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旅先で出会った人 (7)この題も一週間続いてしまった。もういい加減にしないといけないのでこれを最後にしたい。今回は一寸変わった裏役の登場である。アラスカのデナリ国立公園は公園直営バスのみが通い一般車はある点、Savega river、以遠には行けない。来訪者は全員一日あるいは半日のツアーを執ることになる。このバスは大体夏休みで不要のスクールバスを使っており、運転手も夏休み中給料の出ない先生のアルバイトが多い。彼らは自然大好き、動物大好きのオタク集団である。彼らの関心事は毎日大して変化しない景色ではなく野生動物だ。そして乗客全員で動物を探し、発見したら方向を時計板で示して大声で告げ会うよう要請される。右真横に熊を発見すれば、”I gatt a bear on three o'clock"と叫んで乗客全員に知らせあう。目がたくさんあるため結構頻繁に見つかる。我がドライバーも高校の生物教師で動物オタクバスの時刻表など全く気にしない。やれムースだといっては20分白頭ワシだといっては15分、カリブーの群れだと言って20分ドールシープと言って10分最後にグリズリーが現れるとこれは今年最大だと言って彼らがいなくなるまで一時間近く停車。バスは何台も溜まるが他の運転手もほぼ同類オタクお陰で5時の帰着予定が7時半。乗客も疲れた様子はしているが満足顔。 ハッピー、ハッピーデナリ滞在中私たちは朝な夕なに公園の一般車折り返し点Savage River までドライブし、散歩して燃えるような草紅葉とマッキンレー山の遠景を楽しんでいた。最後の日もここでベアーべりーと言うイチゴを頬張っているとRV車の屈強な日本人が来て、私たちのことを心配してくれたらしく帰りの便はあるかと訪ねてくれた。レンタカーで来ていることを告げ、現地ガイドさんと判断して次の日、Valdizまでのドライブはきついのでどこか途中にホテルはないかと聞いてみると、人里から遠く離れているが一軒だけ ”Long Rifle" と言うモテルがあることを教えてくれた。電話予約して翌日行ってみると確かに両隣の村からはかなり離れているこの一軒宿の古びた部屋の窓の景色を見て驚いた。50メートルくらい先は大氷河である。このときの旅行でマッキンレー山の氷河の始点は遊覧飛行で、氷河クルーズでは雷鳴を立てる氷河終点の氷瀑を見てきたが氷河の中流をまじかに見たのは始めてである。普通中流は険しい山中にあって簡単に近づけるものではない。氷河を見てロビーに帰ってみると 天井、柱、梁、壁と部屋中野生動物や野鳥の剥製で埋め尽くされている。なかでも群を抜くのが巨大なグリズリーだ。こんな象みたいな熊に出会うと生きた心地はしないだろう。このロビーを見て、”long rifle" と言う名を合点した。最初に述べた公園のバスドライバー、モテルを紹介してくれた日本人ガイドの方との出会いがなければこんなに多くの動物たちに会っていなかったか、会っても気が付かなかったであろう。
2007.07.30
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旅先で出会った人(6) 前記モンサンミッシェルの帰りポントルソンからRennes, Vannesを経てカルナックの巨石列柱群を見ようと朝早く宿を出た。午前中にもVannes に着けると思っていたがそこはヨーロッパ、土曜日は汽車が極端に少ない結局昨日の道を逆戻りしてCaenに引き返しLe MannsでTGVに乗り換えて一日がかりでVannesへ。翌日昨日の遅れを取り返すべくホテルで教えられた早朝のバス便を捕まえるべくまだ薄暗い中タクシーに乗った。Vannesのバス停に人影はなし、そうだった今日は日曜日。カルナックを見るために二日がかりでここまで来たのだ。思い切ってタクシーを捕まえ、小1時間でカルナックに立った。人っ子一人いない朝霧に霞む列柱の影にスーツケースを隠して早起き農家の主人が起き出した庭先を通って朝露に濡れながらこの遺跡を独占した。 