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森将軍塚古墳館森将軍塚の下に歴史博物館の分館として「古墳館」が有る。立派な展示館であるがドライブで立ち寄る人は見るのも早い。我々電車属は急ぐ必要も無く、たっぷり時間をかけて見た。前ブログにも記したがこの古墳は自然の山尾根を利用しているため少し歪んでいる。特に後円部が完全な円ではなく竪穴式石室の方向も祭祀が行われたであろう前方部に合わせた方向を向いており方形部も偏った位置についている。展示館の復元石室は一つの壁面がガラス越しに眺められる様になっており内部の様子がよく分かる。石室の石壁は赤いベンガラで彩色されていた。石室の玄室には下の甕棺が納められており、その埴輪甕型棺は本体・上下と3つの部分からなっている。中央部の壊れは盗掘によるものか発掘時の傷かは分からない。前方後円古墳の縁には大きな埴輪が並べられていたことは以前記したがそれら装飾用のものの他に実用品も多く見られ、通気口を有する下の例は棺桶として用いられたものだろう。また埴輪といえばすぐ土偶埴輪を想い起すがそれらは秦の死皇帝の兵馬俑と同じく死者を護衛する軍団に使われたがここの古墳からは見つからなかったみたいで一体も展示されていなかった。ここでは使用目的によって多様な埴輪が見つかっており、壺型埴輪朝顔型埴輪円筒埴輪なかには下の壺の様に明らかに実用品で巨大(荊m、高さ1.2m)で考古学的調査から大坂堺で造ら得たものがここまで運ばれたものだそうだ。 その他獣骨を使った矢じりなども発掘されている。興味深いことに三角縁神獣鏡の破片や勾玉の様な玉も発掘されており大和王権との関連が近かったことが分かる。
2013.04.30
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森将軍塚今回の旅では初日に塩山で桃の花を見、次の日は越後高田で桜を満喫した。最後の日は高田から長野に引き返しあんずの花を愛でようと言う魂胆であった。塩山がそうであったように標高の高い畑にはまだ少しは咲いているだろうと思ったが長野駅の観光案内所で聞くともうほとんど期待できないとの答えである。そこであんずの里の手前に有る森将軍塚を訪ねることにした。後で知ったことであるが前日には天皇皇后陛下が杏の里を訪ねた後やはりこの将軍塚を訪問した由である。この前方後円墳は1650年前のもので全長約100m、善光寺平と千曲川を見渡せる山の尾根に造られており、自然の地形を利用しているため前方部は少し直方体からずれている。この復元には昔通り土と石だけで行われ、そのため今年1月には前方部が崩れ今は修復中で一部ブルーシートが懸けられていた。森将軍がいた訳ではなく正確には誰の墳墓か不明であるが善光寺平を見渡せるこの地にこのだけ大規模な墳墓が造られたのは相当の軍事的支配者だったろうと言うことで地名の「森」をとって「森将軍塚」と呼ぶことにしたそうだ。古墳と言うと草木の生い茂る場所を創造したくなるが古墳時代の墳墓はこの様に表面は葺石と呼ばれる石が積み上げられ廻りに埴輪の並ぶ姿が本来の古墳だそうだ。そう云った意味で私は本当の古墳の姿をはじめて見たことになる。宮内庁が英断して幾つかの天皇陵がこの様に復元されればと願うのみである。この古墳の周りには下の写真後方の尾根筋に見られる様な小さな円墳が多数あり、一族縁者の墓であろうとされている。下の写真でここでは3つの様式の大型埴輪が並べられていたことが分かっている。後円部の真ん中下の写真で点線部には竪穴式石室の玄室が有り現在知られているものとしては最大級のものである。
2013.04.29
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高田の夜桜越後高田の桜は”日本三大夜桜” とも言われているそうだ。夕食後はやはりシャトルバスでお城で行くことになる。と言うよりも夜桜を見る為にここまで旅してきたのである。幅広い関川・外堀の水面に映るぼんぼり灯りの影が美しい通りの花も照明灯で浮かび上がって映える。色そのものは賞味し難いが夜空の背景にひときわ目立っている。昼間は邪魔でしようがなかったぼんぼりも灯りが入ると様になる。但し施主の名前入りは興ざめである。昼間にもまして照明で浮かび上がった高田城は美く、桜の花びらを透かして眺めるのはまことに興が湧く。我が心の師兼好法師なら何と綴るだろうか。昼間あれほど見苦しかったテントの露店であるが桜の濠に映る夜の遠景としては美しい映像になる。写真ではよく表現できていないが空一面の花の雲である。さらに上を眺めると花の上には上弦の月。換算表を使うとこの日は旧暦で3月6日。越後の春は遅く、西行の歌う 「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の望月の頃」。如月・望月は旧暦2月15日なので今年であれば3月26日が旧暦如月の望月の日であった。 そう云う訳で越後では如月の望月の日にはまだ桜は望むべくも無い。高田のホテルでピックアップした上のパンフレットには夜桜と満月(望月)がばっちりコラボしている。とすると旧暦3月15日の月であろう。今年なら4月26日がこの日に当たる。今年は日本全国大体10日位桜の開花が早いことを考えるとこんな光景も十分あり得るわけだ。それにしても歌に詠み、そのとおり如月の望月の頃(16日)に入滅した西行にはやはり北面の武士魂を見る気がする。月を見て感傷にふけってしまったがもう子供は帰る時間。年を取った子供も帰る時間となった。"Child is the Father of Man" (W.Wordsworth)「雀百まで踊り忘れず」 の訳あり。天気予報は雨だった、この様な予報外れは大歓迎である。
2013.04.28
