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サンクトペテルブルグ 最後の二日間はSt. Petersburgを観光した。この血の上の教会はAlexander IIが暗殺された場所に建てられたものだが、モスクワのワシリー寺院にそっくりだ。中は見事なモザイク模様でイスラムの大きな影響を感じさせた。 ここも寺院という名の博物館なので脱帽の要は無い。この夜夕食まで少し時間があったのでネバ川のほとりにある宿泊ホテルの目前で部屋から良く見通せるアレキサンドル・ネフスキー寺院を訪れた。 ここはロシア建国以前の英雄ネフスキーの廟でもあり、その御棺が納められていた。ロシア正教の教会には椅子は一切無く祈りは立ってなされるが、ここでは熱心な信者がまず立って十字をきりそれからチベットの巡礼がするように床に這って祈る何人かの姿を目にした。この寺院は有名人の墓所としても知られプーシキン、ドフトエフスキー、チャイコフスキー等などの墓がある。墓地に入るのと写真を撮るだけでかなりの額を払わねばならず、夕食が迫ったこともあり次の日に回したが機会を逸してしまった。(これらの墓の写真はインターネット上で多くある)この街の呼びものはなんと言ってもエルミタージュ美術館だ。収蔵品は多くまた優れたものばかりだが勿論撮影禁止。 したがって写真は女帝エカテリーナの好きな淡いブルーを主色とするエカテリーナ宮殿のみだ。 (エカテリーナ宮右翼) (同右翼窓飾り) (正面エントランス。と言っても我々が入れる訳ではない) (黄金の間)このほか大黒屋幸太夫がエカテリーナに謁見した謁見の間、あまりにも有名な琥珀の間(撮影禁止)などがある。エカテリーナが見たのと同じ宮殿廊下からの景色 そしてしばし休憩に訪れ、水浴などもしたと言うベルサイユ・トリアノンのような瀟洒な小館。確かにこの宮殿は裏の広大な庭園を含めベルサイユを手本にしたことがtよく見て取れる。団体旅行の悲しさ、館・庭園何れも自分の視点から楽しめなかったのは残念至極。 今回はほとんどガイドブックも見ないで来てしまった。ただ何かの本でSt. Petersburgは北のべネチアと書かれていたのを思い出し運河の小旅行をしてみたいと思い現地ガイドに聞いてみると個人チャーターボートがあると聞かされた。そこで少ないフリータイムを利用して運河を巡り美しい建築群を眺めようと思った。短い時間ではあったがかなり良い体験が出来た。 水辺からの眺めは視点が低く風景も一味違っている。デコレイティブな建造物が多く目に入ってきた。 また下の写真はエルミタージュを横切る水路で運河からネバ川への出口となっているところだ。 ネバ川に出ると人工ビーチ、ペテロパブロフスク要塞に守られたぺデロパブロフスク寺院の尖塔が目に入る。ここは歴代皇帝の廟所ともなっている所だが今回はこのプライベートなボートトリップで水上から見るに留まった。ボートはさらに進み冬の宮殿の水際の館の真横を過ぎた。 我々のバスが待っている芸術家の広場の周りは下のロシア民族博物館、アートギャラリー、シンフォニーホールなどが取り囲みプーシキンの彫像のある広場の木陰は異状気候で暑さにむせかえる”聖ピータの街”にしばしの緑陰を提供してくれた。 (長すぎたロシアの旅の記録をやっと終わりにします。)
2007.06.30