問題はこれからだ。帰りの足がない。電話ボックスは有ったが、こんな田舎で英語が通じるはずもないタクシーの電話番号も知らない。観光客が来るまで待って便乗させてもらおうと思いベンチに腰掛けた。すると霧の中から人の声が聞こえてくる。近づいて見ると、よれよれのシャツ、穴だらけで油が染み付いたジーンズ、頭はもじゃもじゃでふけだらけの若者が二人。ボロボロ、ガタガタ、どう見てもジャンクとしか見えないベンツを修理している。車中は寝袋、食料などが散らばっている。私は引き返してベンチに座ったが、次の当てがある訳でもない。意を決して彼らがたとえ良からぬ輩であったとしても現金を全部渡せば以後はクレジットカードで何とかなると考えた。「謝礼をするので近くの駅Aurayまで運んでもらえないだろうか」二人はしばらく話し合っていたが、少し待ってもらえれば乗せてもいいと言ってくれた。後部座席を整理しての座る場所を確保して出発した。ポプラと思われる高い並木の田舎道にそってドライブしている間いつ車が大通りを外れて襲われるかと畏れるなかベンツはガタガタ走った。彼らが邪心のない青年だと気が付くのに長い時間は要しなかった。彼らは貧しい島サルジニアから来た建築作業員だと称した。学校時代の友人でフランスを無宿旅行していたのだった。Aurayの駅に着き謝礼を渡そうとすると我々は朝食をとるため町へ出ようと思っていたところだったしたがって謝礼は要らないと言う。私は気持ちを察してそれでは朝食をおごらせて下さいと申し出ると笑みを浮かべた。ジャケット着用してそこそこのスーツケースを携えた日本人と無精ひげにシャワーも浴びてないよれよれ姿の青年2人。 3人は早朝の屋外カフェで、遅めのしかしハンブルではない朝食を楽しんで別れた。旅先では危ないことがあるのもまた事実であるが、このときは純真な若者を疑ってしまった自分を恥じ入った次第である。
2007.07.29
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旅先で出合った人(5)大分以前の話だが、フランスのノルマンディーCaen(カン)での仕事を終えてモンサンミシェルを目指した。島内に安いホテルがあるとも思えないので島を見物した後引き返してポントルソンに宿泊しようと考えていた。行きのバスでマーガレットと言う名のオーストラリア人老婦人と隣り合わせた。この人は島内のゲストハウスを予約してあると言い、せっかく来たのだから私も島内宿泊をすべきだとアドバイスしてくれた。島の入り口から例の路地を入って修道院の真下の一階がみやげ物店、二階がレストラン、三、四階がゲストハウスと言う店の一階にあるデスクでこの婦人は名前を告げ、自分宛の手紙を何通か受け取っている。この人はヨーロッパ旅行中一週間一回くらいは宿を予約してオーストラリアの友人たちに知らせておき、そこで友人からの近況を知らせる手紙を受け取り、自分もそこから手紙を書いて旅の報告をしていた。今のように携帯電話と言うわけでもなく、十分時間をかけた旅をしていたのが印象的であった。その婦人の紹介で部屋を確保できた私は部屋からの光景に満足した。窓下の路地は昼間は喧騒、夜間は全くの無人、早朝はゴミ集めの手押し車、そして窓の上にはまさしく修道院の塔、広い窓からはベッドに横たわってもその影は手に取れる距離に見える。 部屋のベッドからの光景 路地と反対側の外周道路から直接入れる2階のレストランで二人で夕食を執ったが、そのときの話によると彼女は昨年長年連れ添った貿易商の夫を前年亡くして今回は夫との思い出をたどる傷心旅行だと言っていた。ご主人は日本との取引もあって彼女も何度か日本にも旅したとのこと。この夕食を最後にお別れしたが、数日たって私はパリに泊まり一日ベルサイユに遊んだ、その帰り、地下鉄の駅を目指して人ごみの並木道を歩いているとき、真っ赤なリュックザックを背負った見覚えのある婦人が近づいてくる。マーガレットおばさんだ、相手もすぐに気が付いた。次の瞬間大通りの真ん中で二人はハグしていた。あとでその光景を思い出し赤面することしきりであったが、そのときは全く自然な行動であった。私は長い人生で老人とは言え婦人と抱き合ったのはこのときだけのような気がする。あの人はまだ存命だろうか。時々思い出しては懐かしんでいる昨今である。