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桜の中の高田城高田城は1614年幕府の命による築城で、幕命により伊達政宗、上杉景勝、前田利常、蒲生氏郷、最上家親などそうそうたる大大名がこれに当たっている。工期はたったの4カ月、蛇行する関川を外堀とし、石垣の無い土盛りの上に建つもので天守閣も無い。さすがにこの工期ではそれらは無理だったようだ。大坂夏の陣を前にして親豊臣の上杉、前田らの勢いを削ぐ目的が有ったみたいである。天守が無いとは言え三重の櫓の外見は天守の威容を持っている。天然の川だけに外堀の幅は広くどこまでも続く、その周りは桜、桜。そして花の後ろに見事な櫓(とは言っても最近復元されたものであるが)明治維新の急ぎすぎ政策で江戸時代の城は殆んど破壊され、米軍の空襲などもあり、私が若い頃は旅行してもどこも建物の痕跡も無い城の天守の石垣を昇って往時をしのぶだけであったが、1970年代のバブル時期以降どこの地も城郭の復元に熱心になって今は多くの城が復元されている。下の2,3葉の写真は昔の上級藩士が毎日目にした光景であろう。高田城は冒頭に記したように石垣を築く時間が無く、土盛りの上に建つ櫓が天守台代わりである。石垣の上に聳える楼閣を見慣れた目には何か親しみやすい気がする。花見や月見にはこの位の規模が良い。櫓の上から見る外堀と内堀の間を埋め尽くす桜の海を眺めたり甍に浮かぶ一本の桜を愛でるのも風流である。入り口前の土塀には狭間が再現されていたので覗きこむと弓矢を射る為の穴と言うよりも桜を愛でる為の額縁に見えてきた。云えば大邸宅の風流な廊下の壁にこんな形の障子窓が有りそとの樹木の影を映す障子スクリーンの役をしていることを思い出した。往時の殿様もこんな楽しみ方をしたのかもしれないそれにしても春爛漫、こんな城は戦時は何の役にも立たなかったことだろう。
2013.04.27
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高田城の桜東日本には多くの城址公園に桜の名所が有る。中でも弘前城祉、会津若松城址、松本城祉、高遠城址はいずれも訪れたことが有る。忘れてならないのは越後の高田城址公園である、そこで今年は高田行きということになった。そこはもう広大な城址の何処へ行っても桜、桜。外堀は自然の川を利用したものだけに巾も長さもその面積は半端ではない。場内の見どころを結ぶシャトルバスが3コースも運行されている。正面の雲の影には名峰妙岳が望めるがこの日はそこだけ雲が。桜ロードと呼ばれる一画は特に華やかで人も多い。桜の咲く範囲が広く、沿道の花を見たり場所を移動するために3コースのシャトルバスが用意されているが私達は歩いて見える範囲の花を見ることにした。内堀に沿って再建された三重櫓が水に影を映していた。この城にはもともと天守閣が無く、三重の櫓が建つだけであるが、桜の花の添え物としてはそれぐらいが丁度良い。どこへ行ってもただ桜、桜であるが残念なことに何とも無粋なテントの露店が多すぎる。ここに限ったことではないが露店の下げビラを何とか帰省できないものだろうか。折角の景色にペンキをぶちまけたみたいである。
2013.04.26
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高田の街全国に高田と言う地名は多くある。ただ正式には奈良の「大和高田市」の様に接頭語を付けている。単に高田と言えばここで、他と区別するため「越後高田」言われることもあるが、単に通称である。豪雪地帯として知られ、中学か高校の社会科の教科書に日本の豪雪地帯の生活として新潟県高田市の雁木通りの写真があったことを思い出した。通りに面した家は道路側の庇を道路上に延ばして歩道を屋根付きにして往き来していた。駅も塔屋を配した見事な造形である。駅前通路はこれも雁木をイメージした木骨の屋根で覆われている。雪に閉ざされた冬期には便利な構造であろう。雁木通りをイメージした駅前広場はメインストリートに続き、屋高の高いアーケード街に変身しているが上部には明かりとりの屋根付きガラス窓が随所に設置され景観的にも美しい。雪国と言えば暗い感じがするが積雪期を過ぎ、桜が咲いて雪国の春は心を浮き立てるものだろう、街は明るく生き生きとした雰囲気に満ちている。開府400年と有るが越後の藩都が上杉謙信の春日山城から同じく現上越市に有った福嶋城に移りさらに今の高田市に移ったのが1614である。ホテルが駅前だったので夕食後街を覗くと駅の雁木広場のステンドグラス風飾りが目立った。再開発で整備された模擬雁木は明るすぎるので横丁に入って古い雁木通りを探すと下の光景が目に入った。タバコ屋の看板も懐かしいが大きな窓ガラスに改造された家の前にも立派な雁木が付けられており通りが続いている。印象としては個人の軒下か私道の感じであるが、実際この部分は個人の施設であり私道らしい。通りに家を持つものは軒下を伸ばして公開するのがコンミュ二ティーの不文律だったのだろう。雪国で支え合って生活する者の工夫である。よく見ると天井裏には雪除け板であろうか私物と思われるものが収納されている。この様な雁木通りは高田だけのものだはなく、雪国には所々でみられる。青森県黒石市では「こみせ(小店)」と呼んでいた。「雁」の源が興味深いがはっきりしない。鴈の群れ飛ぶ形がぎざぎざしており、雪国の冬の作業場としての広い軒下がこれに似ているのか「雁木」と呼ばれるそうだ。「雁木」には雁、鳥の鴈は「鴈」を充てるが区別はあいまいである。
2013.04.25
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甲府城フルーツ公園訪問後石和温泉で一泊し翌日2駅先の甲府駅で乗り換え、列車が甲府駅に着く直前にいきなり目の前に城の石垣が見えてきた。幟も裏文字で「信玄公祭」と読める。以前聞いてはいたが線路の横が石垣である。何十年間も甲府駅は通過しているのに気が付かなかった。要するにごく最近まで市街地になってしまっていた所に巨大な城を復元し始めたようだ。江戸時代初期は徳川本家の係累や柳沢吉保一族が封じられ以後は幕府の天領として納められており、東日本屈指の大城であったが、元々は秀吉の命による築城であり、信玄公が居したことは無い。甲府駅でホームに降り立ち右を見ると石垣の上に櫓が聳えている。ホーム反対側を見ると鐘を吊るした時の鐘塔が聳え、鐘楼の左手前には武器庫みたいな棟と城の御殿風の屋根が見える。予定の次の列車にしても松本での乗り換えには間に合うので途中下車して天守に昇ってみることにした。立派な城壁は石材をあまり加工せず小石をはめ込んで固めた「穴太(あのう)衆積み」である。汗をかきながら急いで天守跡に登ると周囲がよく見える。駅のホームからは屋根しか見えなかった線路の向こう側の櫓御殿が指呼の距離に有る。鐘楼の鐘もはっきり認められる。下の写真右は時に見える鐘楼も石垣の上に立つ御殿や武術訓練所と思われる広場も全てJR線路の向こう側になる。と言うことは甲府駅は「舞鶴城」とも愛称されるこの甲府城の中核部に位置することになる。明治人の歴史感覚はどうなっているのだろう。城跡を抹消してそこに鉄道駅を作るというのは正しく明治維新の動向である。志士達が何がなんでも江戸時代の名残を消し去って新しい時代を築こうとしたその意地は分からないでもないが過去の歴史は留めておかないと次の世代を築く礎にならないのではないだろうか。文化遺産・歴史遺産を復元しようとする現代の動向は観光化へのコマーシャリズム中心でなければ重要と思われる。また観光化だけが目的としても観光客の意識に残れば十分その目的にかなうのかも知れない。それにしても石垣を崩して天守閣の下にレールを敷くというのは一寸大胆に過ぎる気がする。天守から見る南アルプスの白い峰を眺めた領主や藩士が山から大きな青雲の志を貰ったことだろう。
