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とりあえずぼくなりの整理してみた。自分が無意識であれ、差別側に加担していないか胸に手をあてて考えてみよう。今の世界の流れはとても危険だ。ヘイトクライムしかり、過去には同和問題、そして行きすぎた反韓・反中をきっかけにしたレイシズムしかり、そして障がい者など社会的弱者への差別。どこかに責任を押しつけることで、溜飲を下げたり、何かを解決できるという錯覚は、すでにナチスの障がい者虐殺やホローコーストが失敗の典型として学んだずだった。 彼のFBでの“友達”には、かの「美しい日本」への共鳴者たちに偏っていたが、 究極の「美しい社会」を求めたら、無菌室のような社会にたどり着くしかない。それは、自分たちでさえ暮らしにくい社会にほかならない。判断能力の十分にない人たちに対して、第三者が彼らの「生への意思」や「死への意思」を判定することはできない。その第三者である自分でさえ、明日には意思を表明できなくなり、判定される側になるかも知れないのに。生命の「重さ」や「優劣」を科学や何らかの方法で測定できるとしたら、それは生命への「越権行為」である。まずは、自分が誰かに対して優性で生きのびられる存在だと誰が決めるのか。それは自分ではない。自分より優性の誰かによってであろう。Retweeted 寮美千子 (@ryomichico):相模原事件の容疑者が犯行後にTweetしたとされる言葉「世界が平和になりますように。 beautiful Japan!!!!!!」が、安倍首相の「積極的平和主義」「美しい国」に重なって見えて仕方ない。実際、重なっているのだろう。それにしても、明確に予告されているのに、当局はなぜ予防措置がとれなかったのか。
2016.07.27
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神奈川県相模原市での障がい者施設での、元職員によって行われた大量刺殺事件に強い衝撃を受けている。いよいよ日本もこのような事件が起こりうる社会へと移行してしまったのか、と思う。(7/26am10:00現在で)19人もの人命が断たれ26名以上が負傷しているという。事件の詳細についてはまだ断片的にしか解らないので、はっきり語ることはできないが、疑問に感じていることがある。連射式の銃ならともかく、ナイフで数十人の人が殺傷されるのをなぜ阻止できなかったのだろう。もちろん、こんなことが起きることは想定外で予想もできなかったのだろうが、そこまで被害者がでるまで何もできなかったということは、なぜだろう。犯人の男は犯行の後に津久井警察署に出頭してそこで逮捕されている。施設の職員は、取り押さえることもせず、なすがままに放置していたということではないのか。「津久井やまゆり園」は、160名の定員に対して、149人の入所者がいて、24時間態勢で職員が常駐していたということだ。入所者は、約20人で1つの「ユニット」のグループに分かれて、「ユニット」は合わせて8つ。それぞれ、担当の職員が決められていたということだ。職員は、各階の「指導員室」に常駐し、夜間は8人が当直に当たっているほか、警備員1人が管理棟の休憩室にいたという。この規模の施設としては職員の配置数があまりにも少ないと感じるが、それでもこれだけの凶行が行われている間なにも気づかずに放置されていたということは、当直や警備がまったく機能していなかったことになる。ぼくも障がい者施設の管理者という立場だが、常日頃職員に口を酸っぱくするほど言っていることは、利用者の安全確保のためには身を挺してでも行動する心構えをもてということだ。もちろん、他の施設であってもそれは同じであろう。まさか、元職員がこんな大事件を起こすとは予想もつかなかったであろうが、障がい者施設にとって、予測不能な大小の事件は日常茶飯事のことである。予測不能だったでは許されない。以前にも書いたが、ぼくの施設でも元利用者が「施設内で虐待が行われている」と県や市に投書をされて、調査を受けたことがある。それはまったく被害妄想から起きた事実無根の出来事であったが、事情を知らない人から見ればそのようなことが疑われる、あやしい施設という印象がのこってしまう。