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ボルガ河クルーズ ー 船上行事今回のグルシュコフ号はドレスコードのある豪華な外洋クルーズ船とは違ってカジュアルな河船だ。それでも持て余す船上時間を消化するため多くの船上行事が催される。旅行社主催のものとして日本語ガイドによるロシア語講座、ロシア歴史講座、ロシアの宗教史、ロシア現代事情講座ロシア民謡講座、ロシアダンス講座、民族工芸・イースターエッグ紹介ビデオなど。船主催のものとしてはクラシック音楽の夕べ、ポピュラー音楽の夕べ、ロシア民謡の夕べなど。それに船長主催のwellcome party & dinner,操舵室見学会、farewell partyなど。最初のwellcome partyでは皆手探りで、それなりにドレスアップしている人、なかにはジーンズの人も。ここでは船長、運行マネージャ、レストランマネージャ、ドクターなどが紹介されてディナーとなった。 運行初日の行事は救命具演習だ廊下でビデオを見ながら救命具を装着し、クルーの点検を受ける。 wellcome dinnerではウエイター、ウエイトレスも民族衣装でサーブしてくれる。 普段船首の展望バーで飲み物をサーブしれくれるターニャ も ディナータイムにはレストランに出張サービスだ。 乗船楽団の3人、若いお嬢さんはピアニスト、あまり若くないお嬢さんはアリアからポプラー、民謡までこなしアコーディオンで民謡指導まで。お兄さんは各種弦楽器・打楽器専門。野外ピクニックではこのようにロシア民謡を奏でてピクニックテーブルを回ってくれる。 最後の夜(6時、まだ日は高い)はデッキでのfarewell party.クルーの挨拶、日本語、英語、ドイツ語ガイドの紹介ガイドたちは各種船上行事では司会、通訳として役に応じた衣装で活躍。この後各乗客グループ(日本、オーストリア、南アフリカなど)やクルー、ガイドによるロシア民謡、自国の歌(我々はカチューシャと”いい日旅立ち”を前日練習)われと思わん人によるソロや即席国際演芸団による寸劇など有り、写真を撮りあって別れた。
2007.06.30
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ボルガの船旅 船外観光 つづき6日目の船外観光はこのクルーズの白眉キジー島である。小さな島の村はずれの木造”キリスト変容教会”船が島に近ずくにつれて点から段々ズームアップされたっぷりと時間をかけ旅のコストパフォーマンスを上げてゆく。 時間は午後4時過ぎ北国の太陽はまだ中天にあるが教会の屋根は銀色に輝いている。誰が見ても銀屋根だしかしこの教会は木材だけで出来ている。 釘さえも使っていないそうだ。材料はヤマナラシ(山鳴らし、ポプラの一種:風が吹くとこの木の山が鳴きだすようなところからこの名ありという)かって外敵が攻めてきたとき、この教会が銀色に輝くのを見てこんな豊かな村と戦っても勝てそうにない退却したと言う。上陸してみると二つの教会からなっていて一つは冬の教会、もう一つは夏の教会前者には暖房があり、後者は風通しよく出来ている。 この島は教会のほかに野外民族博物館にもなっていて風車小屋、日本の東北曲がり屋のような人畜同居の農家、道祖神のような道端の十字架小屋などが周りの小島群に溶け合い、実にトランクィライジング な光景を醸している。 船が離島する時には北国の夕日も低くなり、銀屋根も暗い影に覆われ始めていた
2007.06.29
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ボルガ河クルーズ船外観光今回の クルーズには毎日上陸しての船外観光が付いているモスクワを出て最初の寄港地はウグリッチである波止場にはお人形のようなロシア少女がケーキを持って歓迎してくれた。 ここにもクレムリン(砦)が有り、河縁にはイワン雷帝の後継者たるドミトリー皇太子が暗殺と信じられている怪死を遂げた場所に立てられた地の上のドミトリー教会が美しい。 皇位をめぐってはどこでもどろどろした話は尽きないがわが国ではその地点には石碑を立て別の場所に寺院を建立するのが普通だがロシアではまさにその地点に”血の上(spilled )の教会"を建てるものらしい。ここにもクレムリン(砦)があり、その内部には下のような教会がいくつかある。 丁度学校は期末休暇の開始週とかで小学生が遠足に来ていたが田舎の学校で日本人が珍しいらしくヤポンスキーだと言おうと喜んでよってきてポーズをとる。