2013.04.24
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山梨市桃源郷フルーツ公園塩山桃の里を後にJRで2駅移動し遅めのランチを取るため山際のフルーツパークに有る富士屋ホテルに向かった。レンガ色であちこちに搭を持つこの建物は高原に似合う造形である。本館と結婚式場を結ぶ回廊にも赤絨毯が敷かれている。突然オルガンの音が響き新郎新婦が入って行った。数名の見物人が興味深そうに覗きこむと係の人がどんどん式場に誘い込んでいる。変だなと思いながら遠くから眺めていると新郎新婦が腕を取りあって出てきた。しかしドレスアップした参会者は一人もいない。親の許さぬ結婚でも何人かの友人くらい祝ってあげればいいのにと思いながら見ていると、先ほど誘いこまれた普段着の人達が紙吹雪を撒き始めた。レストランの待ち時間が来てロビーには入ると大きなポスターがあり、未婚の人を対象にて衣裳、化粧、写真付きで一日何組かの無料結婚式体験だそうだ。見物人の協力が必要だったみたいである。残念ながら此の日は霞んでいてホテルから富士山は望めなかったがレストランのランチメニューに「赤富士カレー」と言うのが有ったので1人はそれにしてみた。出されたものは赤富士が雪を冠った形だ。赤富士には赤米を雪には白米を使った盛っただけであるがアイデアは良い。食後テラスに出てみるとまだかすかに花を残す山桜、南アルプスにはまだ真白な雪に覆われていた。本当は真近の山々も春霞の中である。階段の下にはパンジーを中心にした花畑が広がり、フルーツパークエリアには3つの巨大なガラスドームが見える。ドームに近づくと色とりどりの花桃が咲き乱れていた。3つ有る巨大ドームの中は子供の遊具公園、植物園などが有り春の桃花、秋のブドウ狩り以外でも子供連れが楽しく過ごせる空間を作っているようだ。この甲府盆地ではミカン以外は殆んどの果物が栽培されているみたいである。この地では農家でもお米は外から買い入れているそうだ。桃の花とも思えないボリューム感一杯の赤い花びらや一つの枝から2色の花が咲いているものもあって結構華々しい。最後に下からホテルのある丘の上を見上げるとフルーツパークと言うよりもフラワーパークと言った感じである。
2013.04.23
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塩山桃の里 2塩山には有名な慈雲寺がある。ここの名物は天然記念物「糸桜」と樋口一葉文学碑。永年なら満開期だが今年は4月14日にはこの姿。樹齢300年に以上と言う見事な枝ぶりであるが、桜古木の樹齢について先日新聞の投書欄に面白い記事が有って、或る寺の桜の樹齢は当代・先代・先々代の住職は300年以上と称しているそうだ。つまりはそれ以上は分からないと言うことだろう。それで良いと思う。慈雲寺は寺そのものが畑の中に有るが門前の樋口一葉像も畑に囲まれている感じ。24歳の早世とはいえあまりの可愛さにお爺さんはうっとりである。本堂横には日本で有数の一葉文学碑が建っている。碑文は幸田露伴、賛助者として名を連ねた人は:佐藤春夫、田山花袋、坪内逍遥、森鴎外、与謝野寛、与謝野晶子。教科書に名を連ねる人達である。さて一葉と慈雲寺の関係はと言うと是が大したことは無く一葉は慈雲寺を尋ねたことも無いと言う。要するに両親がこの在の出身、父が少年時代この寺の寺子屋で学んだと言う。一葉は両親から多くを聞き作品中にこの山里がしばしば描かれているそうである。近所の村落では盛んに桃の受粉作業が行われていた。前ブログで記したように摘花された桃の木の残り花に白い花粉を吹きつけている。この粉末にはカタクリの粉が混ぜられているそうだ。本来なら筆を使って手で受粉させるのが常道であるが人出不足の現今、片栗粉を混ぜて噴霧器を使って作業するのだそうだ。桃の花の摘花をしているおじさんは体中に花びらを浴びていた。その人の説明では桃には2種類あって下の始めの写真のように雄蕊群の中央部に長い雌蕊が突き出ているものは自家受粉出来ないので人工的に花粉を散布する。一方次の写真のように雌蕊が雄蕊より短く、雄蕊の中に埋もれていているものは自分で受粉出来るのだそうだ。桃の花にもそんな違いが有るとは知らなかった。この山里はそれぞれ立派な家構えである。それぞれに凝った家紋を配した屋根部分は威厳があり、これらの甍は桃の里に相応しい佇まいである。ピンクの海に浮かぶ山里の風景は日本の原風景そのものでこの時期地元の人の感情は別にして旅人には正しく桃源郷に見えてくる。
2013.04.22
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塩山桃の里 1花の季節はひたすら我が相棒のお供である。あちらに行くといえばはいそうですかと従い、こちらに行くと言えばはいそうですかと従う。ある意味気楽な季節である。随分悩んだみたいだがあちらが良ければこちらが早く、そのまた彼方は時期遅れ、最近はiPadを覚えて開花情報に余念が無い。というわけで今回(4月中旬)はまとめて甲信越への旅をした。甲府盆地は桃の花、段々になった桃畑の上段のまだ残り花を期待して大菩薩嶺の麓の塩山・慈雲寺を目指した。タクシードライバーに聞くとまだ残っているとのこと。黒澤明監督の映画で段々畑をぬって桃の節句に雛人形たちが花見に出かける光景があったが正しくその情景が広がっていた。この映画は黒沢明が見た夢を映像化したと言うオムニバス映画、日米合作著作権はワーナーブラザースが持ち現在日本には国立フィルムセンターに一本保存されているだけだと言う。私は公開当時(1990年頃)テレビで見て何時かこのシーンを見たいと思っていた。惜しむらくは斜面の中下段はすっかり花は終わっていたので映画のように見渡す限りのピンク色というわけにはいかなかった。ただ花が終わりと言っても桜とは少し事情が異なる。ここは果樹園なので果実の収穫が優先される。受粉最盛期になると惜しげも無く花を間引いてしまうのだ。作業中のおじさんは手袋を付けた手で枝をごしごしとしごき惜しげも無く花を落としてゆく。こうして何段階かに分けて数を減らし、一枝につく果実を減らして育てる。一段目の摘花が終わった段階で人工授粉をすると言う。桃の木の下は野草の生え茂る原っぱと言った感じで春の野草に満ちている。下の2葉の写真は摘花前後の桃畑である。四方を山に囲まれた日本の代表的盆地を見下す風景はこの日のぽかぽか陽気と相まって、一組の遊山客が発するバーべキュウの香りを嗅ぎながらコンビニで求めたおにぎりに頂いた。