幸い、当施設ではその後特別な問題らしいことは何も起きていないし、利用者の満足度も高いとの外部から評価によって、あやしい推測は打ち消された。職員は、利用者の安全や命、そして未来を預かっているわけだから、利用者の利益のために勤務すべき責務を深く自覚していたとすれば、なすすべもなく事件を看過してしまったことが信じられない。念のため、この法人の理念、基本方針、職員行動指針を確認してみた。開かれた施設運営を実践しているということで、マニュアルに添った内容は完備されているようだ。年間運営計画に、法人の基本理念や重点目標についても、研修委員会等を月1回開催し、外部及び内部研修のとりまとめを行っている。外部研修参加後は、復命書をファイルに綴じ、いつでも閲覧できるようにしている。法令的にはきちんと満たしている。ただ言えることは、こうしたいわゆるマニュアルもただ壁に貼っておけば、文字通り“壁に描いた餅”だ。最近は、こうした責任逃れの事例がまかり通っているように感じる。昨今、企業などによる福祉事業への参入がすさまじい。さまざまな法律的なハードルがあっても、それらをクリアできれば経営的には安定できる、事業としては安全パイということだろう。だから、利用者への安全基準にしても、書類を揃え、専門職の頭数といった体裁だけ整えれば事足りるといった、メンタルを置き去りにした福祉事業者が少なくないとも感じる。本来、福祉事業は体当たりで取り組む熱意がなくては成り立つものではない。この事件をきっかけに、国や県の指導が厳しさを増してくることだろう。ただ、どんなに厳しい指導がなされても、福祉に対する基本を置き去りにしたマニュアル完備、責任回避をすすめる指導であっては問題は解決しない。ちなみに、障害者健常者にかかわらず、福祉の基本は憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」という理念のうえにある。これをもう少しかみ砕けば、“福祉事業者は障がい者の身になって考え、行動する事。自分がその場に立った身になって考え、行動する事。”これらがベースにあって成り立つべきだと考えるべきだと思う。もちろん理想通りにはいかないことが多い。だから理想を捨てたり曲げたりしてはならないのだ。憲法は、その理想とする目標の先にある。ぼくが憲法にこだわりつづける理由は、9条も大切ではあるがむしろこちらにあるといってよい。http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160726-00000027-nnn-soci
2016.07.26
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わが家の猫、テンという。たしか、1995年平成7年生まれだったから21年ともに生活してきた。おてんばな♀猫で、新築間もない家の建具で爪研ぎをしてどれほど傷つけてくれたことか。 腹が空くと、ぼくの足下に絡みついて何度踏みつけそうになったことか。そのくせ、寝るときにはぼくの布団にはけして寄りつかず、妻のべットが定宿だった。最近は食欲が無く、好物だった刺身もまったく口にせず、離乳食か牛乳しか口にしなかったからやせ細っていた。 認知症気味で、大切な洋服の上や本の上にお漏らしをしてくれた。そして、今日ぼくの後をついて物置に入ってきて、そこでしずかに息絶えた。猫で21歳は大往生ということだろう。大往生といえば、先日亡くなった永六輔さんから一度だけ手紙を貰ったことがある。ぼくの句集『カオス』を読んで、「楽しく読ませて貰いました」とお褒めいただいた。作詞の世界では天才的ともいえる人から、もちろん、社交辞令だったことは十分に承知しているが、お上手であっても有頂天になったものだ。その手紙を探してみた。手紙の山に紛れてしまったのかまだ見つからない。その永さんも逝き、テンも死んでしまった。人間であれ動物であれ、生きているもの同士はいずれ別れがくる。しかしちょっとさびしさがつのる。テンが家に来たばかりのときからの写真を探してみたが、意外に無いのに驚いた。 妻のも撮っておいたほうがいいのかなぁ。