2007.07.28
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旅先で出会った人々(4)この話も十数年以上前の話になる。イギリス・New Castle upon Tyneにしばらく滞在していた頃90日間イングランド・ウエールズ・スコットランド有効のブリットレイルパスを持参して週末飛び回っていた。あるときEdingburghを経てInvernessに泊まり翌日senic trainとして有名なSky島への汽車に乗った。朝早くまばらな乗客の列車に乗り込んでボックス席に一人でいると簡素な姿のしかし色白美人の娘さんが向かい席に着いた。新聞に目を通し終わって、”どちらまでですか”と問うてみた。相手も私と同じくスカイ島へ日帰りだと言う。この間私の英語に日本人なまりを見つけた彼女は”日本の方ですか、私日本語少し出来ます”という。私が日本人と予測してこのボックスを選んでくれたらしい。彼女はカリフォルニア大学に通っていて、名前をオードリーだと言い父親はヨーロッパ系メキシコ人、母親は日本人だと自己紹介した。”今日一日一緒に旅をし、なるたけ日本語で会話したい”と申し出た。こんな若くて美しい娘さんと美しい景色の中一緒に旅が出来るなんて文句のあろうはずが無い。美しい景色をめで、その合間には母親の話など聞かせてくれる。前回記したギリシャで会った少女もそうであったがオードリーの日本人母も亡くなっていた。そして大学生になった今、幸福とはいえなかった母親を冷静に語っていた。母親が小説を書いていたこと、そして日本人女性とメキシコの闘牛士の愛を描いた小説(闘牛士の夜)がある雑誌の懸賞小説に当選したが残念ながら単行本として出版されることは無かった事など話してくれた。 外国であまり男の子からは話しかけられたことは無いが日本人を母親に持つ女の子は危険性が無いと判断すると積極的に話しかけてくれる。前回記した少女も今回のオードリーも共に日本人母を亡くしていた。自分のルーツ探り、亡母への慕情など日本に行って直接探ることも出来るが、母親が亡くなり、新しい生活環境に入ると日本との縁も薄れてゆく。旅先で少々の感傷に耽っているときたまたま一人で旅している日本人を見かけると日本語で話しかけてみる気持ちは痛いほど理解できる。夕刻Invernesに帰着してみると彼女のBBがあるネス湖畔へのバスはもう無くなっていた。彼女はヒッチハイクで帰ると主張したが夜道でのヒッチハイクは非常に不安であった。私はInvernessのホテルをキャンセルし、タクシーでオードリーをBBに届けた後近くのホテルに投宿した。オードリーのおかげで翌日ネス湖、ネス湖博物館をゆっくり見物していい思い出と共にスコットランドを後にした。このころはネス湖の話題が最高潮の頃で博物館と言っても素人写真が張ってあるだけの見世物小屋であったが今はもうそんな物もないであろう。スコットランドではこの季節石楠花が最盛期の時期フェリーで渡った港町の古城の廃墟も石楠花で囲まれていた。そこで撮った上のの写真は今でも即座に私の脳裏をあの北国の廃墟と石楠花の光景に導いてくれる。
2007.07.26