2013.04.21
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Boston マラソンボストンマラソンのゴール前での悲劇 亡くなった人々に心から哀悼の意を表し、怪我された人々に心からお見舞申し上げます。でもどうしても合点がいかないのです。今回の二人はロシア・チェチェン共和国からの難民とも聞く。確かにチェチェンはロシアでは暴れん坊とかならず者などと揶揄される存在であり、イスラム系の土地柄とは承知しているが、ロシアの押さえつけ政策への反発ならボストンは関係の薄い存在でしかない。百歩譲って抵抗組織によるチェチェン問題の継続を訴えるのだとしても、それなら事件後コンビニで強盗行為をしたり、大学に忍び込んで警官(university police ?)を射殺したりするだろうか。もし運動の一形態なら組織が逃走手段を確保している筈である。いわゆる劇場的個人誇示行為としても事故後の行動が不可解である。何者かに利用された可能性が有るではないだろうか。ケネディー暗殺事件におけるジャック・ルビーのように陰で阿者かが操作している可能性は排除できない。いずれ真相が明らかにされるのか闇に葬られるのか注意してゆきたい。私は1964-1966にかけて2年余りBostonに滞在した経験もあるので急遽Bostonマラソンについて思い出しながら整理しておきたい。Boston のあるマサチュセッツ州では4月19日はPatriot Day (愛国者の日)と言う州の祭日である。愛国者の日と言うと日本ではなんとなく右翼の人が元気になる日の様な感じがしないでもないが、Patriot Dayはアメリカ人なら誰も知っている伝説の日でもある。Bostonマラソンはこの伝説の日にちなんだ催しで、この日に近い月曜日に催され、第一回近代オリンピックに次ぐ歴史が有り、勿論誰でも参加できる市民マラソンでは最古のものである。よく知られているようにアメリカのNew England地方はイギリスの植民地であり、市民はイギリスに高い輸入関税をかけられていた。重税に苦しむ市民はBoston港の船を襲い茶箱を海に投げ捨てた。有名な”ボストン茶会事件(Tea Party)”である。1775年4月英軍(Red Coat)はBoston港を封鎖し、反乱軍の火薬庫と首謀者(John Hankockなど)を攻略するためLexingtonに進軍しようとした。 Old North Church市民側はこのことを察知してPaul Revere とWilliam Dawesを連絡員として、Boston 港を見渡せるNorth Churchの鐘楼からRed Coatが陸路進軍する場合はランタン1個、港からCharlesRiverを渡って進軍する場合はランタン2個を掲げることにした。2個のランタンを目にしてRevere とDawesは別路を辿ってLexingtonへと真夜中の道を急いだ。このことが後に愛国詩人Henry Wordsworth Longfellowによって”Paul Revere's Midnight Ride”として謡いあげられアメリカの伝説となっている。 Bunker Hill のPaul Revere像 Paul Revere's Midnight RideRevereの知らせを受けてLexingtonではMinuteman達が集まり待ち受けて近郊のConcordで戦闘が始まった。これがアメリカ独立戦争の発端である。 Concord古戦場 ConcordのMinuteman像 LexingtonのMinuteman像”Birthplace of American Liberty" の字がみえる。 Lexington CommonMinuteman とは市民義勇軍で独立戦争に備えて変幻自在に活動できるよう訓練された部隊であるが兵隊ではない。まして植民地に軍隊など存在し得ようも無くいわばゲリラ的性格が強かったのだろう。現代では多くの悲劇を生みオバマ大統領をがっかりさせているアメリカの銃規制もこの様な自分は自分で守ると言う伝統が時代錯誤を生む要因の一つであろう。マラソンの距離に合わせるためスタートはLexingtonではなく、BostonをゴールにするためRevereの逆行にはなるが古代ギリシャのマラトンの伝令とMidnight Rideをダブらせたのがボストンマラソンである。もう大勢が集まって一つのことに集中する時代でないのかも知れない。大勢が一つ場所に集まらなくとも情報伝達が容易になり、政見発表会もインターネットで済む時代となり、リンカーン、ヒトラー、カストロ、メッカの祈り、等々大衆を広場で煽る時代ではないのかもしれない。今日はマラソンでの惨事を機に色々考えて見た。
2013.04.20
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春のベランダ花壇甲州・信州へ2,3日春の花見旅行に出かけ帰ってみるとベランダ花壇のサクラソウが峠を過ぎて代わりにツツジが開花して華やかになっていた。大分暖かくなってきたので時々は丸テーブルにクロスをかけて花と駅前風景を眺めながらランチを楽しめそうである。そうは言っても8階のベランダでは風のある日が多くいつもと言う訳にもゆかないは残念である。新しい花や植えた覚えも無い花など咲いたので4月中旬の記録を留めておこう。 左端のオキザリスグラブラはもうすっかり花は無いが緑のビロードの様な表面が綺麗であった。それももう枯れ始めたのであとは来年まで鉢ごとしまっておくことになる。種から育てた西洋サクラソウも大分ピンクが薄れ峠を越えた。代わって植え込みのツツジが開花した、これも例年よりかなり早い開花である。これが終わるとやや大きめのサツキが咲いてくれるだろう。紫のビオラの下には初雪草の苗床プランターがみえる。最近のテューリップはとてもテューリップと思えない形が多いがこれはややオーソドックスかもしれない。去年から仲間入りした宿根ラヌンキュラスもちゃんと花を付けた。 今年から始めた淡いピンクの一種のサクラソウ。何年か前から生き伸びているこれも淡いピンクの金魚草。もう十年も続いているだろうかノースポールの白い花、野生の母子草はエーデルワイスに似た花形であるが色と言い形と言いエーデルワイスよりはかなり上品で可愛い。これもどこから飛んできたのかスミレが一株咲いていた。あまり植えた記憶も無いタツナミソウ(立浪草)、白花もあった。白いタツナミソウは確かにあの北斎の浮世絵に有る白波を思われる。これも寒い冬を生き抜いて咲いた昨年からの宿根シクラメン。最後に初めてお目にかかる水仙の様な葉っぱに咲いた見かけぬ花である。我が家では鉢植えや植え込みの土も買わなければならない、その場合腐葉土を買うことが多いが、けっこういろいろな種が混じっていてきて、思わぬ時期に思わぬ花の咲くことが有る。その多くは普通の雑草であるが初めて目にするものも時々出現する。そんな訳で花が咲くまでは雑草と言えども育てるが殆んどは雑草中の雑草である。
