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吉野の帰り、老骨に夜遅くの帰京はつらいので京都に一泊することにして白川院に宿を取った。ここは共済組合寮とはいえ、かって白川院の別荘らしく東山の借景を取り込んだ小さな庭が心地良かった。 平安神宮神苑の桜帰京日、宿から近い平安神宮のしだれ桜が満開と言うので散歩をかねて出かけた。JR東海の「そうだ 京都行こう」キャンペーンに乗せられての思い付きだ。神苑への門をくぐると目の前はしだれ桜の海だいやはやうっとり 池に浮かぶ川骨(こうほね)の葉も花びらのフリンジで飾られ浅い沼に写った影が揺れていた。 この桜の海を抜けた社殿反対側の神苑には静かな池を囲んで湖上の渡り楼閣が見事。50年以上前の修学旅行、20年くらい前の出張旅行の折見たことはあるが何の印象も残っていないので今回は大発見であった。ただ人の多さには参った。 上賀茂神社今日はミーハー爺に徹することにしたので次に訪れたのはやはりJRのPRでよく見る上賀茂神社 入ってすぐ「斉王桜」という一本の立派な桜この神社には歴代の皇女(斉王)が神女を勤めその愛でた桜がこれらしい。ここでもう一つの発見は葵だ葵はこの神社の象徴であり葵祭りもここの祭礼だ。葵は次の写真に見られるように一枝双葉である。徳川家の紋章はこれをモディファイして三つ葉にしたものだそうだ。 苑内では来るべき「競い馬」の練習が行われていた。本番は狩り衣・鳥帽子衣装なのだろうが練習はヘルメット・ジーパン姿「競い馬」が「馬術」の練習に見えた。
2007.04.27
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いざ吉野へ奈良へ来て三日目,この日念願の吉野山へこの時期電車は混雑すると聞いていたので軽いスナックの朝食にして早朝橿原のホテルを出た朝寝坊の我々にして珍しく8時半のケーブルで山上へケーブルから見える下千本はもう終わったことになっているしかしまだ名残りは十分 蔵王堂、南朝宮跡など見て秀吉の花見本陣吉水神社から中千本、上千本見晴らし所に立ついやいや見事見事 義経・静の隠れ間、御醍醐天皇玉座などを見る義経の甲冑の小さなサイズに驚き、静の豪華な衣装とこんな山奥への逃避行とのアンバランスに驚き弁慶が岩に打ち込んだと伝えられる釘を見て釘(鉄)より岩が硬いのでありえないと驚き何でも疑ってしまう素直でない自分に驚き東大寺についで大きな木造建築の蔵王堂が見える裏庭に佇んでみると役行者・義経・弁慶・静御前・御醍醐天皇・豊臣秀吉・西行法師・松尾芭蕉などが見た吉野の桜が目に飛び込んでくるこの桜は染井吉野の様に華やかだが薄っぺらなものではなく古来の白山桜で花と葉が同時に出てくる この後バスで金峰神社まで登り、徒歩での下山となる下山道沿いはどこも満開の桜 やはり一度は来て良かった !!もう一度となると ??もう来られないだろうなあ結構足に来た吉野山であった
2007.04.23
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まづは奈良公園へ現役時には4月に吉野へ花見など問題外しかし以前から死ぬ前に一度は吉野を訪ねなければと思っていた古希を過ぎ、やっと念願かなって大和路へ長年の希望をかなえるべく奈良ホテルを予約した春爛漫、池に映える桜と古風なホテルは一幅の絵画だ荷を解き早速奈良公園へウィークデイとて人も少なく「浮き見堂」はまさに至福の時を与えてくれた。夜は旧知の友人夫妻をホテルに招き会食の後ホテルの夜桜を楽しんだ。はやる心を抑えて古刹詣で 翌日吉野へと心ははやったが山上では御会式があり大名行列があるとのこと、混雑は避けるべしとて室生寺・長谷寺を訪ねた女人高野山として名高い室生寺は質素な寺だった五重塔もこの地方では一番小さなものらしいしかし桜はさすがに美しい一方長谷寺は豪勢そのものだ長く美しい登り回廊、 全山が眺められる張り出した本堂前の舞台清水寺よりははるかに良い眺めだ。 ここの五重塔は室生寺についで小さいらしいが景色との調和において絶賛すべきものである。 あすはいよいよ吉野へ行くぞと気がはやった。 (つづく)
2007.04.21
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前回に続いて大坂での話し今回の大阪出張では曽根崎の東急インに投宿した。浄瑠璃の曽根崎心中で有名なお初天神の前を通りチェックインして部屋に入ると眼下にお寺が見えたのでホテルの案内図を見るとこの太融寺には淀君の墓があるらしい。早速上から写真を撮ってあれこれ推定してみた。私の推定は中央下部の小さな生垣に囲まれた大きな墓あるいはその塀の向こうに在る多重型の石塔であった。 翌日下に降りてみると実は右中部の緑屋根の右に樹木がありその樹下に下の写真のような小さな多重石塔が淀君の墓であった。 あまりにも有名な淀君の墓にしては小さいのに驚いた。そしてさらに驚いたのは回りのいろいろな石像の前で祈っている人が結構居るのにここには誰もお参りしていない。多分これはまだ観光客の居ない朝であったせいだろ。せめてもの新しい花が手向けてあったのが救いである。調べてみるともともと淀君はいまの大阪城公園がある所に淀姫神社として祭られていたが、この場所が明治10年陸軍錬兵場となった際前記太融寺に移設されこんなに小さくされたしまったらしい。大量殺戮者たる武士・軍人を簡単に神様として祭る日本の歴史のいい加減さを見る思いがするが、歴史上の人物は別の形で顕彰すべきではないだろうか。(西洋でシーザーやナポレオンが聖人に叙せられて、教会が立ったなどと思うと変な気がする) 歴史上の寓話をもう一つこの日堺の南宗寺を訪れた。ここを訪ねたのはこの寺が千利休の修行の場であり、菩提寺でもあると知ったからだ。旧境内を散策しているとき大きな徳川家康の墓と書いた石碑を発見した。また良く注意すると近くに小さな無縁仏の墓のようなものがあり、傍らに家康の本当の墓だと記されている。変な話だと思い受付の人に聞いてみると以下の通りだ。大阪方残党にとって家康が大往生したと言うことは認め難い。この寺には徳川2,3代将軍が参詣したことが有ることを根拠にして、本当は大阪夏の陣にて家康は後藤又兵衛の槍にかかって惨死した。そして無縁仏としてここに葬られた。そして立てられたのが30センチほどのこの石塔と言うわけだ。誤操作でこの写真を捨ててしまったが、残っていても大したものではない。東西どちらの側にも組しない現代人の私にも、現代人にも通じる大阪人の東京へのコンプレックス(悪い意味ではない)の起源を見る思いがした。
2007.04.02
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