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旅先で出会った人々(3)もう随分前の話だがクレタ島に一週間滞在したことがある。エーゲ海には立派なクルーズ船が行き来しているがクレタには見るべきものが多くあり、乗客は狭いキャビンからゆったりしたホテルで何泊かするツアーがあるらしい。この間の空き船を利用したクレタ島からサントリーニ島へのデイクルーズを町の観光社で見つけて前日予約した。翌朝まだ日の出前に出航し、5時間以上かけてサントリーニに着く。キャビンにはクルーズ客の荷物などあるためデイツアーの乗客はキャビンエリアには立ち入り禁止である。しかしレストランやバー、ラウンジ、デッキなどは自由に使える。多くの客はプールとデッキでの日光浴が目的であるが我々2人の日本人には強すぎる光量である。ラウンジで座り込んでいると小学校低学年生くらいの日本人らしき少女が恐る恐る近づいて、はっきりと ”こんにちは” と挨拶してきた。”こんにちは” と返事して話しかけると日本語は分からないらしかった。英語で話しかけると彼女は能弁に自分を語り始めた。”ママは日本人なの、だけど死んじゃったの””今日はパパとパパの妹と一緒に来てるの” とのこと。ややあって父親登場。”私は軍属で今はギリシャの基地に勤めている。日本の基地にいたときこの娘の母親と結婚しましたが、この子がまだ小さい頃アメリカで病死してしまいました””今は夏休みでアメリカの田舎に残してきたこの娘を私の妹が夏休みに連れてきてくれたのです””さっきから盛んにあなた方は日本人だろうかと聞くので「こんにちわ」と言ってごらん日本人だったらきっと分かってくれるよ”と言うとこの娘は勇気を振り絞って話しかけたのです。 それから我々は紺碧の地中海航海、何度かの食事サントリーニ島のロバ乗り、プラトンのアトランティス大陸とも言われる夢のような景色の中で夜遅くまで物理的には長い、しかし私達5人にとってはあっという間の時間を過ごした。彼女は幼児のイメージに残る日本人の母親の面影を妻に見たのか妻を慕ってくれた。もうあれから20年も過ぎてしまった。音信は途切れてしまったがあの子ももう母親の面影を追うことも少なくなり立派な大人になったことだろう。あるいは優しかった母親の愛を自分の子供に注いでいるのかもしれない。いまだにはっきり思い出すことが出来る。あの子も我々にも大きな想いを残してくれたのであった。
2007.07.24
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旅先でであった人々(2)もうかなり以前になるがアラスカに旅したときのこと。アンカレッジ、スワード、デナリと2週間ほどドライブしてバルディーズと言う町にたどり着いたここはアラスカ油田のオイル積み出し港でかなり前に大規模な石油流出事故があり、海洋生物が大打撃を受けた町である。港から10分もドライブすると氷河があり、そこに人間の背丈よりも太いパイプラインが延々とアラスカを横断して到達している。我々がこの町を目指したのはここから山のように大きなものからコップの中のオンザロック大のような流氷の中を一日がかりでアンカレッジの近くまで運んでくれるカーフェリーを捕まえるためだ。町の案内所で中規模のホテルを紹介してもらいチェックイン。レセプションのお嬢さん曰く、うちの”マネージャは日本人ですよ”一日に一便だけの無人のターミナルで釣りをして帰ると河野さんと言うマネージャーを紹介された。ホテルのマネージャと言ってもスーツ姿ではないしホテルに居つくことも無い。このホテルはアラスカ石油パイプラインの建設拠点として上級管理者、技術者の滞在施設として建てられ完成後はホテルとして営業しているとのこと。近くにはまだ本来の石油会社の人用に使われている施設もありそれら全体の支配人として単身赴任しているが家族はアンカレッジに住んでいるとのこと。アメリカの大学に留学後20年近くこのような暮らしをしている由。きょうは仕事が済んだので釣りに行きませんかと誘ってくれた。私は今までしていた岸壁での釣りでコイワシのような小魚ならもういいと思いお断りして一寸昼寝をすることにした。支配人は”それではここのスポットにいますから気が向いたら来てください”と言って出かけていった。日はまだ長いし、雨も降ってきて行く所もないので冷やかしに行くことにした。スポットがちかずくと何人かの釣り人が見える。そして海中を見ると丁度池の鯉のように鮭の大群が泳いでいる。