2013.04.18
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観蔵院庭園桂文治落語会については前回のブログに記した。その落語会は練馬区にある観蔵院ニ併設された曼陀羅絵美術館で行われた。私は以前から散歩の道すがらここを何度も通ったことが有り、前々から美術館を見たいと思って何度か足を運んだがその都度「開館・土日」の掲示を見て無為に帰って来た。今回はそこで何と落語を聞くことが出来た。ここの住職は最近まで大正大学の学長を務めておられた仏教学者小峰弥彦氏である、また夫人は仏画家・研究家の小峯和子さんで曼陀羅絵の蒐集品、自作を展示したのがこの美術館。今回は公開日以外の落語会なので曼陀羅鑑賞はまたの機会にして庭を拝見した。多宝塔脇にはもう赤いシャクナゲの花が咲いている。本堂脇にはピンクのシャクナゲが群生しているがこれだけ派手に咲いているのにそれを見る人は殆んど無い、あまりにも可哀想に見えた。藤棚の下には石卓が有るが座るにはまだ一寸寒い、卓上も足元も花絨毯である。足元を見ると何種類かの遅咲き八重水仙が見える。下の白咲き八重水仙には花の中に数多くの斑点が見えた。あまり見かけない種類である。早咲きの桜はもうすっかり葉桜になっていたがまだ盛りの遅咲き枝垂れが美しかった。枝垂れは色がよく姿がよく、花期も染井吉野より早いものと遅いものが有り私の好みである。桜を引き継いで活躍するのがハナスオウとミモザであろう。ハナスオウはヨーロッパにも分布するのだろうか、かって訪問した オリンピアの競技場に大木の並木があり、古代ギリシャのアスリート たちが行き交う並木を花のトンネルにしていた光景を思い出す。 正確にはこれらは西洋ハナスオウで日本のものと違って高木にも なるらしく、ユダがこれで首をつったとかでユダの木と呼ばれることも あるそうな。 ミモザも西洋的な印象の花であるがオジギソウ科の植物全般を指す 語らしい。それにしてもあの鮮やかな黄色は印象的である。昔から 恋の歌に多く出てくるのは桜のようにパッと散ってしまわないのが 良いのだろう。 花言葉は”感じやすい心”だそうだなるほど。
2013.04.13
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十一代桂文治落語会昨日のブログで詳しく記したが、落語の桂文治さんの紋所が下の左で右が私の紋所である。 紋所の因縁で桂文治さんについて調べて見た。落語の桂流は上方の桂(文(三)枝、文珍など)と江戸方桂(文治、歌丸)などであるが、宗家は東西の桂とも桂文治で、現在上方桂の止め名(最高位)は桂分枝(去年までの三枝)、江戸方の止め名は桂文治。そうするとテレビにはあまり出なくとも桂文治は大変な名跡である。桂流宗家の十代文治は日芸協会会長の満期日(2004・1・31)に他界、会長職は桂歌丸が引き継いでいる。その後桂文治の名は途絶えていたが昨年(2012.9・21)弟子の平治が十一代を襲名している。そして歴代桂文治の印が冒頭の「結び柏紋」と言う珍しい紋所なのだ。急いで取って返し駅に戻ると先ほどからの案内幟の所に一人の老人客が来て会場への道を尋ねていた。観蔵院は私の散歩の範囲内なのでご案内しましょうと声をかけて出ようとするとまた一人羽織姿の人が近ずいて会場への道を尋ねた。すると案内の人が「アッ師匠!!」と叫んだ。振り返ると羽織の紋どころは結び三つ柏である。私は「ご案内します」 と言って先に立った。かなり長い道のり(約10分)の道中、付近の農村からの変貌ぶりや道中の桜並木の残り花の話などしながら会場の寺に着いた。この寺は曼陀羅美術館を併設しており、この日の落語会はその美術館広間で行われた。この寺の住職は前の大正大学学長を務められた方で奥さまは仏画研究の大家だそうだ。我が家から徒歩15分の距離なので曼陀羅絵はまたの機会にとあまり観覧しなかったが、臨時客席の横には大巾の美しい曼陀羅絵が掲げられている。落語は美術館の極楽の天女を描いた壁画の前の高座で演じられた。実に熱演で今更ながら生の演技に酔いしれた(笑い転げた)。テレビと違って時間制限が無く、2時間半近くを二つ目の三遊亭昇々さんと二人で演じ切った。青年期の昇々さんはその勢い熱意が十二分に伝わってくる真作落語を披露。文治さんは長い持ち時間を今日の出来事・最近の世相など取り混ぜて2席を披露。その枕話の中で駅から会場まで私と二人で交わした会話の内容が語られたのには恐縮した。二つ目春風亭昇々真打ち十一代桂文治さんは1時間近い第一席と休憩をはさんで11代桂文治もう一席これまた長くて色とりどりの枕話でご機嫌をとり、春の花祭りや会場が寺などことを考えてかお釈迦様の生誕に関する演題をこれ以上ないと思われるような話術で笑わせてくれた。宗家と言えどもまだ壮年エネルギーに満ち溢れた語り口である。大いに元気を吹き込んでくれた。隣席のご婦人は自宅を流され練馬の知人宅に身を寄せていると言う石巻の津波被災者であった。引っ込みがちなので知人に行って来なさいと勧められて初めて来た落語会だそうだ。このご婦人がお腹をゆすって大声で笑っている姿を見て私まで幸せな気分になった。
2013.04.12