外国の田舎へ行けばどこでもそうだが写真を撮り画面を見せるとたいそう喜んでくれる。 教会周辺はやはりライラックや他の花々の盛りであった。 この町はモスクワと同じくらい古い町で歴史があり、また”ヤーチャイカ、私はかもめ”のメッセージで有名な 女性宇宙飛行士テレシコワの出身地でもある。そのためかチャイカというロシアの時計ブランド工場もここにある。 (ウグリッチのシティイセンター)翌日の上陸はヤロスラブリで”ソビエト広場”では下の写真のようにソ連時代を偲ばせる町の公会堂があり、多分ソ連時代は鎌の部分は赤と黄色に彩色されていたものと思われる。 次の日はゴリツイーでこの島は人口600、200の湖、90の川がある。近代的施設の全く無い自然そのものの島である。丁度この日は日本のお彼岸のような日で花を手に祖先の墓参りをする徒歩の人たちを多く(人工600の島では何人か)見かけた。ここにはロシア正教最大規模の男子修道院があり 確かこの水は長寿と美容の魔法の水との説明があったがわが観光団の人々は誰も手をつけなかった。皆な満ち足りた人達ばかりなんだなあと感心した。ちなみに私は一寸だけ手を浸してみたが今回の旅行で始まった坐骨神経痛には即効がなかった。 船着場の周辺に小高い丘があり、村出身の戦没者の慰霊碑らしきものがあり、老人がお腹を見せて戦傷らしきものを見せた。一昔前の日本の白衣の傷痍軍人を思い出していくばくかの寄付をした次第。 あたり一面にはわがグルシュコフ号と島々、そして一面のタンポポと草を食む数頭の羊、わが夫婦のみの世界であった。 (つづく)
2007.06.28
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水門(閘門、Lock)水門とは河船運行に特有のもので急流や落差のあるダム(堰)を行き来するデバイスで、正確には閘門(Lock)と言うものである。今回のロシア船旅の航路標高差を示すのが下の2枚の図である。下の図は右上のモスクワ川から始まり3つの水門を経て船は一気に42mも昇る。後はモスクワ運河を経てボルガ河に入りゆっくりとヤゴスラブリまで下ってゆく。後はまたボルガ河を遡り、広大なRybinsk貯水池を経て今回の水路の最高点(バルト海海面より112m)に上り詰める。 あとは下の図に有るように連なる水門を通って一気に標高を下げ途中Lake white, Lake Onega, Lake Ladogaを通ってサンクトペテルブルグ(標高 ゼロm)に達する。 私が今回楽しみにしていたのが多くの水門通過だ。そもそも私がLockに興味を持ち出したのは下の写真である。 20数年前に友人がStradford upon Avon を案内してくれたときこのような手動の水門を通過するナローボートを発見した。この堰板を開閉するのは上部の大きな横棒である。腕では支えきれないので御尻で棒を支え腰で操作する。操作を終えたお父さんが家族の乗ったナローボートの上昇を待って居る。このときばかりは家族全員が動員される。この家族の連帯がナローボートトリップの大切なとこららしい。 下の写真も昔のものだがこれはモーゼルの急流を下った時のLockでこれは急流を下るデバイスだった。ラインと違って大型船がモーゼルを航行できない理由がこれである。 下図は今回の旅で初めの頃に通ったモスクワ運河のLockでなかなか立派なものであった。絵の最左端、橋の上に人が見張っており(見えるかな?)、水が満ちるとやおら河岸に降りてきて堰板を開けていた。 段々と立派な水門が現れ、ステーションが両側に立ち立派な彫像装飾まである。 最初船が入ったときの水位は下の写真で壁がぬれている位置である。これだけ一気に船を上げたり下げたりできるわけだ。 今回の船旅で最後に通った水門は実に立派なステーションを持っており、すべてが電動式であったが両側タワー部の上方に見張りようバルコニーが見え、なんだか小さなお城の観を呈していた。最初の写真と最後の写真を見比べて同じ水門でもなんと違うものだろう。 なにはともあれ水門見物と言う点では大いに満足の旅であった。