アラスカでは重なり合って河を遡上する鮭はよく目にしたがそれが海中で起こっているようだ。 赤いレインコートの河野さんは隣で釣っている少年の面倒を見ている。 特に知り合いと言うわけではないが居合わせた少年を仕込んでいるらしい。時期によってピンクサーモン、シルバーサーモンなどと決まっているようで漁期外のものは釣れてもリリースする。私にも大きなルアーの付いたスペアの竿を貸してくれた。指導されながら力いっぱい竿をしならせるて投げると次から次えと懸かってきた。近くの水産会社に依頼すると冷凍してくれるらしい。このようにして河野さんは毎年自分の釣ったサーモンを神戸の実家に送り続けているとのことだ。私にもそうしたらどうかと言われたが、これ以上迷惑もかけたくなかったので諦めることにした。私のアルバムには証拠写真もあるが、ここでは公開しないことにする。その夜はもう一つの宿泊施設でディナ-に招待するのでレスランマネージャに名前を告げてくださいと言われた。訪ねてみるとアラスカ石油で働いている何百人もの食事を賄う巨大なキャフェテリアであった。キャフェテリアと言ってもそれはもうスーパーマーケットのようにワインからサラダまであり、しかも全てサインだけの均一料金である。翌日は流氷の中、水鳥(パフィン・ツノメドリ)、鷲、ラッコ、セイウチ、オットセイ、トド、イルカ、鯨、等を眺め、また氷の割れる音を聞きながら極北の地でオイルを供給する労働者、彼らを支える河野さんのようなおおらかな人物の存在に思いをはせながら夕刻迫るフィヨルドの港にたどり着いた。
2007.07.23
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海外の旅先で出会った人々(1)一昨年チロルへ旅したとき帰路ウィーンで丸一日空白日が出来た。相棒が疲れたので休養したいと言うそこで一人でブダペストへ日帰りで出かけりことにした。空いたICのコンパートメントに一人でいると一人の紳士ががジャケット姿に古いコブラン織りの旅行鞄と皮製の大き目のアタッシェケースを持って入って来た。すぐにジャケットを脱ぎ、アタッシェケースからランニングシューズを出して革靴と履き替え、下の姿になった。私はリラックスして旅をしたいのだなと思った。 彼は自分はセルビア人で、これからアイルランドのマラソン大会に出場するためにブダペストの空港に向かっていると話しさらにケースからファイルを取り出して 示しながら私にフランス語は出来るかと聞いてきた。英語と片言のドイツ語しか出来ないと答えると彼もファイルを見せながら片言のドイツ語で話しかけてくる。ファイルの第一ページは下の写真だ。これはフランスの山岳マラソンの写真とエントリーリストでこれが自分だとMic-- Dlag-----というところを示した。ユニフォーム無し、短パン姿で主催者が撮ってくれたものらしい。次のページには英語で氏名住所を示し過去のマラソン暦が列挙されている。そこで彼は自分のランニングシューズ(私も愛用しているAsics)を示し素晴らしいものだがセルビアではまだ高くて練習に常用できない自分は何とかして2足目を手にしたいと考えていると語った。アタッシェケースで運んでいることからもこの靴がいかに大切なものであるかが伺えた。そしてヨーロッパの多くのマラソン大会にも出場したいが旅費はセルビア人の収入ではとても高く自分も希望の何分の一かの大会にしか出場できないと嘆いた。そしてファイルの最後のページには英語とドイツ語で書かれたメッセージがあった。”私はあなたが私と走る喜びを共有してしてくれることを希望する。それはまた私の喜びを増幅してくれる”物乞いではない、あなたもサポートすることによって楽しんで欲しいと言う経済的に困窮した地域のフロンティアーの叫びを目にした。私も気分がよくなってシューズの踵一つ分くらいは献金して励ました。それから彼は例のファイルを持って他のコンパートメントを回り支持してくれそうな人にアポローチしていたがあまり成果はないようであった。勿論あれからもう2年近くも経った。かの地でも経済状態も良くなっているであろう。 年齢から言っても参加することに意義があるのかもしれないが彼がまだどこかで走り続けていることを願っている。