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紋所先週の金曜日所要が有って外出して帰宅時最寄りの駅で下車する際2階改札口に印半纏を着て幟を持った老人が立ていた。ふと振り返るとその背中に下の紋が染め抜かれている。私はこの文様とちっと因縁が有るので気にしつつエスカレータで一階に降りると別の老人が同じ出で立ちで道案内をしている。 その半纏の襟元には「十一代 桂文治」と染め抜かれている。私はこの紋どころが落語界の名門で東西(江戸・上方)の桂一門が多く用い、特に宗家の桂文治が代々この紋どころを使っていることを知っていた。そして私の紋が下の印章である。 わが国では家紋は家・一族の印であるが、西洋では個人のものである。紋章を見れば出身家や一族内での序列なども分かるらしい。もともと戦に出た時の手柄をはっきりさせるため鎧に付けたのが始まりと言う。英語では”Coat of Arms"と言うそうであるが正しく甲冑の上に描かれた模様を指す語であろう。我が国では皇室で個人紋が用いられ”お印し”と呼ばれており、たとえば美智子皇后のお印は「白樺紋」である。ある時私も自分の紋章印を作れば本などが後で人手に渡った時でも余計な憶測をしなくとも良いし便利ではなかろうかと考えて製作した。紋匠の手をわずらせる程のこともなく、自分で考えることにした。私の実家の紋は丸に三本線の"三つ引き紋"なのでこの要素を取り入れる。角がなく、どの方からも違わず、太陽や原子の形、中心からどの方向にも長短がない、また平和、調和、真の象徴として丸を組み合わせることにした。[色即是空 空即是色]、禅でも円はその真髄を表すものとして良く描かれる。そこで一つの大きな円の中により大きな一つの輪を折り重ねて三葉として三本の線を葉脈様に配した私の個人文様を作成した。この[変形三つ葉紋]を印章に彫ってもらったのが下の押印である。 輪の組み合わせ紋様としては大きなプロジェクトの下で制作されたトヨタ自動車のエンブレムがあり、近年の傑作として知られている。なお、三つ葉紋とケルト文様や数学の分野である"位相学(topology)の関係についてはは興味深いホームページがあり、私の個人紋作成には大いに参考にさせていただいた。私の紋の押印で外円の中に納まっている三葉を形造る紐は一つの輪を折りたたんで出来る幾何学模様であるが冒頭に示した桂文治さんの輪は少し凝っていて下の図のように一度半結びして二つのループを作りこれを三葉に折りたたんで出来る凝った図形の紋である.上のホームページの記事を引用させていただいて説明すると、最初ロープを半結びする時右結びするか左結びするかで2種の立体図形が出来る。 結び型で違う二つの立体図形は一方を鏡の中の像(鏡像)とするともう片方は実物の像「実像」である。この二つは似ているものでも同じものではない。あなたが自分を鏡に写した時鏡の中の人物の心臓は右側にある。右手と左手の違いはあなたが握手する時相手のどちらの手を選ぶかを考えれば明らかだろう。 そこで上の桂文治師匠の紋を見ると明らかに左手型三つ葉結びと言うことになる。 落語の桂流は上方桂(桂文(三)枝、桂文珍など)と江戸方桂(桂文治、桂歌丸)などであるが、宗家は桂文治で現在上方桂の止め名(最高位)は桂分枝(去年までの三枝さん)、江戸方の止め名は桂文治。そうするとテレビになあまり出なくとも桂文治さんは大した方で個人的に会話する機会があったこと感謝した。
2013.04.11
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アネモネの避難先々週の週末もひどい風であった、そして先週の週末も九州から北海道まで激しい風雨が来襲するので気を付けろと言う異例の早期警報が出されて多くの人が足止めをくった。昨年の3月末にも「爆弾低気圧」というのが来襲して甚大な被害を残した。我が家のベランダは孤立したマンションビルの8階に位置し、風の強さは物凄い。我が家では一部の窓に特別のブラインドシャッターを取りつけている位である。ベランダのの植木類は風の当らない場所に避難したり棒に固定したりして保護したが園芸店の店頭ものとは違い越年した草花はやっと咲き始めた所である。相棒は泣く泣く咲き始めた花を切り取り近隣の家に配ったりしていた。家の花瓶は大小サイズが合わないので処分直前の急須やコーヒーポットが借出されてアネモネの避難住宅に充てられた。 切り花を配り、逆に頂いたシンビジウムもこの際同居して貰っている。これはもうどう見ても酔っぱらった狸か「ヒョットコ」の顔である。横から見ると結構美人に変身した「おかめ」さん位には見える。ヒョットコも上から見ると結構立派なブーケに見える。余った花はその場所を求めてトイレまで避難ている。
2013.04.10
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春のベランダ風景先々週前半の関東は風が吹く荒れた、視界は1キロも無い位ですわ黄砂だPM2.5だと色めき立ったが事実はあまりの強風に粉塵や土埃が舞いあがったもので気象用語で「煙霧」と呼ぶらしい。2語を合わせると煙とも霧ともなんの関係も無い現象になってしまう。煙霧が去ると気候は一気に初夏の陽気、間違って桜が一気に開花してしまった。するとまた冷雨続きで今度は寒くて散れず異常に長い満開が続いた。下を歩いている時は極所で季節を感じるが8階ベランダからは季節を大きく捉える事が出来る。 そしてその冷雨があがって西の方から明るくなり丹沢山塊の姿がはっきり見えだしたと思っているとあっという間に東方まで明るくなり、まだ空には黒い雲が去りきっていないのに直線で14,5キロも離れたスカイツリーが輝きだした。こんなにはっきり見えるのはめったにないので懲りもせずデジカメ(TZ30)を取り出してズームアップしてみた。 骨組みや中心に据えられて五重塔の芯棒の役目を果たすと言う 部分が輝いて見える。 ここにはレストランが有ると聞いているが、考えてみればシアトル、 シドニー、フィンランドのタンペレのテレビ塔の回転レストランで 食事をしたことが有りいずれも強い印象を残している。 当分スカイツリーを訪れる計画はないが一度はここのレストランで フルコースでも頂いてから生涯を終えたいと願っている。
2013.04.09
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行幸通り地下街ギャラリー「ふじ丸」ディナーからの帰り、東京駅行きのバスに乗った。改装なった東京駅の夜景を見るのは初めてである。八重洲口の青いイルミネーションのビルが目立つがこれもJRの建物のはず、この上階は何度か食事に行ったことのあるJRのホテルである。バスは丸の内南口で、つい1週間前に開業した中央郵便局上階の商業施設「KITTE」の目の前に着いた。この施設は前の国務大臣鳩山邦夫さんが直前に視察して激怒、設計をやり直させた因縁もの。ちょうどこの日再開した歌舞伎座と同じコンセプトで旧中央郵便局の構造を復元保存しその上に新しい商業施設を立てたもの。国の施設が商業施設と言うことで国もやっと「銭儲け」を始めるようだ。「切手」に因んで「KITTE」と名ずけたらしいがなるほどデザインも「切手」みたいである。さてそのKITTE前から地下鉄に乗るべく地下に降りるとすでにこのブログで何度も取り上げた行幸通り地下街のだだっ広い地下通路。ここではいつも写真展が催されている。この日は「福島の桜・コンテスト」展が開かれていた。通りがかりの無料フォトギャラリーであるがいつも力作ぞろいである。の三大名桜の一つ三春の瀧桜、かって見に行ったことが有るがさすが東北、雪と満開の枝垂れの景色は美しい。次の2作は同じく福島三春の「福聚寺」の桜、住職の禅僧玄侑 宗久さんは芥川賞作家でもあり、テレビの教養番組では貴重なタレントでもある。二枚目と殆んど同じ構図の写真を撮ったことが有る。「春爛漫」と題する夏井川の桜。次の3作は水に映る桜の色が照明や水面の状態で万華鏡のように変わって見えるところをキャッチした秀作。多分これらはレンズを通してからでないとみえない色調ではあるまいか。いずれにしても通路の壁には勿体ない作品である。