2016.07.23
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Facebookt@昔の日記を引っ張り出してくれました。ぼくにこんな時代もあったんですよ。「屋根の上のヴァイオリン弾き」は亡くなった森重久弥さんのあたり役となったミュージカルだ。あらすじはあらかた忘れたが、そのなかの登場人物が神にこういったのが頭に残っている。 「貧乏を恥だとは思っていません。もっとも名誉だとは思っていませんが…」 東京の小出版社からユダヤ人の商才に関する本の制作を依頼され、ユダヤ格言集などを読みあさったことがある。ユダヤ人の金に対する考え方に興味をもった。ユダヤ商法というと、利益を追求するためには人情とか温情等に左右されず手段を選ばないというもの。代表的な例はベニスの商人だろう。 競争相手を安値攻勢で潰して、独占状態になったところで価格をつり上げる。また、デリバティブ取引や炭酸ガス排出権取引などのように、実態のない金融商品を作り出しているのもユタダヤ商法といわれている。ようするに彼らユダヤには、キリスト教世界や、日本らの儒教世界のように(清貧)という観念はない。ユダヤ商法の考え方にはなじめないが、学べるところは少なくない。 貧乏は詩や文芸の中ではときに美しいが、実生活では惨めなものである。それはぼく自身もいやというほど体験している。 金は汚いものではない。といってもちろん美しいわけでもない。あらためていうと単に道具の一つなのだ。ある出版社の人と四方山話をしていたときのこと、たまたまある女流詩人の話になった。ぼくは彼女の作品を好ましいと思っている。そう話したところ、その出版人は、 「でも、あの人に詩をたのむと原稿料はいくらですか、なんてすぐにお金の話ですからねぇ」と口をとがらせた。ぼくは「そりゃ、あなたのいい分の方が変なんじゃないですか。ものを買うのに、値段も聞かずに受け取り、支払いはこっちの都合次第なんて、そんな無茶な話がありますか。詩人だから原稿料などなくても、カスミを食って生きていて欲しい、などと思っているのでしょうか」ぼくは、ユダヤ人と同じように、金のことははっきりと言うべきだと思っている。しかし、実際には、「ああ、そうですか。文章などは幾らって決まっているわけじゃないから、なかなかむずかしいですね…」などと口ごもってしまったのは、まだまだ修行が足りないせいもあるのだが…。 金は人生の重大事である。ところが、まだ妙にそれを見ないふりをする雰囲気が他ならぬわれわれの世界には残っている。…いやじつは、僕だけのことなのかも知れないが、友人からは無料の代書屋などと思われているフシもある。 新しい時代を先取りしているような生き方の若者が、いざ結婚式となると結婚式場のお仕着せの式次第に唯々諾々と従って恥じない―というのにちょっと似ていなくもない。ところでSくん、自分の先輩への弔辞はやっぱり、心をこめて自分で書くべきだよ。少しばかり奢つてくれたぐらいで、知りもしない人の弔辞づくりに貴重な時間を何時間も費やされるのは…。
2016.07.22
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選挙が終わった。長野県区は野党統一候補の杉尾ひでや氏が当選し、胸をなでおろした。しかし、改憲勢力の当選が3分の2を超えたそうだ。アンケートによると憲法改定に反対する人は全体の50パーセントを超えるのだが、投票結果をみるとそれらの人々は棄権したということなのだろうか?いかに選挙民が、候補者の政策とか主張とはべつのところで投票していることがわかる。当然ながら、長野県区で当選した野党統一の杉尾氏も保守層の支持もそこそこ受けていたから、そこでも同じことがいえるのかも知れない。ウチの事業所の利用者の数人が、某宗教団体の人に食事つきの事前投票に行ったと打ち明けてくれた。「こちらの人は人柄のとてもイイ人」「こちらは、平和問題や、弱い人たちのために取り組んできた人」と政権党の選挙区候補者名と与党政党候補者名のメモを渡されて、食事をご馳走になりながら投票を依頼されたという。打ち明けた彼女は、その指示通りには投票しなかったというが、一緒に行った人はしたようだという。まあ、よくある熱心な政治活動のひとつだろうが、こんなことをきちんとやっていることがこの宗教政党の強さであり、政権党に頼りにされるところなんだろう。では、そうしたギリギリのところで戦うために、われわれはどうするべきか。それはこれから考えてゆかなければならないのでしょうね。