2007.07.22
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ハート君 数日前朝日新聞にこんな記事があった。下の写真をよく見て欲しい。んんん !! なんだこれ!!写真はバックに焦点が合い、主人公はぼけているが チワワの子犬 間違いない 顔の模様も左右対称で美人だいやいや男の子なので美少年だでもお腹は何だ これも綺麗な対称形のハート型だそれで名前はハート君らしい本籍地は秋田県大館市のペットショップだそうだ兄弟は4,5匹いるらしいがこの栄誉に浴しているのはハート君一匹だけだそうだ婿入り先は選り取り見取りらしいが店主は店の看板を背負って行かせるらしく全て断っているらしいこの子にどんな運命が待ち受けているのだろうかどうか普通の子に育って欲しいと願うのみである多分そんな願いを込めてわざと写真はぼかしたものにしたものだろう
2007.07.16
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アイリッシュダンス昨日妻に誘われて東京フォラムへアイリッシュダンスを見に行った。 ケルト語で歌われる歌の意味は分からないが、哀愁は十分伝わってくる。恋人の死を悼む歌の背景には緑の野に崩れかかった石のチャペル、ケルト模様を頭部に持つ苔むした墓石が映し出される。40年以上前に一度だけ旅したアイルランドでカナダ在住友人の年老いた両親を訪ねたことがある。子供たちは皆アメリカ、カナダ、ヨーロッパに散り、緑の大地に生きる老夫婦は息子の友人だと告げると突然の訪問者であるを東洋人を温かく迎えてくれた。このときはダブリンにたった一組だけ住んでいた日本人家族を訪ねての旅であったが、アイルランド人の友人には両親にぜひ会って近況を伝えて欲しいとの依頼を受けていたのである。私は3年間ボストンに住んでいたが国際電話は長男が生まれたときに一度出来ただけであった。そんな時代である。そんなことを思い出しながらじっとアイルランドの古歌に聞き入っていた。一方ダンスは華麗と言うよりは躍動感に満ち溢れている。と言ってもそれは下半身の話、上半身は全く動かない。大ホールに響き渡るキックの音はすさまじいまでに早くリズミカルである。5人の伴奏はバグパイプ、フルート、ドラム、バイオリン、アコーディオン、キイボード、ギターでそれぞれが芸達者、全身を使っての演奏だ。曲の合間に床に置いた1リッターのボトルから直接水を飲みながらの演奏だ。昔西部劇で見た皮ズボンのカウボーイがバンジョで手を叩きながら踊るあの音楽に似ていた。そこで私なりの推論。よく知られているように初期のピューリタン移民についで西部開拓時代のアメリカ農業移民はアイルランドやスコットランドの次男三男が多かったことは良く知られている。今回のアイリッシュ楽団はアラン諸島から来ているらしいが、かってアメリカ西部(東海岸以外は皆西部)のカウボーイたちが故郷の音楽をウエスターン音楽に発展させ、故郷の踊りをタップダンスに発展させたのではないだろうか。真偽のほどは分からない、調べた結果でもない。音楽会の途中からふとそんなことを考えながら楽しませてもらった。珈琲一杯飲む間、外は台風前兆の大雨であったがホールの地下から地下鉄1本で雨に濡れることも無く、我住まいの隣までたどり着いた。やけに都会的な雨の休日の過ごし方であった。
2007.07.15
