃は相模洋の海底でポツポツその用意に取り掛っているのであろう。
また富士山へもどるが、私はこの富士山がどうか一つ大爆発をやってくれないかと期待している次第だ。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/56695_52793.html

すごい…。
もういちど揺れを経験してみたいとな。

よくいえば好奇心旺盛だけど、
ふつうに考えたら変人です。
やや不謹慎な気もするし。

でも、学者とはそういうものかもしれない。



ただ、
主催していた雑誌が印刷所ごと焼けてしまったらしく、
その教訓が練馬区の大泉へ引っ越すきっかけとなり、
戦時中には山梨へ疎開する判断にもつながった。

なので、
それなりに災害を恐れる気持ちはあったようです。
土佐出身で同郷だった寺田寅彦の記念館の石垣には「天災は忘れられたる頃来る」と彫られた石碑が埋められているが、この字は牧野富太郎の筆によるという。
https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-939


※追記と訂正
関東大震災が起こったとき、すべての植物標本が神戸に保管されていたわけではなく、自宅にも保管されていたようです。詳細がわかりにくいので、関連する記事だけ貼っておきます。

1916年(大正5年)12月、富太郎は生活苦から収集した植物標本10万点を海外の研究所に売ることを決断する。池長孟は父、池長通の遺産の中から3万円で標本を買い取り、改めて富太郎に寄贈しようと申し出た。感激した富太郎はこの申し出を固辞、標本は通が建てた池長会館に所蔵されることになり、会館は池長植物研究所と改称される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/牧野富太郎

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の当時、30万点に及ぶ牧野の植物標本が神戸に保管されていたが、自宅の書斎にも貴重な植物標本は山積みだった。
https://www.kochinews.co.jp/article/detail/682056

長田氏はシナリオハンティング中に受けた驚きを明かした。
「関東大震災の大火災、さらには第2次世界大戦の東京大空襲の間も、40万点という途方もない数の標本を、富太郎さん、ご家族、周りの方々が守り抜いたのだという事実を知って、本当に衝撃的でした」
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/09/25/kiji/20230925s00041000225000c.html

1941年(昭和16年)、池長植物研究所に保存されていた標本は、東京の牧野富太郎のもとへ返されました。
https://www.city.kobe.lg.jp/a09222/kosodate/lifelong/toshokan/furusato/kobe_shiru/makino_tomitaro.html

1951年(昭和26年)、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、朝比奈泰彦科学研究所所長が中心となって「牧野博士標本保存委員会」が組織。文部省から30万円の補助金を得て翌年にかけて標本整理が行われた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/牧野富太郎

牧野富太郎博士没後の1958年、自宅に残された約40万点の未整理状態の植物標本が東京都立大学に寄贈されました。牧野標本館では、20年以上の歳月をかけて整理作業を行い、現在は重複を除く約16万点に加え、新たに収集した標本を合わせて約50万点を所蔵しています。
https://www.tmu.ac.jp/news/topics/35779.html







話は変わりますが、
終盤にきて早川逸馬と再会したこともあり、
ドラマの序盤にジョン万次郎が登場した意味 を、
あらためて思い知らされています。

ジョン万次郎に会ったとき、
シーボルトの日本植物誌を見せられましたが、
万太郎はそれを見て「外国の人には無理じゃ」と思った。

再会を果たした早川逸馬は、
万太郎のつくった植物雑誌を見て、
「シーボルトよりよっぽど立派じゃ!」と言いました。
有言実行が果たされた形ですね。



早川逸馬は、
ジョン万次郎のことを「真の自由を知るお方」だと評した。
そして、ジョン万次郎は、
万太郎に向かって「一生は短い。後悔はせんように」と説いた。

このことが、万太郎や綾の背中を押すことになりました。

史実によると、
こうしたジョン万次郎の思想は、
河田小龍から坂本龍馬にも伝わって影響を与えたらしい。

幼いころの万太郎は、その坂本龍馬にも出会い、
> この世に同じ命らあひとつもない
> みんな自分の務めをもって生まれてくるがじゃき
> さあ望みや!おまんは何がしたいがぜ?

とのメッセージを投げかけられていました。

ジョン万次郎⇒河田小龍⇒坂本龍馬⇒早川逸馬という、
徹底した土佐人脈によって「自由」の重要性が問われていた。



もちろん、
ここらへんのエピソードは、
完全なフィクションだったと思うけれど、

最近になって知ったのは、
矢田部良吉とジョン万次郎 (中浜万次郎) のかかわりです。
これにかんしては史実らしい。
矢田部は一八五一年九月一九日、静岡県韮山に生まれた。父は江戸後期の蘭学者卿雲。中浜万次郎、大鳥圭介等に英学を学び、一八六九年五月開成学校教授試補となる。 翌年外務省文書大令史となり、森有礼の米国行きに随行する。
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005423.pdf

田邊教授は万太郎に、
「君と私は繋がるべくして繋がったのかもしれないな」
と言ってましたが、
この史実を知ったがゆえに、
長田育恵はジョン万次郎を登場させたのかもしれません。



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最終更新日  2023.09.26 13:43:33


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