2016.07.11
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豊田勇造コンサートをすることになりました。高遠のポレポレの丘です。さまざまな出店も出店されています。ぜひお出かけください。
2016.07.02
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以前にも紹介したように、当地の図書館に集まり読書会をしています。毎月、20名足らずのメンバーが、読んだ本について喧々諤々と感想を話し合っています。思想的にも、立場としても、普段では絶対に交わらないだろうというような幅広い人々が集まり、かなり辛辣に意見を述べ合いますが、意見の違いで離反してしまうようなことはありません。この会に出席するために、わざわざ首都圏から来る人も数人いて、先月はオリンピック問題のフィクサー的役割を果たしている「電通」の●●部長という人が出席して、大企業と政界、そして広告業界の持ちつ持たれつの暴露話しをしてくれて興味深く聞くことができました。何と言っても面白いのは、話し合いの後の二次会です。酒を飲みながら言い足りなかったことを語り合うのですから、ついつい最終電車に乗り遅れる人もできてしまいます。それらの感想を通信として、遠くの会員にも送るわけですが、米国在住の木村洋さんはそれに対する感想を毎回寄せてくれて参考になります。今回は、木村さんから米国の大統領選挙についての文章が寄せられたので、ここで紹介しましょう。木村さんは、外務省の外交官を経て、世界銀行の中枢で働いていた人です。現在は、ニューヨーク郊外にお住まいですが、日本に帰ると当地まで足を伸ばして世界情勢を語ってくれます。トランプ現象の不思議2016 年のアメリカ大統領選挙にドナルド・トランプが出馬した当時は、誰も本気で彼のことなど相手にする人はいませんでした。あんなに乱暴で短絡的、独善的で八方破れな男が、まともな大統領候補になれる訳がない。・・大半の人々がそう考えたようでした。それがあれよあれよという間に予備選挙を勝ち進んで、今 (6月)ではもう正規の共和党候補として指名確実のところまで来てしまいました。すると今度はみんなが何故そんなことになったのかを説明し始めました。その中でも特に説得力があるように見えるのは、社会の経済格差が余りにひどくなったため、取り残された人々の不満が、トランプ支持という形で表面化しているのだという解釈です。彼等は民主党の掲げる社会福祉の増加や、イスラム教徒との融和、ラテン系住民との共存などを、自分自身に対する脅威のように感じていて、その心情とトランプの孤立主義、排他主義、国粋主義などが、うまい具合に呼応しているというのです。経済はグローバル化し、巨大企業だけが勝ち残り、庶民はますます貧しくなって絶望感が広がり、やり場のない怒りがくすぶっている中へ、トランプのような人間が現れて、「もう私は我慢出来ない、これからは私自身のやり方で強き良きアメリカを取り戻す」 ・・ みたいなことを言えば、みんなが飛びつくのも無理はないという訳です。そう言われてみれば確かにトランプの言い分には、多くの不満分子の気分をすっきりさせるような面がありました。ラテンアメリカからの不法移民が安い賃金で働くために、自分達の仕事がなくなったのだと感じていたアメリカ人にとっては、「自分が大統領になったらメキシコとの国境に高い塀を作り、不法移民は一人も入れなくする」 と言われれば、一瞬自分の仕事が戻ってくるような気がしたとしてもおかしくありません。「その塀の代金はメキシコ政府に払わせる」 と言われれば、尚更悪い気はしなかったことでしょう。「今の経済格差はアメリカ全体が貧しいから生まれたのだ。