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新聞全面広告私も人並みに環境問題には関心もあるし、人類にとって最重要課題になったと実感しております。しかし人がこういったからと言ってその論理を鵜呑みにはしたくないのです。地球上の生物はそれぞれその成長期・繁栄期・衰退期があるのは仕方の無いことです。たとえ天変地異が無くとも地球上に食物が枯渇すれば(食べつくせば)その種は絶滅です。わが人類は地球と言う惑星が長い年月にわたって太陽から受け取ったエネルギー(石炭・石油・天然ガス)を使い果たし、ついでそれらの役割を果たしてきた植物を使い果たしたとき人類の世紀は終わりと考えるべきでしょう。(原子力について言及すると長くなるのでここでは不言)今我々に出来、そしてなすべきことはこの人類の世紀を100年でも1000年でも長引かせることなのです。エネルギーを節約することです。冷房は暑すぎない25度に押さえ暖房は寒くない20度に抑えることです。本当はそんなものは使用しないほうがいいのですが、現代人は”暖房は火鉢、冷房は団扇と風鈴”よりは自分たちの子孫が100年早く滅びるほうを選ぶでしょう。前置きが長くてすみません。本題に入ります。最近感じるのは新聞の綴じ込み広告の厚さです。我が家の新聞受けには入りきりません。もっと強く感じるのは新聞の全面広告の多さです。数十年来講読し、一番良識的なA紙でも全40ページ中10ページは全面広告です。しかも字も絵もはがき大に収まる内容のイメージ広告です。このため浪費される木材(植物・地球のエネルギー工場)の量は莫大なものでしょう。立派は社説を掲げる一流紙がこの程度の意識しか持ち得ない体制はやはり人類の首を絞める手助けをしているにほかなりません。その他無料紙・ビラなどなど考えればきりがありませんが、良識ある新聞社にこそその意味を考えて欲しいのです。
2007.07.12
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三陸旅行今月はじめ大人の休日チケットを使って三陸を旅した。特にどこを回りたいと言う訳でもなかったが新幹線で八戸まで行き、八戸線で久慈を目指した。何の調べも期待もなく乗り込んだ八戸線だが前半はすばらしい海岸線を楽しむことができた。久慈では第三セクター鉄道の草分け三陸リアス線に乗り換え北山崎を目指した。ここは過去2回試みていつも天候不順で失敗していたので今回こそは遊覧船での見物を期待した。列車は好天の下多くのトンネルを抜け、港に着いてみるととたんにあたりは霧に包まれてしまった。今日の遊覧船は欠航 今回も失敗翌日を期す。翌日朝はまたも快晴、宿からタクシーを飛ばして途中の展望台によると下の写真。この断崖下をめぐることを期してまた船着場へところが岸壁につくとまたも霧、霧今日も欠航この時期三陸地方では”やませ”と称する風が吹き、海から冷風が吹き上げ海岸線だけ濃い霧に包まれてしまう。海岸線だけ何にも見えない。またいつか挑戦しなければならない。宮古市の浄土ヶ浜へと移動する。周りは何も見えず遊覧船ももちろん欠航、ところが海岸を10分くらい歩いていると急にあたりが明るくなり下の写真の光景が出現。なんだかカーテンが開いた感じだ。そしてあたりは名物ウミネコの群舞、河童えびせんに群がり、近くにいた観光客は菓子袋を手にしていると正面の岩に巣をかけている鷹に後ろから回られ袋ごとさらわれてしまった。持ち帰った獲物を巣の周りで楽しんでいるのがよく見えた。浄土ヶ浜がけ上のホテル浄土ヶ浜に宿を取り、竜泉洞の透き透ったプルシアンブルーの地底湖を見て民話のふるさと遠野の伝承苑を見物して帰ることにした。上の写真はそこのバス停である。南部弁で語られる民話は十分の一も聞き取れなかったが、河童が出てくる話が有名らしくその場所”河童淵”に寄ってみた。清らかな淵は河童神社が祭られ、どやどやっと団体客が行過ぎるとぴょこんと河童が現れる雰囲気があった。そこからバス停に戻る途中このような作物を多く見かけた。確かめてみるとホップだそうだ。遠野はホップ生産で日本一だと聞いた。えっと驚いているとタクシー運転手曰く、”遠野は東京23区より広いんです””キリンと契約していて一番絞りはここのホップです”とのこと。遠野の民話とビールがいまひとつ頭の中では溶け合わなかった。
2007.07.10
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