2013.04.08
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ふじ丸船内散策今回の富士丸乗船プログラムはディナーの前に早めの乗船をして船内を探索したり、日本のクルーズ船特有の大浴場での入浴を体験出来る。また別料金で半日のキャビン利用もできるし会費を払ってのダンスパーティーに参加したりして過ごすことが出来る。食後はシアターでマジック庄やコンサートが有ったが我々は船内散策をして夕食だけ頂いて帰って来た。建造当時は海上のビルディングなどと言われたが12,3万トンもある現代の大型船に比べれば驚くほどのことも無く建造時を反映してデッキもシンプルなペンキ塗りで船の気分を味わうにはこの方が好ましい。非常脱出用のラダ―も木と麻ロープ製で裸で積み上げてある。これまた好ましい。デッキへの出口窓に1周310mの表示が有り、その向こうに都心のビル群が見える。キャビンの廊下は何もなくスキッとしているが船では非常時の避難が第一で凸凹していたり曲がったりはしてうない。通常クルーズでは上船後なるべく早い時期に全員この廊下やラウンジに出て避難訓練が義務ずけられている。船尾上階部に有るスカイラウンジ・アクアマリンからは下層階のスポーツデッキがよく見える。航行時ここから青い海に何時までも消えない白い航路跡を見ながら一杯やるのは良い気持ちだろう。以前船尾のキャビンに泊り一週間のアドリア海を巡った思い出がよみがえる。航海中談笑、パーティー、船長のレセプションなどに使われるサロン「桜」、正面には勿論桜の壁画が架かっている。いける人は航海の夜の一時ぐらすを傾けるバー「琥珀」ホールではダンスパーティー。一般に爺は踊れず元気な婆がダンスの上手なクルーメンバーを相手に踊ることも出来るらしくはつらつとステップを踏んでいる。これを目的にクルーズ船に乗る婦人が多いと聞いている。たまにはダンスの好きな日本男子もいて短足・太っ腹でも実に上手にリズムに乗っている人もいる。その中に一人、齢80は過ぎていそうで背中がほぼ90度曲がっている老人が静かな動きながらホール全体を使って踊っていた。私にはよく分からないが若い妙齢のパートナーを巧みにリードしているのだそうだ。
2013.04.07
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クルーズ船・ふじ丸船外景色昭和の終わり63年(1988)我が国で戦後初の客船”ふじ丸(23500トン)”が就航した。戦後初めてのクルーズ用客船で日本船独特の大浴場を備え裸で街の夜景やニューヨークの自由の女神などを眺めた人も多いそうだ。私もクルーズが大衆化され、とくに10万トン以上の巨大イタリア船による格安地中海クルーズには何度か出かけたことが有るが、きめ細かい日本船のクルーズは高価で手が届かず終いであった。その日本のクルーズ船のはしりの「ふじ丸」が「飛鳥」や「にっぽん丸」の就航で今はチャータークルーズ船として使われていたが、今年6月一杯で引退するらしい。海外旅行を卒業した今となってはもう機会も無いと思っていたところ、3月30日にディナー付きの乗船会が有ると言うので申し込んでおいた。強い靄の懸った日であったが東京駅・中央郵便局前からのバスで晴海埠頭につくと現在の超大型船のようにビルディングと言うようリは船のイメージそのものの富士丸が接岸しており、これまた懐かしい岸壁から斜めに掛けられたタラップを昇って乗船した。現代版大型船では飛行機のように蛇腹式の搭乗口が設置されて、あの手を振りながらタラップを昇る光景を味わえないことが多い。日本の政府専用機で総理大臣が外遊する時にはあの光景がテレビで放映される。何はともあれデッキを一周してみようと船尾に行くと最後部のラウンジのすぐ後ろに何と日本丸が停泊していた。横浜みなとみらいにも帆船日本丸が常時係留されているが、横浜のは退役日本丸でこちらは多分現役の日本丸なのだろう。なるほど晴海は東京の港だけあって周りの景色はレインボウブリッジ、東京タワーと大都市の風景である。見慣れた景色だけに霞みの懸った風景はかえって新鮮である。ビル群の手前に桜も満開である。すぐ隣には国内線のフェリー発着所がガラス張りの姿を見せている。これは夜間東京湾の広い地点からよく見えるところで、何時か行ってみたいと思っていたがこの夜はもう閉まっていた。食事後帰る時バスが出るフェリーターミナルに足を運んだが霞みで遠景が見えない分ここからのレインボウブリッジが綺麗であった。多くの人達は食後ダンスを楽しんだり、シアターでのショウを見る為早々に下船する人は無かったがヨーロッパ船の4階吹き抜け大劇場での豪華ショウなどを経験しているので天井の低いフロア劇場のショウを見限って早々に退散することにした。イルミネ―とされたクルーズ船は美しい、近頃はサイズが馬鹿でかくて船と言うよりは四角いビルの様なクルーズ船が増えたのでこの斜めの照明ラインが実に好もしい線を描いている。
2013.04.06