私がビジネスでやったように、もっともっと金を儲けて、このアメリカを本当に強く、豊かな国にすれば、格差など問題ではなくなる」 と言われれば、成程そうなるかも知れないと思ったでしょう。「オバマは本当はテロリストをやっつける気などないのだ。私ならイスラム教徒など、初めからみんな閉め出してしまう」 と聞けば、本当にこの男なら、もう少し有効なテロ対策を取ってくれるかもしれないと思ったでしょうし、「日本はアメリカが発明したものをみんなコピーして豊かになったのだ。何故あんな国のために、我々の軍隊を派遣して守ってやらなければならないのか?」 と言われれば、「確かにアメリカは損ばかりしているねー」 という気になる人もいたことでしょう。然しちょっと考えてみれば分るように、これらの発言は全て何の裏付けもない、口から出まかせのハッタリばかりです。ラテン系アメリカ人の殆どは合法的移民ですし、彼等がいなければ、全米の農業も、製造業も成り立ちません。それにどの国の大統領が隣の国に向かって 「お前達の金で国境全部に塀を作れ」 と命令出来るのですか? 国全体を太らせれば、経済格差など問題ではなくなると言って、国を挙げて金儲けに血道をあげれば、逆に格差は益々広がって、国民の殆どが貧困層に落とされてしまうことは確実です。イスラム教徒をみんなこの国から締め出せばテロは減るなどという理屈は、ISがイスラム教を信じない者は皆殺しにすると言っているのと、対象は逆でも発想は同じことです。そんな風にして信教の自由という、アメリカ建国の柱まで捨て去ったら、アメリカ自身の存在意義がなくなってしまうことが、トランプには理解出来ないのでしょうか? 日本はずるいから守ってやるに値しないと言う彼は、アメリカの必要とする共産主義防衛の最前線を日本が務めていることも、アメリカ基地費用の相当部分を日本が分担していることも、知らないのでしょうか?いや、勿論トランプ自身は自分の発言が乱暴で、行き当たりばったりであることは、知っている筈です。然しそういう物の言い方をした方が人々は喜ぶし、自分の人気も上がることもまた、彼は十分知っているから、ああいう話し方をしているのに違いありません。現に小学生にも分るレベルの言葉だけを使い、同じことを二度ずつ繰り返して言うという彼の話し方は、群衆の心理を上手につかむ、周到に計算されたやり口です。その選挙戦術がいかに巧妙だったかは、今までの予備選挙の結果が示している通りです。その意味でむしろ彼にうまく利用され、踊らされてきたのはメディアの方であって、レポーター達の激しい攻撃を許しながら、彼の方こそ、メディアの弱みを実にうまく利用しました。視聴率を上げるためなら、ハッタリだろうと矛盾だろうと構わず放映するというメディアの体質が、逆にこれまでのトランプの暴走を可能にしたのです。それではそのメディアに煽られて、彼を正規の共和党候補にまで押し上げてしまった支持者達はどうだったのでしょうか? 彼等だとてトランプの言い分がいい加減なことは、ちょっと考えればすぐ分った筈です。それなのになぜ彼等はトランプの発言を聞いて単純に気分がすっきりし、一度この男に大統領をやらせてみようと思ったのでしょうか。彼等がそんなにやけくそになるまで追い詰められてしまった経済格差というのは、どうやって生れたのでしょうか。 ―2へつづきます―
2016.07.02
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資本主義の限界は人間の限界?資本主義の基本理念は人間の強欲を肯定することにあります。人の欲望には限りがなく、それがみんなの生きる原動力なら、むしろそれを正面から認めて、みんなが出来るだけ自由に、自分の欲望を追及出来るような社会を作れば、人々は先を争って豊かになろうと頑張り、彼等の努力は神の見えざる手に導かれて、最も効率的に集積され、最大多数の最大幸福をもたらす ・・ それが資本主義システムを作った人達の理屈でした。そして初期のアメリカのように、まだ人間の数が少なく、土地も資源もふんだんにあって、人々の利害がぶつかりあったら、また別の土地へ行けば幾らでもやり直すことのできた国では、この理屈は非常にうまく機能して、確かにみんなが目立って豊かになることが出来ました。