2007.06.22
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ボルガ河船窓風景一週間、河船でモスクワからサンクトペテルブルグへと航行した。ボルガ河を下ったと言いたいところだがそう単純な話ではない。河を登ったり下ったりの航行なのだ。したがって標高もバルティック海を基準に最高162mまで登ることになる。5月下旬のロシア北部はどこもみずみずしい新緑に包まれライラックをはじめ木々は淡色の花を持ち地面はタンポポの黄色で満ちていた。我がキャビンの窓の風景を紹介することとしよう。 河畔は多くうっそうとした白樺などの落葉樹帯時々上のような農村や都市住民のダーチャ(簡易宿泊施設つき農園)が現れる。 5月下旬のロシアは記録的暑さでモスクワでも連日超30℃、裸で釣りをしている人もいた。とは言っても一日航行して数組であるが。 数えるほどの人家しかない河畔の農村に鐘楼を持つこんな立派なロシア正教の教会がある。ソ連時代も農村では信仰が息づいていたのだろうかそれともソ連崩壊後再建されたのだろうか。どの教会も修復か復元されたのだろうか。いづれも比較的新しく見えたのはそのせいかも知れない。 水面にゆれる教会の影も青い空と春の陽気を楽しんでいた。そしてこんな静かな流れにも海難はあるのだろうか航海の安全を守る小さな中州に建った女神像の姿は心を落ち着かせてくれる。河は時々大きな流れから海のような大きな湖に出るその河口には決まって小さな島々が横たわっている。どのようにプログラムされているのか細い流れではあまり出会わなかった逆行船が湖でよく出会った気がする。 細い流域の川も時々大きな湖に出る本当に大きな湖で水平線しか見えない。そして狭い流域では森に沈む夕日ものびのびとゆっくり湖面に沈んでゆく。北国の夕日は毎日夕食後の10時半過ぎであった。 その夕日も日によってこんなに表情を変えてくれる。この時刻わがキャビンは部屋の隅々まで光に満ちている。また明日も晴れた暑い日が訪れるようだ。
2007.06.21
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クレムリン赤の広場を過ごしてモスクワ河から王宮内部のクレムリンへと入場した。混まないうちにと言うことで開場を待って武器庫に入った。初期の頃武器工場だったことからこう呼ばれるが帝政時代すでにここは皇室用の家財宝石類の工場だったらしい。サンクトペテルブルグに遷都した後はロシア最古の美術工芸博物館となり今日に至っている。ここでの最大の見ものは王妃皇女に贈られたイースターエッグだ。ロシア正教ではクリスマスよりはイースターを盛大に祝ったので卵を模して作られた宝石をちりばめたこれらのイースターエッグは絢爛豪華そのものだ。 約30個のエッグは10個がこの博物館に約10個がアメリカの富豪Forbs家に、数個がイギリス女王の下に有るらしい。何れも革命で亡命した王家の一族が持ち出して生活の糧にしたものであろう。写真撮影は禁止なのでここには無い。 前のブログに載せた聖ワシリー寺院、残念ながら入場は出来なかったが外観はクレムリンの塀越しに赤の広場から見たものに比べてこちらが正面だけに細部が見える。ソ連時代多くのロシア正教の寺院が生き残ったのを疑問に思っていたが多くの建造物そのものが博物館として生き延びたようでこのワシリー寺院も博物館のようだ。 同じような教会の建物に入るのにあるところでは脱帽を要求され別のところでは着帽OK。この差は現在寺院か博物館かの違いのようだ。次の写真は歴代皇帝の戴冠式も行われたウスペンスキー聖堂。