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お花見ボートレース戸田漕艇場は荒川の土手脇に有る。多分荒川の水を引き込んで使っているのだろう。見物スタンドもあるが吹きさらしではこの日の天候はきついので建物脇で風除けをしながら関連のレースを待つ。孫達の学校はハウスの前が水路なので直接ボートを下ろせるが多くの水路に面していない団体はボートを担いで来て下の写真の共用フロートから浸水させている。ここから左岸の進入コースを漕いでスタート地点に向かっている。進入水路脇ではいくつもの応援団がうろうろしていてコースの進入路から次々に出発点に向かう自校のクルーが通りかかると校歌を詠ったりエールを送って仲間を励ましている。所々にクラブの幟を立てている。さすがに高校で部幟を立てているところは少ないが、早稲田や慶応の付属高校は立派な幟を立てている。発見したことは多くの伝統校が”漕艇部やボート部ではなく「・・学校端艇部」となっている。「端」は”はじ(し)”とか”一番外”の意味しか知らず「端艇」の意味が分からない。今度孫に聞くことにしよう。ゴール点には審判団がいて各レースごとに選手紹介、レース自体が成立したかどうかの判定、順位などをその都度発表している。選手はまずボートを水路に浮かべ仲間のエールを受けて出艇する。 ウインドブレーカーを脱ぎ、半袖短パン姿で真冬並みの寒さの 水上を力いっぱいオールを漕いでいる孫のクルー。 なかなかの接戦である。 自転車応援部隊もなかなか大変だ、メガホンを持ち自転車で 応援しながら並走する。視線は水上なので道路上は危険である。 よくあれで事故が起きないと感心する。 競技を終えた選手は自分のボートを担いで艇庫に納め、 結果への満足感なのか残念感なのか。ともかくレースを終えた 安堵感を漂わせている。 以上孫の出場が無ければ一生見ることも無かっただろう 初めてのボートレース見聞記である。
2013.04.04
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戸田漕艇場 まぼろしの1940年東京オリンピックのために建造された戸田漕艇場 1964年東京オリンピックのボート競技会場として再整備された。埼京線で戸田公園駅を通り時時々見かけるが訪れたことはない高二の孫がボート部にいて毎週土日は横浜から 埼玉県戸田のボート場まで行って練習に明け暮れている。毎年続いている第62回「お花見レガッタ」の二人漕ぎレースに出場すると聞いたので応援方々息子夫婦と一緒に出かけることにした。お花見レースとは言え真冬の寒さ、桜は咲いてるとは言え孫が出走しなければ絶対に引き返しているところだ。水路に出る前に孫の所属する学校の大学のクラブハウスを覗いて見ることにした。高校はこのクラブハウスの一部を間借りする形で練習場にしているみたいである。屋外に多くのボートが並べられ部員達が手入れに余念がない。 下の写真に見られるように、この大学のクラブハウスはコースの岸に 位置しているのですぐに艇をコースに浮かべて漕げる優位な位置に有る。陸上トレーニング様に抵抗板のついた風車台がある、最近のは速度や距離が表示されるたデジタル機器の様である。水路畔には大学や実業団のクラブハウスが並んでいる、野球や駅伝と違って古い伝統校ばかりである。確かにボート競技では余り校名の宣伝にはならないのだろう。北岸には数校のクラブハウスしかないが一番ゴールに近い所に慶応大学のハウス。大きく見えるが後ろの2棟はマンションなのでグレイの建物だけである。慶応の隣りが早稲田大学のクラブハウス。ここでも両校は隣り合って競い合っている。春四月隅田川での早慶レガッタは東京の風物詩となっている。桜もまだ残る墨堤を埋め尽くす観衆、両校の応援合戦も華やかである。今年は4月21日の開催と言うことで桜も青葉になっているだろうが東京スカイツリーを前に両大学の付属高校を含む男女の各種競技がほぼ一日繰り広げられる。対岸には国立大学のクラブハウスが並んでいる。”橋人皆漕、一橋いざふるえ” は一橋大学。東大のクラブハウスは他の大学に比して断然大きい、きっと漕艇界での東大は大勢力なのだろう。そう云えば隅田川での早慶レガッタと共に一橋・東大対抗戦も伝統の一戦である。歴史を辿れば明治20年(1887)第一高等学校が東京高等商業学校を招いて開いたのがはじまり。あまりの高揚にトラブルが有り程なく中止になり、以後再開・中止と幾多の変遷を経て現在ではここ戸田ボート場で対抗戦が行われている。 洒落た造りのハウスは筑波大学。地味な校風を払拭する筑波大学のこのペンションのような造りが印象的。 今回のお花見レガッタは学校対抗ではなく高校生から社会人まで連盟 加入団体オープンの大会で、高一と機動隊XX部隊なども一緒に漕ぐ、 したがって各レースかなりの大差がつくことが多く、下の写真のように競い 合ってオレンジ色のゴールブイをよぎることは珍しい。 ちなみに孫は2人漕ぎのレースに出場したが他の5艇は社会人と 大学生で、最後に0.5秒くらいの差で大学生をかわし3着となってし 応援団(?)も満足して帰途につくことが出来た。
2013.04.03
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大宮公園関東地方の桜名所の一つに大宮公園が有る。桜などと言うものは花そのものはたいした造形の美と言う程の事も無いが、そのロケーションとそれを見る人の気持ちすなわち雰囲気で見るものだろう。山に咲く一本の銘木を一人で眺めるのと公園広場でレジャーマット(緋毛氈と行きたいが)の上でコンビニ弁当と缶ビールを手にするのとでは雰囲気は180度違うがそれが個々の望みならそれでいいのだろう。と言うことで大宮氷川神社に詣でたついでに隣接する大宮公園に足を進めた。大きな公園池が有りその片方に桜を散りばめた緑地あってがおびただしい露店と花見客で溢れている。要するに桜の名所と謳われているところは花の下で花を見ずに飲食談笑する所らしい。確かに花は見事であるが人の動きが桜花の品格をさげている。それでも一昔前のようにハンドマイクやカラオケを持ち込んでの馬鹿騒ぎが無いのは日本人も少し進化した跡がある。そうは言っても「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃」と謳い実践でき西行の心境やいづこに。それでも局所的にはそんな気分にさせてくれるところもある。池に張り出した浮見堂からの桜を愛でたいところだが、この時期はロ―プが張られていた。**葦の浮島の向こうの青松・桜花を見ると西行のわび心の百万分の一位の感慨を催さないでもない。常緑の逞しい楠、薄桃色の桜、萌黄の柳、空の藍と地味な競演である。池畔に溶岩が固まった様な、アニメの森の老人の様な木肌の老木が目に入った。説明版にアカシデの木とある、始めて見る木だが北海道から九州まで広く分布する木で、幹の成長度が 均等でなく、結果としてこの様に凸凹になる。この木の樹齢は不明であるが、優に百年以上とのこと。 ** 「ウキミドウ」には2種あるみたいで、島に神仏が祀られているものを「浮御堂」、人間が月や花を愛でる為の東屋が有る所を「浮見堂」と区別するようである。神と共に饗する場合は何と呼ぶ
2013.04.01
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