然しそのプロセスが進んで、個別に利益を追求するより、組織的にやった方が効率的だということから、企業が作られ、資本が蓄積されて、それらが逆に人間を支配するようになると、色々な矛盾が表面化するようになりました。1920年代、資本主義は見事に花咲いて、世界経済は繁栄を極めていたのに、それでも飽き足りなかった各国は、もっともっとと自分の利益だけを追求して、極端な為替切り下げ競争をやった結果、それによって伸びる筈の貿易は却って縮小し、全てが行き詰まってしまいました。既にそれまでにイギリスに代わる世界最大の資本主義帝国となっていたアメリカは、急激な世界市場の縮小に合わせるように、1929年、大恐慌に陥り、世界経済のバランスは完全に破綻してしまいました。そこでルーズベルト大統領が選ばれてニューディール政策を打ち出し、大規模な財政支出をして国内需要を作り出し、それで不況から脱却するという、懸命な努力をしましたが、その政策が完了しない内に、世界は第二次大戦に突入してしまったのです。然しニューディール政策の基礎をなしたケインズの経済理論は、その後目覚ましい有効性を発揮し、当時のアメリカ経済を立て直しただけでなく、戦後の日本経済や、ヨーロッパ経済の復興にも、輝かしい成果を挙げました。その過程で明らかになったのは、野放図な自由競争だけでは資本主義経済はうまく行かないこと、かなり大きな政府による、積極的な規制と介入が欠かせないこと、通貨の安定には緊密且つ広範囲な国際協調が必要なこと、・・ などでした。それを最も鮮明に示して見せたのが、政府主導による高度成長期の日本経済で、単に成長率が高く、整合性のとれた発展がなされただけでなく、結果としての日本社会も、資本主義国家の中でも際立って平等で、所得再分配が行き届いた状態になったのです。ケインズの経済理論は殆どそのままの形でIMF と世界銀行という形に結実し、第二次大戦後40年近くの間、国際通貨制度の安定と、戦後世界の復興と開発を可能ならしめました。然し人間の記憶というのは、これほどまでにもろく、短期的なものなのでしょうか、1980年代半ば頃からは、人類があの悲惨な戦争の経験から学んだ共存のための知恵も、すっかり忘れ去られたかのように、再び徹底した自由競争と規制緩和こそが、最も効率的な経済発展の方法であるとする、新古典派のミクロ経済理論が一世を風靡し、ケインズのようなマクロ経済理論は影が薄くなっていきました。現代の経済学は高度な数学を駆使し、専門家以外には分らないような方程式を解いて結論を出すのですが、その結論が必ずしも正しいとばかり限らないことは、経験的な我々の勘の方が当っていることがあることからも分りますし、ノーベル経済学賞受賞者を二人も抱えたヘッジファンド(LTCM)が、設立後わずか数年で崩壊したことにも象徴的に表れています。LTCMの破綻は世界中に金融恐慌を引き起こすかもしれないと恐れた連邦政府は、自ら即座に救済措置をとっただけでなく、アメリカの多くの大銀行を動かして、巨額の救済資金を出させました。その結果LTCMの倒産は比較的穏やかに進み、世界へ波及することはなくて済みましたが、その過程でLTCMの持っていた機密情報や技術的ノウハウは全部、救済資金を出した資本家達の手に渡ったと言われています。このように極端に専門化された世界で、巨額な資金を持った、ごく少数の人々が、世界の金融市場の命運を左右するような大きな取引や介入を、時々刻々行っている現在では、一般庶民は完全にその枠外に置かれていて、何が起こっているのかも知らないまま、自分の命など幾つあっても足りないような、予測不能の危険にさらされている訳です。こうした人々の無力感と怒りは、時には 「ウォールストリートを占拠せよ」 運動のような形で爆発することはあっても、大抵は誰にぶつけられることもなく、ただ悶々とみんなの胸の内に溜め込まれているだけです。こんな中で幾ら政府や企業が 「貴方方にも機会は均等に与えられている。努力次第で誰でも大統領になれるのだ」 と叫んでも、その気になれる人がいないのは、むしろ当然というべきでしょう。 ―3につづく―
2016.07.01
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