団体旅行の情けなさ、入場していないので現在寺院か博物館かは確かめていない。 ウスペンスキー聖堂は後宮もこのように立派なものだ。 もう一つの寺院もなかなかの佇まいだ。 一度も鳴らしたことがないというこの鐘も有名ですよね。ロシアの少女はどうしてここまで可愛いのでしょうか。この子達も30年後は相撲取りみたいになるのでしょうか。 上の写真のクレムリン内の迎賓館ソ連時代のものでしょうか、以外に質素ですよね。 そしてこれは大統領のアパートメント(公邸)。これもまた質素ですよね。エリチン大統領はここでウオッカをあおっていたんでしょうかクレムリン内にもいたる所ライラックの花盛りでしたが、ライラック以外にもこれは一寸変わった豪華なものでした。
2007.06.20
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もう入力法を忘れるくらい久方ぶりのブログだ。この間JRジパングクラブを利用しての東北旅行、ボルガ河クルーズ、そして坐骨神経痛の始まり、病院通い、次の海外旅行の調査企画などしているうちにあっという間に一ヶ月が過ぎた。今日はロシアの旅を想いおこすために入稿する。5月下旬、成田のホテルに前泊してアエロフロートにてモスクワへ。アエロフロートは25年ぶりだ。前回の機材はイリューシンで確か3列3列、まず乗り込んでドアが閉められエヤコンが入ると必ず噴出し口から霧が出てきて室内は少し霞んだものだ。そんな期待を尻目に今回はボーイングで何の変哲も無い3,4,3列の座席。スチュワードの態度は少し気になるもののまあ普通のフライト。今回は私にとって2度目の団体旅行だ(前回はナイル川クルーズ)。いつも個人旅行の私にとって驚きは空港で自分の荷物を確認すると後は自動的に船のキャビンまで運んでくれる。本人は待ち受けたバスに乗り込み直接船にチェックイン。なんだか昔の富豪の気分だ(と言っても私達のキャビンはシャワーだけのツイン)。翌朝埠頭に横着されたバスで赤の広場とクレムリン見物へ 赤の広場の建造物実を言うとここはソ連時代に一種の不法入国で見物したことがある。この広場はソ連時代と何も変わっていない。とにかく広場を囲む建物が一つ一つユニークなのには感心する。 モスクワといえば必ず出る写真は上の聖ワシリー寺院、だがよく見るとこれは塀の中すなわちクレムリン(砦)の中にある。しかし、赤(ロシア語で美しいの意味)の広場から見るように設計されていることは明らかだ。 これらは確か博物館群のはずだが団体旅行の悲しさ、目で見ればそれでいいものらしい。はい次ぎ !! 社会主義が壊れても、農奴制帝政国家から社会主義共和国への革命を起したレーニンへの尊敬の念は深いようである。我々はレーニン ・・・ スターリンと一列に並べがちだが、いまのロシアにスターリンの影はない。一方レーニンにはいたるところで遭遇する。上のレーニン廟も25年前は大げさな花段で飾られ衛兵で固められていたが今はわずかに2鉢の花と低い鎖のガードがあるのみであった。レーニンもこのほうが落ち着くであろう。ただこの廟は骨でもなく、ミイラでもなく遺体が冷凍保存されていると聞く。 広場を挟んで廟の対面はデパートだと言う説明だが、この立派な写真と位置関係からは一寸信じられない。スターリン、フルシチョフと続いた冷戦時代、この石畳の広場は革命記念日にソ連がその軍事力を世界に誇示するパレードをした場所だ。世界で始めて大陸間弾道弾を開発し、直接アメリカを攻撃できるとしてそれを曳き回したのもこの広場だ。私が若かった1960年前後には日本の映画館で映画上映の前に必ず世界ニュースがあり、竹脇無我さんのお父さんの竹脇しょうさくさんのナレーションで見た赤の広場の映像が今も私の脳裏に浮かんでくる。その光景がいまもそっくりそのままなのだ。
2007.06.18
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